たりたの日記
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2007年04月30日(月) 「大分の山が好き」第2回イベント<春の久住山と「星座」でのバーべキューの夕べ>

























さて、今日は5月10日。
ここに戻って空白の日記を埋めていくことにしよう。

この日はミクシィーのコミュニティーでわたしが主催している「大分山が好き」のイベントで久住山に登った。
この時の事は、コミュで報告を書いたので、それをそのままここへ載せておくことにしよう。

(写真は赤川登山口から(南側)の久住山。)




第2回イベント <春の久住山と「星座」でのバーべキューの夕べ>


みなさん、5月の連休はいかがでしたか?
ここで呼びかけた第2回のイベントはとても楽しいものになりました。

30日、1日は雨という天気予報だったのにもかかわらず、30日は良いお天気で、見晴らしも良く、赤川→久住山→扇ヶ鼻→赤川と素晴らしい山行きができました。

登山の参加者はコミュのメンバーのくじゅう三平さんとお友達のKさん、そしてわたしの友人のEさんとわたしの4人。

赤川からの登りは牧の戸からの登りに比べると急ですが、それだけにおもしろい登山ができました。
それにとっても静か。山頂に近づくまでは誰とも合わず、まるでわたし達4人で山を独占しているようでした。
途中、休みながら登ってきた方を眺めると、久住高原が美しく広がり、遠くに阿蘇五岳や祖母、傾山などの山々が見えるのでした。

久住山登頂の後、ゆっくりと昼食を取った後、扇ヶ鼻に向かって歩きました。途中、久住分かれ非難小屋のあたり、西千里浜から星生山を眺めながらコーヒーブレイク。
くじゅう三平さんとKさんがお湯を沸かしておいしい珈琲を淹れて下さいました。

扇ヶ鼻からの下山はとにかく眺めが素晴らしく、最後まで充実した山歩きでした。

下山の後は、わたしとEさんの友人のOさんも合流し、やまなみ牧場のまきばの湯で汗を流しました。山歩きをした後の温泉はとりわけ気持ちが良いものです。

お腹もちょうど具合良く空いてきました。
ログハウス「星座」に着いた頃には雨もポツポツ落ちてきましたが、「星座」のバーベキューテーブルの上にはちゃんと屋根があるので平気。
オーナーのやっさんと奥様が用意して下さった、バーベキューやお握りやだんご汁、それはなごやかでおいしくて楽しいひと時でした。


二日目は湧蓋山にわたし一人で登る予定でしたが、天候が悪く、登山客もあまりいないと思われるので、牧の戸から星生山へ登り、その後、牧の戸から長者原まで九州自然歩道を歩き、バスの時間まで花山酔の温泉に入りました。
この日のスリルに満ちた登山の事はまたいつかどこかに書くつもりです。


2007年04月29日(日) 春の小川

朝6時50分に家を出て自転車で30分のところにある父のいる施設へ。

朝食の介助をした後、部屋で歌を歌った。春の小川、こいのぼり。子供の頃、父が歌ってくれた歌。
「お父さん、明日は久住山に登るよ!」
父の顔がこころなしかほころんだ。
父からいつも聞かされていたのに、一度も連れていってもらった事はなかった山。
もしかしたら「行かない」と言ったのはわたしの方かもしれないけれど。

実家の靴箱には父が退職した時に記念にもらったという革のりっぱな登山靴が、もう履かれる事もないのに、りっぱなままで座っている。

雨の予報だった明日の天気。どうやら久住あたりは晴れ後曇りとなりそうだ。
よかった。


2007年04月25日(水) 故郷へ

 明日から1週間、故郷の大分へ帰省です。
前半は父の見舞いや母の手伝いで後半は九重の山々に登ります。
日記はしばらくお休みになると思いますが時間が取れれば、いつものように親指日記を書きます。

では。


2007年04月23日(月) 島木健作著 「赤蛙」を読む

島木 健作 (しまき けんさく、1903年9月7日 - 1945年8月17日)は、北海道札幌市生まれの小説家で、高見順・中野重治・徳永直・林房雄らとともに、転向文学を代表する作家の1人。
 はじめに作者の略歴を簡単に記そう。
2歳で父と死別し母に育てられる。苦学しつつ、1925年東北帝国大学法学部に入学。入学後間もなく労働運動にかかわり、翌年大学を中退し、香川県の農民運動に参加する。その後日本共産党に入党するも1928年の三・一五事件で検挙され、翌年、転向の声明を行った。1930年3月に有罪の判決を受けて服役するが、肺結核が悪化し隔離病舎に移され1932年3月仮釈放となる。
 1934年転向問題を扱った処女作『癩(らい)』を発表し世評を呼び、『盲目』『獄』を出版して作家としての地位を確立した。遺作として『土地』『赤蛙』『黒猫』などの作品が発表された。代表作にはこの他に『生活の探求』『人間の復活』『ある作家の手記』『満州紀行』 などがある。 


