たりたの日記
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2007年05月31日(木) 紫色のペチュニア



















今年はサフィニアの代わりにペチュニアを植えたました。苗の値段が安いという事もありますが、色はこちらの方が鮮やかに感じます。
店先で、すでに大きくなったペチュニアがあったので、それを2ポット買いました。
ただし、このペチュニア、雨には弱いから梅雨の間が試練です。




この日、朝9時前に家を出てジムへ。エアロビクス、ラテン、ボディーパンプの3本。
午後、つくしんぼ英語教室、2クラス。


2007年05月30日(水) ピンクのペンタス


























ピンク色のペンタスを一株だけ買いました。
毎年かわらずに美しい白い葉色を楽しませてくれるシロタエギクの中に。
この一株は唯一のピンク系の花。お姫様のよう。



6月の三週の週末に、しばらく会っていない金沢の弟の家族を訪ねることにし、その計画を立てていた。
英語学校の仕事の後、旅行会社へ。大人の休日倶楽部の12000円フリー切符を求める。


2007年05月29日(火) ブルーサルビアの寄植え

























ブルーサルビアも毎年この季節に欲しい花。
今年はひとつのポットには1本だけにし、白いインパチエンスや紫のトレニア、アメリカンブルーなどといっしょに寄せ植えにしました。


2007年05月28日(月) 春の終わりの夏のはじめ

 























毎年、春の終わりの夏のはじめのこの時期、ちょうど梅雨に入る前に庭の花の苗の入れ替えをします。

 この他には大きな植え換えは11月。この時に植え込んだチューリップが4月に咲き、パンジーやビオラの苗が大きく育ち、一斉に庭は春一色になるのですが5月の末ともなれば、チューリップの花はすでになく、葉も茶色に枯れ、パンジーやビオラもとても美しいとは言い難い様子になります。

 そこで枯れたチューリップの球根を掘り起こし、咲き終わった花の苗を抜き、そこにこれから夏に向けて広がり、今度の植え替えの11月まで花を咲かせ続ける花の苗を植えるとう作業が必要になります。

 この夏の庭の色は白と青。そこにアクセントとしてピンクと黄色。そんな感じで植え付けをしました。宿根のシロタエギクや紫の穂のような花をつけるベロニカブルーはここ数年顔を出してくれます。
 もうしばらくすると、濃いブルーのメドウセージも咲くはず。


2007年05月27日(日) ペンテコステの礼拝と受洗礼式

 今日はペンテコステ、聖霊降臨日。
シンボルカラーは赤。
聖餐台のクロス、壁にかけられたバナー、牧師のストール。
真っ赤な芍薬とバラの花が美しかった。
わたしは聖書の朗読の当番で、赤いサマーセーターを着て朗読に臨んだ。

 朗読のクラスで長谷川氏から言われる事は、書いているその人の思いを伝える、その人になり変って伝えるということ。
 旧約聖書の創世記の物語を読む読み方と、歴史的な事を伝えるナレーションである使徒言行録と、イエスが弟子達に語りかけている福音書とでは読み方も、気分や声のトーンもおのずから違ってくる。
 朗読を学ぶ事で、書かれているものの文体や読者との距離といったものに敏感になったような気がする。

 礼拝の中でUさんの洗礼式があった。
10年ほど、ひっそりと礼拝に参加しては言葉少なに帰ってゆくという感じで続けて礼拝に参加していた在日韓国人の青年のUさん。
 今日はその姿がほんとうに美しくて、実際、Uさんは光に包まれていた。キリスト教に限ることではないが、人がスピリチュアルである時、その人が話していても歌っていても、その人が光に包まれているように見える。
 スピリチュアルな礼拝だった。  


今日朗読した聖書を記しておこう。

  

  <  創世記 >
             11:1−9

世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。
東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。

 彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。
 彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。

 主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、 言われた。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。 我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」

 主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。
 こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。





 < 使徒言行録 >
           2:1−21


 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。
 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。
 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。

 さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、 この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。
 人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。 どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。
 わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、 フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、 ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」

人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。 しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。

 すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。
 今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。
 そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。
 『神は言われる。終わりの時に、、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、、若者は幻を見、老人は夢を見る。
わたしの僕やはしためにも、、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。 上では、天に不思議な業を、、下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。 主の偉大な輝かしい日が来る前に、、太陽は暗くなり、月は血のように赤くなる。 主の名を呼び求める者は皆、救われる。』



 < ヨハネによる福音書 >
             16:4b−11

「初めからこれらのことを言わなかったのは、わたしがあなたがたと一緒にいたからである。
 今わたしは、わたしをお遣わしになった方のもとに行こうとしているが、あなたがたはだれも、『どこへ行くのか』と尋ねない。

 むしろ、わたしがこれらのことを話したので、あなたがたの心は悲しみで満たされている。 しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。

 その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。
 罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、 義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること、 また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。




2007年05月25日(金) 「育つ日々」、絶版のお知らせ

あと6日で「育つ日々」が絶版となる。
そしてその前にと注文した30冊のこの本が、今朝届いた。
この本はオンデマント出版なので、もう手に入れようがなくなってしまうから30冊くらいは手元に置いておこうと思ったのだった。

また、今しがたHPの掲示板にこんな書き込みをした。




「育つ日々」、絶版のお知らせ  投稿者:たりた  投稿日:2007年05月25

「たりたの日記」が元になって出来たエッセイ集「育つ日々」が、
出版契約の満了日となるこの5月31日で絶版となります。
2004年6月1日に出版されてから、3年間の間、様々な方に読んでいただき、本は北海道から九州まで、海外ではアメリカのいくつかの州とドイツにも旅に出ました。
本を手に取って読んで下さった方々には心から感謝致します。
また今月中は楽天から注文できますのでよろしかったらお求め下さい。またわたしに直接メールで注文して下さってもかまいません。
メールのアドレスは最近新しくなりました。左のフレームの下に記してあるgmailのアドレスでメールして下さい。





本は書いてしまう事ですっかりわたしから離れてしまった。
あの本を書き上げるまでは、書いておかなければ、覚えておかなければと思っていた事が不思議なように、その記憶の輪郭がぼんやりと霞んでしまっているのだ。
もう本として残ったのだから、頭のメモリーを空っぽにして良いと、わたしの脳が判断したとでも言うのだろうか。
それとも単に加齢のせいで、記憶の機能が急激に低下してしまったのかも知れない。

この本が世の中に出る前、ちょうど3年前の5月は、大学生だった長男と次男が相次いで入院するというようなハプニングが起った。
最後の原稿は息子の病室でチェックしたのだった。
その時の日記入稿前夜 は今となれば懐かしい。
でも、あの時、わたしを励ましてくれた義父はもうこの世にはいない。
本を丁寧に読んでくれ、感想を長い手紙に書いて送ってくれた義父。

本を何冊も買ってくれた友人たち。届いた心温まる感想の手紙やメール・・・3年前の今頃の事が一度に押し寄せ、有り難さに胸が一杯になる。









2007年05月20日(日) 吉岡しげ美、日本の女性詩人の詩を歌う



















いくら五月晴れとはいっても、
こんなに良いお天気五月の日曜日はなかなかあるもんじゃない。

数ヶ月前より、友人が準備してきたイベント、吉岡しけ美さんのミニコンサート&おしゃべりコンサートは素晴らしい日和に恵まれた。

心配していたお客の入りも、会場の貸しスタジオが一杯になり補助椅子を出すほどの盛況ぶり。
わたしもずいぶんいろんな人に声をかけたが、案内状を出した友人達が来てくれ、ずいぶん久し振りに会うなつかしい顔が嬉しかった。

吉岡さんの歌はパワフルだ。
人と人の間に垣根を作らないオープンな方だから、歌と歌の合間のおしゃべりは聴く者との間に距離を作らない。

わたしはこの日の司会の役目があって、数日前からいろいろ頭に描きながらシュミレーションしていたものの、結局原稿からほとんど目が離せなかった。教会学校のお話のようにはいかないものだ。
これが芝居や歌となるとまた違うわたしが出てきてくれるんだろうが。

