たりたの日記
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2018年05月27日(日) 天に一人を増しぬ

今日は三位一体主日。
午前中40分ほど、瞑想室で祈りの時間を持つことができた。
グレゴリオ聖歌のミサの曲を口ずさみ、久々に声に出して聖書の朗読をする。

教会の帰り、夫が来てくれ、この日の英神父のミサの説教の事や、その後の講座の話をしてくれる。三位一体ということ、父と子と聖霊の御名によって という意味のほんとうのところがよく分かるねと話した。後で、ネットに上げられている、この日の説教を聴いたが、御名によってと日本語に訳されているが、ギリシャ語では その中に入ってという意味。地上での生であっても、天上での生も、イエス・神・聖霊の三位一体の神様の交わりの中に、そのまま入る、あずかる、投げ込まれるという事だと。
またこの3週間のうちに、教会の2人の神父様が帰天されたことも知る。

そして、この日の夜、次男の連れ合いのお祖母様が亡くなった事を、早朝のフェスブックで知る。
祈冥福。

以前にもここに記したことのある、この詩が浮かんできた。

天に一人を増しぬ                      

セラ・ゲラルデナ・ストック作                            植村正久訳


家には一人を減じたり 楽しき團欒(まどい)は破れたり
愛する顔 平常(いつも)の席に見えぬぞ悲しき
されば天に一人を増しぬ 清められ救はれ全うせられしもの一人を


家には一人を減じたり 歸るを迎ふる聲一つ聞こえずなりぬ
行くを送る言一つ消え失せぬ
別るゝことの絶えてなき濱邊に 一つの霊魂(たましい)は上陸せり 
天に一人を増しぬ


家には一人を減じたり 門を入るにも死別の哀れに堪えず 
内に入れば空しき席を見るも涙なり
さればはるか彼方に 我らの行くを待ちつゝ 天に一人を増しぬ


家には一人を減じたり 弱く浅ましき人情の霧立ち蔽ひて 歩みも四度路(しどろ)に眼もくらし
さればみくらよりの日の輝き出でぬ
天に一人を増しぬ


實(げ)に天に一人を増しぬ 土の型にねち込まれて 基督を見るの眼も暗く
愛の冷かなる此処
いかで我らの家なるべき 顔を合わせて吾が君を見奉らん
彼所こそ家なれまた天なれ


地には一人を減じたり 其の苦痛、悲哀、労働を分かつべき一人を減じたり
旅人の日毎の十字架を擔うべき一人を減じたり
されば贖はれしたましひの冠を戴くべきもの 一人を天の家に増しぬ


天に一人を増しぬ 曇りし日も此一念輝かん
感謝賛美の題目更に加はれり
吾らの霊魂(たましい)を 天の故郷に引き揚ぐる
鏈(くさり)の環更に一つの輪を加へられしなり


家には一人を増しぬ 分るゝことの断えてなき家に
一人も失はるゝことなかるべき家に
主耶蘇(イエス)よ 天の家庭に 君とともに座すべき席を 
我ら全てにも あたへたまえ


2018年05月26日(土) 屋上庭園でのリコーダーデュオ

腹水の対策で、2日間、一日2回、アルブミンと利尿剤が処方されることになった。ドラマティックな変化はないものの、横になっても苦しいという状態からは解放された。
ほぼ一日を横になって過ごしたが、素敵なこともあった。

一緒にリコーダーデュオをやってきたJさんが訪ねてくれて、紫陽花の美しい屋上庭園で、リコーダーのデュエットをすることができた。
ファン・エイクのリコーダー二重奏の曲を2曲、息も上がらずに楽しく吹くことができ、自分でも驚いた。

3年前だか、自由ヶ丘の小さな英国風カフェで、1時間ばかりのコンサートをさせていただいたが、その時に一緒に吹いた思い出の曲。

一人だととてもリコーダーを吹く気になれなかったが、Jさんが来てくれると言うので、朝になって思い立ち、リコーダーと楽譜を持ってきてもらったのだった。

やっぱり2人で吹くのはいいね。
また公園で吹きたいね。
わずか10分足らずの時間だったが、幸せなひと時だった。
感謝。



2018年05月25日(金) Sさんに励まされて

腹水の張り、下痢、熱、食欲不振とあまり体調は好ましくない。午前中ベッドの中で過ごし、午後も昼食の後、音楽を聴きながら、うつらうつらとしていた。

誰かがベッド脇の椅子に座る気配がして目を開くと、なんと懐かしいSさんの顔がそこにあった!
電話がなかなか繋がらないので、会えるかどうか分からないものの、一席だけ残っていた航空券を手に入れ、大分から日帰りで来て下さったのだという。
なんとも、なんとも、申し訳ない。

何年振りだろう。15年振りくらいだろうか。でも少しも変わらないお元気そうな笑顔、とても今年70歳とは思えない。

わたしも起き上がる元気が出てきて、しばらく談話室でお話しする。
彼女との出会いは、日本基督教団の大分地区の高校生会や青年会。青年会の集まりの度に、バナナケーキや人参ケーキを腹ペコの若者達に振舞ってくれた。高校生会のキャンプなどで、彼女のリードするゲームなどがとても楽しく今でも印象深い。
わたし達の結婚式の時にはご夫妻で、証人になってくださった。

わたし達が埼玉に住むようになっても、都内に出てきた時など何度かお訪ね下さり、毎朝のご夫妻の祈りの時間に欠かさずわたし達の事をお祈りして下さっていることも知っていた。そしてSさんの様々な活動のことや、忙しさも。

Sさん忙しさは尋常ではない。平和を創り出す人、地の塩の働きとしての忙しさ。わたしのように歌、ダンス、山、ヨガ、リコーダーといった具合に、ほぼ3年ごとに熱中しては次へと目まぐるしく自分事に忙しくしてきたのとは訳が違う。そんなSさんを誇りに思う反面、思うだけで何も行動してこなかった自分を不甲斐なく思う。