 「赤蛙」は島木健作が療養のため修善寺の温泉宿へ滞在していた際の事が書かれている。この滞在は1941年の秋のことで、脱稿されたのが1945年の3月とすれば、この作品を書き終えたのは島木健作が亡くなる5ヶ月前という事になる。
 話は<寝つきりに寝つくやうになる少し前に修善寺へ行つた。>と始まるので、これは作者が寝たきりになってから書かれたものなのだろう。健作の死後、遺作として発表された作品だ。

 この作品も、前回の課題同様、繰り返し朗読しながら文の構成やそれぞれの段落との繋がり、文章の中でとりわけ作者の想いが強く現れているところに注意しながら読んでいった。

 まず、療養先の宿の待遇の悪さが描写される。「私」はその事で怒りを覚え、<不機嫌を通し越して毒念ともいうべきものがのた打って来た>とその時の心況を語る。
「起承転結」の「起」の部分だ。

 それを受けて、<或る日私は桂川の流れに沿つて上つて行つた。>と「承」の部分が続く。
 ここでは赤蛙が流れの速い川に飛び込み、懸命に泳いで向こう岸に渡ろうとしている様子が詳しく描写される。流れがゆるやかで、もっと楽に向こう岸に渡れるところがあるのに「馬鹿な奴だな!」と私は赤蛙を笑い、石を投げて赤蛙に周囲の事を気づかせてやろうとする。
 ところが < 次第に私は不思議な思ひにとらはれはじめてゐた。赤蛙は何もかにも知つてやつてゐるのだとしか思へない。そこには執念深くさへもある意志が働いてゐるのだとしか思へない。> と、私はそれまでの蛙への見方を変える。
 ここからが「起承転結」の「転」の部分だろう。

 蛙は何度もその行為を繰り返した後、< やがて赤蛙は最後の飛びつきらしいものを石の窪みに向つて試みた。さうしてくるつとひつくりかへると黄色い腹を上にしたまま、何の抵抗らしいものも示さずに、むしろ静かに、すーと消えるやうなおもむきで、渦巻のなかに呑みこまれて行つた。>とその結末が伝えられる。
 
 そして「結」の部分。ここで私はそれまでの赤蛙の格闘について考える。そして、<そこには刀折れ、矢尽きた感じがあつた。力の限り戦つて来、最後に運命に従順なものの姿があつた。さういふものだけが持つ静けささへあつた。>と赤蛙の行為に対する印象が述べられている。
 さらに、この赤蛙に感じたものと<自然の神秘を考へる時にもたらされる、厳粛な敬虔(けいけん)なひきしまつた気持、それでゐて何か眼に見えぬ大きな意志を感じてそこに信頼を寄せてゐる感じ>には共通するものがあると語る。

 毒念ともいうべき想いを携えて宿を出た「私」がまた宿へ戻る事でこの話は終結するのだが、赤蛙体験の後、私の毒念は解毒されている。
 <私は昼出た時とは全くちがつた気持になつて宿へ帰つた。臭い暗い寒い部屋も、不親切な人間たちも、今はもう何も苦にはならなかつた。私はしばらくでも俗悪な社会と人生とを忘れることができたのである。>と、その時の心の変化を語っている。

 この作品の構成をみると、このように起承転結がくっきりとしていて、最後に「私」の得た結論も胸にストンと落ちる。うっかりすれば抹香臭い話になってしまうところだが、そこに陥っていないのは、作者の側の真実が伝わってくるからだ。
 作者自身、死期が迫っていて、これまでの自らの闘いが赤蛙の闘いと重なり、赤蛙の、運命を受け入れ、諦念した姿の中に自分へのメッセージを聞き取ったのだと思う。

 人が死を前にして受け止めるメッセージというものはそれ自体、聴く者の心を開く力があるのかも知れない。
 作者は赤蛙を通して自分が受け止め、心を動かされたメッセージを確認すし、それを他者に伝えたいと思ったのだろう。

 わたしのゼミでの発表はここまで。
この作品を読んですぐに思った事は、赤蛙を通して作者のところにやってきたメッセージを思った。このようにして小さな生き物や自然が言葉よりも深い方法によってメッセージを取り次いでくれるのだと。

