たりたの日記
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2006年09月29日(金) 「 熱海殺人事件 」を読む 



人はなぜ人を殺すのか。
そこに至る動機は何か。
その事件の向こう側にはどんなドラマが潜んでいるのか。

 人が人を殺すというおぞましい出来事をつかこうへい氏は繰り返し舞台に乗せる。誰もがかかわるまいとするその事実は、同時に誰もが知りたい事。彼はそんな観客をたくみに事件に引っ張り込む。そうしておいて、我々が新聞やテレビ、あるいはワイドショーなどで知らされる犯人やその周辺の報道とは異なる視点から、彼の芝居でしか見ることのできないような奥の深いドラマを見せてくれる。

「熱海殺人事件」は、初期のつかこうへいの代表作で、文学座 アトリエ公演台本は、1974年度岸田戯曲賞受賞作を受賞している。その後この脚本は「水野朋子物語・熱海殺人事件」「新・熱海殺人事件」「熱海殺人事件・ザ・ロンゲスト・スプリング」「熱海殺人事件・売春捜査官」「熱海殺人事件・モンテカルロ・イリュージョン」「熱海殺人事件・サイコパス−木村伝兵衛の自殺」「熱海殺人事件 平壌から来た女刑事」といった具合に、その時の事件や社会問題を織り込みながら、30年間、時代によって、またやる役者によってさまざまに形を変えてきた。

 ここではゼミで取り上げられた文学座・アトリエ公演台本の「熱海殺人事件」の脚本を読み深めていこうと思う。
 舞台は警察の取り調べ室。ベテランの部長刑事(伝兵衛)、新しく赴任してきた若手刑事(熊田)、婦人警官(ハナ子)のところへ、女工(アイ子)を殺してしたとされる容疑者の工員(金太郎)が連れてこられる。
部長刑事が自らに課した使命は犯人に自供させることではない。これといった理由も動機もなく側にあった腰紐で女工を殺した工員から、殺すに至った必然性、隠れた動機を何としても引き出すという事だった。引き出すものがなければ、でっちあげようというほどの意気込みだ。

 部長刑事は長年扱ってきた事件と同様、「新聞の隅に3行どまりで書かれる事件ではなく、心理学者の2,3人も新聞紙上に引っぱり出す」ほどのインパクトのある犯罪にしたてようと目論むのである。その使命を果たすべく、容疑者を脅したりすかしたりするのだが、犯人として貶めようというのではなく、りっぱな犯罪者として名を残してやろうという奇妙なヒューマニズムが滲み出ていて笑える。
 はじめは批判的だった若手の新任刑事はその部長の真意が分かると、とたんに協力的になり、意気投合する。やがては工員も思わず犯行を認め、部長の意志に副うべ、りっぱな犯人となる道を志す。

 観客は二人の刑事と婦人警官が、ひとりの貧しい工員をヒーローにしたてようと悪戦苦闘する姿に笑いながら、しかし自ずと人間の真実に触れ、シリアスな問題の中に投げ入れられる。貧困が人にもたらす重圧、社会的の底辺にある人間の空しさ、差別や偏見を受ける者の痛み、、不均衡を生み出す社会の構造といった問題を目の前に突きつけられる。脚本を読むだけで、その生々しさが身に迫ってくるのだから、舞台にあってはどれほど揺すぶりをかけられることかと思う。

 またここでは、その当時、しばしば問題にされていた、密室での取り調べ、国家権力によるでっちあげが絶妙な按配でパロディにされている。笑いの中に仕組まれた告発、体制への批判。これはシェークスピアの時代から演劇が担ってきたひとつの重要な役割だと思うが、そういう意味ではこの脚本は、今という時代の中で、本来芝居が担ってきた役目を果たそうとしている事が伺われる。

 ところで、この「熱海殺人事件」がいったいどういうきっかけで生まれたのか、つか氏自身がインタビューに答えて語っていることは興味深い。

<「つかこうへいの新世界」より抜粋>

「ある新聞の記事に載っていたことがきっかけなんだよ。田舎町で起きた連続放火事件。立て続けに起きる事件の犯人はその町の消防団員だったという事件なんだ。街ではめったに火事など起こりはしない。しかし自分は消火活動にいそしむ姿に夢をいだいて団員になった。現実に失望し、火事がなけりゃ、自分で火をつけて、それを消しにいけばいいんだという結論になる。彼はサイレンを鳴らし夜の街をかけぬけ、消火する快感を覚えた訳だな。火事がなければ、自分で火をつけて消す消防士がいる。だったら事件がないから自分で事件を作り上げて一流の犯人を送り出してあげる刑事がいたっていいんじゃないか。それがこの『熱海』のポイントだよな。」
(以下略)

 この演劇はとても分かり安い。悩みつつ観るといった芝居とは違う。つか氏自身は、いわゆる西部劇の構造を採って、できるだけ観客がわかりやすく入り込みやすく観られるように、芝居の構造を簡単に捉えられるようなものとしたと語っているが、どんな人でもおもしろく観ることができる芝居という娯楽性から離れてはいない。
 ところが芝居の最後の部分はどうもよく分からなかった。取調べを終えた部長刑事が捜査の結果を警視総監督に電話で報告するという設定なのだが、実は部長がかけた電話はどうやら番号違いのようで、相手は警視総監督ではなく、「キチガイ」と罵しられ、電話は切られる。しかし部長刑事はその事に気がつかず、自分の思うところを延々と語りながら幕が降りる。   
 それまでの分かりやすい言葉と裏腹に、このモノローグの言葉使いは固く、即座に意味を把握できるような内容ではない。大方の観客の耳にもおそらくは意味がありそうでその意味を掴み難い独り言としてしか聞えないだろう。
 つか氏は、小難しく、意味の掴みどころのないような独り言をどういう意図でこの芝居の最後に持ってきたのだろうか。
 この事に思いを巡らしながら最後の台詞を繰り返し読んでいる時に、はっと思ったことがあった。
 つか氏が社会に訴えたい事、演劇の中でほんとうに言いたい事というのは実はこの部長の独り言の中にあるのではないかと。そこに巧妙に仕込まれているのではないかと。

 芝居は本とは違う、言葉はあくまで演技の中で伝えられるもので一回きり耳で受け止めることしかできない。けれども、耳当たりの良い、即座に受け入れられる言葉だけでは言い表せないものが残る。作者は、部長の独り言の中で意味深長な事を語らせながらも、それが理解される事は期待せず、上澄みの言葉の音やニュアンスだけが伝わるという方法を取ったのではないだろうか。確かにその電話の台詞からは捕り物を終えた後の部長の興奮が伝わってくる。彼が何がしかの事を強く訴えているのだということは客席に伝わり、何やら熱っぽい空気が客席を満たし、観客はその興奮と共に席を立ち、劇場の外へと押し出されて行った事だろう。
 しかしその独り言はどこかにひっかかっており、後になって、あれはなんだったのかと摩擦を起こすものとして、観客の記憶に残ったのではないだろうか。そして作者は、人が活字となった脚本を読む時に改めて読み解かれる事を良しとしたのではないだろうか。

