たりたの日記
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今日は仕事の帰り、どうしても行かなくてはならない用があったので、きらいなデパートへ行ってきた。
売り場が本屋だったからまだよかった。 他の売り場はどこにも立ち寄らずに本の売り場だけに2時間近くいた。 教会学校の子ども達のプレゼントや英語教室の生徒のプレゼントやクリスマス関係の教材、甥っ子達のプレゼント、今年は他の売り場で何かを探すという気分になれないからみんな本にしようと。 今日のところは下見。
本の注文をした他は<えんぴつでなぞり書き「百人一首」>という物を買った。今流行りの大人の書き方帳。この手の本、「えんぴつで奥の細道」というのを親たちのために買って送ったのだったが、今度は自分用。 子どもの頃にやった「書き方」がなんだかなつかしくなって鉛筆で硬筆の練習をしたくなったというわけ。
最近は本も服もネットで買うことがほとんど。 年々デパートやその他の店に行かなくなっているから人がたくさんいるというだけで、物が溢れるように置かれているというだけで、何か気持ちが滅入る。 どういう心の働きに寄るんだろう。 子どもの時や若い時はデパートは嫌いじゃなかったはずなのに。 クリスマスショッピングはまだこれから・・・
踊る、踊る、踊る 女たち、男たち、そして子どもたち 日常から切り取られた舞台の上 音が溢れ、光が交差する中を 弾み、跳び、回転し、そして駆け抜ける
踊る、踊る、踊る、 子どもたち、女たち、そして男たち 日常を支配する重さと煩雑さの中 ひとつの時へ向かって何かを積み上げる つまずき、うずくまり、肩を落とす自分を起こしては
踊る、踊る、踊る 男たち、子どもたち、そして女たち 舞台のこちらとあちらで行き交うものを身に覚え しきりにやってくるメッセージを掴もうとするが それは何?
「命は輝くものだ」 と、そんな声 どこからともなく
<覚書>
あゆみの箱 2006年 AUTUM STAGE さいたま市民会館おおみや大ホール 午後2時半より
M’S Party の踊ったもの4曲 ラテンワールド(大人) Tokyo通信(キッズ) Closer (大人) Enoshima Medley(大人とキッズ)
M’S Partyに加わり、舞台で初めて踊った時からおよそ2年。 初めて踊った時の、頭の中が真っ白になってしまうような緊張は、回を増すごとに和らいでいく気がする。 今回は、同居人とわたしの二人で踊るペアダンスのシーンもあったのに、必要以上の緊張や怖れからは開放され、ありのままの自分で楽しく踊れた。 すっこけたりしなくてまずはよかった。 おせじにもダンスがうまいとは言えないわれわれをあえてペアで躍らせるという度胸ある師匠の意図はそれを達成できたのだろうか。 2年前には思ってもみなかった事をやっていることに、2年前には知ることもなかった仲間といっしょにいることに、毎度ながら「不思議」を思う。
今日の午前中は明日のダンスのステージに向けての最後の踊り込み。 県活のリハーサル室で13人での自主練。 仕事の前の時間になお先生とFちゃんが駆けつけてくれる。 不安なところもなくなり楽しく踊れた。
それでも明日は緊張する、きっと。 深呼吸をして、地にしっかり足をつけて、エネルギーは上の方よりももっとぐっと下、丹田のあたりに貯めて。 そうしないと、気分だけハイになり、そんな時は振りが飛んだり、細かいところに注意がいかなかったりする。
そしてリラックスすること。 自分を解放させること。 心にも身体にも余分な力を入れない。そしてみんなのエネルギー、できれば客席とのエネルギーとの交感をする。
と、ここに書くことで自分に言い聞かせている。
そうだ、この事も付け加えておこう。 ここのところ、高橋たか子の「日記」を再読しているのだが、 2003年12月13日の日記の内容は、ペアダンスを踊る前に良い示唆というか手厳しい示唆をいただいたと思った。 ペアダンスというのは、男女の愛の表現、それも、存在と存在をあげての求心的な愛の。 明日のステージの一部に同居人mGとのペアダンス。そこで何をどう表現するかという事についての示唆。
