たりたの日記
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2008年10月18日(土) 映画『宮廷画家ゴヤは見た』





インパクトの大きな映画だった。普段は買うことのない映画のパンフレットを買ったくらいだから。
この映画の向こうに製作者の並々ならぬ情熱を感じた。この映画が、いったいどのような情熱に支えられて作られたのかを知りたいと思った。

もともと、この映画を見ようとしたきっかけは、夏に見た「コレラの時代の愛」で主人公の男性を演じたナビエル・パルデムがこの映画では神父を演じていると聴き、ぜひ見たいと思ったのだった。

監督のミロス・ファオアマンは「カッコーの巣の上で」と「アマデウス」でアカデミー監督賞を受賞している人だが、学生の頃に宗教裁判についての本を読み、いつか、この事をテーマに映画を作りたいと考えていたということだった。

映画の中の事とはいえ、理不尽な異端審問は腹だたしく悲しかった。
キリスト教会が神の名の下で犯した罪、それを見詰め、諷刺画として記録したゴヤのヒューマニズム。
弄ばれ、裏切られたにもかかわらず、初めて愛し合った男をその死の時まで慕い慈しむ女。
人間の醜悪さと美しさとをそこに見た。

『宮廷画家ゴヤは見た』予告編

YouTube

『宮廷画家ゴヤは見た』公式ホームページ


公式サイト


2008年10月17日(金) 秋色に染まる山路へ人を避け



ここに残しておきたい草津白根山の写真があった。
白根山の湯釜展望台までは人で登山道が塞がれるほどだったが、逢の峰に向かう山路は人影がなく、ようやく山に来たという気持ちがしてほっとした。




わたしが持っている地図には逢の峰から山頂駅へ下りる登山道が記されていなかったが、下りられない事もないだろうと、さらに人気のない道を行くと、山頂駅に出た。
そこから本白根探勝歩道を歩き、本白根展望所へ。
目の前に浅間山や赤城山がくっきりと見えていた。


2008年10月16日(木) 秋進み踊る骨のよう木々の白





こんな秋の姿もまたあった。

白い細い枝はまるで骨のよう。

その骨は、けれど、枯れた骨ではなく、

エゼキエルが神の息を吹き込んだ、

生き返り動き出した骨のように見える。

その艶かしく、怪しい美しさ・・・

東山魁偉の絵のようだと思った。





2008年10月15日(水) 紅葉を映す水面の空の青







2008年10月14日(火) 青い水湛えて静か草津湯釜



紅葉狩り湯釜を目指す人の列


紅葉身頃の草津白根山。人の多さは覚悟していたものの、湯釜を目指して歩く人の多さには驚いた。

湯釜周辺は観光客で混雑していて、雄大で神秘的なはずの青い河口の水も、何か作り物っぽい感じがあって、人が入らないようにカメラのシャッターを切ると、早々にその場を離れて山道へと逃れた。

ところが、家に戻って写した写真を見て、その姿に驚く。
爆裂火口にミルキーブルーの水をたたえた火山口の写真はあの時の喧騒から剥がされ、しんと静かでゆるぎない表情を見せてくれる。


2008年10月13日(月) 秋晴れの草津白根にナナカマド

さてどこへ紅葉情報気もそぞろ

皮切りは草津白根のナナカマド


先週末仲間は秋の八ヶ岳に一泊二日の山旅をした様子。写真が届く。
お誘いがあったもののわたしは断念。
あこがれの山、一人では行けない山という気がしているので、良いチャンスだったが、日曜日がどうしても空けられなかった。

行ける時に、紅葉情報をチェックしながら、今年も秋の中に出かけていこう。
13日は幸いなことに快晴。
草津白根山は良い具合に色づいているらしい。観光客もどっと繰り出していて賑やかな山かもしれないが、火山特有の雄大な風景は楽しめることだろうと思い、出かける。































2008年10月11日(土) 土曜日のきのこのパスタ

思いがけずにおいしいパスタができた。
しめじとエリンギとチキンのパスタ、醤油味でフレッシュバジルをアクセントに。
どこのレストランのメニューにもお目にかかったことはないのだが、自分としては気に入った。
忘れないうちにここに書き残しておこう。

