たりたの日記
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2018年04月28日(土) 病室での堅信式

今日は特別な日だった。
代母のWさん、夫、次男の立会いの元、病室で英神父より堅信の按手を受けた。

英神父より堅信についてのメールをいただいたのは4日前のこと。

「大司教さまより、特別に堅信を授ける許可をもらいました。
できるだけ早い日に、そちらに堅信を授けに行きたいと思います。
ご主人ももちろん同伴してもらえる日時で週末か祝日がよいでしょう」
といくつか候補の日時が挙げられていた。

日曜日に退院になりそうだったので、堅信式は28日の土曜日の午後4時からお願いすることにしたのだった。

カトリック教会では堅信は、洗礼、聖餐と共に秘跡(サクラメント)になっており、司教により按手と香油の塗油がなされる。私たちの所属教会では成人洗礼の場合、洗礼を受け1年後に、堅信を受けることになっている。
夫と私は20代の時にプロテスタント教会で洗礼は受けていて、会衆の前で自分で書いた信仰告白文を朗読するという事はやったものの、カトリック教会でいう秘跡としての堅信は受けていない。
そこで、5月中に3回の準備会に出席し、6月24日に他の方々と共に司教から堅信式を受けることになっていた。

けれど、わたしの場合、5月の準備会も、また、6月24日の堅信式も参加が可能かどうか危うい。そこで、神父の配慮で、今回特別に病室での堅信式が行われることになったのだ。

堅信が信仰告白と異なるのは、自分の決意ではなく、上から与えられる恵みなのだということを今回初めて理解した。洗礼においても聖霊の恵みは完全に与えられるが、堅信においてはその恵みがよりはっきりした形を伴って確認され、「洗礼の恵みの完成」と表現されることもあるということだ。

神父が頭に手を置いて下さる按手は思いの他、時間が長かった。注がれている聖霊をわたしはしっかり受け止めなければ、、、そんなことも頭をよぎったが、その必要すらないのだろう。恵みは受ける側の状態にかかわらず、ひたすら神から人へと注がれるものとしてみれば。
堅信名はマリア・マグダレーナとしていただいた。マグダラのマリア。イエスの弟子として生き、復活のイエスに最初に出会った、あのマリア。

堅信式の後、談話室でしばらく話をする時間も持っていただいた。日曜学校時代のこと、その頃の仲間や先生方、牧師と今も交流があること。
小学校2年生の時、初めて行った日曜日学校でもらったカード、そのカードに書かれていた言葉にガシリと掴まれたという話。

「草は枯れ、花はしぼむ。しかし神の言葉は永久に変わることはない」

男の子と女の子と、風に舞う木の葉の絵が描いてあるカードにはこの言葉が記されていた。
家でも学校でも耳にする事のない永遠という言葉、そこへと繋がるものが、あの時のわたしには必要だったのだ。
それが、ここまで続いている。その都度、その都度、注がれて続けて。


2018年04月27日(金) 内視鏡、これで何回目だっけ?

調子に乗ってやった事のつけはきちんと追いかけてくるもので、昨日のプロジェクト完成の後、熱が出た。解熱剤を飲んでいるにもかかわらず、思いっきり39度まで上がってしまった。
やれ、困った。
今夜は熱が出ないと踏み、夫に魚力の握り寿司をリクエストしていたから、夫が寿司を携えて病室に来るまでは何とか8・5までには下げたい。

ナースコールで氷枕をお願いすると、夜勤の看護師さんが、カーテンの向こうから顔を出してはい!といい返事。でもなんだか悪い予感。さっきも、夕方の解熱剤をお願いして、よい返事の後、30分以上待たされたからだ。こちらが焦っていると、10分でも長いと感じる。結局、30分過ぎたころ夫が現れる。
「えっ、熱!、もう大丈夫だと思ったのに」
「大丈夫。すぐに下げてお寿司食べるから」とこういう時でも食い意地がはっている私。
返事ばかり良い看護師を当てにするのは諦め、夫にすぐ側のナースステーションに氷枕を取りにいってもらう。冷たい氷枕がすぐ手元に。これに要する時間、わずか数十秒。
この数十秒も、彼女にかかっては1時間近く待つはめに。普段の看護師はまず待たされると言う事があまりないから、この差はなんだろうなと思ってしまう。
ともあれ、これで熱が下がるぞ。
30分も頭を氷枕に押し付けていたら38・5度に。
さて、食べよう!
今日一日、頭に浮かべていた魚力のお寿司は満足のいく美味しさだった。

ま、わたしとしてはプロジェクトも完成し、お寿司も無事に食べられて問題は無かったのだが、困ったのは医師。コカールを飲んでも熱がさがらないとあれば、やはり、ステントを調整しなくてはならないということになり、金曜日はまた朝から点滴につながれ、絶食で、内視鏡検査の順番待ち。これで、今回のことがすべて片付けば我慢した甲斐もあるというものだが、やはりバルーン式の内視鏡でないと思うように調整ができなかったとの報告、病院には今バルーン式の内視鏡がないから、すぐに処置できないので、来週の火曜日か水曜日に一旦退院して、様子を見て、再度入院ということになるらしい。

もっとも、このまま、肝臓の機能もよくなり、熱も上がらなければ、その必要もないのだろうが。

この先どういう展開になるかは分からないが、まずは連休、家で過ごせることを良しとしよう。


2018年04月26日(木) 端午の節句のつるしかざり

解熱剤を飲み始めて3日目。午前中の時間だけでなく、午後からの時間も使えることができることがうれしい。

この日は、いつもの公園に朝の散歩に行き、誰もいないのをいいことに、1時間リコーダーを吹き、戻ってきて11時から12時までゆっくりお風呂。昼食にはアジのフライがでたが、珍しく完食。食事の後、「端午の節句のつるしかざり」に取り掛かる。入院する前にから作り始めていたのだが、なかなか進まず、ちょっと根を詰めるとすぐに熱が出てしまうので、お節句までに作り上げるのは無理かなと、しばらく放置していたのだった。でも、この週末には次男が来る。それなら、その時までに作って、宗ちゃんのお祝いに持って帰ってもらいたい。よし、コカールで熱は押さえてあるのだから、と、作り始める。真ん中の兜を被ったお人形とこいのぼりをリリアン糸に通し、後は前もって作っておいたちいさな飾りをリリアン糸に通していく。3時間程で完成!
お節句に間に合った。