 しかし、わたしの用いた「メッセージ」という言葉は特異なもの、理解され難い類の言葉なのだろう。
 わたしがこの作品に感じたものは、この作品が作者の頭の中から、あるいは感情の中から生み出されたものではなく、外から作者にもたらされた「メッセージ」を謙虚に受け止めている作者の姿だった。
 そこにはこれまでの闘いもすでになく、人の思惑からも自己嫌悪からも遠く、透明に澄んでいくものだった。さまざまな事がふるいにかけられ、最後に残ったその人自身を受け入れている静けさが伝わってきた。
 
 それにしても、いつもの事ながら何と人の見方には違いがあるのだろうと驚く。
 自らの価値観や見方に疑いを持つことなく、その作品なり価値観なりを批判する事は自由だ。しかし果たして、わたし達は作者が死を前に何としてもい書いておきたいと思った強い思いにまで降りていく事はできるだろうか。それができないにしても、その人が真実聞き取ったメッセージに素直に耳を傾けてみようとまず考えても良いのではないだろうかと思った。
 作者がどういう想いで書こうとしたのか、その心情に近く寄り添ってみることは、そこから何かを学び取ろうとする者としてのひとつの礼儀ではないだろうかと、そんな事を思ったのだった。



島木健作著 赤蛙は青空文庫で読めます。


2007年04月20日(金) もっとチューリップ


























































2007年04月19日(木) さらにチューリップ
























2007年04月18日(水) 今年も咲いた夕焼け色のチューリップ




















一昨年の秋に植え、去年の春に咲いた夕焼け色のチューリップ(カイロという名前の新品種)が、どうした事か、今年も咲いた。
茎もすっくりとまっすぐ。
去年のものよりやや小さめだが、色も形もそのまま。


去年の夕焼け色のチューリップの日記を開いて写真を確かめてみた。


2007年04月17日(火) 子どものためのヨガ

 ここのところ、英語版の子ども向けのヨガの本やDVDを捜していたのだが、「Yoga pretzel」というタイトルの本が目に止まって注文した。これは本として売られているがどうやらカードらしい。
 そして昨日、注文していた物が届いた。求めていたものとぴったり。いえ、はっきり言って期待を上回っていた。何とも幸運な出合いだ。しかもアマゾンのユースドブック(しかしなぜか未開封の新品)で750円とは感謝感激!


 幼児や児童の英語のクラスでヨガを取り入れて半年になるが、子ども達が楽しんでやるばかりか、ずいぶん上達してきた。身体が固かった子たちも、美しいポーズができるようになってきている
指示は英語で出すので、英語を聞き取って身体を動かすという事が自然に出来る。しかもヨガはリラックスさせるので、その中で聞き取る英語もすんなりと身体に沁みこむはずだ。
これは一石二鳥。わたし自身がリラックスしてヨガをする事ができるのだから一石三鳥くらいのものだ。
 ヨガはハタヨガを6年間、その後スポーツジムのヨガを5年間やってきたが、子どものためのヨガについては経験がなく、自分なりに教えたい英語や単語とヨガを組み合わせてやってきた。しかし、ここまでくれば、本格的に子どものためのヨガについて知りたいし、それならば英語圏で使われている教材を当たってみようと思いついたのだった。


 50枚のカードは呼吸法、バランス、前屈、後屈、ねじりとストレッチ、パートナーとやるもの、休息の7つの分野に渡り、それぞれが色分けされている。本と違いちょうど、料理のレシピカードのように必要なものを取り出し、見ながらやってみるという利点がある。イラストのセンス、色のセンも素晴らしく、実際、眺めるだけでも楽しい。

 それぞれのカードの表にはポーズとその名前と効果が記され、裏にはそのポーズを作るに到るステップが子どもに分かりやすい英語とイラストで示されている。指示の前には、"Iam strong" I am peaceful"と自分への語りかけ、アファメーションのフレーズが書かれていて、子ども達はそれを唱えながら動けるようになっている。
 この点は言語教育の立場からも素晴らしいが、何より子ども達が自分の身体や心に意識を向け、それを肯定しつつ動くことができるなど、何とも教育的だ。教育的視点、コンセプトがはっきりしているところなどは欧米のこうした教材や教育機関に特徴的なところだ。
 家庭で親子でやるのも良いだろうし、小学校や中学校の英語教育の現場でもおもしろい取り組みができるのではないだろうか。もちろん、大人も充分楽しめる。

  良い教材はぐんとモチベーションを引き上げる。まずは教える側のそれを。そして教える側がその教材に惚れ込んでいれば、習う方にもそれは伝染するというもの。さてこのカードの効力はどのようなものだろうか