おいしそうだと思われた方はお試しあれ。
ただし、わたしは計量スプーンなどは使わないので、分量はあくまで個々のさじ加減で試していただくしかない。

<材料>

スパゲティー 300g〜400g
エリンギ、しめじそれぞれ一パック。
鶏肉モモ 300g〜400g
バジルの葉 5,6枚  
にんにく 1かけ
オリーブ油 適量
醤油    適量
白ワイン  適量
塩、コショウ 適量
ガーリックマーガリン


<作り方>

1、オリーブ油をフライパンに適量入れ、にんにくの薄切りを入れて香りを出す。

2、一口大に切って塩コショウした鶏肉を1に加え、焦げ目を付ける。

3、そこにきのこ類、と刻んだバジルの葉を入れ、ガーリックマーガリンを  少量加えて炒める。

4、白ワインを回し入れ、きのこ類がしんなりするまで炒める。

5、味をみながら醤油、塩で味を調える。パスタにからめるので味は濃い目にする。

6、茹でて、オリーブオイルをまぶしたパスタに上記のソースをからめて出来上がり。


肉が入っているので、ボリュームのあるパスタの割りには醤油味なのであっさりしています。
きのこは他にもしいたけやまいたけえのきを入れてもよいかも。
ワインと合う一品。






2008年10月10日(金) 金曜日は家事日

金曜日は仕事がない。勉強会やボランティアといった出かける用もない。
けれど、この金曜日が一番忙しかったりする。

今日やったことを順番に書いてみると

英語教室の会計処理。
郵便局へ。
英語教室ハロウィンパーティーの会場の下見と買い物。
お菓子やキャンディー類はとても自転車では持ち帰れないことが分かったので、出直す事にし、子ども達にあげる指人形とハロウィンのシールを35人分買う。
途中、楽しそうなハロウィンのデコレーションに釣られてサーティーワンにふらふらと・・でパンプキンプディングのアイスクリームを食べる。去年もこの時期にこのフレーバーのアイスクリームを食べた事を思い出した。

さらに寄り道をしたくなり、バラ公園へ自転車を向ける。
いつものベンチに腰を下ろし、次回のゼミのテキスト倉橋由美子の「月の都」を朗読する。
倉橋由美子はその昔、「パルタイ」を買ってしばらく書架の中にあったものの、果たして読んだのだろうか、記憶がない。読む気になり、アマゾンで「聖少女」を注文。
しかし、今読みたくてたまらないでいる、ガルシア・マルケス著「コレラの時代の愛」を読み終えるまでは、他の本には手が出せない。

そんな寄り道などするものだから、予定していたガーデニングの時間がすっかり遅くなってしまったじゃないか。
日没と競争するかのように、徒長したレッドロビンやセージ、ローズマリーの類に、バサり、バサリとハサミを入れる。
まるでジャングルのような庭だ。とても終わるものではない。週末は時間が取れそうにないから、来週の金曜日に続きをやるかな。

さて、急いでシャワーを浴び、夕食の下ごしらえをし、7時からの保育園の職員会議へ。議題は今月19日の運動会のこと。わたしは保育園の職員ではないが、当日、本部席でマイクでいろいろしゃべる役目をもらっている。
昔、中学校や高校の放送部でやっていたあの仕事。

8時半、夫の帰宅に合わせて、もやしとニラとレバーの炒め物を手早く作り、
味を馴染ませておいたイカと野菜のマリネと豆腐のサラダと共に食卓へ。
もちろん、ワイン。といっても昨日の残りなので、いくらも飲まなかったが。

今日、やるつもりでやれなかったのは息子の部屋の残骸処理、朗読の練習と録音、読書。

さて、本は後1時間は読めるかな。


2008年10月09日(木) 木曜日のワイン

このところ、なぜかワイン。
4年ほど前アルコールに目覚めてからは何といっても焼酎だった。
で、夕食は煮物や和風サラダといった焼酎に合うものが断然多かった。
ところがワインとなると煮物は食べたくない。
パスタやサーモンと野菜のマリネにチーズ、フランスパン、そしてアジのフライなんか。

木曜日は早朝からジムへ行き、3時過ぎから8時近くまで仕事という日。
この日はどういうわけか、とりわけワインが飲みたい。
ジムの帰りにスーパーに立ち寄り、ワインとそれに合いそうな食べ物を見繕う。
先週はアジのフライだった。今日は秋刀魚のフライにしよう。
仕事が終わってからのお楽しみ。