<以下、高橋たか子著「日記」(2003年12月13日の抜粋>
テレビで、フィギアスケートやアイスダンスなどの男女ペアものを見るたびに思うこと―それは常にわたしの考えてきた、西洋諸国では男女の愛が成熟しているということ(日本では、男女の性愛が今も昔もあるだけ。男女の愛ってどんなことなのか、存在と存在をあげての求心的な愛なのだ、と、私としては叫びたいほどなのに)。ロシヤやフランスやイタリアやカナダやアメリカやブルガリヤや、まことにまことに見事な、男女のカップルの、氷上の愛の表現!現に、何世紀も何世紀もそれを体験してきた民族だからこそ、こんなに踊れるのだ。
今日は友人三人とモツ鍋をした。 生協なんかのセットでモツ鍋をした事はあったけれど、今回は福岡出身の友人の手に寄る本格的は博多のモツ鍋。 おいしかった〜。
ダイエット中(ステージの前はいつもそう)の身でありながら、ずいぶんたくさん食べた。 その友人に寄れば、ホルモンはカロリーが少ないし、後はどっさりのキャベツ(大きい一玉をまるごと使うの)と豆腐だからあまり気にしなくていいらしい。
でも翌朝、顔が浮腫んでいた。これは焼酎のせいかも。 はい、当然翌日はまたダイエットモードです。
モツ鍋も良かったけれど、いい話ができたことはさらに良かった。話の中身はここでは書かないけれど、きっと記憶から消えることはないだろう。
2006年11月22日(水) |
映画「無伴奏 シャコンヌ」 |
「無伴奏 シャコンヌ」という 1994年、フランス映画
何という良い映画であったことか。 昨日から頭の中にはバッハの「無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番シャコンヌ 」が繰り返し鳴っています。
ホームレスになってしまったバイオリンニストは何もかも失ってしまうのだけれど、それ故に彼の探していた正しい「魂柱」を手に入れたのではないかと最後のそれまでとは違った演奏を聴き、またそれに動かされる人達の身体の動きや表情を見ながら、深い感動がありました。
魂柱というのはヴァイオリンの上と下の共鳴板を支えている小さな柱で、そこがきちんとした位置に立っていなければ、その楽器の本来の良い響きが出ないのです。
この映画の始まりはヴァイオリンを修理する場面。 「魂柱が問題だ」 修理に持ち込まれたヴァイオリンを直しながら言うヴァイオリン職人の言葉。はじめは気にも止めなかった言葉でしたが、実はこれこそがこの映画の主題を暗示している事が分かりました。
優れたプロのヴァイオリンニストが地下鉄での路上ミュージシャンへさらにはホームレスになり、最後に残ったヴァイオリンすら壊されてしまった主人公のヴァイオリンニストはそれでもひたすら魂柱を握り締め、頭の中で自分の演奏を追い求めるのです。
レビュー、改めて書くつもりでいますけれど。
もしご覧になりたい方はこちらのDVDレンタルサイトからどうぞ。
この日、収穫感謝主日。教会学校との合同礼拝。 午後3時より9時まで最後の合同練習。
毎年恒例の秋の植え込みは前日の18日。 去年は11月4日だったから2週間も遅いが、まだ暖かいので、庭仕事は楽だった。
今年は去年のように新品種のチューリップの球根を植えたり、色合いの凝ったパンジーの苗を買うこともなかった。
チューリップの球根50球。生協の共同購入で、色はいろいろな色のミックス。 しかし、どうしてこういう注文の仕方をしたものか。 植える時に、どの球根がどんな色か見当もつかないのだから。よほどめんどくさかったのだろう。でもこのまま注文しないでいたら今年はチューリップを植えることがないまま秋が行き過ぎるような気がしたのだろう。 なぜだかあわただしい。
