たりたの日記
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2005年07月31日(日) 阿蘇山へ

7月28日、予定していた阿蘇山行きを実行。この日は母と阿蘇のホテルに泊まることにになっていたのでわたしだけ朝の便で宮地駅へ向かい、仙酔峡から高岳に登るという計画。高岳から火山壁の縁を歩き中岳へ。さらに下って火口東展望所から火口を眺め。下りはロープウェイに沿う遊歩道を歩いて下山。歩行時間は4時間。休みを入れて5時間の行程。ホテルのある赤水駅に母が着くまでには余裕で戻って来ることができる。

朝一番早い電車と言っても三重町駅を9時前に通る九州横断特急しかない。宮地駅、10時10分着。登山口の仙酔峡まではタクシーで15分。駅で登山客を見つけてタクシーの相乗りをするつもりだったが登山の格好をした人は見当たらず、予約してあったタクシーに一人乗り込み、また3時30分に仙酔峡に迎えに来てくれるよう予約する。料金は片道1680円。ガイドブックには2000円とあったからそれより安い。

それにしても人がいない。ミヤマキリシマが咲く5月から6月にかけては観光客が繰り出す仙酔峡も今はガランとしている。必ずや登山のグループがいるだろうからその後に付いて歩けばよいと考えていたが甘かった。ともかくガイドブックを片手に歩き始める。
見晴らしの良い仙酔峠まではすぐだった。しかしそこには立て札があってガスの発生する危険があるので火山の状況を事前に調べておく事。単独行動は危険、グループで行動することと物々しく書かれている。目の前にそそり立つ高岳は尾根に沿った急勾配の登山道を見せている。植物の何もないざらついた火山灰の道。思ったよりも難しそうな山だ。ここを一人で行くのは止めておいた方が良いかもしれないと仙酔峡まで戻って人を待つ事にした。
わたしがキョロキョロしていると駐車場の車にいた男の人がどこへ行くのかと聞いてきた。わたしが高岳に登ろうとしていると言うと、彼は朝6時から登り下りて来たところだが物凄い風で吹き飛ばされそうだった。行かない方がいいと言う。それならばロープウェイで火口東駅まで登り、火口展望所さらに中岳山頂まで往復し、火口駅から歩いて下山しよう。これだとおよそ3時間の行程。

ロープウェイ駅も人はいない。駅付近にガスが出ているから、そこにはとどまらずにすぐに展望所の方に抜けるようにと注意があった。また帰りは強風でロープウェイが運転を見合わせる事が予想されるので片道切符しか出せないと言う。乗客はわたしの他は中岳までは行きそうに見えない犬を連れたサンダル履きの父子三人だけ。

ロープウェイは10分ほどで火口駅に着く。
ガスを吸わないよう軍手を付けた手で口を覆い急ぎ火口展望所へ向かって歩きはじめる。凄い風。

目の前に火口が現れる。もくもくと湧き出る白い噴煙。植物といわず、人といわず、あらゆる生き物を拒否するかのような荒々しい表情をした7つの火口のなんとも壮絶な姿。心を掴まれる。じっと見入っていたいのだが、突風が火山灰を巻き上げ石の粒が顔に打ち付けるため目を開けてはいられない。
この風の中、中岳まで往復する自信はない。しかも頭上に広がった黒い雲からぽつりと雨が落ちてきた。犬を連れた親子はすでに帰路に付いている。誰もいない火口に独りでいるというのはしかしすばらしい気持ちだった。孤独の先にある高揚とも安堵ともつかない冴えざえとふっきれた感覚。この場所にたった一人で居る事ができることは得難い幸運なのかもしれないと思う。

頂上までは無理だとしても、何とか中岳へ通じる断崖絶壁の馬の首と言われるところくらいまでは歩いてみたいと冒険心にそそのかされ、風に吹きさらされながら歩く。実際その尾根からの火口の眺めはなんとも形容しがたい凄さ。しかし物凄い風。気紛れな風がわたしを吹きさらってあちらの火口へ連れていってもおかしくはない。急に不安を感じ、体を低くし這うような格好でなんとか展望所の柵まで辿り着く。

帰りのロープウェイは風のために止まっている。ロープウェイに沿った登山道をゆっくり下山。高岳が大きくわたしの真横に迫っていて、山と二人だけという愉快な気分だった。時間はたっぷりあるので途中にあったピクニックテーブルでお握りを食べたり寝転んだり、山好きの友人達に写メールを送ったりしながらゆっくりと下山した。

翌日は生憎天気が悪かったが母とタクシーで草千里から大観峰へ回る。前日仙酔峡から眺めた外輪山に立っている。草千里の茫々とした緑の原、美しく波打つ杵島岳の山肌。今度は草千里を歩き杵島岳に登るコースでやってこようと思う。

ふるさとにこれほど近い山に初めて触れた事を悲しむべきか喜ぶべきか。こうした形でふるさととの出合い直しが起こっているのだろうと思う。




2005年07月27日(水) 台風を逃れて大分へ

月曜日の夜、ゼミの後じゅげむでの二次会に初めて最後まで出て、あらかじめ予約していた池袋のビジネスホテルに泊まる。

朝、台風が接近中で飛行機が飛ぶかどうか心配しながら空港へ。夕べま雨の中を歩く間にびっしょり濡れた服もすっかり乾きいている。

飛行機は午前中のびんは定刻で飛ぶ模様。まずは良かった。
着いてみれば大分はとびっきりの良い天気。と言うよりはがんがんの夏日。

前夜はじゅげむで日頃の酒量をはるかに上回る酒を飲んで一人でホテルの部屋に入った後、吐いたり、独り言を言ったり(正確に言えば神様に話しかけていた)歌ったり(正確に言えば讃美した)と常軌を逸していた。
二日酔いはなかったが道中とにかく眠ったまま、ぼんやりした頭で実家へ。