そういえば、めいみの桃の節句に吊るし雛を作ったのも、入院中、これから手術と言う時になんとかそれまでにとつくったなぁ。去年のあいちゃん初節句の時はベトナム行きが迫っていたから、ベトナムで飾れるようにとせっせとつくったな。

手芸は決して得意でも上手でもないんだけど、なんだかあこがれのようなものがある。お祖母ちゃんが孫たちに何か手作りのものを作ってあげるという、そんなあこがれ








こちらは2016年の2月



こちらは2017年の2月




2018年04月25日(水) 3度目の病院からの出張授業

月曜日の造影CTの結果、前回のCTから特に変化はなく、熱の原因になりそうなものは見つからないということだった。それで翌日から、抗生物質などの点滴もやめ、朝、昼、夜とコカールという解熱剤を飲むということになった。強制的に発熱を防ぐということらしい。これで熱が下がれば、退院ということで一応、退院の目安は29日の日曜日。

薬の効果とはすごい。火曜日は午後になっても熱が出ず、昨日までの熱でふらふらの状態がうそのよう、当然、食欲もあり、夫に鯖の押し寿司をリクエストをしたほど。

というわけで、水曜日は外出許可をもらい、予定通り、英語教室を2クラス、やることができた。いつもサポートしてくれる友人が、今回も昼前に病院に迎えに来てくれ、ダイソーに立ち寄り、教材などを買って家へ。彼女が作ってくれた肉じゃがやロールキャベツをたらふくいただき、じゃれてくるシロといっしょにしばらくお昼寝。

午後3時から教室でスタンバイ。
3週間振りの子ども達との時間は楽しく充実していた。高学年の4人は毎日、基礎英語を聞いていたようで、またそれを楽しんでいることが分かり嬉しかった。今日クラスをキャンセルすれば、次のクラスまで4週間も空くことなるところだった。解熱剤でむりやり熱を下げると言うことに疑問がないこともないが、そのおかげで普通の生活をすることができることはやはり、ありがたい。


2018年04月23日(月) 朝の散歩&リコーダー

午後2時半くらいから熱が出始め、午後6時頃にピーク(38度〜39度)になり、午前0半頃、平熱になるという規則正しさが続いているので、わたしはわたしで、熱のない間をいかに有効に使うかと考える。

6時から7時までの点滴の間にラジオの基礎英語(高学年クラスの課題にしているので)を聞きながらヨガ。
5時に目が覚める時は、5時から6時までがヨガと瞑想の時間になる。
7時から8時 聖書朗読や読書、日記など
8時から 食事、身体拭き
そして、遅くとも9時には病室を出て、朝の散歩へ。
すでに桜の散った桜並木の下を歩き、10分もすれば、市民公園に辿りつく。そこで3、40分ほどリコーダーを吹き、また歩いて病院へ。今日で4日目。
あまり人のいない静かな公園で、木々の緑が美しく、鳥の鳴き声が聞こえる。ピクニックテーブルがいくつかあるので、リコーダーを吹くのにはおあつらえ向き。
ファン・エイクの曲やジブリの曲は、緑と小鳥のさえずりによく似合う。
吹いているわたしにも、ずんずんエネルギーが湧き上がってくるのが分かる。
また、体力がない時にはリコーダーは吹けないので、まだ体力が保たれていることも分かり嬉しい。
うん、これはりっぱな音楽療法だ。病院を抜け出し公園まで来るのにはおおいに意味がある!

その後10時半から夕方までは点滴に繋がれるので、外に出ることのできる9時から10時過ぎまでの時間はとても貴重でありがたい。
この時間を大切にしようとすれば、夜も消灯時の9時にはさっさと寝ようという気にもなるし、熱があって、ただ寝ている時にも励みになる。


2018年04月21日(土) 無名の順礼者〜あるロシア人順礼者の手記

前々から書いておきたい本のことがあった。
あまりにたくさんの思いがあり、それで、余計に書くことができないでいたが、今日は書くのによい日かな。
さて、何から書くとしようか。

本の邦題は「無名の順礼者〜あるロシア人順礼者の手記」エンデルレ書店 2004年出版。
文字どおり、1人の名も無いロシア人順礼者が綴った手記で、時代は19世紀。

この本を私が手にいれたのは今年の1月の末だったが、この本の存在を知ったのは10年ほど前のこと。それもキリスト教関連本からでも、話からでもなく、その時文学ゼミの課題になっていた、サリンジャー の「フラニーとゾーイ」野崎孝訳(1976年)を通じてだった。その後村上春樹訳(2014年)の「フラニーとズーイ」が出版され、こちらも2回目を最近読み直したところ。

さて、「フラニーとゾーイ」の中に登場する
「巡礼の道」という本についてだが、
この本を肌身放さず持ち歩く20歳の女子大学生フラニーは、まるで価値観が違いうんざりしているボーイフレンドに、切々とこの本について説明するが、ボーイフレンドには全く響かず、フラニーは失望し、食事中に失神してしまう。

