たりたの日記
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2017年05月22日(月) 宗次郎の1歳の誕生日

5月22日は、大阪に住む次男夫婦の第1子、宗次郎の満一歳の誕生日なので、夫と大阪へ行き、20日、21日、22日の3日間を一緒に過ごした。

20日は、宗ちゃんのもう一人のお祖父ちゃんとお祖母ちゃんもいっしょにみんなで、誕生日のお祝い。
壁にはパパとママが作ったバースデイのデコレーション。宗ちゃんは、バースデーボーイの金色の紙の冠を着けてもらい、ママが宗ちゃん用に作ったバースデイのごちそう離乳食の前に。今日のメニューはヨーグルトのサンドイッチと苺とキウイフルーツ、茹でたハートの形のにんじんと、茹でた玉ねぎとジャガイモ。木製の車の形のお皿に可愛らしく盛り付けてあり、Happy birthday Sojitoのプレートも添えられてあった。みんなが、ハッピーバースデーの歌い終わる前に、宗ちゃんは苺の乗っかったサンドイッチを掴んでいる。次は人参という具合にいつものように、熱心に、黙々と、可愛い手で野菜やパンをつかんでは食べる。途中で飽きたり、遊んだりすることもなく、最後の一つまで休まず食べつづけるというのが、他の3人の孫達には見ることのなかった特徴だ。

頭に付けた冠も、うるさがって取るだろうという大人たちの予測に反し、食べている間も、その後でプレゼントを開いて遊ぶときも、気にならないのか、ずっと付けたままで平気だった。

ママとパパからは 宗次郎の名前にちなんで、宮沢賢治の「アメニモマケズ」の絵本、
ママの方のお祖父ちゃんお祖母ちゃんからは、素敵なデザインの木琴、ひいおはあちゃんからは、木製のパズルとおもちゃ。私たちからは、お砂場セットと働く車、そしてどろんこ遊びをテーマにした絵本を3冊。

ママが作った 宗ちゃんの一年間の写真が音楽と共に映し出される動画をみんなで見て、この1年間の成長を振り返る。

パパとママにしても、この1年間は、新米の父母としての1年だった。遠くに離れている上に、私の闘病がスタートと重なり、手伝いにも行けず、会う機会も限られていたが、2人が協力して育児を楽しんでいる様子は、送られてくる動画や写真、そしてテレビ電話で、よく伝わってきていた。
3人とも、見事に成長し、この日を迎えることができたことを感謝。

翌日は歩いて行けるほどのところにある、カトリック教会のミサに次男の家族と共に出席し、午後から、京都岡崎へ。平安神宮のそばの宿で1泊し、翌日は平安神宮から、京京都水族館へ。

4人の大人達は、宗ちゃんの目に写るイルカや魚たちを、初めて見るような気持ちになって、見ていたのだった。

宗ちゃんが2歳の誕生日も、こうして、一緒に祝えますように。



2017年05月19日(金) 6回目治療日 「イェシュアの手紙」を読む


先日、気功の治療 (キアティク療法)を紹介してくれたYさんと、治療の後、お茶をしながらいろいろ話しをした際に、何冊かの本を紹介していただき、興味深く思ったので、早速アマゾンに注文した。その中の一冊、マーク・ハマー著 /マラディアナ万美子訳「イェシュアの手紙」を昨夜から今日にかけて読み終えた。
今日は6回目の治療日だったので、5時間あまり、集中し、時に考えたり、瞑想したりしながら読むことができた。

さて、でもこの本の事をどう伝えよう。いえ、伝えようとはするまい。もし、気になる方がいれば、手に入れて読むだろうし、気にならなければその人にとっては意味のないものに違いない。

では、私にとって、この本はどう響いたのか。どういう意味を持ったか。

ワシントン州に住む マーク・ハマーという男性が 1987年から1988年までの間、イエス キリストとして知られる「イェシュア」の言葉をチャネリングし、それを彼自身の動揺や、そこから逃れたい、無視したいという葛藤や彼自身の霊的成長といった体験と共に一冊の本にまとめたもの。