4か月振りのふるさと。

しばらくして母と父の入所している施設へ行き夕食の介助をする。

父は食欲もあり、笑いも見せた。


2005年07月23日(土) 百合子さんのように

そうだ。武田百合子さんのように食べ物の事を書こう。
同居人が水曜日からオーストラリアに出張中なので、食事は実に気侭。

朝食。桃とカスピ海ヨーグルトにミューズリーをかけたものをシリアルボールに山盛り一杯。プロテインの粉末をミルクに溶かしたもの。インドネシアンコーヒー。これはファイルターで濾さないで、細かく挽いたコーヒーにそのままお湯を注ぎ、しばらくして上澄みを飲むというもの。香りが豊かであまり苦くなくミルクを入れなくても良いほど。ちょっとクセになる味。

昼食。家から徒歩3分のところにあるギャラリー喫茶で季節限定のタイ風グリーンカレーセット。とうがん、たけのこ、黄色と赤のパプリカと見た目も美しいカレーはココナッツの甘さとまろやかさが口に広がる優しい味だった。デザートのパンプキンプディングとカフェオレも丁寧な味。

何も一人だからって、贅沢なお昼をしたわけじゃなく、お昼を食べるのも忘れて、帰省用の荷物を作っていると、ここのお店からご招待の電話があったのだ。ここのお店に我が家の茂りに茂ったローズマリーを提供しているので、前からお店にどうぞと声をかけていただいていたものの、なかなか機会を作れないでいた。店は8月はまるまる休業となるから、実際今日を逃せば9月まで行けない。荷物をそのままにして、バッグに山の本と、武田泰淳集を入れてお店へ。

木々や様々な下草が生えている大きな庭の中にあるその喫茶店はガラスの壁がそのまま庭に向かって開かれている素敵な空間だ。店はグループの女性客で埋まっており、静かというわけではないが、植物の静けさが広がっているせいか、あまり気にならず、ゆっくりと食事を楽しみ、しばし読書に没頭した。
「あ、いけない。座れないで待っているお客がいる。わたしはお金も払わずにご馳走になっている身分だというのに・・・」
あわてて席を立つ。
オーナーの女性がわたしが教会学校の奉仕をしていると知って、自分も小さい頃キリスト教の幼稚園に通っていてその影響は大きいから、大切な仕事をなさっているのですよと励ましてくださる。

夜はできればラテンのクラスに出たいと思っていたが、まだ風邪が抜けずにふらふらするので断念。それに、帰省の準備や教会学校の準備も時間がかかりそうだ。
で、夕食。やるべきことをすませてから焼酎とともになんて考えていたら、うんと遅くなりそうだから、7時頃とりあえず、冷凍の石焼ビビンバを炒め卵を加えたものを食べる。

夜食。教会学校のお話の準備が終わったので、風呂に入った後、数日振りに焼酎を飲むことにする。九州の叔父から届いた芋焼酎。「百年の孤独」で有名な黒木酒店の「ひとり歩き」。つまみは焼きナス。お隣のおじさんがさっき持ってきてくれたとれたばかりの元気のいい小ぶりのナス、これを4本、縦二つに切って、オリーブ油で両面をこんがり焼き、バルサミコ酢と醤油を垂らす。

この日記、同居人はオーストラリアで読んでいるだろう。そして、わたしが怖い夢ばかり見て眠れなかったと電話口で訴えたにしては一人でけっこう楽しそうにしてるじゃないのと思っているに違いない。
しかし、実際、眠るのは恐怖。どこででも熟睡してしまうわたしは図太いと思われているに違いないが、独りで眠る夜はほとんどの場合、怖い夢を見て不眠症に陥る。困ったもんだ。


2005年07月22日(金) 降ってわいた課題

水曜日から金曜日までの間、わたしは友人の家に寝泊りして、そこの家に居候している中一の姪っ子の勉強をみた。

仕事というわけではないので、教師であらねばならないという気負いもなく、
その上、夏風邪をひいたのか、目まいはするわ、悪寒はするわという状況だったので、ふだんのテンションからすればかなり低かった。

しかしわたしの場合、そのくらいのテンションの方が中学生くらいには向いているのだ。幼稚園児に向かうようなハイテンション(彼らは文句なしにそれを要求する)だと、相手はうざったく感じるか、あるいはプレッシャーを感じることになるだろうから。
それに、友人の家に寝泊りしても、そこからジムには抜け目なく通う算段をしていたものの、体調不良でそれは果たせず、結果、その子のためだけに時間を使うということになり、そのことは良かったのだ。

実際、わたしの体力が持ち直してきた昨夜の夜は、案の状ぶつかって、Uはふてた。わたしに熱が入り過ぎるとこうなる。我が子も場合もそうだった。その昔、止む無くホームスクーリングをしたり、鈴木メソッドのバイオリン教室に通っていたばかりに、親が練習に責任を持つはめになり、我が子を教えるという場面が少なからずあった。そんな日々、つい熱が入りすぎては子どもを泣かせるか、怒らせるかした。(ゴメン!と今になって思うけど)

