たりたの日記
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6時起床。 ベッドの上でヨガと呼吸法を行った後、 日の出の時刻を見計らってラウンジへ。 久々に日の出を見ることができた。 病院のラウンジルームの大きな窓の左端に、赤い太陽が顔を出し始めていた。 伊奈コンポステーラの、冷たく清々しい空気は望めないものの、差し込む朝日は嬉しい。
今日は主日、カトリック教会の聖書日課から今日の箇所を読む。使徒書はコリント人への手紙13章、愛の章。
「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」 Meanwhile these three remain: faith, hope, and love; and the greatest of these is love.
午前中は、吊し雛の最後のモチーフ、金魚に没頭。これが一番難しいかった。かなりいびつな金魚だけれど、どうにかそれらしい形になり、いびつなだけにどことなく愛嬌がある。 ところで金魚は病気から身を守ってくれるとされ、元気な子どもに育つとようにという願いがこめられているということ、初めて知った。
とじ針に太い赤い紐を通し、作りためた7つのモチーフを通していく。ま、こちも、工夫や力が必要だが、なんとか、1本の吊り雛が完成。 久々に仕上げだが手芸作品。しかも今までにやったどんな手芸よりも細かい作業だった。今までならけっしてやらなかったことも、祖母となればやれるということだろうか。 もしかすると、次第に祖母力が養われているのかも知れない。
午後からは長男がれおとめいみを連れて病院のに来てくれる。れおは最近覚えたばかりの文字で手紙を書いてきてくれる。めいみにも、れおがなにやら書かせたようで、めいみからの手紙ももらう。病院のラウンジが、孫たちと過ごす時のいつもの空間になり、絵本を読んだり、お絵描きをしたり、またいつものように喧嘩になり、めいみが泣き出したりとこれもいつもの場面。 孫たちが帰って行った後は、しばらく夫と病室で過ごす。手芸がひと段落ついたので、読書に戻ろう。上西加奈子の「サラバ!」これはこれで没頭できる。
8時、いつもの場所で、グレゴリオ聖歌による晩祷。病室に戻りヨガ。 9時消灯
2016年01月30日(土) |
病院でのグレゴリオ聖歌 |
入院のためのスーツケースを詰める時、真っ先にリコーダーと楽譜を入れた。けれど、とてもその場所はないだろうなと思い返し、リコーダーは置いてきた。でも、歌は歌えるかも知れないと、グレゴリオ聖歌入門講座のテキストや本はしっかり持ってきた。 しかし、病院というところは、歌う場所どころか、一人きりになれる場所すらない。 カーテンで仕切られた狭い空間も息が詰まってくる。 看護師にダメ元で、歌える場所はありませんか、毎日グレゴリオ聖歌を歌うことを日課としていたので、歌いたいのですがと訴えたところ、家族談話室という、ゆったりしたソファーのあるリビングルームを使わせていただけることになった。 夕方7時から8時まで、ちょうど晩祷によい時間、一人きりの部屋でチャンティングをするという幸に恵まれている。
In manus tuas, Domine, Commendo spiritum meum.