イエス自身がハマー氏に語った言葉は 深く、美しく詩的で、それだからこそ、聖書の言葉と同様にそれを理解する為の特別な視点や感性が要求されると感じた。それをどこまで理解できるかは、その人の霊的な成長の度合いによるのかも知れない。

私がこのタイミングでこの本に出会ったことも意味があると感じた。この本の日本語訳が出版された2007年には、私はこの本が理解できたとは思えない。怪しい本として、遠ざけてしまったかも知れない。
しかし、今、ここに書かれていることの多くは、初めて耳にすることではなく、すでに私自身の魂が感じとっていたことだと頷きながら読んだ。深い共感と 慰めと 励ましとがあった。

2014年から2015年にかけて東洋の瞑想と共にヨガについての集中して学ぶ時期があったが、その中で、キリスト教の神とイエスと人間の関係がよりはっきり分かるように感じ、ヨガ指導者資格のための卒論にもそのことを書いた。ヨガで言われている宇宙の創造主、ブラフマンはまた、一人一人の人間に存在する真我でもある。ヨガ は、創造主である神と、我とを繋ぎ、神と一つになるための修行だとする。
それから考えると、旧約聖書に記されている 「在って在る者 」、父なる神は、ひとり子イエスと一つの存在であるのだから、自分の魂の中で、イエスと一つになる事で神と一つになり、その一つになった魂の状態、それこそが御国ではないのだろうかと思った。思っただけではなく、ヨガや瞑想を通して得られる満ち足りた平和の感覚は神と共に在る、つまりは御国の中に導かれている状態だと実感していた。

今日、この本を読む中で、かつて私が受け止めたことを、イェシュアがマークに語っていた。もちろん、長年、東洋思想やヨガの修行に深く関わってきた マークも、このことは心の底では分かっていたに違いない。
一方、私がこれまでに考えていなかったこと、自分の霊的力では理解できないことがらもあった。それに関しては、今、それについて熟考する時を、理解が可能になる時を与えられようとしているのかも知れない。

きっかけになる 聖書の言葉やキーワードも出てきた。今回のイスラエルの旅の中で、エッセネ派が共同体を作っていた クムラン教団の遺跡や、マグラダの遺跡後を踏んだ時の親しく懐かしい感覚も思い出した。
その辺りのこともよくよく思い巡らしでみよう。

この本に出会う事ができたことを感謝している。

治療の前の血液検査の結果は、白血球の数値が下がっている。
腫瘍マーカーはほぼ横這いとはいえ、やや下がっている。
行きは夫の車で。帰りは病院を4時頃出て、歩きで駅へ。デパ地下で大阪へのお土産を選び、最寄り駅から徒歩で帰って夕食の支度ができるほどの体力あり。


2017年05月18日(木) 火曜、水曜、木曜のこと

火曜日仕事日。4時半から8時20分まで3クラス。
午前中から早い午後にかけて、家事を中心に雑用いろいろ。
昨日、友人から、イグナチウス ロヨラの「霊操」が届き、霊的トレーニングとして、それについての1ヶ月の取り組みについてのメモが添えられてあったので、私自身が改善すべき、絶対究明を意識し、それの改善を求める祈りと、振り返りを試みようとした。

私が自覚している、罪、クリアすべき課題は、この世的な思い煩い。
連れ合いから、あなたは、自分の命や死については煩わないのに、どうでもいい日常の事にいつも煩わされていると言われるが、実際そうなのだ。

とりわけ、火曜日、水曜日、のようにクラスがたくさんある日には、クラスの準備が間に合うだろうか、その前までに食事の支度を済ませられるだろうか、郵便局やスーパーに行くと思わぬ時間を費やし、時間が足りなくなりはしないだろうかと、まだ一日をスタートしてもいないのに、心配や焦りのために、気持ちが憂鬱になる。これはもう、子どもの時からの癖といってもいい。