幸い、Uは朝になれば機嫌を回復し、勉強を続けることができた。
何とか無事3日間が過ぎ、Uが遅れを取った分はなんとか取り戻せたことにほっとして家に戻ってきた。

しかし、課題というのは、天から降ってくるものだなぁ。
子供のいない友人にとっては姪の面倒を見るという課題が降ってきたわけだし、娘や姪がいない(わたしには息子が二人と甥が5人いるが)わたしには、ひとりの女の子とかかわるという課題がふってきた。とうぜん、U自身も課題を抱えている。

どこかで人と親密に深くかかわることを避けようとしているわたしは、こういう形で宿題をもらう。ちゃんと人間やれ!と。
母親業が終わって、ああよかった、らくちん、らくちんと思っていたところだったんだけどな。わたしもまた育ち続けなければならないらしい。育てるのではなく、育つのだ。友人も、またわたしも。


あ、課題なんておおげさな事言っているが、降ってわいたような女の子の出現をうれしがってもいるのだ。女の子って、やっぱしかわいいし、近い。男の子とはまた違った母性本能がよびさまされる。


2005年07月18日(月) エイサーを踊った夕べ  中野チャンプルーフェスタ

18日、海の日。
この日のイベントは我がラテンの師匠と、中野チャンプルーフェスタなる、沖縄のお祭りに繰り出す事。

沖縄とは縁もゆかりもないのだが、なぜか若い頃から心惹かれる土地だった。
そういえば、我々の新婚旅行は沖縄だったし。

沖縄の歌、踊り、自然、人、食べ物が、わたしのものではないにもかかわらず、不思議な近さを覚えると同時に、日本の他の土地には感じない、異国のような遠さもまた感じる。

先ごろ、師匠が沖縄に何か非常なインスピレーションを感じると、ついこの前沖縄へ出かけ、満ち満ちた体験をしたことを聞いていた。
今回の中野のお祭りも、彼女からの情報。沖縄で宮永英一のライブを聞き、それがすばらしかったと、わたしの掲示板に感想を書いてくれたのがきっかけ。

16日、17日、18日の3日間、中野サンプラザ前広場で、琉球音楽やエイサーをやっている37の団体が演奏やパフォーマンスを繰り広げ、最終日の最後のプログラムで、ゲストとして宮永英一が出演するというものだった。
チラシの参加団体を見れば、心太ライブでお馴染みの奄美島唄ユニットのマブリの顔もあった。(残念ながら、マブリは17日のステージだった)

梅雨明けのギラギラと照りつける中、サンプラザ前の広場は、祭りの熱気でさらに熱かった。わたしより先に来ていた師匠は、ほどなく見つかり、オリオンビールを手に、ステージの前の方に隙間を見つけて入り込む。サンダルを脱ぎ、そのまま地面に胡坐をかく。街の真ん中で、山のような事をやっているとなんだか愉快。

新風(あらかじ)エイサーは大学、専門学生が中心の学生団体という事だったが、なんだか久し振りに若者らしい若者達に出会ったように感じた。エイサーといえば、歌と踊り。文化系サークルには間違いないだろうが、まるで体育会の気合。はぁ〜、若いとはこういう事を言うのだったと妙に感心してしまう。
やがてエイサーはクライマックス。座って聞いていた人達も立ち上がり、出演者と観客が渾然一体となる。

師匠とわたしは何しろ最前列にいたから、踊りましたとも。
手を右に左に流し、足首を軽くスナップさせて踊る。エイサーを踊ったのは初めてだ。

ラストの宮永英一さんのステージ、「WAKE UP琉球!ライブ」はやはり
ダントツだった。沖縄の太鼓をいくつも組み合わせたドラムセットはユニークだし、歌の声も力強いが、さらには言葉にメッセージがある。伝えようとするエネルギーのなんと大きい!






2005年07月17日(日) 柔和な人々は幸いである

8時前、地域の草取り作業。
8時45分、同居人と教会へ
9時半、教会学校。オルガンとお話の担当。
10時半、礼拝。司会の担当。
12時過ぎ、聖書を学ぶ会。ヨナ書4章。
1時過ぎ、役員会。英語学校担当としてオブザーバー参加。
4時過ぎ、図書館。
5時過ぎ、回転寿司で夕食。買い物
7時過ぎ、ジムへ風呂のみ。
8時過ぎ、帰宅。

という一日。


教会学校の話。
今日のテーマは「柔和な人々は幸いである。その人たちは地を受け継ぐ」。
山の上の説教の3回め、
1回目「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである」
2回目「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる」だった。

わたしは子供の時、柔和というムズカシイ言葉を教会学校で教えてもらった時の事を妙にはっきり記憶している。牧師の奥さんがお話してくれたのだった。
今日の話は、子供たちの記憶に残るだろうか・・・

この「山上の垂訓」と言われるイエスの有名な説教を、子供の時から何度も聞き、また読んできたけれど、それでもまだすっかりは分かっていないという気持ちがする。
柔和という言葉にしても、その言葉の向こうには広がりがある。新約聖書の原典のギリシャ語ではプラウーテ。積極的に自我を引き下げるという意味。控えめ、しかし遠慮ではない。権力を持たないこと。
英語の聖書、Today's English 版では
Happy are those who are humble they will recieve what God has promised.
と、柔和はhumbleという言葉に訳されている。これは日本語では謙虚、謙遜、卑下といった言葉に置きかえられる。イエスの心にあったもともとの想いはどういうものだったのだろうか。