金子みすず、茨木のり子、与謝野晶子の詞が歌われる。
今はもうこの地上にはいない詩人たち。
けれど、その言葉は、今切り取ったばかりのように新しく、血を吹いている。
アンコール曲は、わたしが最も好きな女性詩人、吉原幸子の「あのひと」、亡くした母親を詠った詩だった。


この日の記念に、与謝野晶子の「君死にたまふこと勿れ」を載せておこう。





君死にたまふこと勿れ

(旅順口包囲軍の中に在る弟を歎きて)

 

あゝをとうとよ君を泣く

君死にたまふことなかれ

末に生れし君なれば

親のなさけはまさりしも

親は刃(やいば)をにぎらせて

人を殺せとをしへしや

人を殺して死ねよとて

二十四までをそだてしや

 

堺(さかひ)の街のあきびとの

舊家(きうか)をほこるあるじにて

親の名を継ぐ君なれば

君死にたまふことなかれ

旅順の城はほろぶとも

ほろびずとても何事か

君知るべきやあきびとの

家のおきてに無かりけり

 

君死にたまふことなかれ

すめらみことは戦ひに

おほみづからは出でまさね

かたみに人の血を流し

獣(けもの)の道に死ねよとは

死ぬるを人のほまれとは

大みこゝろの深ければ

もとよりいかで思(おぼ)されむ

 

あゝをとうとよ戦ひに

君死にたまふことなかれ

すぎにし秋を父ぎみに

おくれたまへる母ぎみは

なげきの中にいたましく

わが子を召され家を守(も)り

安(やす)しと聞ける大御代も

母のしら髪(が)はまさりけり

 

暖簾(のれん)のかげに伏して泣く

あえかにわかき新妻(にひづま)を

君わするるや思へるや

十月(とつき)も添はでわかれたる

少女(をとめ)ごころを思ひみよ

この世ひとりの君ならで

あゝまた誰をたのむべき

君死にたまふことなかれ

──「明星」明治三十七年九月号──

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Yosano Akiko
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on Jun 02, 2003




2007年05月19日(土) 天城山、等高線を数えつつ

 大人の休日倶楽部6000円のフリー切符を使って、日頃行けないような遠くの山へ日帰りで行ってこようと、一月前からあれこれ登る山を探していた。
 しかし、北陸や東北の山々はまだ残雪時期。一人では止めておいた方が無難だ。それならば南へ。フリー切符は伊東まで行けるとあるから、伊豆半島の天城山はどうだろう。ガイドブックを見てみれば、5月中旬から下旬はアマギシャクナゲの開花時期ということ。
 ジムでばったり会った山友だちのSを誘ってみると、前日の夜広島から戻ってくるが、天城山にも行くという。彼女はわたしの勧めで、先ごろ大人の休日倶楽部に入ったばかりだ。連れがあるのは心強い。

 さてさて、路線を調べ、計画書まで作り、当日の2日前駅に切符を買いに行ったところ、東海道新幹線は使えない事が判明。そんなぁ〜、ネットの路線で調べる時はそんな事考えてもみなかった。わたしは鉄道の名前や路線に甚だ弱い。
 フリーパスを使うのなら、東京9時発の「踊り子号」を使うしかないとのこと。そうすると、登山口までのバスは伊東駅発10時55分。登山口到着は12時近くとなる。ふつう山は午前中に歩き始め、昼には山頂に着くというのが原則。午後からの山行きは果たして可能なのだろうか?
 旅行会社のロビーで、バス会社や観光課に問い合わせると、このシャトルバスで充分登山ができると請合ってくれるので、広島に旅行中のSと携帯メールで連絡を取り、計画を変更し、フリー切符と座席指定券を無事購入。
 天城高原ゴルフ場→万二郎岳→万三郎岳→天城高原ゴルフ場と歩く4時間10分のコースだから、休憩を入れて5時間。ぎりぎり、登山口発16時59分のバスに間に合う算段。帰りの電車まで一時間ほどあるから、駅付近の温泉で汗を流し、ビールも飲めることだろう。


