たりたの日記
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2009年07月30日(木) 誕生



孫が生まれた
祖母となった
家族に新しい命が加わった
ともかくも
彼の人生が
この日に始まった
わたしは老いてゆくとしても
新しい命は育ってゆく
わたしが弱ってゆくとしても
新しい命は力を増してゆく

母親となった自分がどう母親を生きるのか
見当がつかなかったように
祖母となったわたしがどうなっていくのか
予想もつかない
でも
きっと
何かが変わるはず
新しい命は
まわりの人間をそこへと引き込み
喜びや驚きを与えてくれるのだろう



2009年07月29日(水) 「熊の命を食べる 」 という詩

昨日の日記にイーノトシロヲさんの一人芝居のことを書いて、そこから同時に思い出されることがあった。

熊の肉を食べた時のこと。
あの時、熊の肉を食べながら(泣きながら食べたのだが)
イーノトシロヲさんの演じた熊の声が、その時、食べている熊の声となって聞こえてきたからだ。

あの熊の肉の味も触感も、そしていただいた命への畏れ多さと、感謝の気持ちも忘れることはできない。

ちょっと元気がなくなることがあって、
自分を奮い立たせたい気持ちもあって
あの時書いた熊の詩を探した。
見つかったので、また、ここに。

日々 生きものの命をいただいているものとして
命を持つことの痛みもきちんと引き受けていかなくてはならない。




2004年04月17日(土) の日記


熊の命を食べる 

 
熊の肉を食った
噛み締めながら食った

熊が過ごしただろう深い森や
熊が渡っただろうさらさらと石の上を流れる小川や
熊が夢みただろう暖かく湿った穴倉
そんなものもいっしょに食った

熊の命のかけらはみっしりと弾力があり
噛んでも噛んでも飲み込めない

「俺の命を食うんだぞ、そんなにやすやすと飲み込むんじゃない。
 噛め、しっかり噛め、俺の命を味わえ」

しっかり動かしている歯と歯の間から
熊の声が聞こえてくる

昨日食った熊の命は
今朝はわたしの身体の中で血液となって
流れているんだろう
その肉は分解され、また組み合わされ
わたしの腕の筋肉に組み込まれるのだろう

森の熊といっしょだ
今日は
身体にも心にも強い力が満ちているはずだ

朝が新しい気がする


2009年07月28日(火) 2002年02月02日の日記・イーノトシロヲさんの宮沢賢治

あまり書き込みがなく、それでついチェックを怠ってしまうホームページのguest note をふと開いて驚いた。

書き込みはイーノトシロヲさんの奥様からだった。イーノトシロヲさんの一人芝居は一度しか観ていないのだが、今までに見たり聞いたりした宮澤賢治の表現では今持って最も印象的で忘れることのできないお芝居だった。
今も、7年前のその芝居を、イーノトシロヲさんご自身をありありと甦らせることができる。
あの命溢れる舞台の三年後の2005年6月10日に、イーノトシロヲさんが癌でお亡くなりになったということも今日知った。そして奥様が、闘病中のイーノトシロヲさんに、わたしの書いた日記を何度も見せて下さったということも。

あのお芝居も、そして書いた日記も、7年も前のことなのに、その時が今の時間の中に入ってくる。そしてすでのこの世にはいないイーノトシロヲさんのあのお芝居も記憶の中で生き生きと生き返る。

生きるということ、表現するということの不思議。
いつまでも消えずに生き続けるものがあるのだ。

ここに、イーノトシロヲさんの一人芝居を思い起こしながら、その時の日記を載せたいと思う。日記に続けて、イーノトシロヲさんの朗読で泣きながら聴いた賢治の詩もいっしょに。


2002年02月02日(土) イーノトシロヲさんの宮沢賢治

息子の通う高校で宮沢賢治の作品の一人芝居があるというので夫と出かけた。一人芝居を演じるのはイーノトシロヲさん。会場の視聴覚室はもうアングラ劇のテントの中のような空気に包まれていた。
出し物は「どんぐりと山猫」と「なめとこ山の熊」。「どんぐりと山猫」は二人ともかなり好きな作品でいつだったかお互いに朗読してみたりしたこともあった。

