たりたの日記
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2005年10月31日(月) |
HappyHalloween ! |
10月のいちばんお終いの日はハロウィン。 日記を書いている今はすでにこの日が終わろうとしていますが、地球の向こう側のアメリカは今ハロウィンの一日が始ったばかり。
もう10年以上も前の事になりますが、この日、息子達が通っていたニュージャージーの小学校ではハロウィンのパレードとハロウィンパーティーがありました。子ども達はそれぞれ変装用の衣裳を学校へ持って行き、午前中の授業が終わると、それぞれが衣裳を着け、クラスごとにハロウィンパーティーが始まります。ボランティアの母親達がハロウィンのケーキやクッキーや飲み物を教室に持って行くのです。
パーティーの後は、全校生徒が一斉に校庭に出て、グラウンドいっぱいの大きな円を描いて音楽に合わせてパレードです。先生達もその年ごとにテーマを決めて変装に励めます。例えば、絵本のキャラクターとか、映画のキャラクターとか。校長先生も、ライブラリアンも、保健の先生もみんな仮装するのですからそれは観る価値ありますよ。見物人の親や近所の人達が学校に集まってくるというわけです。もちろん見物する親達や小さな妹や弟達の中にも仮装している人がけっこういます。
この日は仮装パレードが終わると学校はおしまい。子ども達はその変装姿のままでやおらTrick Or Treatに繰り出します。持ち物はキャンディーを入れてもらう袋やバック。大きなピローケース(枕カバーになり布製の袋)を持っている子もいます。 外がまだ明るい間は、目抜き通りへ出かけ、商店街を歩きながら好きな店に入ってはキャンディーをもらって歩きます。商店街は仮装した子ども達や子どもを引率する親で溢れかえり、おそらくは一年中で一番通りが賑わう日になります。日本の縁日とか夏祭りの賑わいと似ているかもしれません。
あたりが暗くなると、大きな子は自分達だけで、小さな子は親といっしょにそれぞれ自分の家の近隣の家家を回り始めます。 玄関先にハロウィンのカボチャが飾ってあったり、趣向をこらしたディスプレイがしてある家はTrick Or Treatへどうぞ来てくださいというサイン。玄関の明かりを消してある家もたまにあり、そういう家にはTrick Or Treatには行かないのがルールです。でもたまに、子どもがいない家で、その日がハロウィンだということをすっかり忘れていて、子ども達の気配で気が付き、あわててキャンディーを買いに走るおじさんの姿もありました。 「ごめん、ごめん、すっかり忘れてた。今キャンディー買ってくるから、家には後で回ってきて!」と。 我が家のように、小さな子ども達をTrick Or Treatへ連れていくために、家が空っぽになる場合は、ドアの外に「ようこそいらっしゃいました。キャンディーをどうぞ」という張り紙をして、キャンディーを詰めた小袋をたくさん入れたバスケットを出して置くのです。
隣のおじさんの家はいつもm&m、お向かいはポップコーンの袋と毎年決っている家もあったり、キャンディーのかわりに小銭をくれたり、家の中に入れてくれる家もあったりと、この時ばかりは日ごろ顔も見たことのない住人と親しくご挨拶するわけです。その家の庭に入るや不気味な音楽や笑い声が突然聞こえるしかけがしてあったり、上から蜘蛛が降りてきたりと、びっくりさせられる家もありました。 毎年気合の入ったディスプレイをする通りは観光スポットのように人がたくさん歩き回っています。家の前に置かれた棺おけとか、かぼちゃ頭の等身大のかかしとか、作り物でも夜の闇の中では効果抜群です。 それにしてもなんと遊び好きな人たちでしょう。
子ども達のTrick Or Treatに付き合って3、4時間も歩き回るとくたくたになったものです。当然夕食の支度をする時間もありませんから、この日の夕食はきまってピザのディリバリー。遅い夕食となります。 子ども達はといえば、床の上に袋いっぱいの戦利品をぶちまけ、好きなお菓子と嫌いなお菓子に分けて、兄弟どうしで交換したり、引き取り手のないお菓子はわたしにくれたりと仕分けに忙しいのでした。一度に食べるキャンディーは5つまでとか、そんな約束をいつも取り決めていましたが、果たして彼らが守ったのかどうか、わたしがきちんと監視したのかどうか、毎年のことだったので覚えていません。 とにかくこの日は子ども達にとってもまたわたしにとっても楽しい日でした。
さて、このハロウィーン、ネットでその歴史などを調べてみました。 歴史は紀元前5世紀のアイルランドにまでさかのぼるようです。 当時アイルランドに住んでいたケルト族は、10月31日で1年が終わるという暦を使用し、元旦の11月1日には生から死への移り変わりを意味するお祭りをしていたそうです。このお祭りは "Samhain"(ソーエン)と言われ、ケルト族はこのソーエンの前までに穀物を収穫したり、家畜を料理したりして冬越えの準備を整え、元旦には聖なる樫の木で焚火をし、穀物や動物を焼き、時には人間を生け贄にしたといいます。また、この時期は生の世界と死の世界の境界が薄くなると考えられていたため、死の世界からやってくる死霊のために食べ物を屋外に置くのがならわしで、現在の "Trick OrTreat" はこれに由来しているそうです。同時に、死の世界からやってくる悪霊を怖がらせるよう、カブに顔を彫ってランタンにしたり、悪鬼の格好をしたりして、近所中をパレードしたと言われています。 これが後にローマの死者のためのフェスティバル"Feralia" と合体し、11月1日は聖人をたたえるための "All Hallows Day" となり、その前日は "All Hollows Eve" が、現在の "Halloween" という名前の由来と考えられています。 アメリカでハロウィーンが祝われるようになったのは、1800年代も後半に入ってからのこと。アイルランドやスコットランドの移民が持ち込んだと考えられていますが、このでは、カブではなくパンプキンが使われるようになりました。きっとパンプキンの方が手に入りやすかったからでしょう。 ちなみに、ハロウィーンカラーはオレンジ色と黒色ですが、オレンジ色は収穫を、黒は死を意味しているとのことでした。
さて今年もHalloweenが終わり、秋は次第に深くなっていきます。
英語学校の子ども向きの行事としては一番大きなハロウィンのイベント、Halloween Fun が本日無事に終了しました。 今までのハロウィンパーティーと違うのは、ハロウィンの一番大切なトリック・オア・トリート(仮装した子ども達が家家のドアをTrick-or-treatとノックしながらお菓子をもらって歩くこと)を建物の中だけでなく、町の中を歩き、お店や人の家に実際に行ってお菓子をもらうという、より本物の近いことをやったということです。
様々に仮装した25人の子ども達が3グループに分かれて、先頭のリーダーが持つ大きなハロウィンの旗の後から歩き、事前にお願いし、お菓子を預けておいた金物屋さん、パン屋さん、子ども服の専門店、牧師先生の家、アメリカ人の英語教師の住まい、教会の牧師室の6箇所を回りました。 わたしもカエルの格好をして子ども達といっしょに町を練り歩きました。道ゆく人達や車に乗っている人達が微笑ましそうに見ていたり、声をかけたりしてくれることがうれしかったです。
そして何よりも子ども達にトリック・オア・トリートの楽しさを味わってもらうことができたことがうれしいことでした。お母さん、お父さん達も子ども達のパレードに後ろからカメラ持参で歩きながら、良い体験をさせてもらいましたと感謝の言葉をいただきました。
