たりたの日記
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2005年08月31日(水) 8月最終日

一昨日は4時起床、昨日は5時起床で、朝の一時間、庭の手入れをした。
デイキャンプの3日目は気持ちがゆるんだのか、あるいはリラックスしたのか、今朝は6時半まで熟睡。

それでも家を出る9時半までには十分時間がある。
シャワー、洗濯、掃除、メール等チェック。

子ども達は最終日の今日も一人も休まずにやってきた。
ほぼ計画通りに進む。ゲームは子ども達の様子を見て、多分に即興で。瞬く間に90分経過。あわてておやつの時間を取る。おやつはアイスキャンディー。これだったら小麦粉のアレルギーがある子も大丈夫。

おやつの後は英語でエアロ。
他のゲームやチャンツでは比較的シャイだった低学年の子達がノリノリで体を動かしている一方、今までリードを取っていた高学年は動けない。楽しくまたうまく身体を動かしている小さい子達を前にして、はずかしい、できないとひるんでいるのだろう。わずか3、4年の違いでも、大人に近くなるからだろうか、新しい事に身体ごと飛び込んでゆく事がうまくできないのだなと思う。
低学年のクラスには英語でエアロをもっと取り入れてもよさそう。


12時、キャンプ終了。その後、低学年3人の子達は残って、つくしんぼ保育室(わたしの英語クラスはここの2階を借りてやっている)の若い保母さんのYちゃんからエイサーの太鼓の手ほどきを受けていた。今日で今日で5回目らしいが、なかなかのもの。
昨日は子ども達の太鼓に合わせて、エイサーを踊ったりしたが、今日は午後から英語学校の仕事があるので、早々と家へ戻ってきた。
太鼓の音とYちゃんの張りのある掛け声が、家に帰ってからも聞こえている。家10件分は離れているのに、何と通る声なのだろう。

午後2時に家を出て英語学校へ。打ち合わせと準備
4時から 幼稚園年長児のクラス。
5時から6時半。来週の準備と打ち合わせ
6時半から8時半まで、リサーチのため、一人で近くのカラオケ屋へ。
来週から始る「英語で歌おう」の教材がカラオケでどんな具合か調べるため。今回のクラスは受講者のリクエストもあって、英語の歌をカラオケでうまく歌うというのも、目標のひとつだからだ。まあまあ収穫あり。

10時半、同居人と待ち合わせて帰宅。
友人のYが届けてくれた収穫したばかりのだだ茶豆とモロッコインゲンを山のように茹で、焼酎の水割りで。あまりに豆がおいしくて手が止まらない!
今日のお酒は大分麦焼酎「荒城の月」。同居人は日本酒。

とこういう具合に8月が終わった。
さて時計は12時を回ってしまった。寝るとしよう。明日は目標6時起床。


2005年08月30日(火) 英語サマーデイキャンプ

29日、30日、31日の三日間は英語クラスのサマーデイキャンプ。
キャンプとは言っても午前中のみ三日間のイベントだが、何しろ今年初めての試みなので、この日を迎えるまでは、けっこうプレッシャーがあった。プレッシャーを感じながらも、一旦始って、子供達を迎えたら、パチンとスイッチが入って、楽しい気分でやれると経験から分かってる。

でも、ね、何でもそうだけれど、始まる前というのがしんどい。
昨日は朝4時起床で最終チェック、加えて掃除と昼食の準備。
キャンプの会場は我が家ではないのだが、午後は手伝いに来てくれるネイティブの英語教師のAを家に招くことになっているのだ。

早々と用意が整い、9時過ぎには無事、駅にAを迎えて、いざキャンプ。
小学校1年生から5年生まで14人の子が集まってきた。歌を歌った後は、ひとりづつ、英語で自己紹介。Aに質問したり、Aから聞かれることに答えたりという自己紹介タイムが30分。
その後はわたしのクラスとAのクラスに分かれ、いろいろな活動。Aはツイスターという体を使うゲームをしたらしい。
おやつは梨とせんべい、Aが持ってきてくれたアメリカのガミーベアというグミキャンディー、ウーロン茶、オレンジジュース。

二日目の今日は、外での活動。
キャンプの会場になっているつくしんぼ保育室の後ろに広がっている梨畑でエルボータグというおにごっこの変形やフリスビーサッカーをする。こういう遊びは、チャイルドケアセンターで働いたことのあるAならでは。
青春時代どころか、児童期に戻ってわたしも子どもたちといっしょに遊び興じる。
おやつは、わたしが宮崎から持ち帰ったお土産や、生徒達が持ってきたお土産のクッキーやケーキ。ウーロン茶、スポーツドリンク、カルピスウォーター。

さて、キャンプは後一日。明日はわたし一人だけでやることになっている。
縦割りの3グループで、英語に関係するゲームをやる予定。
英語の絵本や歌、お話。普通のクラスではないから、教えるというところより、楽しませることに主眼を置く。子ども達の反応を見ながら、動くことにしよう。なお先生の即興のラテンやエアロのリード、あのノリだな。
ん、エアロビもやろうか!


2005年08月27日(土) 8月最後の土曜日

8月という月は一年のうちでも特別な月だ。
昔からそうだった。8月には何か起こる。
サマーキャンプ、合宿、研修会、里帰り、同窓会と非日常の中で、普段とは一味違った人との出会いをする。
そういうような夏は子どもの頃や若い時だけと思っていたが、案外そうでもない。青春はある意味、死ぬまで続くのではないかと、近頃しきりにそんな気がする。

その8月がもう終わろうとしている。
今日は夏休み最後の土曜日。ここで遊ばねばとみな覚悟を決めて遊んだのではないだろうか。
さて、ダンス仲間は、都内のあちこちで熱い踊りの輪の中にいたはずだ。浅草サンバ、南越谷の阿波踊り、そしてどこだったかな、よさこい。日本中で見てみれば、さまざまな踊りの渦が起こったことだろう。

わたしは踊りこそ踊らなかったけれど、充実した夏休みの最後を過ごし、十分なリフレッシュができた。
さあて、仕事も、ダンスも、読み書きもがんばるぞ。あ、そう。本業の主婦のお仕事も。
この夏に摂取した栄養が秋の実りになるといい。

いろんな人にありがとう!


2005年08月26日(金) 野分去り花金の駅友を待つ

というわけで、花金の今日、1年振りに友人のJと会い、居酒屋へ。
あっという間に3時間半が過ぎていた。
今週は1週間どこへも行かずに家の中だけで過ごしていたから、久し振りに外へ出て、人の多さに驚く。
この居酒屋はしっとりと静かな感じだったのに、PTAの集まりのように、やたらと女性の団体客で何とも賑やかな事だった。

実は木曜、金曜は、ギターをかかえて、友人Yの畑がある軽井沢に採れたばかりの枝豆を食べに行く予定だったが、台風のために延期となる。

この2日間はぽっかり空いた、何も予定のない日だったが、夏季キャンプの準備やら、新学期の用意、教会学校の話の準備に、ダンスの練習と、やるべき事が次々と押し寄せてきた。

子供達といっしょだな。夏が終わるという時になって、あれも、これもと課題を思い出す。
そうそう、子育て中は、夏の終わりは宿題の自由研究や工作を仕上げさせるべく、ドイトに走ったりしたっけ。

あぁ、眠い。またあした!