宮沢賢治が好きな人にはたくさん会ってきた。本も映画も舞台も様々な人が語ったり表現したりする賢治の世界を見てきた。その人を通しての賢治なのに、そこには紛れもない賢治だけが持つ世界が再現されいつもいつも胸がいっぱいになった。目の前に現れたのはイーノトシロヲという初めて出会う人だが、彼の口から出てくることばは長年馴染んできた賢治の言葉であり、芝居を通して見えてくる情景も、そこに吹く風もなつかしくてならない世界だった。ただその世界がぼんやりとではなく色あざやかにまた生き生きとそこに映し出されていた。しっかりとした語りであり演技であったからだろう。私はすっかりお話に身をまかせて一郎の後をつけていっしょに山猫とどんぐりの世界へ旅し、また熊撃ちの男の後を歩き、熊の声を聞いた。

二つの芝居の後にイーノトシロヲさんは観客へ向けてのメッセージを語った。それは賢治の「注文の多い料理店」の序文として賢治が書いたものだった。それはそのまま賢治の作品を演じるイーノトシロヲさんの心からのメッセージだったのだろう。その語りかけを聞きいて泣けた。賢治の言葉に触れる時にしか起こらないひとつの感情。なぜ賢治が好きなのか言葉にはできないがこのどうしても泣いてしまうこのツボがその理由だと分かっている。

「わたくしは、これらのちいさなものがたりの幾きれかが、おしまい、あなたのすきとおったほんとうのたべものになることを、どんなにねがうかわかりません」という賢治の願いはみごとにかなって、どれほど彼のものがたりは私のすきとおったほんとうのたべものとなり私を養ってくれたことだろう。そして今日もこの一人芝居を通して私はこの稀有なたべものをたっぷりといただいた。感謝。


********************

注文の多い料理店  序


わたしたちは、氷砂糖をほしいくらいもたないでも、
きれいにすきとおった風をたべ、
桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます。
またわたくしは、はたけや森の中で、ひどいぼろぼろのきものが、いちばんすばらしいびろうどや羅紗や、宝石いりのきものに、かわっているのをたびたび見ました。
わたくしは、そういうきれいなたべものやきものをすきです。
これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらってきたのです。
ほんとうに、かしわばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかったり、十一月の山の風のなかに、ふるえながら立ったりしますと、もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。
ほんとうにもう、どうしてもこんなことがあるようでしかたないということを、わたくしはそのとおり書いたまでです。
ですから、これらのなかには、あなたのためになるところもあるでしょうし、ただそれっきりのところもあるでしょうが、わたくしには、そのみわけがよくつきません。なんのことだか、わけのわからないところもあるでしょうが、そんなところは、わたくしにもまた、わけがわからないのです。
けれども、わたくしは、これらのちいさなものがたりの幾きれかが、おしまい、あなたのすきとおったほんとうのたべものになることを、どんなにねがうかわかりません。

     大正十二年十二月二十日
                          宮 澤 賢 治 


2009年07月27日(月) 葛西善蔵の「哀しき父」 を読んだ

久々の文学ゼミに参加。

テキストは葛西善蔵の「哀しき父」
一度ざっと読んだ時には、事実が淡々と語られ、何も訴えてくるものがない文章だと思った。

ところが二度、三度と読んでいるうちに、わたし自身の気持ちが沈静させられるというか、慰められるというか、良い気持ちにさせられていることに気づく。

じめじめした陰湿な梅雨の時期のこのうえなく不健康な長屋のようすや、このうえなくみじめで貧乏な生活が描写されているのに、そこに心地よさや慰めを感じてしまうのはどういうわけだろう。

けっして美しいものを描いてあるわけではなく、むしろ汚いもの醜いものが描かれているというのに、そこに美しいものを感じてしまうのはどういうわけだろう。

何が、人に心地よさや美しさを感じさせるのか、それは、この作家の場合、表現されたものとは裏腹に、作家自身の人格、敢えて言うなら、その個が持つ、エッセンス、エネルギーそのものが持つ、心地よさ、美しさが伝わってしまうからなのだろう。