こういう推測をしたのは、つか氏のインタビューにこういう言葉を見つけたからだ。


「―いつも少し物足りないところで話を終わらせ、こんなはずじゃないんだ、もっとなにかがあるはずなんだという気持ちにさせていく。満たされないところにおいて余韻を作るという構造なんだよ。でもそれというのは一方で、作る側がもう一歩踏み込む事を放棄しているということなんだ。作り手側がやはり、その摩擦をさけよう、さけようとしているにすぎない。」
「矛盾した話になるかもしれないが、劇作家に必要なのはじっと黙って孤独に耐えるという事なんだ。摩擦すれば当然痛みも背負ってくる。その痛みや孤独に耐える事なんだ。それを癒すために同調したりすることはたやすくできることであろう。そこで踏ん張らないといけないんだ。――漢字ばっかり多くなって肩肘はった文章になってしまう。これが辛いんだ。でもこの辛さを一人でかみ締めて頑張って書いていく。見つめていくから本物の言葉が生まれてくる。そこんところで構造を作る作業を強いるんだな――」


 誰からも聴かれることのない、肩肘張った独白を熱っぽく語り続ける部長は、孤独の中で摩擦を避けようとする事なく踏ん張る、劇作家、つかこうへい自身の姿を映したものではないのか。

 インタビューの最後につか氏が語っている言葉は印象的だった。
そして、遅ればせながら、つか氏がこの30年間に積み上げて来た仕事を辿ってみようという気になった。

<「つかこうへいの新世界」より抜粋>

「夢は何かと聞かれれば、一組でも愛し合う男と女がいれば、地球は滅びないし、原爆のボタンを押すこともない。本当に愛し合う一組がいなくなった時、地球は滅びるだろうという壮大なテーマを描いていくことなんだと答えるな。オレの作品は時代とともに歩んできた作品だから、これからも変りつづける宿命を背負わされ続けることだと思う。
 作家の才能はなにがなんでもハッピーエンドにする力だと思うんだ。現実はいまなかなかそれをさせてくれない。でもそういう現実に抗い、少しでも事件を起こそうとしている人間がオレの芝居を見て、思いとどまったというようなことになればいいと思うんだ。そのハッピーエンドの形が決まるまではまだまだ作り続けなければならないと思う。」



参考
「熱海殺人事件」 文学座 アトリエ公演台本 ( 1974年 )
「つかこうへいの新世界」 メディアート出版 ( 2005年初版)


2006年09月27日(水) 自らの心と語り、そして沈黙に入れ

夕礼拝では詩編をテキストにしている。
昨夜は4回目の礼拝だったから、詩編4編が読まれ、また語られた。

この詩編の端書には <指揮者によって。伴奏付き。賛歌。ダビデの詩。>
とある。つまり、これは竪琴などの楽器の伴奏に合わせながら歌われる歌だったということだ。
ダビデの時代には音を記述する楽譜が存在しなかったから、歌は口承で伝えられた。そして、その歌の節はどこかで途絶え
いえ、もしかすると、どこかで誰かによって今も伝えられ存在するのかもしれないが、わたしたちがそれを歌うことも耳にすることも今はない。

しかし、この詩を歌として読む時、なんとまっすぐな想いを歌っているのだろうと驚く。
誰に向かって歌うのか、その方向がしっかりと定まっている。
神というその一点に焦点が絞られているのだ。
この歌、そのものが祈り。

そこには詩人の日々の苦悩があり、悲哀があり、叫びがあり、
その想いをすべて神の元へと歌声と共に放つ。
自分の正しさを神だけは知っている、
この苦悩から解き放ってくれるのも唯一神だ。
という揺ぎのない確信を持って。

この詩人の前には敵があり、
その敵は神を認めようとしない。
その相手に、詩人は呼びかける

―おののいて罪を離れよ。
 横たわるときも自らの心と語り
 そして沈黙に入れ―


わたしの好きなフレーズだ。

「自らの心と語り、そして沈黙に入れ」



夕礼拝は静かだった。
夜の帳の中では言葉も歌う歌もまた違った響きを持つ。


詩編  第4章

( 指揮者によって。伴奏付き。賛歌。ダビデの詩。)

呼び求めるわたしに答えてください
わたしの正しさを認めてくださる神よ。
苦難から解き放ってください。
憐れんで、祈りを聞いてください。


人の子らよ
いつまでわたしの名誉を辱めにさらすのか
むなしさを愛し、偽りを求めるのか。
主の慈しみに生きる人を主は見分けて
呼び求める声を聞いてくださると知れ。
おののいて罪を離れよ。
横たわるときも自らの心と語り
 そして沈黙に入れ。
ふさわしい献げ物をささげて、主に依り頼め。


恵みを示す者があろうかと、多くの人は問います。
主よ、わたしたちに御顔の光を向けてください。
人々は麦とぶどうを豊かに取り入れて喜びます。
それにもまさる喜びを
 わたしの心にお与えください。
平和のうちに身を横たえ、わたしは眠ります。
主よ、あなただけが、確かに
 わたしをここに住まわせてくださるのです。





2006年09月26日(火) つかこうへいを読んでいる

 つかこうへい、ほんとは芝居か映画を見たいところだが、取り合えず、手元にある脚本とか評論とインタビューの記事とかを読んでいる。

きっかけは一昨日の月曜日、詩人のゼミのテキストが「熱海殺人事件」(文学座アトリエ公演台本)だった。この脚本を読んでこの作家について知りたい、別のバージョンの「熱海殺人事件」も読みたいと思い、即刻、アマゾンに「つかこうへいの新世界」という本を注文した。

結局、体調が悪く、本まで買って予習しておいたのに、肝心のゼミは欠席したのだが、わたしは自宅でこの本に没頭し、すみずみまで読むことができて、結構充実していた。
それにしても、いったいこの作家の何に掴まれているんだろう。どういう訳で、脚本を繰り返し読む度におもしろさが増すのだろうと、確たる理由を見つけられないままに、いわゆるハマっているのだ。

つかこうへい、前から気になっていた作家だったのに、芝居も観ていなければ、脚本も読んでいなかった。映画は「蒲田行進曲を」テレビかなんかで見たような気もするが、きっと何かをしながら見ていたに違いない。ほとんど覚えていない。

唐十郎の黒テントの芝居は何度か観たし、本も読んでいた。
10代から20代の頃だ。大分に住んでいた時、友人の従兄弟が黒テントを大分で上演させる実行委員かなにかをやっていて、わたしにもチケットが回ってきたのだった。

つか氏は福岡県出身だし、一時期、「大分市つかこうへい劇団」が存在し、「売春捜査官 熱海殺人事件」は大分の劇団で上演したものだというから、若い日に出会ってもよさそうなものなのに、チャンスは巡ってこなかった。

なぜ今になってと思うが、しかしともかくも素通りのままで終わることがなくて良かった。

さて、芝居を観るぞ〜
(観るんじゃなくて、やるぞ〜じゃないのとツッコミ入りそうだけど・・・)

