たりたの日記
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昨夜は今日の内に帰れるかどうか気を揉んだが、無事、午前中の内に家に戻れた。 夫が午前中仕事を休んでくれたので、退院も楽だった。
火曜日は午後4時半から小学校低学年クラス、5時半から高学年クラス、そして7時から8時20分まで中学2年のクラス。期末テスト直前の準備に加え、5人のうち、3人は7月2日に英検3級の面接試験を控えている。 初めての面接試験なので、その試験に慣れるために模擬練習が必要。何としても、今日のクラスをミスすわけにはいかなかったので、まずはクラスができた事を安堵。
でもひとつ、心が乱れ、安らかではない事があった。先週に続き、今回も、教科書とワークを持ってこない生徒がいた。保護者にもメールと電話で伝えておいただけに、しかも、一番、気にかかっていた生徒だけに、ショックは大きかった。
問題は教材を持ってこなかったというところとはまた別のところにあるのだろう。彼の学習に対して何とかしなければという私自身の焦りがあった。その一方で、課題をやってくるという私との約束は守りたいと思ってはいても、気持ちが学習に向かわない。少しも学習していない教科書や、何も手をつけていないワークブックを持ってくる事で生じるであろう摩擦を避けたいという無意識の抵抗であるのかもしれない。
そもそも、期末テストで良い成績をとることが、本人の人間としての成長にとって、それほど重大な事でも何でもないないはずなのだ。私がしゃかりきになるのが間違っている。きっと彼の魂はその事を認識しているのだろう。だから、親や教師がいくら学習しろと言っても、それに従えない自分があるのだろう。 それは、それで、彼の個性であり、大切な部分に違いない。
私は中学生の頃はかなりなガリ勉だった。テストに対して、競争心もあったが、それ以上に恐怖心が強かった。良い成績を保持しないと、人生につまずく、やりたい事もやれなくなる。恐怖心にかられた学習は大学を卒業するまで続いた。 そんな恐怖心を、私の子どもにも、また生徒にも知らず識らずの内に投影してきたような気がする。 のびのびと育ててきた、楽しい学習の場面を作ろうとしてきたと思いながら、根底にはネガティヴな記憶がもたらすものから私自身が自由になっていなかった。
奇跡のコースで学んでいること、練習していることは、まさに、そうした自分のネガティブな部分を解放し、赦すということ。 今回の事は、生徒の問題というよりは、私の問題。 表面的な事で、人を判断しないこと。
まだまだ先は長い。
6月26日は長男の誕生日。 私が母親になった記念日でもある。 今年は35回目の誕生日。 子育てに追われている頃、目の前の赤ん坊があるいは幼稚園ぼうずが、あるいは、反抗期のテーンエイジャーが35歳になる事を、しかも、三人の子どもの父親になる事など、考えられもしないことだった。 彼が、三人の、それも圧倒的にパワフルな三人の子のよい父親である事を、私たち親は、ほっとし、有り難いことだと感謝し、そして尊敬もしているのだ。
さて、何としても明日は退院したいと願ってきたが、それが叶うかどうかは、この日に分かる血液検査の結果次第という事だった。それも、夜の8時過ぎになるということ。 血液検査の結果が陰性ならば、明日の朝の退院が可能。とすれば、明日4時半からスタートする英語クラスの3クラスはキャンセルしないで済む。 午後、友人がお見舞いに来てくれ、カフェで、しばらくおしゃべり。 結果を待ちつつ「神との対話」2を読了。 読めてよかった。というか、読む必要があった、
8時過ぎ、陰性という結果。 よかった、明日は家だ。
今朝は自然に4時28分に目が覚めた。 昨夜も10時に眠りにはつけず、夜中の1時に諦めてマイスリーを飲みはしたが、4時半に起きられるだけの睡眠は確保できたのだろう。