作家が、思うことを、淡々と書けば、そこには自ずとその人の魂のカタチが滲んでくる。
文章を味わう味わい方には、書かれている思想やストーリーの面白さとは別に、その作家の持つエッセンスを味わうことでもあるのだろう。

ゼミの中では、わたしがぼんやりと考えていたそのことに、共感し、意味づけをしてくれる若いメンバーがいて、この作家について、改めて興味を覚えた。

「悪魔」という作品が面白いそうだ。そのうちテキストに取り上げられることだろう。


参考:青空文庫  哀しき父(葛西善蔵)

   http://www.aozora.gr.jp/cards/000984/card1070.html





フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

葛西善蔵(1925年撮影)葛西 善蔵(かさい ぜんぞう、1887年1月16日 - 1928年7月23日)は、日本の小説家である。青森県弘前市に生まれた。

略歴 [編集]
生家は広く商売をしていたが、善蔵が2歳のときに没落、一家は北海道や津軽地方を転々とした。善蔵は母の生家の碇ヶ関村に住み、そこで小学校の課程を修了し、商家の小僧をはじめさまざまな職業に就く。文学を志して上京し、東洋大学や早稲田大学の聴講生となるなかで、舟木重雄や広津和郎たちと知り合い、同人雑誌『奇蹟』のメンバーとして迎えられる。1912年、『奇蹟』創刊号に「哀しき父」を発表して、作家としての力量を発揮した。

その後は、しばらく故郷と東京を往復しながら作品を書くも、生活は困難をきわめた。1919年に創作集『子をつれて』を新潮社から刊行し、作家としての地位を確立することはできたが、家族を養うことは難しく、それがその後の葛西の生活におおきな影響をもたらした。葛西の作品は、ほとんどが自らの体験に取材した〈私小説〉といってよいもので、そこに描かれた貧困や家庭の問題は、その真率さで読者に感銘を与える。一方、妻を故郷において東京で別の女性と同棲して、子もなしたことへの批判は当時から根強く、それへの反発が葛西の作品の底流にある。40歳に近づく頃から生活も荒れ、執筆もほとんどが口述筆記となり、嘉村礒多がその任にあたった。肺病が重くなり、1928年、41歳で死去した。

生活の悲惨さのなかで、それを逆手にとったような葛西の文学には、人をひきつけるところがあり、それが葛西の作品を広めているところがある。故郷の弘前では、石坂洋次郎や戦後代議士となった津川武一が、葛西文学の顕彰のために力をつくしていた。


2009年07月26日(日) のんびりと教会

のんびりと教会・・・
なんだか今日はそういう気分だった。

かといって、とりわけのんびりしたスケジュールというわけでもなかったのだ。
教会学校の始まる9時には教会に行き、教会学校ではオリガンを弾き、礼拝の前には、結婚するメンバーのための色紙を用意し、礼拝の後には大掃除があり、その後には教会学校の教師会が3時過ぎまで続いた。
やったことだけを並べれば、いつもの日曜日以上に忙しい日曜日と言えるくらいなのに、やはり、とてものんびりした気分だったのだ。

のんびりした気分というのは、ストレスやプレッシャーがなかったということなのだろう。
しかし、それはどういう訳で?

一つは教会の他には「やらなくてはならないこと」がなかった。
午後からの英語クラスが今日はない。
明日は仕事もないから、そこから来る緊張もない。

夏休みに入り、研修などはぽつぽつと入っているものの、訪問する学校で、どんな事が待っているのか、どんな事が求められるのか、未知な事に対する無意識の緊張から自由になっているのだ。

しかし、日曜日の、こののんびり感も、これまでの忙しい日々があったからこそなのだろう。
それまでは、さほど忙しくもなかったのに、こんなにのんびりとした気分で教会にいることはなかった。

忙しさや余裕のなさは、気持ちの持ち用にあるとつくづく思う。
どんなに忙しい事を抱えていても、悠然と構えることができたら、のんびりとその日を過ごすことができるのだろう。
のんびりと、けれども、仕事ややるべきことはサクサクやれるのかも知れない。