また今年は英語学校のスタッフ3人の他に教会のメンバーにボランティアをお願いし、6人のランティアスタッフといっしょに行えたた事も画期的な事でした。 天気予報では雨なので、どうしようと心配していたのですが、雨はなんとか持ちこたえてくれました。このことがいちばんほっとした事。
ところで、子ども達のコスチュームも、年々、力が入ったものが増えています。お母さんの手づくりの衣裳もけっこうありました。魔女、黒猫、ドラキュラ、悪魔、ゴースト、ティカーベル、ピーターパン、白雪姫、不思議の国のアリス、海賊、囚人などなど・・・ わたしのカエルちゃんの衣裳も好評で、子供たちからは「カワイイ〜」言われ、お母さん達からは「なんだか不思議に似合ってますよね」と感心されたり・・・貸してくださったかおりんに感謝! ちなみに去年は海賊、その前はチョウチョとか魔女とかシスターとか・・・この時ばかりはいろいろなキャラクターの変身することになります。
2005年10月28日(金) |
合瀬智慧子詩集『おりがみ』」より「おりがみ」 |
おりがみ
合瀬智慧子
パパはお仕事 ママはお仕事 土曜の夜にはおまえに会いに来てくれる だから おまえと二人 おりがみをおろう
おまえが 今 一番お気にいりの飛行機を 銀色で
おまえには 絶対希望の風船を ほうずき色の 赤で
おまえ自身の風の中で クルクル回る風車を 水色で
海も知らない 船も知らない おまえにとって本物は ササ船とおりがみだけ その真実を 黄色で
おまえの手なら まだ不自然ではない 星を 金色で
二歳になったばかりのおまえが 初めて覚えた色や形を 注文通り おまえの好きな色で おまえの好きな形に
だけど 祈りや願いはおりこむまい こんな小さなこんな軽いおりがみだもの
パパはお仕事 ママはお仕事 土曜の夜にはおまえに会いに来てくれる それまで おまえと二人 おりがみをおろう
ひまわりや サルビアみたいに 直接太陽に触れなくても すぐに色あせてしまうけれど おまえと二人きり この一時の 原色だけの愛を
この詩を読んでいると、山奥の静か過ぎるような、漆黒の夜、橙色の灯火の下で、二歳の甥とおりがみを折っている智慧子さんの姿が浮かんでくる。 こうして彼女が一篇の詩に、その情景を心情を詠い込んだことの故に、読むものはその情景を自分の心に映し、そしてそれを記憶の中に留めることができる。彼女が今この地上にいないとしても、言葉は生きていて、読む人の心の中でまた生きる。 言葉の持つ力・・・
2005年10月27日(木) |
合瀬智慧子詩集『おりがみ』」より「彼岸花」 |
彼岸花
合瀬智慧子
陽射しの届かない場所でさえ 花の色を変えない彼岸花は 暮れかかる十月の野に這って 夕焼けより赤くチロチロ燃えている
子どもの頃 母達の苦労話を耳にするたび 母達の流す血の涙で 汚れたエプロンが 今にも染まりはしないかと よく解からないままに心配していた
悲しみを置く場所すら与えられずに 古い時代を生きぬいてきた女達が 一家の嫁になるまで 一家の母になるまで土に流した 血の涙が 重く実った稲穂の横で 赤く 赤く咲いている
この前の文学ゼミの帰り道、kさんと武満徹のことや今年亡くなった歌人、塚本邦雄のことなど話ながら、その作家達を生前から知っていたにもかかわらず、その人達が死んでからその作品に深く出会ったことが残念だと言うと、Kさんは、不思議なものでその人が死ぬとその人の凄さが他の人に見えるようになるというようなことを言われた。 わたしは従姉の事を知り、その詩も好きだと思って読んでいたのに、これほど近くで響く感覚は今までなかったような気がする。
どういうのだろう。 その人の肉体としての存在がある時には、言葉もその肉体の距離の遠さと共に、あるいはお互いの関係の遠さと共にどこか遠いのだ。それなのに、その人の身体が地上にいなくなることで、その言葉がわたしの傍らに立つようになる。これまでも何度かこういう経験をした。その人の死の故にその人の魂と深く触れ合うということを。
2005年10月26日(水) |
合瀬智慧子詩集『おりがみ』」より「秋の中で」 |
秋の中で 合瀬智慧子
こんな所に こんなに一杯つり舟草が咲いていたなんて
破れそうな花ビラを指にさし ちょっと触れても飛び散る実を 指で弾いて遊んだ幼い日々 あれは 秋だったのですね それで 今 一つの季節が 跡形もなく終わっていた意味が やっと分かりました
それらしい理由の一言も語れず 解り合う事もできないまま 息づくものすべてと 通う合う事を突然に止め しっとりと朝露を含んだ大地に抱かれ 昇り始めた太陽に まっすぐ顔を向けていた父に どんな言葉を呼びかければよかったのか
あの時 油ゼミが苦しく鳴く中で 何もかもが崩れていく音を 確かに聞いたのに 父の作業着を かすかに染めていた露草のインキが 後から後からあふれていたのに 季節が たった一つ移っただけだなんて 新しい季節の中で 父のために 新しい涙を流すことしかできないなんて
従姉の父親、わたしの父の兄が他界したのはわたしが12歳の夏だった。 確か脳溢血での突然の死。 ホウセンカの花の咲き乱れる庭先に倒れていたと聞く。 訃報を受け、家族5人、大分から佐賀まで電車で駆けつけた。佐賀へ行くのは父の継母の葬儀以来5年ぶりのことだったので、久し振りに会う従姉兄達がすっかり大人になっていることに驚いた。従姉兄達はわたしや弟が大きくなっている事に驚いたに違いない。確かにわたしは智慧子さんの身長をはるかに超えていた。そしてその時、彼女の身体が不自由であることも知ったのだった。親戚が方々から集まり、みなで夜中まで酒を飲み、ごちそうが並び、お祭りのようで、兄も姉もいないわたしは従姉兄たちといっしょに過ごす夜が嬉しくはしゃいでいた。
昔から父をよく知っている従姉兄たちは若い叔父である父を「マサトにいちゃん」と呼んだ。そこでは父はわたしや弟に見せることのない顔をして、わたしたちが使えない佐賀弁で話しをした。父が父でないような心細い気持ちと、親戚というものの存在の頼もしさとを同時に味わっていた。 父親を突然失った智慧子さんの心に触れたのはそれからずいぶん年月が経って、この詩を読んだ時だった。
その6人の従姉兄たちのうち、もう3人が父よりも先に他界してしまった。 親戚が家族が知人がひとりまたひとりとあちらの世界へ移されてゆく。 従姉の葬儀には家族を代表して母だけが行った。 痴呆の父は姪の死を知ることができない。
2005年10月25日(火) |
合瀬智慧子詩集『おりがみ』」より「神水川」 |
神水川
合瀬智慧子
文明という名の糸を逆にたぐれば かならずどこかの河口に辿り着ける 流れの音はすべての生物を引き寄せ 岸辺に集い睦み合って 人は言葉を持たない大古の時代から あらゆる生物達と自然の恵を分かち合い 流に沿って生きてきた
命と心に通じ合う たとえば火 たとえば風 人は体を流れる 二つの管の 濁った流れが清められていくように 水の中にも神を住まわせ 愛を浮かべ様々な想いをたくし 信じることだけを知っていた
草木の露と 岩の間を潜り出たばかりの雫が 透明な一すじになった神水川 雪山のふところに抱れて 山女は まだうらうらとまどろみ 早くも腕まくりをした猫柳が ひたひたと水面を打ち 風に流された寒椿が漂う神水川
淵に憩い瀬を走る流の面に 浮彫にされた季節の顔が 人の心を未来へ誘う
*RKBラジオ「五木寛之の夜」で五木寛之さんが朗読してくださる。
――合瀬智慧子詩集「おりがみ」(1998年12月30日発行)より――
この詩「神水川」は昨日の日記に書いた従姉、合瀬智慧子の詩集「おりがみ」の中の一篇。
従姉は長い間詩を書き続けた。佐賀新聞の読者文芸欄に詩壇ができてから毎月詩を投稿するようになり、1年目には年間文芸賞を、それから間もなく県文学賞を受賞したということだった。こういうこともいただいていた詩集のあとがきを改めて読んで思い出したことだった。