しばらく息を潜めていた演劇の虫が騒ぎ出したのかもしれない。

そのうち、「熱海殺人事件」の感想をここに書くつもり。


2006年09月24日(日) 満ちた日曜日

実際のところ、今この時間は27日、火曜日の朝。
昨日は夕方から詩人のゼミの出かけるべく、午後からは勉強モードで、つかこうへいの戯曲に没頭していたものの、身体がストライキ。鼻水と喉の痛みに加えて酷い疲労感。帰り、深夜の満員電車に詰め込まれるだけの元気がない。明日(今日)からの仕事に穴を空ける訳にはいかないので出かけるのを断念。

でもその時間、つかこうへいの演劇についての評論を読んだり、いくつかの戯曲も読むことができたから、そのうち、ここにまとめることにしよう。

以下は日曜日のこと。ミクシィ版、たりたの日記から転載。


             *
<2006年9月24日>

いつも日曜日は忙しいが、昨日はとりわけいろんなことがあった。

朝8時半に家を出て、教会学校(お話担当)、礼拝(司会)
教会の掃除なんかを済ませて家へ。
昼食後、ダンスの練習に向けて前回撮ったビデオを見ながら練習。

午後3時半、mGと共にダンスの練習へ。
午後4時から午後9時過ぎまでダンスのレッスン。
自主練習も合わせると6、7時間は踊ったことになる。
さすがに疲れた・・・

今回のラテン、難しいなぁと思っていたけど、いろんな要素があっておもしろい。
新しい振り入れも入ったから、忘れないうちに要復習。
老化した頭には振りが入らなくて苦労する。

で、この日はメンバーのMの誕生日。カラオケ居酒屋でお祝いのパーティー。ずいぶんひさしぶりのカラオケ屋さん。
さっきまでの疲れはすっとんでしまって、歌いに歌う。

それにしても世の中にはずいぶん歌があるんだなぁ。それをまた、みんな良く知っていて上手に歌えるものだなぁと、きわめてレパートリーの少ないわたしはいつも感心する。
こういう時のために新しい歌のひとつも歌えるようにしておこうとCDで練習していたはずのアンジェラ・アキのHOME、歌えたのはサビのところのみ(苦笑)

という具合に満ちた日曜日だった事を記しておこう。



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2006年09月22日(金) 筑波山へ

どこからも山行の誘いがこないので、平日の金曜日、思い立って一人筑波山へ登ってきた。
充実した山行だった。山の中にいるとしみじみと幸せを感じた。

朝7時55分発の電車に乗り、伊奈中央→大宮→南浦和→南流山→つくば 
ここまで1時間50分。
つくばから10時発のシャトルバス乗り筑波神社入り口に10時45分着。
帰路はつつじヶ丘に戻ってきたのが16時15分。午後5時のシャトルバスでつくばへ戻った。

その後、つくば駅のスタバで筑波大へ行っている次男と待ち合わせをし、いっしょに夕食を食べ、家に戻ってきたのは夜11時過ぎ。大宮駅で出張帰りの夫とばったり会ったのは予想外。

この日のコースは 
神社入り口〜御幸ヶ原〜男体山〜筑波山自然研究路〜女体山〜弁慶茶屋〜つつじが丘

<写真は登山口に入ったばかりのところ、木の根が美しかった>































山はどこも木が美しいが、ここはとりわけ杉の巨木が目に止まった。木の肌に触り、木にハグする。回りに誰もいない事を確認してから・・・
この巨木や巨岩のせいだろうか、山にずっしりとした濃密なエネルギーを感じた。




























筑波山には巨岩が多い。女体山からつつじヶ丘までの下りの中で、おもしろい形をした岩にいくつも出合う。
その岩をあちこちから眺め、写真を撮っているとすっかりコースタイムをオーバーしてしまい、予定の時間をとっくに過ぎてしまい、最終シャトルバスには間に合わないかもしれないので、神社入り口まで歩くのは止めて、つつじヶ丘発17時のシャトルバスに乗ることにした。

ゆっくり岩を見るために、今度はつつじヶ丘からまず女体山に向かって歩こうと思った。

<写真は「弁慶七戻り」という名前の巨岩>






























<写真は「大仏岩」という名前の巨岩>






2006年09月20日(水) 夕礼拝のオルガン弾き

今月から毎週水曜日に教会で夕礼拝が始まりました。
毎週日曜日の礼拝の他に、もう一度礼拝に出るというのはわたしにとっては初めての事。 (祈祷会とか、聖書研究の夕べに出ていた事はありますけどね)
水曜日は教会の英語学校で教えているので、6時に最後のクラスが終わって、2時間後の礼拝に出席するのはそんなに難しいことではありません。

毎週日曜日の朝に教会に行くなんて気がしれないとか、感心だねぇ〜とか、人によってリアクションは様々ですが、わたしにとっては、教会の椅子に座って、聖書の朗読を聴いたり、讃美歌を歌ったり、説教を聴くというのは気持ちの落ち着く良い時間ではあるんです。仕事では教える立場に立っているからか、人の中に埋もれて受身で聞いていられるっていうことはそれだけでやすらぎます。

でも、教会というところは、みんなで礼拝を作っていくという意識がありますから、司会者がいたり、聖書を朗読する人がいたり、オルガンを弾く人がいたり、後こまごまとした担当や当番があるわけです。でもそれも、20人ほどのメンバーみなで分担すれば、大したことではありません。

ところが今度始まった夕礼拝はそもそも参加者が数名ですから、分担という訳にもゆきません。数名いる教会のオルガン担当者はみな夜は来れないので、わたしが毎週オルガンを弾くという事になってしまいました。
数年前までは月に一度、オルガンを担当していたのですが、プレッシャーが大きいので、担当からはずしてもらい、月二度、教会学校のオルガンだけ、弾いて来ました。

あぁ・・・練習をサボっていたツケがこんな時にやってきます。
今日の礼拝の奏楽のこと。目と手が微妙について行かない。一人で難なく弾いていた奏楽曲を今日はもののみごとに間違えました(汗)
一にも二にも日頃のトレーニング不足です。
運動だってダンスだって1週間も休めば、身体の動きが鈍くなるのだもの、
楽器ならなおさらですよね。

しばらく離れていたオルガンや教会音楽にまた向かい合う機会が望まずしてやってきたという事なのでしょう。
ここに、あなたの課題がありますよ。途中で投げ出してはいませんか?
とそんな声が聞えるようです。

かつて学んだ事、身に付けた事というのは、何かの、誰かの役に立つために用いなければならないものでしょう。それを使うことを怖れて、土に埋めて置く事を、あの方は良しとはしないのですから。

自分のなけなしの力、たとえ貧しい技量でも、それを何とか磨いて、用いていただこう。


2006年09月17日(日) エッファタ ― 開け

今日の一日

午前中教会。午後5時から7時までダンスのレッスン。その後み〜のバンドのライヴへ。

言葉―動き―音

どれも、そこには働きかけがある。
何に働きかけられるかと言えば、心に。

身体を生かすものは食物から得ることができるけれど、心を生かすものはどこから?
言葉にも、動きにも、音にも、心を生き生きと燃え立たせるエネルギーがある。それを受け止めること。
受け止めたものはすぐに力になるものもあれば、
じっくりと時間をかけて熟成してゆくものもある。