まずは、ベッドの上でヨガ。ノートに書きとめた、昨夜の日記にも記した、レッスンの言葉を心の中で繰り返し、そこに伴う様々な感情や記憶を観察しつつ、ヨガのアーサナを取る。ヨガは身体による祈り、アーサナを組むことで、心はこの世界を離れ、神の国の領域へと移行する。そこに伴う、静けさと、平安と、清々しさで、その事が確認できる。 これまでの出会いの中から、スポットライトが当たったように、外の世界から離れて、自分の内側にいて、その相手と向かい合っていた時期の事が蘇ってきた。その時にはその事には気付かなかったが、お互いに少しも話せずに黙ったままでいたのは、魂のレベルの事柄を表層のありきたりな会話で表すすべがなかったからだったのだ。手紙では様々な事を語り会えたのに、いざ顔と顔を合わすと何も話が出てこない理由が今なら分かる。
たとえば、ベトナムに住んでいる 1歳児の孫、時々、テレビ電話で話しをする。話しと言っても、彼女には魂の言葉はすでに持っているとしても、口から出て来る言葉は、パーパだの、バイバイだの、ハーイどまりだ。けれども、そうした表層にある言葉のコミュニケーションを遥かに超えて、彼女の存在が私の内側で、大きなエネルギーになり、とても濃密な関係が生まれている事が自覚できる。 何も混ざりものがない故、彼女の中の神がそのままそこに現れるということなのだろうか。神との分離がなく、自分が何者であるのかをまだ忘れていない状態とは、こういうことなのかと教えられる。1歳児の私は、きっとこのようだったのだろう。そうして、61歳になった今、その時にはきちんと携えていたはずの、わたしの function (役割)を思い出そうとレッスンを続けている。 Lesson 65 My only function is the one God gave me
私の唯一の役割は神が私に与えたものである。
病室を抜け出し、広い窓ガラスのあるロビーで書いている。 外は雨。目の前に雨に濡れた木々。 ここは4階だというのに、ここよりもさらに高い木々から見下ろされながら。
朝イチで、血液検査のための採血があるのだった。 病室に戻ろう。
昨夜は10時に眠りにつくことはできず、3週間振りに、マイスリーのお世話になる。 抗がん剤治療をするようになってから、一緒に投与される吐き気止めの為、3日間は眠れずに、頼みのマイスリーすら効かなくなっていたのだが、6月2日の治療の後、脊髄活性法のトリートメントを受けるようになってからは、夜になると自然と身体が眠くなり、心地よく深い眠りに落ちるというのが習慣になっていたのだが、久々に眠りが訪れない夜を過ごす。
というわけで、4時半の起床もままならなかった。それでも、今朝も昨日同様、べッドの上でヨガ。 熱はすっかり平熱に。 朝食も完食。 夫が人参ジュースを作ってもってきてくれる。身体が内側から元気つけられる気がする。 人参ジュースの他に、毎日飲んでいる、コロラドYRという特別なお水、そしてノニジュース。これで、家での食事療法をここでも多少は続ける事ができる。
「奇跡のコース」は レッスン63〜65 ゆっくり時間をかけて。 この学びのためにこの時と場が用意されたのではないかと思う。 昨日から読み始めた 「神との対話」も、あと数ページを残すだけ。 この本の中にも 「奇跡のコース」が登場するのには、思わず笑ってしまう。 やってくるテキストが、すべて繋がっているのだから、これはもう、明らかな導きというもの。
Lesson 60 God is the Love in which I forgive.
Lesson 61 I am the light of the world.
Lesson62 Forgiveness is my function as the light of the world.
Lesson 63 The light of the world brings peace to every mind through my forgiveness.
Lesson64 Let me not forget my function.
Lesson65 My only function is one God gave me.