3.11の福島原発の事故の後から、今日まで毎日、朝1時間、夕方1時間、大分市の九州電力の前で、原発に反対する抗議として立ち続けていると聞き、驚いた。

今日は、わたしの代わりにS(お連れ合いのファースト ネーム)が立つ事になっているのよといつものニコニコ顔でさらりと言う。

2時間近く、談話室で一緒に過ごし、そのまま羽田空港に向かわれた。

彼女と別れた後、様々な思いが行き交った。
ネットで、大分九州電力前の抗議行動を調べてみると、Sさんが、10人くらいの方々の中心になって、プラカードを持って立ち、毎日、九電社長宛ての通抗議文を出し続けているという昨年1月の2000回目の日の、写真入りの記事があった。
彼女の生き方を前に言葉がない。


この夜は腹水による圧迫が強く、これまででも一番苦しい夜だったが、Sさんが雨の日も風の日も立ち続ける姿や、何度と行ってきたハンガーストライキの様子を思い浮かべながら、夜の長さに耐え、明け方近く、ようやく眠りに落ちる。


2018年05月24日(木) 月曜日からのこと

今日はもう木曜日かかぁ。
ここのところ、一日熱が出っぱなしという日々だったので、流石に、書く気力がなかった。
今日は朝から微熱程度で、腹水でお腹は圧迫され苦しく、抗生物質の副作用の為か下痢に悩まされてはいるが、エネルギーは幾分か上がっている。
今のうちにその後の治療について書いておこう。
月曜日にお腹に管を差して胆汁を体外に出すドレナージュを行い、火曜日に今までのように内科医が内視鏡で新たにステントを追加するという予定だったが、月曜日に担当の外科医の手術が長引き、この日のドレナージュはキャンセルとなった。

そこで、火曜日の午前中に担当の外科医がエコーで画像を見ながらお腹から管を入れ、今のステントがどこで詰まっているかを調べて下さった。その結果、ステントそのものには問題はなく、ステントから繋がる腸がカーブしているため、そこに胆汁が鬱滞していることがわかった。そこで、一方では、その鬱滞しているところに直接管を差し外に胆汁を出すとともに、その管を利用して、腹部から、蛇行している腸にステントを入れるという作業がなされた。

これまでの内視鏡での手術は鎮静剤ですっかり眠ってしまうので、何が起こっているのか分からなかったが、今回は、エコーの映像を見るため、患者が時々息を止める必要があるので、痛みは全く感じないものの、意識はあり、周囲の声も聞こえていた。

手術室は担当医の外科医の明るく自信に満ちたエネルギーにリードされ、補佐役に入っている内科医と若い外科医、看護士達たちとのやり取りも好ましかった。
長いワイヤーを使われたり、さまざまな器具が使われているのが分かり、なかなか面白かった。
ひとつ、印象に残った会話。外科医が内科医に、ところでこれ(多分メタリックのステントのこと)1本、幾らするんだっけ?という質問に、22万7千円ですという答え。
前回と今回、2本のステントで、45万4千円、そんなに高価なものなのかと驚く。

アメリカの保険制度では余命が半年以上保障されている患者しかメタリックステントは許可されていないという記事を読んだが、日本の保険制度は有難いものだと思ったことだった。

また胆汁の検査で新たに、緑膿菌という細菌も見つかり、これに対応する抗生物質も加わった。これで何とか熱の問題が解決してくれ。黄疸の方は一旦下がり、今日は横ばいということなので、まだ解決したようではないようだ。腹水については、利尿剤の効果がなければ、アルブミンの点滴で対応してくれるようだ。腹水を抜く前にはまだ間がありそうだ。

16時、37・7度、そろそろ熱が上がり始めたが、この時間までは起き上がることもできた。故郷の椎茸やお茶を送ってくれた大学時代の友人と数年ぶりに電話で話し、元気をもらった。
午後1時から2時まで、緩和ケア棟にある、素敵に設えた瞑想ルーム(2年以上もこの病院のお世話になっていて、瞑想ルームの存在を2日前に知った!)で、瞑想もできた。

昨日は、ちょうど夕食前に、英語教室の卒業生のお母さん方が2人、手作りの野菜や椎茸のエキスの溶け込んだコンソメスープと、甘酒を持ってきてくださった。何も食べられないと思っていたのに、スープは身体に行き渡る美味しいさで、甘酒は夜間の熱の間に度々飲み、よい栄養補給ができた。
感謝!


2018年05月19日(土) 倦怠感は黄疸のせいか

有り難いことに、利尿剤でコントロールが効き、腹水によるお腹の圧迫は軽くなっているが、この日は、珍しく一日倦怠感があり、何もやる気が起こらず、倦怠感の中で寝ていた一日だった。
前日は朝、お風呂に入り、10時の点滴の始まる前に、屋上庭園のように作られたている、4階の中庭で、リコーダーも吹き、12時からは訪ねて来てくれた友人と話しもできた。
夕食は病院食は断っていたので、夫が買ってきてくれた太巻きや握り寿司を夫もびっくりするほど沢山食べることができた。
それからするとあまりの変化だが、きっと黄疸の数値が上がっているからなのだろう。

夕食は病院食は一口も食べられそうな気がしないが、筋子があれば、何とかなるかもと夫に伝え、海苔と筋子を持ってきてもらう。海苔にご飯と筋子を巻いて、少しは食べられた。これは以前から何も食べらない時の最後の手段。塩分は腹水がたまりやすくなるので、あまりよくはないのだが。
食事を終えた頃、看護士が検温に来てくれ、計れば39度。これでよく食事ができたものだ。

35・5以上になったら解熱剤の点滴をするというオーダーが出ているということで、点滴開始。熱は間もなく引く。この熱は胆管炎によるものだろう。新たに見つかった菌にまだ新しい抗生剤が十分効いていないのだろう。
抗生剤が追加された。

金曜日の医師の説明では月曜日にはお腹に管を差してそこから胆汁を抜き、今塞がっているステントにさらにステントを繋ぎ、腸へ胆汁が流れるように促す試みがされるということ。黄疸の問題がこれで解決できますよう。

これを書いている日曜日の朝、熱はあるものの書く気力はある。今日のミサの後、夫が買ってきてくれるPAULのパイが楽しみなくらいだから、昨日よりは元気が戻っているということだ。





