たりたの日記
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祖母山のことは知っていた。
故郷にある山というのに遙かなたの山だった。
ある時、山という山にはどれにも登りたいというワイルドな思いに晒されるようになり、
故郷に戻れば、祖母山に入らないではいられず、気はそぞろだった。
3月30日早朝、知人に道案内を頼み、祖母山へ。
登山口に着けば折からの雨。
「行きましょう、原生林の中ではあまり濡れませんから」
と祖母山を良く知るその人は歩き始める。
午前7時20分。
深く切れた渓谷の底、清流が音をたてて走り、滝がほとばしる。
雨はじきに霰に変わり、やがて激しい風。
冬のなごりを留める原生林のおどろおどろしい木々が、
轟々と呻き声をあげる。
風の中に雪が舞い、吹雪さながら。
「雪ではないのです。木々にふきつけられた霰が風で飛ばされているのです」
確かに空は明るい。
急坂をよじ登り、よじ登り、
スパンと明るく開けた場所へ出た。
ここが国観峠。
いちめん氷に覆われた白銀の世界。
樹氷の中を分け入り、分け入り、
午前10時、祖母山登頂。
深深と山、また山。
遠い木々は新しい雪をふわりと着て、その美しさったら・・
夢中でシャッターを切る。
マイナス3度、手がかじかみ、もうザックも開けられない。
この美しさの中にとどまることは許されないのだろう。
想いを残し下山。
樹氷の白い林が、陽に照らされみるみる溶け出す。
気がつけば足元の雪はすっかりなくなっていた。
太陽は追いかけるように白銀の世界を消しにかかったのだ。
12時40分登山口到着。
そこは春の陽気に満ちていた。
白銀の世界のなごりすらなく、
見てきたものが夢のように思えた。
いったいあれは何だったのか・・・
あれはきっと贈り物。
故郷の山がわたしたち二人だけに見せてくれた、
とっておきの魔法。
2006年03月30日(木) |
故郷の山、祖母山へ (写真のみ) |
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2006年03月28日(火) |
をとめとなりし父母の家 |
海恋し潮の遠鳴かぞえては/をとめとなりし父母の家
(与謝野晶子)
実家の古本を整理していると思いがけない堀出し物がある。
深尾須磨子著「君死にたまふことなかれ」という古めかしい本が出てきた。 聞けば、母が大学を卒業して小学校の教師成り立ての頃、同じ学校に勤務していた父からプレゼントされた本だという。 そういえば、家の書架にこの本があって、その背表紙だけはずいぶん小さい頃から見ていたことを想い出した。
開いてみれば、本の扉と後ろのページに父が万年筆で書き込んだ詩(与謝野晶子の詩の引用だった)があった。 結婚前の父と母のロマンスが垣間見える。
ところで、この本はおもしろく、2日ほど夢中になった。 深尾須磨子が師事していた与謝野晶子について書いたもので、彼女の師に寄せる熱い想いが伝わってくる。 そして、今さらながら与謝野晶子の人となり、また作品に心惹かれた。 埼玉に帰ったら、与謝野晶子の作品をあたってみるつもりだ。 また深尾須磨子についても。
さて、我が父母の家での日々。 当然の事ながら、自分の家での時間とは異なる時間が流れる。
ひんやりとした仏壇のある畳の部屋で目覚め、味噌汁をこしらえ、母と朝のドラマを見ながらゆっくり朝ご飯を食べる。 洗濯物を干し、自転車を30分こいで父のいる施設へ。 もうわたしのことも分からない父だが、父の食事の介助をするのは豊かな気持ちになれて、好きな時間だ。
同じ丸いテーブルに6人の老人と4人の介助者。 わたしのすぐ隣りには年若い青年が慣れない手つきで食事の介助をしている。 「新しく入られた介護士の方ですか?」
「はい。2週間前に入ったばかりです」
「そうですか。父がお世話になります」
向かいにいる若い女性の介護士さんが声をかけてくださる。
「お父さん、若い頃はかっこよかったでしょ。今でも鼻筋通っててかっこいいから。」
「ええ、なかなかの二枚目でした」
とわたし。しばらく父の思い出話をする。
異なるのは時の流れだけではない。 今の時間が容易にタイムスリップし、わたしは様々な年齢のわたしに戻る。
昨日は門司に住む母の弟夫婦が訪ねてくる。 44年振りのこと。 わたしは5歳の時以来この叔父に会っていなかった。 叔父と話していると、すっかり消えていたはずの5歳の記憶が甦ってきた。 叔父の波乱万丈は小説みたいだ。 苦労をくぐり抜けてきたからなのだろう、とてもいい顔をしていると思った。
今日は父の所からの帰りに立ち寄った肉屋でなつかしい顔に出会う。 一緒に保育所へ通っていた子のお母さんだ。
「おばさん、おひさしぶりです。おぼえてますか?よしこです」
「ああ、そういえば目が昔のよしこちゃんのままじゃ。よく犬を怖がっちょったなぁ」 とおばさんは昔のままの顔で笑う。
午後、20年も会っていなかった幼馴染みののぞみちゃんが訪ねてくれる。 おばさんと二人でこしらえてくれたおはぎはおいしかった。 のぞみちゃんのお父さんとわたしの父は同僚だったから家族ぐるみの付き合いがあり、わたしはそこの家に一人でよく泊まりに行ったものだった。
「あの人どうしてる?」
「ええっ、こっちにいるの、会いたいなあ」
友人の消息がずいぶん明らかになった。 以前この日記に書いたアンティクドールを結婚祝いにくれた友とも会えるかもしれない。
ところで、昨日検査のため病院へ行くと貧血の数値が良くなっているので、リスクのある手術は見合わせようということになった。 母もわたしもどこかで「もしも」の事を考えないでもなかったから、緊張から解かれて気が抜けたようにほっとしている。
今日はやたらと話が前後するが、同居人mGが父の絵の事をブログ「カタチを越えて」に紹介してくれた。 その記事も、またなおさんのコメントも、うれしくて心に染みる。 父が読めるなら、理解ができるなら、そのことをどんなに喜ぶだろう。 母には携帯で見せてあげた。