に始まる晩課。 このラテン語の意味は、「主よ 御手にわが霊を委ねます」 キリストが十字架上で、息を引き取る時の言葉。
昼間は点滴スタンドをごろごろ引いて、ラウンジまでやってきて、目の前に大きく開かれたガラス窓ガラス外をみながら、吊るし雛作りをした。昨日は途中で止められなくなり、1つのはずが3つ作った。
このように、こちらでの生活が快適になってきていたので、昨夜、主治医から18日の予定の手術が3日になったと聞かされた時は、少し残念という感覚あった。しかし、手術は早いに越したことはない。3日が手術だとすれば、うまくすれば、20日には退院できる。そうすれば、3月の英語教室は予定どうりやれることになる。まずはよかった。 昨日の造影剤を入れてのレントゲン写真も、肝臓への転移がないので、早い時期の手術が可能になったようだ。医師と家族との面談も1日の夕方、みなが揃うことになった。
手術からしばらくはICUに入るので、この生活は一先ず中断ということになる。あと4日。今日はまず吊るし雛の一本目を完成させよう。
そうそう、この日記がもとになり、2004年の4月に出版した「育つ日々」を、夫がネット上で読めるようにしてくれたので、アドレスとリンクをここに張り付けておこう。
「育つ日々」 http://akira.endless-world.net/sodatsuhibi.pdf
育つ日々
2016年01月29日(金) |
日の出前に起き出して |
朝5時過ぎに目が覚める。 日の出前の空と日の出を見ることができるかも知れないと、病室を抜け出し、ラウンジへ。この場所は前面がガラス窓になっていて、朝陽が、そして夕陽が見える。美しい富士山のシルエットさえも。
窓に面したカフェテーブルにiPadを置き、さて、聖書を読もうかな。なんと理想的な朝。 家にいる時は、聖書を読むより、外を歩きたいと思う。ここではそれができないから。
開いたところは、ローマ人への手紙。 この箇所に行き当たり、ほんとにそうだ。その通りだと思う。
若い頃から、その時、その時、励まされてきた言葉だったけれど、今、その意味が深い実感を伴って理解できる。
7時になった。今日は曇りで、昨日のような美しい朝陽を浴びることができないようだ。 けれど、早起きのご褒美にいただいた、パウロの言葉、ここに記しておこう。
ローマ人への手紙 5章 3〜5
そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、 We also boast of our troubles, because we know that trouble produces endurance, 忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。 endurance brings God's approval, and his approval creates hope. 希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。 This hope does not disappoint us, for God has poured out his love into our hearts by means of the Holy Spirit, who is God's gift to us.
始まりは鋭い胃の痛みだった。雪の降った1月18日のこと。英語教室で指導中、夫に胃薬を買いに走ってもらった。痛みは落ちつき、翌日も胃の不快感はあるものの、午前中は大針区民会館でヨガの指導、夕方からの英語教室3クラスと、問題なかった。
20日から26日まで長男のところの産後の手伝いに出向くことになっていたので、20日に調布へ。次第に胃薬では治りがつかなくなり、加えて白色便、褐色尿、全身の痒み。これはただの胃炎ではない。ネットで調べてみると、胆嚢、肝臓、膵臓辺りに問題がありそう。23日にひとまず自宅に戻り、行きつけの病院を受診。黄疸が出ていた。検査結果と共に大宮市の大きな病院へ。そこでさらに検査。
胆管癌という診断を受けた時、なぜか、やっぱりそうかというの感覚があり、不思議と驚きはなかった。 舞台は暗転とはならず、むしろ、背後から光が差して一段の明るくなっていくような感覚が起こった。「守られている」「あの方が側にいる」というのが実感だった。 と、すれば、この病気と対峙すること、そのものが、わたしが与えていただいた恵みなのではないかという気持ちがしてきた。 我ながら、何というポジティブ思考かとあきれもする。また、今後、不安や恐れに見舞われないとも限らないではないかというツッコミも聞こえてきはするものの…