2018年05月18日(金) わたしの愛はあなたの苦しみの中に現れる

一昨日の夜の事、腹水による胃への圧迫が苦しく「主よ憐れみたまえ」という短い祈りを繰り返している時に、「わたしの愛はあなたの苦しみの中に現れる」という言葉が心の中に響いた。そして瞬時にその意味が分かり、イエスの愛の深さに触れたと感じ、涙が溢れてきた。そして痛みが喜びのようなものに変化するのが分かった。
その時の言葉を今思い返しても、心が熱くなり、感謝と喜びに満たされる。

そして、ずいぶん前、40代の終わりの頃、夢中になって読んだアビラの聖テレジアの事が思い浮かんだ。
彼女は繰り返し襲われる病の中で、主と一体である喜びの中にあった。むしろイエスとの一致のために苦しみを求めた。その本を読んだ当時はそんなイエスとの一体感は尋常ではない聖人だから得ることができた恵みだと自分とは遠い出来事のように読んだ。
アビラの聖テレジアの信仰とは比べものにならないにしても、その恵みはわたし達にも与えられる恵みだと知る。

図書館で借りて読んで今手元ににはない、聖テレジアの本をまた読んでみたいと思い、
『霊魂の城』
イエズスの聖テレジア著
ドン・ボスコ社
を注文する。
そして、アビラの聖テレジアと関係の深かっ
十字架の聖ヨハネ著の『暗夜』ドン・ボスコ社も。
前から気になりながら読んでなかった本のひとつ。
今が出逢う時なのだろう。

治療に関することでは、ステントを入れたにもかかわらず黄疸の数値が上がっているので、今日はCTとエコーの検査をした。
ステントの上か下かになんらかの原因があり、上手く胆汁が流れていないという事だった。かなり難しい作業のようだが、来週いくつかのアプローチの試みがなされるようだ。
その前に、何とか、ステントに胆汁が流れるようになり、自然に問題が解決できればよいのだが。

検査の前に、高校時代からの友人が訪ねてくれた。昨年春、一緒にイスラエルの旅に行くことになっていたが、彼女は一年遅れで、今年の3月、プロテスタント教会の牧師の企画するツアーに無事に参加できたという事だった。教会での祈祷会でもわたしの事をみなさんで祈ってくださっているとのこと、感謝。
昼食抜きで、午後5時に検査が終わった後、腹ペコのお腹に、彼女の焼いてきてくれたおからのケーキは優しく、とても美味しかった。


2018年05月17日(木) 腹水の問題

先日のステント入れ替えのタイヘンさは、わたしのオエッ、オエッに原因があった訳ではなく、入り組んだカーブをバルーンを膨らませながら少しずつ進めなくてはならず、そのためタイヘンな作業となったようだった。

で、この事も昨日医師から聞いたのだが、今回のステントは前回までの樹脂製のステントではなく、ワイヤー式のセルフエクスパンダブルステントというもので、2、3日かけて、ワイヤーが体内で徐々に広がってくタイプのものらしい。調べてみると、金属ステントは樹脂のものに比べ、長い間詰まらずに使い続けることができ、多くは 3 ヶ月~数年機能するが、ただし金属製ステントを一度入れた場合は取り出すことができま せん.樹脂製ステントは閉塞した場合は取り出す事ができないとある。閉鎖しないで機能してくれるのを願うのみ。
しかし、金属製のステントが入った事で、マイクロ波による温熱療法は今後受けられなくなったということだ。この事は受け入れよう。

さて、ステントはひとまず体内におさまったが、問題は次々と出てくるものだ。ここ数日間苦しめられているのは腹水によるお腹の張りと、夜中の激しい身体の痒み。

幾分か腹水は溜まっていて、ズボンのサイズが合わないということはあったが、ステントを入れた翌日はお腹の横と言わず前と言わず、もうこれ以上お腹の皮が伸び切れないほどに腹部が張った。1日で体重は2キロ増になったが、それは体内に溜め込まれた水のせいだ。当然胃が持ち上げられ、起きても寝ても苦しい。
それなのに、一昨日夜からの電解質の水分やブドウ糖補給のための24時間点滴が体内に注入されている。朝、看護士に、食事もとれるようになったから、点滴やめたいんですけどと訴えてみたが、医師のオーダーで、明日の朝までやることになっているから変更できないと言う。

夕方、ずんずん張っていくお腹と、目の前にぶら下がっている点滴の大きな袋を見て、ぞっとしてしまった。医者はオーダーは出しても、わたしのこの状況は知らない。看護士の判断では医師のオーダーは変えられない。医師は忙しく、捕まらないから患者の訴えも届かない。それなら、患者は何とか自分で自分の身を守ることしかないのではと、行動に出る。
ナースステーションに行き、今、水でお腹がパンパンになっていて苦しいです。これ以上水分が注入されるとお腹が破裂します。とにかく、点滴を止めて下さい!と大袈裟にも必死な訴え。聞いてくれた看護士が良心的な人で良かった。医師に確認しますが、まずは止めますねと点滴を止めてくれた。
2キロの体重増加のこと、利尿剤を処方して欲しい旨を医師に伝えてもらいたいところだが、医師は今手術中で、その後も捕まるかどうかわからない。でも、なんとか頑張って捕まえてます!と頼もしい味方についてくれ、ほっとする。
やがて医師と連絡がつき、点滴はめでたく終了となったが、利尿剤は夜飲むと眠りの妨げになるから明日の朝ということに。

肝機能の低下で溜まった腹水は、自力ではどうにもならないのだ。パンパンのお腹を抱えて一晩中眠れずに苦しむなら、何度もトイレに立ちともかくも水を体外に出す方がどれほどよいことか。
幸い、夜に病院に来てくれた夫に、以前もらっていた利尿剤を持ってきてもらっていた。しばらくは指示に従い服用を我慢したが、あまりにつらいので、夜9時過ぎ、自己責任で利尿剤服用。
確かに夜中の2時頃まで、30分から1時間起きにトイレに立ったちその間の睡眠には支障を来したが効果はあり、大量の排尿の度に、お腹の張りはいくぶん楽になった。体重を計ると1キロ減になっていた。その後は、何とか朝まで眠れたのである。翌朝、体重報告の時に看護士に夜かってに利尿剤を飲んだことを告白すると、残りの手持ちの薬は没収されてしまったが。

