たりたの日記
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2012年03月14日(水) わが行くみち いついかに 

亡母の姉、92歳の伯母が天に召された。
今日はその葬儀だった。

亡くなる2日前の土曜日、夫と伯母をお訪ねした。1か月前に比べるとさらに痩せ、衰弱は進んでいたが、それでも、まどろみとまどろみの間にいくつかの言葉をかわすことができ、お別れを告げることができたことは幸いなことだった。

その場で、伯母と讃美歌を歌ったのだった。その494番の「わが行くみち いついかに」という讃美歌は、わたしの母が時々口づさんでいた歌で、母の歌を通してわたしもいつの間にか覚えてしまったのだったが、その歌を教えてくれたのは伯母だったと母から聞いていた。伯母が看護学校の学生だった頃、まだ母が小学生だった頃の話だ。

二人ともその後は教会とは無縁の一生だったが、母も伯母も不思議なようにこの歌の歌詞をずっと覚えていて晩年になっても歌うことができた。この歌が伯母と母とを繋いでいたような気もするし、また、それぞれに苦労の多い日々の中で母も伯母も、この歌を慰めや励ましにしてきたのではないかとも思う。

そうしてまた、幼いわたしが、母から教えてもらった歌がこの歌であり、わたしは意味が分からないながら、その歌に込められている何か大切なものもいっしょに受け止めたのだという気がする。

大分と東京に離れて暮らす姉妹は若い頃には、忙しさのために、年老いてからは病気や身体の不自由さのために会うことができなかった。
この暮れに骨折し寝込むようになってからは、伯母は「はやくすみちゃんに迎えにきてもらいたい」「もうすぐ会えるから、それを楽しみにしようと思っているの」と、心はすでにあちらの世界に傾いているようだった。

この世での仕事を終え、病気や痛みをもすっかり味わい尽くし、ようやく不自由だった身体を離れ、伯母は天に帰っていった。
今ごろ、お互いに再会を喜んでいるんだろうねと従弟たちと話しながら、葬儀の後の会食の場も、なごやかで安心した空気があった。

亡くなる前の晩、伯母は紙にボールペンで何か書いたのだが、その中に「天」と「会う」という文字は読めたという。
「天国で親しかった人達と会うことができる」ーそんなメッセージだったのではないだろうか。




   讃美歌494番


1 わが行くみち いついかに       
  なるべきかは つゆしらねど、      
  主はみこころ なしたまわん。      
                       

   ( くりかえし )        
 そなえたもう 主のみちを          、 
 ふみて行かん、 ひとすじに。
         
                         
2 わが心よ、 強くあれ。
ひとはかわり 世はうつれど
主はみこころ なしたまわん。
( くりかえし )


3 あらうみおも うちひらき、
すなはらにも マナをふらせ
主はみこころ なしたまわん。
( くりかえし )


2012年03月09日(金) 退職の日、別れは会うの始まり

放射線治療は終わったものの、退職までの1週間はかなり身体がきつく、もう5時に起きて6時過ぎの電車での通勤は無理なので、体調不良という欠勤理由で朝は10時半とか11時半に出勤した。

学校訪問は3月2日が最後だったので、後はファイルやデータの整理やミーティング。いよいよ最後の日、終業時間直前、今まで遣っていたパソコンの自分のファイルのデータをすべて消す。
3年間分の日報や学校へ先生方へ送ったファックス、教材、フィードバック、指導案、その他もろもろ・・・。仕事時間中に作成したものはデータのみならず、紙ベースのものでも持ち帰りはできないということなので、引き継ぎした資料以外は棄てるしかない。
今さらながら、雇われ仕事の虚しさを思った。
記憶の他には何ひとつ手元に残せないとは・・・

朝から降っていた雨は夕方になっても降りやまず、傘をさして打ち上げの会場へと向かう。3年間馴染んできた職場を離れるという実感もなければ、日々顔を合わせてきた11人の同僚と別れるという実感もなく、ただただ、何とか無事に仕事を終えることができたという安堵感と虚脱感と帰路の不安を胸に歩いていた。

駅の側の居酒屋の二階に同僚が揃った。もつ鍋をつつきながら、飲み放題のビールやワインを飲みながらの「お疲れ様会」が始まる。毎年多少の入れ替わりはあるが、今回はわたしを含める6人が退職する。みな若いので、わたしのように病気が理由に退職するものはない。結婚、他への就職、出産や育児と新しい人生に向かっての退職だ。

酔いが回るにつれ、みな泣きモードになる。どこかで考えないようにしていた「別れ」が急に現実のものとして迫ってきたのだった。それぞれの想いがシンクロし、悲しいとも淋しいともつかない感情に翻弄されているのだろうが、みなしてこのように泣けるとは何と幸せな仕事仲間であったことか。

若い同僚たちの美しい泣き顔を見ながらふと甦ってきた言葉があった。
14歳の時、別れの挨拶として聞いた言葉、「会うは別れの始まりと言いますが、わたしは別れは会うの始まりだと思っています」とその女性は語っていた。
しかし14歳では別れを次の再会への繋ぐのには若すぎる。その時出会った仲間達とはしばらく文通を続けたものの、今は名前すら思い出せない。やはり会うは別れの始まりでしかなかった。

けれどもこの別れはそうではないだろう。
きっと会うことに、新しい繋がりを結び直す新たな出会いに繋がっていくに違いない。
そんなしみじみとした明るい気持ちになり、帰りの電車ではそれまでの虚脱感は消え、ふつふつとしたエネルギーに満たされていた。



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