 踊り子号はほぼ満席。東京から伊東まで1時間43分。駅前から10時55分の東急シャトルバスに乗る。シャクナゲのシーズンだし、日本百名山でもあるのだから、平日の金曜日とはいえ、登山客は少なからずいるだろうと予想していたが、伊東から登山口にあたる天城高原ゴルフ場までの50分間、バスの乗客はわたしとSの他に登山客は一人。ほとんど貸切状態だった。

 当然山も静かなものだ。人がいない。これもまた貸切状態の山行き。
 薄日が射し、風の音だけがざわざわと大きな山の中を歩き始める。気持ちの良い登山道は赤褐色のアセビの新芽が美しく、トウゴクミツバツツジの鮮やかなピンクが新芽の中に見え隠れしている。

 いつもそうなのだが、山の入り口付近の植林地に入ってすぐは、山になにか人を寄せ付けないようなよそよそしさを感じて不安が走るのだが、すっかり山の懐へ入り、人の手が入っていない自然林の中を歩き始めると、空気が変る。木々が一斉に出迎え、受け入れてくれるような親しみを感じて嬉しさがこみ上げてくるのだ。

 登山口から1229mの万二郎岳のすぐ手前までは緩やかな登りで苦労はない。1時間20分ほどで山頂。ここは樹林に囲まれ眺望が利かないから、西方、万三郎岳に向かって少し下る見晴らしの良い岩場で昼食休憩にする。天城山の山々や海が見渡せるが北側に見えるはずの富士山は霞に隠れて、どう目を凝らしてみてもその姿を見ることはできなかった。

 天城山とは伊豆半島の真ん中にある山脈の総称で、最高峰は1406mの万三郎岳。万二郎からおよそ80分の万三郎岳の山頂までの参道はアセビの群落、ブナの巨木がある原生林、アマギシャクナゲの群生地。歩く時にはろくに話もせず黙々と歩く山女二人だが、花を前にすると歓声を上げ、立ち止まり、見とれ、溜息をついたり、写真を撮ったりするものだから、なかなか先に進まない。これでは最終バスに乗り遅れてしまうと万三郎からの急坂からはまた黙々と早足に歩く。

 今回は山の地図と方位磁石を手に、地図の等高線と歩いている道の周辺の地形を確かめながら登った。等高線の形と方位で、今いる地点が地図のどのあたりになるのか確かめながら歩くのは予想以上に面白かった。
 地図の読めない女の典型であるばかりか、いつも意図する方向の正反対側を迷わず歩き始めるわたしにとって、地図読みつつ歩くという行為は新しい学習でもあった。もしかすると地図が読める女になれるかもしれない。

 この学習(?)を動機づけてくれたのは日本百名山の著者、深田久弥氏。
天城山の事を深田氏が何と書いてあるだろうと予習をした時にこういう記述があった。

 「地図を持たない登山は私には興味索然である。天城で一番高いのは万三郎岳、次は万二郎岳というくらいは心得ていても、やはり地図の等高線を数えながら登るようでないと面白くない。」

 地図とは無縁のわたしにも、これには説得力があった。深田氏は当時、天城山の五万分の一の地図が無かったから、この山登る機会を逸していたという。わたしの手元の山のガイドブックにはこの山の二万五千分の一の地図がある。これをコピーして、ひとつ、深田氏が言うように等高線を数えながら山歩きをしてみようと思ったのだった。

 この年齢にして今までまるで関心のなかった鉄道や地図に少しつづ明るくなってきた。自分の足で地形を確かめることの面白さがようやく分かるようになったらしい。
















 
 