さて、明日早起きするためにもう寝ようかな。









2009年07月11日(土) 奥多摩 鋸山へ

< 鋸山山頂より>


白神山地方の旅から戻ると遊山倶楽部から山行の案内が来ていた。


遊山倶楽部山行:7月11日(土)鋸山、大岳山

1. 電車: 新宿7:07発、 立川:7:43着、乗り換え7:51発。 青梅8:24着、8:26発。奥多摩 9:07着。
   (バスはなし)

2. 歩き:
  奥多摩駅 → 2:20 → 鋸山 → 1:40 → 大岳山 → 1:30 → 御岳山 → 0:10 → ケーブルカー駅

 (昼食は、鋸山と大岳山の途中になります。場所はペースしだい。大岳山までは登りなので、昼食は小さくまとめて、御嶽山あたりで、あらためて小宴会ということで)。
 ペースによっては、鋸山往復となるかもしれませんが、ご了承ください。

 蒸し暑いなか、結構、長く感じると思います。多めの水と紫外線対策に気をつけて。

3. 電車(帰り): ケーブルカー駅から御嶽駅に出て、帰ります。

 では、当日。



遊山倶楽部からの案内は月に一、二回は来るがこの一年はほとんど参加できず、4月からフルタイムで働くようになってからは週末に山に登る体力も気力もなかった。
でも一人旅でリフレッシュしたせいか、土曜日には山に行けるような気になっていた。

しかし月曜日から金曜日までは朝5時起きの通勤と仕事がびっしり詰まっている。山に行くかどうかの最終決定は土曜日の朝としよう。
それでも木曜日には山に持っていくピクルスなど作っておいたのだった。

土曜日の朝、いつもの時間に目覚める。昨日までの疲れも取れている。山に行ける!

けれど仲間の集合時間に間に合いそうもない。7分ほど遅れるが新宿発7:44、の快速ホリデー快速おくたま1号で行くことにし、いつも出勤に使う6時15分の電車に乗り込む。

仲間に遅れ、後から一人で歩き出し、途中で追いつくといったことはこれまでもあった。山に入れば、道は辿れるものの、苦労するのは登山口を見つけることだ。うまく登山口を見つけることができるだろうかと緊張しつつ、地図やガイドブックを眺めつつ、登山口の愛宕神社周辺を頭に思い描いていた。

幸いなことに、わたしのように後から遅れて来るメンバーもいて、奥多摩駅につくと、いつもの仲間が待っていてくれた。

9時半頃から歩きはじめたが、鋸山までの道は意外に遠かった。お腹を空かせて昼をずいぶん過ぎてようやく頂上。山頂から向こうに見える山々の青いシルエットが美しかった。奥多摩の山からはこうした風景はなかなか見ることができないと誰かが言っていた。
そういえば、九州の山からの眺めに似ている。

山頂ではいつもの豊かな宴会。
そのまま来た道を下山しようという話も出ていたが、登りがなかなか大変だっただけに、その道をまた下るよりは、大岳山から御岳山へ抜けて下山する方がまだ樂だろうということになった。
とにかく歩きに歩く。途中、Nさんと話しながら歩いているうちに先を歩いていた仲間の姿が見えなくなるが、一人ではないから不安になることもなかった。
御岳駅から最終のロープウェイで下山し、もう、御岳駅までのバスはないので、暗い道を御岳駅までさらに歩いた。

駅の側まで来て橋を渡った。あぁ、暗くなってから、この橋を渡ったことがあったと別の時の山行きの記憶が戻ってきた。
あの時には橋の上に白い月が出ていたが、見上げた空に月はなかった。

仲間と立川で別れ帰路に着く。

よく歩いた。充分歩いた。思い残すことがないほど歩いた。
一人ではこんなに長い距離は歩けない。
仲間と連れ立って歩くことで安心して長い時間歩き続けることができる。
またいっしょに行けるといい。