2005年08月25日(木) 「伊集の花」の音のこと

8月14日の日記で、演劇とダンスのコラボレーション「伊集(いじゅ)の花」のことに触れた。これは10月23日に発表することになっている、ダンスチームM's Party のエントリーだ。
あの時は台本をもらっただけだったが、火曜日にこの30分のステージの音をもらった。この音の構成、選曲も台本を執筆したH氏による。


M’Sの掲示板でH氏は「伊集の花の音は、膨大な候補からピックアップした楽曲や効果音など100余りの音が重なって響きあってできています。・・・今思い返すと何かに突き動かされるかのように生まれた30分余りの音・・・」とコメントしている。また、台詞や状況に怖いほど呼応し、音が息をしていると。

本人が何か怖いような気もすると言っているが、実際、その音を聞いた時、それは音以上のものとして、ストレートにわたしの内側に入って来た。入ってきたというよりは隠されていたものが皮膚の表層に滲み出してきたような、それこそ恐ろしいような生々しさを覚えた。
この生々しさというのは音そのものの生々しさではない。記憶の生々しさだ。その歌が、それを聞いていた時の心の状態をいっしょに焼き付けていたことを知らされる。
子供時代、生きている事の意味が不確かで、不安や空虚感にさいなまされていた(このことすら、その時には気づいていないのだが)時、、そんな気持に共鳴する歌を、心は鋭くキャッチして自らの身体に刷り込んだのだろう。

「ダッタン人の踊り」、坂本九の歌う「ともだち」、「老人と子供のポルカ」、「ヨイトマケの歌」・・・
不思議なのは、その歌を今の今まで意識に上らせることが全くなかったということ。
なつかしがって、繰り返し甦らせていた歌ではない。むしろ、意識的に封印していた歌だ。これらの歌や曲が同時に焼き付けた感情をわたしは思いだしたくなかったのだろう。

しかし今のわたしは、甦ってきた歌をなつかしく受け止めることができる。
今はそういう虚ろさを通り越し、確かな足取りで地を踏みしめていることに気づかされるからだ。
時代に育てられてきた。時代の中を潜ってきたのだとしみじみ思う。

「伊集(いじゅ)の花」の主人公、伊集は、封印されていた母親の過去に向かって旅する。
そうして、この話の最後ではその旅がきっかけになって出会った女性との間に新しい命が芽生えたことが告げられる。
過去が未来へと繋がる。死が命へと接木される。

「終末からの出発」、これはわたしの本を読んでくださったFさんの感想の中にあった印象深い言葉だが、このストーリーと音の中に、終末が包含する新しい命のことを思った。

さて、これはどの様な舞台になることだろう。
今、舞台監督と振りつけをする奈央せんせいの内側ではインスピレーションの波が渦巻いているように見受けられる。
過去と今と未来を見通すようなそんな世界が出現するような気がする。
わたしはステージの上で新しい体験をすることになるのだろう。


               *

お近くのみなさん、ぜひ10月23日、熊谷ホールへお越しください。
詳しい時間やチケットのことは分かり次第、掲示板でお知らせします。

なおM's Partyの単独発表会(9月19日 午後2時より 宮原公民館)
あゆみの箱秋のステージ(11月5日午後12時30分より さいたま市文化センター)にいらっしゃりたい方、チケット(無料)お申し出下さい。
あまり枚数がないのでお早めにご連絡くださいね。



2005年08月23日(火) 痛む膝忘れて踊る月うさぎ

実は昨日から左の膝を痛めてました。
普通に歩くとなんでもないんですけど、階段を登り降りする時に、ステップを踏んだ瞬間にズキッと来るんです。だから昨日は一日手すりにつかまって、右足でケンケンしながら階段の登り降りしてたんです。

こまったなぁ。ステージがあるというのに。
29日から31日は英語クラスのデイキャンプだし。
いったいどこで痛めたんだろうな。
山か、酔っ払って踊った時か、あるいは、昨日畳の上で練習した時?
準備運動もなし、靴も履かないで踊ったから膝にきたのかなぁと後悔しきり。

で、今夜のなおせんせいのジョギングエアロはなんとしよう。
このクラスは7月いっぱいでおしまいになるみたいだから、後2回しかチャンスがない。別にステップ台やるんじゃないから平気じゃないの、もしかすると激しくくるくる回ったりしたら膝がびっくりして治るかも、と、実に身勝手な理由をくっつけて出かけたのでありました。

エアロの前は、膝をかばって遠慮して動くつもりでいたのですが、何しろ、そのビートに煽られるでしょ。目まぐるしく右に左にくるくる回っているうちに膝の事などすっかり忘れてしまっていました。

家に帰って、階段をタタッといつものように駆け上がってから気がつきました。

「あ、痛くない。治ってる!」

ほんとよ。

ダンスは膝の痛みに効くみたいです(そうかなぁ)


2005年08月21日(日) 飲み語り笑い踊りて晩夏ゆく

ここへ来るまで、宴会なるものとはなぜか無縁に時が過ぎた。
学生時代の4年間と教員時代の2年間はそういう機会も無くはなかったが、その後20数年は子育て中ということもあり、またお酒も好きではなかったから、宴にはさっぱり縁がなかったのだ。

時は巡ってくるものである。
わいわいと仲間で飲む。飲んだ勢いで踊り、立ち上がって歌まで歌ってしまうわたしを別のわたしがあきれている。あきれながらも、今までやり残した事をやって辻褄を合わせをしているのだろうと、どこかで了解している。

そう、長い人間の歴史の中で、人は集い、酒食を共にし、歌を歌い、踊りを踊ってきたのだった。これは新しいことではなく、古からの習慣。大切な人の営み。この歳でそのことの楽しさを知ることができてよかったことだ。

それにしてもこのM'Sのダンス仲間は実に個性がくっきりとしている。それぞれが際立っていると言っていい。一人として○○風というのがないのは、それぞれが仮面を取っ払った素顔で対面しているからなのだろう。
それぞれの個性がおいしい料理になり、愉快な語りになり、美しい音楽になり、熱狂的な踊りとなる。その色合いも微妙で深みがあり、心に沁み込んでくる。
子供達は実に子供らしく遊び、また踊っていた。彼女たちしか持っていないエネルギーは見ているだけで心地よい。

こうして少し時間が過ぎてみると、楽しんだのが人の持つ色、エネルギーだったという事がよく分かる。自分の持ち物ではないエネルギーに接触し、心に様々な変化が起こっていることに気づく。

さてこの夏に予定していた大きなイベントが終わり、夏が逝こうとしている。


2005年08月20日(土) ザッとくる雨もよきかな茶臼岳

昨日から今日にかけて、同居人とわたしは、ダンスチームの那須合宿に参加した。
合宿という響きはいい。中年の我々にはおおよそ縁がない、遥か昔の青春時代の言葉だ。けれど、昨日は、青春時代に帰ったような楽しさがあった。飲んで踊って吐いてさらに飲んで踊るなど若い頃でさえやったことはなかった。

合宿のスタートは茶臼岳行きから。山隊は合宿参加者24人の内、16人。7歳から65歳までという幅の広い年齢層。ちなみに我々は2番目と3番目に年長という事になる。

那須山麓駅から1時24分のロープウェイに乗り込み、わずか3分ほどで、標高1690mの山頂駅へ到着。ここはすでに茶臼岳の9合目近く。思ったよりも大きく、どっしりとした山がすぐ目の前にそびえている。そこから臨む、スパンと開けた感じが清清しい。