2007年04月15日(日) 聖書の朗読

今月から月に一度礼拝の中で聖書の朗読を担当する事になった。
わたしが朗読の勉強を始めたと牧師に話すや、それでは良い発表の場を差し上げましょうとばかり、さっそくローテーションに組み入れられたのだ。

また当番が増える〜と不満を言ってしまうところだが、考えてみれば、今学んでいる事を生かし、しかも人に聴いてもらえる。しかもそれが礼拝の中なのだから、これは願ってもない事と言うべきだろう。

以前にも聖書朗読を担当した事はあったが、今回はそれこそ、何度も何度も繰り返して朗読の練習をして礼拝に臨んだ。
そしてそれは思ったより以上にわたし自身をリフト・アップしてくれる事だという事に気がついた。




  ルカによる福音書 24:13−35 <エマオの途上>


ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、 この一切の出来事について話し合っていた。
話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。
しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。
イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。
その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」
イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。
それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。
わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。
ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、
遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。
仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」
そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、
メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」
そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。
一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。
二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。
一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。
すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。
二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。
そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、
本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。
二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。

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  使徒言行録 5:12−32
 

使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行われた。一同は心を一つにしてソロモンの回廊に集まっていたが、 ほかの者はだれ一人、あえて仲間に加わろうとはしなかった。しかし、民衆は彼らを称賛していた。 そして、多くの男女が主を信じ、その数はますます増えていった。

人々は病人を大通りに運び出し、担架や床に寝かせた。ペトロが通りかかるとき、せめてその影だけでも病人のだれかにかかるようにした。 また、エルサレム付近の町からも、群衆が病人や汚れた霊に悩まされている人々を連れて集まって来たが、一人残らずいやしてもらった。

そこで、大祭司とその仲間のサドカイ派の人々は皆立ち上がり、ねたみに燃えて、使徒たちを捕らえて公の牢に入れた。
ところが、夜中に主の天使が牢の戸を開け、彼らを外に連れ出し、
「行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」と言った。

これを聞いた使徒たちは、夜明けごろ境内に入って教え始めた。一方、大祭司とその仲間が集まり、最高法院、すなわちイスラエルの子らの長老会全体を召集し、使徒たちを引き出すために、人を牢に差し向けた。
下役たちが行ってみると、使徒たちは牢にいなかった。彼らは戻って来て報告した。
「牢にはしっかり鍵がかかっていたうえに、戸の前には番兵が立っていました。ところが、開けてみると、中にはだれもいませんでした。」

この報告を聞いた神殿守衛長と祭司長たちは、どうなることかと、使徒たちのことで思い惑った。
そのとき、人が来て、「御覧ください。あなたがたが牢に入れた者たちが、境内にいて民衆に教えています」と告げた。
そこで、守衛長は下役を率いて出て行き、使徒たちを引き立てて来た。しかし、民衆に石を投げつけられるのを恐れて、手荒なことはしなかった。
彼らが使徒たちを引いて来て最高法院の中に立たせると、大祭司が尋問した。
「あの名によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか。それなのに、お前たちはエルサレム中に自分の教えを広め、あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている。」
ペトロとほかの使徒たちは答えた。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。
わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。
神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。
わたしたちはこの事実の証人であり、また、神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます。」


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ヨハネの黙示録
1:4−18

ヨハネからアジア州にある七つの教会へ。今おられ、かつておられ、やがて来られる方から、また、玉座の前におられる七つの霊から、更に、証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように。わたしたちを愛し、ご自分の血によって罪から解放してくださった方に、わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン。

見よ、その方が雲に乗って来られる。すべての人の目が彼を仰ぎ見る、、ことに、彼を突き刺した者どもは。地上の諸民族は皆、彼のために嘆き悲しむ。然り、アーメン。
神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」

わたしは、あなたがたの兄弟であり、共にイエスと結ばれて、その苦難、支配、忍耐にあずかっているヨハネである。わたしは、神の言葉とイエスの証しのゆえに、パトモスと呼ばれる島にいた。
ある主の日のこと、わたしは“霊”に満たされていたが、後ろの方でラッパのように響く大声を聞いた。

その声はこう言った。「あなたの見ていることを巻物に書いて、エフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアの七つの教会に送れ。」
わたしは、語りかける声の主を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見え、 燭台の中央には、人の子のような方がおり、足まで届く衣を着て、胸には金の帯を締めておられた。

その頭、その髪の毛は、白い羊毛に似て、雪のように白く、目はまるで燃え盛る炎、 足は炉で精錬されたしんちゅうのように輝き、声は大水のとどろきのようであった。
右の手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出て、顔は強く照り輝く太陽のようであった。