でも、たいせつなのは、エネルギーが心に入りこんで来るように、
そこを開いておくことなのだ。
閉じた心の中には何も入ってこないもの。

イエスは耳が聞こえず舌の回らない人に、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れ、言った言葉、「エッファタ!」
「エッファタ」とは「開け」という意味。当時イエスが話していたアラム語。

わたしの耳は聞えるし、目は見える。
でも、心の耳は?、
心の目は?
時に閉じている。知らない間に・・・
わたしもまた、「エッファタ!」と呼びかけられる。

「開け!」


 
今日の言葉を記しておこう。





イザヤ書
35:4−10

心おののく人々に言え。
「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。」

そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。

そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。

口の利けなかった人が喜び歌う。

荒れ野に水が湧きいで、荒れ地に川が流れる。

熱した砂地は湖となり、乾いた地は水の湧くところとなる。

山犬がうずくまるところは、葦やパピルスの茂るところとなる。

そこに大路が敷かれる。

その道は聖なる道と呼ばれ、汚れた者がその道を通ることはない。

主御自身がその民に先立って歩まれ、愚か者がそこに迷い入ることはない。

そこに、獅子はおらず、獣が上って来て襲いかかることもない。

解き放たれた人々がそこを進み 主に贖われた人々は帰って来る。

とこしえの喜びを先頭に立てて、喜び歌いつつシオンに帰り着く。

喜びと楽しみが彼らを迎え、嘆きと悲しみは逃げ去る。



マルコによる福音書
7:31−37

それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。
人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。
そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。
そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。
すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。
イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。
そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」


2006年09月16日(土) 街の中の温泉と冷たい部屋の中のくらげ


後楽園ドーム側にあるスパ LaQua(ラクーア)のこと。

写真は9Fのビューラウンジの窓から映した写真で、真ん中あたりのオレンジ色の光は、リクライニングチェアの脇のランプ。これを灯して、本読んでいた。


5時までは友人といっしょに、その後9時まではわたしひとりで。
昼のスパと夜のスパ、表情が違う二つの雰囲気を楽しんだ。
女同士で行くのにいい場所で、すごくリラックスできるよ〜と、話を聞いていていたので、機会があったら行ってみたいと思っていた。

山や森ばかりに行きたいわたしだが、昨日は都心の中のオアシスのような空間をずいぶん楽しんだ。ちょっとしたリゾート感覚。

塩分の強い、琥珀色の温泉といくつもの岩盤浴、くらげを見ながら入る冷たい部屋、本を読んだり、持込のDVDが見たりできる、ずいぶん気持ちのいいリクライニングチェア。ブランケットもあるから、眠ることもできる!
いろんなタイプのマッサージやエステなんかもずいぶん充実してる。
女性専用のリクライニングルームや岩盤浴の部屋があるのがよかった。

女同士、男同士、カップル、グループでも、そして一人でも、いろんな使い方ができそう。
翌朝の9時まで開いているからお泊りだってできる。




どこも暖かかったり、熱かったりする部屋の中に、
ひとつだけの冷たい部屋
そこには、くらげがいくつか泳いでいた。

わたしはくらげがすきだったんだ―と、思い出す。

いつまでも眺めているにはそこは寒すぎるので、
何度も出たり入ったりする必要があった。

くらげ・・

くらげ・・・

くらげ・・・・・

なんとも魅力的な生き物・・・





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2006年09月13日(水) 明日は死ぬかのように生きよ―ガンジーの言葉

以前、英語会話学校で、毎週水曜日にシニアクラスを担当していて、そのクラスでは、英語の格言をトピックにしてクラスをしていると書いた事があった。

扱った格言もずいぶん増えた。宿題にして覚えてきましょうと言う手前、わたしも覚えるようにしている。しかし全部覚えているかと言えば、覚える先から忘れてゆく。情けない。

今日はマハトマ・ガンジーの言葉を選んだ。ここに記しておこう。


Live as if you were to die tomorrow.
Learn as if you were to live forever.


< Mahatma Gandhi>


明日は死ぬかのように生きよ。
永遠に生きるかのように学べ。


2006年09月12日(火) 高村光太郎を読む <――に>

 わたしは若い日々、高村光太郎の「智恵子抄」を繰り返し読んでは、そこに恋愛の理想、結婚の理想を見ていた。
このように生涯を通じて愛されたい。妻と夫というこの世的な関係を超えて、お互いに対等で、お互いに影響し合って成長してゆくような関係を持ちたいと。
 しかし、結婚というものを25年間続けてきて、自分なりのパートナーシップを確立してきた今、「智恵子抄」の詩のあちらこちらに、智恵子自身の悲劇ではなく、男と女の関係に生じる悲劇のようなものが潜んでいるように思え、自分自身の感じ方の変化に気づかされた。

 智恵子にとって光太郎との結婚生活は果たして幸せだったのだろうか―そんな問いが浮かんでくる。
 光太郎と結婚する前、25歳の長沼智恵子は日本におけるフェミニスト運動の先駆けとなった雑誌「青踏」の創刊号の表紙を描いている。平塚らいてふや与謝野晶子らと共に、その活動にしばらくはかかわりながら、結婚後は、そのかかわりが途絶えている。
 平塚らいてふや与謝野晶子が生き生きと自らの女性性を社会運動や芸術の中で開花し、後輩を育て、世の中の流れを変えていくという大きな働きを担った一方、長沼智恵子は高村光太郎の愛妻、「智恵子抄」のヒロイン、しかも悲劇のヒロインとしての名前しか残さなかった。

 智恵子はなぜ狂ったのか。彼女の心の病は何に起因するものだったのか。 もともとの気質、体質が最も大きな原因だろうし、実家の破産が実際の引き金になったことは伝えられるままだろうが、偉大な芸術家の妻としての様々に屈折した想いや緊張、自己卑下など結婚生活におけるつまづきもその要因を助長することになったのではないだろうか。
 そもそも結婚は見合いでするもので、恋愛結婚そのものが先鋭的な事であったこの時代においては、光太郎は言うまでもなく、新しい男だ。しかし、当然な事ながら、そこにはまだ陰りがある。
 女性をそのままに見るというよりは、自分の理想に引き寄せて、神格化したきらいはないだろうか。 愛することと崇め奉ることは違う。本来のその女性の本質を違ったように解釈され、あるいはその解釈に押し込もうとされては窮屈でたまらない。 智恵子はどこかで光太郎の愛する智恵子を演じなければならなかったのではないだろうか。
 自分の弱さも脆さもすべてを明け渡せるのでなければ自由な男と女の関係は結べないだろう。 足すことも引くこともなしに、その人そのものを受け入れ愛するということには闘いが伴う。二人はそういったお互いを理解するための闘いを闘ったのであろうか。あまり強い光太郎は、またあまりに弱い智恵子は、その闘いに目覚めることのないまま流されていったのではないのだろうか。