活火山の茶臼岳は、ちょうど阿蘇山のように、木々も草もない火山礫を登ってゆく。はじめはざらざらとした砂礫の斜面を登りで、そのうち登山道はごつごつとした岩石となり、浮石に気を付けながらよじ登るといった感じで進んでゆく。
ほどなく山頂。
生憎の曇りで周囲はガスに覆われてはいたものの、それでも山からの眺めはすばらしく、何より、茶臼岳そのものがとても美しい山だった。

阿蘇の時の一人の山も良かったが、こうして大勢の仲間といっしょに登るというのも心楽しく得難い体験。小学1年生のMちゃんも、3年生のAちゃんも、先頭をお猿のようにすいすいとよじ登っていく。最年長者のKさんも、始めは登らずにロープウエイのところで待っていると言っていたが、何の支障もなく山頂へ。

しかし、山頂に着くやいきなりの雨。
そこでお昼のお握りなど食べる予定だったが、集合写真をカメラに収めるのがやっとで、そのまま下山。 始めはぽつぽつだった雨はじきに雷を伴う、スコールのようなどしゃぶりに変わる。わたしは上だけは雨具を着たので濡れずにすんだものの、下はズボンもトレッキングシューズもじゅくじゅくに濡れる。
メンバーの多くは雨具の準備がなく、みんな濡れ鼠となって下山。それでいて「この雨がいいね」「なかなか出来ない体験をしてるね」とあくまでポジティブ。

ロープウエイは雷のため運転を見合わせているので、我々は他の多くの登山客とともに、しばらく駅に閉じ込められる。各自お握りなどを食べ、3時半頃運転を開始したロープウエイに乗り込み、ようやく駐車場。合宿場になっている
貸し別荘へ。
ずぶぬれになって散々なはずなのだが、みんな晴れ晴れとしている。
雷はちょっと怖かったが、山で雨に降られるのも、なかなか良いものだったと思える。


後日、Nさんの日記を読んでいて、甦ってくることがあった。
それは、山頂の手前、朝日岳を横に見ながら上っていた時のこと。
「あっ、音が無い!」
とNさんが言った。
瞬間、はっとするような完璧な静寂の中にストンと落ちるのを感じた。
無音の音とでも言えばよいのだろうか。
その「無音」を掴んだ瞬間、さっとかき消えてしまったのだが、それ故に、それがやってきたことを知った。あたかも何かの啓示のような「なにか」は身体の深い部分に降りてきて、今でも留まっている。


2005年08月19日(金) 新型の冷蔵庫なり奇音たて

後になったが、このことを記しておこう。
今日冷蔵庫を変えた。

アメリカから帰国してすぐ、まず買ったものが冷蔵庫だった。
狭い社宅の台所に押し込むためには58cm×58cmのマンションサイズ。
アメリカのキッチンにあったものの半分の大きさ。
その冷蔵庫は散々な酷使にも耐え、我が家4人の食料を12年に渡りキープし続けてくれた。
新しい冷蔵庫が来る朝、古い冷蔵庫を拭きながら、お礼を申し上げる。
ちょっと涙も出る。長かったものねえ、付き合いが。

さて、新しい冷蔵庫が無事、我が家の台所へ収まった。
新型の冷蔵庫は至れり尽くせりである。
話には聞いていたが、魔法のポケットよろしく、氷がなくなれば、自動的に氷を作ってくれる、実に感心な冷蔵庫だ。
アメリカの冷蔵庫は子供が丸ごと入れるほど大きくても、魔法の氷ポケットはついていないに違いないと勝手に優越感を抱く。

冷蔵庫を入れるに伴い不要なものを処分すると、台所はいかにも機能的な、まともなものに変身した。人間らしい暮らしになったねと冷蔵庫からビールを取り出す度に同居人も感心する。
今までは何を入れるにも取り出すにもゴソゴソと隙間を作ったり、探し出したりという行為が伴い、おおよそスマートではなかった。

さて、冷蔵庫がはじめてやってきたその夜。深夜の台所からゴトゴトという奇妙な音がしてぎょっとした。聞いたこともない音だったからである。
ほどなく、音の主が判明した。ようやく準備が整い、氷を製造し始めた冷蔵庫が出来上がった氷をケースに落とした音だったのだ。
二人して初氷にニンマリしたのは言うまでもない。


2005年08月17日(水) Hと会う

この春から都内のアパートで自活を始めた長男のHと新宿駅で待ち合わせた。
Hに会うのは5ヶ月振りだ。これほど長期間顔を見なかったというのも考えてみれば初めての事だ。

ま、いろいろと書きたい事はあるものの、本人のプライバシーの問題もあるので、彼の近況や風貌、その他もろもろは書かずに、胸の中にしまっておこう。
そう、このことだけ。

「で、君、これからどういう風に生きていこうとしているの」
と、レストランで食事をしながらわたしは聞いた。
それを聞きたいと思ったわけでもなく、大学卒業を前に一足先に社会人を始めた息子に、親として聞いておくべき事なのだろうと思ったからだ。

Hは躊躇なく言った。
「毎日笑顔で暮らすことだよ。で、ぼくのまわりにいるやつらをハッピーにすること。隣人を愛すること。教会に行かなくったって、キリスト教の精神で生きてるって」

何事もすぐに信じてしまう母は、
「それで安心した。それが一番良い生き方だと思うわ」
と、なんとも平和な母子の会話をしたのだった。 

その後、Hの言葉をずっと反芻していた。
食べていくための仕事の事、これからの人生設計の事、なんとか人並みにあって欲しいという、言ってみればこの世的な親の願いをかわされた。そんな事よりももっと大切な事があるでしょうと。
確かにその通り。Hの答えに文句のつけようはない。
けれど、果たしてどこまでが本心なのだろう。
彼は、こういう答えをわたしが好み、また安心し、さらには二の句が継げないということを、わたしの息子としての長年の勘で心得ているはずだ。

ま、いいでしょう。Hが日々を笑って生き、自分のまわりにいる人達を精一杯愛して生きていると信じることにしましょう。


2005年08月16日(火) 「脱力」とひとりごと言い蝉を聴く

これから汽車に乗って空港まで行かなくてはならない。
わたしのいる駅はどうやら子供の頃のふるさとの駅なのだが、わたしはすでに大人で、海外へ旅行しようとしている。
もうじき汽車が来る。その時になって、わたしは訪ねる友人に持ってゆくお土産を買い忘れている事に気づく。どうしよう、駅前の和菓子屋さんへ走って買ってこようとバッグを開けるとお財布はおろか飛行機のチケットもない。そんなはずはない!とわたしは青くなってバッグをごそごそと探し始める。どこを見てもない。絶望的。その半ばで目が覚める。まだ意識はバッグを探しているパニックの状態のまま。
「あぁ、夢だった。」
身体の緊張が解けるのはそれからしばらくしてからである。

いったいわたしはこの手の夢をよく見る。探すものが出てこない。時間に遅れる。約束に間に合わない。
日頃表層には出てこなくても、わたしはかなり恐れや不安、心配といったことに縛られているということなのだろう。

これはわたしが生まれ持って抱えている遺伝子によるものなのか、それとも子供の頃の環境から作られた性格なのか、わたしはぼおっと抜けている一方、がちがちに緊張し、力が入るというやっかいな性質を抱えているようだ。

さてこの解決作なのだが、大きくわけて2つある。
一つは不安の原因になっている事を取り除くべく、行動する。わたしが今朝どうしてこういう夢を見たかそれはもう明らかだ。夕べ寝る前に書いた日記、わたしの眼の前にある課題が手付かずのまま置かれているというのが原因だ。それをひとつづつ片付けていく事で緊張の度合いも緩くなっていくはず。今日は一番やりたくない、台所周辺の大掃除をやっているところだ。今日のうちにはなんとか終わるだろう。
今週のうちには、9月ステージのダンス4曲をなんとか悪夢を見ないところまで、覚えて踊れるようにすることだ。それでかなり心は軽くなるはず。2学期のクラスの準備だって、まだ十分時間はあるではないか。