湯布院駅にバスが着いたのが14時15分。
大分行きの電車まで40分待ち時間があるので、駅で教えてもらった町の共同温泉へ行く事にする。 そこまで歩いて往復20分。 温泉にざぶんと浸かり、汗まみれの服を取り換える時間は十分ある。
その温泉の名前は忘れてしまったが、入ったところに大きな賽銭箱があり、そこに100円投げ込んで入ると言う鄙びた温泉だった。 こういう場合には何とも都合の良い温泉だ。
寄り道を終え、ザックにパーカーにトレッキングシューズという山女の出で立ちで実家の玄関に着いたのは5時を少し回ったところだった。
実は山に登っている途中で母に電話したのだが、心配するので山にいることは言わなかった。 由布岳に登ってきた事を白状し、寄り道を詫びる。
予定していた時間より早く帰ってこれたので母に夕食を用意するには十分時間があった。 わたしが戻ると知って叔父が届けてくれた鹿児島の芋焼酎が待っていた。 また近所の方が作って持って来てくれたお彼岸のおはぎもどっさり。
食事をしながらデジカメやビデオで撮った山の写真を見せると母は驚いたりあきれたり。 父が元気だったら何と言うだろう。 職場の登山グループで良く山行きしていた父のこと、初心者のぶんざいで一人で行動するなどけしからんと怒っただろう。
しかしわたしは、山に登ってくる事で、これから実家で手伝いをするための心の備えができたという気がしていた。 必要な事だと。 実際、山の雄大な景色やエネルギーが内に満ちている。
さて6時30分。 夕食と風呂の支度。 明日は母に付き添い病院へ。 来客もある。
さて、最初の鎖場はクリアして岩の上に上がったものの、尾根に沿って歩きながら、その高さに足が竦んでしまった。 這って進むのならまだしも、とてもそこを歩ける気がしない。
高所というより、露出感に慣れていないのだ。 しかも頂上付近に更なる鎖場。 今度はもっと大変な様子。わたしのすぐ前を歩いていた若い青年たちがずいぶんこわごわと登っているのが見える。
わたしは意気地なく西峰をあきらめ、マタエに引き返し、もう一方の頂上、東峰へ登ることにした。 こちらは鎖場も足が竦むような尾根もなく、ただただごつごつした岩を登って、ほどなく1584mの頂上。 ちょうど正午。 湯布院の町の正午のサイレンが聞こえる。 携帯も通じたので同居人に「頂上だよ」と電話する。 予定ではここで休憩と昼食。 しかしなんとも強い風。 ゆっくり昼食は摂れそうにもなく、お握りを一つだけ食べる。 10分ほど360度の素晴らしい眺望を楽しみ、何枚か写真とビデオを撮り、下山。
帰りは休みなしに一息に下った。 1時45分には登り口に到着。 15時14分のバスで湯布院駅に向かうつもりだったが、その前のバスに乗れそうだ。
と、目の前にバス。 ダッシュ! バスはもうお客を乗せ出発しょうとしていたが、向こうから手を振って走ってくるわたしを待っててくれた。
実家の朝食はNHKの朝の連続ドラマを見ながらと決まっている。 ふだんは朝の連続ドラマは見ないわたしだが、実家にいる時にはここの流儀に従う。
さて、今やっている朝のドラマ「風のハルカ」は大分県湯布院が舞台。 ドラマのタイトルのところでこの町のシンボル由布岳が大写しになる。 実家に戻る日、寄り道してこの山へ一人で登った。
大分市から日帰りで行ける山、一人でも登れそうな山と考え、この山にしたのだった。 ささやかな冒険。 ささやかなリクレーション。 母をさらに5、6時間余分に待たせるという親不孝を許してもらって。
大分駅発8時20分の電車で湯布院へ。 湯布院駅から由布岳登山口まではバスで15分。 9時35分に由布岳正面登山口に着く。 駅でもバス停でも登山客に出会わず心細かったが、ここまで来ると駐車場にはマイカーでの登山客が登山の準備をしている姿が見られた。 そして目の前には堂々とした由布岳。 とにかくまっすぐに山に向かってゆけばよさそうだ。
単独登山は去年の夏の阿蘇があるが、 あの時は風が強く、途中で断念したから、実際には今回が初めて。
できるだけ他の登山客が見えるところで歩きたいと目の前を歩いていた二人組みの後を歩いていたが、あまりにゆっくりとしたペース。 一方わたしは時間がないので早く山頂辿り着きたい。 二人を追い越し、先へと進む。
30分ほど歩くと合野越(ごうやごし)に着く。 後は灌木の中をジグザグに登る。 やがて岩がごろごろした急な登りになりマタエ。 ここから西峰と東峰に分かれる。
西峰はいきなり鎖場。 しかし眺めは良さそうだ。始めにこちらへ登り、マタエに戻り東峰へ登ろう。 トレッキング用の手袋を持って来て良かった。 鎖をしっかり握り足を岩にかけて登って行く。
(つづきは明日)
さて20日月曜日に旅立って3日目。 携帯電話では一日分の日記しか付けられない。 今日が後数分で終わってしまうからこの日記は23日の日付になってしまうのだろうか。 ともかく書き始めよう、親指日記。
20日午後1時大分空港着。 この日は大分市に一泊し実家には翌日の午後到着の予定なのでそれまでの時間を最大限有効に過ごさなければ。 まず向かうところは別府鶴見山。
別府駅の案内所でロープウェイ行きのバスの時間を調べると、 15時20発のロープウェイに間に合いそうだ。 夕方6時30分に大分市で友人と待ち合わせているので17時46分のバスで別府行に戻ってくればよいから、帰りのロープウェイは山頂5時発と定める。 ロープウェイ駅から山頂までは15分かそこいらだから山頂まで歩き、そこに1時間は居られることになる。 時計を睨み、ノートに時刻を書き入れる。
鶴見山は樹氷で有名な山だ。16歳の時、一度みごとな樹氷を見ている。 けれど自分の意志で一人でここに来たのは初めてのこと。 そこからそこからの眺めは全く新鮮だった。
近隣の山の連なり、西にはちょうど富士山の形をした豊後富士、由布岳が見える。 明日登ろうとしている山だ。
さらに九重山群、四国までの眺望。 素晴らしい眺めだった。 この山の連なり広々と広がる山また山が作るしんと静かなうねり―