しかし、この利尿剤で腹水の問題は解決してはいない。昨日、今日と、朝と昼 利尿剤は飲むが、一昨日の夜のような効果はなく、尿の色も酷く濃い褐色で少量。お腹の張りは胃を圧迫し続ける。この傾向は夜ほど強くなるようで、一昨日も昨夜も、ご飯は一口も食べられなかった。おかずだけは、特別に肉と魚を使わないず卵と豆腐メインの病院食に替えてくださっているので、少量でも食べる。

腹水が溜まることで、食欲不振になり、そのため衰弱するとあったから、朝から昼にかけて、まだ食べられる時に、豆乳、甘酒、アイスクリーム、ゼリー、と口にできるものはできるだけ摂ることにした。この場合、糖質制限よりエネルギー補給を優先すべきだろう。夜もご飯がだめならバナナやエネルギーチャージ、口にできるものからカロリーを摂ることにしよう。

夜中の痒みについては昨日処方される痒み止めの薬を医者が忘れていたためにもらえなかったので、今日は朝から、何度も看護士にせっつき、処方を出してもらったから、何とか解決できるのでは。
根本的には黄疸からくる痒みなので、本当の解決にはならないとしても。

もうひとつ、今朝医師から入った新しい情報。今回のステント挿入の際、胆汁を採取し、それを検査したところ、今まで血液検査では見つからなかった菌が新たに見つかり、それは今までの抗生物質には効かない菌なので、今日から抗生物質を変えるということ。
それで、これからこれからさらに1週間以上の入院となること。
明日退院という事だったのに!
でも、原因不明の熱がこの胆管炎の菌によるもので、それに合う抗生物質で治療を始めることができた事はよかったというべきか。

こんなことなら、最初のステント挿入の際、胆汁を採取すれば済んだのではないか、また、最初からしっかりと時間をかけて今回のようなステントを挿入すればよかったのではないかと疑問も残るが、この世界では、それなりのマニュアルがあるのだろう。

ちなみに、新しく使い始めた点滴はバンコマイシンというもの。調べてみると、

ペニシリン等のβ-ラクタム系抗生物質とは作用機序が異なるため、ほとんどの抗生物質が効かないメチシリン耐性黄色ブドウ球菌 (MRSA) を殺菌できる[1]。このため、過去には最強の抗生物質といわれたこともあった。とある。
そこで、このメチシリン耐性黄色ブドウ球菌について調べると以下の通りであった。

そもそも薬剤耐性菌であるため薬剤の使用が多い病院で見られることが多く(耐性菌は抗生物質の乱用により出現すると言われている)、入院中の患者に発症する院内感染の起炎菌としてとらえられている。

えっ!抗生物質の乱用により発症する、院内感染の起炎菌!

この暮れから入院の度ごとに効くかどうか定かではないまま大量の抗生物質を投与されたその結果ということになるのだろうか?

見つかった菌の名前を医師から聞いてはいないから実際のところどうなのか分からないい。院内感染の菌だとおおごとになるので、それではないのだろう。抗生物質の多量投与、これもまた、日本の医療現場のマニュアルに従えばならではのことなのだろう。そして、元を正せば、それを選択しているわたし自身の責任ということになるのだろう。

最後に良い事もひとつ。
昨日、都内の友人が訪ねてくれ、7年振りに再会した。家族のその後のことなどいろいろ話しを聞く事ができてよかった。シリアスな話はここのところ面と向かって聞くと、疲れてしまってまた熱が出たりするので、途中からはお互いに曼荼羅カラーリングをしながら話をした。彼女ならではの清々しい爽やかなカラーリング!こんな風に一緒に時間を過ごしたことは初めてだったかも。2時間ばかり、共に過ごしたこの時間のことは良い思い出になることだろう。


2018年05月15日(火) 大変だったらしいステントの入れ替え

昨日、ステントの入れ替えは無事終わり、今日は昼食から解禁となり、熱も今のところ、解熱剤なしでも平熱のまま。上手く機能しているのではないかしら。

黄疸の数値は今朝は昨日より上がっているということだが、これがだんだん下がっていき、熱も出なくなるとなれば、当面の問題は解決となる。そうなれば、しばらくは普通の生活に戻れるかもしれない。

さて、昨日の優れもののバルーン内視鏡でのステント入れ替え、夕方遅くなるといわれたので覚悟していたが、3時には検査室に呼ばれた。ところが病室に戻されたのはもう6時という時間だった。これまでは1時間くらいの手術だったので、今回は3倍の時間がかかった事になる。それだからか、手術の途中で鎮静剤が切れて目が覚めてしまった。口から突っ込まれている内視鏡が苦しくて、何度も、オェ オェをやったように記憶している。その後また記憶がなくなり、目が覚めたのはいつもの通り病室のベッドに移されるタイミング。それだから、そんなに時間が経過していると知ったのは記憶が戻って時計を確認した時だった。

今日はすれ違う看護士さんから、昨日はお疲れでした。大変でしたねぇ。と声をかけられるので、大変だったのは時間のことかしら、それとも医師のことかしらと人ごとのように聞いていたが、一人の看護士さんに、何が大変だったの?と聞くと、看護日誌(?)に、わたしのステント入れ替えが大変だったと記録されていたからという事だった。こういう場合、時間や医師の事ではなく患者が大変なことしか記録しないだろうから、あの夢現つのオェ、オェが思いの他大変で、時間もそれ故長くかかったのかも知れない。医師からその事については聞いていないので、明日確かめてみることにしよう。

それにしても、あのバルーン内視鏡は昨日までしかこの病院になく、今日は別の病院の患者さん達を治療しているはず。昨日はわたしの手術の後にも何人か順番を待っている患者さんがいるようで、今日は遅くなるわよとスタッフの方々の方々の話を小耳に挟んでいたから、わたしが知らないでいただけで、様々なタイヘンがそこにあったことだろう。申し訳ない。

ともかく、滑り込みでステント入れ替えが何とか終わり、これは感謝以上の何物でもない。家族や友人、この日記を読んで下さっている方々の祈りに支えられての昨日であったことを、深く感謝。


