たりたの日記
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この日の復活徹夜祭で、大阪に住む次男一家がカトリック教会の洗礼を受けた。 次男は中学1年の時、ルーテル教会で受洗し、ダビデという洗礼名をいただいていたので、その名前のまま。 義娘のゆうちゃんは アッシジのクララ、 孫のそうちゃんは、アッシジのフランチェスコを洗礼名に。 洗礼名どうしようと相談を受けた時にピン!ときた聖人たち。 愛と平和を生きた、誠のキリストの弟子たち。 次男たちファミリーの成長とこれからの歩みへの祈りを込めて。
プロテスタントの時には馴染みがなかったが、この復活徹夜祭の中で、キリスト教入信式(洗礼、堅信、聖体)が行われていたことが2世紀ころに書かれた書から知られているというから、ずいぶん古い歴史を持つ儀式のようだ。
復活祭徹夜ミサというものを初めて体験したのは2015年4月5日の復活祭のこと。 その時の日記を開いてみようとしたが、この年、1月から7月までの日記が空白になっている。 あの印象深い体験のことすら記してなかったのだ。FBを辿って、写真を見つけた。
聖グレゴリオ聖歌の家では中世からの典礼を忠実に守ってきているので、人々は深夜に聖堂に集まり、ミサは午前4時から始まった。
まずは光の祭儀。
一同は、聖堂の外に準備された火のそばに集まり、司祭は火を祝福し、その日の中で何枚もの紙の束が燃やされた。それは、11月の死者のためのミサの中で祈祷を捧げられた方々の名前が書かれたもの。 その後、この火で司祭は復活ローソクに火をともし、 Lumen Christi! (キリストの光)と宣言し、 一同が Deo gratias. ( 神に感謝) と唱和し、暗闇の中を進み、聖堂へと導かれた。 火と光は復活されたキリストのシンボル。
このミサに参加するために、終電前の電車で東久留米まで行き、タクシーでグレゴリオの家へ行ったのだった。深夜2時ごろリハーサルのためにみなが聖堂に集まるまでの時間、談話室兼食堂で静かに過ごす。わたしの他に聖歌隊のメンバーの方が一人、わたしのように、この儀式に参加するために遠方からの来客が一人いた。この時間帯はイエスが黄泉に下っている時間、話などしないのだろう。
2時ごろからのリハーサルから夜が明け始めるまでの間、美しいグレゴリオ聖歌に包まれ、至福の時を過ごした。徹夜ができる体力もあった時のこと。
また是非来年もと思いながら、ここ3年は病気を得、願いの叶わないままイースターを迎えてきた。 もし、また健康が与えられるなら、聖木曜日から日曜日までの時を、毎晩、その夜のミサに参加、この場で過ごしてみたいものだと、徹夜祭で歌われるグレゴリオ聖歌を聴きながら眠りについた。
2018年03月30日(金) |
聖金曜日 の「十字架賛歌」 |
聖金曜日、主の受難の夕べ、十字架の礼拝の最後に歌われる「十字架賛歌」は好きな歌だ。この日のための歌なので、いつも歌うという訳にはうかないのだろうが、この旋律はすっかり頭に染み付いているので、時折勝手に出てくる。ラテン語の歌詞も一緒に出てくればよいのに、こちらはあやふやだ。 そういうわけで、今日は、この曲を繰り返し聴きながらイエスの十字架のできごとを思いつつ瞑想カラーリングをした。 夕食前、38度近く熱があり、ほぼ食事も喉を通らなかったのだが、カラーリングに集中しているうちに熱が下がり、いつものように8時過ぎに夫が病室を訪ねてくれた時には、曼荼羅も仕上がった。
♫十字架賛歌
気高い十字架の木、 すべてに勝るとうとい木 その葉、その花、その実り、 いずこの森にも見られない、 麗しい幹、幸いなくぎ、 とうといからだをになった木。
アマゾンミュージックに入っていらっしゃる方は無料で聴くことができるので、ここにご紹介しておこう。
Amazon Musicにあるゴデハルト・ヨッピヒ & 聖グレゴリオの家聖歌隊の聖金曜日- 主の受難: [交唱] 主の十字架をを紹介します https://music.amazon.co.jp/albums/B0183LY300?do=play&trackAsin=B0183LZS7M&ref=dm_sh_nFZOep6Chkj6bdqekX0j1AhjT
十字架賛歌
歌詞の方はサイトで見つけた、国本静三司祭の訳がラテン語とリンクしていて意味が取りやすいので、こちらを参考に。 ↓ 国本静三司祭による解説と訳
今日は「聖木曜日」聖なる三日間の初日。 「洗足木曜日」とも呼ばれる。
ニュージャージーに住んでいたころに通っていたグッド・シェパード・ルーテル教会での、洗足木曜日の礼拝を思い出す。
夜の礼拝堂、祭壇前には、様々な人種と思わしき人たちが12人集められていて、東洋人は私たちの家族だけだったからか、わたしもその12人の中にいた。
スペンサー牧師は聖書のイエスのように、腰に布を巻きつけ、たらいのようなものを抱え、一人一人の前にひざまづき、順番に足を洗っていった。あの聖書のイエスの行為をここで再現するのか!とようやく分かったが、 はじめは、そもそも何のために前に呼ばれたのか分からないままでいたから、洗足の儀式が始まった時には、それこそ、イエスの弟子のように恐れおのき、「もったいない!先生、わたしの足なんて洗わないでください」と心の中でつぶやいていた。
この教会のメンバーであった数年間は、わたし達家族は全くのマイノリティーで、コミュニケーション力に関しては明らかにハンディキャッパーであった。だから、それ故にメンバーの人たちの配慮や愛情や手助けがふんだんに我々に注がれ、それを身に染みて感じていた。 目が合った時の微笑みひとつで、帰り際の挨拶ひとつで、愛は十分に伝わってきた。あなた方を受け入れていますよ。歓迎していますよと、言葉を超えて届くものがあった。あのたくさんのメンバーの方々のお名前は忘れてしまっても、あの方々の微笑みを忘れることはできない。 ♫「愛がまことであるところ、そこに神はおられる」
昨夜は高熱が出てまた寝苦しい夜を過ごしたが朝は下がっていた。お腹の具合もまずまずだが、今日のわたしのタスクは、遅い午後に内視鏡を口から挿入し、ステントを入れていただくこと。そのため、朝食、昼食抜きで24時間点滴につながれていた。
点滴に繋がれてながらではあったけど、瞑想カラーリングに没頭した。不安な内視鏡(以前、とても苦しくて、手術より大変だったと思ったので)を待つ間、平和に過ごすことができて感謝だった。 結局、普通の内視鏡ではうまくステントを入れられないことが分かり、来週、バルーン内視鏡で再挑戦ということ。これでだめな時は、脇腹から外に管を出すのだそうだ。これは何とか避けたいなぁ。退院も伸びるけど仕方ない、腹をくくろう。
さて、瞑想カラーリングのテーマは ♫ Ubi caritas est vera (愛がまことであるところ、そこに神はおられる) を口ずさみながら。