彼自身、マタイによる福音書11:29でこのように言っている。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。やすませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」



図書館のこと。
「永井荷風集」「永井荷風『つゆのあとさき』作品論集」は再度借りて、新たに「武田泰淳集」「富士日記」上、中、下巻、「私たちはいま、イラクにいます」、これは来週の教会学校の教材用。

「武田泰淳集」を借りたのは、次回の勉ゼミのテキストが、この作家の「もの喰う女」だから。このテキストをわたしはとてもおもしろく読んだ。そして、この作家の他のものを読みたいと思ったし、「もの喰う女」のモデルである彼の奥さんの武田百合子さんが書き記した「富士日記」も読みたくなった。アマゾンで取り寄せようとしたが、古本しかなく、それもけっこう高いので、図書館で借りることができてよかった。

回転寿司屋はとても混んでいたので、待つ間に「富士日記」を読み始めた。
これは本当に日記。どこで駅弁を買ったとか、朝食、昼食、夕食に食べたものや買ったものなどが書かれている。訊ねてきた人、した事、怒った事、思った事、百合子さん、泰淳氏、そして娘の花さんの昭和39年7月からの日常がそこにある。この頃、わたしは8歳。花さんも同じ年恰好だろうか。何のことはない、ある作家の家族の日常が、読んでみるとけっこうおもしろい。
力の抜けたほっとした感じもいいなと思う。
なんだか影響されそうだ。
この日記のはじめに、つらつらとその日やった事を書いたのは、はや、その影響かも。









2005年07月16日(土) 土曜日の夜に

土曜日の夜、11時。
ジムでラテンを踊って、水風呂に飛び込み、それからやおらサウナ。帰りに同居人mGとミニストップに立ち寄り、ソフトクリームを食べ、ビールとチュウハイを買う。で、酔っ払ってPCに向かう。すっかり土曜日の定番になってしまった。今日はダイニングテーブルのこちら側と向こう側にそれぞれがラップトップを広げて、飲んでいる。

今日もラテンは楽しかった。
不思議なのだが、踊り始める前というのは、いつも踊れるかしらとなんだか心もとないのだ。今日の仕事の事とか、さっきまでドトールでサンドイッチを食べながら読んでいた本のこととか、頭はそんなもののに名残があって、ジムに入ってもまだ頭はラテンのモードに切り替わっていない。

ところが時間が来て、ラテンの音楽が流れ始め、なお先生が前に立つと瞬時にしてモードが切り替わる。で、45分間、ひたすら踊る。ダンスの中に埋没すると言ってもいい。

<ここまで書いたものの、余りにも眠いので、仮眠を取ることにしました。>

昨夜の日記の続きを今日17日の夜に。
結局、ソファーで仮眠を取ったものの、さらに頭はぼおっと眠いので、そのまま眠ってしまった。

で、ダンスの事を途中までしか書いていなかったので、続きを書いておくとしよう。

昨夜、ダンスの中に埋没すると書いた。
その表現が自分にはぴったりくるのだが、別な言葉に置き換えれば、解放されるのだ。何からの解放かといえば、日常の雑多な事、ストレス、さらには自分自身の自我からの解放。魂が混ざりもののない、透明で、良い状態になると感じる。そういう時には、内側から生きることの喜びのようなものが満ちてくる。この上なく小さな存在になり、それ故、揺るがないポジティブな自分が現れるのだ。




2005年07月13日(水) 歌のクラス最終日

英語学校でのクラスの一つ、「英語で歌おう」というクラスの第3回目のシリーズが今日で終わった。
5月から今まで、The Sound of Music の中から5曲を歌うという10回のシリーズ。

受講して下さった方はわたしより年長の3人。日頃子どもしか教えていないわたしにとっては、わたしよりはるかに人生経験を積んで来ている方々に教えるというのは何とも抵抗があるのだが、クラスの時間になると、気持ちがかなりしゃっきりとなって、必要だと思えることが浮かんで来る。

コーラスではなく、基本的には、一人一人がソロで歌うというのが目標なので、発声も、歌も、一人で歌っていただく場面が多い。歌というのはその人そのもので、その人にしかできない表現、その人にしか歌えない歌がある。ひとりひとりの方が自分の声に向き合い、自分の存在を歌の中に流しこむことができたらどんなに素敵だろうとわたしは思う。

受講者の方達が歌うことに、それぞれ意味を見出してくださっていることがうれしかった。家で練習したり、歌詞をすっかり覚えたり、クラスの後にも生活の中に歌が入り込んでいるようだった。

実際、わたしもこの3ヶ月あまり、良くThe Sound of Music の歌を歌った。どの歌も覚えてしまい、歌が身体の中にストンと落ちたような気になっている。(悲しいかな、覚えたと思っても、歌わないでいるとまたすぐに忘れてしまうのだが)

最終回の今日は、クラスの後、みなで近くのカラオケ居酒屋へ繰り出す。
まずは英語の歌からビートルズとかPPMとか、日本のフォークソング、沖縄の歌も・・・歌って、飲んで、食べて、楽しい2時間半を過ごした。
さて、次のクラスではどんな歌を取上げようか・・・ひとりひとりの顔を思い浮かべながら、選曲をしよう。伴奏の練習も。夏休みの課題だ。