2018年05月13日(日) 母の日の入院

昨日の日記で書いた、バナナブレッドと無花果パンの朝食。残りは切り分けて、一つずつラップに包み、家用と病院用へ。

その後は常備菜作り。
高菜の漬物のゴマ油炒め、
キンピラごぼう、
炊き上がったシーフードピラフを昼食に食べ、病院で食べる二人分のお弁当に詰める。
昨日仕込んだピクルスも美味しく漬かっている。

そうだ今日は母の日だった!
大阪の次男夫婦からきれいなフラワーアレンジメントと素敵な野菜とフルーツのピクルスが届く。
ベトナムの長男一家からもお祝いのテレビ電話。
昨日友人のMさんから、旅のお土産や本、スープに甘酒1ケースという贈り物が届いた。まるで実家の母親からの小包のようで、そんな母からの荷物が届かなくなって久しい今、有り難く、心が和んだ。その本とスープと甘酒もスーツケースにいれる。

午後1時、持って行く荷物の再確認をし、熱っぽくもなってきたので、夫が教会から戻ってくる2時半までお昼寝。
予定通り、3時に病院着。
早速点滴に繋がれる。今回は窓際の部屋でないのが残念。
夕食も済ませ、薬も飲み、夫が帰り、さて、黙想の体勢に。
でも今日に限ってテレビを見ることに決めている。楽しみにしていた8時からの「西郷どん」。
この後、明日一日、翌日の朝、血液検査の結果まで絶食。
明日のステント入れ替えで問題が解決しますように。















2018年05月12日(土) 野菜の救出作戦

明日からの入院に備えて、いくつかやっておきたいことがあった。

まず庭の草取りと堆肥の仕込み。
これは夫がやってくれるというので、わたしは昼食の支度をすべく台所へ。
一カ月くらい冷蔵庫の野菜室に閉じ込められたままの野菜の救出。
そこで、「アーユルヴェーダ治療院のデトックスレシピ」で、この前作って美味しかったポテトの白カレーと、大根のヒンドゥマと、人参のヒンドゥマを作る。
ヒンドゥマというのは、水分少なめ、ノンオイルで作るカレー料理のこと。

どれも作り方は簡単で、野菜を玉ねぎやにんにく、塩、ターメリック、フェヌグリーグ、カレーパウダー、カレーリーフで煮込み、最後にココナツミルクを加えるといった具合。油は一切使わない。
塩も少ないのだが、スパイスが野菜に染み込んで美味しい。あえて、別々に煮ることで、素材の持つ本来の味や食感が際立つと感じた。何より胃にもたれず、消化器官が喜んでいるのが分かるほど。
しかし、大根と人参のヒンドゥマは夫には全く受けなかった。ここに子ども達がいたとして、彼らにも受けないことだろう。
もともと野菜が好きじゃない人は、それをお出しと醤油で煮ようが、スパイスとココナツミルクで煮ようが、美味しいとは思えないものなのだろう。
料理の後、お風呂に入り(この頃は熱が出ない午前中にお風呂に入るようにしている)一休みし、少し遅い昼食。とても美味しくいただけたので、気にもならなかったが、食後に例の寒気。39・4度と思いっきり高い。確かにコカールが切れる時間をとっくに過ぎている。


一通りの薬を飲んでとりあえずベッドへ。
夫が15分おきに様子を見に来てくれる。
午後4時37・2度まで下がったので、さっきの仕事の続き。

まだまだ野菜は残っている。ここは保存の効くピクルスだな。しかも、甘くなく、香料が効いたものを。
材料は大根(とにかく1本を丸ごと使おうというのだから)、人参、キュウリ、玉ねぎ、ニンニク、ローレル、カレーリーフ、胡椒、鷹の爪。
大きめの瓶2瓶分できたので、一つを夫用、ひとつを病院用へ。

冷蔵庫の真っ黒になっていたバナナを捨てて、まだ無事なバナナでバナナブレッドを。若い頃からずっと作り続けてきたレシピは今のわたしには砂糖と油が多過ぎて重い。そこで、砂糖と油を3分の1に減らし、サラダ油の代わりにココナツオイルを使う。体内の塩分濃度を調整し、腸内環境を整え、抗菌作用もあるシナモンをたっぷり加えて焼いてみた。食べやすい!食事の代わりにもなりそう。新レシピ、「甘さほんのりシナモンバナナブレッド」誕生。

しばらくパンを焼く気力がなかったので、ストックしていた強力粉2袋の賞味期限がわずかに切れている。こちらも救出。イスラエルで買ってきて大事にとっておいた乾燥イチジクも全部使って、久々にイチジク入りパンを焼く。後1時間ほどで焼けるかな。

今日はバラ園に出かけて、リコーダーを吹きたいとこだったが、午後の高熱のため断念。でも一番気にかかっていた、冷蔵庫の野菜が何とか片付いてよかった。
残るは新ごぼう。

明日の入院は午後3時からなので、きんぴらごぼうと、消化に良いノンオイルのレンズ豆のカレーを家用と病院用に作ることにしよう。冷凍庫のスペースのために、シーフードとミックスベジタブルを使ってピラフに炊き込もう。
それにしても、何と、食べ物のことばかりの日記。

パンが今焼けたようだ。






















src="http://usrimg.enpitu.ne.jp/usr1/17826/2018/7AED66FA-817A-435D-A764-C4D5608722C9.jpeg">



これはオリジナルレシピ 「大豆とレンズ豆と野菜のスープ」
冷凍保存しておいた大豆の水煮にトマト、きゅうり、玉ねぎ、人参と皮むきレンズ豆を加えて、粉末のオニオンスープ、塩、ターメリック、カレーリーフで煮たもの。レンズ豆は柔らかくなって、豆のお粥のようになったけれど、それがまた良かった。





こちらは先週作ったもの。
やはりオリジナルの ヒヨコ豆とミニトマトのターメリックライス。
緑豆を他のカレーにも使ったスパイスとココナツミルクで煮たお腹によい、ダールカレー。
そして、今日も作った ポテトの白カレー。



2018年05月11日(金) 再入院のためのオートミールクッキー

昨日は退院後の診察日。退院前に一旦よくなっていた黄疸が悪くなっていること、解熱剤を使っても熱を押さえきれないことから、前回の入れたステントを入れ替えることになった。場合によれば、金属のステントになるかもしれないとのこと。もし、金属のステントになれば、マイクロ温熱治療は諦めなければならないが、そこまで通うにしても、高熱に耐える治療にしても今の体力では無理なこと。いちばんよい形でステントが機能してくれることを第一にしよう。