この歌は聖木曜日のミサの中で歌われる奉納時の交唱 の冒頭の部分。 イタリアの無名作者による、とても素朴なグレゴリオ聖歌。好きな歌だ。 youtubeで聴くことができることがありがたい。 ↓ Ubi caritas est vera
歌詞はこのとおり ↓ 愛がまことであるところ、そこに神はおられる
唱句:キリストの愛はわたしたちをひとつに結ばれた
唱句:キリストにおいて喜び歌おう
唱句:生きている神を畏れ、愛そう
唱句:そして真心こめて互いに愛し合おう。
愛がまことであるところ、そこに神はおられる
唱句:それゆえ私たちは、皆が一緒にひとつに結ばれた。
唱句:私たちが意識において離れ離れにならないように用心しよう。
唱句:そうすれば不毛な口論は止み、諍いはなくなる。
↓ 聖木曜日 聖書日課
2018年03月28日(水) |
「奇跡のコース」を終了した日 |
1年にわたる霊的学び、「奇跡のコース」、 今日、レッスン365回とエピローグまでを学び終えた。
このコースはどのようなものであったか、
わたしにとっては、 どのようにして心の平和を得ることができるかという、そのための学びだった。 それがわたしに必要だと思ったし、 欲したから、やってきた学びだった。
心の平和を得ることができるようにするための、様々な角度からのレッスン、トレーニングが、1年間、毎日課題として与えられた。 もともとの言語は英語なので、翻訳文と合わせて、原文も読み、ポイントになるところをノートに書き出したりして。
レッスンを重ねていく内に、薄皮が一枚一枚剥がれていくように、心の明度が高くなり、 心の平和の揺らぎ度も少なくなっていくのが自覚できた。
わたしが求めてきた、日常に在りながら永遠と常に触れているそういう歩み、そういう道筋が整えられていったのだと思う。
この一年を振り返ってみれば、 この学びと並行して、聖書日課、ヴィパサーナ瞑想、聖イグナチオの霊操、様々な霊的書物、ネットでの英神父の黙想や霊操に関する学び、橋本先生のグレゴリオ聖歌特別講座、小説、映画、人との繋がりやできごとなど、あらゆることが、あたかも副教材や宿題のようにやってきては、この学びを豊かにし、深めてくれたように思う。 この学びをスタートした時期と、胆管癌の再発が分かった時が同時期だったので、癌の進行に伴い、身体に起こることや想いのあれやこれやもまた、トレーニングに大きくかかわったといえる。
この学びのエピローグは 「このコースははじまりであって、終わりではありません。」という言葉から始まる。
これからはじまることを、わくわくする気持ちで見つめながら、また新たな1年を始めよう。 4月1日はイースター 4月3日は62歳の誕生日 4月4日は英語教室の新年度はじまり 4月はわたしにとっての1年のはじまりの時
2018年03月27日(火) |
病室抜け出し最後の授業 |
今日、受難の火曜日。 わたしの本日の受難は早朝からの下痢のようだ。 でも、熱が2日間出ていないので、午後から夜までの外出許可は何とかもらえた。
今年度最後のクラスがまだ2クラスだけ残っていたのだ。 入院が決まって、まず気がかりだったのは、この最後のクラスと、4月4日の新年度スタートのクラスのことだった。
今回の点滴は1日2回なので、朝と夜に受けるようにすれば午後はここにいなくてもよいはず、よし、病室を抜け出して仕事しようと。
幸い夫が午後から休みを取ってくれたので、ごろごろお腹でも、移動は乗り切れる。 クラスまでの時間は寝て、4時から6時半までのクラス、無事に終える事ができた。今日が最後になる生徒も3人いたから、キャンセルしなくて、なんと良かったこと。ハロウィンの時の写真を写真立てに入れたプレゼントも手渡すことができた。
もうひとつ良かった事、秋に植えたチューリップが咲いた様子を見ることができたこと。 寒い冬の間、チューリップや他の花々が咲き誇る庭の様子を思い描いてきたのだから。 今年も大雪にも負けず、よく咲いたね。えらいよ!
病院へ戻る前、うどん屋さんで、野菜ほうとうを食べたけれど、少ししか食べられない。でも、大きなかぼちゃは嬉しかった。
昼間のチューリップは真っ赤だったのに、翌朝送ってもらったチューリップは ピンク色、不思議。
1月に幼馴染みたちが抱えてきてくれた、新種のヴィオラの鉢も、花で溢れていた。
今日は教会暦では聖週間の始まり、受難の月曜日なので、こういうタイトルにしたわけで、わたしに受難が及んだというわけではない。 しかし、まあ、耐えるべき事はなかったとも言えない。
朝食は取らないという健康法をここでも続けているので、この朝も、人参・フルーツジュースのみだった。ところがMRIの撮影があり、それまでは食事を摂らないようにという指示で昼食はいただけないまま、なかなか検査に呼ばれず、ようやく検査が終了したのは午後5時で、ようやく午後6時に夕食。つまり昨夜6時の夕食時から24時間の断食となった。 まあ、これも受難週に相応しい事であるかもしれない。
こういう時、曼荼羅カラーリングは、とてもよい。今日の聖書日課の1、「イザヤの預言」の24章より、2節と3節をテーマに瞑想しながら。
彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。 傷ついた葦を折ることなく 暗くなってゆく灯心を消すことなく 裁きを導き出して、確かなものとする。
この部分は、子どもの頃の日曜学校の交読文の中にあり、礼拝の中で時々 声に出してみんなで読んだ。 子ども心に格調が高く、美しい言葉だなと、声に出して読む事に喜びを覚えていた。 あの頃、今よりもよほど、聖書の言葉をまるごと味わえていたのかもしれない。今だに子どもの頃の出会いに支えられているような気になる。そんなことにも頭を巡らしつつ。
2018年03月25日(日) |
入院2日目 枝の主日の 桜もなか |
昨夜の高熱も、朝には下がっていた。 明けない夜はないといつも思う。
今日はお天気に恵まれた枝の主日だ。 教会の中庭にはたくさんの人達が棕櫚の枝を手に、聖堂へ向かって歩いていることだろう。 病室の窓からもあちこちに桜が咲き出しているのが分かる。今日は絶好のお花見日和だ。
四谷のミサの帰り、夫が棕櫚の葉を手に病室へ立ち寄ってくれた。 今日は夫の誕生日でもある。 そうだ、お花見! 以前、友人が送ってくれた中川政七商店の「桜もなか」をお花見用に取っておいた。しかもちゃっかり病室に持ち込んでいた! なんと用意のよいこと。
ポットにお茶と紙コップも持って、こっそり病院をぬけ出して、窓から見えていた桜の並木道を散歩する。 少し先にちょうどよくベンチもあった。 ベンチのそばには植えたばかりの濃いピンク色の桜の木があり、どなたかの結婚記念日の記念樹だった。そういうドネイションで桜を沢山にしていこうというプロジェクト、よい考え。 お茶と「桜もなか」で、誕生日祝いとお花見。 レストランでのお食事より、記憶に残るだろうなと思う。