良い夏を!と声をかけ合って分かれる。


2005年07月12日(火) 櫛型山  その原生林に息づいているもの


その時いったい、何が起こったのだろう。
樹齢300年という巨大な古木の幹に身体を寄せ、
そのしっとりと湿った木肌に両手をつけ思わず目を閉じる。
何か大きな力がわたしの体を通り抜ける。
瞬間、わたしの魂はどこかあらぬ方へ飛んだらしい。
眼を開いた時、高いところからいきなり着地したような衝撃。
瞑想していたのだ。本当に短い間だったが・・・

櫛型山はなんとも不思議な山だった。
山というよりは海底にいるような気持ちがした。
平地のどこにもない空気は湿って重たく水のように充ちている。
古い樹木はその多くが寿命を終え、その根の形も生生しく苔むした柔らかな土の上に倒れており、その朽ちた古木の脇から新しい若木がいく本も伸び始めている。
死と誕生がそこには同時に生起し、そこだけ違った時間が流れているようで、うっかりその境界を越えると木々達の時間の中に吸い込まれてしまうのではないかと近寄り難い。

そこを横切る人間達はひたすら頭を下げて歩き、時折りはっとして振り向くのではないだろうか。木々に背中を向けた間に、木々が動いて何やら言い交わしているのではないかとそんな気配を感じて。
そう、ちょうどあの、「だるまさんがころんだ」の遊びのように。
聞こえない木々の言葉が行き交っている、確かに。

古木の下の湿った床は葉脈もくっきりと怖いほど生き生きと茂っているシダや、コロボックルがひょっこり顔を出しそうな、ゆかいな格好のヤブレカサにいちめん覆われている。他にもオダマキ、キンポウゲ、名前も知らないたくさんの植物達の饗宴。ここは原生林そのもの。


午後2時、登山にはかなり遅い時間に、池ノ茶屋林道に車を置いて歩き始める。そこからそのような古木の脇を歩いておよそ一時間、櫛形山山頂(20054m)へ。そこから50分ほど歩き、裸山(2003m)。そこから20分も歩けば、アヤメ平。
驚くほど広範囲に広がる菖蒲の群落。菖蒲祭りの標識に沿って歩くと、群落の中を人間が踏み荒らすことのないよう、ロープで仕切られた小道が続いていた。
原種の菖蒲はきゅっとひきしまっていて小ぶり。カキツバタやアイリスの華やかさはなく、その濃い紫には力強さと可憐さが同居している。少し古風な美しい日本の女、そんな印象。

今にも雨がこぼれてきそう山道をまた戻り、原生林コースを歩き、6時前に池ノ茶屋林道へ。暗くならないうちに山から出ることができて良かった。夜に向かおうとしている人気のない山の中は、すでに外界を閉め出そうとしている気配が漂いはじめ、ここにいても良いのだろうかという気にさせられる。歩調を速め先を急いでいた時、傾きかけた日光が木々の間からいく筋もの帯となって差し込む風景に出合った。しばらくの間足を止め、人間が見てはいけないもののような気持ちでそれを見守る。

夢から覚めたように森から地上へ出る。そのまま増穂町が経営する温泉「まほらの湯」へ。7時半から閉館の10時まで、たっぷり湯に浸かり身体を休める。

このまま帰ることを考えていたが、ドライバーのKくんがどこかへ一泊してゆっくり帰りたいということなので、遅い時間、車を走らせつつ宿を探す。S隊長が目ざとく見つけた石和温泉のスパランド、ホテル内藤はなかなか良い宿泊場所だった。4人で軽く飲み、KくんとMくんが部屋に引き上げた後、S隊長とわたしは夜中の2時まで風呂三昧。わたしは意識は朦朧としていて風呂の中で眠っていたといっても良いくらいだったが。翌朝も8時からチェックアウト寸前の10時まで風呂。今流行りの岩盤サウナにわたし達はすっかり夢中になっていた。


実は、この日、我々4人は一泊の予定で、富士山に登る計画だった。集合場所の上尾駅に午前7時に集合し、お昼頃河口湖5合目まで来る予定だったが、雨が降ったり止んだりと天候は良くない。山頂の山小屋へ問い合わせると、「山頂は雨だと思って来てくれ」とのこと。翌日は雨の予報が出ているし、来光は望めない。残念だが行き先を櫛型山へ変更。南アルプスICを経由して登山口になっている池ノ茶屋林道へ向かった。

富士山は雨だと気温が恐ろしく低くなる。また足元も滑り易い。経験の浅い我々3人は、せっかくそのために来たのだから登りたいと思っていたが、山の経験豊富なS隊長は、ここで無理に行ってはいけないと何か胸騒ぎのようなものを感じたらしかった。彼女はこういう時のために用意していた櫛型山行きの計画書を取り出し、ここは雨でも素敵なところだし、ちょうど菖蒲の時期だから行く価値があると我々を説得して行き先を変更した。この判断は見事だったと思う。

お陰で、この時期にしか見ることのできない菖蒲の群落に出合えた。またそれ以上に、木々達の息づかいが耳元で聞こえる原生林との出会いは素晴らしかった。

              ( 7月8日 櫛型山山行 )


2005年07月11日(月) 1週間のブランク、すみません

まずはいつも日記をお尋ね下さっている読者の方々へごめんなさい。
(と、深深とお詫び)