こうした視点から「―に」を読んでみる。



     「―――に」       
             「道程」より

いやなんです
あなたのいってしまふのが―

 
花よりさきに実のなるやうな
種よりさきに芽の出るやうな
夏から春のすぐ来るやうな
そんな理屈に合はない不自然を
どうかしないでいて下さい
型のやうな旦那さまと
まるい字をかくそのあなたと
かふ考えてさえなぜか私は泣かれます
小鳥のやうに臆病で
大風のやうにわがままな
あなたがお嫁にゆくなんて


いやなんです
あなたのいってしまふのが―


なぜそう容易く
さあ何といひませう――まあ言はば
その身を売る気になれるんでせう
あなたはその身を売るんです
一人の世界から
万人の世界へ
そして男に負けて
無意味に負けて
ああ何といふ醜悪事でせう
まるでさう
チシアンの画いた絵が
鶴巻町へ買物に出るのです
私は淋しい、かなしい
何と言ふ気はないけれど
恰度あなたの下すった
あのグロキシニアの
大きな花の腐ってゆくのを見る様な
私を棄てて腐ってゆくのを見る様な
空を旅してゆく鳥の
ゆくへをぢつとみている様な
浪の砕けるあの悲しい自棄のこころ
はかない、淋しい、焼けつく様な
――それでも恋とはちがひます
サンタマリア!
ちがひます、ちがひます
何がどうとはもとより知らねど
いやなんです
あなたのいってしまうふのが―
おまけにお嫁にゆくなんて
よその男のこころのままになるなんて





 この詩の中で「あなた」はその弱さをすでに決定づけられている。結婚は身を売ること、結婚するならば男に負け、一人の世界から万人の世界へと移行することになると。結婚は大きな花は腐ってゆくようなもので、あなたは結婚の前で悲しい自棄のこころでいると。

 これは男である作者の、女はこうしたものだという一方的な決めつけに他ならない。そうでない在り方、そうはならない結婚というものが見えていないし、また見ようとはしていない。という事は「いやだ」と駄々をこねる他は、女性を生かす方法を示すことができないはずだ。確かに、そうした弱さが見える。
 この事と関係があるかどうかは定かではないが、高村光太郎と長沼智恵子が結婚したのは1914年の事だが、実際に婚姻届を出したのは、それから19年後の1933年。智恵子が自殺未遂を起こした翌年、光太郎が50歳の時である。
 法的に婚姻関係を結んでいなかったという事実は、智恵子に精神的に不安定な立場を強いることになったとわたしは思うのだが、なぜこのような情況が長く続いたのだろうか。
 いえ、いえ、その家の事情というものがあるのだから、こういうところを作品の解釈に結びつけるのはルール違反というものだろう。あくまで作品の中に現れるところから考えてみなければ・・・


この詩の原詩である「N−女史に」、まず智恵子に示されたとされるこの詩にはさらにその傾向が強く現れているように思う。この詩の中には、


そして、男に負けて子を孕んで
あの醜い猿の児を生んで
乳をのませ
おしめを干して
ああ、なんという醜悪事でせう
あなたがお嫁にゆくなんて


とされている。
 本来女性が子を生み育てる行為こそ、男性から尊び敬われても良い特質だと思うが、光太郎にとってはそれは醜悪な事なのである。ここで智恵子は結婚前にすでに女性が本来持つ特質を否定され、傷つけられているのである。
 もしこの事に気がついていたなら女の本質は、それを否定する男と闘う事を避けられないだろう。しかし智恵子はその事に気づかずにいたのか、光太郎のもとへ行く。
 今のわたしの眼には彼女の内なる女性性はすでに相手の男性性に取り込まれる形でその関係をスタートし、自由であるべき智恵子の芸術性はその関係においてすでに危機に晒されることになった、それこそエンマ・ユングが、著書内なる異性―アニムスとアニマ (海鳴社 エンマ・ユング著)の中で言う「アニムスの問題」の典型だと映るのだが、わたしが智恵子の立場であったとしても、とうていそんな落とし穴には気づかなかったに違いない。

 


別の詩に 「おそれ」という詩がある。そしてこの詩は前の詩にもまして、暗示的だ。

いけない、いけない
静かにしてゐる此の水に手を触れてはいけない
まして石を投げ込んではいけない


から始まるこの詩は

あなたは其のさきを私に話してはいけない
あなたの今言はうとしてゐる事は世の中の最大危険の一つだ
口から外へ出さなければいい


と智恵子に何かを禁止し続ける。
そして決定的なこのフレーズ

あなたは女だ
男のやうだと言はれても矢張女だ
あの蒼黒(あをぐろ)い空に汗ばんでゐる円い月だ
世界を夢に導き、刹那を永遠に置きかへようとする月だ
それでいい、それでいい
その夢を現にかへし
永遠を刹那にふり戻してはいけない



「あなたは女であり、月だ」とする。
それは平塚らいてふの「元始女性は太陽であった」という主張とまっこうから反対する主張だ。
 ここで光太郎が智恵子に「いけない」と禁じたものが何であるのか、それは分からないが、彼女の本質にかかわるもの、もしかすると、智恵子自身が光太郎に対して「闘い」を挑んだ「何か」であったかもしれない。もしそうであれば、智恵子はその「闘い」の芽すら摘み取られ、すごすごと自分の内側に篭る他なかったのではないだろうか。なんとお互いに孤独なパートナーだろう。こうした行き場のない深い挫折が精神を蝕まないですむとは思えない。
 わたしが20代の頃、この詩に何の違和感も覚える事なく、その禁止の呼びかけすら、なにか心地よいもののように感じていた。ところが今、この詩は居心地が悪い。この不自由さ、この束縛・・・

 ここで偉大な彫刻家であり、詩人である高村光太郎を責めるつもりはない。この時代の中で、彼は精一杯、ひとりの女性をひとりの人間として、芸術家として認め、愛そうとしたフェミニストの先達であった事をむしろ讃える者だ。
 また、光太郎の作品の中には残されていないが、狂った妻と共に過ごした7年間、光太郎の苦しみと闘いの中にこそ、壮絶にして真実な愛のドラマがあったに違いない。
 けれども、この詩の中に、いみじくも滲み出ている男と女の関係が生み出す悲劇を見ることに触れておきたい。そして、それが光太郎と智恵子の問題に限らず、今の時代においても、しばしばわたし達の前に立ちはだかる「隔て」であれば、ここから学び取る事もまたあると思うのだ。
 「わたしには夢がある―」、キング牧師ではないけれど、よりよい男と女の関係、より深い人と人との関係をわたしたちが育てていける余地はまだあると信じている。


<参考>



      おそれ
             「智恵子抄」より

いけない、いけない
静かにしてゐる此の水に手を触れてはいけない
まして石を投げ込んではいけない
一滴の水の微顫(びせん)も
無益な千万の波動をつひやすのだ
水の静けさを貴んで
静寂の価(あたひ)を量らなければいけない

あなたは其のさきを私に話してはいけない
あなたの今言はうとしてゐる事は世の中の最大危険の一つだ
口から外へ出さなければいい
出せば則(すなは)ち雷火である
あなたは女だ
男のやうだと言はれても矢張女だ
あの蒼黒(あをぐろ)い空に汗ばんでゐる円い月だ
世界を夢に導き、刹那を永遠に置きかへようとする月だ
それでいい、それでいい
その夢を現にかへし
永遠を刹那にふり戻してはいけない
その上
この澄みきつた水の中へ
そんなあぶないものを投げ込んではいけない