このことは、病気の克服というタパス(苦行)であるかもしれないが、場合によると、わたしの人生のクロージングとの対峙へと導かれることになるかも知れない。 いずれにしろ、上から与えられた課題であることにはちがいない。 ありがたいことには、課題の向こうには、暖かく安心な眼差しがあることだ。 まずは自分を不安に差し出すことはせず、身体の事は医師にすっかりお任せし、制限のある病院生活の中であっても、魂に喜びを感じる生活を淡々としていこう。ヨガ、呼吸法、瞑想、読書、音楽を聴くこと、すべてベッドの上で可能だ。 手術は18日の予定なので、それまでの日々を 豊かに過ごそう。
入院初日と翌日は食事も取れず、痛みがあったので、横になっていたが、昨日からは、起き上がって、ヨガもし、手芸もした。 生まれたばかりの愛美の初節句に吊るし雛を贈りたいと注文していた手芸セットを夫が届けてくれた。まずは<子の成長>のモチーフ の7つの下げ飾りを仕上げることにする。一日に一つづつ。 昨日は2時間ほどかけて、一つ目の水仙を作った。 「吉祥の花、生命力のある花、子供の健やかな成長を願って」という意味が記してある。
一針、一針、成長を祈りながら、縫うという作業。この行為そのものが祈りなのだと思う。 この吊り雛作り、けっこう時間がかかる。注文はしたものの、病気になって入院でもしていなければ、とても出来ないことだったな。 それとも、このこともまた、昨年のヨガの学びや瞑想やグレゴリオ聖歌の学びと同様に、これから迎えることになっている試練を助けるものとして、初めから用意されていたものと考えることもできる。 夫が12月で退職し、家にいるので、全面的にわたしのサポートを引き受けてくれていて、心丈夫だ。ことことがらもまた、天の配剤。 6歳の孫、2歳の孫も含む家族の祈りもまた心強く、うれしい。
朝、8時5分の電車に乗り、東久留米へ向かう。電車を3回乗り継ぎ、到着は9時19分の予定。駅から10分ほど、橋を渡り、坂道を登り、武蔵野の雑木林を抜けたところに、聖グレゴリオの家はある。 ここでは、グレゴリオ聖歌によるミサが毎日曜日行われているのである。ミサは10時半より始まるが、その1時間前から聖歌隊の練習が始まる。 聖歌隊の練習はミサの後、午後1時より4時まで続く。 また、ここは、教会ではなく、宗教音楽研究所という教会音楽の学びの場なので、パイプオルガン、声楽、合唱指揮といった専門的なコースもあれば、グレゴリオ入門講座や、合唱ゼミといった一般向けのゼミナールも開催されている。
昨年の1月、このグレゴリオの家を初めて訪れ、2月から6月まで、合唱ゼミナールに参加し、10月から1年間のグレゴリオ聖歌入門講座の受講を始めた。月1回か2回、7月まで15回のクラス。教会暦に沿って、よく知られているグレゴリオ聖歌や詩篇唱がテキストに選ばれ、ネウマ譜の読み方、ラテン語の歌詞の意味、グレゴリオ聖歌の旋法と、内容はとても充実している。これまで音楽として好んで聞いてきたグレゴリオ聖歌の言葉の意味が解き明かされ、その音の不思議が、ネウマ譜を読むことで、自分自身で表現可能となる。あぁ、これを求めていた。求めていたことが得られていると、感動し、感謝する。
今日は、9時半からの聖歌隊の練習を聴講し、今日のミサで用いられる聖歌を練習。10時半から昼前までミサの中でグレゴリオ聖歌を歌い、午後3時からのグレゴリ聖歌オ入門講座に出席。グレゴリオ聖歌の一日。
今日は夫と「の・ようなもの のようなもの」の映画を観に出かけたのだが、その前に時間があったので、本屋に入り、宮西達也の「ティラノサウルス」シリーズの本を探した。
というのも、れおもめいみも、このシリーズの「おまえうまそうだな」と「わたししんじているの」が事の他好きで、一日に何回も読んで(めいみは「ほんで!」とい言う。本を読んでの短縮形だ)と言ってくる。 わたしが忙しそうにしていると、めいみは6歳の兄に「ほんで」と頼んでは、兄のたどたどしい読み聞かせを、それでも熱心に聞いている。
「めいちゃん、寝る前のご本は何にするの?」と聞くと、 「『わたししんじてるの』」と来る。 2歳児が「わたししんじてるの」なんていうフレーズを言うので、その度にぎょっとする感があるのだが...