こうした根拠のない思い煩いから自分を解放する事をこの1ヶ月の祈りの課題にしてみようと思う。

思ってはみても、また祈ってはみても、焦りや憂鬱の気分は消えないので、気にかかっていること、今日の内にしなくてはならないことを紙の上に書き出し、それを一つずつ行い、終わったものを線で消すという、初歩的な、しかし有益な方法を実行する。

リストの1をやっている時に、気になるからといって他の事をやってみたり、他の事を考えたりしないと決め、台所の片付けや、部屋中の掃除機かけ、メールの返信、生協への食材の注文、食事作り、英語教室の準備や教材研究など、順番にやっていく。掃除機をかけながら、拭き掃除の必要があることを思う。でもその時間と体力がないことに悩み始めたので、拭き掃除は明日のリストに載せる事にし、自分から切り離す。

火曜日、水曜日と、リストにある事と、クラスを3クラスこなし、忙しさの山場終了。

木曜日は、7時から8時20分までの中学生クラスだけで、掃除や買い出しの類は終わっているので、届いている本を読んだり、家事やクラスの準備をしたり、週末から月曜日にかけて大阪の次男のところに行くための荷物の支度などして過ごす。
本当は、1時間くらい、外を歩きたかったのだが、疲れて仕事に差し支えるのが不安で、10分ほど、ヨガをするのに留めた。

そんな一日を過ごしながら、今年度になって仕事への緊張が今まで以上に大きくなっていることに気がつく。

ひとつは、週1で治療が入るので、時間に制約ができたこと。
次に、クラスを3クラスこなす事に今まで以上に体力を使い、実際疲れることも確かなので、他の活動や仕事をする事を避けたいという気持ちが起こり、気分転換が上手にできない。
そしてこれが一番大きな原因だろうが、これまで中学生クラスは1クラス、多くて2クラス、また人数も少なかったが今年は、3クラス14名。英検も今年から英作文が加えられ、今までとは違ったアプローチが必要となる。
加えて、この教室を今年度で終わりにしなくてはと思っているので、それまでに一定の結果を出し、生徒に一人立ちさせなくてはというプレッシャーが生じている。

思い煩いは、家事や雑用のあれやこれやよりも、この仕事関係に依るものが大きいのかもしれない。

良い仕事をすることと、その仕事について思い煩う事は同じではない。むしろ相反するもの。こちらの焦りや心配は生徒に学ぶ事の喜びをもたらさない。

思い煩いから解放される事は、よい仕事をする上でも必要なことが、これを書きながら分かってきた。

イグナチオの 霊操、心して過ごそう。




2017年05月15日(月) 気功

初めての気功治療。
良いと言われるもの、情報としてやってくるものには、可能な範囲で、何でもトライしてみようと思っているので、この日、友人から紹介された、腕のある気功の先生のところへ。
生まれながらに持っている姿勢の癖を見つけていただき、その癖を治すための予防法を教えていただき、身体全体に気を充満していただく。そして、身体の細胞からの情報を伝えていただく。


2017年05月14日(日) グレゴリオ聖歌によるミサ

復活節第5主日
聖グレゴリオの家のミサへ
9時半からの聖歌隊の練習に間に合うよう、8時前の電車に乗る。
武蔵野線を使って東久留米まで行くので、都心の喧騒を逃れて移動ができるので、そこへ辿り着くまでの時間も瞑想的ではある。
昨夜、今日歌われるだろうラテン語の聖歌を聖歌集と、YouTubeで予習することもできた。主日のミサの聖歌はほぼ、YouTubeで確認することが可能だ。多くの場合、四線のネウマ譜も一緒にアップされているので有難い。どこの国のどういう立場の方がアップして下さっているのか。修道院の司祭の方が修道士の学びの為に載せているのかも知れない。
この日のミサは、こちらのインスティチュートの理事長の司祭がドイツからいらしていて、その方によるドイツ語のミサを通訳者を通して聞いた。聖書の朗読と共同祈願の他はほぼ伝統的なラテン語の典礼で、美しく、霊的で、充実していた。