もうひとつはわたしが不安に思っている、その気持ちを縛っている紐を緩めること。つまり「脱力」。
前回「脱力の人」の序文から引用したが、なすがまま、あるがままの自分を受け入れること。Let it be のおまじないを効かせる事。あせっても、不安にかられても、わたしが出来ることしか出来ないという事を悟ること。
しかしこれが難しい。「脱力の人」を熟読し、Let it be を歌ってみても、
なかなか我が身にこもり、心を硬直させる無用の力は抜けないものである。
しかし、この力を抜くという行為こそが今のわたしの最大の課題という気がする。ここはなんとか乗越えなければ良い晩年は望めない。(ちょっと飛躍しすぎですかね。)

あぁ、だから究極の脱力の達人たちをわたしは羨望する。
脱力ということを突き詰めれば、キリスト教で言う、己に死ぬこと、自分を愛するごとく隣人を愛することにまで行き着くように思える。そのあたりはまだ十分に考えがまとまってはいないけれど・・・
今はまだ片付けの半ばなので落ち着いて思索ができない。「脱力の人」を読んで学んだ脱力の達人たちについての感想は日を改めて書くことにしよう。

さてさて、この午後も我が身に脱力を言い聞かせつつ、あせることなく、鍋やら食器やらひしめく不要物と格闘するとするか。

          *

夕方。大きなゴミ袋4つ分に鍋やプラスティックの容器などの不燃物。ようやくお仕事終了。ふうっ。
冷蔵庫の横においてあったライスストッカー付きのレンジ台をまるごとどかしたら、台所のスペースが広くなって信じられないほど動きが楽になった。
いらない物を捨てると、心がずいぶん軽くなる。この家のあちこちにあるいらない物をすっかり無くしてしまうと人生変わるような気がする。
今年こそやろうかな。出て行った子ども達の部屋もすっかり空っぽにして、生活するのに必要な厳選したものだけを置くというそんな暮らし方がしたい。


2005年08月15日(月) アイリッシュクリームと豆乳のカクテル

この前の水曜日に荻窪のバー、ウエルに行った事は書きましたが、あそこで飲んだアイリッシュクリームと豆乳のカクテルにすっかりハマっています。
これおいしいです。試してみてください。

アイリッシュクリームが切れたので、今日は「やまや」でBAILEYSというアイルランド産のクリームリキュール、700ml、1580円を買ってきました。調整豆乳も。
ウエルではどんな割合でカクテルにしていたのか聞きそびれましたが、わたしはリキュールと豆乳1対2にして小さめの氷をたくさん入れます。お店では細かいクラッシュアイスだったのですが、我が家にはクラッシュアイスを作る道具がありませんので。

アルコール度数は17度だからいつも飲む20度の焼酎よりもやや弱い程度。とろりと甘く、口当たりが良いので2杯くらいはすっと飲んでしまうのですが、お酒はお酒、酔っ払います。わたしの場合2杯くらいで止めておいた方がいいようです。

しょっぱなからお酒の話ですみません。
8月も半分過ぎてしまいましたね。
子供の時、この時期になるとだんだん宿題の事が気になり始めたように、お盆が過ぎるとなると二学期のクラスの準備や、ダンスのステージの事、月末までに出すことになっている原稿の事、キッチンの模様替え(冷蔵庫を新しくすることに伴い)などの事が気になり始めます。
さて明日から気をひきしめてひとつづつやっつけようと、酔っ払った頭で決意しているところです。

さて、今しばらくは読書タイム。
あと数ページで正津勉著「脱力の人」が読み終わります。最後の章は漫画家の「つげ義春」なのですが、学生の頃、二歳年下の弟が持っていたつげ義春の「ねじ式」を読んで(見て)度肝を抜かれたことがありました。またつげ義春の自伝を映画化した、竹中直人監督、主演の「無能の人」は大好きで忘れられない映画です。
若い日、衝撃を持って出会った人と時間を経てこんな形で再会すると、またまたしみじみとした気持ちになります。

さて、それではまた明日。おやすみなさい。


2005年08月14日(日) 小山清「よきサマリア人」を読む

小山清全集を日々読み進めている。
読んでいると何か穏やかな気持ちになる。そして、しんと静かで、同時にふつふつと漲ってくるものを感じる。
これはなんだろう。
愛だと思う。隣人への愛。まわりにいる人達へ向けられた慈しみ。
年譜にはキリスト教の洗礼を受け、後に教会から離れるとあるが、小山清の作品のどこにも、キリストがまず何よりも大切な事として示す隣人への愛が満ちている。

そしてまた、イエスの山上の垂訓の中で挙げられている幸いな人々どれも当てはまるように感じられる。
心の貧しい人、悲しむ人、柔和な人、義に飢え渇く人、憐れみ深い人、心の清い人、平和を実現する人、義のために迫害される人・・・

昨日は昭和29年に筑摩書房から出た2冊目の本「小さな町」を読んでいたが、その中の「よきサマリア人」を読んで、深く心に触れるものがあった。

北海道で炭鉱夫をしたことのある著者の実体験に基づいた作品ではないかと思うのだが、炭鉱の中で作者の携帯した安全燈が消えてしまい暗闇の中に取り残された時、そこを通りかかった仲間達は係わり合いになりたくないとばかりに作者の困窮を見て見ぬ振りをしたのに、「山水や」という渾名を持つひとりの無知な男が自分の電燈と作者の電燈を交換してくれたというエピソードを綴っている。

無灯のまま斜抗を登る山水やを見送った後、こう語る。
「独りになっても私は、いっぱな感動にゆすぶられていた。私はいまこそ悟ったのである。宝船の意味するところを。私という泥船が沈むべくして沈まないのは、だだつ児がのほほんと生きていけるのは、みんな、縁の下の力持をしてくれる人達がいるためだといふことを。さうしてこの自覚は私に新しい勇気をくれた。」

よきサマリア人のたとえ。新約聖書ルカによる福音書10章25節から37節までの記述だ。イエスは「わたしの隣人とはだれですか」という問いに対して、このたとえを話すのだ。そして「行って,同じようにしなさい」と言う。


心のどこかにいつも「隣人を自分自身のように愛しているか」という問いかけがある。そしてそうしてはいない自分を繰り返し自覚する。

昨日はラテンの後、10月のステージ、芝居とダンスのコラボの台本「伊集の花」をもらう。ダンス仲間のH氏による力作だ。戦争の中での沖縄の痛みが基調にある人間愛あふれる作品だが、この台本を読みながら、わたしは沖縄の痛みをどれほど自分の事として受け止めてきただろうかと思った。広島と長崎の原爆にしても、その悲惨さをどこかで感じまい、思い出すまいとしているのではないか。

今日は日曜礼拝の後、同居人と共に世田谷に伯母夫婦を訪ねた。86歳になる伯母は去年の秋に会った時よりも、さらに年老いて見えた。2時間ほどお茶を飲みながら4人でおしゃべりをし、伯母の家を後にする。年老いて様々なことが不自由になり、もうあまり長くはないと死を身近に感じているこの伯母夫婦のことをわたしはどれほど気にかけているだろうか。

