たりたの日記
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電車の好きなれおは鉄道博物館に興奮。とりわけ、電車の操縦のシュミレーションコーナーやキッズスペースの電車の操縦席。 鉄道博物館駅にはいつも通貨し、また乗り降りする駅なのにもかかわらず、博物館に入ったのは初めてだった。電車マニアや、れおのように電車大好きな子ども達にとってはこの上ない場所なのだろう。わたしは子どもの頃に乗っていた古い汽車の客席に座る。川端康成の「雪国」の冒頭のシーン、そしてつい先日聴いた「銀河鉄道の夜」のシーンを思い出した。
2011年08月27日(土) |
2歳のれお、ふるさとへ |
夏の最後のイベントはれお達が泊まりがけで我が家に来ること。つまり長男の家族の里帰り。 わたしの仕事は22日からスタートし、この1週間は文字通り、ヘロヘロで、お掃除も何もできておらず、こんな状態で泊まり客を迎えられるのだろうかと思っていたけれど、土曜日の昼までには何とか準備が整い、昼過ぎ、無事3人をお迎え。
2歳になったばかりのれおは最後に会った5月5日とは別人のように、おしゃべりになっていた。何でも分かり、何でも伝えられる、言葉を持つ人間になっていた!
土曜日はみんなで稲荷寿司とピザのお昼を食べた後、ひとしきり遊び、まるで小さな怪獣のようなれおにぴったりの「かいじゅうたちのいるところ」を本棚から取り出し、読み聞かせ。「もいっかい、もいっかい」を連呼する。彼のパパの2歳のころと全く同じ口調で。 わたしが2回、ママが1回読んでようやくお昼寝。
夕方近くになって、近くのつくしんぼ保育園へ。 れおは広いホールとたくさんのお友達に興奮気味。れおとパパとママとわたしの4人で園児たちと遊ぶ。園児たちとは久々に英語ヨガ。ここ半年はつくしんぼのボランティアもやれなかったからこども達の成長ぶりにびっくり。 「こんな保育園に入れたいよ」と息子。彼の通っていた「ひかり幼稚園」と同じ匂いと空気を持つ保育園だもの。れおのママもここが気に入ったよう。 こども達が「帰らないで〜」とれおのママを離さないので、れおのママは 「今度、運動会、見に来るからね、その時遊ぼうね」と。さて今度は10月の運動会にれおたちがやって来ることになるのかな。
夕食はパパママ(あたしのことを彼らはこう呼ぶ)特製の玉ねぎとにんにくのソースをかけたステーキ。パパパパは年に一度の同窓会。夕食後、パパの中学時代の友達が訪ねてくれて、二人は飲みに。
れおはママから「めっきら もっきら どおんどん」のお話(パパが3歳の頃大好きなっだ絵本)を聴き、パパママから三匹のこぶたのお話を聴きながらようやく夢の中。明日は鉄博(てっぱく、鉄道博物館のこと)
2011年08月20日(土) |
朗読会「銀河鉄道の夜」のこと |
軽井沢朗読館の朝、森には雨が降っていた。 散策はあきらめ、窓の木々を眺めながらいつものヨガをする。
昨夜の4人宴はとても楽しいものだった。思いの他お酒を沢山飲み、それぞれによくおしゃべりした。それでいてしんとした森の静けさがそのまま伝わってくるのだった。
7時前に起きると青木さんが昨晩の食器の洗い片づけを終え、朝食の支度をしようとしているところだったので、わたしが朝食作りを受け持つことにし、野菜とベーコンのスープとハムと野菜のマリネを作る。今日は午後からのイベントで忙しくなるから、お昼や夜の分もと具たくさんのスープは鍋いっぱいに。
ところでこの日、わたしはまかないとか掃除とか、あるいは受付のお手伝いくらいのつもりでいたのだが、急きょ、音響係として駆り出されることとなった。故大和定治さんの作成した、それも御自分の息で創られた汽車の効果音を朗読の合間に入れていくという作業。音量や音を強くしたり弱くしたりするタイミング、汽笛の入るタイミング、途中でなくなってしまう音をうまく繋げるという課題、午前中のリハーサルを通して見えてきたことをもとに急ぎ台本に書きいれ、自分で朗読しながら、時間を計り、タイミングを計算する。この台本がすっかり頭に入っているわけではなく、機械そのものの操作にも慣れていなかったので、どきどきだった。
一か所、うまく繋げなくてあたふたする場面があったものの、何とか効果音係の役目は果たすことができたようだ。客席からゆったりと朗読とスピナットの演奏を楽しむという訳にはいかなかったが、青木さんの朗読と小澤さんの演奏を生かす裏方として働くことができたことは得難い体験だったと思う。
お二人の「銀河鉄道の夜」の夜は言うまでもなく、素晴らしいものだった。繰り返し読んできたこの物語がまた新しい方向から迫ってきた。
この日の朗読会のことは当日の写真係の岸さんのブログに素晴らしい記録があるので、こちらをどうぞ。
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マック家の雑記帳
2011年08月19日(金) |
軽井沢朗読館のオフィスから |
今わたしのいる場所は軽井沢朗読館。 熊の通り道にもなっているような森の中にある朗読の為のホール。 今日はそこで長谷川勝彦氏の朗読会。倉橋由美子著「怪奇掌篇」から二篇。 雨の中、霧の立ち昇る森を背景に語られるにはぴったりのストーリーを十数名の方々と楽しんだ。
朗読会は午後2時からで、小一時間の朗読の後、お茶とお菓子をいただきながらの歓談。みなさんが帰られた後、わたしはここに残り、館長の青木裕子さんのリビングルーム兼オフィスの机に座り、PCをお借りしてこれを書いている。 ガラス窓の外は深い森、聞こえるのは雨の音ばかり。 森の中というのは何と深い静けさに満ちているのだろう。