やはり、グレゴリオ聖歌によるミサは、とても深いところに響くと感じていた。ラテン語の意味は日本語の訳なしには理解できないにもかかわらず、この言葉自体が、日本語や英語と、また違った心の部分に響いてくる。そして、その響き具合が深い慰めになる。
20代の時に出会い、好きだったこの歌を聴き、歌いつつ礼拝ができることに感謝。

家に帰ると、大阪に住む次男夫婦から母の日の贈り物のフラワーアレンジメントと、メッセージカードが届いていて、夫がケーキを用意してくれていた。
夜には、長男の家族からテレビ電話があった。
その昔、夫と二人の息子達から祝ってもらっていた母の日が、今は4人の孫達も入れて9人から祝ってもらうことになったのだなと感慨深い。

夕方から夫とヨガ&温泉。帰宅して一緒に調理し、お家ごはん。

今年もよい Mother's Day だった。


2017年05月12日(金) 5回目の治療の日

この1週間、お休み明けの仕事のせいか、疲れていて、朝起きれず、遅くまで寝ていることが多かったので、この日は、夫が出勤と退勤に合わせて、車で病院まで送り迎えしてくれたので、治療の前後に時間がたくさんあり、本もたくさん読め、動画で、英神父の「霊躁の基礎を学ぶ」http://hanafusa-fukuin.com/archives/category/spiritualexercisesを見ながら、気づきのエクササイズなどもやることができた。毎日15分の気づきのエクソササイズのお勧めがあったが、私は、ノートに書き出す代わりに、この日記そのものを気づきのエクササイズにできるのではないかと思った。気づきのエクササイズ は、以下の順番で一日を振り返り、それぞれの項目をノートなどに書き出していき、祈るというもの。

1、出来事
2、心の動き
3、気づき
4、神さまの視点からの気づき

実は、昨日の日記は、この項目を意識して書いてみたのだった。
そして、今日の日記も概ね、1〜3まではカバーしている。
4の神さまからの視点というのはどうだろう。

この日記をつけ始めた2001年から今までを振り返ってみると、そこには様々な出来事があり、心の動きがあり、気づきがあったことが分かる。霊的に良い状態の時、慰めの時には、比較的書いている日が多い。明らかな荒(すさみ)の時は、自分だけに分かるように、カモフラージュしながら書いている。そして、この世のことに振り回されている時には日記は開くこともしていない。この日記は、命をくださっている神へのレスポンスといいながら、調子よくいっている時には、いただいている命を感謝することすら、忘れていたと見える。
病気を通して、明らかに、私の心は垂直な線の繋がりの中に戻り、ヨガでいうところの真我、魂が目覚めている状態を得やすい時期を得ている。
与えられた病気そのものが、一つの恵みであり、それだからこそ、今私が汲み取るものは多いはず。何をどう汲み取るのか、ひとつひとつの事を識別しつつ、差し出されたものを、きちんと掴みなさいという神からのメッセージを受け止める。


2017年05月11日(木) 友人たちと

友人2人とお昼を共にしながら5時間ばかりの時間をいっしょに過ごした。
一人の友人とは1年半ぶり。話に花が咲いての賑やかなランチというのではなかったが、大切な事をたくさん、たくさん話した、あるいは分かち合ったという印象があった。それだけに、また5時間という長さのせいもあるが、疲れを覚えたが、それは二人も同じだっただろう。

最後に三人で会ったのは共通の友人、文庫仲間の葬儀の後だった。
あの時私達のリーダーでもあり、たくさん学び、影響も受け、励まされたきた友人を失ったショックは大きかった。まだまだ文庫の子ども達のためにも、地域の方々のためにも良い働きをするだろう彼女がこんなに早く召される事に納得がいかない気持ちも抱いていた。けれど、葬儀の後、昔の仲間達とお茶会をした時には大きくなった子ども達の事や孫の事など、久々に合う友人達との情報交換で場は賑やかでもあった。