帰りに本を物色すべく神保町へ寄る。9月からの英語の歌のクラスの楽譜を見つける必要があったからだ。使えそうなものが見つかり、カウンターへ行ったところ、「ほっとけない 世界の貧しさ」というキャッチが目に止まる。***のロゴが入った白いブレスレットが並んでる。ホワイトバンドプロジェクトの事を初めて知った。豊かな国に住む人間は貧しい国に住む人間のことを忘れて生きている。考えてもしかたない、自分とは無関係なこと。考えたらつらくなるから考えないようにする。そういう我々の標準的な生き方の中でホワイトバンドのキャンペーンはとてもとてもささやかなものだ。

わずか300円でその白いバンドを買うのだ。その売り上げは貧しい子供達のところへ行くにしても、私達の飽食は来る日も来る日も終わることがない。単なる気休めとも偽善とも受け止められる。けれども、少なくとも、ホワイトバンドは3秒に一人の割合で飢えて死んでゆく子供達の存在を思い起こしてくれる。とすれば、白いプラスティックの腕輪はわずか300円のドネイション以上の意味を持つ。隣人のことを痛みに思う、後ろめたさを覚えるという最低のことを促してくれるから。




<参考> ―よきサマリア人― 

       (新約聖書ルカによる福音書10章25節から37節まで)


見よ,ある律法の専門家が立ち上がり,彼を試そうとして言った,「先生,わたしは何をすれば永遠の命を受け継げるのでしょうか」。

イエスは彼に言った,「律法には何と書かれているか。あなたはそれをどう読んでいるのか」。

彼は答えた,「あなたは,心を尽くし,魂を尽くし,力を尽くし,思いを尽くして,あなたの神なる主を愛さなければならない。そして,隣人を自分自身のように愛さなければならない」。

イエスは彼に言った,「あなたは正しく答えた。それを行ないなさい。そうすれば生きるだろう」

しかし彼は,自分を正当化したいと思って,イエスに答えた,「わたしの隣人とはだれですか」。

イエスは答えた,「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中,強盗たちの手中に落ちた。彼らは彼の衣をはぎ,殴りつけ,半殺しにして去って行った。
たまたまある祭司がその道を下って来た。彼を見ると,反対側を通って行ってしまった。同じように一人のレビ人も,その場所に来て,彼を見ると,反対側を通って行ってしまった。
ところが,旅行していたあるサマリア人が,彼のところにやって来た。彼を見ると,哀れみに動かされ,彼に近づき,その傷に油とぶどう酒を注いで包帯をしてやった。彼を自分の家畜に乗せて,宿屋に連れて行き,世話をした。 次の日,出発するとき,二デナリを取り出してそこの主人に渡して,言った,『この人の世話をして欲しい。何でもこれ以外の出費があれば,わたしが戻って来たときに返金するから』。
さて,あなたは,この三人のうちのだれが,強盗たちの手中に落ちた人の隣人になったと思うか」。

彼は言った,「その人にあわれみを示した者です」。
するとイエスは彼に言った,「行って,同じようにしなさい」。


2005年08月13日(土) 武田泰淳 「もの喰う女」を読む

7月25日のゼミの日、池袋のビジネスホテルに泊まったことは7月27日の日記に書いたが、肝心のテキストの感想は書かずじまいだった。
これは、ゼミに出かける前にホテルでノートに走り書きしたもの。
ゼミの場で読んだメモを書き写しながらいくらか削ったり、加えたりした。

ゼミの席では、ここで語られているのは 聖母マリアの持つ慈悲ではないか。泰淳が房子をキリスト者として位置づけたのはなぜか、そこに意味があるのではないか。房子は生きる力を象徴し、一方弓子は死を象徴しているといった、興味深い考察が語られた。




       武田泰淳 「もの喰う女」を読む


7月11日のゼミの後、高田馬場から家までの電車の中で、次のテキスト「もの喰う女」を取り出した。
酔いの回った頭の中にも、その文章はすんなり入ってきて、ちょっと奇妙なカップルの食べ物屋巡りに後からくっついて行っているような気分になった。

この主人公の男をとりわけイイ男だとも、好きなタイプだとも思わなかったが、相手の房子にはふっと気持ちがなごみ、おもしろい人だなあと惹かれるものがあった。
いつも素足、ひどい貧乏で傘さえ持たずに濡れて歩くという房子の描写の中に、この男(作者と言うべきかもしれない)が寄せる好意の具合が見え、哀しくて優しい気持ちになる。

房子が食べ物を食べる場面がいくつも出て来るが、喫茶店の隅の席で店のドーナツを食べるところの描写はいい。この頃は脂っこいドーナツなど、あまり食べたいとも思わないが、この部分を読んでいると、若い日にドーナツが食べたくてしかたなかった時の気分や、その食感や味までも甦ってきた。

圧巻はやはり最後の部分。房子の家へ曲がる横丁の所で「私」が急に「オッパイに接吻したい!」と言うところから最後の部分。読み終えた時、電車の中だというのに、思わす笑いがもれた。そしてそのすぐ後に少し泣いた。可笑しさがそのまま胸を突くような哀しみに変ったのだ。
いったいこの泣きたい気持ちは何なのだろうと、そのことをそれほど突き詰めて考えることはせずに、ころころと転がす感じでこの2週間探ってきたように思う。


ひとりの男がひとりの女に感動している。そしてすっかり負けたと感じている――これだ。

わたしは男ではないけれど、ここに滲んでいる男の哀しさのようなものを感じることはできる。
房子の示した驚くべく素直な行為はとんかつ2枚の御礼などではなく、この男の弱さを慈しみ受け入れる行為だった。そしてその事は男にじゅうぶん分かっていたのだ。だからこそ、
「不明瞭な、何かきわめて重要な事実が啓示される直前のような不安が泥酔の闇の中に火花の如くきらめきました」と言い、さらに友人の家ですすり泣く真似をするのである。

自分自身の中にはない資質を持ったひとりの女性に対面しうな垂れる。ここから自分が変っていくということに慄いているかのようだ。
性的なものを遥かに超える女性の持つ広さにすっぽりと包まれ、男は思いがけずに鎧を脱いでしまったのだろう。男が宗教的エクスタシーにも似たものを覚えていると感じるのはわたしだけだろうか。

さて毎度の事だが、ゼミのテキストを読むとその作家の事が知りたくなり、他の作品も読みたくなる。
今回は武田泰淳の作品に加え、房子のモデルとされる武田百合子夫人に興味を覚え、彼女の書き綴った「富士日記」上、中、下巻を読んでいる。
何にも捕らわれずに、自分の感性を素直にそのまま出している百合子夫人の文章は新しく心地よい。

また「もの喰う女」の続編のような泰淳氏の「女の部屋」も、とてもいい。ひとりの女性を美化することもなく、本質を見抜いておりながら、そこに尊敬にも似た眼差しを見る。
泰淳の他の作品もいくつか拾い読みしたがどれも重い。それがこの作家の持ち味なのだろうが、いくつか読むと読み進められないで放ってしまった。

一方、武田百合子の書くものにはおおいに響くものがあって、読むほどに新しい彼女と出会うような愉快でのびやかな気持ちになる。この人の世界にもう少し入りこんでみたいと思っている。

                 (2005年7月25日)


2005年08月12日(金) くもり空 雷(いかずち)近く 詩編読む

金曜日、曇り。

雲は今にも雨を降ってよこしそうに重いのに、持ちこたえたまま夕方の今まで雨にはならないでいる。

今日は簡単な家事をした他はずっとダイニングテーブルの前に座ったきり、パソコンと本の間を行き来していた。

読書にしても書くことにしても、読みたいものを気侭に読み、書きたいことを鼻歌交じりに書くのは楽しいが、たまには苦労して読み書きをすることもある。
明後日の教会学校で話す話の準備に手間取っている。