2007年05月18日(金) 天城山へ

 18日、山友だちのSと伊豆半島の天城山へ。
アマギシャクナゲがシーズンを迎えるというので行ったのだが、まだ3分咲き。来週末から6月にかけてが見頃になるようだ。

 けれども、濃い紅色の蕾をつけたシャクナゲや今まさに開花しつつある花を見ることができて良かった。

 まずは写真をアップ。詳しい山行の記録は次の日記で。


<万二郎岳山頂>



















<アセビのトンネル>




















<万三郎岳を臨む>
























<馬酔木の白い花>
























<アマギシャクナゲの蕾>




















<開きつつあるアマギシャクナゲ>




















<ヒメシャラの純林>




















<トウゴクミツバツツジ>


2007年05月16日(水) 2007年のアンネのバラ

今年もアンネのバラが咲いた。
決して細やかなケアをしたわけでもなく、冬越し前の肥料さえ入れそびれていたというのに、バラの木は花を咲かせた。
北原白秋の詩を思い起こす。2001年05月06日(日) バラノ木ニバラノ花サク





















この花を植えたのはいつだっただろう。日記を検索してみた。
見つかった。2002年01月25日(金) アンネのバラ
に書いてあった。

そしてもうひとつ、翌年の日記2003年05月17日(土) 「アンネのバラ」が開いた

この日記を読み返しながらはっとする。

ここに出てくる94歳の伯母も、詩人の従姉妹も、相次いで他界し、今はもう天上の人となってしまった。
バラの花は変らずに咲き続けているというのに、この4,5年間の間にわたしの周囲の状況は何と大きく変化しただろう。
何人もの人を見送ってきた。
変らないものと変るもの。
情け容赦のない時間の流れ。














































































2007年05月13日(日) 母の日には赤紫色のあじさい


一昨日の金曜日の朝、我が家の青年Hから大きな宅急便が届いた。
わたしがすっぽり入れるほど大きなダンボールの箱。
箱の中身は花らしい。
母の日のプレゼント!
いつも荷物を届けてくれるおにいさんに
「こんな大きな花は初めて〜。これ息子からなんです」
とニタニタしているあたしは体裁もなく親バカを丸出しにしていた。

開いてみると巨大と言いたいほどのあじさいの花。
思わずゲラゲラ笑ってしまう。
笑ったのは大き過ぎるということもあるのだけれど、
わたしが前日義母に送ったものと同じ種類のあじさいだったからだ。

花屋の店先で、おきまりのカーネーションにするか、わたしがもらいたい赤紫色のあじさいにするか10分以上迷った末、義母の好みはいざ知らず、その花屋の花の中で一番気に入った花を発送してもらったのだった。

メールでHにお礼を伝え、おばあちゃんに送ったあじさいの事を伝えると、彼は「花屋で見た瞬間、これだ!って思ったと返事が返ってきた。
そうか・・・
でも、Hはきっとこの花が「あじさい」という名前だってことは知らないのだろうな。


              *

穴埋め日記、7日の「富嶽百景」の感想を除けば、何とか終わりました。
今日は他に↓の2つ(ミクシィー日記と同じですが)をアップしました。

2007年05月09日(水)  映画「バベル」を観る
2007年05月05日(土)  熊倉山、三国山、生藤山 山行(写真付き)


2007年05月10日(木) 10日も空いてしまった日記

今日ジムで久し振りにKさんに会う。
Kさんは開口一番、
「日記がずっと止まったままだよ〜」

そうだ、そうだ。10日もブランク。
実は書くべき事がありすぎて、かえって書けなかったのだ。
トピックを挙げるとこんな具合。

4月30日  久住山登山。
5月1日  星生山登山。 
5月2日  別府の断食道場半日体験。
5月3日  スポーツクラブのイベント「ヨーガ」に参加。 
5月4日  スポーツクラブのイベント「エアロマラソン」に参加。後宴会。
5月5日  遊山倶楽部で奥多摩の熊倉山、三国山、生藤山へ
5月7日  正津勉文学ゼミに参加。テキストは太宰治「富嶽百景」
5月9日  映画「バベル」観る。 
    
このメモ書きだけでも記しておいて良かった。
時間は流れはさらに速くなり、記憶する力はさらに衰えていく。

メモ書きをもう少し詳しく記すくらいの気楽さで、
ここ10日間ばかりの日記の穴埋めに取り掛かるとしよう。


2007年05月09日(水) 映画「バベル」を観る

今朝夢うつつの中で、風の音が激しく聞えていました。
外はきらきらと澄んだ良い陽射しですが、物凄い風。
洗濯ものも外に干すのがはばかられるほど。

 夕べはここには書かなかったけれど、HP「たりたガーデン」の方は10日振りにまとめ日記を書きました。
記事はここに書いたことや、コミュの報告に書いた事を写真といっしょに貼り付けたものが多いですけれどね。