この2冊はれおにとわたしが買ってきたもの。内容はそのテーマからすれば、小学校低学年から中学年くらいの内容と思われるのだ。何しろ、犠牲、葛藤、愛、強さ、優しさといった心の分野がその絵本のテーマなのだから。 いったいどういう訳で、アナ雪が大好きな2歳児女子にヒットするのだろう。 幼い魂は幼いなりに、そこにあるなにかしら大きなものを自分の魂の栄養として取り込もうとするのだろうかしら・・・
ともあれ、今度20日から1週間ほど、再び彼らと過ごすので、その時に持っていく本に、このシリーズの「ずっとずっといっしょだよ」という絵本を選んだ。かれらの反応はどうだろう。同様に気に入るだろうか。もしそうなら、この「ティラノサウルス」のシリーズの何が彼らをひきつけるのか、さぐってみたいものだ。
2016年01月15日(金) |
夢の描写を読む < 吉行淳之介「夢の車輪」> |
以前に、正確には2005年の11月に書いた文章がひょいと出てきた。 どこかに寄稿したもののようだ。ところが残念なことに、この作品が、いったいどのようなストーリーだったのか、私の脳は記憶してはいない。記憶してはいないながら、この文章を書いた時の気分は覚えている。文章からも察することができるが、わたしは、わたしなりの発見にわくわくするものがあったのだ。そして、久しく、そうしたわくわくするような読書をしていないと思い当たった。そして、アマゾンに、この本を注文した。もう一度読んでみたいと思った。わたしをそんな気分にさせた、12年前の文章を ここに残しておくとしよう。
夢の描写を読む < 吉行淳之介「夢の車輪」> わたしは、よく夢を見る。 昼間、電車の中で、あるいは人と話をしている時でも、しゃべっている単語と単語の間のわずかな隙にさえ夢の谷間へストンと落ちることがある。すぐに意識は戻るのだが、そこへ落ちた時に見ていたものの余韻が残っていて、夢を見ていたことを知るのだ。 夢はわたしが現実の世界に戻れば消えてしまうように感じるが、どうなのだろう。意識が現実の世界へ戻っても、夢は夢でそのまま無意識の領域の中で進行しているのではないだろうか。 夢はわたしが眠りについてから、やおら始まるというものでもなく、こうして現実の世界で生きている一方で、同時進行として心の中で起こっている、もうひとつの体験ではないのだろうか。 次元の違う空間、つまり夢の支配する場所を別の自分が生きている、だから、ふっと眠りに落ちてしまうと、まるでスイッチが切り替わったように、夢の場所で生きている自分にシフトするのではないだろうか。 ここしばらく吉行淳之介氏の夢を題材にした短編集「夢の車輪」に始まり、「菓子祭」「砂の上の植物群」などを読みながら、夢について、また内的リアリズムについていろいろと考えを巡らした。 夢の中では、この制限の多い肉体を持ってしては不可能なあらゆることが可能だ。 鳥のように高い山から谷底へ急直下しては地面に着くすれすれのところでまた空に舞い上がったりする。その気分にはやけにリアリティーがあって、自分はかつて鳥として生きたこともあったのではないだろうかとさえ思う。しかし、夢の中で体験することは心楽しいことばかりではない。人を殺してしまった。何者かに追われる。迷路に迷い込む。余命がいくばくもないと知る。大切な人を失う。夢の中で、その場から消えてしまいたいと思うような窮地にしばしば立つ。しかし、それが夢だということが分かると、大きく安堵する。この立たされる緊急事態とそこからの解放が、何よりも夢が担っている働きなのだろう。 そうしてそれはそのまま、内的リアリズムを描き出す文学の働きでもあるのだろう。 表題作の短編「夢の車輪」を読んだ時、この夢の中を生きている時の生き心地とでもいうべきものが似ていると思った。自分にしか分からないような夢の中の気分がその短編の小説の中に立ち上っていて驚いたのだ。この奇妙な夢の中の気分というものは、どの人にも共通するものなのかと思うとそれもまた不思議な気持ちになる。 「夢の車輪が現実を踏み潰すと、その現実はなくなってしまう」と、物語の語り手は夢から覚めたもうひとつの夢の中で書き記す。 