私の心の静寂は血で買つた宝である
あなたには解りやうのない血を犠牲にした宝である
この静寂は私の生命(いのち)であり
この静寂は私の神である
しかも気むつかしい神である
夏の夜の食慾にさへも
尚ほ烈しい擾乱(ぜうらん)を惹き起こすのである
あなたはその一点に手を触れようとするのか

いけない、いけない
あなたは静寂の価を量らなければいけない
さもなければ
非常な覚悟をしてかからなければいけない
その一個の石の起こす波動は
あなたを襲つてあなたをその渦中に捲き込むかもしれない
百千倍の打撃をあなたに与へるかも知れない
あなたは女だ
これに堪へられるだけの力を作らなければいけない
それが出来ようか
あなたは其のさきを私に話してはいけない
いけない、いけない

御覧なさい
煤烟(ばいえん)と油じみの停車場も
今は此の月とすこし暑くるしい靄(もや)との中に
何か偉大な美を包んでゐる宝蔵のやうに見えるではないか
あの青と赤のシグナルの明りは
無言と送目との間に絶大な役目を果たし
はるかに月夜の情調に唄をあはせてゐる
私は今何かに囲まれてゐる
或る雰囲気に
或る不思議な調節を司(つかさど)る無形な力に
そして最も貴重な平衡を得てゐる
私の魂は永遠をおもひ
私の肉眼は万物に無限の価値を見る
しづかに、しづかに
私は今或る力に絶えず触れながら
言葉を忘れてゐる

いけない、いけない
静かにしてゐる此の水に手を触れてはいけない
まして石を投げ込んではいけない




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2006年09月11日(月)   高村光太郎 を読む <秋の祈>

文学ゼミの日。
テキストは高村光太郎の詩から
「根付の国」「―人に」「道程」「秋の祈」「レモン哀歌」「米久の晩餐」「ぼろぼろな駝鳥」「のっぽの奴は黙っている」の8編。

高村光太郎の詩、とりわけ、「道程」や「智恵子抄」に収められた詩は、中学、高校、青年期を通して繰り返し読んできた。
その言葉もリズムも、またそこから届くエネルギーも、もはやわたしの血となり肉となってわたしを形づくっているような気すらする。
長い時間を経て、再び高村光太郎の詩に出会う。
なつかしさや感謝と共に、かつて見えなかったものも見えてくる。つまり私自身の変化をそこに認める。


 町のすき焼屋での人々の様子を描いた「米久の晩餐」などは、若い日にはおもしろくもなんともない詩で、素通りしたのだろうが、今読めば、なんとも味わい深く、じんわりと胸が熱くなってくる。反対に、憧れでも理想でもあった智恵子を詠った恋愛の詩の中に、若い日には覚えることのなかった失意も覚える。

 さまざまに心が動いたが「秋の祈」と「――に」とについては感想をまとめてみることにした。
しかし、こうしたレポートはいつもその日にならないと、書き始めることができない。時間が目の前に迫ってようやくパソコンに向かう。時には間に合わず、行きの電車の中でノートに走り書きをする。
 メンバーの団菊氏のように、足を運んで資料を探し、レポートにまとめたものを、事前にメールでお送り下さる用意周到さに比べれば、なんとも泥縄のレポートだが、間際でなければ、このことを書きたいという強い気持ちがどうしても起こらないのだからしかたない。・・・などど言い訳しながら。発表したレポートを今日と明日の日記に載せることにしよう。
ここでもう一度、考えながら。



   高村光太郎を読む <秋の祈>



    秋の祈 
             高村光太郎 
               詩集「道程」より   

秋は喨喨(りょうりょう)と空に鳴り
空は水色、鳥が飛び
魂いななき
清浄の水こころに流れ
こころ眼をあけ
童子となる

多端紛雑の過去は眼の前に横はり
血脈をわれに送る
秋の日を浴びてわれは静かにありとある此を見る
地中のいとなみをみづから祝福し
わが一生の道程を胸せまつて思ひながめ
憤然としていのる
いのる言葉を知らず
涙いでて
光にうたれ
木の葉の散りしくを見
獣(けだもの)の嬉嬉(きき)として奔(はし)るを見
飛ぶ雲と風に吹かれる庭前の草とを見
かくの如き因果歴歴の律を見て
こころは強い恩愛を感じ
また止みがたい責(せき)を思ひ
堪へがたく
よろこびとさびしさとおそろしさとに跪(ひざまづ)く
いのる言葉を知らず
ただわれは空を仰いでいのる
空は水色
秋は喨喨と空に鳴る



                                     *


高村光太郎は、秋を、そして冬を愛したと言う。
中学校の時の教科書にあった「冬が来た」という詩がとても好きだった。
冬になると、その詩の中のフレーズを思い出し、口にした。



きっぱりと冬が来た
――
僕に来い、僕に来い
僕は冬の力、冬は僕の餌食だ。


このフレーズを思い起こす時、この言葉はわたしの内側に流れ込んできて、わたしの内にある何かを燃やすように思えた。
その言葉に焚きつけられて、わたしもまた、冬よ来い、わたしに来いと、<きりきりともみ込むような冬>を喜んで迎えるような気持ちになるのだった。

今回のゼミのテキストで「秋の祈」を読んだ時、昔から馴染んできた、高村光太郎の「冬が来た」の詩の気分が蘇ってきた。
様々な詩人の書いた秋の詩はそれなりに味わい深いく、秋への想いを豊かなものにしてくれるが、高村光太郎の詩は、秋の美しさや寂しさを見せてくれるのではなく、 あの冬の詩のように、何か、内側に力のようなものを呼び起こす。
わたし自身もどこかで感じ取っている「秋の魂」ともいうべきものを、そのおぼろげに感じているそれを、まっすぐ、胸元に連れてくる感じなのだ。
光太郎が触れた秋の持つ「気」、それをそのまま、読み手に直球で投げる、そういう感じがする。
言葉や表現のディティールではなく、この詩が発している「気」そのものに作用されるに違いない。

高村光太郎のいくつかの詩については、その詩を味わうというよりは、その言葉の持つエネルギーを糧のようにいただいていた事に気づいたのは、光太郎自身が自らの詩作について書いた文章を読んだからだが、それらを読むと、光太郎の詩がなぜそのような働きを持つのか納得がゆく。

光太郎は自分の詩は「気」が言葉となったものだという。
そして詩は言葉にのりうつった「気」であると。
「気」つまり「エネルギー」なのであれば、それは読む人の内に入って、そこに作用するはずだ。
さすがに彫刻家、アーティストの気合だ。
光太郎自身が書いた詩についての文章がおもしろかったので以下、抜き出しておく。


以下 高村光太郎詩集<思潮社>からの抜粋


高村光太郎 「気について」 (昭和13年12月)