昨日mGが仕事に出かける前に急いで、オジダに連れていってもらう。 何しろ大量の花の苗と土。自転車では無理だから。 ここでも時間がないので、いい加減な買い方。 いろんな色のパンジーやビオラが20株1ケースで1000円。確かにお買い特。パンジーとビオラを1ケースづつ。
スイートアリッサム とノースポール、1ケース6株(390円)をそれぞれ1ケースづつ。
寒さしらずという耐寒性のかわいらしい黄色い花の苗を3つ。 特売のメキシカンセージは地植え用に。
冬の間に楽しむ寄植え用に、花キャベツ4種とシロタエギク。
こんなところだったかな。 取り合えず、今年も春の庭に備えて、秋の植え込みの作業ができてよかった。
2006年11月18日(土) |
kiki のcloserを踊る |
ダンスのステージまで後1週間になってしまった。 今回は3曲踊るが、その中にひとつのR&Bはkiki のcloserという曲。 今日はこの曲をずっと聴きながら、庭仕事に精を出した。
ところでこの歌を歌ってみようとCDの歌詞カードを取り出した。 言葉を読みながら音を聴いて、また歌を口づさんでいるうちに、どっと涙が出てきて声にならなくなった。 キキの、若々しくも、真摯な魂に触れた。 この歌が特別なものとなる。そして踊りもまた。
キキは多くのR&Bシンガーに影響を与えたと言われるゴスペルシンガーのカレン・クラーク・シェアードの娘。10代で初のアルバムを発表する。
歌詞と訳をここに。 CD入っている歌詞カードの訳は You を「神様」と訳していて、全体に硬い。 これは10代の女の子の心の叫びであり、また願い。 キキはイエスに向かって切ないほどの問いかけをし、もっと近づきたいと歌っている。そこを大切に訳したい。
それにしても奈央先生の振りは、そのキキの内側からこみあげてくるような願いを、みごとに振りの中で表現していることに気づく。奈央先生は振り付けをする時には妨げになるから歌の意味は調べたりしないそうだから、なおの事凄い。その歌の言葉の向こうにある魂が見えているのだろう。
どうもうまくこの曲に気持ちが入っていかなかったのだが、歌の意味が分かるとその振りが生き生きと感じられるようになった。
closer Verse1:
Show me how to be more like You Show me how to be stronger in a world so cruel Show me how to be more faithful in what I don't know And how to trust and how to lean on you to Lord You said
どうしたらあなたのようになれるか教えて どうしたらこんなにむごい世の中で強くなれるのか教えて どうしたら分からないことがあっても信仰深くなれるのか教えて そして、どうやってあなたを信頼し、そして頼り切ることができるのか教えて、主よ。 あなたはこう言ったわ
B-Section:
If I lifted up from the earth I will draw all men unto me
「わたしは地上からひきあげられるとき、 すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」と
( 新約聖書ヨハネによる福音書12章32節)
Chorus:
Can I get closer to You Can I get closer and personal too I need to know how to live more in the likeness of You Can I get closer - closer to You
あなたにもっと近づくことができる? あなたにもっと近づき、そして親しくなることができる? あなたと一つになって生きる道を知りたいの。 あなたにもっと近づくことができる? もっとあなたの近くに