夢の中で緊急事態に立たされる時、きまって、その夢の現実をまるごと破壊してしまうように、その世界をリセットする物が助人のようにやってくるのだが、吉行氏はその物を「半透明の白い車輪」として、ビジュアルに登場させているのである。 物語は上等のカマスの干物を焼き、旨そうな匂いを嗅ぎながら箸を取上げようとした時、部屋の入り口から、この大きな車輪が入ってきて、目の前の魚や食卓を轢いてゆくという 奇想天外な場面から始まる。読者は、ほどなくそれが夢の中の出来事だと気が付く。普通なら、なんだ夢の話か、とがっかりしてしまうところだが、不思議と落胆はない。すでに、筆者が誘う夢の現実の中を夢の歩調で歩き始めているからだ。夢は夢としてのリアリティーを持っている。作者の筆力だと思う。 焼いたカマスを車輪が轢いていったところから、夢の中の時間は途切れることなく、いかにも夢の中特有の時間の流れに乗って事柄が展開してゆく。パチンコ屋で、約束の時間に間に合わないという気がかりを車輪がふみ壊してゆくと、今度は思わず拾い上げてしまった革の手袋の中から手首が現れてきて窮地に立つ、どうしようかと思案にくれたその時に車輪がやってきて、語り手は喜びの声で叫び、夢が終わる。 そうして夢から抜け出した語り手は、この車輪が回っているからには、日常の世界に戻れるなと安堵し、それなのに、夢の中での恐怖が薄らぐと「またいつもの暮らしに戻るのか」という気持ちになるというところで話は終わる。 ある意味夢は、夢ということにすれば何でも書けてしまうお手軽で故に危険な題材だが、吉行氏の「夢の車輪」は、夢の持つもうひとつの現実ともいうべきものが巧みに表されていておもしろいと思った。 夢の破片をたくさんのみこんで膨れ上がりゆっくりと回転している夢の車輪そのものが、物語の生まれるところ、言葉が紡ぎ出される場所でもあるのではないかとも思った。心の目を凝らせば、確かにわたしの心の底にも、そういうものの蠢きが感じられるのである。 ところで、この小説の始めから終わりに至るまで、語り手が誰なのか明らかにされていない。語り手はわたしというわけでもなく、また彼というわけでもない。つまり主語がない。この文章は日本語では通用するけれども、英文に翻訳するとなると困るだろうなと思った。英文の場合、文を成り立たせるためには主語が不可欠だからだ。 しかし、この主語がない文章の漠とした感じが、現実とは異なる夢の気分を伝えるのに効果をあげているのかもしれない。
2016年01月11日(月) |
ベビーシッターの6日 |
ベビーシッターとはいっても、6歳児と2歳児の。 母親の出産の日の1月6日から11日の午後まで。 最初のプランでは長男の2週間の育児休暇が切れる20日から1週間ということだったが、母親不在の状況で、二人の子どもの世話をするのに長男の自信はやや欠けるらしく、週末だけでも来てもらえる?というオファー。これはかなり、不安なのだなと判断し英語教室のクラスをやりくりし、第一子の誕生の時のように、出産から彼らのところに泊まり込むことにしたのだ。
どこの子もそうだどろうが、母親がいないとなれば、それなりに、しっかりするのだ。6歳児も2歳児も、今までにはなく、わたしに近づき、心を開き、非常に扱いやすかった。
ママの病室を訪ねて家に戻る時も、「めいちゃんちにはパパママがいるんだよ」とうれしそうにママに話して、帰っていったとメールが届いたりした。
めいみはリトミック教室に行くのに、パパが連れていくと言うと泣いて抗議。パパママと行く。パパは入ってきちゃだめなんて言う。確かにリトミック教室は母親と子ども達の世界。お祖母ちゃんも女だからそこにすんなり混ざるだろうけど、父親はその場に違和感を生じさせると、2歳なりの予想を駆使したのだろう。そして実際その通りだった。
いっしょにリトミック教室に参加したことで、その後、めいみといっしょに歌を歌う場面が多かった。というより、この2歳児は目覚めている間、テレビや絵本を観ている以外の時は常にはおしゃべりするか、歌を歌うかしているから。
「めいちゃんはあかちゃんがきたら、よしよしってするんだよ」 「そう、そうなの」 「うん、そうだよぉ」