アルコール分解酵素が少ないわたしはどんなアルコール類もグラス一杯で酔っ払ってしまうのだけれど、その中でも極めつけはワインで、グラス一杯ですでに真っ赤。二杯も飲もうものなら世界が変るほどいい気分になって、そのまま眠ってしまう。だから木曜日のワインの前はお風呂にも入り、パジャマに着替え、いつでも眠れる格好で飲まなくてはならない。

今日はその仕度を8時半には終え、解放感に浸ってグラスにワインを満たした。折りよく、友人からの電話。お互いに姿は見えないが、あたかも一つテーブルでワインを飲みながら話をしているような感覚。映画の話や本の話をしながら、酔っ払っているわたしは明らかにおしゃべりになっている。

仕事は子ども相手で同僚もいないわたしは夫が帰ってくるまでは大人との会話が極端に少ないのだが、今日は久々に電話での会話を楽しんだ。


今もアボガドとレタスと豆腐のサラダでワインを飲みつつ書いているところ。
先ほど帰宅した夫は隣の部屋で日本酒を飲み始めたもよう。


2008年10月06日(月) 映像・舞踏・朗読

<写真は正津勉著『嬉遊曲』アーツアンドクラフツ名 社刊>



正津勉文学ゼミに出席する。
この日はいつもの読書会とは趣の異なる、とてもアーティスティックな会だった。

正津勉氏による新詩集『嬉遊曲』の朗読とゼミのメンバーでもある 金子遊氏(映像作家・脚本家・HPシネマの舞台裏)のフィルム上映。
さらには特別ゲスト、俳人の生野毅氏と舞踏家の中村達哉氏による朗読と現代舞踏のパフォーマンス。

金子氏の映像は斬新で刺激的、それでいてノスタルジックで、心の深いところ、かなりデリケートなところに触れてくる作品だった。
奥三河・豊根村の花祭に取材した『ハナマツリ』、そこに写し出された二歳児の映像と繰り返す祭りのお囃子の音。
「掴まえておかなければ踊り出してしまう」その幼児を捉える眼。
なんだろう、この胸に刺さってくるような感覚は・・・
親がその眼に我が子の消えゆく「時」を焼き付けておきたいと切望する哀しさにも似た想い。
一瞬の中に永遠を見ようとする、その眼。

中村氏の舞踏に人間の身体とその動きの生生しさを見る。映像が映し出されるスクリーンの前に立つ、裸のダンサーの白い背中に『バグダッド1999』の映像が映る。スクリーンと人間の身体と、そしてその間の黒いシルエットが三重の立体をなし、とても美しい。身体の動きと静止の持つインパクトの大きさ。それが凝縮した、張り詰めた動きと静止であるだけに。

中村氏は、見たばかりの映像と、目の前にいる詩人、正津勉氏をイメージしたという即興の朗読パフォーマンスを見せ、聴かせてくれた。
知らない世界だった。朗読というフレームが外された。
それは人間の発する声と言葉の舞踏とでも言うべきもの。
飛び跳ね、転がり、潜み、うなり、その空間の空気を変え、奥行きを広げるような、何か尽きぬけていくような感覚。
言葉を音にするということのひとつ可能性と広がりを目の当たりにした。

正津勉氏の自作朗読を聴くのは久し振りだった。この詩人にしかない独特の朗読世界だ。
そもそも師との出会いは6年前の自作朗読会の会場だった。文学、酒、山とそれぞれの道筋を開いていただいたが、出発は朗読だったのだと思い到る。
詩人の魂が声になるその瞬間、一度きりの言葉の伝授。深くしんと沈む言葉の音。
この夏に刊行されたばかりの新詩集『嬉遊曲』は『遊山』に続く山の詩集。
「おいしい水」「イワナ」「カモシカ」「ツツドリ」「シダ」と馴染み深い山の仲間たちが詠われている。以前『遊山』からの朗読を聴いた時には、山はわたしにとっては遥か遠くに望み見る憧れの対象でしかなかったが、山に分け入る事が日常的になった今はその世界がとても親しい。この夏、詩集を手にした時、まず声に出して読み、その山の匂いのする言葉を楽しんだ。