Verse2: Show me how to think more like I should Show me how to choose between what’s bad and good Show me how to be more prayerful and available So I can hear you when you talk to me Lord
どうしたら、もっと正しく考えられるか教えて どうしたら良いことと悪いことを見分けられるか教えて どうしたら祈り深くまたふさわしくあれるか教えて そうすれば、あなたがわたしに話しかける声を聴くことができるわ、主よ。
Vamp:
Draw me nearer to you Jesus You're my sword and shield Draw me closer than a brother You are all my need
イエス、あたなにもっと近く、わたしを引き寄せて あなたは、わたしの剣、そして盾 兄弟よりももっと近く、わたしを引き寄せて あなたこそわたしに必要な方
2006年11月16日(木) |
「ロンリー・ウーマン」を読みながら |
ふと、高橋たか子の本を読み返したくなって、書架をあさっていたら、買っておいて読んでいない本が出て来た。
高橋たか子「ロンリー・ウーマン」の文庫版
ロンリー・ウーマン お告げ 狐火 吊橋 不思議な縁
と5つの独立した短編小説がそれぞれにどこかで繋がっているという長編連作。 主人公はみな、孤独な女たち。
高橋氏の最近の作品にはどこかまるごと没頭してしまえないような距離感があって、しばらく離れていたのだが、この時期の小説はやはり好きだ。 他のどの作家とも違う、彼女独自の世界は揺るぎない。 その突き放したような冷徹な視線には甘さがない。自己顕示とも自己主張とも遠い。なぜなら自分をも突き放しているから。 決して楽しい話、心温まる物語というのではない。この5編の共通して流れているものは、そのタイトルが示す通り、「孤独」なのだから。それも感傷や作りごとの入り込む隙のない、ほんものの孤独。 私的なものから遠く離れ、むしろこの世俗からもどこか遠い。 だからこそ、そこに慰めがある。豊饒な何かがある。
この作品、ゼミのテキストにどうだろうか。 前から高橋たか子の作品をリクエストしたい気持ちはあったが、好きな作品はどれも長編だったからテキストには無理だった。この中の一編であれば長さとしては大丈夫ではないかしら。 先日の平林たい子の時のように酷評されるとしたら、好きな作家だけに推薦した事を後悔する事だろうけれど、他の人がこの作品をどう読むのか知りたい気がする。
日曜日の午後は、2週間に一度は教会の帰りに図書館で本を仕入れてきたが、ここのところ日曜日の午後が塞がっているので、ずいぶん図書館へ行っていない。 今日こそ、平林たい子の評伝や著作、また次回のゼミの資料など借りに行かなくては。 仕事の前に、仕事場の近くの図書館へ行く事にした。仕事場で自転車を借り、急ぎ図書館へ。 ところが事もあろうに、図書館の入り口には「閉館」の看板。 休館日でもないのにどうして・・・狐につままれたように呆然と立ち尽くす図。 どうやら1年に一度か二度の図書整理のための休館日に当たったらしい。 寄りにも寄って、ようやくこれた日に閉まってるなんて・・・こんなこともあるんだなぁ。 しかたなく手ぶらのまま、もと来た道を引き返す。 秋の日の晴れ渡った空の下、運動していると思えば時間も無駄ではないか。
それにしても1時間ほどぽっかり時間が空いてしまった。 そうだ、読みかけの文庫本、結城信一著「セザンヌの山・空の細道」を読もう。この本をバッグに入れていたのはラッキーだった。 実際、とても心休まる読書タイムだったのだ。良い作品達に出合う事ができた。
今日図書館が閉まっていた事はむしろよかったのかもしれない。そうでなければ、しばらくはあの波乱万丈の激しくも果敢な平林たい子の生涯に没頭した事だろう。そうすれば、結城信一の本は読みさしのままうっちゃられる事になったに決まっている。今日は、この本を読むべき日だったのだ。 つくづくとそんな気になった。