2009年07月07日(火) ただ波の音を聴いて過ごした一日

7月23日に記す7月4日の日記。


さて、2日、3日と十二湖を散策し、
4日は白神山か二つ森山へ登ろうと考え、あきた白神駅の側、「ハタハタ館」に泊まったのだが、朝は雨が降っていて、登山口までの交通機関を確保するのも難しいので、この日は夕方の電車の時間まで海を眺めて過ごすことにした。
昨日もホテルの窓に広がる日本海を眺めていた。
日が暮れてからも暗い海の向こうでチラチラ揺れる漁り火を眺めて過ごした。海岸に座って雨の日本海を眺めるにも良いだろう。

遅い朝食を終え、宿を出る頃には幸い雨も上がっていた。
チェックアウトを済ませ、キャンプ場を抜け、松林を歩き、海岸へ降りる道を探す。



人のいない静かな海岸だ。
ゴツゴツと岩が続いているがトレッキングシューズだから大丈夫。
そもそも山に登りに来たのだからと大きな岩に取り付いては岩をよじ登り、
座り心地のよさそうな場所を見つけた。

足元まで波がかかりそうに海に近い岩場に陣取る。
寄せては返す波は荒い岩肌にぶつかっては砕けるので、その音は思いの他大きい。

波のうねりは人間の身体のリズムと何と深くかかわっているのだろう。
怒り、歓び、不安、哀しみ、やってくる感情のうねりはこの波のうねりと同じリズムなのだと思う。

ひりひりした感情の粗さや負荷がザブンザブンと波で洗われ、すべらかにされてゆくようで、いつまでもこうしていたかった。




実際、10時から午後2時くらいまでただただ波の音を聴いて海を眺めて過ごした。

カニが岩から顔を出してゴソゴソ貼ってきたので、歌のあるように、カニと戯れたりもできるのかしらとクッキーのかけらで気を引こうとしてみたが、この磯のカニは焼き菓子はお気に召さなかったとみえ、また岩の裂け目に入っていってしまった。



ホテルに戻り、遅い昼食を摂り、海を見ながら温泉に浸かり時間まで過ごす。はたはたの浜焼きと岩のりをお土産に買って、17時25分発のリゾートしらかかみ4号に乗る。
二号車の6人がけのボックス席にわたし一人だけだった。

秋田発19時7分のこまち32号に乗り継ぎ、初日に会ったSにメールを送る。

「今電車はあなたの住む町を通り抜けるところです。ありがとう。会えて良かった。いい旅でした。いつかいっしょにリゾートしらかみに乗りましょう。」


大宮着22時42分。帰宅。


2009年07月06日(月) 最後は冒険〜王池を一周

7月22日に記す (十二湖散策その5 )



しつこく十二湖の散策のことを書こうとするのは、ここにアップしたい写真がまだあるからなのだが、これで最後にしよう。

この日の散策の最後は十二湖の中でも大きな王池。
これはちょっとした冒険だった。

それというのも、「ここからは危険です。立ち入らないで下さい」という注意が貼ってあるロープをくぐっての散策だったからだ。

散策マップには王池を形成する東湖盆と西湖盆の周囲を歩ける路が記されているにもかかわらず、入れない。しかも厳重な柵が張り巡らせてあるわけでもなく、誰でもくぐれるロープが一本渡してあるだけなのだ。

それならば、どこが危険なのかを見極め、危険な場所まで行って引き返せば良いと自分に都合の良い理由を付け、ともかく歩いてみることにした。




散策路は湖面ぎりぎりに迫っている40分の道。
そもそも、柵も何もない湖の脇を歩く事自体、一般観光客の散策コースとしては問題がある。革靴やサンダルでうっかり歩くならば、すべって湖に落っこちる危険性は大。もちろん小さな子供も足元のおぼつかない老人も危ない。

湖の脇の道を用心しながら歩いていくと、木の橋にぶつかった。老朽化して木が腐り、穴から下が透けて見えるという、今にも壊れそうな橋だ。立ち入り禁止の理由はどうやらこの橋らしい。わたし一人の体重は支えられても、この上に10人の人が乗っかると壊れてしまうだろう。
人を入れなくなって久しいのか、散策路は荒れ、草に覆われていた。