次に登場するのはフラニーより5つ年長の兄で俳優をしているゾーイと母親の会話の中。その本が原因で、フラニーの様子がおかしくなっていると心配する 母親に兄のゾーイが、その本について語る。その本はフラニーが図書館から借りたものではなく、フラニーが今だに尊敬している7年前に自死した、長兄 シーモア(この経緯については 別の本「大工よ、屋根の梁を高く上げよ/シーモア-序章 に書かれている)の部屋の机の上に何年も置かれていた本だと指摘し、その本について、ヒンズー教や仏教との相似点などを交えながら、ゾーイらしい考察を語る。
そして、最終の場面では、「巡礼の道」で語られる救済の道に希望を託そうとし、周囲の人間に背を向けようとしている妹に対し、その本をどう読むのか、祈りとは、信仰とはどういうことなのか、そもそも君はイエスを知り、イエスを愛しているのか、そうでなければその祈りは何ももたらさないと兄ゾーイは指摘する。しかし、彼女の苦しさは、どう生きればいいのか、それを見つけられないことにある。
最終的にゾーイの取った行動は、2人の精神的養育係だった長兄シーモアの言葉をフラニーと共有しようとすること。
シーモアはかつて、ラジオ番組に出演する前のゾーイが靴なんて磨く必要がないとごねると、
「おまえは太ったおばさんのために靴を磨くんだよ」と諭す。
また、フラニーも、ラジオ番組に出演する前に、かつて長兄から
「太ったおばさんのために、なにか愉快なことを言うんだよ」と言われた言葉を思い出しす。

「シーモアの言う、太ったおばさんじゃない人間なんて、誰ひとりいないんだよ」
「その太ったおばさんというのが実は誰なのか、君にはまだわからないのか?それはキリストその人なんだよ。まさにキリストその人なんだ。」( 村上春樹訳 からの一部引用)
フラニーにはその事がストンと胸に落ちた。今までのストラグルから抜け出し、喜びに溢れる。
とストーリーは終わる。

話は「フラニーとゾーイ」の方に行ってしまったが、このストーリーそのものにいたく感銘を受け、様々に考えさせられたが、まずは、この「巡礼の道」なる本を手に入れ、自分で読んでみたいと思った。原書に当たってみて、この本が実在する本であることは分かり、英語版ならアマゾンで難なく手に入れることができた。でも日本語訳の本は手がかりがなく、ようやく古い翻訳本がかつて出版されたことは分かってたものの、今は手に入らず、国会図書館にはあるが、貸し出し禁止になっているということで、諦めた。

ところがそれから10年後の1月末、この本の邦訳に巡り会うことができ、今はわたしの傍らにこの本がある。
一通り読んだ後、今2回目を読んでいる。熱があって氷まくらで冷やしながらも、この本は楽しく読める。楽しいというのは、その順礼者と共に、わたしもロシアの原野を共に旅できるからであり、彼の感謝や喜びが自分の事として共感できるからだ。素朴な言葉は頭を駆け巡ったりせずに、胸に直接届く。そして、わたしもこの「イエスのみ名の祈り」を繰り返す。
主よ憐れみたまえ
主よ憐れみたまえ
主よ憐れみたまえ.....
何回でも果てしなく


さて、10年のブランクの末に巡り合った、この本、「無名の順礼者〜あるロシア人順礼者の手記」はここで、見つかったのだった。
これが聖霊の働きでなくて、なんだと言うのだろう。

英神父ブログ 「福音お休み処」より、<祈りの手ほどき>
第6回 短い聖句を唱える祈り−3 イエスのみ名の祈り









2018年04月18日(水) 熱はあっても平和な日々

前回の日記から18日まで、まるで、何かの約束のように、午後2時過ぎあたりから夜中にかけての発熱は続いているのだが、熱がピークに達するまでの2時間くらいは、寒気もありよい気分という訳ではないが、それを過ぎれば、看護師さんからクーリング用の冷え冷えのアイスノンを持ってきてもらい、けっこういい気持ちで横になっていられる。高熱に伴う、筋肉痛や苦しさもなく、スマホで様々な音楽を楽しむことができるし、窓の外の青空や白い雲を眺めながめれば、平和と感謝の気持ちに満たされる。
熱そのものにしても、ガンの細胞をやっつけるべく、身体が自己治癒力を発揮しているようにも思える。
何より有難いのは、朝起きた時には平熱になっていて、ベッドの上で、また、窓から昇る朝日を見ながら、たっぷり1時間ほど、ヨガをすることができる。いつか、ヴィパサーナ瞑想の指導をしていただいた柳田神父から、ヨガは身体を使ってする祈りという話を伺ったが、まさにその通りだと思う。深い呼吸の中で、身体の各部分が霊的命に満たされて、不思議な平安と静けさに満たされる。今、この瞬間を充分に生きているという内側から外に広がっていくような至福。

ベトナムから来てくれていた長男は17日の深夜の便で戻ったので、それまでの間、毎日病院に来てくれ、彼の手がけているエキサイティングな仕事の話や、わたしの葬儀のことなど、愉快に話すことができた事は良かった。
ぼくはあらゆるイベントを手がけてきたから、お母さんの理想どうりにやるからねと自信たっぷり。頼もしいことだ。
日曜日には、夫と一緒にイグナチオのミサに出て、その後、英神父と面談もしたとのこと。愉快で和やかな雰囲気の面談の様子を聞き、この事もまた、感謝なことだった。

この日、4月18日は1年前、イスラエル巡礼の旅に出発した日。その時の写真を久しぶりに見て、その時の事をあれこれ思い出していた。
お昼すぎ、イスラエル巡礼に一緒に出かけた友人が訪ねてくれ、しばらくの間、思い出話やあれやこれや。

午後から熱は出たものの、夫が病院に立ち寄ってくれる午後7時には38度までに下がっていたので、一緒に、友人が作ってきてくれたご馳走で夕食。
肉団子のいがぐり蒸し、五目寿司、卵焼き、ニラと卵のスープ!
感謝!