午前中は枝の主日のグレゴリオ聖歌を聞きながら、心の中で歌い、ひとりミサ。 聖イグナチオの「霊操」も。
お花見の後は曼荼羅カラーリング。 テーマは 「奇跡のコース」レッスン361。 後4日で、この1年の学びが終了する。 聖イグナチオの霊操とはもちろん異なるけれど、わたしにとっては良い霊的エクソサイズだった。 詳しくは、また後に書くこととしよう。
夜は特別にテレビを観ることに。 大河ドラマ 「西郷どん」とそれに続く、「人体の神秘」 「 人体の神秘」最終回のテーマは 癌と心臓病。 身体のそれぞれの臓器がコミュニケーションのための伝達物質を出し合っているという、それまでの番組にも驚いていたが、癌細胞そのものが、他の臓器に、伝達カプセルのようなものを送り込み、たくみに自分のための血管を作らせたり、免疫物質の攻撃を阻止したりする様子を目の当たりにして驚いた。これならば、そこの部分だけ切り取ったり、抗がん剤や放射線で退治しようしても限界がある。身体全体へのアプローチが、やはり必要なのだ。まさにホリスティックなアプローチ。運動や、食べ物、身体全体の免疫力を高める、ありとあらゆるアプローチには意味があると思う。多くの医師がこの番組を見て、教科書で学んだことや、マニュアルのみに頼ることに、疑問を持ってほしいなぁなどと考えていた。 明日の朝はまずヨガと呼吸法から始めよう。
夜、熱は少し高くなりはしたが、氷枕のおかげで気持ちよく眠ることができた。
木曜日はは何とか無事にクラス終えることができた。特製バジルソースのパスタとピザーラのピザでパーティーも。
熱はまだ出たり入ったりを続けているので、翌日、帯津病院へ行ったら、胆汁の鬱滞が進んでいて、ステントを入れる必要がありそうだからと、担当医にお手紙を書いて下さる。その足でメディカルへ。 担当医は不在だったので、別の医師から診察を受ける。造影剤CTの検査の結果、熱は胆管炎によるもので、胆管が閉塞寸前なので、なんらかの処置をしなくてはならず、24日から2、3週間の入院となる見込み。今度は長丁場になるので、昨日は一旦、支度に帰宅させてもらったのだった。
病室の窓からは満開の桜が美しい。 黙想の日々、第2弾ということになるかな。 霊操関連の本も、ゼンタングル や曼荼羅カラーリングなどのメディテーショングッズも揃っている。
夜は40度近くまで熱が上がったので、このタイミングで、入院したのは正解だった。 寝苦しい夜の間は短いフレーズの祈りの言葉を繰り返し唱える事で、慰めを得る。
「あなたの傷のうちにわたしを包んでください」
聖イグナチオの「アニマ・クリスティ」という祈りからとったもの。 明日は 枝の主日(受難主日) そして1週間の聖週間が続く。 主の受難を覚えて過ごすには最適な環境であるかも知れない。 主に感謝!
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キリストに向かう祈り(アニマ・クリスティ) 聖イグナチオ
キリストの魂、わたしを聖化し、 キリストのおん体、わたしを救い、 キリストのおん血、わたしを酔わせ、 キリストのわき腹から流れ出た水、わたしを清め、 キリストの受難、わたしを強めてください。 いつくしみ深いイエスよ、 わたしの祈りを聴き入れてください。 あなたの傷のうちにわたしを包み、 あなたから離れることのないようにしてください。 悪魔のわなからわたしを守り、 臨終の時にわたしを招き、 みもとに引き寄せてください。 すべての聖人とともに、いつまでもあなたを ほめたたえることができますように。 アーメン
月曜日のマイクロ波治療の後から、発熱が続いている。 本の事や、いろいろ、書きたいテーマは頭の中で動いていても、それを文書にするエネルギーがない。 と、いうより、学年末最後のクラスを何とか良いものにするべく、極力エネルギーをセーブしているのだろう。 今日はクラスの前になっても熱が下がらず、38・5度のままクラス。不思議なほど、声も出るし、気力もある。2クラスとも、満足のいく最後のクラスとなった。明日は中学生5人との最後のクラス。高熱でもやれる事が分かったから、大丈夫。 でも、これはわたしの力じゃないな。神さまからのサポートだな。 とにかく、学年度の最後までクラスを続けられた事に深く感謝。
昨日は帯津先生の診察日だった。 この1ヶ月の腹痛と頻繁な熱発の事を相談したところ、今まで飲んできた生薬とサプリメントに加え、発熱と腹痛を改善する漢方薬を処方してもらえた。 今回の漢方薬は生薬ではなく、ツムラ の顆粒状のもので、こちらは保険の適応となるので、経済的にありがたい。
それにしても、漢方薬について何の知識もないわたしは、知らない薬ばかりで、ひとつひとつの植物の持つ力に驚きを覚え、もっと知りたいと思う。ハーブやエッセンシャルオイルの効果は経験してきたので、日々生薬を時間をかけて煎じ、飲んでいると、植物のエネルギーが身体を助けてくれているという力強い気持ちになる。
さて今日から仲間に加わった漢方薬は 茵蔯五苓散(インチンゴレイサン) と桂枝加芍薬湯(ケイシカシャクヤクトウ)
茵蔯五苓散(インチンゴレイサン)は キク科のカワラヨモギの蕾または頭花を乾燥したもので、消炎、利尿、解熱、利胆などの効能があり、黄疸、尿量減少、湿疹などに用いられている茵蔯蒿(インチンコウ)を 沢瀉(タクシャ)、 蒼朮(ソウジュツ)、 猪苓(チョレイ)、 茯苓(ブクリョウ)、、 桂皮(ケイヒ)からなる五苓散(ごれいさん)に加えたもの。 五苓散は 体力に関わらず使用でき、のどが渇いて尿量が少ないもので、めまい、はきけ、嘔吐、腹痛、頭痛、むくみなどのいずれかを伴うものに処方されるようだ。
桂枝加芍薬湯(ケイシカシャクヤクトウ)は体を温めて緊張をほぐす働きがあり、 中国・漢代の医学書『傷寒論(しょうかんろん)』に掲載されている古くからの漢方薬のひとつとある。虚弱体質で、腹部膨満感があり、ふだんから胃腸が弱い人の下痢や便秘などに用いられる薬で、過敏性腸症候群の下痢や便秘に用いられるようだ。
配合生薬は 芍薬(シャクヤク)、桂皮(ケイヒ)、大棗(タイソウ)、甘草(カンゾウ)、生姜(ショウキョウ)
桂枝湯(けいしとう)は 主にかぜの初期に用いられる漢方薬だが、「葛根湯(かっこんとう)」と違い、体力がなかったり、胃腸が弱かったり、高齢者に向く薬で、頭痛、寒気、発熱(主に微熱)、のぼせ、軽いうなじのこわばりや体の痛みなどの症状があり、皮膚が自然に汗ばむときにも用いられるようだ。
シャクヤク(芍薬)は、ボタン科のシャクヤクの根を乾燥したもので、漢方的には、補血、止痛の効能があり、血虚(血の不足状態)、腹痛、筋肉痛、痙攣痛などに用いられるとある。