身体に障害を持ち、虚弱体質の彼女は生涯職業に就くことも無く、また家庭を持つ事もなく、甥の面倒を見たり老母の介護をしたり地域のボランティア活動に携わりつつ詩を書き、母親が他界して1年4ヶ月後の昨日、63歳でその生涯を終えた。
この詩の題になっている神水川(しおいがわ)は佐賀県の北山ダムの近くを流れる川だ。 わたしの父と母の故郷だというのに、しかしわたしは美しい自然に恵まれているというこの土地の事をほとんど知らない。ちょうど、わたし達の子どもがわたしの生まれ育った町の事をほとんど知らないように。
それでもこの川の記憶はおそらくはわたしの一番古い記憶の中にあるのだ。 父の継母が一人暮らしをしていた家のすぐ目の前を川が流れていた。その町は山の中腹にある町だから、川も下流のそれとは違って、岩の上を走る激しい流れを持つ川だった。父親の継母の家にわたしたちの家族4人で泊まった夜、轟々と物凄い音を立てて流れる川の音がすぐ耳元で聞こえるので、目を閉じると川に流されそうで怖かった。あの川が神水川(しおいがわ)だったのだろう。 父の継母はわたしが6歳の時に他界したから、この川の記憶はそれより前の記憶ということになる。5歳、あるいは4歳の頃の。 その川の音は怖かったはずなのに、その強い響きに心惹かれてもいたのだろう。今でもその川の音を聴きたいと思う。 従姉の家の裏にもこの川が流れていた。その川の水で洗濯をしている伯母の姿や、水浴びをする従姉妹たちの姿が薄っすらと記憶に残っている。 わたしにとっては記憶の中にしかないこの川は、従姉にとっては従姉の家から眺める山と同じように、彼女の暮らしの中に日々流れ込んでいたのだろう。
ところでこの詩がRKBラジオ「五木寛之の夜」で五木寛之さんに朗読されたと注釈がほどこされているが、この詩集をまだいただいていなかった頃、金沢に住むわたしの弟がラジオを聴いていたら、五木寛之さんの番組の中で従姉の詩が読まれびっくりしたという話を聞いた。弟がラジオで聞いたという詩はこの「神水川」という詩だったのだろう。 この詩集の評が記されている佐賀新聞の切り抜きが手元にあるが、その評の最後には文芸誌「城」同人 小松義弘氏のこのような文章がある。 「・・このように季節と自然とが、みごとに把握されている。 中央とか地方とか、すでに古くなった対立項を持ち出すのも恥ずかしいが、あえて言及すれば、地方で文学する豊かさを、合瀬氏の作品は期せずして物語っていると思うのであった。」
今日、従姉の葬儀の日。
「伊集の花」の舞台が終わった次の日の朝。 それは同時に愛する従姉が戻らぬ人となった翌朝だった。 昨日と同様、今日の空はすっきりと晴れ渡っていて日の光りはきらきらと美しい。 この空気を身体いっぱいに吸い込みながら、この季節を選んで彼女は天へ帰っていったのだと思う。 ――耳の奥にフォークルセダーズの歌う「感謝」が繰り返し鳴り響いている。
♪長い橋を渡る時は、あの人は帰らぬ・・・・・ 消える御霊、見送りながら心からの感謝を・・・・
両親の故郷佐賀県に住む従姉の具合が良くなく、ホスピスに入ったと母から電話があったのが2日前。昨日の朝、わたしは舞台が終わったら途中花屋へ立ち寄り見舞いの花を送ることができるよう病院の住所を書いた紙をバッグへ入れていた。 そして、この従姉にこそ「伊集の花(いじゅのはな)」を見てもらいたいと思った。そこにある歌も踊りも言葉も、彼女は深く受け止めるだろうと思ったからだ。詩を書き続けたその従姉の詩にわたしは魂が生まれやがて帰ってゆくところをいつも感じていたから。 せめて、わたしは今元気に生きているということを精一杯感謝して、彼女の事を想いつつ、精一杯心を込めて踊ろうと思った。
舞台を終え帰りの車の中で母からこの従姉の訃報を受けた。 こんなに早く見送ることになるとは・・・そのうち手紙も書こうと思っていたのに・・・。 従姉が息を引き取ったのは、昨日の正午頃だという。その時わたしは「伊集の花」のリハーサルのステージの上だった。本番の時には彼女はもうこの世を旅立った後ということになる。 肉体から離れて自由になった従姉の魂は、あの舞台を客席から見ていたのではないか、あるいは舞台の上でわたしのすぐ傍らに寄添ってくれていたのではないかと、そんなことを思った。
あの舞台の上には多くの人がすでに渡っていった長い橋、越えた深い川、そこを渡っていった人々がいた。戦火の中で倒れた人々、伊集の亡くなった母親・・・。 すでに橋を渡っていった魂と、やがて深い川を越えるわたしたちと、これから生まれてこようとしている命が触れ合う、哀しみとも喜びともつかないような不思議な優しい空気に満ちていた。わずか30分ほどのステージだったが、そこには永遠を思わせるものがあった。 舞台の袖で順番を待ちながら、子どもたちといっしょにしゃがみこんで「感謝」の踊りを見ていた時、6歳の小さなMちゃんが、「わたし、涙が出て来くるの」と、耳もとでささやいた。はっとして見ると彼女の目の端っこに涙の粒が溢れそうになって溜まっていた。わたしは人差し指でその涙をぬぐった。そしてちいさな魂が受け止めているものをわたしもまた受け止めた。
一夜明けて、昨日の舞台のすべてのシーン、仲間の表情、Mちゃんの涙、従姉の死のことがひとつの想いとなって「感謝」の歌とともに繰り返し、打ち寄せてくる。
♪深い川を越えたならば、わたくしも戻らぬ。 だから今が大事過ぎて、幕が降りるまでは・・・・
智慧子さん 深い川を越えるその時まで、幕が降りるその時まで大切に生きます。 あなたがそうしたように、わたしもまた。
感謝 ( 歌・フォークルセダーズ)
長い橋をわたる時は あの人は帰らぬ 流れ星の降り注ぐ 白い夜の上で 消える御霊見送りながら 心からの感謝を
深い川を越えたならば わたくしも戻らぬ だから今が大事過ぎて 幕が降りるまでは 怨みつらみ語り尽くして 心からの感謝を
怖がらないで、顔を上げて 見守っているから 日はまた昇る 明日のことは振り返らないで 次第次第うすれる意識 さらば愛しき者よ
2005年10月20日(木) |
朝の道また夕の道ペタル踏み |
ジム日の木曜日はとても気持ちの良い秋晴れだった。 こんな朝、自転車を走らせるのは何か贅沢な気持ちがする。 お仕事中のみなさま、ごめんなさい。 ジムまでの20分間。台詞の「インディアンの教え」の台詞を何回か練習。 そういえば、3年前、ミュージカル「森のおく」の頃も、ジムの行き帰りの自転車でぶつぶつと台詞を練習していた。 考え事をしたり、音楽を聴いたり、時には歌ったり、ほとんど人も通っていないから、いろいろやれる事が多い。 春の頃は桜の咲くお寺の境内に寄り道してお花見したり、立ち止まって道端の花の写真を撮ったりもした。夏には一休みしてカキ氷を食べた。さて、秋にはどこか紅葉スポットがあったっけ。
車の通れないような田んぼの間の細い道を走るのだが、いつも道の同じ場所で決ってすれ違う人がいる。バックパックを背負ってストンストンとのんびり歩く格好はいかにもハイキングをしている風なのだが、いつも決って9時過ぎに歩いているとすれば仕事に行っているのかも知れない。 その人はすれ違う時、これも決って、口をもぐもぐ動かしてパンか何かを食べている。きっと歩きながら朝ごはんを食べる主義なのだろう。そしてわたしはというと、これも決って遅刻しそうな高校生のように猛スピードで自転車をこいでいる。あまりに狭い道をすれ違うので挨拶こそしないものの目は合う。おかしな人だなあと思ってすれ違うのだが、向こうもおかしな人だなあというような顔をしている。