2018年04月13日(金) 医師との面談の日

相変わらず、午後から、場合によれば昼前からの高熱が夜中まで続いているが、今は幸い、まだ熱が出ていないので、前回の医師の説明の事を記しておこう。

13日の医師との面談には、大阪から次男夫婦が、さらには、ベトナムから長男が戻ってきて、家族全員で参加することとなった。

医師の説明は明瞭で、今回の3回のステント挿入の経緯、また、今の状況、今後の見通しの事など、質問と回答も含めて、満足のいくものだった。

わたしの場合、胆嚢も、胆管もほぼ切除してあり、肝臓と繋がる胆管の根元の部分を腸に縫合し、胆汁が腸に流れ込むようになっているのだが、今回の再発は、ちょうど、その縫合されたあたり。

それによって、肝臓の右側に伸びている右胆管は癌のため、その管が散り散りになり、機能していない。一方、左胆管の方はまだ機能はしているものの、閉塞寸前になっているので、今回のように黄疸の数値が高くなったり、鬱滞している胆液に腸内の様々の細菌が侵入して、胆管炎を起こし、高熱が出るという症状が起こっている。

それを解決するために、最初の主治医の見立てでは、左胆管は、1本の管から3方向へ伸びているので、その枝分かれする前の太い胆管にステントを入れるということだった。
ところが、3日に内視鏡担当の内科医がそこにアプローチしようとしたところ、根元の胆管部は崩れており、3本の胆管に分かれていたので、その中奥の一本にステントを挿入した。それが画像の関係で、右側の胆管に入っているように見えたということだった。

しかし、奥の1本にステントを入れても、熱の状況が変わらないので、10日に再度ステントを挿入することとなり、今回は、手前の2本の胆管にステントが入った。
これで、枝分かれした胆管すべてが、ステントによって腸と繋がってはずだが、今の問題は、それでも高熱が治らないということ。

考えられる理由の一つは、ステントの位置にズレがあり、うまく流れを作っていないということ。もうひとつは、すでに機能不全になっている右側の胆管内の炎症。これに関してはドレナージュはできない。
熱が今後も続くようであれば、再度内視鏡で、ステントの位置を微調整するということになる。

それでも熱の問題は残らないとも限らない。その場合は解熱剤を用いながら、家でも生活はできる。当然ながら、熱の継続により、衰弱は進んでいく。
また、一番の危険は、肝臓に血液を送る門脈辺りに癌が生じているので、その門脈が閉鎖された場合は急激な肝不全が生じるということ。

まあ、末期の状況で、突然の状況変化も起こりうることを、家族みなで共有することができてよかった。

医師との面談の前、病院に友人が2人訪ねて来てくれ、教会のことや、今年度の講座の事など話ができてよかった。また、息子達や孫を紹介することができたことも嬉しいことだった。彼女たち、家族も来ると知って、美味しい稲荷寿しや煮物、また、柏餅餅や和菓子をたくさん持ってきてくれていた。
そこで、面談の後は談話室で、いただいたお寿司や和菓子をみんなで食べる。紙皿なども用意していたから、「なんだかお花見のようだね」と言いながら、楽しいひとときに。
もうじき2歳になる宗次郎はテーブルに並べられたご馳走に、目を輝かせた。
お皿にお稲荷さん、かぼちゃ、大根、お肉を載せると美味しそうに次々と平らげるのを見るのは嬉しかった。
ベトナムから戻ってきた長男は、桜餅を口に入れるや、うまい!やっぱり日本だね、と。
わたしは、夕食の分のお稲荷と煮物を確保して、桜餅も柏餅もいただいた。38・5度の熱にもかかわらず!
久々の家族そろってのティータイム。

わたしは、家族のために何の用意もできなかったので、友人達の配慮が身に染みて、ありがたかった。

(4月15日に記す)


2018年04月11日(水) 熱と付き合いつつ

6日午後からずっと午後になると高熱が出てなかなか下がらないという日が続いている。
8日には解熱剤を入れてもらうと、あっさり下がり快適になるのだが、また夜中になると出てくる。

9日、月曜日に無事ステントは挿入されたが、問題の熱は続いていて、昨日と今日は朝からほぼ一日、熱びたり。
ドクターは、まだ閉塞している胆管があり、熱はそのためだろうという。
という事は、今回のステント挿入で問題が解決したわけではない事になる。
病室に立ち寄って下さっての数秒間の説明では、どういう状況になっているのか、今後の事も含め、家族と共に、詳しく説明をいただけるよう申し入れた。
金曜日の午後に時間を取って下さるそうだ。

書きたいことはあるものの、日記の更新はままならない。
また、ここ3日間、24時間の点滴、しかもわたしの場合、左腕は以前の乳がんの手術の為、点滴は避けるよう指示が出ているので。右手右腕が一日拘束されていて、それも、日記が更新できない理由。

何も出来ず、寝ているという3日間だったが、「主よ、憐れみたまえ」という短い祈りのフレーズを繰り返し唱えることは、慰めになった。特に熱が上昇するまでの悪寒のある間。39度くらいまで上がると悪寒は消え、やや身体も解れるので、ロザリオを繰りながら、ロザリオの祈りが、よい働きもたらせてくれる。取り分け、ラテン語で唱えると、リズムがあり、繰り返すうちに気持ちが整ってくる。主の祈りとロザリオの祈りをラテン語で唱えらるるようにしておいてよかったと思う。覚えるまでは苦労したけれど。

今日は、音楽を良く聴いた。これまでになく、身体に入ってくる感覚があった。
わたしが動けない状態にあり、頭も使わず、ただただ受け身になって聴くからだろう。

3日間、ずっとお世話になってきた解熱剤を今日は使わずに身体の変化を観察してみた。
朝から徐々に上がり始めた熱が正午ごろ39度のピークを迎え、わずかづつ、ゆっくりと下がり始め、夕食の6時ごろには37・5度まで下がり、食事も少しはいただけた。たぶん今もそのくらいの体温だろう。