手術は月曜日なので、今から入院して抗生剤使うのが一番いいですが、日曜の午後からでもよいですということだったので、日曜からの入院にする。
今回は1週間ということだが、その前に家にいれる貴重な時間が手にはいった。

5月10日から参加を決めていた、上石神井の黙想の意味での「8日間の霊操」という想会に参加する予定でいたから、それに参加できなくなった今、わたしなりの一人黙想会をやってみるつもり。テキストはペレス・バレラ著「イグナチオ10日間の霊操」を使って。今日第1日目のところを読んだ。黙想は30分くらいしかできなかった。実際の黙想会は、1日に5時間座るのだから、今のわたしは体力的にも無理があるかもしれない。それでも病室の中はネコの邪魔も入ることなく、より長い時間を黙想に当てられるように思う。

後は読む本、「アンのゆりかご」は昨夜読み終えたので(村岡花子の伝記に留まらず、戦時中の統制や婦人参政権や、吉屋信子を中心とする、女流文学者の活動などについて詳しく語られていて、とても興味深かった)夫が読んで勧めてくれた「 神経免疫学革命」をまずはバッグに。他には「赤毛のアン」の原書とスマホで聴ける原文のオーディオブック、村岡花子訳の「赤毛のアン」
気が向いた時のための曼荼羅カラーリングの道具とリコーダーと楽譜
後は身の回りのもの一式

で、憂鬱になるのが病院食。シャレて言ってるわけではなく、わたしの身体は今ベジタリアンモードになっていて、ほとんどの場合、魚の煮たものや肉の塊のようなものを受け付けない。時にはその匂いもだめだったりする。
でも病院食は肉か魚がメインで、それに2品ほどの野菜がそれもくたくたに煮てあって味つけも甘すぎる野菜が少量が付け合わせとして出てくるというもので、ベジタリアンンとしては食べるものがないのである。

前回の入院では昼食のみ病院食にし、朝はスープ、人参、バナナ。
夜は夫に仕事帰りにリクエストして買ってきてもらっていたが、早い時間に解熱剤を飲むとすれば、これもなかなか難しい。

そうだ、手作りしよう!
熱がなくて元気な時間帯に、オートミールのクッキーを作った。いろいろなレシピから自分用にアレンジして、ほんのり甘く、脂質少ない充分食事代わりになる、クッキーが出来上がった。甘さの具合もちょどよく、身体が喜ぶ感覚が分かる。
熱が上がりそうになる時、食事を待たずにこのクッキーを1枚たべて、解熱剤を飲むこともでき都合がいい。
ここのところ何のお菓子を食べてみても幸せ感がなかったので、このほっこりする幸せ感も有難い。

さて、明日余力があれば、アーユルヴェーダ治療院のレシピを参考に、ベジタリアンフードの作り置きを用意しよう。



たりた風ほんのり甘いオートミールクッキー
オートミール 100g
きな粉 50g
薄力粉 50g
はち蜜 大さじ1〜2
ココナツオイルかサラダ油 大さじ1
卵 1個
豆乳か牛乳 (最後に硬さの調整用)

オプションで
きざんだくるみ
レーズン
ココナツチップ
他、好きなナッツ、ドライフルーツ

全ての材料をスープンで、混ぜ合わせ、少しずつ豆乳を加えながら、形成しやすい硬さになるまで混ぜる。
手で形をつくってオーブンで焼く。




2018年05月09日(水) クラス中に痙攣⁈

今日は朝からどんよりした天気、しかも寒い。寒いと途端にお腹の調子がおかしくなる。毎朝のヨガもしないで、朝食も飲みものだけにしてベッドの中で、「アンのゆりかご」を読んだりして過ごした。

お昼前に友人からのメール、「玄関に稲荷寿し置いたからね」
玄関の植木鉢のそばに置かれた紙袋からは彼女の絶品稲荷寿しと鶏肉の煮物が出てきた。
かたじけない!
今日はクラスのある日、省エネにして、まずはクラスをつつがなくやることが第一の日。
昼食と夕食の心配をせずにクラスに集中できる。しかもわたしにはとても作れないご馳走。

さて、4時半からクラス、スタート。5時半には解熱剤が切れるから2つ目のクラスの前に服用すべく、薬を教室の机の上に置いていた。
今日のテーマは Mother’s Day. 母親の愛情をテーマにした英語の絵本を数冊、読み聞かせをし、Happy Mother’s Day!やI Love You, Momなど、カードに書くセンテンスを練習したり、ノートに書いたりした後、実際に母の日にお母さんに手渡せるカードを作るというプラン。

高学年は、まずはラジオ基礎英語1の1週間分の復習。ちょうど形容詞がテーマになっていたので、それをカード作りに活用。
You are so sweet.
You are so nice.
You are so beautiful. など、お母さんを讃えるセンテンスをできるだけたくさんカードに書くという活動。

絵はそれぞれ家で描いて、素敵なカードをお母さんに手渡すというのが宿題。

なんとか計画通りの活動ができたが、今日はなんとしたことか、5時になる前に解熱剤の効果が切れて、突然の悪寒。暖房もつけているのに、身体の震えが止まらない。幸い、カード作りに夢中になっている子ども達には気づかれずにすんだ。あわてて解熱剤を飲み、熱を測ると38・7度。子ども達がカードを作り終える頃には震えも止まり、熱も幾分下がったようで、2つ目のクラスは難なくやれた。今日ほど解熱剤を有難いと思ってたことはない。
熱の下がっている間に夕食も美味しくいただけて一日を終えることができ、まずは感謝。

これで済めば問題なかったのだが、夜中に発熱、38・8度。アイスノンを首の辺りに置いて寝て、目が覚める度に熱を測ったのだが、結局、明け方まで高熱が続いた。解熱剤の処方は1日3回となっていたので、使わなかったのだが、以前のように熱が出ても夜中には下がるというパターンにも変化が出てきたようだ。