 そうそう、9日に「バベル」を観ました。
この映画はストーリーそのものよりも、世界の三つの土地のロケという事に興味があったので観たいと思っていたのですが、
モロッコ、メキシコ、東京のそれぞれの土地と文化がとても特徴的に描かれていておもしろかったですし、外国人の眼を通して観た東京、女子高校生や若者達の文化への視線も興味深かったです。
 ハリウッド映画に有り勝ちな歪曲された視線ではなく、どこか冷静でかつ、公平な愛情に支えられた視線を感じました。それはまたモロッコやメキシコ、そして観光するアメリカ人達の描き方も、作り物ではなく、そのまんまという感じを覚えました。

 話題の菊池凛子の演技は固唾を呑むという表現がぴったりなほど、迫真の演技でした。ブラッド・ピットはかっこいいスターという姿を消し、子どもの事や妻の事を心配する一般の男の顔をしていましたし、大好きな女優、ケイト・ブランシッェットのいつもながらの深い表情で子どもの事を気づかう母親をしっかり演じていました。

 主題の「バベル」(旧約聖書の創世記にあるバベルの塔のエピソード)の意味するところがこの映画の底をしっかりと支えていて深い主題を観る側に問いかけてきます。
 言葉が通じない異なる国の人間達。同じ言葉を共有していても通じない心。親子や夫婦の間に横たわる不理解の溝。聞えない者と聞える者との間にある壁。一方、言葉は分からなくても、相手の心の痛みが分かり助けようとする人達、愛そうとする人達。痛みの中で取り戻す絆・・・

 そういえば、この映画そのものが、言葉でよりも、表情や、目や仕草、そして風景で語っているのでした。
 映像の持つ言葉。そこには異なる言葉を持つ人間も、異なる価値観や立場にある人間もひとつところに引っ張り込む力があると改めて思ったことでした。


2007年05月05日(土) 熊倉山、三国山、生藤山 山行

5月2日の夜遅くに大分から戻って、メールを開いてみると、山行きのお知らせが入っていた。

5月5日に熊倉山、三国山、生藤山への山行。
メールの内容は

 < みなさん、いかがお過ごしですか。今回は、GWの喧噪を避けた
静かな山行の予定。昼食予定の三国山は、丹沢の向こうに富士山の見え
るピーク。
 新宿: 7:44発のホリデー快速あきがわ1号で武蔵五日市:
8:48着です。
 武蔵五日市駅からバスで上川乗。ここからあるいて、浅間峠、熊倉山
を経て、三国山まで2:40.。生藤山を通って、柏木野。ここから
バス。>

というもの。

う〜ん。大分から送ったトレッキングシューズや山用品が届くのが4日。しかし4日は午後エアロマラソンの後に宴会。荷物が午前中に届けば良いがそうでなければ5日の山行は無理だ。

幸い、山道具を詰め込んだ荷物は前日の朝に届いた。
登山用のズボンや泥まみれになった雨具を急いで洗い、何とか明日は山へ行ける!


ところで奥多摩の熊倉山、三国山、生藤山。
わたしの山のガイドブックにも奥多摩の地図にも載っていないようなマイナーな山だったが、ほんとうに静かな山行きだった。ゴールデンウイークの最中だというのに、ほとんど人がいない。よっぽどマイナーな山なのだろう。

いつものように山頂で宴会。下山途中でも電車の中でも。
みなさんは立川で下車し、さらなる宴会に出かけて行かれた。わたしはそこから自宅に帰りつくまでさらに2時間近く移動を続けばければならないので、一人電車に残ったのだった。































2007年05月04日(金) 菜の花畑とエアロマラソンの休日


2日の遅くに大分から戻ってきたものだから、3日は旅の後始末や、家の掃除や洗濯とやらなければいけない事が山のようにたまっている。木曜日の午前中はジムに行く事に決めているのだが午前中は断念。