さて、この日もジムのメニューはフルコース。 ヨガ、ラテン、ダンベル、カロリーバーナーエアロ、太極拳の5本。運動時間はしめて4時間。朝9時前に家を出て、帰りは夕方5時半。すっかり日が短くなったから、暗くなった道を自転車で帰ることになる。 わたしは犬と夜道が怖いから帰り道はどきどきしている。来週からはお風呂の時間や買い物の時間を短縮して明るい内に家に帰るようにしようと思う。
2005年10月19日(水) |
Let It Be 一日歌って日が暮れて |
ほんとに朝から夜までこの歌ばかりを歌っていました。 正確に言えば、昨日の夜からずっと。夕べはうるさいピアノの音によくぞ同居人は耐えてくれたものです。時時つっかえるし、間違ったコード弾いたりするし・・・
なんでいきなりビートルズなの?エミリ・ディソンは!その前は武満徹じゃなかった?その前の塚本邦雄はどうなったの? 日記を読んでいる方方からそんな突っ込みが入りそうですが、わたしの場合、それらは同時進行なのです。加えてビートルズも。文学、仕事、ダンス、家事いろいろレベルやテンションの違うことをそのつど、モード変換をしつつ平行してやっているという。
それにしてもなぜ一日中 Let It Be かと言えば、「英語で歌おう」という大人の英語クラスで、今日は Let It Be を取上げることになっていたからです。ちなみに先週はYesterdayでした。 ビートルズ、決してわたしの得意分野の歌でもレパートリーでもないのですが、受講生の方からこの歌をカラオケでかっこよく歌えるようになりたいとリクエストがあったのでした。
ギターを弾きながら歌ったことはあるものの、この歌を教材にして指導するとなれば、歌の背景、言葉の意味、発音、リズム、音程をわたし自身がまずきっちり身に付けていなくてはならないし、その上ピアノやギターの伴奏といくらでもやって置かなければならないことがあります。クラッシックやゴスペルソングなどはリズムが単純で楽譜通りに歌ったり弾いたりすれば困ることはないのですが、こういうポピュラーな歌となれば、歌い手は決して楽譜通りに歌っているわけじゃないから、どうしてもCDなどを聞きながら、耳で掴まなければならない訳です。
でもこのクラスの準備のお陰で何となく知っていたその歌をすっかり自分のものにすることができたことは大きな収穫でした。 仕事帰り、同居人と待ち合わせて焼き鳥屋に行ったのですが、帰り道、酔った勢いで、すっかり覚えてしまったこの歌を歌いながら自転車こいだことでした。いつもは「歌ったりすると置いて帰るよ!」と脅す彼も、いっしょに歌ってました。
それにしてもこの歌はすばらしい歌だと改めて思います。 聖母マリアが目の前に現れて語りかけるのだから、かなり宗教的な歌ですね。 そういえば、我が家の次男は高校受験の前日もと大学受験の前日も、この曲だけを聴いていたと言ってました。 おまじないの言葉・・・わたしも時時、唱えます。
Let It Be そのまま
苦境にあると気づく時、聖母マリアが現れて、知恵の言葉をわたしに告げる 「そのまま」 暗闇の中をさ迷う時、彼女はわたしの目の前に立って、知恵の言葉を告げる 「そのまま」 そのまま、そのまま、そのまま、そのまま ささやけよ知恵の言葉 「そのまま」
世界に住む心痛める人が一致する時 そこに答えがあるだろう 「そのまま」 たとえ、彼らが対立しても、分かり合えるチャンスはまだあるだろう 「そのまま」 そのまま、そのまま、そのまま、そのまま ささやけよ知恵の言葉 そのまま
夜空が曇っていたとしても、射し込む光りがある 輝け、明日まで。 「そのまま」 楽の音(ね)に目を覚ますと 聖母マリアがやってきて、知恵の言葉をわたしに告げる 「そのまま」 そのまま、そのまま、そのまま、そのまま ささやけよ知恵の言葉 そのまま
Let It Be
When I find myself in times of trouble
Mother Mary comes to me
Speaking words of wisdom
Let it be
And in my hour of darkness
She is standing right in front of me
Speaking words of wisdom
Let it be
Let it be, let it be, Let it be, let it be
Whisper words of wisdom
Let it be
And when the broken hearted people
Living in the world agree
There will be an answer
Let it be
For though they may be parted
There is still a chance that they will see
There will be an answer
Let it be
Let it be, let it be, Let it be, let it be
yeah, there will be an answer
Let it be
Let it be, let it be, Let it be, let it be
Whisper words of wisdom
Let it be
And when the night is cloudy
There is still a light that shines on me
Shine until tomorrow
Let it be
I wake up to the sound of music
Mother Mary comes to me
Speaking words of wisdom
Let it be
Let it be, let it be, Let it be, let it be
There will be an answer
Let it be
Let it be, let it be, Let it be, let it be
Whisper words of wisdom
Let it be
2005年10月18日(火) |
エミリ・ディキンソンの詩集が届いた日 |
この日も一日雨。 つくしんぼ保育室での英語クラス。 午前1クラス、午後3クラス。その間の時間にダンスの練習。 日曜日に迫った「伊集の花」の振り。スローテンポのヨイトマケ、意外に形が決らない。まだ踊り込む必要あり。
注文していたハロウィン関係の英語の絵本が3冊と、エミリ・ディキンソンの詩集が2冊届く。一冊は岩波文庫、対訳ディキンソン詩集、亀井俊介編。もう一冊はThe Complete Poems of Emily Dickinson。 ディキンソンの詩、千数百編がすべて納められていて、2000円は安いと迷わず注文したが、届いた本はペーパーバックとはいえ、5cmもの厚さ。 日本語のようにすらすら読めるわけでもなく、例え辞書で言葉の意味を調べたとしても、その詩を十分に味わえるかどうかは疑わしい。それだけれど、この本の厚みが何か嬉しく、何度も手に取ってはきままに開いてはそこにある詩を読んでみる。 これも旅だな。始まりだなと思う。 今までにも何度か接触しながら、歩き出すことをしなかったのに。
エミリ・ディキンソン、1830〜1886、アメリカの生んだ最もすぐれた詩人の一人と言われるが、生前はわずか10篇の詩を発表しただけで無名のまま生涯を終えたというその人。
2005年10月17日(月) |
「骨月あるいは a honey moon 」 武満徹著 を読む |