いったいどういう訳でこんなに日記が空いてしまったのか、自分でも良く分からないのですが、まるまる1週間、空けてしまいました。

書くことがなかったのではなく、書くべき事が多すぎたのです。
で、十分な時間を取ってと思うのですが、そのまとまった時間が取れませんでした。

夜は相変わらず、焼酎を飲んでいるものですから、早々に酔っ払って書けなくなってしまうということも原因のひとつかな。
後、日記を書くのに一番都合の良い午前中というのが、先週は全く空いてなかったということもあります。

で、今夜ももう深夜の1時15分という時間。明日は朝から夕方まで4クラスありますから、これ以上の夜更かしは禁物。

きっと明日以降、遡って山行きの記録など書くことになるでしょう。どうぞ、気長にお付き合いくださいませ。

では、今夜のところはこれで。
みなさん、おやすみなさい。
もう、大方の人は夢の中にいることでしょう。


2005年07月10日(日) 蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい

「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」

このイエスの言葉を、若い日に小気味良い気分で聞いた。
まるで相反するような二つの生き物の対比、そのパーソナリティーの比較がおもしろいと思った。

<蛇のように賢くあれ>

ぽわぽわと地上5センチメートルのところを浮遊しているようなわたしにとっては、いわば戒めのような言葉。
さて、あれから月日はずいぶんと過ぎ、わたしは蛇のように賢くあるだろうか。
相変わらず、間抜けなわたししか見当たらない。


<鳩のように素直であれ>

わたしはどちらかというと、蛇よりは鳩であるかも知れない。しかし蛇の賢さを伴わない素直さはどこかでもろく弱い。


<人々を恐れてはならない>

説教者は語った。わたしたちは人を恐れる。なぜ恐れるのか、それは神を第一に考えていないからだ。神を畏れるならば、人に脅える事はないと。

そうだ。人を恐れるということは、神を第一にしていないということ。
わたしは、恐るるに足る者へ眼を向けず、恐るるに足らざる者を恐れている。

これもわたしの特質だが、わたしは人を恐れる。人から嫌われたり、疎んじられる事に必要以上に神経質になる。その態度の中にそれが見えたりすれば、その事が始終心から離れずに鬱々としてしまう。
その事が分かっているから、まず人から嫌われないようにという気持ちが働く。
たいていの人は自分から嫌わなければ嫌われるという事はないが、子供の頃、娘時代にはそれが通用しなかった。あるタイプの女の子から、言われもなく疎んじられるという事が稀にあった。女特有の、理屈のない嫌われ方なのだから、為す統べがない。
たいていがリーダーとして君臨しているような立場の女の子。で、わたしは家来のようにその傘下に入ろうとはしないから、女王様はおもしろくない。まして、彼女の取り巻きがわたしと親しくすれば、わたしの存在が疎ましくてしかたないに違いない。
なんだか最近、子どもの頃の苦痛を良く思いだす。

友達からの嫌がらせで学校へ行けなくなったUちゃん、あれからがんばって学校へ行っているようだ。わたしに会いたいと言ってきた。きっと彼女の胸の内には怒りや我慢が渦巻いているんだろう。木曜日に会うことにした。





< マタイによる福音書 10:16−33>


「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。

人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。

また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる。

引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。

実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。

兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。

また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。

一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい。はっきり言っておく。あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る。

弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。

弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である。家の主人がベルゼブルと言われるのなら、その家族の者はもっとひどく言われることだろう。」

「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。

わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。

体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。

二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。

あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。

31 だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」

「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。

しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」


2005年07月04日(月) 永井荷風 「狐」 を読む

先週のことになってしまいましたが、ゼミで取上げられた永井荷風の「狐」について感想を書きかけたままにしていたので、今日続きを書きました。その前に、「あめりか物語」と「ふらんす物語」を読んだのですが、おもしろかったです。坂口安吾も引き続き読んでいます。今週、文庫本2冊分の作品集を堪能しました。感想はまたいずれ。今日は「狐」の感想を記しましょう。




6月27日の正津文学ゼミ。テキストは永井荷風の「狐」。

永井荷風の作品を読むのはこれが初めてだった。この作家のことについては花柳界に入りびたり、そこに生きる女達を書いた「花柳小説家」ということくらいしか知らなかったので、華やかな花柳界とはまるでトーンの違う、幼少期のことを描いたこの作品を意外に思った。

読まず嫌いを決めこんでいたが、読んでみると、文章は美しく洗練されている。声に出して読むとそのリズムが心地よく、日本語の美しさを改めて気づく。また風景や人物の描写力にすぐれ、自分も人も客観的に見る冷めた目と、柔らかな少年の心を失わずにいる優れた作家だと思った。そうすると、作家がどういう育ちをし、何をきっかけにして「花柳小説家」になったのか、ひどく興味を持ち、図書館で作家の作品集や評論集などを借りて読み始めてみると、なんともおもしろい。

荷風は25歳から30歳までの5年間、アメリカとフランスに外遊しているが、「狐」は外遊から帰国したすぐ後に書かれたものだと知り、なるほどと腑に落ちるものがあった。
というのも、「狐」の中には幼少期の自分の家の様子、家族やそこに出入りする人々、また 幼い心で感じたことが、実に生き生きと表現されている。作家本人がその過去の事柄をまるで新しく見ているような新鮮が感じられるのだ。どうしてこれほどまでに古い過去の出来事の描写が新しい驚きのようなものを帯びているのだろうと、読みながら不思議だったのだ。