わたしは、その方を見ると、その足もとに倒れて、死んだようになった。すると、その方は右手をわたしの上に置いて言われた。「恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、 また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている。


2007年04月14日(土) わたしは良い羊飼

明日の教会学校のテーマは「わたしは良い羊飼」
そこで紙粘土と綿で子羊をいくつも作った。

子ども達はひとつづつその子羊をもらい、
「良い羊飼い」について考えを巡らす。

そしてそのひとつの羊に名前を付け、
隠されたその羊を探しに出かける。

見つけ出されるということ。
愛されているということ。
それを伝える。





ルカよる福音書 10:8〜15

はっきり言っておく。わたしは羊の門である。
わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。
わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。
盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。
わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。
羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。・・狼は羊を奪い、また追い散らす。・・
彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。
わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。
それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。

ルカよる福音書 10:8〜15



2007年04月13日(金) 紅梅白梅



昨日の続きだけど
菜の花の次にわたしを立ち止まらせたのは
畑のわきに植えてある
紅梅と白梅だった。
それは先週の木曜日のこと。

昨日その側を通ると
梅の花はすっかり散っていた。

この道はジムに行く時に通る道なので
木曜日にしか通らない。
梅は今だとばかり
わたしを呼び止めたようだった。
おかげでこの花の姿を残すことができた。


2007年04月12日(木) 菜の花が語りかけてくるので

菜の花の黄色がこちらに向かって語りかけてくるので
わたしは自転車を止め
さらには降り
ザックから携帯電話を取り出し
シャッターを切らねばならなかった。

菜の花たちは確かにわたしにそうしろと
言っていた。
その輝くような黄色を
携帯カメラに記憶させることはできなかったけれど
わたしの頭のメモリーには
その語りかけといっしょに記憶された。

それはもう輝いていて
圧倒されるような黄色だったのだ。


2007年04月11日(水) 吉岡しげ美・ミニコンサート&おしゃべりパーティー


























 お近くの方、『吉岡しげ美・ミニコンサート&おしゃべりパーティー』にいらっしゃいませんか。  

 吉岡しげ美さんは与謝野晶子、金子みすヾ、茨木のり子など、女性詩人の詩に曲をつけ歌いつづけ、日本だけでなく、アジアの国々でもコンサートをやっています。
他にもミュージカルや映画音楽など、幅の広い音楽活動を続けられている音楽家です。
わたしは尾崎翠原作の映画「こほろぎ嬢」を観た時、そのすばらしい音楽を吉岡しげ美さんが担当されている事を知りました。
その時の日記にも書きましたが、映画を観た後、友人のoliveといっしょに、吉岡さん、この映画の浜野監督、脚本の岡崎氏、また関係者の方々といっしょに飲みました。
みなさんとってもフレンドリーで、何とも暖かく素晴らしいひと時だったのです。
もちろん、映画の話や文学、音楽の話とお話も充実していて、いろいろな発見がありました。

 今回のイベントは前半が吉岡さんの弾き語りで後半が自由な交流の場です。
映画の浜野監督、脚本の岡崎氏も会場にいらっしゃるので、あの時のような楽しく生き生きした場所になることだろうと思います。
またコーヒーとお菓子はこだわりのある自家焙煎のコーヒー屋さん、Yama Coffeeさんがご用意くださいます。
定員が40名と少ないので、いらっしゃりたい方はお早めにご予約下さい。
わたしにメールを下されば、裏に会場の地図が載っているこの写真の案内状をお送りします。

 ちなみにわたしはこの会の司会をすることになっています。
礼拝の司会は月一度やっているし、その昔、ピアノの発表会や結婚式の司会などをした事はありますが、こういうライブの司会というのは初めてです。
吉岡さんの歌や会場の雰囲気に合うような司会をしたいと思います。


2007年04月09日(月) 永井 荷風著「 ADIEU(わかれ)」を読む

 この作品は (上)「巴里に於ける最後の一日」と(下)「わが見しイギリス」で構成されているが、この作品に貫かれているのは、この作品の冒頭の言葉が示す通り、 フランスを離れることに対する絶望――Desespoire(デゼスポワール)――だ。

 (上)においては、作者の愛する巴里の風景や人物の巧みな描写と共に、いかに巴里が素晴らしいかという賛辞が事が繰り返され、反対に(下)に置いてはるイギリスの描写や人物の描写を通じて、この土地がいかに巴里と比べ見劣りし愛せない土地であるかが綴られている。