消灯時間だ。 このことの意味を反芻しつつ眠りにつこう。
それにしても
「 あなたがたは世の光である」という聖書の言葉を子どもの頃から何百、何千回と聞いてきたが、子どもの頃に歌った 「ひかり ひかり わたくしたちは ひかりの子ども…」という歌は 今でも 歌うことはできるけれど、わたしはそれを信じてはいなかった、自分の事としては。
今も、とても難しいと白状しよう。 でも、それを受け入れたいと願っているとも。
ようやく今日に辿りついた。ちょうど今、次の点滴がスタートする22時まで、点滴から解放されている。今のうち!と3日分をまとめて書いている次第。
今朝はすっかり平熱に戻った。それならば明日にでも退院できるかも知れないと、朝回診に来て下さった主治医に話すと、血液検査の結果にもよるが、最低1週間は入院して抗生物質の点滴を受けなければならないということだった。
クラスを休みにするとすると、振替のクラスをどこかでやらなくてはだし、退院してすぐ、遠出をする訳にもいかないだろうから、30日から4日間で予定していた秋田の玉川温泉行きは取り止めることにし、予約をキャンセル。またいつか機会がある事だろう。湯治という目的もだが、霊的学びと黙想をするのに良い機会だと思っていたのだが、学びと黙想であれば、今のこの環境で十分。自然の中の岩盤はないが、病院はそうした学びには適した場ではある。
7月末から8月半ばまでのベトナム行きも気になるところだが、医師は、熱さえ出なければ行ってもよいと言ってくれてほっとする。それならば、それまで、できるだけ体調を整え、ベトナム行きに備えよう。ベトナムでは9日間を長男の家族、3人の孫達と一緒に過ごし、その後の1週間は、ホーチミン市にあるシバナンダヨガのセンターにステイし、アールユベーダの食事とヨガや瞑想によるアシュラムを体験する予定を立てている。 アシュラムでは朝4時半から 瞑想からスタートし、夜10時には消灯。その練習のつもりで、ここで過ごすのもよいかもしれない。 さて、消灯の時間になってしまった。
流石に一晩の点滴の効果か、熱は朝には37度5分に下がっていた。それでも、点滴は絶え間なく続く。 昨日はろくに食事を摂っていなかったから、不味いはずの病院の食事も美味しくいただけ、完食。 頭痛と肩や背中の痛みはあるものの、本が読めるほどに回復しているのが分かる。 「奇跡のコース」はこの日、Lesson58〜Lesson60まで一気に進む。 Lesson50〜Lesson60まではそれまでのレッスンの復習を5つずつするようにプログラムされている。確かに一度頭に入れただけでは、自分のものにはならない。そもそもこのレッスンそのものが、同じような内容を別の言葉、別の角度から学び、そのスパイラルをすこしづつ上昇していくようなキメの細かさで構成されている。こうして、家事や仕事から解放されて、この学びだけに集中できるというのは得難い機会。熱も下がり、苦しさもないとするなら。
気の毒な夫は、私の送った必要なものメモの品物を探すのに、かなり大変な思いをした様子。申し訳ないが、有難いことだと思う。これが私一人で入院しなくてはならないのであれば、どんなに不自由で心細いことだろうと、しばしば一人で入院した母の事が繰り返し思いだされる。遠く離れていたとはいえ、母にはほんとに申し訳なかった。 「奇跡のコース」では過去の事で自分を責めたり、後ろめたく思うなというレッスンがあった。あの時はごめんなさいと母に向かって言い、その事を赦してもらおう。そして赦されたと信じよう。わたしもそうして、そういう自分を赦していけると。 これほど、神の赦しについて、イエスの贖罪について話しを聞き、聖書を繰り返し読んできたが、「赦す」ということにはまだわたしが分かり切れていない途方もないことが隠されていることが分かり始めているが、実際、「赦す」という行為がどういうことか、私は分かってはいないのだと感じている。
ここを開いた今というのは、6月23日なのだが、遡って書いておこう。 昨日から鼻水は出ていて、午前中、横になったりはしたものの、午後は普通に3クラスこなしたのだが、翌日の21日、明らかに不調。朝は起きられず、昼にメロンとヨーグルトを何とか食べる。この時点で37・4度。クラスの前まで寝ることにし、3時半に目覚ましをセットし、横になる。1時間後、38・4度。高熱が出たらすぐ病院に連絡するようにと繰り返し言われていたが、とても一人で、電車に乗って病院へ行ける気がしない。病院に電話し、熱の具合を伝え、明日が治療日になっているので、明日診察を受けることで良いかと尋ね、了解をもらい、まずはほっとする。