しかし、それにしても予想に反する出来事は続くものだ。 お天気の事。 朝家を出る時にはまったくもって申し分ないお天気で、疑うことなく、目一杯洗濯物を干してきた。ところが夕方から雷雨を伴う物凄い雨。 何かが爆発するかのような凄まじい雷の音を聞きながら、今ごろ一度すっかり乾いた洗濯物が無残に濡れそぼれているのだろうなと思っていた。
保育園での一日。 午前と午後の仕事の間に、ダンスの練習と買い物。 近くに便利なショッピングモールができているのに、ここに昼間に行ったのは初めて。時間が取られそうで怖いから近づかないでいたのだ。 案の状、ついついアイスクリームやオムレツなんか食べてしまった。
「鬼子母神」のことをあれこれ考えていた昨日は、次男の誕生日だった。 メールの返事がないので心配していたら、何度目かの電話がようやく通じる。 あれから22年。 このまま大きくならないでほしいと思ったことを覚えている。 もう母というものであったことすら忘れてしまいそうなこの頃だ。 次男の話では都内で一人暮らしをしている長男からお呼びがかかり、来週末は久し振りに兄弟2人が会うらしく、その知らせが事の他うれしかった。
2006年11月13日(月) |
文学ゼミ、平林たい子をめぐって |
昨日のゼミの事、平林たい子の「鬼子母神」は酷評が圧倒的だった。その作品だけでなく、彼女の行動や、人間性に至るまで、ほぼ全員がネガティブな意見を語った。 わたし自身、厳しい事を言っておきながら、しまいの方になると、何もそこまで言わなくても・・・と、何か作家の肩を持ちたい気持ちになってきた。
―平林たい子の場合、書くという行為も、かかわってきたフェミニズム運動や社会主義運動も、また夫や関係を持った男たちも、自らを英雄として立たせるための道具であり、そこに自分の信条や愛情を注いだというのではなかったのではないか―とわたしは語ったが、そしてそれはそれほど間違った見方ではないとは思うが、しかし、それは作家として、一人の芸術家として、それほど責められることなのだろうか。
人それぞれ書くということの動機は違う。 平林は徹底的に「我」に拘った。自分を分析し、自分の心に起こったことを見つめ、文章にした。 それはある部分ではその人自身よりも丈高く書かれてはいるし、明らかに、書くことで自分の汚名を晴らし、自分を傷つけた相手に復讐しようというような情動を底に見る。
けれども、平林たい子はその時代にあって、彼女の役割を、その限界の中で果たし終えたことは確かだろう。 他者を喰って自分を立てようとする人間の悲しい性は何も彼女に限ったものではない。それはむしろ、我々が共通して持つ、ひとつの「罪」だ。 多かれ少なかれ、人間は、他を食い物にして生き伸びているのだ。
しかし、他人の子どもを食っていた鬼子母神が、お釈迦様に導かれ、やがては母性を象徴する神として祭られるようになったように、自らを子を喰らう鬼子母神と重ねる平林たい子にあっても、その個性を彼女の作品として結実する道を与えられたのではないだろうか。そして、それらの作品はその時代の女達をおおいに前へと進ませる役割を果たしたに違いない。
ゼミの帰り道、もうこれでこの課題は終わったというのに、まだ読んでいなかった作品にかなり没頭して読んだ。なぜだか分からないが、その人についても作品についても気の済むまで追ってみたい気持ちになる。
この日記はゼミの後の感想で、わたし自身のこの作品の感想ではない。 感想はまた改めて。(というばかりで書かないでいるものが無数にあるが)
わたしの日曜日というのは早朝、家を出て夜遅く家に帰ってくる。 午前中は教会で過ごし、午後から夜にかけてはダンスの稽古場で過ごすというのが最近のパターンになっている。
で、ふと考えてみれば、一日中、人の中にいるのである。もっと言えば、人と共に何かをしている。何人もの人と、ひとつのことに心を合わせているのだなぁと今さらのように気がつく。
