たりたの日記
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思えば、その人は出会ったその時から、どこか、死の影のようなもの纏っていた。 今になってそのことに気づく。
だからなのか、その人との時間は、この世の果ての、あの世の入り口のような、しんとした虚空、虚さがあった。 もしかすると、わたしが惹かれていたものは、その虚空であったのかもしれない。
その人に叱咤激励を飛ばし、あちこちに連れまわし、喚いたり、毒づいたりと、おおよそ生のエネルギーの最大に振幅の高いところで、立ち向かったのだが、あれは、いったい、どういう心の働きから出てきたものであったろう。
そうしなければ、わたしも一緒にその虚空へと吸い込まれていくような、そんな気がし、心の半分でそれを夢み、心の半分でそれに抗った。
もう、予め、約束されていた死だったのか。 それを見越しての出会いであり、交流であったのか。 その人が一旦死に向かい始めるや、そこから引き戻す力はわたしにはなかった。 なすすべもなく、わたしは、そこから自分を遠ざけたのかも知れない。
だから、死の前のその微かな印にさえ、気付かなかった。 いえ、わたしのどこかは、きちんと知っていて、そのわたし、わたしの無意識ともいうべきものは、わたしの全体にはそれを隠した。 50日間、わたしは、その人の死を知らずに過ごした。
その人の死をおそらく知っていた、わたしの無意識は、その人が亡くなる前の日に、「岸辺の旅」という本を注文している。 3年前に失踪し、すでに死んでいる夫がある日、帰ってきて、本当に分かれるまでのしばらくの間を、死んだ夫と旅するという物語。
50日の間、その間は、とりわけ、忙しく、他のことで心も身体ものっとられるような日々だったのに(この時期、これほどまでに自分を別のことに集中させたのも、わたしの無意識だったのかも知れないが)その本のページを少しずつめくっては、わたしも死者との旅を続けた。
その人が死んだということを知ってから、わたしは、どこかで、その死者と旅をしている感覚がある。 話したこと、一緒に読んだ本、歌った歌、もう封印していたようなことごとも、ひとつひとつ、くしゃくしゃにした紙が開かれていくように、目の前で開かれ、宙を舞う。
わたしは、新しい歩みをすでに始め、限りなく、生に近くに身を置いているから、虚空へと引きずられる感覚は今はない。憧れもしない。
むしろ、その人の内にあった、命の輝きのようなものが、死の覆いを取り払われて、そこに舞っている感覚がある。
なんなのだろう。 なぜなのだろう。 死んだから生きることができるのか。 生きるためには死ななくてはならなかったのか。
わたしはしばらく、そんな問いと一緒に、生きていくことになるのかもしれない。
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