そう、彼女は、「ありがとう」という言葉と同様、「うん、そおだよぉ」を頻繁に言う。 この「うん、そうだよぉ」という時の自信と喜びに満ちた声の響きは明らかに、周囲を元気にする力がある。ときどき、きかんぼうになって泣きわめいても、それを余りあるほど補える力だと感じる。
今後、3人の子育てはどれほど大変かと思うが、この輝きはこの家庭の中で大きな働きをしていくだろうなと思う。
そんなに長い生きしたいとは思わないと今までさんざん口にしてきたけれど、この子の中心にあるこの輝きがどのように展開し花開いていくのか、見届けたい気になっている。20年後、彼女は22歳、わたしは80歳。そのくらいまでは元気に生きていれるといいなと思ったりする。
玲央とウォーキングをしたことを書いたから、芽美と毎日ヨガをしたことも書いておこう。 ずっと家の中にいるばかりで、ヨガのクラスにも出られないから、せめて、身体を動かそうとヨガをやっていると、2歳児が真似を始める。それなら、キッズヨガのインストラクターになりましょうか。 じゃ、こんなふうにできる。 できる〜 ほんと、上手だねえ。パパママよりも上手にできるね。 こんどはなあに? じゃ、犬になるよ こんどはなあに? じゃ、ねこね。足も上げられるかな? 微妙にバランスを取りながら、しんけんな面持ちで片足を上げる。 こんどはなあに? じゃあ、うさぎさんになろうか。 つぎは?つぎは?と彼女の興味は尽きない。
かなり複雑と思われるポーズも、一度、わたしのポーズを見るや、その通りにやる。 2歳児の模倣能力、恐るべし。
結局、毎日、遊びの合間にいっしょにヨガをする。 ママの病室にパパと訪ねた時も、ママに得意げに木のポーズをして見せたらしい。 パパが写真を撮って送ってくれた。
そういえば、子ども達がまだ小さかった頃、夫の母はヨガ教室に通っていて、ヨガをして見せてきれたな。 あの時はとてもヨガをするようになるとは考えてもみなかった。 さて、芽美はどのくらいまで、わたしのヨガに付き合ってくれることだろう。
2016年01月09日(土) |
孫と日の出ウォーキング |
暮れから1月5日まで、早朝ウォーキングを続けていたので、調布の息子の家でも、歩きたいものだと思っていたが、この日、ようやく歩くことができた。しかも玲央(れお)といっしょに。 これもまた、いつかそんな日が来ればいいなと夢見ていたことではあった。 誘ってもまずは「いやだ」という返事しか期待できないと、端からあきらめていたのだが、6時過ぎ、みんなで寝ていた寝室から一人そっと出て支度をしていると、玲央が起きてきた。で、いっしょに歩くと言う。毎朝、何度言われても、カードなんかをいじっていてなかなかパジャマを着替えない6歳児なのだが、あっと言う間に身づくろいを済ませ、外に出る。
さて、外には出たものの、いったいどこへ行けば日の出を見ることができるのか見当がつかない。取り合えず、オレンジ色に染まっている東の方向に向かって歩き始める。同じように歩いている人がいたので、どこに行けば日の出が観られるかと聞けば、この道を真っ直ぐ行くと多摩川の土手に出ると教えてくれる。 ほんと、すぐに土手が見えてきた。 土手に上がると、そこには広々とした川原が開けていて、ちょうど太陽が昇るところだった。 ママに見せるから写真とってね もちろん! とは言ったものの、1枚撮ったところで、電池切れ! iPhoneのナビを頼りに知らない道を歩いてきたのに、帰り、どうしょう... 来た道を通って帰ればいいんじゃない? それができれば問題ないんだけどね。 内心ひやひやしながら歩いていった。 来た道はやっぱり辿れなかったけれど、玲央が知ってる場所に出ることができ、無事家へ。 父親も妹もまだ寝ていて、問題なし。 朝ご飯もゆっくり食べ、幼稚園のもちつきにも時間通りに行くことができた。
それにしても、往復1時間、孫との初ウォーキング、記念すべき日。
エピファニー、三人の博士が馬小屋のイエスに贈り物を携えてやってきたという日、クリスマスの最後の日、肥後ファミリーに新しいメンバー、愛美が加わる。