この2種類の漢方薬のどちらにも、発熱に関する効果と、腹痛に関する効果があることが分かった。 こうやって、ひとつひとつの植物とよりお近づきになることで、信頼度も増してくる。 今は四旬節なので、熱発や腹痛はイエスの受難を共に担うという意味で、受け止めているが、イースターの数日前までにはなんとか大阪に行けるよう体調が整えられるようにと勝手なお祈りをしている。
2018年03月16日(金) |
映画「アリスのままで」と 「君に読む物語」を見ながら |
この2日間に家で観た映画、「アリスのままで」と「君に読む物語」はどちらもアルツハイマーや認知症をテーマにしたものだった。 今まで避けてきたテーマだったが、自分の父の事や父と家族とのかかわりの事など、過去の振り返りや気づきに加え、その当事者にもなり得る我が身についても思いを巡らす機会となった。
土に還る前に、生きたままで、貧しい存在となっていく人々を、そして自分の家族や自分自身をどう受け止めるのか、これまで漠然とした言葉にならなかった思いが少しはっきりしてきたように感じた。貧しい人として、その全部を神に抱きかかえられ、神の国へと迎えられている人達の尊さ。 様々な葛藤や困難の中で、それぞれが辛い思いをしながらも、それを通して霊的に育てていただく。 「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」 (マタイによる福音書5章3節)
60歳を迎える頃、アルツハイマーと診断され、記憶を失い、知性や能力を失い、人との関係も失っていった父。当時、アルツハイマーは5年ほどの内に死を迎えると言われたが、それでも父は83歳までは生き、母が亡くなって8ヶ月に他界した。まるで、母の一生に無事見届けたとでもいうように。
帰省の度に父の施設に通っていた時、わたしが誰かも分からなくなり、何の言葉も発しない、父の側にいた時、その空間が不思議な安らぎに満ちていた事を思い出す。身体はこの世に残しながらも、魂は天上の方々と交流しているのではないかしらと思ったことも。
さて、これをプチ断食と称してよいのかどうかは分からないが、昨日、日記に宣言したように 朝食、昼食は飲み物だけで、食事は夕食だけというのを実行してみた。ここ数日間続いていた腹痛は今日はなく、また空腹でたまらないという感じでもなかった。読書や仕事の準備はむしろより集中できたかも知れない。
熱は、6時半から8時半までのクラスが終わって、のんびりしている時に、37・5度ほどに上がったくらいですんだ。体重は昨夜の44・4から44・8に上がっているほど。ま、これは腹水がまた少し溜まってきたことによるのかも知れないが。
様々な断食道場やファスティングのプログラムがあるが、わたしが参考にしているのは 石原結實医師の方法、「食べない健康法」などの著書で知られているが、その人の状況に応じて、朝だけ断食、朝と昼断食、夜だけ断食と決めてよく、極端な糖質制限もないので、血糖値が下がってるなと感じる時は黒砂糖入りの生姜紅茶を飲んだり、黒砂糖を口にできるので、わたしとしてはストレスもない。ずっと続けるとも思っていないが、お腹の調子が良くなるまでは続けたいところ。
今後の参考のために、今日の食事を記しておこう。 朝、人参・りんごジュース 400cc 昼、玄米スープ 400cc 夜、お粥 茶碗1杯 、 ナス、ピーマン、キャベツ、人参、豚肉の味噌炒め クラスのティータイムに、小さなバームクーヘンと、クッキー1枚 食間には 黒砂糖入り生姜紅茶、小豆糀のおしるこ、R1ドリンクヨーグルト
石原結實オフィシャルサイト
胆管癌の再発が見つかってからちょうど1年が経った。 その当時からすると、癌も進行しており、度々起こる発熱や消化器官のトラブルで、身体能力は明らかに低下しており、活動にも障害があるが、あの時、示された平均余命の11・7ヶ月はクリアできた。何の根拠があるわけでもないが、また元のように生活できるのではないかという気さえしてる。 「8月完治」は家族との合言葉のようにもなっている。 霊的なサポート、祈りのサポート、様々人たちからの目に見える、あるいは見えないサポートがこの1年を支えてくれた。 深く感謝。
ここのところの身体の具合はというと、あまり良いとは言えない。一昨日の夜から朝にかけて40度近い熱、昨夜も夜中に38・5度、今日の日中は37度台だったが、夜にはもっと上がるかもしれない。お腹の具合もよくなったり悪くなったりを繰り返している。
けれど、病院に行けば、まずは様々な検査に始まり、抗生剤の点滴に繋がれ、最低1週間の入院となることだろう。けれど今まで3回の発熱による入院で感染が陽性であった事はない。全てが、「もしも」のための処置なのだ。
今はもう抗がん剤も使っておらず、白血球の数値もそれほど低くはない。漢方薬やサプリメントで免疫力は高められているはず。 この熱は、身体が熱を出し体温を高める事で癌細胞を死滅させるべく闘っている、そのための熱ではないかと思う。今度は自分の直感を信じようと思う。
腹痛に関しては、改善するまでは、一日一食(その他の食事は人参ジュースや玄米スープ、生姜紅茶、マヌカハニー、小豆麹や甘糀などに置き換えて)を徹底するのが良いように思う。時期は四旬節でもあることだし。
行動に関しては、熱がある間は無理して外出はしない。できるだけ省エネで。
2018年03月13日(火) |
エッセイ集「育つ日々」のこと |
ここ数ヶ月、やたらと夢に父と母が登場する。わたしは必ずしも子どもというわけでもないのだが、その空間に父がいたり、母がいたりして、なんらかのやりとりがあるのだ。 確執があるわけでもなく、かといってセンチメンタルな感情があるわけでもなく、それが当たり前という感じで生活の中に父と母がいるという感じ。もうこの世にいない両親が、いちばん元気な時の様子で現れ、そしてそれがとてもリアルなのだ。夢の中で、わたしが育った日々のことを追体験しているのだろうが、どういう訳でそういう夢を見るのか、その理由はさっぱり分からない。 そんな事もあってか、以前に書いたエッセイ集を久々に読んでみる気になった。
この「たりたの日記」を始めて、3年目の2004年、それまでに書いてきたことを元にして「育つ日々」というエッセイ集をあるオンデマンドの出版社から出してもらった。 一部はわたしの父の子育てのこと。二部はわたしの子育てにまつわるあれやこれや。
この出版社からは必要なだけいつでも印刷してもらえるということになっていたが、この会社が営業を中止したため、版権も戻ってきた。原稿のやりとりは全てメールで行なったので、最終的に本の形になったデータも手元に残ったという訳。
手持ちの本も後、後5冊ほどしかないので、電子書籍としてアップすることにした。以前一度アップし、ここでもお知らせしたのだが、サーバーの関係で、いつの間にかアクセスできない状態になっていた。 それで、数日前、夫にたのんで、新たにネット上で読めるような形にしてもらったところ。