その後も熱は上がり続け、38・9度。これではクラスは無理だと、3クラスにグループメールで連絡。返信が来ない家庭には個別に電話。それでも何件か返信のない家庭もあり、緊急の時の連絡について、いろいろな場面を想定し対策を取る必要を感じる。
夫が6時30分には帰宅してくれたので、再度病院に電話で熱の事を伝えると、感染症の疑いがあるから来てくれという事だった。もしもの場合を考え、一晩入院しても大丈夫なようにパジャマや洗面道具、本など、思いつくものを急ぎバックに詰め、夫の車で病院へ。
血液検査やレントゲンなど一通りの検査をした後、白血球の数値が下がっているから、大事を取って入院ということにあいなる。気を利かせて用意をしてきてよかった。読む本もあることだし。 ま、入院といっても、2、3日のことだろうと。 早速点滴に繋がれ、病室へ。胆管がんの手術で入院した同じ病棟。なんだか懐かしい。 夜遅い時間になってしまったが、明日のクラスのキャンセルの連絡だけは今夜の内にしておかなくてはと、看護師の説明を聞きながら失礼して、メールを打たせていただく。 点滴を受けながら寝るというのも1年半振り。 まだ熱があったので、本を開くまでもなく、眠りに落ちる。睡眠薬を持参するのを忘れたが、問題はなかった。
2017年06月09日(金) |
8回目の治療の日 「イグナチウス・デ・ロヨラ の霊的日記」を読む |
今週月曜日の英神父の聖書講座の中に出てきた「イグナチウス・デ・ロヨラ の霊的日記」、なかなか手に入らないということだったが、アマゾンに一冊だけ出品されていたので、即注文。ちょうど、木曜日に届いたので、この日の治療中に読むことにした。
ロヨラはそれまでに書いた日記をほぼ焼いたが、それでも、この1544年から1545年の日記だけはどういう訳か残っていたらしい。 貴重な霊的な体験が綴られている。毎日、一人でミサを立てているのだか、ミサの度に信心の涙に溢れ、日記は、涙の記録といってもよいほど。そして、あまりに泣きすぎるために、目を痛め、医者から泣かないようにとドクターストップがかかったことも書かれている。 ミサの中で、イエスに出会い、聖母マリアに出会い、聖霊と交わり、まさに、この地にありながら、神の国を体験したということなのだろう。
ロヨラの「霊操」の第1週の始めの部分に、日々の特別究明という箇所があり、そこには<朝起きるとすぐ、是非直したい特定の罪か欠点を極力避ける決心をしなければならない。>とある。 このことについては以前に書いたが、 1ヶ月の間、この特別究明の祈りを続けるべく、スタートしたところ、私の定めた課題を解決する方法として「奇跡のコース」が与えられたという事が分かる。 そして、今日は、日々「奇跡のコース」のワークブックで、まさしく「霊操」霊のエクササイズをするなかで、そのきっかけを作ってくれたロヨラの日記に触れたのだ。
この4月、イスラエル聖地旅行の最中、ゲッセマネの園に立つ、万国民教会でのミサの中で、イエスがそこにいて語りかけてくださっているような印象を覚え、涙が溢れてきた体験を思い起こす。あの時の涙はロヨラが神の国を体験した際の涙と近いものがあるかもしれない。それにしてもロヨラは、あの時のような涙を日々流し続けたのだ。
あらためて、イエズス会の創立者の一人で初代総長、私の所属教会の名前にもなっている、イグナチウス・デ・ロヨラとの出会いに感謝。
白血球の数値が先週よりさらに下がってはいたが、抗がん剤治療は続行。 今回もこれといった副作用はなし。
この日の「奇跡のコース」レッスン Lesson 36 My holiness envelops everything I see. 私の神聖さは、私が目にするものすべてを包みこんでいる。
2日続けて都内に出かけることはできるだけ避けているが、前回 キアティクの気功治療を受け、それが、癌の治療として有効だというのは感覚があるので、あまり時間を空けずに3回目を受けることにしたのだ。今回も気が充満する感じがあり、この病気で死ぬことはないだろうという気持ちになる。医者は、先の事は何も分かりませんといい、データから推測すれば、あまり期待はできないと思っているのが分かるが、気功師は、満面の爽やかな笑みで、細胞は死なないと言ってるよ。僕が治してあげるよ。と自身満々だ。藁にもすがるというような悲壮感は全くないが、彼が天界と通じていて、とても素直に天界からのインフォメーションを伝えていることが分かるので、その関係の中に私か入れられていることに心地よさと元気をいただく。
その後、京橋のカフェで、友人から紹介してもらった、マグダラのマリアのチャネラーのお試しセッションを30分受ける。ここに詳しい事はかかないが、なかなか面白い体験だった。