一人でいたがる傾向を持つわたし(そんな風には見えないと誰もが言うけれど、それはそれとして)にとっては、その事が何か不思議な事のように思える。
ダンスの稽古場。音楽と踊りが中心なのは言うまでもないけれど、それだけじゃない。人なのだ。とりわけ、何かについて話込むとか、至近距離で人と対するというのではなく、何かゆるやかに溶けて人のエネルギーの混ざり合う温かさの中に身を置いている感覚。 ひとりひとりの振りや表情を見てかってになごんでいる。 mGもそんな事を言っていた。 なんだろうな、これって・・・
というわけで、この日の事を書いたミクシー日記(いくらか書き足し)を貼り付けておこう。
昨日は教会の礼拝の後、月一度の昼食会、メニューはビビンバとわかめスープでしたが、いろんなお野菜がたっぷりの栄養満天のビビンバでした。量も半端じゃなく多くて、これ食べたら、午後のダンスのレッスンの間、お腹空かなくていいなとうれしくいただきました。
わたしはお料理の当番ではなかったので、ただただこしらえてもらったものをいただくという幸せ。何もしなかったから、20人分のお皿類はわたしが洗わせていただきました。
その後、教会の役員会。わたしは役員ではないけれど、英語学校のスタッフという事で参加。いろいろと前向きな話や新しい展開がなされて良い話し合いでした。
午後3時半。さて、いざダンスの練習場へ。 いつもはmGと車で出かけるところ、今日はわたしはひとり遅れて行くので、電車とタクシーで会場へダッシュ。
1時間ほどの遅刻。みんなもう、ラテンを5回ほど踊りこんだもよう。 後は9時過ぎまでひたすら踊り、みんなの踊りを観、音楽と動きと、ひとりひとりの出してるいいエネルギーを感じて満ちた時間を過ごしました。
そうそう、間違って覚えた振りを、いけぽん(わたしより20歳くらいは若い青年です)に直してもらい、できるまで何度もいっしょに踊ってくれました。それなのに、やっぱり最後に踊った時に間違ってたらしく 「たりたがちゃんと踊れたかどうか見てたけどやっぱり間違ってたよ」と。 わっ、フォローまでしてくれちゃってる・・
わたしなんて、自分が踊るのに精一杯で、仲間の動きなんて見る余裕ないのに、いけぽんはえらいなぁと感心したのでした。
大人がキッズに教えを乞う場面もあるし(だって、キッズ、うまいんだもの)、みんなでここはこうだ、あそこはこうしようと教えあう場面もあって、日頃一人で仕事しているわたしはこうした仲間と何かを創り上げていく場に慰められたりします。
ダンスの後、汗で冷たくなったウエアーのまま車に乗り込み、毎度、同じような会話。 「お腹空いたね、どうする?」 「このまま、食べ物屋に寄るのもなあぁ〜」 「じゃ、コンビニでなんか買って帰えろ」 「あ、やっぱし焼肉屋寄ろうか?」 「それともラーメンにする?」 「よそう、よそう、カロリー取りすぎ!」 おおよそ食べ物の事ばかり話ながら家に辿りつくのでした。 そして、美味しいお酒を。
土曜日、朝から雨。 昨日の晴天が夢のように思える。ミクシーのフォトアルバムに西沢渓谷の写真を、今回は34枚もアップした。 ここに日記にはそんなには貼り付けられないから、4枚だけここに。
ヨーロッパの小さな町に滞在していらして、この日記に検索でおいでくださったyさんが、昨日の日記の日本の秋を楽しんでくださったとBBSでお知らせくださったので。
山の紅葉の時期は短い。 それは予想を超えていた。 燃えるような黄や赤に彩られた渓谷を、秋が終わるまでに一度見ておきたいと願っていたのだが、出遅れたようだった。
けれど考えようによっては、この渓谷との良い出合い方だったのかもしれない。 少なくとも人であふれかえっている山道というのではなかった。 あたりは、ようやく山深い渓谷の静けさを取り戻しつつあるようだった。 豪華絢爛の華やかさはなかったが、秋のなごりと冬の兆しを秘めた渓谷は 日本人の大切にしてきた感覚のひとつ、わびとかさびの世界を思わせる風景に出会った。