先日、この本をスマホで読んでいて、思わず笑ってしまったら、自分が書いたものを読んで笑ってるよと、夫からからかわれた。
この日記は1日に のべ200くらいのアクセス数があり、70名ほどの方々が日々お訪ねくださっているようだ。その中には、この本の事をご存知ない方も多いのではと思い、ここに紹介することにした。 お読みいただければ、そしてクスクス笑っていただければうれしい。 ↓ 「育つ日々」
http://grv.daa.jp/taritakumi/sodatuhibi.pdf
2018年03月12日(月) |
被災地を訪ねた時のこと |
ようやく、震災後の東北に出かけたのは、震災後2年目を迎えようとする2013年の1月だった。 短い期間だったが、石巻のカリタスジャパンのボランティア、南相馬市の学童保育の子ども達と過ごし、岩手と仙台の友人に会い、石巻に住み込み、ボランティア活動をしている文学仲間に会った。あの時、今後の身の振り方の事で彼女から相談を受けた事だったが、彼女は今、当時のボランティア仲間と結婚して石巻に住み、3人の娘の母親となっている。 石巻のカリタスジャパンは今もボランティア活動の拠点としてその役割を果たしているようだ。 7年の年月、それぞれのドラマ。 あの時は、度々、この地へ行こうと思っていたのに、行かないままで時が過ぎてしまった。
あの時の出会いも再会も、わたしにとって、とても大きな出来事だったことを、日記を読み返してながら確認する。 ↓
2013年1月の日記
7年前の3月11日の日記を開いてみた。この日記はその日から何日も経過して書いたものだが、その時の表面的な事は書いていても、私の内面に起こった事には一言も触れてはいなかった。
あの時、私自身の存在に対してひとつの大きな気づきが起こったこと。 今、思えば、その事が大きなターニングポイントになった事が見えてくる。
あの日、私は自宅に居たのではなかった。冬場の通勤が辛いという理由で12月11日から3月11日日までの3ヶ月間、職場の近くの家具付き簡易マンション、レオパスに寝起きし、そこから職場に通うという生活をしていた。 それなので、3月11日はそこレオパスを引き払い、自宅に戻る日だった。
幸い、職場の仕事が休みになっていたので、朝からダンボール5〜6箱に身の回りの物を詰め込み、午後、宅配便に集荷に来てもらい、私は電車で自宅に帰るという算段だった。 ところが、荷物を詰めている最中に激しい揺れが何度も起こり、危険を感じて外に出る、出てはまた部屋に戻り荷物を詰めるという具合だった。何が起きたかは分からない。引っ越しなのだから、とうぜをテレビをつけるゆとりもなく荷物を詰め終わる。 ところが今度は、何度電話しても宅配便屋と繋がらない。
テレビをつけてみると、東北でとんでもない地震が起こっていて、首都圏の交通機関も止まっていることが分かる。今日の引っ越しは無理だと気づき、とにかく食料を確保にコンビニに走る。品物はもう残り少なくなっているという状況だった。
一旦は封をしたダンボールを開け、衣類や寝具などを取り出す。 テレビに映し出されるのは物凄い勢いで海へと流される家や車。その中にいる人達も流されているのだ。 この世の終わり? わたしの罪のために? この場所も、地震ですっかり破壊されてしまう? そんな事が頭の中を駆け巡ったが、その後、頭は思考を停止し、ただほおけたようにテレビの画面を見ていた。そこから目を離すことはできず、けれど、何の行動も起こせず、腰が抜けたように座わり込んで。
その時に起こった心の動きをその後繰り返し思い起こしてきた。 それはこんなこと。
その津波に飲まれ、流されてる家や人をみながら、どうして、あの場にわたしがいないのだろう。 わたしこそ、流されてしかるべきなのに。 いえ、むしろ、一息に大きな波に飲み込まれてしまいたいのに。 そう思っていたこと。
その心の動きを、別のわたしが見ていて、わたし自身の内面はかなり危機的な状態にあるなと感じたことも。 深いところで、生きる喜びやエネルギーを失っているという魂の状態に改めて気づいていた。
後で、黙想や霊操について学ぶようになった時、それが 霊的荒み(すさみ)の状態で、わたしはそれと気づかないまま、いえ気づきながらも、それに抗えないままに荒みの状態に絡みとられていたのだと理解する。
あの時のわたし、今のわたしに比べれば、えらく健康で、山登りもダンスもできていた。フルタイムのやり甲斐のある仕事を得て、夫の扶養からも独立して生活できる見通しも立つように思われた。それなのに、今、わたしが得ているような霊的慰めは、そこにはなかった。 よい同僚や、自分を生かせる場所に恵まれていたというのに、表面的には何の不足もなかっのに、深いところで、大切なものから切り離されて宙に浮いているような魂を抱えていたのだ。
翌朝、夫が車でレオパスまで運転してきてくれ、ダンボールと共にわたしも無事、家に戻った。
それからは、東北の災害にも、自分の霊的荒みにも立ち止まって見つめるゆとりのないまま、息つく間もなく、波乱万丈が続いた。
3月末、母が入院し、帰省し、新学期が始まるまで大分へ。 5月、母の容態が益々悪くなり、1ヶ月の介護休暇を取り、病院のそばのビジネスホテルに泊まり、日中は母のそばに。 6月、母の死、葬儀、 7月〜8月 、四十九日の法事と初盆 10月、乳がんが見つかる 12月、乳がんの手術
と、こんな具合に。
霊的荒みから脱出できたのは、皮肉にも、乳がんという病を得た事がきっかけになったような気がする。
あの時、津波に飲み込まれてしまった人達と一緒に、わたしの何かも飲み込まれ、流され、魂は巡礼の方向へと歩みを進めていったように思う。
この7年間、 乳がんの手術の後、父の死、フランス巡礼ひとり旅、テゼの集会のリード、数日間だったが、東北のボランティアに。 その後、胆管がん、そしてその再発、イスラエル巡礼、カトリック教会への改宗。 ある意味、「巡礼」を続けてきたような感覚がある。その一歩、一歩が、霊的回復を助けてくれたのだろう。 山登りをする体力もなく、仕事も最低限のところまで縮小し、自立どころか、寝てばかりで、全面的に夫のサポートの元で暮らしていて、教会の奉仕すら何もできないのに、今は霊的恵みの時と感じている。 そんな明るい平安さに包まれている。 不思議なものだ。
震災から7年後の今日、ミサに与り、祈りを共にし、震災の特集番組を見ながら、そんなことを考えていた。
この日の説教ライブ ↓ 「それでも光にむかって」イグナチオ教会 英隆一朗神父
http://hanafusa-fukuin.com/archives/1918
2018年03月10日(土) |
高橋たか子 「 過ぎ行く人たち」を読む |
高橋たか子の晩年の日記「終わりの日々」は、高橋が2013年7月12日に心不全で他界した後、同じ年の12月25日に出版されている。 2006年から2010年までの日記だ。それ以降は何も書かなくなったというから、彼女が終わりの日々に残していった言葉となるのだろう。