けれども今、あれから1年半の間に、あの時には考えてもみなかった悲しみを二人とも抱えることになっていた。夫との死別、そして我が子との。
二人の胸の内を聞きながら、そして二人が深く共感し合うのを感じながら、同じ痛みや寂しさを持つ人にしか分かりあえないものがあるのだなぁと思った。そんな二人の悲しみに接しながら、私は私でそれほど遠くない未来に、夫や子ども達にそんな悲しみを与える事になるのかもしれない、それは辛いな、何とかそうならないようにできないだろうかなどとも考えていた。

最後まで冗談を言って家族を笑わせた友人の夫も、また、突然の死に見舞われ、家族と離別することになってしまった娘さんも、きっと自分がいなくなった事を悲しまないでほしいと思っているに違いないのだ。しかし、寂しい。あちらへ行く者より、残された者のほうがずっと悲しいに違いない。私にしても、私が先だと思うからのん気な気でいられることだけど、夫や子ども達に先立たれるのはどんなに辛いことだろう。

私は慰める言葉もなかったが、こんな事を言った。人間の死は自分では選べず、人の手には及ばないものだけれど、誕生もまた、人間の力には寄らないものだし、偶然この世に命が誕生するわけじゃない。創造主がきちんと意図を持って、この世に命を送り出し、そしてその命はこの世での課題を終えて、またきちんとした意図のもとで、来たところに戻っていくのだと。これは単に彼女達への慰めとして言ったのではなかった。私自身が自分の生と死をどう捉えているかということだった。

こんな会話をこれまでに友人達とすることはなかったことを思う。地面の上の事つまり、家族の事や旅や映画や本の事はたくさん分かち合ってきたけれど、死や命の事を話題にすることはなかった。
三人が三人とも、死を味わい、死の意味することを知りたいと心から思っているから、こんな話もできたのだろう。


若い頃に出会い、共にお互いの歩みを、それぞれの子ども達の成長を知り、そうして今、その家族との別れの悲しみを分かち合える友人を与えられていることに深く感謝。







2017年05月10日(水) 子ども達へのイスラエル土産

イスラエルの旅の間、お土産を買う時間はあまりなく、しかも、農産物を売ってるキブツかあるいは、オリーブ細工の店か修道院や教会の売店しか立ち寄らないツアーだったから子ども達へのお土産集めはなかなか大変ではあったものの、彼らへのイスラエルのお土産は概ねウケた。
イスラエルの10アグロットのコインは小さい子から中学生まで、喜んだ。コインを35枚集めるのもけっこうままならず、たった1個づつしかあげられなくて残念だった。何とかして、もっと集めるのだった。
そういう意味では、ガリラヤ湖の砂のように小さな貝殻や、死海の塩の結晶ももっと集めればよかったと思うが、あの時はあれが、精一杯だったかな。
ちなみにイスラエルの貨幣単位はシェケルで、1シェケルは30円くらい。1シェケルは100アグロット。買い物はすべてUSドルでして、シェケルかアグロットのコインでお釣りをもらうという具合だった。
小学生の女の子たちには、絵葉書とオリーブ細工のクロスのついた指輪で、男の子たちには、オリーブ細工のオーナメントやキーホルダーを絵葉書といっしょに。
中学生たちには絵葉書やコインと共にベツレヘムの土と乾燥したオリーブの葉と、エルサレムのオリーブで作った十字架のセット。裏に、これはベツレヘムの土とオリーブであることを証明しますなんていう英文の説明があったから教材にもなったし、興味深そうに見えたがどうだろう。
この品は、彼かの日常からかけ離れた、しかも、地球の裏側からの物。なぜ、先生はイスラエルに行ったんだろう。フランキンセンス入りのベツレヘムの土に、どんな意味があるのだろう。オリーブの木の十字架とそこに描かれているイエスの絵は?