 この作品を最初に読んだ時は、まぁ、なんと正直に包み隠さず、自分の気持ち書いていることだろうと苦笑した。巴里に対する思い入れが極端すぎ、また巴里を離れる事への心痛があまりに赤裸々に書き連ねてあるため、作者の気持ちは充分理解できるものの、滑稽な印象さえ受けた。

 何にしろ過剰な表現というのは読者にあまり良い印象は与えない。フランス人からすれば、あまりに憧れが強く、舞い上がっていると見るだろうし、イギリス人が読めば間違いなく憤慨するだろう。また日本人にとっては作者と同様な体験でもない限り、ちょうどお惚気を聞くような居心地の悪さがあるだろう。

 しかし物を書くという動機は様々だ。別に読者に情報を与えるために書くのでもなく、読者を良い気持ちにさせるために書くのではない文章もあってしかるべきだ。何も作者は読者にサービスする必要はなく、このように書かなければ済まない内なる迫りに動かされて書いて悪いはずはないのだ。

 作者はこの文章を書くことでフランスを去った事への心痛を癒そうとしたのだと思う。
また再び見える事のない恋人である巴里に向けてのラブレターをしたためる事で、自分の想いに決着を着けようとしたのかもしれない。書くという作業にはそうした治癒力がある。
そして自分を慰めるためには、読者に遠慮することなく、想いをぶちまけなければならない。表現は抑えることなく激しければ激しいほどセラピーの役割を果たす。
荷風はこの作品でその作業を為し終えることができたのだろうと推測する。

 この作品が感情過多なラブレターであるにもかかわらず、文学的価値が高いのは、その構成の巧みさ、文体の美しさ、言葉のリズムが持つ心地よさ、そして優れた描写力にあるのだろう。荷風の眼を通してみた巴里やロンドンを読者もまた味わい、文章の心地よさに浸ることができる。
声に出して読んでみるとさらに味わいが深い。また描写の部分、心情を吐露した部分が交互に書かれていて、このコントラストを読む調子を変えて表現するとおもしろい朗読になるような気がする。



*永井 荷風著「 ADIEU(わかれ)」 はこちらで読めます。

また永井荷風の「狐」という作品について書いた日記はこちらで。


2007年04月08日(日) わたしは主を見ました・・・マグダラのマリアの証言

イースターの朝
礼拝の中で子ども達に話すお話。
わたしはマグダラのマリアになって、彼女の言葉を、彼女の想いを語ろうと思う。
わたしは復活の主に、彼女を通して出会ったのだから。        


       わたしは主を見ました


わたしの名前はマグダラのマリア。
わたしは復活されたイエス様にお会いしたのです。それも誰よりも先に。
その時の事をお話しましょう。

わたしはイエス様が十字架につけられ、その上で苦しまれるのを見ました。見るのは辛くて耐え切れない事でしたけれど、イエス様のお母さんを支えながら最後まで十字架の下から離れることはできませんでした。イエス様は最後に「成し遂げられた」とおっしゃり、頭を垂れて息を引取られました。その時はがくがくと体が震え気が狂いそうでした。
そのイエス様の脇腹を兵士が槍で刺しました。するとすぐに水と血とが流れました。イエス様は本当に死んでしまったのだと知り、わたしはもう体を支えている事ができないほど苦しく長いことそこにうずくまっていました。

やがて亡くなったイエス様の体をアリマタヤのヨセフさんが十字架から下し、ニコデモさんも死んだ体が臭くならないためのお薬の没薬と良い香りのする香水を混ぜたものを持ってきました。二人はイエス様の体に良い匂いのする香水をたらして布で包みました。そして、近くの、まだ誰も葬ったことのない新しい墓にイエス様の体を入れ入り口は大きくて重い石で蓋をしたのです。その重い石はとてもわたしなどが動かせないほどの重い石です。もう、これでイエス様のお姿を見ることもできないのだと思うと激しい悲しみが繰り返し襲ってきて泣く事を止めることができませんでした。

それから三日経ちました。日曜日の朝でした。まだ暗いうちに、わたしはイエス様のお墓に行きました。もうイエス様にお会いできないと思うと悲しくて淋しくて何もする気持ちになれません。ついふらふらとお墓まで来てしまったのです。

ところがどうでしょう。入り口を塞いでいた石が取り除かれているのです。わたしはびっくりしてペテロさんとヨハネさんのところに走っていって、石が取り除けてあることを知らせました。二人とも顔色を変えてまるで競争でもするかのように先を争って走って墓まで行きました。まず先に着いたペテロさんが、次にヨハネさんがお墓の中に入ってみると、そこにはイエス様の体はなくて、イエス様の体を包んでいた布だけがあるのです。イエス様の頭を包んでいた布はその布とは別の離れたところに丸めておいてありました。