ともあれ、トレッキングシューズにザックという山行のいでたちの一人客なら問題はなさそうだ。
そういうわけでまたしてもこの広い湖水の周囲を歩いたのははわたしだけだった。

<王池>


全くの静寂と広い水面は美しいけれども、不安を掻き立てられ、どきどきしている。
ここに長く留まりたい気持ちと、早くここを抜けて人通りのある道に出たいという気持ちが鬩ぎあっている。

カメラに気を撮られて足を滑らせてはいけない。
写真は一二枚にし、後は歩くことに専念し、ほどなく散策路が終わり、車道に出た。折りよく昨晩泊まったアオーネ白神十二湖の送迎バスが走ってきたので、乗せてもらいアオーネ白神十二湖まで。そこの立ち寄り温泉で汗を流し、十二湖駅から16時57分のリゾート白神号でこの日の宿泊場所のあるあきた白神駅まで。




2009年07月05日(日) 生きている木と死んだ木と〜沸壷の池

7月22日に記す(十二湖散策その4 )

<沸壷の池>


沸壷の池

そこには三つの木の姿があった

地面から空へと伸びる呼吸する木

その木と同じ姿をして水面に映しだされた幻の木

そして透き通った水の底に沈む

朽ちつつある屍となった木

そのどれもが異なる美しさを放っていた


けれど

わたしの眼は

水底を探し

死んでいる木ばかりを見ようとしていた

命が終わった後の静けさと

終わりがあることの厳しさと

そしてそこから伝わってくる

言葉にはならない なにかを知ろうとして






2009年07月04日(土) 呼び交わす蛙の声と声〜糸畑の池で

7月22日に記す (十二湖散策その3)