2018年05月08日(火) 母の闘病のこと

今日は有難いことに熱が出なかったので、午前中は、衣類の整理などもすることができた。でも、身体を動かすとすぐに息切れし、横になりたくなる。体力そのものが落ちているのがわかる。あるいは肝臓の機能低下に寄るものかも知れない。この状態が進んでいくのか、それともステントの調整をすることで、胆汁が流れるようになれば、もっと元気になれるのか、わたしは、また都内に出かけたり、大阪の次男を訪ねたりもできるような気がするのだがどうなのだろう。

晩年の母の事を思い出す。
母は70代に入った頃からC型肝炎による肝臓機能低下が次第に進んできて、物の片付けや歩いて買い物に行く事などが大変になり、スーパーへの買い出しにもタクシーを使い、いつもソファーに横になって過ごしていた。会う度に痩せていくのに、お腹だけは腹水のために大きくなり、ズボンのウェストが苦しいからと、自分で工夫してウェストをゆるめるようにしてズボンを履いていた。
一緒に温泉に行く時など、すっかり肉の落ちた腕や足を見て、医者から後10キロ痩せなさいと言われてた60代の頃の母の体型がこうも変わるものかと驚いたものだったが、ここ数ヶ月で、わたしの体型はあの時の母とそっくりにようになったなぁと感じる。

母は肝硬変から肝臓癌になる事をとても恐れていたが、静脈瘤の手術などは数回行うも、癌になることなく、80歳まで生きた。
2011年の春、震災の直後に医科大付属病院に入院し、その時は、震災の被害を心配する長男から頼まれ、2歳の孫とママをともない、春休みの期間2週間ほど実家に帰省し、そこから、病院に通った。しかし、退院後も、経過はよくなく5月に大分市の病院に再入院。その時にはかなり重い病状になっていたので、看取りの体制を敷き、その時は1ヶ月の予定で介護休暇をいただき帰省し、病院のそばのビジネスホテルに寝泊まりし、朝7時には母の病室に行くようにし、夜母が眠りにつくまで、そこにいた。母は少しの間もわたしがいなくなると不安がったが、この先、葬儀の事などが待っていると思うと、ここで、体力と気力を使い果たすわけにはいかないと、日中、2時間ほどはサウナに入ったり、お風呂に入ったりして、リラックスするようにしたが、あの時ほど緊張に晒された日々は他にはなかったなぁと思い返す。1ヶ月の介護休暇も切れるので、弟と交代して一旦職場に戻らなければという矢先、6月半ばに母は他界した。ちょうど、熊本から弟が来ていた時で、母はわたしたち2人に手を取られながら息を引き取った。
長く患っていた割にはほぼ1人で身の回りの事はでき、寝たきりの状態でベッドの中だけで過ごしたのは1ヶ月くらいのものだった。そしてわたしには始終痛みや苦しさを訴えてはいたが、最後まで言葉を交わす事ができ、医師や看護婦、見舞い客の前では、弱音を吐くこともなく、強い患者だった。
肝臓病の患者としては、自己ケアや、母の生命力が生かされた最期だったのように思う。

わたしも、そんな母の強い生命力を受け継いでいるのかもしれない。80歳とまではいかなくても、今のこの状態が少しでもよくなって、あるいは、このままの状態を保ち後2、3年は永らえる事ができるとよいなぁと思うが、すべては神の御手の中。
いちばんよい時を備えていただけるのだろう。


2018年05月06日(日) 「花子とアンへの道」を読む


今日は連休最後の日だったが、朝から熱があり、一日、すっきりと熱が下がらないままだったので、一日ほぼベッドで過ごす。

朝から38度以上の熱が出るというのは今までのパターンにはなかったのだが、この日は解熱剤を使わないとどんな具合なのか試してみようと思ったのだ。やはり、薬で発熱をコントロールしているのだと思った。解熱剤を飲んでも午後から熱が出るというのも、ある程度コントロールが効き、発熱中の時間を短縮したり、高温にならないようにしているのかもしれない。
兎に角、医者から言われ通り、一日3回の解熱剤を飲み続けた方が生活の質は保てるようだ。

寝ながらではあったが、本を一冊読んだ。
「花子とアンへの道 〜本が好き、仕事が好き、ひとが好き」村岡恵理 編

「赤毛のアン」をはじめ、多くの英米文学を名翻訳で届けた村岡花子。その波乱に満ちた生涯を、秘蔵写真とともに紹介する。ヴィジュアルブック。と本の紹介文にある。

数年前の朝ドラで村岡花子が取り上げられた事は知っていたが、あの当時は朝ドラを観る習慣がなく、パスしていた。ところが、昨年からこの3月にかけてBSで放送された、「花子とアン」を連続して見て、彼女の事やその友人関係、彼女が働いていた出版社(今の教文館)や、日本で初めての家庭文庫の事など、詳しく知りたいことが沢山出てきた。
そこで、このドラマの原作「アンのゆりかご」と、このヴィジュアルブック「花子とアンへの道」を取り寄せたことだった。
ドラマの中では強調されていなかったが、村岡花子がクリスチャンの両親の元に生まれ、2歳で洗礼を受けていることや、キリスト教関係の出版社、教文館で編集の仕事をしていたこと、また花子の夫の一家は聖書を主に印刷する印刷会社であったことなど、興味深かった。

ここからは、わたしの「赤毛のアン」にまつわる思い出。
多くの少女がそうであるように、中学生の頃、「赤毛のアン」はまさにわたしの腹心の友だった。どれほど、彼女を取り巻く世界に入り込み、想像の翼を広げたか知れない。

高校生の時にいつもムカつく事をわたしに言う男子生徒がいて、「お前はかなり変わっちょるけど、お前にそっくりな人間が1人だけおるぞ」と言うので、それ誰?と聞くと「赤毛のアンじゃ」と彼は言い、その理由をいくつかあげられた。

その理由は覚えてないけれど、確かに、遊びに来た友達にチェリー酒ならぬ、母の作った梅酒をご馳走して、大変なことになった事はアンの事件とそっくりだったし、すぐにカッとなったり、ムキになったりするところや、わたしの空想癖や、突拍子もないことをしでかす事を親たちは心配していたような節もあった。その扱いにくさに至っては、アン以上だったことだろう。