さて、夜中はどうだろう。
後10分で消灯。
まずはここまで書けてよかった。


2018年04月07日(土) レオからの贈り物

3月25日は夫の、そして4月3日はわたしの誕生日なので、ベトナムに住む長男家族と大阪に住む次男家族から、わたし達にプレゼントが届いた。どれも思いと配慮の込められた贈り物で、しみじみとありがたい。

一番年長の孫は、ベトナムのインターナショナルスクールに通う、小学校3年生のれおだが、プレゼントの中に、れおからの物があった。

まだ荷物が届く前、れおのパパとママから電話で話しを聞いたのだが、みんなでプレゼントを買いに行ったお店で、れおがその品物を見るや、お店の人に自分から “ How much?” と値段を聞き、自分がローラブレードを買うために貯めていた貯金を全部つかって買ったのだという。
「これ、きれいだし、パパママっていう感じがするから」と。
買った後もとっても満足してうれしそうにしていたと伝えられ、胸がいっぱいになってしまった。

それにしても、れおの心の中にどんな事が起こったのだろう。小学校3年生の時の自分を思い出しても、息子達の3年生の時を振り返っても、はたまたこれまで出会ってきたたくさんの小学3年生を思い出しても、自分が欲しいもののために貯めていたお金を、お祖母ちゃんへのプレゼントに使ってしまう小学校3年生というのは想像し難い。

れおがその品物を見た瞬間、ほんとにきれいで、価値あるもので、お祖母ちゃんに買ってあげたいと即座に閃いたのだろう。そしてそこであれこれ迷わずに、心を決め、実行し、そのことに満足したのだろう。
彼の優しさや直感力、決断力や執着のなさ、美意識、いろんな要素が見えてくる。

れおが選んでくれたプレゼントは、木の葉をモチーフにした深いグリーンのネックレスのイヤリングだった。
確かに素敵。わたしが見ても瞬時に心惹かれたと思う。単に美しいというだけでなく、深さとストーリー性がある。
このアクセサリーが、パパママっていう感じがする というれおの洞察力にも恐れ入った。

それにしても、わたしは何と幸せな祖母だろう。
このプレゼントはもちろんわたしの宝物になったが、れおのこの出来事は今後家族の中で語り継がれるエピソードになることだろうと思う。
















2018年04月06日(金) 友人たちと

ここのところ、朝は熱もなく快調で、6時から基礎英語シリーズを聴きながらヨガをしたりしているのだが、昼過ぎ、あるいは、夕方から夜にかけて高熱が出るという日が続いている。これも、次にステンレスを入れるまでの事と思っているが、どうだろう。

この日は、場合によれば、ステントを入れることになるかも知れないので、ドクターが病室に現れる9時までは朝食を取らずに待っていたが、ステントは今日ではなく、月曜日になったということだった。

まずはよかった。
今日は、友人が2人、午後1時と4時に訪ねてくれることになっていて、場合によればお断りしなくてはならないかもしれなかったので。
午後になり、熱が出始めていたので、ゆっくり話すという訳にもいかなかったが、それぞれの友人と会えて、しばらくの時間を一緒に過ごせて良かった。

先に来てくれた友人は稲荷寿しをたくさん作って持って来てくれる。九州出身の彼女の稲荷寿しは、油揚げが薄い色をしたあまり甘くない稲荷寿し。懐かしい子どもの頃の味、見ただけで、運動会や遠足が思い出される。夕方、夫が病院に来るのを待って一緒にいただく。38・5度の熱にもかかわらず3個も食べた。
病院の食事は一口も食べられないというのになんともゲンキンな患者だ。

4時頃に訪ねてくれた友人は福岡に住む幼なじみ。横浜に住む息子さんを訪ねる途中、スーツケースを押しながら、羽田からここに立ち寄ってくれた。談話室に行く元気がなかったので、病室に来てもらった。
母教会の牧師の事や、家族の近況など、30分ばかり。めったに会うこともない友人、わたしの調子がよければ、もっとゆっくり話せることができたのにと残念な気持ちで見送る。

熱のおかげで、睡眠薬のお世話にならなくても、寝苦しくてめざめてはまた眠りに落ちる。熱はいつものように明け方には下がっていた。


2018年04月05日(木) ヤン ヨンヒ著 「朝鮮大学校物語」を読んだ日

ヤン ヨンヒ著 「朝鮮大学校物語」を読んだ。
友人のFBで、ヤン ヨンヒ監督の新作ドキュメンタリー映画「スープとイデオロギー」のクラウドファンディングの事を知り、興味深く、また応援したいと思ったので、ドネイションしたのだが、そのリターンとして、彼女の書き下ろし新刊書「朝鮮大学校物語」がさっそく届いた。

作家その人がモデルであろう、演劇を志す主人公が、厳しい校則や寮生活を、強いられ、反発や反感、自由になりたいというか願いを持ちながら、自分らしさを失わず孤独な闘いをしながら、演劇への道を切り開いていく姿に感動し、共感した。

そもそも、なぜ、彼女の映画や本に興味を持ったかということだが、わたし自身、彼女の言う、日本でありながら日本ではない、朝鮮学校に7年間かかわったいきさつがある。
アメリカ滞在から戻ってきた翌年、1994年4月から2000年3月まで、埼玉県の初中級朝鮮学校で、初級の英語教師として小学1年から6年生まで、およそ200人ほどの生徒の英語教育にかかわった。