彼女の作品を初期のものから、ほぼもらさず読んできて、また収集もしてきたのだから、当然、この本も購入したのだが、付箋をあちらこちらに貼り付けながらも、真ん中あたりまできたところで、読むことをやめ、そのままになっていた。
彼女が書こうとしている作品の事や、これまでに訪ねた場所の事、彼女の深層にある事柄など興味深く読みつつも、日記の中に、最近の日本への、特に女性への嫌悪と、それと比較したフランスへの絶賛や渇望といった類のものが繰り返し出てきて、彼女の怒りや嘆きを聴くのに辛いものがあったのだ。 老いる事で見えてくる事も確かにあるが、その一方でしなやかさを失い、頑なになってゆく老いの宿命を彼女の中にも見るようで。
ところが、数日前、この本がふと目に留まり、残りの部分もきちんと読んでおかなければと思った。相変わらず、ネガティブな嘆きは繰り返えされているが、彼女が翻訳しようとしている本の事や、最後に書いた小説の原稿が女子パウロ会から「過ぎ行く人たち」として出版された事や、晩年の読書ではスウェーデンボルグの「霊界日記」をただ一つのはげましとして読んでいた事など、興味深い発見がいろいろとあり、さっそく、「過ぎ行く人たち」と、スウェーデンボルグの「霊界日記」をアマゾンの古書で注文した。
昨日は帰宅すると「過ぎ行く人たち」が届いていたので、さっそく読み始める。美しい装丁の本! 本を開くと、上下の空間がいくぶん広く取られ、そのバランスが美しく、読みやすい。
二十八歳だった私は、1968年、ノルウェ ーで、或る男の子に出会った。 偶然に。
という書き出しのところから 引き込まれ、彼女に拐われ、パリへ、ソレムへ、コンクへ、ロデスへ、そしてルルドへ、わたしも旅した。
コンクは知っている。 わたしにとっても忘れられない土地。サンチェゴ巡礼の途上にあるこの小さな歴史的な町に、フランス巡礼のひとり旅の折、降り立った。それは前日泊まった巡礼宿で怪我をし、それ以上歩けなくなったからであり、ハプニングによって偶然に導かれた土地だった。古い石造りのサント=フォワ修道院に泊めてもらった。そこでの人々との出会いのこと、巡礼者達のためのミサと、聖堂に響き渡っていたパイプオルガンの音、歴史的に意味を持つ、タンパン、聖堂の扉の上の大きなリレーフの彫刻に魅入られたこと。そういった6年前の旅の記憶が鮮やかに蘇ってもきた。
主人公の外国でのひとり旅の、そのひりひりするような緊張感や孤独、それ故の何かに導かれて進むような内的充足や喜び、意識の深層の中を通ってくるような不思議な人との出会いや交流を、この本の中でもまた共有する。
というか、たったひとりでフランスのコンポステーラ、巡礼の道を歩いたのは、高橋たか子の小説の中に繰り返し出てくる この世にありながら、あの世を歩くような旅をわたしもしたいと、無謀にも思ったからなのだと確認する。
一人の少年との出会いから始まる旅は、彼女の深層へと深く分け入っていく旅でもあり、それはわたし自身の深層に深く沈潜していく時間になり、詩的で美しい表現は純粋な読書の喜びでもあった。
2018年03月09日(金) |
ハラハラの外出ではあったけれど |
退院後、1週間後の診察。 血液検査の結果、肝機能は前回の数値より、多少悪くなっていたが、腫瘍マーカーは 前回11万から16万に増えていたところ、今回は2万少ない14万。腫瘍マーカーの数値が下がったのは去年の夏以来のこと。これは良いサインではないかしら。
マイクロ波、漢方薬、サプリメント、そのどれもが、良い状態に持っていってくれていると期待したいところ。
しかし今日は朝から腹痛が酷く、診察の前後に何度もトイレへ。医師は、入院中、また退院後の抗生物質のため腸内環境が乱れているせいで、癌の広がりによるものではないとのこと。頓服のブスコパンを処方してもらい、すぐに飲む。 行きは夫から車で送ってもらったが、帰りは自力、タクシー、電車、徒歩で、何とか無事に家に戻り、コタツに潜り込む。 やれやれ。 お腹がゴロゴロの時の外出はほんとにハラハラする。
薬が効いて痛みも収まったので、アマゾンから届いたばかりの本、高橋たか子の「過ぎ行く人たち」を読み始める。ゆっくりと味わいながら読むつもりだったのに、夢中になり、7時半、夕食の支度に取り掛かる前には読んでしまった。 幸せな読書ではあった。 まるで夢を見ているような、あるいは旅しているような。 すっかり現実の場所から遊離して。 この本の事はまた、明日にでも書くかな。
とても食べられないかもと思いながら支度をした豆乳鍋は美味しく食べられた。 豆乳と麺つゆを合わせた中に、甘塩鮭、とうふ、舞茸、白菜、にんじん、ほうれん草にネギ、そしてうどん。 初めて作った鍋だったけど、豆乳に溶け込んだ鮭の味がなかなか良く、スープだけでも満足できる感じ。 明日の朝まで、お腹が大人しくしてくれますように。
2018年03月08日(木) |
映画「ゼロ・グラビティ」のこと |
今日は朝から雨、家に篭って書いたり、読んだりするにはよい天気。体調も悪くない。 映画、ゼロ・グラビティの事を書いておこう。
『ゼロ・グラビティ』原題 "Gravity")は、アルフォンソ・キュアロン監督による2013年の、宇宙を舞台にしたSF・ヒューマン・サスペンス映画で、第70回ヴェネツィア国際映画祭のオープニング作品に選ばれている。
実はこの映画を見始めてすぐに、数年前にすでに観たことを思い出した。けれども呆れるほどにそのディテールを忘れている?とりわけ心に残るような内的体験もしないまま、ただハラハラ、ドキドキを楽しんだのだろう。 けれど、今回はこの映画が別の角度から迫ってきた。
スペースシャトルが事故に遭い、主人公のライアンは唯一の生存者となり、様々な死の危険をかいくぐり、地球へと生還するというストーリーの、めくるめく動的なアクションの中間部にひとつの静的な、内面的なシーンがあり、そこで語られる言葉が深く心に入り込んできて、映画を見終わった後も繰り返し、私の中で反芻された。
そのシーンというのはこうである。 燃料切れとなったソユーズから彼女は必死でヒューストンに助けを求めるが繋がらない。 けれども偶然にアニンガという人物と無線で繋がる。けれどどこの国なのか、彼女の助けの言葉は通じない。はるか彼方の地球からは犬の鳴き声や、赤ん坊の鳴き声、赤ん坊に歌う子守歌が聞こえてくるのだ。 言葉の通じない、アニンガという男にライアンは一方的に話かける。
私は死ぬのよ、アニンガ
人は誰だって死ぬ運命にあるけど、でも私は今日死ぬのよ。
妙な気分ね死を知るって
でも正直に言うわ。怖いの。 物凄く怖いの。
誰も私のために悲しまないし 誰も私の魂のために祈ってくれない
アニンガ 私のために悲しんでくれる? わたしのために祈りを唱えてくれる?