また訪れたい山だ。 毎年4月の第2日曜日には別府湾から鶴見山頂に駆け上がる「鶴見山一気登山」が開催されると言う。 海抜0mの地点から標高差1374・5mを登ることになる。
樹氷は夢のように美しかったから、冬期の登山もすばらしい事だろう。 あの時見た樹氷をもう一度見たいとずっと思ってきた。 いつかかなうといい。
愛するイエス、慈しむイエス、悲しむイエス、哀れむイエス、聖書を読んでいると、イエスの生々しい感情に触れる。そして、ここには激しく怒るイエスがある。 このイエスの怒りがほんとうはどこにあるのだろうと昔から思っていた。そしてどういう訳か、この怒るイエスの姿が好きだった。
「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」
説教者はこの事を私たちの問題として取り上げた。神殿でいけにえの動物達をお金を出して買い、それを供えさえすればそれでよしとする緊張感のない人々を怒ったのだが、ではわたし達の信仰はどうだろうか。
日曜日に教会に来るから、熱心に奉仕活動をするから、それで良しとしていないだろうか。厳しい問いかけだった。 主のいない信仰、神の存在しない信仰・・・ わたし達はそのように大事なものをすぐに見失ってしまう。
イエスの怒り、わたしに対しても。
<ヨハネによる福音書 2:13−22>
ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。 そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。 イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、 鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」
弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。 ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。
イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」 それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。 イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。 イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。
2006年03月18日(土) |
映画 「ナルニア国物語」を観る |
原作がとても好きで思い入れがある作品を映画で観るというのはかなりどきどきするものです。
この日、英語学校の企画で希望者を募り、みなで映画館に繰り出しました。 大人と子ども合わせて17名、みんなで観る映画というのも楽しいものです。
原作では疎開先の教授の家から、お話がスタートするのですが、映画では、疎開をする前の空襲を受けるロンドンの家から始まります。第二次世界大戦中に、ちょうど日本人が空襲を避け、防空壕に逃げ込んだり、子ども達が田舎に集団疎開したのと全く同じことを、イギリス人もまた経験していたことが映像を通して、改めて知らされます。なかなか良いイントロだと思いました。 映像にしかできない表現というものが確かにあり、この物語を損なうことなく、最大限に映像の力で、この物語をさらに深めることにかなり成功していると思いました。
映画を観ながら感じたことは、この映画を作製した人が、この物語をとても愛しているということ。この物語の隠された奥義を理解し、それをどう表現しようかと苦心した仕事の後が見て取れるようでした。
また戦いのシーンなど、どうしても文章で描かれるものよりも、リアルになり、生々しい感じになってしまいます。けれど、あくまで子どものためのストーリーということを意識して、多少不自然になっても、そこをカモフラージュし、わざわざリアスさに欠ける表現をしているのも、うなずけます。
さて、気になっていたアスラン。原作を読んでわたしが描いたアスランとそれほど違ってはいませんでした。むしろわたしの思い描いていたアスランが今や、映画の中のアスランと摩り替わってしまったようです。
この本のこと、映画のことは、また後に書くとしましょう。
2006年03月16日(木) |
Hの卒業通知が届いた日 |
3月15日、長男Hの卒業発表の日。 入試発表のように大学には卒業者の学籍番号が貼りだされるらしく、それを見に行くのが一番早いのだが、そこに番号が無ければその落胆は大きい。 卒業が発表されれば、大学から親元に卒業式の案内状が届くことになっているというで、待つことにした。 物事には始めがあれば終わりがある。しかしHの場合、終わりがきちんと来るのだろうかと、ここのところ、我々の心配の種になっていたのだ。
翌日、郵便受けに白い四角封筒を見つけた時は安堵した。 去年、この時期に送られてきた留年通知書は、ぺらぺらの薄い紙を二つに折って張り合わせたものだったから、この白い封筒は卒業式の招待状に違いなかった。
卒業式は3月24日。 わたしはすでに大分だから出席することはできない。 本人も式には出る気配はないし、父親は、自分も出なかったし、そんなのいいよと我が家はそんな具合。 けれど、わたしはちょっと思い入れがある。こっちにいれば、わたし一人でも式に出かけたかもしれない。 息子の卒業式はある意味、わたしの卒業式でもあるような気がするからだ。
5年前、この日記を書き始めて間もない頃、Hの入学式に出た時の事を2001年4月4日の日記に書いた。 あの時、これはわたしの入学式だと思った。これからわたしもまた大学生の自分を生き直そうと密かに決意したのだった。 この5年間を振り返ってみると、仕事もしたが、良く学び、良く遊び、よく動いたなと思う。部活や同好会のような仲間との出会いもあったし、ゼミもあった。合宿に発表会、打ち上げ、飲み会、まるで大学生活のようだった。