東京駅八重洲口から四ツ谷へ移動。 6時からのミサに出て、夫と共に、7時からの英神父の聖書講座へ。 昨日話しをした、グレゴリオ聖歌の講座でご一緒のSさんも、この講座に初参加。 この日のテーマは 「神の国とは」 ここのところの私の学びの中心でもある。話しは面白く、聖書の中で語られるイエスのたとえ話について、深めることができた。
この日もスピリチュアルな学びを感謝。
この日は、グレゴリオ聖歌入門講座のある日なので、いつものように、朝9時半からの聖歌隊の練習から参加。今日は聖霊降臨日、ペンテコステのミサだ。ペンテコステのミサに用いられるグレゴリオ聖歌は、昨年の入門講座で学習し、昨年のペンテコステのミサにも参加しているので、記憶にある歌ばかりだった。とりわけ、この日に歌われる セクエンツィア ( 続唱) 、"Veni Sancte Spiritus"「ヴェニ・サンクテ・スピリトゥス(来たりたまえ聖霊)はとても素朴で美しい旋律で、何度となく口ずさんできたグレゴリオ聖歌。 聖歌隊の練習の時も、ミサもとても霊的で満たされ、よいペンテコステのミサに与ることができ感謝。
グレゴリオ聖歌入門講座は午後3時からなので、それまでの間は、東久留米の沿線に住む文学ゼミの友人とお昼を一緒にする約束をしていた。12時から14時半くらいまで、お互いの旅の話や、文学の話、家族の話や健康のことなど、ジョナサンで、ヘルシーな日本食をいただきながら、時間を惜しんで話続けた。彼女と出会って15年になるだろうか。その出会いとこれまでの交流に感謝。
で、グレゴリオ聖歌入門講座講座。 前回お休みした部分の復習からスタートしたが、この内容は、昨年も受講しそびれていたのだろう。初めて学習する内容だった。それにしても、詩篇唱は難しい。講義を受けるだけで、練習していないからだが、自力でネウマ譜を読みながら歌うところまでは、とても到達していない。英語教室の生徒たちに、習った事をそのままにしていては、身につかないよ。自分で何度も読んでみる、口にしてみる事で、自分のものになるんだからねと言っているのに、その事を実行していないなと思う。それでなくても、老化した頭は何でもすぐに忘れてしまうのだから。次回のクラスまでには、一通り復習をしておこう。この学びの時に感謝。
講座の後、一緒に受講しているSさんと、お茶をしながら、しばらく情報交換。「神の使者」や「奇跡のコース」の事も話題に上る。彼女は鍼灸師で、スピリチュアルヒーリングのトレーニングも受け、グレゴリオ聖歌が癒しの音楽というのはことで、興味を覚えこの講座で学んでいらっしゃる。私と同様、今年で2年目。なかなかゆっくり離す時がないまま過ぎてしまったが、この日ゆっくり話しができてよかった。この出会いにも感謝。
帰り、19時過ぎに上尾駅で下車。いつものジムへ。夫が出ているヨガのクラスには間に合わないが、20時の閉館時間まで温泉には入ることができる。一日の疲れを、夜風に吹かれながら、豊かにお湯を湛えた、夜の露天風呂で癒せることの恵み。この時間は、瞑想と祈りの時間でもある。この日の奇跡のコースのレッスンをゆっくり繰り返す。
Lesson27 Above all else I want to see. 何にもまして、私は見たい。
実相、神の国 に目覚めるためのエクササイズ。 道は長いが、この日々の練習に、言い難いほどの喜びと祝福を感じ、それは日々、大くなっている。 感謝。
昨日は治療日だったが、治療の後、近所の友人が自宅で開いているエステサロンで、脊髄活性法という、トリートメントをやっていただいたせいか、いつも治療の後におこる睡眠障害がなく、ぐっすり眠れた上に、4時半には、すっきり目が覚め、久々に、日の出を見ながらウォーキングができた。
昨日から近くのカフェ寧で、サクラモヒラの展示即売会があるので、10時半頃から寧の中庭でリコーダーを吹き、その後、サクラモヒラのカディー綿で作った夏のドレスと、ブラウスを買った。
昨日の続きを書くことにしよう。 そこで、アマゾンで、電子ブックの「奇跡のコース」ワークブックとテキストの精読版を購入して、学習開始。 学習というのは、精読版なので、原文を、日本語の解説を頼りに自分で理解するというのは過程を通し、考え、ワークブックにおいては、それを日々の瞑想の課題として実践するからだ。 この学びのために、テキスト用と、ワークブック用の2冊のノートを用意し、覚えておきたいフレーズや、日々のワークのお題の原文を書きながら読み進めている。
ありがたいことに、YouTubeには、このテキストのオーディオブック(英語版)が上げられているので、学んだ事を繰り返し聞くこともできる。
これらの教材を用意してくれた様々な人達、そしてその背後にある大きな存在に感謝
A Course in Miracles Workbook精読 Lesson 1 ~ Lesson 30 https://www.amazon.co.jp/dp/B00BMS0QU8/ref=cm_sw_r_oth_api_f4hmzbGX3WP8P