どういう理由でわたしが納得したかという事だが、外国でしばらく過ごす内に、自分の祖国は遠い存在になってしまうのだが、自分の幼少の頃の事、忘れていた記憶の底に沈んでいたことが妙に生き生きと思い出されるという経験をわたし自身がしているからだ。欧米の暮らしとまるで異なる昔の日本を、ある意味外国人の眼で見るからなのだろう。そうするとそれまで、取るに足らないと思っていた日本の正月の習慣や祭りや、家庭での話題などが、全く異なる光りを帯びてくる。取るに足るおもしろいこと、書き残しておくべきことと思えてくる。わたし自身がその文化に愛着を持っているとか懐かしむという感覚ではなく、外国人から見ればこの習慣はおもしろいと思えるだろうという、一種のエキゾチズムに刺激されるようなのだ。


さて、しかし、荷風が「狐」と同じ時に発表している「ふらんす物語」、またその前年に発表している「あめりか物語」を読む限りにおいては、日本を懐かしみ、その文化を見直したというような記述は見当たらない。むしろ日本を欧米の文化や習慣、人の立ち振舞いと比較して、その貧しさに言及する記述が目立つ。異国に触れることで、日本に落胆していることが見て取れる。「ふらんす物語」はこのような言葉でしめくくられているのだ。

<・・・長い長い船路の果てに横たわる恐ろしい島の事を思い浮かべた。自分はどうしてむざむざ巴里を去ることが出来たのだろう。>

現代日本に生きているわたしでも、帰国してからの逆カルチャーショックは予想以上につらいものがあった。それまでは当たり前の事として受け入れていた様々な事にいちいち突っかかった。さらにはどこにも持ってゆくことのできない気持ちを抱えて暗澹たる気持ちの中に沈み込んだ。明治時代の日本であれば、その落差はさらに大きく、荷風の落胆ややり場のない気持ちはどれほどのものだっただろう。

「狐」の中で、幼い頃に感じた古庭の恐ろしさや不気味さ。そして鶏を殺した罰として狐を殺した男たちが、今度は狐を殺した祝いの宴のために鶏を二羽殺すことへの理不尽さを書いているが、欧米から戻ってきて、感じる日本への「恐ろしさ」に、幼い頃心に焼きついた「恐ろしさ」が結びついたのだろう。いえ、荷風は幼い頃の原風景の中に、今の荷風の心情を塗りこんだのかもしれない。

荷風はその「恐ろしさ」と対抗するかのように、外遊帰りのエリートとしての歩みを歩まずに、死ぬまで、「崖の上の屋敷」の父親とは異なる「崖下の貧民屈」に生きる人を通した。
荷風が「崖下の貧民屈」から日本という国をまた世界をどのような眼で見ていたのか、荷風が書き残した作品、とりわけ、荷風が死ぬまで書き綴った日記「断腸亭日乗」を読んでみたいと思っている。


2005年07月03日(日) 収穫は多いが、働き手が少ない

主日。

収穫は多いが、働き手が少ない・・・
この言葉は良く牧師や祭司などの教職者が不足している時に使われる。確かに世界中で教職者が不足しているそうだ。
今日の説教の中で、この働き手は自分ではない「誰か」の事ではなく、むしろ、自分自身が働き手であることを自覚すべきだと感じた。

家に帰ると古い友人から登校拒否の姪の事を相談される。家族には理由も分からないからできれば会って話をして欲しいと言う。
普段のわたしだったら、そういうのは専門家に任せたほうがいいと言っただろう。面倒な事にはかかわりたくはないと。でも明日時間を作って会うことにした。

働き人として召されているのかもしれない。わたしができることがあるかもしれない。わたしに力はなくとも、そこに神が働くおつもりなのかもしれない。だとすれば、「誰か」ではなく、わたしが引き受けるべきだろう。


翌日、雨の中、約束の場所へ出かける。歩く道すがら、祈りながら歩いた。ともかく、その子と話ができるようにと。
待ち合わせのピザ屋へ入ると、すでに二人は店にいて、ケーキを食べていた。ところが、わたしを認めるやその中学1年生の女の子は椅子に後ろ向きに座りわたしに背中を見せる。これははずかしがり屋の次男が小さい頃よくやっていた格好、子どもってこうだった・・・。

友人相手に話し始める。しばらくすると顔はこちらに向くものの、眼を合わせようとはしない。けれどもある時からその子はわたしを一直線に見つめて、凄い勢いで「訴え」を始めた。わたしも彼女の見通すような視線を受けて立つ。2時間後、わたしとその子は握手したが、その握り返す手が強いので笑ってしまう。彼女は明日学校へ行くという。戦闘モードが伝わってきた。
この子は強い、やれるなと思う。

「あぁ、疲れた、あたし必死で訴えたんだから。」
「あぁ、わたしも疲れた。必死で聞いたんだから。」
ピザ屋を出て、いっしょに本屋へ行く、児童書コーナーで行き、ナルニア国物語の1巻「ライオンと魔女」を彼女に手渡す。
現実はいつだって過酷だ。とりわけ、子どもの頃は。
こんな時、わたしはファンタジーに力をもらってきた。そういうものが、案外楯になる。