明日は午後5時から青木さんの朗読と小澤さんのスピネットによる「銀河鉄道の夜」の朗読会があるので、わたしは今日はこちらに宿泊させていただき、朗読会のお手伝いをさせていただいたり、のんびり読書や朗読の練習をすることにした。思いがけない休暇夏休みの締めくくりの。
今、青木さんは熊よけの鈴を買いに出かけている。 昨日、キッチンの窓の中から目の前をのしのしと歩いていく熊を見たのだそうだ。明日の朝森を散策する時には歌を歌いながら歩くとしようか。 こういうことを書くと心配する人がいるかも知れない。 大丈夫、遠くには行きません。
来週から仕事が始まるが、今週は夏休み中。 正確に言えば、職場からもらった夏休みは4日で、すでに半日を残して消費してしまっている。 非常勤職員は年間205日の労働時間なので、夏に3週間、春には一ヶ月近く仕事のない日がある。ボーナスはないが、この仕事のない時間が有難い。
昨日は夕方から夜までジムへ行き、プールの中を歩き、マシーンの上を歩き、ヨガのクラスに出た。毎朝のヨガは1年と4カ月続いているものの、運動量は不足している。歩くことやヨガで心身が癒されるのを感じる。
今日は一日家にいて、家事と朗読の練習をした。一人で過ごす贅沢な時間。 友人のJから本と母へのお花料が届いたので、本を読み始め、感想とお礼と報告の電話をし、夕方花を買いにでかけ、りんどうとトルコききょうと、ハイブリットチースという名の白い小花を求め、ブルーのカップに小さなフラワーアレンジメントをこしらえる。 遺影のような写真は今は飾りたくないから、去年の夏、みんなで母を囲んで写した写真を飾ることにしよう。部屋の隅に、母のスペース。天使のキャンドルたて、そこのところにはいつも花を飾っておくようにしようと思う。とっておきの「梅園」というお香も焚いて。
2011年08月15日(月) |
「たりたガーデン」の10年間 |
今朝、ふと「たりたガーデン」のトップを見て気がついた。 2001年8月16日がホームページ開設の日。明日でちょうど10年ということになる。10周年記念かぁと。 このHPへのアクセス数は103748、日記へのアクセス数は189185とある。ここ数年間は本人自身も何日も開かずにすますことが多いから、いったいどんな方が訪れ、また読んで下さっているのか知るすべもない。でもこの数字。単純に計算して一日に37アクセス、日記は52アクセス。毎日書いていた頃は100近くのアクセス数だったけれど、今は10かそこいらではないかしら。今、この日記をお読み下さっている方に心より感謝。
10年前のスタートした時の日記を読み返すとその時の気分が蘇ってくる。書かないでおいたなら取り出すこともできないその時々の気持ちの有様がそのままに立ち上がってくる。なんとたくさんな出来事、たくさんの変化。喜びも、悲しみも、それはそれは様々に・・・
またここに書き続けていこう、仕事や通勤から解放されている今だからか、そんな風に思う。
昨日の夕方、盆の迎え火を焚いた。 弟の連れ合いと二人の甥っ子といっしょに。見よう見まねで、茄子に割り箸を刺してこしらえた馬も傍らに置いた。
去年のお盆の時、同じメンバーと母とで盆の送り火を焚いたのだった。これまで我が家にそんな習慣はなかったのに、どういう訳か、母が今年は迎え火と送り火をする言うので、私も付き合ったのだった。 クリスチャンである私は盆という行事そのものに馴染めなかった。野菜で作る動物も、死者の霊を迎え、また送るということも。それでも、その夏は私もその送り火を見つめていたのだった。いったい誰の霊を迎え、誰の霊を送ろうとするのかわからないままに。母が何を考えているのか分かるような気がした。
「去年はお祖母ちゃんといっしょに送り火を焚いたね」と私がぽつりと言うと、「覚えてる・・・」と甥っ子たち。その後に言葉が続かない。みな黙ったまま、松明が燃え尽き、辺りが暗くなるまで、蚊に刺されながら玄関先に座り込んでいた。
6月15日に母が他界した。ちょうど熊本から弟がやって来る水曜日で、 右手を弟に左手をわたしに取られながらの最期だった。それから息つく間もない、あれやこれや。葬儀という社会的な行為を執り行う為には個人的な悲しみを悲しんでいる訳にはいかないしくみになっているらしい。社会的にきちんとすること、恥ずかしくない葬儀を執り行うことが母の唯一の遺言であってみれば。
7月30日に大分へ帰省し、四十九日、初盆の法事、初盆会と呼ばれる、自宅へ弔問客を迎える儀式を終え、今日、自宅に戻ってきた。半月家を空けたことになる。でも私とすれば、母の病床を見舞った5月の末から今日までが一続きの緊張の中にあり、ようやく今、着地したという感覚があるのだ。社会的な役割を果たし、ようやく個人の悲しみを悲しむことができる時期を迎えたのかも知れない。
さて、それでは私は母の死に向き合っているのだろうか。 今だに、私の心はそれを拒否している。思い出すことを拒否している。対話することを拒んでいる。いったんそこと向き合えば、子供の頃から封印してきたものをこじ開けてしまうことになりはしないかと怖いのだろう。パンドラの箱を開けて収拾がつかなくなってしまうのいではと。 時間が必要なのかも知れない。
今は山に登りたい。
旅のバックを放り出したまま、わたしは富士登山のツアーを探したりしている。
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