人間の捉えがたい「気」を、言葉をかりて捉えようとするのが詩だ。気は形も意味もない微妙なもので、しかも人間世界の中核を成す。
詩が言葉にのりうつった「気」である以上、詩を言葉で書かれた意味にのみ求め、情調にのみ求め、音調(ヴェルレエヌは音楽といふ)にのみ求めるのは不当である。
詩は一切を包摂する。理性も感性も、観念も記録も、一切は詩の中に没入する。即ちその一切を被わないやうな詩は小さいのである。気が一切を呑むのである。



「自分と詩との関係」から最後の部分抜粋  ( 「文芸」 昭和15年5月号 )

詩の世界は宏大であって、あらゆる分野を包摂する。時にはどんな矛盾をも容れ、どんな相剋をも包む。生きている人間の胸中から真に迸り出る言葉が
詩になり得ない事はない。記紀の歌謡の成り立ちがそれを示す。しかし、言葉に感覚を持ち得ないものはそれを表現出来ず、表現しても自己内心の真の詩とは別種の詩でないものが
出来てしまふといふ事はある。それ故、詩はともかく言葉に或る生得の感じを持っている者によって形を与へられるのであって、それが言葉に或る生得の感じを持っていない者の胸中へまでも、 入り込むのである。ああさうだとひとが思ふのである。それが詩の発足で、それから詩は無限に分化進展する。私自身のこの一種の詩の分野も、詩の世界は必ず包摂して時そのものの腐葉土とするに違ひないと信じている。
 私の彫刻がほんとうにものになるのは六十歳を越えてからの事であろう。私の詩が安全弁的役割から蝉脱して独立の生命を持つに至るかどうか、それは恐らくもっと後になってみなければ分からない事であろう。




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2006年09月08日(金) なにゆえに 山に向かいますか













< 写真の花は オオカサモチ。蝶ヶ岳へ向かうお花畑で>


岩手県盛岡市に住む蒲公英(たんぽぽ)さんに
わたしはまだお会いしたことはない。
そして東北から北海道にかけてはまだ一度も行ったことがない。

いつか「賢治の山、岩手山に登りたい」と日記に書いたら、
「その時は登山口までお連れして差し上げましょう」と
思いがけないメールを下さったのが蒲公英さんだった。
日常に入り込んでくる、こうしたファンタジーをわたしは好きだ。
その時から、賢治の山も、蒲公英さんもなんだか身近になった。

今日、蒲公英さんからミクシィに書き込みがあり、
わたしは返事を書いた。
そのやりとりを、わたしは覚えておきたいと思い、
ここに残すことにした。
いいですよね、蒲公英さん。
(蒲公英さん、ご承諾ありがとうございます)


<蒲公英さんからのメッセージ>


「山行き に寄せて」

なにゆえに 山に向かいますか
そこに何がありますか
肩にくい込む荷物は
辛くはないですか
汗と泥にまみれた登山靴は
重くはないですか

山の素晴らしさを体感している者が
のたまうべきことではないけれど
その山行きが羨ましくもあるのです。
いかに仲間に恵まれているのかということ
それを共有できるということは
このさきの大きな財産になって残るのでしょう。

あの頂に立ったときの達成感は
なにものにもかえ難いものなのですね。
ふとこんな未来が見えてきます。

「いざ、マッキンリーへ」
という題の日記が残されていて
あー、とうとう行ってしまったか
と画面のこちらがわで頬杖ついている自分の姿です。
せめてそのときは三日くらい前におしえていただきたい
と思います。




<蒲公英さんに答えて>


蒲公英さん、
「いざ、マッキンリーへ」 という日記を書くような時が来たなら、
せめて三日前には予告をすることにいたしましょう。


なんだか、山は呼ぶのですよ。
どの山からどういう風に呼ばれるのは分かりませんが、
ただわたしは耳をすませて、そこからの声を聞こうとすることでしょう。
そして呼ばれたらいつでも出かけられるように準備をしておこうと、
そのことを日々の励みにもすることでしょう。

肩に食い込むザックや重い靴はけっして快適ではないけれど、
雨や風の冷たさや、照りつける陽射しの熱さもうれしいわけではないけれど、
そのくらいの苦労をするのでなければ、
あの山の素晴らしい場所に入らせていただくのに
つり合いが取れないと感じるのです。

人はなぜ山へ向かうのか―
山へ行かない人も、山へ行く人も
きっとその問いを問い続けていくのでしょう。
なぜだか分からず、そこへあくがれる心があります。

もしかしたら、
山というところは
地上のあらゆる場所の中でも
いちばん天国に近いところなのかもしれない。
高いということだけではなく―

この、やがては朽ち果てる身体が、でもそれだけではないことを、
言葉によってではなく知らされるような―
ちっぽけな命が、その小ささのままで
大きい命の中にすくいとられ、見つめられるような ―
そんな不思議な安心を覚えるのです。

なぜ賢治が繰り返し、繰り返し、あなたのふるさとの山、
岩手山に登り続けたのか、
わたしはその事を自分の身体で確かめたいと思います。
その山から呼ばれる時を待つことにしましょう。

蒲公英さん、その時はどうぞ、よろしくご案内ください。



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2006年09月07日(木) 北アルプスへ�ァ 稍灰�岳→上高地>



9月2日の日記の続きを書いて、今日は北アルプスのシリーズを終わりにしてしまおう。

さて、蝶ヶ岳の日の出と素晴らしいモルゲンロートを堪能したわたし達は、多くの登山客と供に、朝食をいただくと7時過ぎ、山小屋を後にした。
これからのコースは蝶ヶ岳→長塀山→上高地。

蝶ヶ岳(2664m)から長塀山(2565m)はおよそ40分。途中に妖精の池という素敵な名前の沼がある。長塀山から徳沢までは展望もない樹林の中をただひたすら下山する。わたしは登りは、急であれば急なほど楽しくなって思わずハイペースになってしまうのだが、下りは、6月に膝を痛めてからは、できるだけ膝に負担をかけないようにと神経を使いながら下るので登りのようには楽しくなく、その道のりがとても長く感じられる。すぐ下に見えているのになかなか辿りつかないもどかしさを覚えながら、下から次々に登ってくる登山者と挨拶を交わす。

ようやく徳沢小屋(1562m)に着いたのは昼近くだった。
山小屋の売店で売っている、冷たい水に冷やしたりんごをかじり一息つく。




徳沢小屋から2時間ほど歩くと、観光客で溢れる河童橋へ出た。
まずは温泉に入ろうと、上高地ビジターセンターで外来入浴ができる場所を教えてもらう。
わたし達が行った温泉は上高地温泉ホテル。多くの文化人やアルピニストが旅の疲れをいやしてきた歴史ある温泉ということだった。
なるほど、ちゃんと登山者用の入り口があり、入り口には大きなザックを置くための棚がある。

二日振りのお風呂は何とも気持ちの良いものだった。急な下りですっかり疲れた足が温泉の中でゆったりとほぐされ、疲れが取れていく。露天風呂は木々に囲まれ、森の中でお湯を使っているような気持ちの良さだった。
しかしそんなにのんびりしてもいられない。これからまた大正池まで40分ほど歩いて新島々まで行くバスに乗らなければならないからだ。