「いったいどういう事だ。誰がイエス様の死体をぬすんだんだ」ペテロさんもヨハネさんもこの事を仲間に伝えるために行ってしまいました。
わたしは、イエス様の体がお墓からなくなってしまった事を知ると、気が抜けてしまい、お墓の外に立って泣いていました。だってイエス様が死んでしまわれた事でもう、淋しくてたまらないというのに、死んだイエス様のお体までどこかに持っていかれたんですもの。もうわたしには何もなくなってしまった、今からどうやって生きていったらいいんだろうと思うと、そこから動けないのでした。

イエス様がお墓の中にいないのは分かっていましたけれど、わたしは何か、お墓の中をのぞいてみたい気持ちになって泣きながら体をかがめてお墓の中をのぞいてみたのです。
すると、そこに誰がいたと思います。天使がいたのです。白い衣を着た天使が二人、ちょうどイエス様が置かれていた頭のところと、足のところに立っていたのです。そして天使達はわたしになぜ泣いているのかと聞いたのです。わたしは天使に「わたしの主、イエス様が取り去られました。どこに置かれているか、わたしには分からないのです」と訴えました。

その時、わたしの後ろに人がいるような気がしたので振り向くと、そこに男の人が立っていました。その男の人は「婦人よ、なぜ泣いているのか、誰を捜しているのか」とわたしに話しかけました。わたしはその人がお墓の管理をする人なのだろうと思って、その人に背中を向けたまま強い調子でこんな風に言ったのです。「あなたがあの方を運んでどこかへ持って行ったのですか?そうでしたら、どこに置いたのか教えて下さい。わたしがあの方をひきとります。」
すると、その男の人はわたしに「マリア」と呼びかけました。
わたしは「はっ」としました。誰の声でもありません。それはイエス様の声です。間違えようがありません。それはいつもイエス様がわたしを呼ばれる時の声。イエス様が死んでしまっても、夜の夢の中でまた昼目覚めている時にもはっきりと耳の奥で聞えるイエス様の声、優しく心の奥の方に響くあの声だったのです。

わたしは思わず「ラボニ、先生!」と叫んで後ろを振り向き、イエス様に駆け寄りました。
するとイエス様は「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行ってこう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、またわたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」
わたしの心は喜びで一杯になりました。
さっきまでの寂しさや怖さは嘘のようにすっかりと消えてしまいました。まるで暗い夜が明けて、太陽の光があたりを照らすようにわたしの暗かった心がすみずみまで照らされ、温められるようでした。そう、冬の後にやってきた春のように、今のこの季節のように、花が咲き、鳥が歌い、ウサギやリスたちが長い冬の間の眠りから目覚めるこの春がわたしの心の中に戻ってきました。イエス様は死んでいなくなってしまったのではなかったのです。死を通りぬけ、生き返り、もうこれからはずっとわたしの側にいて下さるという事をその時はっきりと知りました。わたしは転げるようにして、みんなのところに走って行きました。そして心を喜びでいっぱいにして叫びました。
「みなさん、聞いてください。わたしは主を見ました!」
わたしはイエス様のお弟子さんたちやイエス様のお母さんのマリヤさん、また会う人みんなに、イエス様とお会いした事、イエス様がわたしに伝えなさいとおっしゃった事を伝えました。わたしが生きている間、何百回も何千回も・・・
今、ここでこのお話を聴いているあなたにも、わたしは伝えます。
「わたしは主を見たのです」「ほんとうによみがえったイエス様にお会いしたのです。」


       2007年4月8日 イースター 子どものためのお話

 ( ヨハネによる福音書19章〜20章からの再話)


2007年04月03日(火) 誕生日の日記

<写真は先日塩山駅で撮った雛人形とつり雛。今日4月3日は旧暦の雛祭り>




 51歳になった。
さてこの1年をどういう風に過ごそうか。新たな1年にタイトルを付けるとすればどんなタイトルをつけようか。と、そんな事を考えながら、ここ6年間の誕生日に書いた日記を紐解いてみた。

 子ども達が大学生になり、自由な時間が増え、気持ちの上でも余裕ができ、英語教室の仕事と家事、それに教会の奉仕の他にも、ジム通いやダンス、文学の勉強と山登りをする事ができるようになった。
 そう、ここで書くこと、またそれを元にして本を一冊作った事もこの6年間の大きな事だった。
 さらには、多くの素敵な出会いが続き、この歳になって新しく友を得、仲間の中にいることの心地よさを味わっている。