一日雨。今日は家事の他は何も予定を入れず、今夜の文学ゼミのテキストになっている「骨月あるいは a honey moon 」 武満徹著の感想を書くことにしていた。 いつもぎりぎりにならないと書けない。行きがけの電車の中とか喫茶店でようやく文章が浮かんでくる。今日は家にいる時に書けたから原稿をプリントアウトして持ってゆくことができた。 しかし、ぎりぎりまで書いていたので家を出るのが予定より30分遅れ、ゼミには10分ほど遅刻。 仲間の感想を聞くことでまた発見もあった。この場をやはり有り難いと思う。 雨の中、いつものように高田馬場までみなでとぼとぼ歩く。30分ほども歩くだろうか。この歩きながらの話も貴重。やってくるインスピレーションを受け止める。 居酒屋での2次会には参加せずに早めに帰宅。
「骨月あるいは a honey moon 」 武満徹著 を読む 闇の深さとそこに注すほのかな白い光り。 闇が象徴するもの。命が何であるのかという問い。その問いは掴みようもないほど深い闇として目の前に横たわっている。 だが作者は、その闇の中に、暗い空を穿つ月を、また体の朽ちた後の残る骨を置く。 そこに「永遠」のイメージがぼっと浮かびあがる。 答えはない。けれど、骨月の静かな光りは暗闇を照らしていて、確かにそこは明るいのだ。 果てしない闇とその中で光を放つ骨月へと、誰の心の奥にも存在するだろうその場所へと誘われる。この作品を読むことも、またひとつの旅だった。
武満徹の「骨月あるいは honey moon」の中で、とりわけ印象的だったのは狂死した伯母が語ったいくつかの言葉だった。言葉は月のように幽玄な光を放っている。
「肉体のなかに骨があるのではありません。ほんとうの肉体は骨のなかに入っているのです。この骨の周囲にまといついているぶよぶよした肉はみせかけのものです。 血は海水といわれているけれど、骨の中には、月を流れているのとおんなじ白いすきとおった水が流れているのです。血や肉はかならず腐るし、海の水はやがて涸れるでしょう。それでも骨は残ります。なぜなら、骨を流れているその流れは、血や海のようには波立たないからです。」 伯母のこの言葉はこの小説を貫く主題であると思う。 ここで伯母が言うほんとうの肉体というのは目に見えない、人間を生かしている生命そのものの存在なのだろう。そしてその骨の中を流れる水、命の力は月を流れるものと同じであるという。ここに、この伯母の人間観、宇宙観を観る。この世界には朽ちるものと朽ちないものとがあり、やがては朽ち果てる人間の身体には、しかし朽ちることのない命が通い、そこのところで宇宙と繫がっているという見方。
伯母の家系は蘭学の医者で、その中にはオランダの解剖書「ターヘル・アナトミア」杉田玄白と共に翻訳した前野良沢の弟子、原養沢がいた。伯母は養沢が書き残した日誌や資料を読んで、人体解剖に立ち会った後の前野良沢の内的変化について知ろうとしていた。 「體」という字の偏が月(にくづき)ではなく、骨であることはおもしろいですね。 まことに骨こそは、肉体の闇の中空に枝を張って人を支えています。骨は永遠に、人間の歴史の暮れることなき夜を凝視(みつめ)るものです。前野良沢は、骨がかけた謎にとらえられたのです。やがて、それが解きえぬものであると知った時に、良沢にとってすべてはむなしく思われたのです。」と伯母は語る。 伯母は「骨がかけた謎」と語るが、この謎は何を意味するのだろう。命の意味、そして死の意味。人知の及ばぬところにしか答えのない果てしない問い。
伯母が語る良沢の手紙の記述は興味深い。 「前野良沢はのちに原養沢へ書き送った手紙に、身体内外のこと分明(ぶんみょう)を得しと覚えたのは悉く錯覚であったように思えてくる。身体のことが明らかになれば心の闇はいやさらに濃さをまし、私はまるで盲(めしい)のように真っ直ぐな迷路を手探りしている。なぜこのように業を曝さねばならないのだろうか―と。」
すべてを把握しているということが幻想にすぎないことを知った時、人は空洞の淵に立たせられるのかもしれない。周知のことがすべて解決のつかない問いとして向かってくる。人間の身体の神秘を目の当たりにした前野良沢は、人体解剖がきっかけで反対に人間の闇、空洞を覗き込むことになったのだろう。 地球を離れ宇宙の旅をして戻ってきた宇宙飛行士の中には内的な変化が生じる人が少なくなく、科学者の道を降り宗教家への道を歩み始めた人もいると聞くが、ものごとを極めるほどに、圧倒的に知らないこと、把握できないことの広がりにさ迷い出るのだろう。
「骨は心の闇に懸る月、闇深い夜(世)に白く冴える」 このような内容の歌を添えて、良沢は人体解剖の際に持ち帰った一片の骨を弟子の養沢に手渡したという。そして、「解体新書」の訳業を終えると、頑なに名前を出すことを拒み、長崎へ旅立ったという。 前野良沢の日誌に、オランダの医学書を翻訳するにあたって当惑したZinnenという言葉のことが誌されており、この言葉の意味を是が非でも解きたいという存念が書かれていたという。作者はZinnenという言葉には、たぶん精神という訳語が適当なのだろうと書いているが、英語では精神はspirit。この言葉は 同時に霊、魂、聖霊、幽霊などの意味を持つ。魂、わたしたちが肉体とは別に認めるところの、もうひとつの不可視な命のかたち、人そのもの。伯母の表現を借りるならば、それは骨の中を流れる朽ちることのない水。 良沢が解きたいと願った言葉の訳語をわたし達は言葉として知ることはできるが、その言葉の意味するものの存在はやはり闇の中に光る骨のようにおぼろげで、闇の深さをこそ際立たせている。
ところでこの作品は妻に捧げた私家版となっている。タイトルの骨月はよいとして、 a honey moon は何を意味しているのだろうか。 このa honey moon と呼応しているようにこのストーリーの最後は、 「将来、中国へ自由に旅行ができるようになったら、あなたと恐竜の化石を探しに骨月の旅へ発とう。」と結ばれている。 これは実際に中国への旅を意味しているのだろうが、人生を共に歩むパートナーへ向かって、この地上での生を終えた後に新たに始る旅(a honey moon)への誘いなのではないだろうかと思ったりした。
武満徹著作集2「音楽の余白から」いう著書の中に、「死の巡り」と題されたエッセイがあって興味深かった。 この骨月の作品と同じ音楽がここからも聞こえてくるような気がする。 記しておくとしよう。
「人間の生は束の間だが、死は無限だ。しかも人間の薄いヴェールを隔てて、死はつねに生の直中に生き続けている。「死は虚無なのではなくて、すべては生きてあるもの、すべて存在しているものの実際の一致」なのだ。するとこうして眺めている風景も、すべては死の風景と言えなくはない。 死の風景のなかをさまざまな生が歩む。死の形容(かたち)もまた一様なものではないのだろうか?たぶんこういうことは言えるだろう。死の風景―死が全体を隈なく覆いつくしている一枚の黒い布に(人間の)生が無限に固有の穴を穿けているから、私たちの眼に死は見定め難い。そして人間がかれの固有の生を知覚するときに、この現実でのうつつの生を終えるのだ。」 <武満徹著作集2 P84、2行目からの抜粋>
「生とか死はとるに足らない様態であって、たとえば植物であるとか、鉱物であるとかいうのと同じなのだ」とル・クレジオは書いているが、それだから、この生から死への移行を司る大きな意識、私たち人間の個々にして分散して在る無限の意識の実在を信ずることができる。死はけっしてひとつの終末ではない。人間はたぶん自分なしで世界が永続することを信じようとはしないだろうが、死は停止ではない。私たちは生という形容(かたち)を借りて、感覚では捉え難い超越的な意識の海を漂っているのだ。そして個々の死は、そのプラズマ状の意識の電離層をとび交う原子核(ヌクレア)なのだ。死によって私たちは、「言葉につくせぬ認識の大海」に浸ることになる。 <武満徹著作集2 P85、20行目からの抜粋>
2005年10月16日(日) |
蛇がだましたので、食べてしまいました |