聖書の言葉を子供達に伝わるように話さなければならない。
それが教条的な教訓や 脅しに陥ることなく、安心や喜びや力になるように話すのでなければと思う。
今すぐに分かるのでなくても、やがて、いつの日か芽を出す種を土に埋めるように。


雷だ。
ザッとやってきた。
洗濯物を取り込んでこよう。



テキストは詩編3編。
福音書のイエスの言葉や、旧約聖書の物語などに比べると、詩編を教材にして話すのは難しい。


  < 詩編第3編 >
      
――賛歌。ダビデの詩。ダビデがその子アブサロムを逃れたとき――

主よ、わたしを苦しめる者は
   どこまで増えるのでしょうか。
多くの者がわたしに立ち向かい
多くの者がわたしに言います
「彼に救いなどあるものか」と。


主よ、それでも
あなたはわたしの盾、わたしの栄え
わたしの頭を高くあげてくださる方。
空に向かって声をあげれば
聖なる山から答えてくださいます。


身を横たえて眠り
わたしはまた、目覚めます。
主が支えていてくださいます。
いかに多くの敵に包囲されても
決して恐れません。
主よ、立ち上がってください。
わたしの神よ、お救いください。
すべての敵の顎を打ち
神に逆らう者の歯を砕いてください。

救いは主のもとにあります。
あなたの祝福が
  あなたの民の上にありますように



そもそも詩編とは何か。
旧約聖書には150編の詩編が収められている。大半がダビデの詩。
他には ダビデ王の子ソロモン王や、他の詩人たちによるもの。作者未詳の詩も多くある。
イエスの生まれる千年ほど前に書かれた詩ということになる。
当然、イエス自身、それを学んで育ち、吟じていた。イエスの説教に詩編からの引用は多い。

詩編と言う言葉はギリシャ語では「プサルモイ」=「奏でる」という意味。実際、ダビデは竪琴を爪弾きながら、自作の詩を吟じていたようだ。
またヘブライ語では「テヒリーム」=「讃美の歌」の意味。つまり神を讃える歌。
しかし、詩編を紐解いてみれば、その詩は決して讃美だけにはとどまらない。悲しみや嘆きの詩もあれば怒りや叫びもある。
言えることはその嘆きや叫びも神に向かっているということ。
自分に向かっての怒りや嘆きではなく神へ向かっている・・・つまりどれも祈りなのだ。

ここでの祈りは決して、頼み事、願い事ではない。
ご利益宗教に見るような、神を人間の側に引き寄せて、言うことを聞かせるといった都合の良いものではありえない。
祈りは神に向かって叫ぶこと。
なぜ叫ぶことができるのか。
そこには絶対の信頼があるからだ。
神が在るという、その神は聞くという、その神は助け救うのだという確信。

この詩編3編は、ダビデが我が子アブサロムの率いる敵から包囲され、四面楚歌の状態にあった時の詩だ。まさに危機的、絶望的な孤独な状況の中で、彼は主支えにあって、「身を横たえて眠り、目覚める」と詩う。
そして「救いは主のもとにあります」と安らかだ。
本当は額に冷や汗をかきながらやせ我慢して書いた詩なのかもしれないと疑ってもみる。けれど、言葉が神の方向へ向かっていることは確かなこと。
絶望を払拭し、神に向かって頭を上げるダビデ。
神を信じる者のきっぱりとした姿。

「私達が自分自身には救いがないと思うことも、神に対する冒涜である」とルターは言っている。
またキェルケゴールは「絶望こそが死に至る病である」と。
そもそも人間は絶望に甘んじ、そこに好んで身を任せる存在なのかもしれないのだが、詩編の詩人達は語りかける。
自らに絶望を向けて己を蝕むことを止めろと、神に向かってその絶望を吐き出し、手を伸ばせ、激しく戸を敲けと。

さて、ここまでがわたしのこの詩編の理解。
これを子供達に伝えるためには・・・それは明日の課題だな。



さっきまで恐ろしいほどの音を立てて降っていた雨が止んだ。
夕食を作り始めるとしよう。
今朝、大分の母からクール宅急便で、ナスだのゴーヤだのきゅうりだのがたくさん届いた。
ゴーヤチャンプルーに、豚肉ナスとピーマンの味噌炒めを作ろうか。
今夜はmGが早く帰ってくるから、酒はとっておきの大古酒「天盃・博多山笠」にしよう。Sさんからいただいた優れもの。


2005年08月10日(水) 不思議な遠足

旅というのは心を新しくしてくれる。
たとえそれが一日だけの、それほど遠くないところへ出かけた小さな遠足であっても。
今日は一日中、心がふつふつとし、風が抜けるような涼しい気持ちがしていたのは、昨日の遠足のせい。


【入間市、東野高校見学

ゼミで話題に上った東野高校をホームページで見た時から、一度訊ねてみたいと思っていたら、そこで教えていらっしゃるKさんが案内してくださることになった。

おもしろい建築物はいろいろある。古い建築物も、新しい感覚で設計されたビルも。
ところがそれは学校。建築物とその周辺の校庭、学校の全体が妥協を許さない一つの美意識に基づいて創られているというのは珍しい。
教室も体育館も柔道場も、廊下も窓枠もドアも、おきまりの格好をしていない。それなのに、ひどく懐かしく、まるで記憶の底に眠っていた場所が現実にぬっと現れたようなファンタジックな気持ちになった。
ここには良い新しさと良い古さが同時にある。また素朴さと同時に際立った個性も。
こういう建物の中で日々過ごすのはどういう感じなのだろう。建物だけでなく、学校の考え方や教育実践もユニークだと聞いている。
Kさんは素晴らしい国語の授業をされるとゼミの方方から伺っているが、いつか授業も見たいと思った。

美しい木で組み立てられた体育館はそれ自体が呼吸をしているかのようで、ここで踊るならどんなにか素敵だろうと思った。Kさんが向こうを向いている間に、くるりと一回転、踊るまねをした。
レトロなシャンデリアがいくつもある講堂は、柱や梁にほどこされた模様が不思議に面白い。中世を意識した劇場のよう。ここでダウランドのリュート歌曲なんかを歌うといい感じだろうなと思った。誰もいなかったら歌ったかも。


【秩父、武甲の湯

Kさんは学校見学の他にも、美術館や、古い建物など、いろいろな選択肢を用意してくださっていて、そのミステリーツアーのリストには温泉も入っていた。やった!ぜひ、温泉へ。

電車で秩父へ行くのは初めてだ。お寿司のお弁当とビールとを買って、秩父行きの急行に乗り込む。お弁当を食べながらの電車の旅ってどれくらいぶりだろう。窓の景色が緑に覆われ、遠足気分は盛り上がる。
横瀬で下車して、10分ほど歩いて武甲の湯へ。この温泉には同居人と車で二度ほど来たことがあるが、とても気持ちの良い温泉だったという印象がある。
温泉は一時間以上は入らないというKさんをそそのかして水風呂に誘い、温泉→水風呂→露天風呂→水風呂→サウナを順にくり返す温泉の楽しみ方(?)を伝授する。こうしていれば、3時間などはあっという間に過ぎてしまう。わたしなど一日だって入っていられる。