いづれ、世界史や倫理社会の中で学習することだろうが、彼らの知的、また、霊的関心を刺激するものになるといい。



2017年05月09日(火) 遅ればせながらの イースターエッグハント

3週間振りの英語教室。
低学年クラスは遅ればせながらのイースターエッグハント。
それというのも、4月の最後のクラスの時、「あぁあ、イースター したかったな」という子ども達のつぶやきが耳に残っていたから。あの時はまだイースター前だったから、イースターの用意はしなかったのだった。

幸い、イースター用の卵をコーティングする、可愛らしい絵のついたフィルムやシールは買っていたから、イースターエッグを作り、イスラエルのお土産のコインやオリーブ細工も入れて、イースターエッグの包みを作って、庭の植え込みに隠す。
たったそれだけのことではあるが、子ども達にとっては、うれしいことらしい。私が子どもだったら、やはり、うれしいに違いない。

教会学校ではないから、イースターのお話を詳しくする訳にもいかないが、YouTubeで、英語のイースターのお話の短いビデオを一緒に見る。孫のれお同様、なぜ、十字架で殺されたの?本当に生き返ったの?と子どもたちの頭にはいくつもの?が浮かんでいることだろう。答えはいつか、自分で見つけようとすれば、それでよい。なんだか不思議な、気になることを聞いたり、見たりした、それでよいのだと思う。

高学年や中学生のクラスでは、世界地図を広げることから。
イスラエルってどこ?
クリスマスが始まったベツレヘムは?
イースターの舞台のエルサレムは?
嘆きの壁のことを知ってる生徒もいた。
休み中、みんな毎日ラジオ基礎英語を聞いていたようだ。中学生は宿題の英検問題も学習していて、えらい、えらい。
久々のクラスで、しかもテンション、上げまくっていたからか、4時間のクラスが終わった後はぐったり。
それでもジムの温泉へ。温泉では、露天でも、炭酸風呂でも、ジャグジーでも、ただただ眠っていた。


2017年05月08日(月) パンケーキ&カフェのお店へ

この日、友人が娘さんとやっている パンケーキ&カフェのお店へ。緑に囲まれた静かな住宅地の中にあるおしゃれなカフェでいただく美味しいパンケーキのランチとコーヒーに癒されたが、いつも会う度に何か新しいことを始めていている友人から、今回もたくさんパワーをもらう。半年前にフラダンスを始め、ステージにも立ち、近々ハワイへ行くという。ハワイの言葉のお祈りを覚えて唱えることもできるようになってる!素晴らしい!
数年前、フラダンスに夢中になった時期があったが、なかなか振りが覚えられず挫折してしまった私としては、凄いなぁと思う。そのうち、ジムのフラダンスのクラスの後ろの方に加わってみるかな、という気分になる。もうそこにどっぷり浸ることはないとは思うが、一通り夢中になったこと、心に留めたことにもう一度触れ、その喜びを思い出し、味わい直し、出会いに感謝してお礼をいうというような。いわば、懐かしい古い友人に一人づつ再会し、感謝を告げるような、そんな気持ちで。

彼女の小2の孫娘が、カフェの片隅でしきりにバレエを踊っていた。身体が自然に踊り出すようで、ほとんど無意識に。素晴らしい!
私がバレエに夢中になっていたのも小2の頃。家でエシャッペを100回とかやってた。この前ジムのスタジオを通りかかった時、大人のためのバレエのクラスで、くるみ割り人形が流れていて、懐かしくて、踊りたくなった。そうね。バレエのクラスにも、一度、感謝するために出るといいのかも と、そんなことも考えた、素敵な午後だった。

この後、四ツ谷へ。
6時からのミサに出て、7時からの英神父の聖書講座は夫と共に。充実した夜だった。

この一日に感謝。


2017年05月06日(土) バジルの苗の植え込み

バジルの植え込みしなくちゃ!
旅の前日に、2つのプランターにバジルの種だけは撒いておいた。一つのプランターのものは発芽率0であるにもかかわらず、もう一つのプランターのものは、小さな双葉が沢山出てきていた。けれど、この双葉が育ち、食べられるようになるには、8月まで待たなくてはならない。そこで、4月の終わり頃から、すでに2ヶ月分ほど成長しているバジルの苗を求め、植え付けをする。そうすると、株を大きくするために、芽摘みを繰り返すのだが、この柔らかい新芽はそのまま食材になる。