<糸畑(いとばたけ)の池 >


青池から金山の池を巡り、もののけの気配が迫ってくるような密林をようやく抜けたところに糸畑の池はあった。

何も生きものの姿は見えない静かな湖水のあちらこちらから何とも高らかな生きものの声がしている。

蛙?
これは蛙に違いないのだが、わたしの知る、虫のように同じフレーズを繰り返す蛙の声とは明らかに違う蛙の声にどきりとする。

ギュルーリ ギュギュ ギュッルーリとあちらから聞えれば、そこから随分離れた草叢からクルッ クルッ クッ クッールとそれに答える声がする。

そうすると、また別の声の蛙が、グッ グッ グルッグ と鳴き、そこにまたクルッブ クル クル クルッブ クル クルと呼応する蛙がいる。

呼び交わす、蛙の声と声・・・

恋人の蛙どうしがお互いに呼び交わしているような艶かしく、生き生きとした声が響き渡っているのだった。

これはもう言葉だとあっけにとられる。

わたしには意味は分からないが、彼らは言葉を語っているのだと。

あぁ、詩人、草野心平はこの蛙たちの言葉を聴き取ったのだなと思った。

わたしには蛙の言葉を聴き取る耳がないので、
草野心平の詩の中のごびらっふさん、どうぞ、こちらに登場して下さい。




ごびらっふの独白     


              草野心平


るてえる びる もれとりり がいく。

ぐう であとびん むはありんく るてえる。

けえる さみんだ げらげれんで。

くろおむ てやあら ろん るるむ かみ う りりうむ。

なみかんた りんり。

なみかんたい りんり もろうふ ける げんけ しらすてえる。

けるぱ うりりる うりりる びる るてえる。

きり ろうふ ぷりりん びる けんせりあ。

じゆろうで いろあ ぼらあむ でる あんぶりりよ。

ぷう せりを てる。

りりん てる。

ぼろびいろ てる。

ぐう しありる う ぐらびら とれも でる ぐりせりや ろとうる ける ありたぶり

あ。

ぷう かんせりて る りりかんだ う きんきたんげ。

ぐうら しありるだ けんた るてえる とれかんだ。

いい げるせいた。

でるけ ぷりむ かににん りんり。

おりぢぐらん う ぐうて たんたけえる。

びる さりを とうかんてりを。

いい びりやん げるせえた。

ばらあら ばらあ。






 日本語訳




幸福といふものはたわいなくっていいものだ。

おれはいま土のなかの靄のような幸福に包まれてゐる。

地上の夏の大歓喜の。

夜ひる眠らない馬力のはてに暗闇のなかの世界がくる。

みんな孤独で。

みんなの孤独が通じあふたしかな存在をほのぼの意識し。

うつらうつらの日をすごすことは幸福である。

この設計は神に通ずるわれわれの。

侏羅紀の先祖がやってくれた。

考へることをしないこと。

素直なこと。

夢をみること。

地上の動物のなかで最も永い歴史をわれわれがもってゐるといふことは平凡ではあるが偉大

である。

とおれは思ふ。

悲劇とか痛憤とかそんな道程のことではない。

われわれはただたわいない幸福をこそうれしいとする。

ああ虹が。

おれの孤独に虹がみえる。

おれの単簡な脳の組織は。

言わば即ち天である。

美しい虹だ。

ばらあら ばらあ。



2009年07月03日(金) 雨の原生林

7月21日に記す (十二湖散策その2)

<青池〜金山の池へ続く路>


7月3日

朝4時、浅い眠りから覚めるとログハウスの中に鳥の音が満ちていた。
充分な眠りではなかったが、もう一度まどろむよりは朝の森の中へ出かけよう。

シャワーをあび、外に出る。
小雨が降っている。
7時の朝食まで、にログハウスの周辺を歩く。
誰もいない雨の草原の中に立っていたらしきりと涙が出てくる。

朝食の後、今日の散策のスタート地点にバスで向かう。
小雨程度なので、雨具を付けず、スパッツだけにし、ザックカバーを付け、傘をさす。

今日の散策は夏でも人影の少ないという金山の池を目指すコースから始めよう。

青池→金山の池→糸畑の池→菅原の池→沸壷の池→日暮の池→影坂の池→日本キャニオン→八景の池→二ツ目の池→王池
と6時間ほど歩いた。

リフレッシュ休暇村に着くまでの3時間あまり、誰もいない、雨の密林を歩いた。この森に自分一人しかいないのだが、目に見えない何か強く生々しいエネルギーに満ち満ちているのだ。何度も足を止めやってくるものに息をこらす。身震いするような畏れと興奮。
一人で歩く時にしか得られないこの気分がとても好き。

腰ほどにもある雨に濡れたワイルドなシダの中を歩くので、スパッツの上のズボンはびっしょり濡れてしまったが、雨は森を覆うブナやカツラなどの木々が避けてくれるお陰で傘もささないで済むほどだった。

十二湖の地形は3千年前に形づくられたものらしい。
ここ、青池から金山の池への原生林は十二湖の中でも屈指の森と記されているが、しかし何と美しく、命に溢れた原生林だろう。







2009年07月02日(木) 十二湖散策

7月20日に記す ( 十二湖散策その1)

<青池>


白神山地方面へひとり旅。

まだ夏休みには間があるが、大人の休日倶楽部三日間12000円のフリーパスを使いたいので、2日と3日は夏季休暇を取り、二泊三日の旅の計画を立てた。

<7月2日>

7時22分大宮発、秋田着10時54分。秋田に住む友人のSと会い、千秋公園の側のレストランでランチ。再会を喜び、ゆっくりした時間を過ごす。

秋田発14:10、リゾート白神5号の乗り、十二湖下車 16:04
十二湖駅前から16:15発のバスに乗り、十二湖駐車場着16:30
最終バスまでの時間、青池ーブナ自然林ー落口の池−鶏頭場の池を散策。
すでに観光客は引揚げた後だったので、人影のない静かな散策コースを歩くことができた。
水の青、木々の緑、息を飲むほどに美しい。

十二湖駐車場発18:15で宿泊場所のアオーネ白神前へ18:35
6人用のログハウスに一人で宿泊という贅沢。朝食付き8400円
別館に温泉施設とレストランがあり、快適な宿泊施設だった。










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