温泉から出た後は広い畳の休憩所でごろんと横になればいいのよとわたし。たとえカラオケの演歌がうるさくても、子どもがどたどた走り回っても気にせずに、野原に寝転ぶような気持ちで寝るのが流儀。しばらくヨガのシャバッサナのアーサナ(死体のポーズ)で休息。とは言っても、もうひとつのツアーの場所への移動のことがあるから10分ほどで切り上げ、やおら駅へ。
戻りの急行はすでにホームへ入っていて、わたしたちは走って滑り込む。今日は何気に良く走った。
きっと電車は1分くらい待っていてくれたのだろう。


【荻窪 Bar WELL

降りたことのない駅に降り、行ったことのない場所へ足を踏み入れるのはそれだけでもわくわくするものだが、夕方の荻窪駅の光景はおもしろい。屋台のような焼き鳥屋さんに、仕事帰りのサラリーマンと思しき白いシャツの人達が犇めき合っている。なんだかお祭りのような賑わいだ。そこを横目にしばらく歩き、細い路地を入ると Bar WELLの看板が目に入った。
ここはゼミのメンバーのYさんのお店。Yさんとは滝子山行きで会っているが、お店を訪ねるのは初めてのことだった。

カウンターに7席というこじんまりした場所はほっかりと居心地良く、こういう場所にはまるっきり不慣れなわたしでも、カウンターに座るやたちまち打ち解けた気持ちになった。じきにゼミ仲間のKIさんも現れた。
なんとKI氏は、思わぬ原稿料が入ったからと、kさんとわたしにお酒を奢ってくれるという。原稿料で奢ってもらえるなんて記念すべき事だ。
わたしたちは、俳句のこと、ゼミのこと、お酒のことに始まり子供の頃に読んだ漫画の本のことなど話す。話がいくらでも出て来てそれは楽しかった。KさんKIさんともほぼ同年代。子供時代の話題などは共通している。「猫目の少女」がどれほど怖かったかとか・・・
そうそう、今日のミステリーツアーは、KIさんがKさんにわたしの本を紹介してくれたことに端を発している。
KIさんからは刊行された詩集「単位」をいただく。

ところで飲んだお酒のことを書いておこう。
Yさんにおまかせして作っていただいたカクテルとお勧めのDICKELというスコッチウイスキーは素晴らしくおいしかった。一杯目のカクテルはアイリッシュクリームに豆乳とクラッシュアイスを入れたもの。いつもはコーヒーに入れて飲むアイリッシュクリームがこんなにおいしいカクテルになるとは。(家にあるアイリッシュクリームに低脂肪牛乳を入て真似してみたらけっこう美味しかった。)2杯目のカクテルはスプモーニという名前のきれいな夕焼け色のカクテル。カンパリとグレープフルーツとトニックウォーターを混ぜたものらしい。

知らない土地に行き、飲んだことのないお酒を味わい、出会った人達と話をする。知らなかった世界が少しずつ開けてゆくのは、好きだと思う本のページを一枚つづ繰ってゆく時の気分にも似て、驚きや慰めがある。
でもこれは頭で描くだけでなく、色も形も匂いも音もあるほんとの体験だと思いながら、そんなあたりまえの事に妙に感心している。

帰り際、カウンターに並べてある、我々の師匠、正津勉の新刊「脱力の人」を求める。
この書の序文の最後のフレーズは、今日のように、命と時がしみじみと有り難く思える日、祝福の辞のように響く。


――弱いものは、弱いままに。足らぬものは、足らぬままに。病むものは病むままに。狂ったものは、狂ったままに。
Let it be……――

<正津勉著「脱力の人」、はじめに からの引用>


(8月11日、記す)


東野高校http://www.higasino.ed.jp/  
武甲の湯http://www.buko-onsen.co.jp/
BAR WELL http://www12.ocn.ne.jp/~bar-well/index.html
「脱力の人」http://www.7andy.jp/books/detail?accd=R0142050


2005年08月08日(月) 白石かずこ著 「わたしの中のカルメン」を読む

わたしはゆくゆく、巫女的女性と縁がある。
わたしが巫女的であるかといえば、それほどのパワーはなく、ぽわぽわと頼りないが、巫女的資質を持つ女達が好きだし、気が合うと感じる。
わたしの信奉するミュージシャン、ビョークはまさにそれ。
最近で出会った作家、冨岡多恵子、尾崎翠、武田百合子、わたしに言わせればみな巫女的。

で、つい先ごろ、新たなる巫女的女性に会い、その女性からやってきたエネルギーがまだわたしの内で熱い。
詩人、白石かずこ、その人。

白石かずこのエッセイ集「わたしの中のカルメン」を夫の実家の書棚に見つけた。
光りの射さない部屋の片隅に、忘れ去られた本達がひっそりと眠る書架があり、その中にこの本を見つけたのだ。昭和44年の初版本。
わたしが15歳の時だ。いったい誰が買ったのだろう。夫ではないというから、わたし達より2歳年上の義姉が買ったものなのかもしれない。

わたしは見知った詩人の名前を書架の中に見つけ、さらにはそのタイトルに惹かれ、その本をそこから連れ出すことに決めた。そしてそれは全く正解だった。帰りの飛行機と電車の中、わたしはその本にどっぷりと浸り、気がつかない内に家についていたというくらいに没頭した。

白石かずこがコルトレーンのことなどを書いていて、ジャズを語る詩人ということで、興味を覚え詩も読んだが、吉原幸子や、茨木のりこほどは心惹かれなかったのだ。
彼女のあまりの力強さ、元気のよさのせいだったかも知れない。70歳、80歳まで生きなければ詩人とは言えないといった彼女の言葉に今でこそ共感するものの、若い頃には自分とは遠い人という印象だった。

そういう意味では「時」がやってきて、初めてこの詩人と対面したのだ。
彼女が豪語した通り、彼女は74歳の今も詩人を生きており、朗読会など、アクティブに活動を続けていらっしゃるもよう。
74歳、わが母や義母と同年代ということに驚きを覚える。

さて、この本のことを書きたいともう一度、ページをめくるのだが、どこも、ここも気に入っているので、どこを取上げようもないのだが、いくつか試みてみよう。


<流浪者になること> より
 
わたしは10代の終わりから、魂がジプシーの仲間に入った。
それは、人生の美味しさ探求への武者修行だったのである。
男なら宮本武蔵とか柳生十兵衛とかいうところだが、女なのでカルメンとでも言おう。カルメンは女の流浪者だから。

<狂気の季節> より

 それにしても、私は、その狂気に近いデモニッシュな、生への手さぐりの精神を、一生じゅう、恋のように憧憬し、求めるであろう。
 それが詩人の魂だからである。別ないい方をすれば、詩人は青春という狂気を魂に点火したまま、一生をおくる人間のことかもしれない。

<詩における性のイメージ>より

 非常に長生きをしたい。つまり、どうしても70歳や80歳まで生きて、人生の夕日を見たいと思うのは、性で出発した人間として性の終焉のけしきをながめなければ、詩人としての私の仕事も中途半端、ほんとうに性と詩のまったきかかわりあいを、end of the life までしてこそ、詩も、私も、満足というものである。


          *

白石かずこ著、「わたしの中のカルメン」について
    
発売前後に読売文学賞、高見順賞をダブル受賞。白石コーナーが出現するほどの話題になった。詩人の青春グラフティーともいうべき、60年代を語るパワフルなエッセイ集。


2005年08月07日(日) 日曜日のいろいろ

昨日ここに書いた日記はやはりすっかり消えていた。今度こそ。
書き始める時にたっぷりの麦焼酎(ひとり歩き)の水割りを用意し、飲みながら書いていたのだった。これがいけなかった。