温泉に入った後には歩きたくないと思っていたが、温泉のお湯ですっかり癒された身体にはまた歩ける力が戻っていた。
大正池までの遊歩道は木々が美しく、清々しかった。
焼岳を背景にした大正池の静かな様子は学生時代に訪れた時のままだ。すぐに立ち去らなければならないのが残念でならない。あの時は徳沢でテント泊し、2日間かけて上高地を楽しんだのだったが、今回は山行の帰り道なのだからしかたない。

新島々駅までは松本鉄道バスで一時間あまり。そこからは松本駅→長野駅
→大宮駅という岐路。
松本駅では1時間ほど時間があったので、駅周辺の蕎麦屋を探す。『榑木野くれきの)』という蕎麦屋に入ったが麦とろろそば蕎麦はとてもおいしかった。長野駅でも暖かい蕎麦を食べ、思い残すことなく新幹線に乗り込む。
(ちなみにわたしもSも蕎麦を二杯も食べたのは初めての事。普通はしません)

新幹線の窓からは遅い花火大会の打ち上げ花火が見えていた。
「最後は打ち上げ花火の見送りだよ。わたしたち最後までツイテタね!」

電車の黒い窓に広がる音のない花火をしばらく見つめていた。


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2006年09月03日(日) 北アルプスへ�ぁ 稍灰�岳の日の出>
























9月2日、晴れ。
朝5時前、山小屋を出て外の薄暗がりの中へ。
見渡す限りの雲海と黒い山のシルエット。
空はしだいに明るみ、
やがてその一点から光がこぼれる。
山山を赤く染めながら、
新しい太陽が昇る姿を見届けた。
























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2006年09月02日(土) 北アルプスへ�� <常念岳から蝶ヶ岳へ>

9月1日、朝6時半山小屋を出て、常念岳を目指して歩き始める。
天気予報では雨は午後からと言っていたものの、10分も歩かないうちに雨が降ってきたので、あわてて雨具を付け、ザックカバーをする。
< 写真は後にした常念小屋>























雨ばかりか、風も出てくる。このまま蝶ヶ岳ヒュッテまで5時間近くも歩き続けることができるだろうかと泣きたい気分になる。こういう時は歌うのがいい。♪昇ろう、昇ろう、ヤコブの梯子を、十字架の兵士よさあ、昇ろう・・・♪力強い黒人霊歌を歌っていると力が満ちてきた。

手袋はびっしょり濡れて用をなさないから脱ぐが、手が冷たくてしかたない。途中、雨具の下に薄いフリースの防寒ジャケットを着ると随分楽になった。
それにしてもわたし達の前を歩く中年夫婦は半袖のシャツに傘で登っている。人事ながら心配になる。随分先を歩いていた学生の集団が引き返してきた。小屋に入って雨具を付けて出直すのだという。

この雨の登山で、しかし幸いだったことは、雨にもかかわらず、右手には穂高連峰は言うに及ばず、槍岳の美しい頂上の形までくっきりと見えたことだった。
何度も立ち止まり、カメラに収める。
常念岳の山頂に着いたのは2時間後の8時半。コースタイムの倍もかかってしまった。山頂からも槍岳の三角形の頭がくっきりと見えた。

























蝶ヶ岳への縦走路は眺望のある尾根歩きから鞍部を過ぎ、ジャングルのような樹林の中へと続く。後ろを振り返れば、さっき下山してきた常念岳が堂々とした姿でわたし達を見守っていた。






















樹林から出るとそこには夢のようなお花畑が広がっている。どうやら雨も降り止んだようだ。
写真を撮り、撮り、コースタイムをはるかにオーバーして午後2時10分、蝶ヶ岳ヒュッテに到着。常念小屋を出てからおよそ8時間歩いたことになる。今日の内に徳沢まで下山するのは無理だ。お風呂はがまんして、この日は蝶ヶ岳ヒュッテに泊まることにした。



























2006年09月01日(金) 北アルプスへ�◆秕�さなまるい虹―ブロッケン現象>



























常念小屋で受付を済ませ肩に食い込んでいた重いザックを降ろすと、カメラだけ持って外へ出た。
ここの山小屋の夕食は6時半と遅いので、それまではゆっくり外の景色を楽しむことができる。

ガスが出ていて展望はあまり良くないが、小屋の後方、西側には、雲に浮かぶ穂高連峰や槍ヶ岳のシルエットが見える。
と、
「虹だ!」と誰かの声。
東側の空に目を移すと、何と可愛らしい、まあるい虹。こんな虹って見たことない!
これが噂に聞ブロッケン現象だということを知る。
ちょうど虹のど真ん中にわたし達の影が大きく映る。手を動かすと影も同じように動くのだ。虹の中でダンス。踊っている二人の影を撮った。なかなか幻想的な写真。
北アルプスは何度か来ているSも、現象ブロッケン現象は初めてだという。どうやら、わたし達は山からご褒美をもらったようだ。

山小屋は風呂はないし、男も女もなく、一枚の布団に二人で寝ることだってあるとSから聞いていたから覚悟していたが、わたし達が女二人だったからか、山小屋に入った最後の登山客だったからか、他の登山客の部屋へ押し込められることなく、8人用の部屋に二人だけで泊まらせてもらえた。こんなこともなかなか稀なことらしい。お陰で、着替えも気にならず、他の人に気兼ねすることもなく、夜は持ってきた焼酎を途中で汲んだおいしい沢の水で割り、非常食用のナッツと魚のおせんべいで素敵な酒盛りをすることもできたのだった。

山小屋は9時が消灯らしい。そんな早い時間に寝たことがない。普段なら山行の前日は明け方近くまでほとんど眠れないわたしだが、母からもらっていた睡眠薬のタブレット半分のお陰でぐっすり眠ることができた。
























明け方の4時頃、人が起き出す気配で目を覚ます。
仕度をして部屋の外に出てみると、朝もやの中若いカップルが一組、常念岳に向かって歩き出していた。頂上までは小屋から一時間ほど。山頂でご来光を見ながらの朝食というプランなのだろう。

わたし達は5時半の小屋の朝食をいただいてから出発する予定なので、ここから朝日の出を見るべく、寒くないように雨具を着て外に出る。しかし生憎天気が悪く、日の出を見ることはかなわないようだ。けれども、紫色の雲の下に広がる朝焼けの空は美しかった。

しかししばらく空を見つめているうちに雨が降ってきた。
どうやら二日目は前日のようなお天気には恵まれないようだ。
朝食の後、登山客達はテレビの天気予報を浮かない顔で聞いている。
今日はどうやら雨のよう。
さてどうしよう。
小屋に残って常念岳へは明日登るか、それとも計画通り、常念岳→蝶ヶ岳→徳沢のコースを辿り、徳沢園でお風呂にありつくか、それとも何とか蝶ヶ岳まで登り、今夜は蝶ヶ岳ヒュッテに泊まり、翌朝徳沢に下山するか・・・
雨もそれほどではないので、行けるところまで行ってみようと午前6時半、常念小屋を後にする。



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