しかし、これほど密度の高い芸術家達のパフォーマンスの後でなぜわたしのような芸術性の乏しい者が朗読するはめになったのやら。
今日は課題のテキストもないしと、気楽な気分で会場に入るや、師匠から「たりたさん、突然だけど、詩をひとつ朗読してください」と言われた。
朗読を学び始めたわたしに勉強の機会を下さろうというのだ。前もっておっしゃらなかったその意図も分かる。その場での即興性こそが訓練されるのだろう。有り難いことだ。(と、こう思ったのは後のことで、その時は、あわてふためいたのだったが)
ここはひるむことなく、その未熟さをそのままに、人前にさらすしかないと開き直る。

朗読は表題詩の「嬉遊曲―ディヴェルティメント」。
朗読しながら、わたしは師や仲間と歩いた山の中にあった。
あの時の蝶が見え、鳥の声が聞こえ、山間を流れる渓流は冷たかった。
思わず笑みが洩れた。あぁ、山の中にいる・・・と。
居直り気味に人前で読むことで眼前に開けた詩の世界だった。


2008年10月03日(金) 朗読と演奏、録音をめぐって

昨日の日記を書いている時に朗読講座の長谷川先生からブログ長谷川勝彦の朗読講座の原稿が届いた。
<朗読と演奏、録音をめぐって>というタイトルのエッセイだった。
ちょうど、ライブ朗読、あるいは編集なしの朗読を録音することと、編集することの意味などをあれこれ考えている時だったので、この文章は興味深く、とても参考になる。

グレン・グールドの<録音は演奏会の代用品と考えられがちだが、コンサートこそが録音の「貧弱な代用品」なのだ>という主張、<人が音楽を聴くのは「個々人がじっくり考えながらそれぞれの神性(divinity)を創造する」ためと考える。それには録音媒体による音楽の方が適している>という考えは興味深い。
わたし自身、グールドのピアノは録音されたもので繰り返し聴いた。わたしにとっては録音された音楽そのものがグールドのピアノであり、その音は繰り返し聴いたためにすっかり自分の身体の一部にさえなっている気がする。

本来音楽にしても朗読にしても、身体性を持つ、時間の創り出す芸術のはずだが、今、録音や編集という技術を通して、それが留められるものとして、繰り返し再生され得るものとして、別の意味を持つに到った。そして、生で音楽を聴く回数よりも録音されたものを聴く機会の方が圧倒的に多い。

いや、朗読を公開するなどという事を始めてしまったが、繰り返し再生され得るという事を考えた時、何かそら恐ろしくなる。間違いや、気にいらない部分も繰り返し再生され得るのだから。

でも、それを気にしていたら、切ったり貼ったり、取り直しをしたりが果てしなく続きそうだ。なかなかアップできないだけでなく、朗読する事の楽しさもなくなってしまうかもしれない。
ここは、アマチュアの図々しさで、練習の場所としてお許しいただくことにしよう。


2008年10月02日(木) 高樹のぶ子著「鰻」の朗読



高樹のぶ子著「鰻」を朗読しボイスブログにアップした。

朗読講座で4月から7月にかけて学んだ作品なので学習の記録という意味でボイスブログにアップしたいと思っていた。

長編の朗読の録音はなかなか難しく、何度も挫折していたのだが、今回、編集のやり方が分かり、その覚えたばかりの技を駆使して音声ファイル作りを試みた。

前の日記にも書いたが、切ったり、貼ったりという作業をすれば、ライブ録音のよさは失われるのだが、資料としてはこの方法で作った方が良いだろう。長い作品になれば、この方法でないとアップは難しい。

録音以前に、講座で学んだ事がきちんと実践されているかがどうかが問題なのだが、そこのところは、まだまだ道のりが長いと感じている。聞き返してみると、ここはもっと違った読み方をするべきだとか、ここは状況がうまく絵になりきれないといった欠陥が見えてくる。そういう事が分かるだけでも少しは進歩しているのかもしれない。

朗読、学ぶべきことがたくさんある。
また同時に朗読の録音についても雑音の取り方や、編集の技術的な事など、わたしの知らない事がたくさんある事に気づく。試行錯誤では限界がある。どこかでそういう技術を身につけたい。











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