午前中、教会学校と礼拝。 午後、「伊集の花」最後の合同練習と11月5日のステージのダンスの練習。いよいよ本番は一週間後となる。 教会学校では創世記3章、「へびの誘惑」の話をする。
教会学校でのお話 ( 創世記 3章 )
はじめに作られた男アダムは、はじめにつくられた女とともにエデンの園に住んでいました。二人は他の動物たちと同じように裸でしたがはずかしくはありませんでした。 園の真ん中にある知識の木以外のどの木からも果実を取って食べて良いと神から言われていたので、二人ともお腹の空く事はなかったのです。
ところが、そこに蛇がいました。神がつくられた野の生き物の中でいちばんかしこい蛇。蛇はある時、女に言いました。 「園のどの木からも食べてはいけないなどと神さまは言ったのかい」と。 いったい蛇は何をたくらんでいるのでしょう。とてもいじわるな言い方です。 女は蛇のたくらみには気づかなかったことでしょう。こういいました。 「わたしたちは園の木の果実を食べていいのよ。でも中央にある木の果実だけは食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないからと神様はおっしゃったの」
すると蛇は今度はこんな事を言ってきました。 「死んだりするわけないよ。それを食べると目が開け、神のように良い事と悪い事を知るようになるのさ。神さまはその事が分かってるから食べちゃいけないっていったのさ」 女はその木を見ました。そうするとその実はとってもおいしそうで、蛇が言うように、食べると賢くなるような気がしてきました。そうするともう食べたくてしかたがなくなりました。女は思わず手を伸ばして、その木から木の実をもぎ取り、そのまま食べてしまいました。あんまりおいしかったので、もうひとつ取って、そばにいるアダムにもあげたのです。そうするとアダムもその実を食べてしまいました。
さて、その実を食べた二人に変化が起きました。確かに蛇が言ったように二人は死ぬことはなかったのです。けれども、今まで裸でいて恥ずかしいとは思わなかった二人は裸でいることが急にはずかしくなり、二人はいちじくの葉っぱをつづり合わせて、腰のまわりを覆ったのです。
その日、風が吹くころ、神さまが園の中を歩く音が聞こえてきました。その音を聞いた男と女は神さまから隠れて木の間に隠れました。しかし、神さまはアダムを呼びました。 「どこにいるのか」 「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなって隠れているのです。だってわたしは裸なのですから」 「お前が裸でいることを誰が教えたのか。さては、食べてはいけないと言っていたあの木から実を取って食べたのだな」
「あなたがわたしといっしょに暮らすようにしてくださった女が木から実を取ってわたしにくれたのです。だからわたしは食べたのです」 アダムは神様との約束をやぶったことをあやまらないで女のせいにしましたよ。 神さまは女の方を見ていいました。 「何ということをしたのか」 「蛇がわたしをだましたのです。それでわたしは食べてしまいました」 あれあれ、女もごめんなさいとは言わずに蛇のせいにしています。 神さまは蛇にむかっていいました。 「このようなことをしたお前はあらゆる動物の中で呪われるものになる。這い回って塵を食べるのだ。人間たちはとお前はお互いに敵となる。お前を見れば、その頭を砕こうとし、お前は人間のかかとに噛み付こうとするだろう」 神さまは女にもいいました。 「わたしはお前が子どもを産む時の苦しさを大きくする。お前は苦しんで子を産むのだ。そしてお前は男を求め、男がお前を支配する」 そしてアダムにはこういいました。 「お前は女の言うことを聞いて、取って食べるなと命じていた木から取って食べた。お前の故に地はのろわれたものになった。お前は一生食べ物を得ようと苦しむ。草を食べようとするおまえに、土はあざみといばらを生えさせるだろう。お前は死んで土に帰るまで、汗を流して食べ物を得るのだ。そしてお前は塵からつくられたのだから塵に返る」
神さまは女にエバ(命)という名前をつけました。彼女がすべて命あるものの母となったからです。そして神さまはアダムとエバに動物の皮で衣を作って着せました。 神さまとの約束をやぶった人間ですが、神さまは、もうこんな人間なんていらない、この地上から消してしまおうとは思わなかったのですね。はずかしがる人間に、服を与えました。でも罰はあります。約束を守れなかったもう人間は信用されません。 「人間は神のように、善悪を知る者になった。今は命の木からも取って食べ、永遠に生きる者になるかもしれない」と言い、アダムとエバをそのエデンの園から追い出しました。そして命の木を守るために、エデンの園の東にケルビムときらめく炎の剣を置きました。
今日は朝からしずかな空気に満ちていた。 まわりに音がないというのはいつものことだから、わたしがことさら「しずか」と感じるのは心がしずかだったからに違いない。 久し振りにどこへも行かないひとりの日は心がしずまる。
まず、庭仕事をした。 夏の間に伸びワイルドな状態になってしまったハーブ類やアイビーの類を刈り込む。アンネのバラとアイスバーグの白バラの枝の剪定とか、いろいろ。 ほんとに猫の額ほどのちいさな庭だけれど、ここに育つ植物たちは詩的だ。わたしに管理などされてはいなし、よほど天国に近い。この空間を日常とは別の空間に変える。ちょうど切り取られた窓のようにそこからあちらの世界が見えているような気持ちになる。そんな植物たちに鋏を入れるわたしはいったい何者だろう。
次に、押入れから秋の衣類を出した。 今日のようにまだ半袖のTシャツ一枚で過ごす日が続くかもしれないから、夏物はすっかりしまってしまうわけにいかない。本格的な衣替えはまだ先。 もう何年も着てなくて、今年もとうとう着なかった夏服を今年こそは捨てようと袋に詰め込む。そうしておきながら、これがやっぱり捨てられないで、押入れの隅っこを占領するのだが。
遅い午後、武満徹の「骨月あるいは a honey moon」の3回目を読む。もともと骨が好きなわたしは、このタイトルから惹かれていたが、次第に深く魅了されていく。 書いた人が作曲家だからだろうか、ちょうど音楽にわたし全体が包み込まれ、 その音がなくなっても、その音の中に閉じ込められてしまうような音楽体験ととてもよく似ている。他のことをしていても、この白い月と骨のイメージが耳の奥で鳴り響いている。感想はまだ書ける気はしないけれど、骨に沁み込んでどうやっても離れることのない音楽のように、このストーリーも骨に沁み込んでいこうとしているのかもしれない。
その後に聖書の創世記1章から3章までを読む。 あさっての教会学校のテキストが3章の「蛇の誘惑」のところになっているからだ。 この物語はさまざまな事柄を含んでいるし、神学的にも、様々な角度から読むべき箇所だろうが、子ども達にはこの話のまんま、そこに登場するアダムとエバと蛇と神のそれぞれの言葉をその通りに伝えたい気がする。それだけで十分おもしろいからだ。その事が何を意味するかということは子ども達が何かの折に、また大人になってから自分で見つけるというのでいいのではないかしら。 わたしの仕事はその創世記の生き生きとした場面をそのままに取り出してみせること。しかし、きっとこれこそが難しい。 ところで2章の最後、自分のあばら骨から作られた女を目の前にしたアダムの言った言葉がとても新鮮に響いた。
人は言った。 「ついに、これこそ わたしの骨の骨 わたしの肉の肉 これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう まさに男(イシュ)から取られたものだから。」
こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。 人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。
(創世記 2章23〜25)
さて、アダムとエバ、ここまではエデンの園で平和な日々を暮らしていたのだが、ある日、賢い蛇がエバをそそのかす。
そうして夜。 晩ご飯はブリの煮付け、豚肉、もやし、にら、人参の炒め物、しじみの味噌汁。 日記を書きながら料理なんかするから、また魚を焦がしてしまった。
土曜日から日記がストップしている。 知らないうちに時が進んでいたという感覚。 それでいて、たとえば詩のボクシングの観戦とアイリッシュパブのことは、Kさんの言い回わしを借りれば。「ずいぶん前の思い出のようにじんわりと夢のように感じる」わけだし、つい3日目の「伊集の花」の合同練習とその後の極楽湯のこともさらに前の出来事のような気がしてしまう。 こうした時間の感覚のずれというのはいったいどこで生じるのだろうか。
わたしの場合、月曜日、火曜日、水曜日は全く仕事モードになる。頭は教材の事と授業の内容と生徒達の事。それだからこの三日間はその前の事がすっと遠ざかる感覚があるのだ。そうして水曜日の夜ともなるとやおら、その前の時間が戻ってきて繋がるといった具合。
さてこれから週末にかけては、ダンスの練習、教会学校の説教の準備、17日のゼミのテキスト(武満徹著「骨月あるいはa honey moon」)の読み込み。いやいやその前に家の回りの掃除と庭仕事があった。衣替えはどうする! う〜ん、時間が足りない。でも明日のジム日ははずせない。
とりあえず、さっさとお風呂に入って、さっさと寝ること。 明日早起きすれば、その分、何かを進められるかもしれない。
では、どなたさまもおやすみなさい。
この日、第5回詩のボクシング全国大会を観戦しました。
夏の最後の日、ゼミ仲間のKさんと川越まったりツアーをした際にお誘いを受けたのでした。 詩のボクシング、話には聞いていました。本屋でこの催しの仕掛け人、楠かつのり氏の著書も立ち読みしていました。TVで詩のボクシング高校生大会というのを見て、へぇ〜と驚くものがあったのですが、それを実際に観戦するチャンスが到来したというわけです。
観戦は午後2時から。きっと観戦するだけでも相当エネルギーを消費しそうな予感があったので、会場のイイノホールへ向かう前に、上野駅構内のアイリッシュパブでランチメニューをしっかり食べて腹ごしらえをしました。いえ、ここではまだビールは飲みません。
音楽会には音楽会の、ライブにはライブの、ダンスにはダンスのまた演劇には演劇の、客層というのか、そこに集まってくる人達がかもし出す空気があるものです。はたしてこの詩のボクシングのそれは今までに感じたそういう場の空気とはどれとも違っていました。ライブハウスなんかでのポエットリーディングなんかの雰囲気とは明らかに違います。あえて言えば、息子のバスケットの大会を見に行った時のあの空気や熱気に近いような・・。
すでにKさんは指定席に座って、探すわたしに手を振っていました。何とその席はほとんどかぶりつき。ステージの上にはボクシングのようなリンクが設えてあって、テレビ局のスタッフらしい人達がしきりに客席に向けてカメラを向けています。この試合はそのうちTVで放映されるらしいのですが、わたし達も映るかも知れません。鼻かんだりするとまずいかも・・・。 各県予選を勝ち抜いてきた代表選手16人の顔写真入りのトーナメント戦表を手に、スポーツ観戦などとは縁のないわたしでも、その熱気に取り込まれるような感覚がありました。
さて、ゴングが鳴り、いよいよ対戦。 自分の言葉で、自分の声で、自分の感性で勝負するわけです。 16人の朗読ボクサー達。10代から80代までの言葉と声と持ち味がそれぞれが全く個性的でまずそのことがおもしろい。 詩を文学的なところから味わうのとはもっと別の何か。その人そのものを味わうといった感覚。これはパフォーマンスそのものですね。パフォーマーがその3分間という短い時間の中で客席にいる人間の心をどれほど振幅させるか、その事が勝ち負けの鍵になっているのだろうと思います。
もちろん、それぞれの戦いを勝ち抜いてきた挑戦者たちですから、それぞれに良いものがあり心は動くのですが、その振幅の程度には差が生じます。わたしの場合、振幅度が並外れて大きかったのが長野県代表GOKU氏の詩の朗読でした。選ばれた言葉がくっきりした輪郭を持っていること。詩のリズムが変化に富み、全体として非常に心地良いこと。言葉を音声化する上での声の調子、スピード、間の取り方、それらが周到に計算され、練られ、また訓練されていて詩としても、パフォーマンスとしても完成度が高いのでした。 他の朗読者のようにテーマや内容が心情的にぐっとくるというのではないのですが、可笑しく、またクールな内容の詩であるにもかかわらずどれにも思わず涙が出ました。これはわたしの心が強く動いたせいです。
さてやがて決勝戦。 長野県代表GOKU氏と北海道代表の橋崎氏の対戦。二人とも30代前半の男性、しかし詩も持ち味も全く違う二人の対戦。 最終戦は2ラウンド。1回目はそれぞれが用意してきた詩の朗読。2回目はその場で出されるお題による3分間の即興詩の朗読です。それにしても即興詩の朗読とは何とスリリングな・・・。
GOKU氏は3回戦ともテーマは「虫」。最後の詩はトンボを題材にしていましたが、トンボと宇宙とがつながり、最後の朗読に相応しい広がりを持っていました。また即興詩の方は、お題が「ペット」だったのですが、やはり「虫」をテーマにして、苦戦しながらも、言葉が平易な言い回し、ありきたりの表現にならないよう、その瞬間、瞬間で言葉を選び探し出そうとしている様子が伺え、そのことがパフォーマンスとしても面白かったのです。これまでの3回の詩を微妙につなげ、そこに本音を混ぜ、最後のオチにいたるまでかなり頭を使った即興詩でした。
一方橋崎氏は3回とも、ダメキャラを全面に出した「それでもがんばっている」という心情に訴えるものでした。そして即興詩のお題は「ペットボトル」。彼はもう最初のところで、このテーマで即興詩を作るのは無理だとあきらめ、「こうなったらもう試合でなくってもいい!」と、言葉での対戦をある意味降りてしまい居直りを顕にしました。そしてそのリングの上で身振り手振り、彼の持っているすべてを用いて3分間のパフォーマンスを果たしたのです。使われる言葉は「ペットボトル」のみ。観客にはそれはウケているようでした。人の良さや自分をそのまんま観客の前にさらけ出しているところが人を惹きつけたのでしょうが、わたしはそこのところがクールなのでしょうね、あまり心は動かない。逃げるな、言葉で勝負しろ!という気持ちになってちょっと白けたりしているわけです。
果たして勝敗は! 7人のジャッジの内、5人が橋崎氏を挙げ、チャンピオンは橋崎氏に決定。 ちょっと残念。 でもこの「詩のボクシング」がそういう性質の大会ということなのでしょう。最後はその人間の持っている生命力のようなものが勝敗の鍵になるという。
帰りはお風呂に行くかもしれないと、Kさんもわたしもしっかりバッグにタオルを忍ばせていたものの、観戦にはやはり相当エネルギーを消費し、都内のお風呂屋を探す元気がもうひとつ足りませんでした。わたしの場合。またこの観戦のことをKさんとゆっくり話したいという気持ちが強かったので、そのまま池袋へ。たりたさんが好きそうなところよとKさんが案内してくれたところはアイリッシュパブ。はい、文句なく好きな雰囲気です。ちょっと薄暗い店内のアンティークな感覚のテーブルや椅子。黒ビールにフッシュ&チップス。アイルランドの家庭料理やサラダもうれしく、気軽なおしゃべりの中で、さっきまでの手に汗握る緊張がほぐれてゆきました。 あぁ、楽しかった!