さて、Hも無事卒業した事だし、わたしも50歳を迎える。50になればもう居直るしかない。決して誰からも若いなどと言われることのない年だもの。でも、ここからが本番、今まではリハーサル。 気合いれなきゃ。 どんな50代を生きるのか、4月3日の誕生日までによおく考えることにしよう。
今年度のクラスすべて終了! さて、帰省の準備だ。今回は母が静脈瘤の手術をすることになり、予定していた2週間が1週間増え、計3週間の滞在。場合のよればもっと長くなるかもしれない。宿泊付き往復切符なので、せっかく押さえた帰りの航空券は捨てることにし、帰りの切符を新たに購入することになる。 出産の時も里帰りはしなかったから、今までで一番長い滞在かも知れないな。こう長いと服も2、3組というわけにはいかないか。今はまだ寒くても、じき暖かくなるだろう。必要と思われる服を紙に書き出していると、とんでもない枚数になってしまった。
さて、パソコンも、ジムも、はたまたマーチンのギターも、あ、そう、肝心な愛する同居人もいないところで、はて、あたしはどのように過ごすのだろう。しかも10日間は母親が入院するので、広い家の中にわたしが一人で寝泊りすることになるわけだ。日中は、父のいる施設と母の病院に通うからいいとして、夜は暇だろうな。一日一冊本が読めるくらいだろう。そうすれば、本だけで箱一杯になってしまう。ともかく本のリストだと、これも書き出していく。
しかし来客は日に3,4人、いやもっとあるだろうな。電話は10件以上だな。朝の7時前に野菜を届けてくださる方もいるから、6時過ぎには身支度を整えなくてはいけない。どうせなら早く起きてジョギングしよう。リストにジョギングシューズを追加。そうだ、ダンスの練習もシューズがあった方がいい。ダンスシューズをさらに追加。 さて、これらを入れるほどのダンボール、我が家にはないから、明日どこかからか調達せねば。
ことごとくライフスタイルの違う生活が待っている。 気をつけなければならないのが、体重の増加。運動できない上に、母の食べ物のストックの量は半端じゃない。もらいものの菓子なんかもそこらじゅうにあるから、ついつい食べてしまうことになる。 ウエイトダウンのプロテインパウダーとミューズリーは明日買ってこよう。
それからご近所や施設への手土産。これも足りなくてこまったり、余ってしまって無駄だったするので、個数も内容も実に迷う。
さあて、明日と明後日で何とか荷物をまとめなくては。 おっと、日記なんか書いてるばあいだろうか。時計は夜中の1時半。 明日は3月最後のジムの予定。ラテン1本だけ。
2006年03月14日(火) |
オープンクラスの後で |
今日はつくしんぼ保育室でやっている英語クラス、今年最後の日で、オープンクラス。 新しく完成したホールを借りてやる。 最後のクラスでやりたいことは3つ。1つはこの1年間のクラスでやってきたことを思い出しながら歌やチャンツを復習してゆく。 2つ目は、親たちに、子ども達の日頃の様子を見てもらい、できれば親子でいっしょに歌ったり、話したり、動いたりしてもらうこと。 3つ目は、Certificate of Achievement (修了証書)とごほうびのプレゼントを渡し、「よくがんばりました」とひとりひとりに伝えること。
それぞれの目標は達成できたのでこれで良しとするべきだろうが、親の反応が少し気になった。子ども達といっしょに楽しんでいる親の様子を思い描いていたのだが、表情の中に緊張のようなものがあったような気がする。子どもに怖い顔を向けている方もいて、これは何か親たちがリラックスできる活動をするのだったなと反省した。
わたしのオープンクラスの狙いは、日頃の子ども達の様子を観ていただくことだったが、もしかすると親御さんの中にはピアノの発表会のように何か完成したものを期待しておられたのかもしれないとも思う。 ピアノやバレエなどのようにひとつの音楽や踊りを完成させることで、その技量を上げていくものとは違って、言語教育はできるだけに日常の活動から切り離さないところで行っていくものだと思っている。発表を意識すると、どうしても繰り返しの「練習」や「トレーニング」をやってしまう。高学年はそれでも良いが、幼児にはこれは避けたいところ。
年中、年少児のクラスになると、嬉々として歌ったり、動いたりする子もいれば、なかなか乗らない子や、歌がなかなか歌えない子もいる。でも、そういう子が今度は絵を描きながらやる学習やアルファベットを探し出すゲームなどでは力を発揮したりする。自分の得意なところや気に入った活動から、英語に触れることができれば、それでいいと思っている。
カードを使ったゲームなどをする時、「これ、やりたくない〜、お絵かきしたい〜」という子には、「だめだよ、やりなさい」とは言わないで、「いいよ、じゃ見てて、この後でお絵かきするからね」と言う。
同じ理由で、無理に何かを覚えさせるということも避けたい。何度も歌ったり口にしたりすることで、それが自然に覚えられる子はそれでいいし、今はうまく口が回らなくても、受け止めた音やフレーズはいつか表現できる時期が来る。大事なのは、そこで出来ないからだめなんだというネガティブな気持ちを持たないこと。
でも親の立場になってみれば、他の子が楽しく歌っているのに、うちの子は歌えないでいる。他の子が動物や果物の名前を言えるのに、うちの子は言えていない。他の子がきちんと教師を見ているのに、うちの子はよそ見ばかりしている・・・ わたしもそうだったから、そういう親のイライラや落胆が伝わってくる。