守られていること、生かし力をくれる存在があると言う事を彼女がしっかりと受け止めることができますように。






マタイによる福音書
9:35−10:15

35 イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。

36 また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。

37 そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。

38 だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」

1 イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。

2 十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、

3 フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、

4 熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。

5 イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。

6 むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。

7 行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。

8 病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。

9 帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。

10 旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。

11 町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。

12 その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。

13 家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。

14 あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。

15 はっきり言っておく。裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む。」


2005年07月02日(土) オレンジ色の花を持ってお見舞いに

タミといっしょにY先生を病院へ見舞う。
タミの運転する牛の模様の車(彼女は白い車に黒いペイントで牛の黒い模様を付けている)で、道を探しながら行く。

アメリカ人のタミは日本語もすっかり身体に馴染んだが、この辺りの道はわたしよりもはるかに詳しい。

Y先生はわたしたちが通っている教会のメンバーで、以前この方の事を2002年8月18日の日記メメント・モリ あなたの死を覚えよに書いている。

あの日記を書いた頃は礼拝の説教を担当なさるほどお元気で、月一度のダンテの「神曲」の学習会ではエネルギッシュな講義をしてくださっていた。また、翌年には最後の翻訳、カール・バルトの「キリスト教倫理学総説1/2」の翻訳を出版なさった。

しかし、1年前から健康を害され、入院生活が続いている。
しばらく病室をお尋ねしていなかったので、気にかかっていたので、タミといっしょに行ったのだった。

そういえば、タミの亡くなった御主人のヨシヤさんの肺癌が見つかったのが、ちょうど去年の今頃。そして、ヨシヤさんはWeb日記泣いて笑って空を見てを書き始めた。そしてヨシヤさんの闘病日記をタミが受け継いでその後も書き続けている。数あるWeb日記の中でも、アメリカ人が日本語で綴る日記は珍しいのではないだろうか。母国語でないが故の新鮮な日本語に驚かされる。

病室に入るとY先生は眠っておられたので、眠りを妨げないよう、わたし達は近くのコーヒーショップで一時間ほどおしゃべりをする。その道すがらに花屋があり、その店先に美しいオレンジ色の見慣れない花があった。かがり火という名前がついている。新品種の花なのだろうか、その色が元気をくれそうな気がしたので、病室へ持っていくことにした。

二度目にお尋ねすると、目を覚まされていて、いろいろおしゃべりをした。以前お尋ねした時よりも、お元気な印象を受けた。

神に仕え、社会に貢献し、様々な偉業をなさったY先生は今は、人生のしめくくりの時を生きておられる。
「最上のわざ」という作者未詳 ヘルマン フォイヴェルス訳の詩を思い出した。この詩のことは2001年7月23日の日記に書いている。


2005年07月01日(金) 別の世界へ行ったり来たり

ジムへ出かけようとしたら、郵便受けにKさんからの詩集が届いていた。
そのままバックへいれ、待ちきれないので、バスを待つ間、包みを開け詩集を取り出す。

辺りの景色が遠のくのは、わたしがその詩の世界にすっかり移動してしまうからだ。洋服ダンスの奥にナルニア国が広けたように、言葉は人を別の時空へとひとっとびさせる。

「記憶祭」会ったこともない少年はなつかしい顔をしていて、わたしはその少年であったことに気づく。子ども時代という過ぎてしまった世界、しかし気分というのもはいつも生々しく取り出せるものなんだ。
ふと忘れていた詩を書きたい気持ちが起こる。

詩集を閉じてバスを降りると景色はまた戻っていて、わたしはわたしの今をまた続ける。
エアロビクスのクラスを二つ取った後、家には帰らずに大きなバッグを抱えたまま、電車で大宮へ。

友人2人と待ち合わせ。この3人で飲むのは初めての事。何とも愉快で楽しいお酒だった。違う世代をそれぞれの場所で生きてきた人間が、ふとした事でクロスする。その出会いの不思議、ありがたさ。生きている限り、人と出会い続けていくという事のは何と喜ばしい。

Fはわたしがいつのまにか、飲めない人から飲む人になっていることに驚き、Yは、しばらく前まで、わたしが飲めない人だったことを知って驚く。
わたしは人並みに(とまではいかないが)気持ちよく酔っ払えることがとてもうれしく、得をしたような気持ちになる。

ビール中ジョッキ一杯と本格焼酎を2杯、水割りで。
大丈夫、心臓はドキドキしないし、脈拍も正常。わたしの体はアルコールを拒否しなくなった。それでいて、アルコールに強いわけではないからとても酔っ払う。ここでも辺りの景色が遠くなるのを、正常なわたしがどこかで引っ張って元に戻す。

実は二人と別れた後、酔いを醒ますためにコーヒーでも飲もうとカフェに入ったのがまずかった。うっかり気持ちが緩み、わたしは自分がどこかあらぬ世界へさ迷い出すのに任せてしまった。
別に暴れるとかひっくり返えるとかそんなのではなく、カフェの片隅で、わたしは静かに酔いつぶれていた。

最後まで書かないと読んだ人が心配するね。
何度も眠りこけながら、ここを通過する予定になっている同居人にメール、ここにいるから寄ってとメールする。

さて、どれほど時間が過ぎたのか、朦朧とする視界の中に、笑いながら近づいてくる同居人の姿が入った。
この夜、わたしは日頃にも増して、おかしい行動が目だったらしかった。


たりたくみ |MAILHomePage

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