 言ってみれば、外に向けて自分を開き世界を広げてきた6年間だった。外から見れば、あれもこれもと雑多な印象を受けることだろうが、わたしにとってはひとつひとつの事が繋がりあっているのを漠然と感じている。
 この日記を綴ることが、わたしに命を下さっている神へのレスポンス、応答という位置づけは変らない。書くことに留まらず、応答としての表現をして行きたいとそんな気持ちでいる。

 いただいている命を、時を、知らされた事を、学んだ事を、ひとつの表現にしてゆきたい。
 教える事も、家事やハウスキーピングも表現のひとつではあるだろう。ここに表現者としてのプライドを持ってかかわりたい。
 ダンス、舞台、文章での表現にもっと心を留め、鍛錬して行きたいと思う。そしてそれらをひとつに統べるものが祈りであるように。あの方との垂直な線上で行えるように。

 この4月から新しく始めることがひとつある。
朗読の勉強。
ずっと心にはあったが、またやってもきていたが、意識的に学ぶことのないままだった。
 4月から9月まで、第1、第3土曜日に、長谷川勝彦氏の朗読講座を受講することにした。自分の声で何をどう伝えるのかという事を学んで行くことになるのだろう。またドラマを伝えるという事も。

 今朝、長谷川勝彦氏の著書「メディアの日本語」の付箋をつけていたところを読み返し、この世界に入ってゆくことの期待を新しくした。
踏み出す方向を暗示するものとして、ここに留めておこう。


長谷川氏はアウグスチヌス(ローマ時代末期の最大の神学者・思想家)は教会での朗誦について、その行為をこう分析していると、彼の言葉を引用している。またこれを「ナレーションする行為の分析」そのものだと思うと述べている。

 私は自分の知っている歌を歌おうと心構える。歌いだすまえに、私の期待はその歌全体に向かっている。ところが歌いだすと、私の期待からもぎとった部分が過去になるにつれて、私の記憶はそのほうに向かっていく。そこで私の精神活動の生きた力は二つの方向に分かれる。一つは私が歌いおえた部分のゆえに、記憶のほうへ、もう一つはこれから歌おうとする部分のゆえに、期待のほうへである。けれどもわたしの直視はいまここに現前し、それをとおって、期待はますます短縮され、記憶はますます長くなり、ついに期待の全部が尽きてしまい、そのとき働き全体は終わり、記憶へと移ってゆく。

              *

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2007年04月02日(月) チューリップが開いた

昨年の11月18日に植え込みをしたチューリップが今朝開いた。
白と赤のチューリップ、黄色や紫の花も近いうちに開きそう。

その時の日記に拠れば、時間がなくてずいぶんいい加減な球根の買い方や苗の選び方をしたようだ。

それはそれで、今年もチューリップが咲いてくれてうれしい。
一度に庭が明るくなった。
パンジーやビオラやムスカリも元気。






































2007年04月01日(日) 4月、スタート

4月の始まり。
新しい年度、新しいクラスのスタート。
3日になればまた一歳歳が増える。
青年Mは就活のため、しばらく我が家に居候。
で、久々に母親モード。

今日は教会暦では「枝の主日」。礼拝の司会を務める。
イエスのエルサレム入場に人々が振った棕櫚の葉を手にしての礼拝。
この葉を一年間手元に置き、すっかり色の変った棕櫚の葉を来年の受難節が始まる「灰の水曜日」の時に燃やして灰にして礼拝に用いることになる。
来週の日曜日、イースターまでの最後の受難の週を迎える。
礼拝後、教会学校の教師会。
7月のキャンプ事、教師研修会の事など話す。
この夏の予定がすでに入る。


午後4時、ワインやチーズ、クラッカーなどを持って市谷の外濠公園へ。
ゼミの花見が2時から始まっている。
すでの出来上がっている座の中に入っていく気後れ。
いつもの倍、20人以上はいただろうか。
花見とは無縁だったわたしが、桜の下での宴の中にいるという不思議。
こういう時の時間の過ぎ方はおもしろい。
何をするでもなく、あの人、この人と話をする内に気がつけばずいぶんな時間が過ぎている。お酒のマジック?


これから新宿へ飲みに出かけるという方々と別れてKさんDさんといっしょにスタバへ。
そうすると、新宿行きのグループとはぐれた一団もスタバへ現れ、9時10分の閉店までしばらく歓談。

mGはダンスの練習の後、みんなから誕生日のお祝い会をやってもらっているらしい。わたしの方が先に帰宅すると、
青年Mが、ネットで就職試験を受けている。

と、こんな4月のスタート。




たりたくみ |MAILHomePage

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