長男が年少児のクラスに入園して初めての参観日。先生が絵本を読み聞かせている教室の中にわが子がいない!園庭に目をやると、ひとりだけセミを追っかけているHが見える。顔が引きつった。Hが勝手な行動をする傾向はわたしも手を焼いていたが、集団生活の中ではそうはいかないだろうと思っていたのだった。でもこのセミ取りはいつもの事だったのだろう、担任の先生はわたしの怖い顔を見て、「じゃ、みんな、ハジメを呼ぼうか、お〜い、戻っておいで〜」と子ども達といっしょに呼びかけた。 Hは捕まえたセミを手に嬉々として走ってきた。 「すご〜い、ハジメはやっぱりセミ取りの名人だね」と先生は誉め、子ども達も口々にすごいすごいというので、彼はますます得意気だった。 この時、教育されているのはわたしだなと思った。先生は何もおっしゃらなかったけれど、この時にわたしが得たものは大きかった。顔をひきつらせている自分が未熟な母親であることを自覚した。
子ども達の発達を、学習をトータルに見てゆくということ。 その子がどういう大人になってほしいか、そこのところを見ながら今のその子を大切にすること。自然な発達を歪めたり、促成したりせずに時期を待って見守ること。 親にとっても教師にとっても、このことこそが難しい。
2006年03月13日(月) |
インチキキムチ鍋を作った3月の寒い月曜日 |
すっかり春の陽気に身体が慣れてしまった頃、突然寒さが戻ってきて、裏切られたような気持ちになる。
今日はそういう日で、ずいぶんと寒かった。 山行や真冬に着るスコールジャケットを引っ張りだして着てみるのだが、暖かいには暖かいが、どうにも大袈裟、季節はずれ。それにいくら寒いといっても真冬のそれとは違うはず。思い切って軽めのジャケットで外に出た。
スーパーで食料品や洗剤を必要があって自転車を走らせてはみたものの、この寒さに気持ちがめげてしまった。・・・ふむふむ、冷蔵庫の中にあるもので何とかなりそう・・・そこでスーパーへ行くのはよして、近くのドラッグストアーで用を済ませた。
ドラッグストアには牛乳も卵もあるが、当然野菜は買えないから、今夜のキムチ鍋は白菜の代わりにキャベツ、ニラの代わりに水菜というインチキなキムチ鍋だった。
昨日読んだ「凍」の事を思えば、このくらいの寒さで白菜を買いに行くのもあきらめるなんて軟弱なことこの上ない。昨日、あのドキュメンタリーからもらったはずの力はわたしの中ですでに軟化してしまったのだろうか。キャベツと水菜を刻みながら、我が身がなさけなかった。
2006年03月12日(日) |
沢木耕太郎著「凍」、読了 |
沢木耕太郎著「凍」、読み終えました。 週末の外出の移動中、また時間待ちの間に貪り読んだので、これからもう一度丁寧に読んでから感想を書くことにしようと思いますが、この本の紹介をしてくださったやすさんへのお礼もこめて、まず今の気持ちを書いておこうと思います。
言葉には尽くせないものをもらいました。 これほど、生きるということに直接かかわってくるような、今日踏みしめる足の力が昨日とは違っているような、そんな強いインパクトをもたらす本には久し振りに出会った思いがします。
世界的な登山家、山野井夫妻の、ヒマラヤのギャチュカン登頂の想像を絶する死闘、生還の物語・・・ 生きるって凄い、人間って凄いと、漲ってくるものがありました。 死ぬか生きるかの極限の中で、自分を見失わずに進み続けるその精神力に圧倒されます。人ってこうも生きられるんだと、エネルギーをもらいながら読み進めました。 これがドキュメンタリーで、山野井夫妻は今も奥多摩に住み、山に登っておられるということが、なんともうれしく、また励まされます。
掲示板で紹介していただいた山野井通信を訪ねてみました。山野井氏がご自分の言葉で綴っている文章を読める―有難いです。
その山の写真の美しさにきりきりと胸が痛みます。 そこに行けたらどんなに良いだろうとため息が出ます。 この山の写真を見ているとどんな危険を押しても、そこへ行きたいという登山家達の願いが分かる気がします。
午前中、ダンスの練習。夜、ラテンのクラス。 そしてその間の時間に都内へ出てフランス近代絵画展と
山本容子[わたしの好きな時間展]を観る。 友人からチケットを2枚つづいただいたので、mGといっしょに行く。
フランス近代絵画展は、ベオグラードの国立美術館からフランス近代絵画コレクション123点(うち46点が日本初公開)が紹介されていた。 とりわけ好きだったもの、ルオーの初めて観る2点と、シャガールの1点。 ブラマンクの雪景色、マリー・ローランサンも印象的だった。
山本容子の世界の豊かなこと。文学、映画、音楽、人が絵と結びつく。 とびっきり個性的。女性特有のしなやかさと自由がある。 時間が許せば、1日居てもあきないという気がする。 親しみのあるダウランドのリユート歌曲が流れていた。 楽譜絵が楽しく、歌いながら観た。後でこの絵画展のサイトに行ってみると作者がハミングしながら見てくださいと書いてあった。
山本容子が装丁と挿絵をほどこした「オデッセイ」と辻邦生著「花のレクイエム」を求める。
読む時期を待っていた「凍」を読み始め、行き帰りの電車の中で半分読み終える。並々ならぬ世界。 きっと明日読了。 夜中読んでいたいけれど、明日は教会学校のお話、6時前に起床。 夕方ダンスの合同練習。
ではおやすみなさい。
2006年03月09日(木) |
「ナルニア国物語」を再び読む |
本屋に立ち寄り、「ナルニア国物語」1巻の「ライオンと魔女」と「ナルニア国からの招き―アスランと会うために―」を新たに求める。
英語クラスの5年生6人に、年度末のプレゼントにこの本を上げることにしたので、かつて読んだこの本をもう一度読み返そうとすると原書も日本語訳の方も手元になかった。誰かに貸すか差し上げるかしたらしい。この本は相当にあちこちに旅した本だったが、今も旅しているのだろう。 子ども達に手渡す前にもう一度読んでおきたかったので、しかたなく新たに求めたのだった。
3月4日から映画「ナルニア国物語」が始まった。 まだ観ていないが、18日に英語学校でこの映画を観て話し合うという企画があるので、その時に私の受け持つ子ども達もいっしょに連れていくつもりにしている。 しかし、映画で、この原作の要のところがきちんと表現されているのだろうか。原作者C.S.ルイスがこのファンタジーを通して伝えようとしたことが映画からも伝わってくることを願う。