バジルペーストを作るには後1ヶ月バジル待たなくてはならないが、サラダやサンドイッチの他、バジルの葉とにんにくとシーチキンやパプリカなどを炒め、醤油で味をつけ、茹でたてのスパゲティーと合わせるのも、この時期の好きなパスタ。

という訳で、近くの苗屋さんにバジルの苗が出てるかどうか確認し、よく育った元気なバジルの苗、1個100円(安い!)を、6個と、赤と白と紫のペチュニア、青小さな花が可愛い、ロベリアを一つずつ黄色とオレンジ色のマリーゴールドを2株ずつ、そして、外のテーブルの上に置く用の赤いサフィニアが沢山ついている大きめのポットを求める。全部で2000円。田んぼの真ん中にあるこのお花と野菜の苗屋さんの存在はありがたい。

ジムでヨガと温泉療法(と勝手に呼んでいる)の後で、のんびりしたいところではあったが、今日の内に植え込みをと、夕方6時から暗くなってしまう7時まで、ガーデニング。

今回は新しい土は買わなかったから、秋に植え込んだチューリップやパンジーの英が終わった株を抜き、土改良材の肥料やマグアンプを混ぜ、そこにこれから秋まで育つであろうバジルや花々を植えこむ。何とか、真っ暗になるまでに植え込み完了。よかった。

このバジルの植え込みの時期を逃してしまうと、バジルの苗は手に入らず、種が育つ8月まで待たなくてはならない。酷い年は撒いた種がひと株も成長してすることなくバジルの葉のないひと夏は物足りなかった。

後は、日々のケアと水やり。何ごともすぐに忘れてしまう私にとっては、かなり、心しておかなくてはならないこと。


2017年05月05日(金) 癒しのミサ

今日は癒しのミサへ。
夫とイスラエルの旅を共にした、たかこさんと共に。
改宗式の後の初めてのミサだ。
その事の配慮からか、お御堂に入ると、聖書の朗読をお願いされる。箇所は 使徒言行録、サウロの改心の場面。
久々の聖書朗読、緊張したが、読ませていただけてよかった。その箇所の情景や復活のイエスの姿が目の前に現れた。

ミサの後、癒しを必要としている人や癒しを必要としている家族や友人を持つ人は司祭に個々に告げ、お祈りしていただく。
司祭の前には長い列ができた。癒しを求める人がイエスに群がったその光景と重なる。
イエスはまずは癒し主であった。実際に多くの病人を癒され、「タリタ クミ!」と呼びかけ、死んでいた少女を蘇らせもした。そして、イエスは弟子達にもその力を与えたのだった。
司祭から癒しの按手をいただきながら、イエスの、つまりは聖霊の、生き生きとした恵みの中に迎え入れられていることの、喜びと平安を味わう。



使徒言行録 9:1〜20
使徒たちの宣教
その日、9・1サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、2ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。3ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。4サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。5「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。6起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」7同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた。8サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。9サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。
10ところで、ダマスコにアナニアという弟子がいた。幻の中で主が、「アナニア」と呼びかけると、アナニアは、「主よ、ここにおります」と言った。11すると、主は言われた。「立って、『直線通り』と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている。12アナニアという人が入って来て自分の上に手を置き、元どおり目が見えるようにしてくれるのを、幻で見たのだ。」13しかし、アナニアは答えた。「主よ、わたしは、その人がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。14ここでも、御名を呼び求める人をすべて捕らえるため、祭司長たちから権限を受けています。」15すると、主は言われた。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。16わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。」17そこで、アナニアは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの上に手を置いて言った。「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。」18すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼を受け、19食事をして元気を取り戻した。
サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちと一緒にいて、20すぐあちこちの会堂で、「この人こそ神の子である」と、イエスのことを宣べ伝えた。


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