朝8時45分に教会に向けて家を出るところから、午後の図書館のところまで書いた時に、かなり酔いが回ってきて、「眠い!眠い!」と叫びながら、後のことも考えず、そのままパソコンのスイッチを切ってしまったらしい。
やはり飲みながら書くのはまずいかも。日記は昼間に書こう。
それにしても、変な癖がついてしまったもんだ。

では、再度書くとしよう。昨日のように詳しくは書く気がしないから事柄のみ。


<教会学校 > 
主題「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」こどもさんびか「みんなで平和を創ろう」を歌う。しかし、今日は子供たちが来なかった。生徒は一人で教師が五人。

<主日礼拝>  
説教題「拡大する神の国」。テキストはマタイによる福音書13:24−35「毒麦のたとえ」。司式担当。
昨日の日記には説教の感想なども書いたのだけれど・・・

<ラーメン屋>
前から気になっていた図書館の近くのラーメン屋へタミの車で。つけ麺を食べる。肉なんかが入っているつけ麺の汁は熱くて、子供の頃母が作ってくれた熱い素麺のつけ汁を思い出す。鶏肉や椎茸がしこたま入っているつけ汁は今にして思えば栄養価の高いぜいたくな汁だが、子供の頃はお蕎麦屋さんなんかの、何も入っていない冷たい付け汁にあこがれていた。
日本の墓や先祖崇拝の事などタミと英語でしゃべる。

<図書館>   
タミと図書館へ。彼女はハングル語をものにしたいらしい。日本語もWeb日記を書くほど上達したから、ハングルもマスターするかもしれない。わたしはこの頃英語の本をさっぱり読んでいない。次回のゼミのテキストは小山清の「落穂拾い」なので、『小山清全集』と、『近代日本キリスト教文学全集9巻』を借りる。帰りは仕事を終えたmGの車で家へ

<ダンスレッスン>
スタジオFで7時から9時まで。6月からやっているR&Bとラテンに加え、沖縄テイストの新曲の振りを習う。振りつけはかなりかっこいい。これは10月23日のステージ、「芝居とダンスのコラボ」のものらしい。
芝居の中味も、まだ何もしらないが、何か素晴らしいものが出来上がりそうな予感。この秋のダンスのステージは9月19日、10月23日、11月5日。月一でステージなんて、なんだか凄いことになってきた。




2005年08月06日(土) ふるさとから戻るということ

昨日宮崎から埼玉に戻ってきました。
ふるさとにいるとこちらの日常がとても遠く、
こちらへ戻れば、ふるさとの日常が遠ざかります。

ふるさとの中でずっと暮らしてきて、
実家がスープの冷めない距離にある人にはこういうことはないのでしょうが、
ふるさとを遠く離れて暮らすということは、暮らしそのものが旅のような気持ちになるものです。

昔にくらべれば、飛行機があり、電話があり、またメールがあり、
その距離はずいぶんと短くはなりました。それにもかかわらず、
物理的な距離というものが確固としてあり、やはり心理的にも遠いのです。

この遠さというのが、年老いた親達にしてみれば、淋しさになり、不安になるのではないかと思います。
戻ってくる前の晩は、そこを離れること、これからのことがいろいろと意識に上ってきて、明け方まで眠りにつくことができませんでした。

それなのに、昨晩は久々の自分のベッドでぐっすり眠り、
朝がくれば、途切れていた日常をまた撒き直しているのです。
明日になれば、ふるさとはさらに遠くなるような気がして、
そのことに後ろめたさを感じます。


2005年08月05日(金) 迷い子の言葉たずねつつ義母の書く

義母はもう30年以上も日記を書き続けている。

脳梗塞のため言葉を取り出す回路を失ってからは、一つの言葉を20分もかかって探しながら文章を綴っている。

日記を書くという作業が闘いのようにも尊い仕事のようにも見える。

これまで忠実に主婦としての家庭のジャーナルを記録しつづけた義母は、今同じ日記帳に自らのリハビリの記録を記しているのだ。その日記が義母の疾患の具合や回復の様子、その時々の苦闘を伝えている。

そんな義母に励まされて、わたしも真摯に書き続けるのでなければと思う。

明日はけれども、義母を一人残し、埼玉へ戻ろうとしている。


2005年08月02日(火) 消えてしまった日記 < 実は消えていなかった

嗚呼!
親指を駆使すること2時間。苦労して書き上げた日記が消えてしまった。

「母のところから義母のところへ」というタイトルで書いた日記。

つまり書くなという事なのだろう。
いや書くべきだったそして消えるべき運命にあったと言うべきか。

確かに書いた。それで良しとしよう。

今日から夫の実家。彼は明日の朝の便でこちらに来る。


             *

消えてしまったと思ったら昨日の日記、ちゃんとアップされていました。
よかった。
Yさんからの携帯メールで消えていないということを知りました。
昨日の日記も、またこの日記も、携帯では見ることができなかったのです。
今日mGが宮崎に来たので、彼の持ってきたラップトップで、ようやくパソコンで日記を開いて書いています。
両手が使えるとやっぱり楽ですね。

今日は早朝の草取りに始まって、一日良く働き、夕食の支度も済ませたので、
後は飲んで食べるだけ。夜遅い電車で義姉も到着。宴会だ〜。









2005年08月01日(月) 母のところから義母のところへ

今朝は夕べ母のこしらえた肉じゃがを食べて義母の住む宮崎へ向かう。

今回は母の手料理をよく食べたな。わたしが父のいる施設に夕食を食べさせに行くので帰ってくるのが遅くなるからだ。
薄暗くなった道を自転車を30分ほどこいで汗まみれで家に戻ると玄関先においしそうな煮物の匂いがしているというのはいいもんだ。
こんな当たり前がしみじみと嬉しい。

さっきまで施設に居て、車イスに座って食事を口に運んでもらう老人達を見て来たから。

母がまだ台所に立ち、じゃがいもの皮をいくつもむき、二人では食べきれるはずもない鍋にいっぱいの肉じゃがを煮る事がありがたい。

じゃがいもの形の少しも崩れていない、玉葱のとろりと甘いその肉じゃがは子供の時の味のまま。

あの時は父と弟達がいて賑やかだったというのに、母は呼んでも声が届かないほど遠くにいた。
いえ遠くに居たのはわたしだったかもしれない。

歳を取るにつれ、母が近くなる。
もう少しすればわたしは母に甘えられるのだろうか。
わたしが母の甘えを頑固に引き受けようとしない理由を恐らく母は知らない。

母と別れて延岡までの高速バスに乗り、そこからは普通電車で宮崎へ。家に着くと義母はわたしを外で待っていた。2月に義父を見送ってから義母は元気がない。

冷蔵庫の食材を調べて夕食の献立を考える。冷凍の筑前煮用の野菜セットと鶏肉が見つかった。母が持たせてくれた採れたばかりの野菜も加えて筑前煮を作る。
久しぶりに調理したものを人と一緒に食べると義母は言い、食前の祈りの声が涙声になった。わたしはわざとのように威勢よく、お義母さん、焼酎をいただきますねと、慣れた手つきで芋焼酎の水割りを作る。

母はしきりとわたしが焼酎飲みになった事を苦にしていて、向こうでは飲むんじゃないよと何度も繰り返していたけれど。

母と義母の間に居て、わたしはわたしの25年後を心に描いてみる。


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