おおよそ落ちてしまった木に数枚残った美しい黄色の葉。 葉を落としたばかりの細い枝枝ばかりの木々の中で、そこだけ 赤く、あと一日か二日の命を留める真紅の紅葉葉。 そこ、ここに漂っている儚さ。
そして、木々の、そして訪れる人々の変化の中で何百年も変らずその音を響かせてきたであろう岩走る水、滝の力強さ、清らかさ。
どの自然に出会っても、そこから学ぶものがきっとあるように、この渓谷との出合いもかけがえのないものだった。 きっとここをまた歩くことになるだろう。 新緑の頃か、あるいは真夏、そして紅葉の時期ならば、思いっきり朝の早い時間に。
実りの秋だ。 わたしは何も作っていないが 数日前、熊本の叔父夫婦から獲れたばかりの収穫品が届いた。
去年定年退職した叔父夫婦は老父母を助け、農業を始めた。 確か今年で2回目の秋。 ダンボールの箱にはワープロで打った丁寧な手紙と 「収穫品のうんちく」が添えられていた。 この<うんちく>が大切。
減農薬・有機肥料の新米ともち米 無農薬の薩摩芋と紫芋 自家製小麦を粉にした小麦粉 ささげに梅干。
今日新米を炊いた。 ひとつぶひとつぶのお米のつぶが光って 言葉を発しているかのように生き生きしている あぁ、おいしい。 日頃玄米しか食べないので 白米の美味しさ格別だった。
今日は白米をお腹いっぱい食べたからか ちっともお酒を飲みたい気分にならない。
*
ずっと日記が空白だった。 時間がなかった・・それだけではなく、 きっと日記書きモードではなかった。
今日は一日家にいて何も時間にせかされることがなかったから 6日分の日記のまとめ書きをした。 空白が埋まるとなんだかほっとする。
わらの匂いを思い出した こどもの頃の学校帰り わらこづみの畑は夢のような場所
日向くさくてくすぐったいような 匂いの中で 友だちといっしょに 潜ったり、転がったり、ふざけあったり・・・
あれは悪い事だったに違いない それなのにうれしさが大きくて 悪るびれるひまがなかった
もういちど あのわらの中で 我を忘れてみたい
蒲公英さんの言葉を読んで心に起こったこと けっして戻ってくることのない時への郷愁
2006年11月05日(日) |
綿菓子屋さんになった日 |
この日、わたしは綿菓子屋さんでした。
県民活動センターのお祭り。 つくしんぼ保育園がバザーを出したので午前中、手伝いに出向いたのでした。
何を手伝うのかその時までは分からずに会場に行くと、綿菓子班が不足していて、そちらへ。
綿菓子作りの経験もなければ、エプロンも持参していなかったのですが、おもしろそうなので、綿菓子作る人にさせてもらいました。
昔、お祭りで、綿菓子屋さんの手元をじいっと見ていた事を思い出しました。 硬いザラメの粒を機械に入れると、そこから薄い煙のような綿菓子がふわふわ出てきて、それをおじさんが棒を回しながら大きな綿のかたまりにしてゆくのは夢のようでも、魔法のようでもありました。
やってみるとけっこう難しいのです。 広いホールでは胡弓の演奏会が催されていて、その音楽に乗って、手をリズミカルに回していくと、うまく綿アメを巻き取ることができました。(身体も動いていたかも・・) でもね、綿アメが腕と言わず、顔や髪にもくっつきました。
他のお店はいざ知らず、この綿菓子屋さんの前には引っ切り無しに子ども達の列が続き、交代で休む間なく作り続けるのですが、機械のモーターの方が長続きせず、10個くらいつくるとモーターを冷やし、機械のお掃除をしなくてはならないのです。 そのお掃除の間も、待っている人がいなくならないのにはちょっとびっくりしました。綿菓子ってそんなに人気なんだ・・・ そういえば、どこかで綿菓子作りの機械を借りることができると聞きましたが、バザーをやるとしたら、綿菓子は良いかもしれません。 もう一度綿菓子屋さんがやってみたい気がします。
この綿菓子屋さんの後はこところ日曜恒例のダンスの練習。 今日は踊りこみ! 午後3時から9時まで、それは踊りましたとも。 家に帰ったら体重が2k近く落ちていました。 良かった〜!