幸いな事に、愛美の誕生は長男である父親と6歳の兄、2歳の姉、そして、わたしたち祖父母の立ち会う、産室だった。 へその緒は父親と小さな兄と姉がいっしょにハサミを入れて切り落とした。
よいお産だった。 昔の自宅分娩のような感じだな、いつか、そんなお産を夢見たことがあったなと感慨深かった。
母親から離れられない2歳児をどのようにしてなだめたらよいのだろうと心配だったが、わたしの存在を母親の代わりとすることに心を決めたらしく、2歳半の芽美は、今までになく、わたしを受け入れてくれ、母親の入院中は、問題なく過ごすことができた。
今回はお産の日から11日まで彼らのところに滞在し、父親の育児休暇が終わる20日から26日までまた手伝に出向くというプランだ。そのために、英語教室の振替を前もって行っていた。
今週はクラスを3日行い、週末も呼び出しがかからなければ、こちらでの生活、リコーダーの練習やヨガやグレゴリオ聖歌入門のクラスにも参加できる。
20日からは、産後の母親と新生児と二人の幼児の世話を、父親に替わってわたしがするということになる。 母親がいない時といる時とでは彼らの様子はずいぶん違うことだろう。 ここは祖母力が問われるところ。
昨年、パン焼き機を買い替え、それには餅つきの機能が付いている。熊本の叔父が送ってくれたもち米も残っている。それでは今年のお正月のお餅は手作りで。 30日、大掃除の日の昼食時、パン焼き器で餅つきをし、つきたてのお餅をからみ餅でいただき、後はすばやく丸めて、お雑煮用に。
子どもの頃は木でできた長く平たい箱(何という名前だったっけ)に餅がぎっきし並べられてあるものが餅屋さんから届いたよね。で、あの餅、すぐにカビがはえて、そのカビを削っては焼いて食べたり、ぜんざいに入れたりしていたよね。
そんな昔話をしながらお雑煮をいただく。 餅にカビがはえるなんて、まだ冷蔵庫が一般的でなかった頃の、7歳や8歳くらいの記憶、それなのに、あの餅の形も、お正月の部屋の空気も、しっかりと固定されている。
お正月も、木箱いっぱいのお餅も、非日常のことがらだったからなのだろう。 来年のお正月は、おちびさん達と餅作りをするとしようか。
あれあれ、お雑煮のことを書くのだった。 これは記録として。
我が家のお雑煮は、私の母が作っていたもの。 材料はとり肉のもも、白菜、干ししいたけ、ホウレンソウ、なると、花にんじん。 昆布とかつおで丁寧にとった出しと干ししいたけの戻し汁に薄口醤油と酒で調味し、とり肉、しいたけ、大きくきった白菜を入れしばらく煮込む。
お椀の底に白菜を敷き、その上に焼いた餅をおき、汁をかけ、肉、しいたけ、茹でたホウレンソウ、なると、にんじんなどを色どりよく並べる。
今やお餅は一年中スーパーで売っているから、お雑煮なんていつでも簡単に作れるのに、なぜかお正月にしか作らず、お正月にしか食べないのは、この食べ物をお正月だけの特別なものとしてとっておく、日本人のマインドなのだろうな。
今年のお正月は、次男のところも長男のところも出産を控えているので、今年はこちらに移動することはやめ、私たち二人だけのお正月。去年みんなが揃い賑やかだったお正月も良かったけれど、やりたいことをやってすごす気ままなお正月っていうのもいい。
早朝ウォーキングをし、元旦からスポーツジムが開いているので、3日間とも2人でヨガ&温泉を楽しみ、リコーダーの練習もしと、福袋を買うこともなく、食事に出かけることもなく、そんなつつましく、のんびりしたお正月。
昨年の元旦は初日の出を見ることができなかったが、今年は我々だけの静かな新年、日の出前に家を出ていつもの、伊奈コンポステーラを歩く。 いつもと違って、日の出を待つ人達の姿があちこちにあった。 気分よく歩いていると、けたたましい暴走族の音。 と、この狭い、道の向こうから突進してくる。 いったい新年からこの人騒がせな族はどんな面持ちをしているだろうと、しっかり顔を見てやろうと道のはじに避けて立っていたら、暴走族の若者が目が合うなり、頭を下げる。何とも礼儀正しい暴走族のお兄さんであること。 さすがここ、伊奈コンポステーラ。 今年も歩くぞ!
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