遅すぎるわね
わたし、人生の中で一度も祈ったことがない
誰もまったく教えてくれなかったから
誰も教えてくれなかった...
その後、アニンガにそのまま子守歌を歌い続けてと頼みながら、彼女はコックピットの様々なスイッチをオフにし、死を選択しようとする。
このシーンの言葉は心に痛く刺さった。 彼女のこれまで生きてきた人生が深いところで孤独であったこと、誰とも繋がらず、命の源と繋がるすべのないまま、ある意味、無重力の状態で一人宇宙に漂っている、そんな彼女の魂が浮かび上がってきた。 そして死を目前にして、アニンガという見知らぬ人物に初めて祈りを求めた。 そして、それは、祈り方を知らないまでも、紛れもない、彼女の祈りであったと思うのだ。
その後のシーンでは、彼女を最後まで励ましながら宇宙の中に消えていった宇宙飛行士コワルスキーが幻想の中で、彼女の側にやってきて、彼女に語りかける。 娘は死んだ。これ以上の悲しみはない。 (彼女は事故で幼い娘を亡くしている)
だが問題は 今どうするか
もし戻るなら、もう逃げ出すのはよせ。
くよくよせず「旅」を楽しめ
大地を踏みしめ自分の人生を生きろ
ライアン 地球に還るんだ
幻想から目覚めた彼女の内部で変化が起こり、その顔には余裕の笑みさえ浮かび、彼女は生還を目指して行動を開始する。もう無重力状態(ゼロ・グラビティ)の魂ではなく、彼女は死んだマットに語りかけ、死んだ娘と繋がり、もっと大きな、彼女の魂の源と繋がっているように見える。その垂直な線の中で、彼女はしっかりと魂の重力(グラビティ)を手に入れたように感じた。 死ねか生きるかの瀬戸際で彼女はこう呟く
「結果がどうであり、最高の旅よ」
映画の最後のシーンで、彼女は Thank you! とつぶやき、起きあがり、大地を踏みしめる。これもまた命の源への感謝の祈り。 誰も教えてくれなかった「祈り」を彼女は自分で手にしたのだ。
宇宙飛行士コワルスキーが幻想の中で彼女に言った「大地を踏みしめ自分の人生を生きろ」という言葉が彼女の姿に重なっていた。
ところで、彼女が燃料切れのソューズの中でアニンガとの通信をする直前に、コックピットに貼られたカード、いかにもロシア正教のイコンとおぼしきものが数秒間、映しだされる。無機質でモノトーンの宇宙船ソユーズの中で、色鮮やかな中世のイコンは印象的で、また象徴的だった。このイコンに何か意味があるのではと調べでみた。 イコンは「聖人クリストフォロス」とキリストの図で、クリストフォロス(「キリストを背負うもの」という意味)は、3世紀のローマ皇帝デキウスの時代に殉教したというキリスト教の伝説的な聖人で、旅行者の守護聖人という事だ。
また、ライアンが最終的に地球に還るために乗り込んだ中国の宇宙船「神舟」には弥勒佛(弥勒菩薩)の像が置いてあり、それが印象的に映し出されていた。弥勒は「慈しみ」を語源とし、“慈しみ”という名の菩薩とも言われるとある。
二度目に見たこの映画の根底に信仰というテーマを見出すことができたことは幸いだった。きっと忘れられない映画になるだろう。
これは余談になるが、 アニンガとの無線での通信のシーンをグリーンランドに住む アニンガの方から映像化した約7分のスピンオフ フィルム「アニンガ」の存在があり、この映画のあのシーンを、さらに意味深いものとして味わうことができたこともまた新たな発見だった。 ↓ 「アニンガ」
昨日のように調子が悪いと、このまま治らずに悪くなる一方なのかもなどと思ってしまうのだが、今日は具合の悪さからかなり抜け出せた。
調子が戻ったかどうかのサインがいくつかあるのだが、まずその一つ、お風呂に入ろうと思うこと。 朝遅く起きだし、生協のキャロットジュース(お腹の調子が悪い時は生の人参ジュースは飲む気になれないので)、いつもの薬、漢方薬、マヌカハニーを摂り、浴槽にお湯を張る。今日は入浴剤の代わりにパイン(松の木)のエッセンシャルオイルを垂らしてみる。森の香り。皮膚は少しピリピリするけれど。 温めのお湯に浸かりにながらベッドの中でよんでいた 高橋たか子の「終わりの日々」の続きを読む。彼女の晩年の日記。文学のことや映画のこと、ふと思い出したことなど、鋭い感性を持つ人が、周囲におもねることなく気の向くままに綴っている 独り言が、なぜか心地よい。
もう一つのサインは、お腹がすくこと。 朝抜き健康法を心がけているので、11時ともなればお腹が空いて、早めに昼食。スープだけでなく、イングリッシュマフィンも一つまるごと食べられた。 夕食はスープの他に魚やご飯も多少は食べた。 かつての大食いの私と比べれば、何とも少食になったものだが、身体に負担なく食べるとするとこれが適量かな。
英語教室でのテンションが上がるのも、回復のしるし。今日も2クラス。小6クラスにとっては、後2回で、英語教室も卒業という事になる。なんとか無事に終わらせたい。
これでもう少し元気が戻れば、外に出て、花たちの様子を見たいと思うだろうし、さらに調子が戻れば、歩きたくなるし、スーパーに行く気にもなる。明日はそこまで戻れることだろう。
外に出ない分、読む本や、ゆっくり考える時間は増すかも。 今日は、この前の日曜日に家で見た 映画 「ゼロ グラビティ」のあるシーンを繰り返し観ながら、いろいろ考えさせられる事があった。 またの機会に、その事を。
月曜日のマイクロ波治療に備えて、日曜日はミサに出かけるのは断念し、家庭礼拝にし、ヨガもジムには行かず自分のプログラムで、温泉もスキップ。ここまで気をつけて、昨日はマイクロ波治療へ出かけた。15分熱を当てては5分休むというペースで、1時間30分。今までに比べればかなりセーブしたつもりだったが、その後の疲労度はかなり強く、昨夜の夕方から今日の夕方まで、ほぼ寝て過ごす。クラス2クラスは何とかやれたものの、お腹が痛くなって何度かトイレへ立つという具合。
