たりたの日記
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今朝のことだった。 起きぬけに 長い、何やら色鮮やかな夢を見た。 その夢がどのようなものだったか、もうすでに思い出せないのだが、 夢の中でしきりに、「これはいかにも夢のような気がするが、これは夢ではないのだ」と確認したことだけははっきり覚えている。
夢ではないと確認しているというのに、実際はどう考えても夢であることの証拠のような奇想天外なことが続いていく。それでも夢の中のわたしはそれが夢であることを認識できない。 それが夢だとはっきり分るのは眠りから覚めた瞬間だ。 あれほど夢ではないと信じたことがやっぱり夢だった・・・と。 その落胆と安堵とが混じったような気持ちは今でも取り出せる。
さて、いったいこの命というものは、夢の中で夢ではないと言って生きているようなものかも知れないとふと思った。 自分自身の命の意味も、なぜここでこうして生きているのかも、ほんとうのところは分ってはいないのだから。けれど、この生の先に、すべてのことがくっきりと見える時を迎えるのだと思う。 すべての事を顔と顔を合わせてみるようにはっきりと見るだろう―という聖書の言葉通りに。
しかし夢の中のわたしが、どれほどほんとうのところを掴まえようとしてもかなわないように、今の時間の中で、ほんとうのところを掌握することはできない。はっきりと目覚める時までは、この夢の中のような生を歩んでいくしか術がないのだ。
ここまで書いて思い出したことがある。 別の時、わたしは夢の中で、これはどう考えても夢だと、確信した。夢ならば、この高い崖の上から飛び降りたなら、下へ下へと下降しても地面すれすれのところで、鳥のようにまた飛翔するだろうと思った。それならせっかくの夢なのだから、飛んでみましょうと飛び、わたしは思い描いた通りに気持ちよく鳥のように飛んだのだった。
今のわたしはどちらに近いのだろうか。 夢を夢ではないと言い続けて生きている方に近いのだろうか、それとも夢なのだから、夢の中でしかできないことをしようとしている方に近いのだろうか。
もう就寝の時間を過ぎてしまったのに、こんな夢のような事ばかり書いている。 さて、本来の夢の中へ。
すっかり住み人の居ない家、手入れのされないまま放置された庭のようになったこの場所におそるおそる足を踏み入れる。
9月、10月、11月、2009年の秋がすっかり空いてしまった。 ここで書くということの意味を見失ってしまっていた。
わたしの一日の時間の中で、ここに書く時間が見つけられなかった以上に、どこか自分に向き合うモードが欠如してしまっていた。
けれど季節はアドベント。 教会暦では新しい一年の始まり。
クリスマスの飾りつけはもうしないけれど、 気持ちだけは待降節に相応しく、 自分の内側に、さらに内に、目を凝らしていたいと思う。
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