アメリカ滞在中、多くのフレンドシップにも接し、かけがえのない友人達も得たが、マイノリティーとして外国人として生活することの厳しさ、人種差別の視線も体験した。日本に戻ってきてからも、どこかで、この緊張感を維持していたい、おこがましくも、マイノリティーの側に自分を置きたいという気持ちがあった。そして、不思議なように、その願いにかなった働き場所を与えられたのだった。

この場で日本人はわたしひとりという環境。北朝鮮の思想や教育理念に賛同していたわけでもない。ただ、この日本の中で、様々な差別や生きにくさに出会いながら生きていかなくてはならない子ども達に、世界と繋がるツールになる英語をひとつの支えとして手渡したいという願いがあった。

その7年間の細部は思い出せないが、パートナーとして仕事を組むネイティブの講師を見つけ、それぞれの学年のカリキュラムを作り、テキストを決め、ネイティブの講師とかなり熱の入ったディスカッションをしながら(相手によってはまるで喧嘩のようになることもあった)次のクラスの準備をし、校長先生との交渉や学級担任への協力の依頼。中学部の英語教師とのコミュニケーションや部活動のヘルプと、必要と思われる事を自分で探し出しては進めていった。
仕事は週2回、あるいは3回、朝から夕方5時くらいまで学校にいた。
昼休みは子ども達と校庭で遊んだりすることもあり、運動会や文化会館での大掛かりな学芸発表会も見に行った。
先生方は朝鮮語をまったく喋れないわたしやネイティブの講師に暖かい目を向けて下さり、先生方の食事会の席に招いて下さることさえあった。あの時の焼肉のなんと美味しかったこと!
また、教師と子ども達との関係は兄弟、姉妹のような関係で、学校全体がひとつの家族といった印象があった。

そして、忘れられないのは、オモニ(お母さん)の作ってくれる昼ごはん。
教員食堂で、私たちも食事をいただいたが、
ビビンバやワカメスープや様々なコリアンフード、蜂の巣と呼ばれるる内臓のスープなど、食べたことのないものもあったが、いつもとても美味しかった。どんぶり一杯に盛られた食べ放題の手作りキムチは絶品で、あれよりおいしいキムチには今だ出会ったことがない。
オモニは時々、めずらしい青唐辛子のキムチを瓶に入れて下さったり、料理の仕方を教えてくれたりと優しかった。

彼らの側に立ちたい、彼らの役に立ちたいとねがったが、恩恵を受けたのはむしろわたしの方ではなかったか。
そして、その恩恵や愛情を感じつつも、その仕事場から離れた後は、そこの生徒とも先生方とも繋がりはなくなり、足を向けることもなくなってしまった。
北朝鮮という国が次第に不気味で得体の知れない国になり、その空気の中で、ただひとりの日本人として関わり続ける事に不安が募ってきたこともあった。教会の英会話スクールを手伝う事をきっかけに、朝鮮学校での仕事を終わりにした。
我が家にお招きしたりもした若い英語の先生とはしばらく手紙のやりとりをしていたが、いつの間にか途絶えてしまった。交流を続けて行けばよかったと今ごろになって後悔する。

奇しくも、この日の午後、病院を訪ねて下さったのは、以前行っていた教会で教会学校や役員をしていたUさん。
出会った時は20代の青年で、彼らは、わたしがそれまで働いていた朝鮮初中級学校の卒業生と聞いて驚いた。卒業後は日本の高校、大学、アメリカ留学から戻ってきたところだった。

今日久々にお会いしたUさんはこれまで20年近く働いてきた会社をこの3月で退職し、新しい生き方を始めようとしている。今回お会いして、彼が、日本と韓国と北朝鮮を繋いでいく、そんな人材として働きたいという願いを持っていることを知る。彼と教会のことや信仰の話もしたが、彼の母校、わたしの職場であった朝鮮学校の思い出を語り合うことができたことはよかった。
すっかり切れてしまっていた、あの学校で出会った人達と、わずかながらにまた繋がる事ができたような気持ちになった。

Uさんのこれからの働きも、ヤン ヨンヒ監督のこれからの映画作成も、応援していこうと思う。

退院したら、ヤン ヨンヒ監督の前作「かぞくのくに」を観るつもり。
その前にアマゾンに、原作「兄 -かぞくのくに」を注文した。


2018年04月04日(水) 「エマオの途上」の思い出

昨夜は40度近い熱が一晩続いた。
医師からはステントを入れた後は熱が出ることがあると聞いていたので、これは予想内のこと。

予想外だったのは、昨日のステントは左側に入れるはずだったのに右側に入っているので、黄疸の数値は下がっていない。しばらく様子を見て、左側にステントを再度入れるとのこと。
肝臓の右側の胆管はほぼ機能していないと聞いていたが、ステントの意味はあるのだそうだ。
よく分からないなぁ。
どうして左側に入れるはずのものが右側に入れられたかも。担当の外科医と、実際に手術をした内科医との考えの相違か、あるいはミスコミュニケーションなのか。
入院も1週間は伸びることなのだろう。
昨夜の高熱のせいもあってか、元気ないまま、ぼんやりテレビを見ながら過ごしていた。

そうだ、今日はまだ聖書日課も読んでなかったと読んでみると、「エマオの途上」
ルカによる福音書 24:13〜35 だった。

好きなストーリーだ。この箇所について書いたものを、HP 「たりたカーデン」にアップしていた事も思い出し、読み返してみた。

イスラエル巡礼の最終地がエマオだったこと、そこの戸外の祈りの場所で最後のミサに与り、その時、リコーダーを吹かせていただいたことも思い出した。

過去の記憶や記したものが、今の自分を元気づけるということがあるものなんだなと思う。

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2001年 4月22日の日記より

「エマオの途上」

小学校2年生の時、友だちに誘われて、教会学校に通うようになった。
そこで聞く聖書の話しや紙芝居はおもしろかった。今でも、その時に聞いた話しが頭に描いた絵と共に思い出される。
今日はわたしが教会学校でお話をする当番だった。
テキストは「エマオの途上」
幼い頃わたしが聞いて描いた絵を今度はわたしが子供達に伝える。子供達がいきいきと描けるように、その聖書のメッセージが伝わるように話せるだろうか。
そう考えながら昨晩原稿を書く。
実際に話す時は身ぶり手ぶりでおおよそ原稿どうりには行かないのだが、話すなかで、子どもたちの気持ちがきゅっと一点に集中するところが分かる。
最後のまとめはなんだか説教くさくなって(説教なのだからしかたないのだけど)子どもたちもまたかという顔してたけど、わたしもそうおもいながらも、今でも心から離れないのだから、、、。