このファンタジーは、イエスの人の罪の購いのための死とそれからの復活の奥義が秘められている。このライオンのアスランはイエス・キリストの象徴であることは、新訳聖書を読んだことがある人は気づくだろう。 初めてこの本を読んだ時(すでに大人になっていたが)著者のC.S.ルイスが神学者であることも、この本にはキリスト教の神学が実に巧みに隠されていることも知らずに読んだ。 それだから、この物語が扱っている世界の深さに度肝を抜かれたのだった。 そして貪るように7巻まで読んだ。 ファンタジーに児童文学に開眼したのはこの時だった。
それから数年経って、我が家の子ども達がこの本に出会った。アメリカの小学校で次男は小学校1年生のクラスのダン先生(そういえば、彼はC.S.ルイスと同じ、アイルランド出身だった)からこの本を毎日少しづつ音読していただいた。確か3巻まで読んでもらったと思う。その頃、長男は小3でもう自分で読める学年になっていたので、わたしが買ってきた英語のペーパーバックを読んでいた。 その時期にわたしもまたいくつか読み返した。
今回で3度目ということになる。 しかも今回は「ナルニア国物語」グッズがマクドナルドのおまけにまでなるほど人々の知るところとなった。
神と悪魔、誘惑、裏切り、犠牲、死、復活・・・理解するのに簡単ではないキリスト教神学がこのファンタジーには盛り込まれている。日本の社会はこの映画をどう観、またこの原作をどのように受け止めることだろう。 わたし自身、20代、30代の頃とはもっと違ったものが見えてくるだろう。
仕事帰り、ひさしぶりにmGとやきとり屋へ行く。 何の事からこの話題になったのだろう。イエスの事について話す。 mGが語るイエスの話は、はっきり言ってどんな牧師が語る話よりも好きだ。いつも新しい。そして冷たくて熱い。 昔から変わらないことのひとつ。
2006年03月07日(火) |
つくしんぼ保育室の新しいホールで |
午前中、つくしんぼ保育室での英語クラス。 新しく完成したホールでの初めてのクラス。 檜のフロアーは、よくあるフローリングの床と違って、とても暖かくて、柔らかで、しっとり足になじむ。檜の匂りも素敵だ。壁も天井もすべて天然木。自然の中に包まれた感覚がある。
音がとても良く響く。声が良く響くからしいんとする中で話したり歌ったりすると音響効果抜群なのだろうが、なにしろ賑やかな子供達の声や足音がそれぞれに良く響くものだから、わたしは日頃よりも大きい声を出す必要があった。 このホールの特色が生かされるようにクラスの内容を考えてみよう。
英語のクラスの後、忘れ物を取りに行くと、子供達が裸足に半そでで、元気にリズムをやっていた。 心が踊る光景だ。 我が家の息子たちがひかり幼稚園でやっていたのと同じリズム。 この子供達の中に我が家の小さなHとMがいるような錯覚を覚える。 このリズム、もっと前に遡れば、わたしが大分市の小学校に勤めていた時。音楽教育の会の全国大会に参加した時に出会った歌とリズムだ。 丸山亜季さんと林光さんの弾くピアノで歌い、動いた時、ああ、これだ!と確信した。その時の感動は今も変わらず生きていている。 今、つくしんぼ保育室の若い先生達は深谷まででかけ、丸山亜季さんから歌の指導を受けている。わたしもそのうち参加したいと思っている。 何かとても不思議なつながり・・・
午後から3クラス。 来週が最後だから、このホールを借りて、授業参観のクラスをする予定。
2006年03月06日(月) |
ブコフスキーで盛り上がる |
今回のゼミはずいぶん盛り上がった。 ブコウスキーには、どこか空気を引っ掻き回すような力があるのだろう。 この作家やこの作品を好きだという人の意見にも嫌いだという人の意見にも、力とか熱っぽいものがこもっていて面白かったのだ。 わたし自身、日頃よりしゃべったような気がする。
わたしが言葉にできないでいたこの作家への思いを、他の人の言葉で確認することもできたし、わたしが全く見えない部分をこの人には見えるのだなと思う場面もあった。こういう点は、ひとりではなく、仲間と読むということに恩恵を感じる。また同じ気分でいるという共感がうれしかったりする。
わたしは、前の日記で書いたように、「二日酔い」を自分で訳してみるつもりだと書いたものの、当日になるまで時間が取れず、この日の午前中を翻訳に当てた。ほとんど辞書で調べる単語もないほど、平坦な英語で書かれているので、簡単に訳せると思っていたのだが、あまりに簡潔な表現なので、どうにでも意味が取れるところでハタと困ってしまった。邦訳されたものをその通りに鵜呑みにできないところなども出てきたからだ。
聖書と同じだ。文法的なことでは解決がつかない。いかに読み取るかとういう問題になる。で、そういうどうにでも解釈ができるようなところが一番大切なところだったりする。またそういう箇所に限って訳者自身の思想や信条が加えられる。 いや、作家の本音が出ているところだからこそ、簡単には解釈のいかないように巧みなカモフラージュが仕掛けてあるのだろう。 そう、作者自身、その解釈なり判断を読者の手に委ねているのだろう。
なんだか中途半端で、これも「二日酔い」の感想になっていないが今日のところはこれでおしまい。
3月に入ってすっかり春らしくなった。 待っていたはずなのに、花見の話なども出てくると、時の進む速度に追いついていけないような持ちになる。 花々が一斉に咲いてはさっと散ってゆくように、春がすぐに終わってしまうことが分かっているからだ。
3月、4月は年度末、年度始まりで、言ってみればもうひとつの年末と年始。1年の仕事の終わりと新年度の準備でたくさんいろいろな事を抱えているような気持ちになり落ち着かない。性分だなあ。
そういう心が忙しい時に、日曜日の朝、礼拝堂の椅子に座り、奏楽、讃美歌、詩篇朗読聖書、説教、聖餐式(パンとぶどう酒をいただく)、讃美歌、奏楽というひとつの流れの中に身を置くことは自分の中心を取り戻すために必要なことだと感じている。 そこには別の時間が流れるから。 2千年前の、もっと前の。 イエスと悪魔の対決だったり、ノアの洪水の物語りだったり・・・