同居人mGが代わりにいつもわたしが出ている奈央先生のエアロとラテンに参加した。
で、午後は、入れ替わりにわたしがジムへ。
90分の「ビランクスヨ―ガ」のイベントに申し込みをしていたのだ。


4日は午前中、mGと共に恒例の菜の花畑でのピクニック。
午後から奈央先生のエアロマラソン90分へ。
実はmGもわたしもエアロは45分が良いところで、60分のハードなエアロは最近はすっかりご無沙汰している。それなのに90分なんてとても無理じゃないかと申し込みをなかなかできないでいた。でもダンスの仲間はみんな参加するようだし、コスチュームを着てのエアロはなんだかお祭り気分で楽しそう。途中で休憩することにして参加したのだった。

mGもわたしも何とか最後まで完走じゃなく、完踊(?)できた!
なんだかあっという間の90分で、とても楽しく体を動かすことができたのだった。

イベントの後、エムズのメンバーと夕方から鴻巣の創作料理の店(ここのスマイルシェフは奈央先生の長男!)へ。
いつもながら満足のいくおいしい料理とすばらしい焼酎のセレクション。
わたしはシェフのお勧めの「吉兆宝山」をいただいた。
しっかり運動した後だったからなおの事、料理やお酒がおいしかった。
わたしとしては久し振りのダンス仲間との宴会。良い一日だった。
























2007年05月02日(水) 断食道場体験

<ミクシィ日記より>


帰省の旅、最終日は別府での一日。
亀の井ホテルの16階から、朝の別府の町を携帯でカシャリ!
なんとも良い天気だ。

夕方の飛行機の時間までこの日は温泉の梯子をするか、さもなければ海を見ながら、今回の山行の事を書こうと昨日までは思っていたのだが、予定変更。「断食道場」の見学をすることにした。

昨日の電話で高校時代の同級生Wさんがホテルのロビーに来て
「断食道場」に案内してlくれる事になったのだ。

Wさんは去年の5月にも断食道場で9日間、修行しているのだが、今年も断食道場で修行中。その日は本断食の2日目ということだった。

去年の暮れに会った時より痩せている。断食5日目だというのに、元気だ。エネルギーがいい。
思わず「仙人みたいね」と言う。
ひげを伸ばしているとかそんなのではないのだけれど。

そのホテルから歩いて10分とかからない場所、別府駅から徒歩5分というところに西式健康法 断食道場はあった。

そこの先生からお話を伺った後、半日体験をさせていただけることになった。

なかなか貴重な体験だった。
またいくつか、健康のためのヒントをいただいた。
そこで使われている木の枕を肩こりの酷いmGに求め、
皮膚のトラブルに効くと言われるスイマグ軟膏を、アトピーで悩む次男に求め、わたしは「西式健康法」の本を求めた。

去年の暮れに帰省した折、マイミクのととさんとWくんと会って話している時、この断食道場の話が出て、少なからず興味を覚えたのだった。

わたしの場合、これ以上体重を落とすことは考えていないが、
断食の身体への良い影響は分かるし、一度体験してみたいと思っている。
でも別府は遠いからどこか近いところで捜してみよう。


2007年05月01日(火) 久住山行の写真

前日の日記にもありますが、この日は、かなりスリルに満ちた登山でした。
こういう山行は一生忘れられないんだろうなと思います。
それだけに、簡単には書きたくない気がします。
いつか書くとは思いますが、ここでは前日の写真を貼ることします。
星生山は写真を写すことができないほどの悪天候だったのです。
辛うじてビデオは撮っていますが、山頂は白い霧だけで何も写っていません。

(赤川登山口からの登山道はかなり険しいが眺めはすばらしい。下に広がっているのは久住高原)






















(遠く、大仏が寝ているような格好の阿蘇五岳の寝釈迦が見える)






















(久住山を降り、久住分かれに向かう登山道)
























ログハウス貸し別荘「星座」 でのバーベキュー























アットホームなログハウスの中。暖かい炬燵がうれしかった。





















たりたくみ |MAILHomePage

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