(教会学校での話し)
目でははっきり見ているのに見えないということがあります。
体の目は見ることができても、こころの目が塞がっていると目に映っていることがほんとうには分からないのです。
ところが体の目は見えなくても、そこでおこったことが生き生きと見えることがあります。それは心の目が見えているからです。
これからお話する二人の男のひとは、ちゃんと目は見えていたのです。それなのに心の目が開いていなかったから見えていなかったのです。
さてどんなお話なのでしょう。

イエス様が十字架に架かって3日たった日のことです。二人の男の人が、エルサレムからエマオという所に向かって歩いていました。二人は暗い顔をしてなにやら深刻そうに話をしながら歩いていました。しばらくすると、別のひとりの男の人が二人の男の人達と並んで歩き始めました。その男の人は二人の男の人に尋ねました。
「何をそんなに深刻そうに話しているのですか。」
「あなたは、エルサレムに泊まっていたのに、近頃エルサレムで起こったことを知らない  というのですか。みんながそのことで大騒ぎしているのですよ。」
「知りません、教えてください。」
「イエスという人のことです。その人は言葉も行いも人々の心を動かすすぐれた預言者、神様のお使いだったのに、祭司長や議院たちはその人を十字架に架けて死刑にしてしまったのです。わたしたちはみなその方こそ、私たちを救うものだと思っていたのです。それから3日経ったのですが、今朝女婦人たちががイエスの墓に行ってみると、墓はもぬけの殻、そこに天使が現れて、『イエスは生きておられる』といったというのです。」
その男はふたりの男にこれまでの預言者のこと、聖書に書いてあることを詳しく話しはじめました。
さて2人はエマオに着きましたがその男の人はまだ先に行こうとするので、もう遅いので、家にお泊まりくださいと二人の男はさそいました。
その夜、いっしょに夕食をしようとした時、お客となった男の人が、食卓のパンをとって、お祈りをして、そのパンを裂きました。その時、二人の男の人たちは、そのお客がイエスさまだということが分かりました。心の目が開いたのです。けれども、その瞬間イエスさまの姿は消えました。

二人の男の人たちはいっしょにエマオまでの道を歩きながら話したことを思い出しました。「あの時、あの方が誰だかは分からなかったけれど、あの方が聖書のことを話すのを聞いて心が燃えたではないか。イエスさまといっしょに歩き、イエス様の話しを聞いていたのだよ。」と感激しながら話し合いました。
さて、二人の男のひとたちは「心が燃えた」と言っています。

「心が燃える」というのはどういうことなのでしょうか。
みなさんは「心が燃える」という気持ちになったことがありますか。
わたしは心が燃えるというのは、心がエネルギーでいっぱいになって、まきをたくさん入れられた暖炉のように、また燃料をたくさん補給された機械のように、元気に燃えはじめ、元気に働き始めるようになること、またうれしい気持ちでいっぱいになったり心が熱い感じになることだと思います。みんなはどんな時にそんな気持ちになるのかな。ゲームをしていて興奮している時?本やマンガに夢中になっている時?

私たちの体は食べ物や飲み物を取らないと、元気がなくなって、最後は死んでしまうっていうことは知っているよね。でも心はどうなんだろう。心だって同じようにエネルギーをもらわなければ、元気がなくなって、心の病気にだってなるんじゃないかしら。私たちが毎週教会にやってくるのは、イエスさまのお話を聞き、お祈りをし、讃美歌を歌うことで、心にエネルギーを補給するためなの。魂の御飯を食べるために、教会学校に来るのよ。毎週、魂の御飯をいただいて、こころを燃やしていましょう。


2018年04月03日(火) 誕生日のステント入れ

今日で62歳。
家族や友人たちから、おめでとうのメッセージをいただく。

3時ごろのステント挿入を待つ間、ゼンタングル 曼荼羅を一つ仕上げる、線画はカラーリングよりも集中度が増す。
きっと、瞑想の時に出ているという、シーター波が出ているのだろう。

眠っている間に手術は終わり、目が覚めたのは、病室のベッドに戻された時だった。

今回はステントは無事に入ったとの事だった。
何よりもの誕生日プレゼント。








2018年04月02日(月) 新年度はじめのクラス、無事終了!

昨夜は熱があったものの、朝は平熱。無事外出届を出すことができた。
朝早いうちに1回目の点滴を済ませてもらい、その後お風呂へ。 その後横になって一休み。

今日は11時に友人が病院まで迎えに来てくれる。おまけに、家に帰ってクラスまでゆっくりできるようにと、ポトフやかぼちゃの煮物やおにぎりを持ってきてくれる。
久々に会って話せることもうれしかった。
12時に家へ。

持ち帰ったたくさんの洗濯物を洗濯機に放り込んでから、昼食。
ポトフをいただく。美味しい!
身体に染み渡る。夢中で食べる。
これまでの見ただけで食欲をなくしてしまう病院の食事はわたしの身体のせいと思っていたが、そうじゃないんだなぁ。
じゃがいもと玉ねぎと人参と鶏肉を柔らかく時間をかけて煮た、こうした食べ物を身体が求めているんだなぁ。
かぼちゃの煮物は病院でも出てくるのに、この違いは何?と思いながら美味しくいただく。
健康な時に美味しいと感じてきた感覚とは全く違う、美味しさの感覚を病気になって知る。