今日は教会暦では受難節第一主日。 福音書の箇所は荒れ野の誘惑の箇所。
他の福音書にはイエスの40日の断食の間、悪魔がやってきてイエスを誘惑する場面が詳しく語られているのだが、マルコの書いた記事は実にシンプルだ。あえて書かないというところに何かがあるのだろう。
「”霊”はイエスを荒れ野に送り出した」とあるが、この送り出したという言葉のもともとの意味は「追い出す」という意味。霊はイエスを荒野の追いやるのだ。 そこには野獣もいた。しかし、イエスは一人ではなかった。イエスの世話をやく存在としての天使が仕えていたというのだ。
「天使達はイエスにどんな世話をやいていたのでしょうか」と説教者が問う。 荒野の中に一人でいるイエスの周りを白い翼の美しい天使達が取り囲んでいる絵が浮かんで気持ちがやわらぐ。天使・・・あまり考えることもない存在だったけれど。 「天使の仕事はイエスと神との繋がりを深めることです。」と教えられる。
日常の中で天使の事を考えることはほとんどない。 神との繋がりの中で生きるということすらすぐに忘れてしまう。 人と神とを敵対させる悪魔の存在がある一方で、人と神との関係を取り持つ天使の存在があるということなのだろう。 天使・・・
何かくっきり目覚めていない自分があるな。 天使と通じ合ってる感覚に乏しいな。 こういう時に悪魔の誘惑ってあるんだろう。 悪魔はどんな手段でも取って、人と神との繋がりを引きちぎろうと機会を狙っているのだから。
この季節。天国に通じる梯子、天使がそこを上り下りするというヤコブの梯子のイメージを描いていよう。
マルコによる福音書 1:12−13
それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。 イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。
2006年03月04日(土) |
チャールズ ・ ブコウスキー を読む |
今度の文学ゼミのテキストはアメリカの詩人チャールズ・ブコウスキー(1920〜1994・)の書いた短編「二日酔い」。 ちょうどその前に、ゼミ仲間のNさんから、この短編が入っている「ホット・ウォーター・ミュージック 」を借りていたので、読み始めた。
最初の数編はちょっと抵抗があった。ファック、おしっこ、糞、とこういう言葉がふんだんに出てくるからだ。ところが、次第にその書きっぷりというか、おそらくはこの作家その人のエネルギーが何とも心地よくなってきた。 例えていえばラップを聞く気分にも似ている。言葉はかなり乱暴で汚かったりするのだけれど、そのパワーみたいなものが心地良い。ストレートで虚飾がない。意味を通り越したエネルギーとかリズムとか、そういうものに鼓舞される。しかしブコフスキーその人はどうやらクラッシック音楽を聴く人のようだが。
もちろん読んでいるものは日本語に翻訳したものだから、彼自身の言葉ではない。無理やり日本語にすることの限界がきっとあるはずだ、原文はもっとリズムがありビートの利いた文章ではないだろうかと気になって、原書の「Hot Water Music」を取り寄せた。 思った通り、無駄の全くない、シンプル極まりない、そぎ落とされ、気持ちの良いほどストレートな文章。そして何といっても独特なユーモア。どの短編にもどこかに笑わずにはいられない箇所が潜んでいて思わず笑ってしまう。
この作家に、何だか理由がはっきりわからないまま惹かれるものがあったが、原書を読んでみると、わたしの読解力をしても、この作家が並の人でないことが伝わってくる。このエネルギーの気持ちよさ! 甘さのない冷徹な視線、抜群のユーモアのセンス、自分を笑う潔さ、醒めた感覚。それでいて、どこか熱い。生きるエネルギーに満ちたパワフルな人だ。
深いところで傷を負い、痛みを持っているからこそ滲み出ている優しさがあるのだろう。(この作家は子ども時代に親から虐待を受けたようだ) わたしはこれからも繰り返しこの本を開くことになるだろう。
日本訳の存在は本当に有難いが、日本語にすると汚い言葉や、俗っぽく、生々しい表現が英語だとさらりとスマートだったり、また滑稽だったり、かわいかったりもするのだ。これは言葉の背後にあるものが国によって違うから、致し方ないことだろう。けっして翻訳者の責任ではないと思う。 というのは、原書のシンプルなままの表現を日本語にそのまま置き換えれば、あまりにシンプルで、とりわけ会話の文章など、日本語に置き換えてみれば、面白みに欠けるかもしれないという気がする。 それはそれとして、日本語の読み物としては不自然でも、できるだけ原文のニュアンスに忠実に翻訳してみたい気持ちに駆られる。 明日、時間を作ってやってみよう。
ブコウスキーの本を他に5冊図書館から借りてきたので、書かれた年代別に並べて、どんな内容か簡単に書いてみた。 わたし自身のための覚書だが、日記を読んでくださってる方のお役に立つかもしれないのでここに載せておこう。
肝心の「二日酔い」の感想はまたいずれ。
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★「ブコウスキー・ノート」
(原題Notes of a Dirty Old Man)1969 文遊社 山西治男訳 < 1995> 1966年から1967年にかけてブコウスキーがロスアンジェルスのアングラ 新聞「オープン・シティー」に書いたコラムから40篇を集めたもの。 印象に残った箇所を抜き出してみる。
01 おれはドフトエフスキーを師と仰ぎ、暗闇でマーラーを聴く男だ。
25 だから輝ける無頼の徒ブコウスキーも含めて、ある種の作家たちにとって、<性>は明らかに悲喜劇なわけだ。おれは強迫観念の道具として<性>を書いているのではない。本来泣くべきところで、笑いを誘う道具として描いている。
38 <凍結した少年>という彼特有に言い回し。父からの虐待。 父母との葛藤のことが書かれている。