赤毛のアンをまた読んでみようかな。アンの祖母の歳になった今、その本はどんな風に
響いてくるのだろうか。



2018年05月05日(土) バラ祭りのシーズンパス

5月5日子どもの日。快晴。
孫たちとはラインの動画でおしゃべり。
大阪とベトナム、それぞれ家族で良い時間を過ごしているもよう。

今日は夫が家にいる時にしておかなくてはならないことのひとつ、美容院行きをすることができた。前回からもう3カ月も立っていた。
11時には終わったので、帰りにまたバラ公園へ。今年は何度もこようと、シーズンフリーパスを買う。目的はバラの花を見ながら歩く事にあるから、リハビリにはちょうどよいウォーキング。バラの花も毎日次々に咲くので、見飽きる事はない。

夫とフリーパスを買ってバラ公園に何度も来ようなんて今まで思いもしないことだったな。
ここ10年以上、バラ祭りの時期が来ても入場料を払って公園の中に入ることもないまま、散歩のついでに遠くからバラを眺めるくらいだった。1時間ほどもバラを見るならその分、側の公園でヨガしたり、リコーダー吹いたりした方がいいというスタンスだった。
なんともせわしないことだった。

昨日のように夫に付き合ってもらって、林の中の東屋でリコーダーを吹く。
曲と曲の合間に声をかけてくれる人もあった。
20代とおぼしき女性が、遠くから音が聞こえてきたので、来てみました。なんだか、アニメに出てくるような感じで、嬉しくなって声をかけさせてもらいました。

そうそう、林の中でリコーダーを吹くというのはわたしにとっても現実を離れてファンタジーの世界に入るということ。それを共有できたんだろうなとうれしかった。

孫達を連れたお祖父さまが、いい音色ですねぇ。遠くから聞き惚れていましたよと、声をかけて下さる。

ここでリコーダーを吹いて、いろんな方々と言葉を交わしたことや聴いていただいたこと、そのひとつひとつをほぼ覚えているな。
お礼にとお菓子やパンをいただいたことも。

さて、今日も熱が出なければよいなと思ったが、午後2時過ぎより、出始めた熱ば午後4時ごろピークの38・6度。夕食の頃にはすっかり下がっていたので、ちゃんと食事もすることができた。夫が支度をしてくれた常夜鍋。とうふ、豚のしゃぶしゃぶ肉、ほうれんそう、白菜を生姜入りのポン酢でいただく。


2018年05月04日(金) バラ公園へ

昨日はベッドの中で大人しくしていたにもかかわらず、また解熱剤を飲んでいるのにもかかわらず、正午過ぎから熱はずんずん上昇し、39・8度まで上がる。夫がアイスノンを2つ買って来てくれ、病院でやっていたクーリングを試みるも、なかなか下がらず、夕方7時過ぎ、解熱剤を飲んでからようやく下がり始めた。37度台まで熱が下がってみれば、さっきまでのしんどさは一体何だったろうと、その時の気分すら忘れてしまうのだが、あれだけ長い間入院して治療を受けて、さらに状況が悪くなっているというのはどういうことなんだろうと、恨みがましい気持ちにもなった。この分では、次回の診察の時に、ステントの調整の話がでるだろうな。今度入院すると、どのくらいの長さになるだろう。
8月まで持ち堪えることができるかしら、せめて10月か11月くらいまでは生き延びたいなぁと、指を折ったりしていた。

でも、朝になると熱は平熱に戻っていて、気持ちも断然ポジティブになる。どうせ午後から熱が出るのなら、午前中からベッドに篭ったりしないで、やれることをやった方がよくはないだろうかと夫を説得し、近くのバラ公園にバラを見にでかける。バラ祭りが昨日から始まり、いつも人気の少ない公園は多くの人で賑わっていた。歩きながら一通り沢山の種類のバラを観るだけでも1時間は歩くことになる。あちこちにベンチもあるので、休み休み。
バラからエネルギーをもらった後は、バラ園の隣の緑の木立の中で30分ばかりリコーダーを吹く。
出かける前には冬物の洗濯もできたし、昼食の準備もできた。

さて、もうじき2時、熱が出たとしても、今日の午前中はたっぷり5月の日差しの中で過ごすことができたからよしとしよう。


この日、一日熱が出ることもなく、元気に過ごすことができた。感謝!
















2018年05月03日(木) 退院2日目

今回の退院は、言ってみれば、条件付きの退院で、一日3回、解熱剤コカールを飲んで様子を見るというもの。つまり発熱の問題は40日前から実際、未解決のままなのだ。

熱を薬で押さえ込んでいるわけだから、とにかく無理はしない。あれもこれも気にかかることはあっても、目をつむる。一日にやることを1つか2つに絞ると自分には言い聞かせていたものの、やはり、ただただ横になっていた入院生活とは明らかに使うエネルギー量が違うのか、昨日は、午前中、入院中の荷解きをしただけで、えらく疲れてしまい、午後はクラスの始まる1時間前まで、ぐったりと寝こんでいた。
でも子ども達がやって来てクラスがスタートすると、なぜか、元気になる。問題なく2クラス終了。

夜は、買い置きしていた京樽のいなり寿司の皮が今日までの正味期限だったので、出来合いの五目寿司の元に炒り卵と紅生姜を加え、簡単いなり寿司を作る。夫も慣れない手つきでいなり寿司の皮に酢飯を詰めていた。これととろろ昆布の即席お吸い物。
昼食は卵かけご飯と阿蘇高菜の漬物という簡単さだったが、見ただけで食欲をなくしてしまう病院食と比べると、美味しいこと、この上なかった。

これで、無理が効くなら、豆類やココナツミルクをつかって、アールユーベーダの治療院のレシピを試したり、育ってきているバジルで香りのいいパスタを作りたいところだが、今日は朝から微熱があったから、夫から家事禁止令が出ている。

今日のところは、3月分と4月分の高額医療費の書類を作っただけで、まずはよしとしよう。


2018年05月01日(火) 退院!

いろいろとあった入院生活だったけれど、今日退院。
明日から40日振りに日常が戻ってくる。
まずは入院の荷物の整理と、5月の1週目のクラス。
そろそろと、のんひりと、リハビリのつもりで。


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