というのも、この2日の間で訳もなく2k増しになっていてあわてていたのです。 この<2k増し>は日曜の午後に備えて身体があらかじめ脂肪を蓄えたんじゃなかろうかと思いました。
11月26日のステージまで3週間ありません。 一番前で踊るところがあるし、mGとペアで踊るところもあるし、ブルブルブル・・・(武者震い?) 今週、気合入れて練習しなくっちゃ。
この日、確か良いお天気だった。 みんな紅葉狩に出かけていそうな気がした。 いったい何をしたのだったか。 mGが朝から仕事で、 わたしは洗濯や掃除をぽつぽつやったような気がする。
それからmG用の麻婆豆腐を作ったな。 塩分を控えなくちゃいけないのに、市販の麻婆豆腐の素を使ったから塩辛い。 かぶの葉っぱを炒めたものと溶かした卵を二つ分入れるとあら不思議、 味がぐんとマイルド。麻婆豆腐とは言い難いけれど、悪くはない味。 繊維質とビタミンとたんぱく質が加わったから栄養価もアップ。
そうだそうだ。 3時半に美容院を予約していたから、午後3時に家を出たのだった。 ジムの側にある美容院だから、その後、ビランクスヨガとラテンに出るつもりで。
美容院で向かって歩いている時、道端の菊があんまりきれいだったから携帯でカシャリ。 菊の花はあまり好きではないけれど、それは品評会なんかで見る威張った菊が嫌いなのだ。 この畑の脇に無造作に植えられた菊のワイルドなこと、華々しいこと。 すっかり良い気持ちになったのだった。
休養が必要だった。 わたしもだが、mGはもっと。 家を離れてただただ身体と心を休ませることのできる場所。 山や渓谷はわたしとしては惹かれるけれどmGはそんな気分ではないという。 それならラクーアへ。 11時から夜の10時までそこにいてひたすらリラックス。 mGの受けたマッサージは良かったらしい。 沖縄料理もヘルシーでよかった。 本もたっぷり読めたし、もちろんお風呂にもたっぷり入った。 こんなに長い時間・・・ そうだけど、そんなに長いという感覚もなかったな。 それにしてもたくさんの人。 みんな疲れているんだなきっと。
自転車を走らせジムへ。 途中、雲行きがあやしい。 まずい、布団を干してきた。 ここで引き返せば、ラテンのクラスには間に合わない。 が、ここで引き返さなければ、布団が濡れるかもしれない。
携帯電話の天気のマークは「曇り」のしるし。 「よし、行くか!」 「神さま、雨を降らさないでね!」 とまるで脅迫のようなお祈り。
迷って立ち止まっていた分遅れた。 スタジオの入り口は閉まり、クラスは始まっている。 門前であきらめるわけにはいかない! 規則違反は承知で、すでに始まっているクラスに後ろからそっと。
いつもと違う位置。 鏡になお先生の顔が正面に見えるというのはいい。 エネルギーが直接伝わる。 それを受けて踊る。
頭にあることをすっかり空っぽにし、 なんというか全身感覚の人になるこの時間はうれしい。 このわたしの中に別なわたしがあることを確認する。
布団は無事だった。 神さま、ありがとう^^
今日は英語学校がお休み。西沢渓谷に一人ででかけようかなどと考えていたけれど、主婦の仕事や雑用がたまっている。
午前中は冬の帰省の最終計画を立て、旅行会社に電話をし、切符の予約をした。こうい事は家に居る時でなければ、落ち着いてはできない。
午後から夏の間、放っておいた庭の手入れをした。 今年もメキシカンセージの咲く季節。 去年の今頃、秋の寄せ植えをした白い葉の形がおもしろいシロタエギクの仲間(?)とメキシカンセージは株が大きくなり、メキシカンセージは今年も紫色のベルベット状の花をつけた。 ろくに手入れもしなかったのに、良く元気で夏を越してくれたものだ。
夏の間、わさわさと茂った、青い小花をつけるメドウセージはまだ元気。 赤い花がかわいらしいチェリーセージは秋になって元気を盛り返す。 先月剪定したばかりのレッドロビンからすでにたくさんの赤い新芽が出ている。切っても切っても伸びる、この木の逞しさ。
種から大きくしたバジルはバジルペイスを作らないままに終わりになってしまったが、夏の間、スパゲッティーやサラダにずいぶん使った。 やはり種から育ったマリーゴールドは黄色い花をまだ咲かせている。 母からもらってきた種が発芽したトレニアも逞しい。 苗で植えたものよりも種から育ったものが丈夫で長く咲いているような気がする。
さて、近いうちにパンジーやビオラの苗といっしょにチューリップやムスカリの球根を植え駒なければ。 できるとすれば今度の土曜日だな。 それまでに庭のプランニング。
アンネのバラが2輪だけ咲いて、そこのところがぽっかりと明るい。
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