★「ポスト・オフィス」
(原題Post Office)1971 幻冬舎 坂口緑訳 < 1999>
1970年まで、およそ15年に渡る、郵便局勤務の体験をもとに、19日間 で書き上げられた、処女長編小説。 小説の背景は1960年代のロスアンゼルス。30代〜50代前の著者がモデル
★「勝手に生きろ!」
(原題Factotum)1975 学習研究社 都甲幸治訳, <1996>
舞台は第二次世界大戦前後のアメリカ。 主人公、チナスキーは大学を出たばかり、二十代前半の、自信のない青年の彷徨う姿。ブコウスキー自身の青春彷徨が活写されている。原題のFactotumはもともとラテン語で、ファク=やれ。トタム=何でも。つまり「何でもやれ!」 父親の声との戦いがブコウスキーの長編小説の一貫したテーマ。 20代の著者がモデル
★「詩人と女たち」
(原題Women)1978 河出書房新社 中川五郎訳 <1992> ポストオフィスの直後。50歳で郵便局勤務を止めた頃の著者がモデル。 書き出し 「わたしは5五十歳。この四年間というもの女性とベッドを伴 にしたことはない。・・・・・・
★「ブコウスキー詩集―指がちょっと血を流し始めるまでパーカッション楽器のように酔っぱらったピアノを弾け」
( 原題 Play the Piano Drunk Like a Percussion Instrument Until the Fingers Begin to Bleed a Bit ) 1979 新宿書房 中上 哲夫 訳 <1995>
★「ホット・ウォーター・ミュージック 」
( 原題 Hot Water Music)1983 新宿書房 山西治男訳 < 1998> ブコウスキーが63歳の時の短編集。 本人によれば、それまでの作品より、読みやすく、明快になっていると いうことだ。
ひな祭り。 女の子がいない我が家はひな壇を飾ることもないけれど、ふるさとの土雛を飾る。
これは、数年前に、幼馴染から送られてきたもの。 確か出産の内祝いかなにかだった。彼女も男の子二人、お互いお雛様には縁がないから、こんな素朴なお雛様でも飾りましょうと手紙にあった。 この1年ドイツで暮らした彼女は今月末には戻ってくる。 ドイツでもお雛様を飾ったのだろうか。
そういえば、アメリカから帰国する時、親しくしていた友人に有田焼の小さな内裏雛をプレゼントした。日本のひな祭りのことを話すとずいぶん興味深い様子だった。 彼女が集めていた世界各地の人形が飾られていたガラスケースの中に、あのお雛様はまだいるだろうか。あの時小さかった娘達はもうすっかり大人になっているはずだけれど。
木曜日。くもり。ジム日。 ヨガ・ラテン・パーフェクトエアロの3本。太極拳には出ずに早めに帰宅。 夕方寒くなるという情報が耳に入ってきたので、遅くならないうちに帰ろうと思ったのだが、いくら寒いとは言っても、すっかり春の風。 この冷たさはむしろ心地よいくらいだった。
自転車をこいでいると身体全体で風を感じるので、季節の変化や空気に混じる花の匂いがとても良く分かる。加えて、空の色、雲の形、木々や花々。 もうしばらくすると、中学校の校庭や神社の境内に桜の花が咲く。一週間ごとに変化してゆく外の季節はおもしろい。
それだが、冬の間、自転車で往復50分のジム通いには厳しいものがあった。 夏は夏でまたあの焼け付く太陽は恐怖だ。 それだから、春が、そして秋が待たれる。
本来出不精で、めんどくさがり屋のわたしが、この4年間、毎週木曜日は寒かろうと暑かろうと、自転車をこぎこぎジムへ通ったということに、自分ながら驚く。 それができるのも欲求の強さが物を言うからだろう。 月曜日から水曜日まで仕事モードで過ごした後のジム日はまさにリフレッシュ。再び新しくされる。
ヨガでは大地からのエネルギーを十分に補給し、身体のすみずみにまで気を通す。ラテンは心身共に究極の開放を味わう。パーフェクトエアロではチャレンジする気持ちを。太極拳では身体の中心を意識し、それを鍛える。 それぞれの動きは違い、当然心の状態も異なる。その違いがまた楽しい。
2006年03月01日(水) |
歌い、歌い、また歌い |
いったい今日は何時間歌っただろう。
「英語で歌おう」のクラス最終日。 サイモン&ガーファンクルの"The Sound of Silence"についてのレクチャーの後、リズムに乗せて歌詞の発音練習。これはけっこうやっかい。これまでやった歌の中では一番歌いづらいかもしれない。 その後、ギターの伴奏でキーとテンポを下げて歌を練習。 その後、前回やった2曲を復習。
最後にリクエストにお答えして"With You Smail"をいっしょに歌う。 日記で紹介していたのをCさんが涙を流して聴き、パソコンの前にテープレコーダーを置いて録音し、繰り返し聞いてすっかり覚えたとので仰天した。歌っている本人よりもこの歌と深く出合われたのだろう。歌ってよかった・・・ さて、ここでまず歌うこと1時間半。わたしは準備のためにその前に1時間は歌っていたから2時間半歌ったことになる。
さて、クラスの後は学習の成果を試すべく、いざカラオケへ。 サイモン&ガーファンクルの歌に始まり、前にやったビートルズのナンバー、Memory、 sailing、その他、なつかしのPPMのナンバー、やがては美空ひばりに沖縄の歌いろいろ・・・・
それぞれが個性的で、魅力的な声、歌い方! 歌うこともだけど、聞くのもずいぶん楽しかったのだ。
「ところで、今何時?」
「ぎょっ、10時半!!」
みなお酒も飲まずに、ひたすら歌うこと4時間。
わたしの場合、今日は合計6時間半歌ったことになる。 もし晴れていて自転車で帰ったのだったらきっと自転車こぎながら歌うところだったが、生憎の雨。駅まで迎えに来てくれたmGの車ではさすがに歌わなかった。
写真の素敵な花は、受講生のみなさんからのプレゼント。どうもありがとうございました。
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