これで仕事に備えてのエネルギー補給は完璧。この陽気で、瀕死状態の花達に水をやり、洗濯物を干してからお昼寝。驚くほどの深い眠りを眠り、3時半まで。
予想はしていたが、いつものように熱が出てきたが、2クラス、なんとかやれる!
教室のディスプレーをイースター用に取り替え、支度をして、子ども達を待つ。

新しいクラスの仲間と親しくなり、楽しいスタートになるよう、今日はイースター特別クラス。
イースターに関する英語の絵本を2冊読み聞かせ。春についての言葉や4月のカレンダーの読み方。
メインはイースターカード作り。
今年は2クラスとも女の子たちだけのクラスなので、こういう活動は予想通り、大いに受けた。
子ども達のやりとりや作業の様子から、いろいろなものが見えてくるのもよかった。

用意していたイースターのお菓子の詰め合わせに、自分で作った卵型の個性豊かなカードを入れて、記念の写真。

無事2クラスを終えた後、熱は38度になっていたので、しばらくベッドへ。
7時には夫が帰ってくれたので、一緒に、夕食の分までたっぷりあったポトフとかぼちゃを食べてから、消灯前までに病院へ連れてきてもらう。
明日は、内視鏡でステントを入れるため、一日絶食。
その前日に無事クラスができ、美味しい食事がいただけたことに深く感謝!


2018年04月01日(日) 復活の主日

新しい日が昇るのを窓から見た。
桜と菜の花と青空が広がる、美しい復活祭の朝だった。
これまでになく、体調がよく感じられるのは、40日間の受難の日々を終え、わたしの身体も復活の恵みをいただいているせい?

この日の聖書日課を読みながら復活主日の朝を過ごす。以前に書いた「復活の朝」という文章を探し、久々に読む。2001年の4月15日に記した日記だった。
あの時の願いに今が繋がる。
よい復活の日を迎えているのだと自覚する。

ミサの帰り、夫が、リクエストに応えて、Paulのクロワッサンサンドとイチジク入りの固いパンを買ってきてくれたので、一緒に遅いお昼。こんなに美味しいと思っていただく食事も久々の事だった。


次男夫婦とテレビ電話で話した後、午後の点滴の間、イグナチオ教会の深夜ミサのメッセージを聞く。
昨年の四月に訪れた、イエスの墓の後に立てられた聖墳墓教会、そして 復活のイエスが弟子たちを待っていたガリラヤ湖が目の前に広がった。



墓にイエスはおられない。
復活のイエスはガリラヤで弟子たちと出会う
わたしたちのガリラヤとは、私たちが、日々過ごす、日常の生活空間。
わたしにとってのガリラヤは今はこの病室の一角。
かつて、雲を掴むように手応えのなかった復活の出来事が、今はわたしの今という時間の中に存在するということの幸い。

聖イグナチオ教会教会 復活祭徹夜ミサ のメッセージ
英神父


***

復活の朝 (2001年4月15日の日記より)


十字架の上で処刑されたイエスの体は、数人の弟子たちによって、十字架から下ろされ、香料を入れられ、亜麻布でくるまれ、その近くにあった園の真新しい墓に葬られた。十字架の上での壮絶な闘いが終わり、イエスが去った。すべてが終わった。その時、それまでイエスと共に寝起きし、イエスをのみ頼りにしていた弟子たちの胸の内はどのようなものだっただろう。信じてきたものがガラガラと音を立てて崩れていったのだろうか。神の子としてではなく、ひとりの人としてイエスを愛してきた者はその人を失った激しい悲しみの中に、あるいは喪失感の中にあったのだろうか。しかし、聖書を読む限り、誰ひとりとして、イエスに再び会えるなど、思ってもみなかったことがうかがえる。ころが、3日目の朝、まだ暗い内に、イエスの墓に行ったマグラダのマリアは墓の石がとりのぞいてあるの見る。イエスの死体まで取り去られたことに彼女は取り乱したことだろう。私だったら叫ぶだろう。ののしるだろう。激しい喪失感の襲われることだろう。しかし、イエスはそこにいた。死んだものとしてではなく、蘇った存在として。はじめマリアはそれがイエスであることに気づかずに泣きながら訴えた。「もしあなたが、あの方を移したのでしたら、どこへ置いたのか、どうぞおっしゃって下さい。わたしがその方を引き取ります。」その時、イエスはひとこと「マリヤよ」と言った。マリアはその声に胸を突かれてふり返り、「ラボニ(先生)」と叫ぶ。
子どもの頃から、イースターの話しは不思議な話しだった。イエスは死んだのに3日後に生き返ったというのだから。不思議ではあったけれど、ファンタジーの世界に日々生きている子どもの頃にはすてきな話しには違いなかった。思春期のころイースターの箇所で心にとまったのはこの「マリヤよ」と声をかけるイエスと、振り返って「ラボニ」と叫ぶという、この場面(ヨハネによる福音書20章)だった。聖書にはマリアが叫んだとは書いていない、しかしわたしにはマリアの叫びが聞こえたしその時のイエスの深い眼差しもマリアの絶望が歓喜へと変わる嵐のようなその時の想いが見えた。十字架のことも復活のことも聖書はどこも、かすみがかかったようにおぼろげにしか見えないが、ある時ある瞬間に、その場面が強烈な真実を伴って見え、刻印を押されたように心に焼き付くことがある。 ここしばらく、そのような聖書からの働きかけがないまま、文字だけを追ってきたような気がする。眠っていたのだ。今年はもっと生々しく魂が動くだろうか。
復活の日








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