さて、今度は観る側ではなく、観られる側。 今日受けたのパフォーマー達のエネルギーをしっかりチャージさせよう。 ここで得たことがステージにつながる気がします。 「伊集の花」の中でのダンス、「インディアンの教え」の語りの部分。自分を他の人の前で開くということ、相手の心を開くということ、そこに起こる何か。
さて、練習モードへ変換! 今日(書いている今は10日の正午過ぎ)はこれから夜まで合同練習です。
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とどめ刺せとどめ刺せてふこゑひびきつつ秋茄子の傷ある紫紺
塚本邦雄
今日は秋茄子を料理した。 小ぶりの茄子の光った紫紺の皮に包丁の先を突き刺し、すうっと半分に切り分ける。さらにその半分の茄子の真ん中に包丁を入れ4つに割る。 何のことはない、いつもの台所での所作だ。ところがつい先ごろ上記の歌を知った後ではその所作が痛い。 もうこれから先わたしは無邪気に秋茄子を切り分けることができなくなるのではないだろうか。
この歌を詠んだ歌人が傷のある紫紺の茄子に見たのは十字架の上のイエス!瞬時にやってきたインスピレーション。どこか見えないところからそのことを告げる声が聞こえてきたようにも思える。
あの時傷ついたイエスはイバラの冠りをかぶせられ、紫色の衣を掛けられ、「ユダヤ人の王」と書かれた札を付けられ、唾され、ののしられ、とどめ刺された。 秋茄子のへたのいがいがはイバラの冠のように見えないか。
わたしは短歌というものが少しも分からない。おおよそ味わい方も詠み方も知らない。それなのに、この歌人の詠む選ばれた言葉のひとつらなりが心のずいぶん深い層に入り込んできては、その人の世界を押し広げ、さらに、生き物のように動き始めている。 しかし、それが何を意味するのかわたしはまだ分かってはいない。
その歌人の事を教えてくれた詩人のK氏は歌人とわたしのこういう出会いをどこかで予想していたのだろうか。
現代詩人文庫「塚本邦雄歌集」国文社、ここ2、3日、この歌集のいくつもの短歌の間を行ったり来たりしている。 歌人の歌を通して、すでに見てきたイエスをまた見る。 これほど真近でイエスを見ていただろうか。 イエスだけではない、他の歌もまた。自らの「空洞」になんという接近の仕方だろう。
9月30日から我が家に滞在していた義母を送っていった。と、言っても羽田空港までではなく渋谷駅まで。 そこで義母は女学校時代の友人2人と会い、今日はその友人の家に泊まり、明日そこから空港に向かうことになっている。お友達が空港までは見送って下さるというので、お願いすることにした。 今日は昔馴染みが4人集まることになっているらしい。みなもうすでに未亡人になっており、義母がやっと仲間入りしたことになるらしい。今までは義父がいたので泊りがけで会うこともできなかったので、友人の家に泊まるのは今度が初めてということだった。
それにしても遠くに住みながら、10代の時の友人達と60年近くも付き合いが続いているというのは素晴らしいなぁ。 最近会っていない友人達の事をふと考える。 新しい人達との出会いはすばらしいが、かつて結んだ関係を何かの折に結びなおすという作業も怠ってはいけないな。 メールを下さる人達にはすぐに返信するというのに、夏にもらった葉書や手紙の返事をまだ書いていないことを後ろめたく思う。きっと今週中に。
一昨日は、義父の従妹にあたる親戚のKさんが訪ねて下さり、話に花が咲いていた。初めて聞く義父の生家のことなど興味深い話を聞いた。Kさんは芸大を卒業した後、長いこと地域の児童合唱団の指導やママさんコーラスの指導、本格的なアカペラの女性合唱団の指導に当たっている。税金で学ばせてもらったのだから、学んだ事を地域に還元していかなければと思って始めたという。30年あまりの間、児童合唱団の指導は無料奉仕でやってきたというのだから本当に頭が下がる。
昨日は午前中、義母につくしんぼ保育室で「幼児とお母さんの英語教室」を見学してもらった。 この日はもうじきハロウインなので、DRY BONESというゴスペルソングを踊りながら歌うという場面があったのだが、昔ボニージャックスとかが歌っていたこの歌の出典は旧約聖書のエゼキエル書の「枯れた骨のはなし」。聖書の話をわかりやすく再話したものと歌詞の和訳をお母さん方に配って説明したが、聖書に詳しい義母は興味深い様子だった。 エゼキエル書のこの話もおもしろいが、この歌は歌詞といい半音階づつ上がったり下がったりする旋律といい実におもしろい歌だ。この歌を毎年10月のクラスで歌うのだが、子ども達にはとても受けがいい。しかも身体の部分が順番で出て来るところや同じフレーズがくり返されるところなど、まるで英語の教材の為の歌じゃないかと思うほどだ。
クラスの後、我が家から歩いて数分のところにあるギャラリーカフェで食事をする。このカフェは季節の木々や植物が自在に育っている広い林のような庭の中にある。カフェのテーブルからは外の木々や植物を楽しむことができる。今の季節は紫式部や萩の紫や赤紫が美しい。 義母はこのお店がとても気に入ったようだった。 ランチのきのこがたっぷり入ったのバターライスと白いんげん豆とシーチキンのサラダ、そしてサツマイモとかぼちゃのソテー。デザートはいかにも家庭的なりんごとヨーグルトのケーキ。 午後は3クラス分の仕事があるので、その間は義母には一人で家にいてもらった。夕食には野菜をたくさん入れてほうとうを作った。
一日川越へ行き、昔ながらの通りや蔵などが残る町を案内するつもりだったが、義母が遠出はしたくないというので行かずじまい。また今度の機会に。 特に病気はないのだが、やはり70代後半になると、何をするにも疲れてくるのだろう。 加齢するということがどういうことかこの25年ほどの親達の変化を見るとよく分かる。わたしたちもこれから25年間もすると親達のこの地点へ来るのだ。いったいどのような70代を過ごしているのだろう。そもそもそこまで生き延びているかどうかだが。
2005年10月03日(月) |
空洞が見えている人たちと |
昨日の日記で「伊集の花」の登場人物やダンスの仲間の事を書いた。 今日はメールをくれた文学ゼミで出会った友人達のことを考えていた。 そしてはっとその人たちに共通することが見つかった。 わたしが心引かれ、また心開かれる人たちに共通するものは「求道心」ではないかしらと。
今ある自分のところに停止していない。すでにこうだと物事に答えを出していない。悩むにしろ探すにしろ信じるにしろ、より先にあるもの、目には見えないものを見つめようとしている人たち。眼差しが遠くへ注がれている人たち。
そしてそのことはこの前から気になってしかたなかったバルトの指し示す「空洞が見える人間」ということと不思議に呼応する。 今日はどうしてもその事を書いておきたい。
これはバルトが新約聖書のローマ書1章の11節から12節までを引用して、講解をしている箇所の中にあるのだが、バルトはこう語る。
神の道において出会う人たちは、互いに分かち合うべきものを持っている。ある人は、他の人にとって何ものかでありうる。しかしもちろんそれは、彼がその人にとって何ものかであろうと意志することによってではない。だから、たとえば、決してかれの内面の豊かさによるのではない。かれが現にあるところのものによるのではなくて、まさに、かれが現にないところのものによって、彼の欠乏によって、彼の嘆きと望み、待つことと急ぐことによって、かれの存在の内にあって、かれの地平を越え、かれの力を越えるある他者を指し示すすべてのものによってではある。使徒とは、プラスの人間ではなく、マイナスの人間であり、このような空洞が見えるようになる人間である。・・・・・・・
<冨岡幸一郎著「悦ばしき神学」―カール・バルト「ロマ書講解」を読む よりp101「空洞が見える人間」より抜粋>
空洞が見える人間、マイナスの人間、つまり求道者。 「あんたが大将」と揶揄されることのない、自らの欠けを自覚する人。「無」の人。―神はその人を通して恵みを与える。 宗教者であるとかキリスト者であるとかといった範疇をそれは越えている。 そういう「空洞が見える人間」と何かを創り、また意見を交換し合うことができることを在り難く思う。 わたしもまた「空洞が見える人間」でありたいと願う。
芝居ダンス「伊集の花」の合同練習の日。 礼拝の後、電車で練習会場の公民館へ出かける。滞在中の義母に練習風景を見せるというのがわたしの考えだったが、実の息子は何としてもそれだけは避けたいらしい。ま、義母も昨日の遠出でかなり疲れたようで今日は一歩も外へ出たくないというので、礼拝の司式の担当になっていたこともあり、わたしだけ教会へ行き、その後練習へ。mGは実母と家にいて、昼食と夕食を母親の為に整え、夕方6時に練習へ合同。
さて、公民館のフロアーは沖縄へと向かう船のデッキとなる。 色々な人間模様・・・ で、mGは一升瓶を抱えて海を見ている酔っ払い。わたしはというと本を読む女性。5人子どもを連れて沖縄へキャンプへ行こうとしている。インディアンの教えを主人公の伊集と掛け合いで言ったりする。
人間・・・ここにいるのは人間。人間とは人と人との間で生きる存在だった。人間でありながらどこか人間であることを忘れていたことに気づかされるほど、劇の中の人間は人間らしいと思える。
ひとりでは決して創り出すことのできない世界がそこに生まれる。人と人との間に行き交うものがうねりのようなものを孕んで立ち上ってくる。このものに名前を付けるとしたら、やはり「愛」という言葉以外にはないと思う。
最後の伊集の台詞「新しい命が・・・・咲きます」のところで思わず涙がこぼれる。当然最後の踊りは涙を溜めたまま踊ることになる。ふと見るとあそこにもここにも泣き顔。 お互いの間に流れ合うエネルギーはそれぞれを取り巻いて大きく美しい光りとなって天井を抜け、空高く広がっていたに違いない。
さっきからずっと、日記を書くべくPCの前に座っていたのですが、今夜は時間切れです。明日は早いので。
なにを悩んでいたかというと、バルトモードで書くか、嫁モードで書くか、あるいはまったく関係ないことを軽〜く書くかで迷っていたのです。
ともかくも、10月が始りました。 今日は夕日がとても美しく、下の方が赤く照らし出された雲の波がなんとも神秘的でした。 あの雲を見ていると天国がないはずはないという気持ちになりました。
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