A Course in Miracles Text精読 Introduction Chapter 1 https://www.amazon.co.jp/dp/B00B282BE2/ref=cm_sw_r_oth_api_I5hmzbH892CQP
2017年06月02日(金) |
7回目の治療の日 「神の使者」について |
5月19日で止まったままにしていた日記を、ようやく昨日書き、5月22日のところに、大阪の次男の家族を訪ねた事も書いた。
友人が、日記が更新されてないから具合が悪いのではないかと心配してメールをくれた。他にも心配してくださった方がいるかもしれない。申し訳ない。
実は、ちょうどその期間、そして今もだが、ある本に没頭していて、文字通り没頭していて、余暇のほとんどの時間をそれに費やしていたからだ。
それは5月19日に書いた「イェシュアの手紙」と繋がるのだが、この本の次に「神の使者」という本を読み、そして、この2冊の本が指し示している「奇跡のコース」のテキストブックと、それを実践するための「奇跡のコース・ワークブック」を読み始めた。
「神の使者」は、500ページもある分厚い本だが、対話形式になっていて、まるで映画を見ている様に登場人物の人柄(魂というべきか)や彼らの気分や体験が生き生きと伝わってきて、まるで、そこに私もいるような感覚で、ともかく入り込んだ。大阪への新幹線の行き帰りとその翌日で読了。幸せな読書タイムだった。
エンターテイメントとして十分におもしろかったが、この本はそれだけでは済まない。この本が指し示している「奇跡のコース」という本がどんなものなのか、読んでみない訳にはいかないという気持ちにさせられた。実際、その本の作家であり、主人公でもある、プロのギタリスト、レイニー・レナード本人が、この本の中の時間軸の中で、「奇跡のコース」に出会い、それについてスピリットたちと対話し、それによって変えられていく過程が描かれているのだ。そしてその体験は素晴らしく感じられた。
ということで、続きは明日。 今日は、7回目の治療の日。集中して読みたいものが読めるのは幸せなことだ。
「神の使者」について、アマゾンの説明をこちらに載せておこう。
内容紹介 突然現れた2人の使者と、この宇宙の仕組み、神について、宗教の矛盾、歴史の流れなどを語りあう――20世紀で一番の精神哲学書『奇跡のコース』の理解も深まる、決定版! 内容(「BOOK」データベースより) 自分という幻を捨てたとき宇宙は消え去り神という「現実」が訪れる。聖書、宗教、過去生、セックス、霊性、そして『奇跡のコース』について神の使者からの驚くべきメッセージと深遠かつ大胆に繰り広げられる対話のすべて。 著者について マサチューセッツ州ノースショア生まれ。プロのギタリストとして成功する。1987年からの「調和ある収斂」の期間に「呼び声」を聞き、人生の方向転換が始まった。1990年代初めにメイン州に移り、そこで強いスピリチュアルな目覚めを体験する。著者は指示を受けて、9年の時間をかけて慎重に「宇宙の消滅」を執筆した。個人投資家として執筆し、旅行し、他のスピリチュアルな学習者と形而上学的な原理について議論している。
神の使者
昨日は、珍しく5時過ぎに起きたので、夫の弁当を作った後、6時過ぎから1時ばかり、朝のウォーキングへ。せっかくバラが咲き誇っている時期だから、伊奈コンポステーラではなく、バラ公園へと歩いた。早朝の誰もいないところにたくさんの色とりどりのバラが美しく咲いている。バラ園を抜けて、沼地に木道や東屋をこしらえている遊歩道の緑はそれは美しかった。せっかくの新緑の時期、ここに来てリコーダーを吹くことも、ヨガをすることもなく5月が終わってしまった。 明日は、一日、この緑の中で過ごそうと思った。
ところが今朝は、昨夜からの雨が止んだばかり、少し日が出てからと思って、庭仕事や、衣替えや、クラスの準備をしている内に午後4時をま回ってしまった。でも1時間かそこら、リコーダーを吹いてこようと支度をして公園に来たのはいいのだが、肝心のリコーダーをバッグに入れるのを忘れてしまった。 しかたない。 せっかくだから、しばらく、木立の中で過ごそうと、しばらく開いてなかった、ここに書き始めたところ。この静けさの中にいると、リコーダーの音はなかった方がよかった気もする。 もう一回り緑の中を歩いて、帰りに買い物をしで帰ることにしよう。 先週末は、夫と大阪に住む次男を尋ね、宗次郎の一歳の誕生日を祝った。その事も後で書くことにしよう。
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