朝も昼もまともに食べていないから、スープくらいは作りたい。幸いなことに、クラスの前、3時から30分くらいの間は、少し落ち着いていたので、イワシのつみれ団子とトマト、玉ねぎ、インゲン、じゃがいも、人参をさっとコンソメスープで煮て、後はシャトルシェフに煮込んでもらう。 クラスが終わるや布団に潜り込み、夫が帰宅してから、スープの夕食。作っておいてよかった。レトルトのミネストローネだってあったのだが、この野菜や魚が溶け込んだスープは食事というよりは身体を治す薬のように身体に染み渡る。きっと明日は具合も良くなっているだろう。
さて、ここで振り返り。 気をつけたつもりではいたが、退院後日も浅く、1日置いて翌日のマイクロ波治療は刺激が強かったかもしれない。今後は3日くらいは空けるよいにしよう。予定が重なって、調整が難しい時には、無理に週2回行こうとせずに、週1回でよしとするべきだな。体力そのものも落ちているのだろうし、肝臓の機能も期待とは裏腹に低下しているのかも知れない。 闇雲に闘うというのではなく、まず身体への労りを優先すべきなのだろう。 さて、寝よう。 明日は不調から抜け出せますように。
2018年03月03日(土) |
「マイルス・ディヴィス 空白の5年間」を観た土曜日 |
週に2回通っていたマイクロ波治療がずいぶん空いてしまったので、気にかかっていたが、この日、10日ぶりに治療へ。土曜日なので、夫が同行してくれる。 久々の治療なので、いつもより短く切り上げ、帰りは食事だけし、他に寄らずに帰宅。
せっかく都内に出てきたのだから、6時からの主日ミサに出ることも考えていたが、3時過ぎに家に戻るとかなり疲労していることが分かったから、やはり、マイクロ波治療の後に何かをするというのはやめておいた方がいいのだろう。
ヨガのクラスもやめておき、ジムへは温泉のみ。 昼つい沢山食べたから、夕食後は玄米スープと、帰りに買ってきた桜餅だけにして胃腸を休めることに。
食後アマゾンで映画。夫のチョイスで 、「マイルス・ディヴィス 空白の5年間」を観る。役者にマイルスの鋭さと凄みを求めるのは そもそも無理というものだが、マイルスの音そのものは、透徹した突き刺さるような、それでいて豊かな広がりと色彩を持つマイルスならではのもので素晴らしかった。 それにしても彼の苦しみや葛藤は痛々しい。彼に限らず、非凡な才能を与えられ、美しい音楽や絵画や文学を世に生み出してきたアーティスト達の多くが、屈託や苦しみを一方に抱えながら、この世を生きた。そして、わたしたちは、その作品に力をもらう。それはアーティスト達が苦しみと闘いながら、より美しいもの、より新しいものを生み出そうと自分をかけて表現してきたものに、そのエネルギーに触発されるからなのだろう。 今になって思えば、子どもの頃から今に至るまで、どれほどの音楽や絵画や文学に生きるエネルギーをもらってきたことだろう。その時はそうとは知らないままに。
昨日は朝のうち、しとしとと降っていた雨が、病院を後にする午前10時にはすっかり上がっていて、青空が広がる春の日差しの中、夫の運転で家まで、途中、伊奈コンポステーラの道のそばに車を止めてくれたので、少し歩くこともできた。私が歩いているところを夫が写真に撮り、心配している子どもや孫たちに早速送っていた。 退院したら食べたいと思っていたお蕎麦を食べ、家へ。 家には友人達からの手紙や本や食品、果物などの小包が届いていて、ほんとにありがたいこと。
さっそくいただいた「ホークタクヤセン」というインディアンの癒しの言葉を読みはじめる。これ、まさにメディテーション!病気を早く治すとして、アメリカの病院の臨床で使われ始めていると、表紙に書いてある。人からの言葉や思いや祈りは確かな癒しのエネルギーとなることを思う。
昨日は中学生クラスが6時半から8時まで。先週ドタキャンしたクラスなので、またもやお休みなんてことにならずに良かった。クラスまでの間は、録画してもらっていた朝ドラを見たり、クラスの準備をしたりしてのんびり過ごす。
今日は風が強いけれど、またまた春日和。 リハビリも兼ねて、庭仕事。チューリップの芽は1週間のうちに、しっかりと逞しく成長していて、秋に植え込みをしたパンジーや、友人達にもらった新種のヴィオラの鉢も花が溢れてるように咲いている。まだ葉だけだったクリスマスローズがワイン色の花を項垂れながらも沢山咲き出していた。 今年の花達は、人参ジュースのカスで作った堆肥や、煎じた後の漢方薬の恩恵を受けているから、今までよりも元気に咲くのではないかしら。
昼までに洗濯や水回りの掃除を掃除を済ませ、早々と夕食の支度もし、昼からはソファーでごろりとなって過ごす。すかさず 猫のしろが私のお腹に乗っかってきて眠りはじめるのでわたしもしばらくお昼寝。
四旬節のグレゴリオ聖歌を聴きながら、歌の練習もした。これだけは入院中、したくてもできなかったからね。 今度の日曜日、ミサに行けるかどうかは分からないけれど、その時歌われる、四旬節第3主日の入祭唱を練習。それにしても美しい歌だ。でも旋律も言葉も難しいから、繰り返し、繰り返し歌ってもまだ歌えるようにならない。そのうち外も暗くなってきた。
今夜は夕食の後、近くの日帰り温泉に温まりに行く予定。
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