たりたの日記
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2005年05月30日(月) オレンジ色のコートの中にしっぽをしまって

あなたは変な人だ、いろいろ変な人はいるがかなり変っていると三日に一度くらいの割合で同居人から言われる。その「変さ」というのはわたしには分らない。けれど、わたしから見れば変な人で、どのカテゴリーにも当てはまらないように思える同居人がそういうのだから、わたしはどこか変なのだろう。そして周りに警戒する人がいない家などではほっかり、しっぽも出てしまうから、その事が容易に目に止まるというわけなのだろう。
今日は、家の外に居ながらしっぽが伸びていたのかもしれない。でもわたしは変な言葉を出さないように自分を見張っていたから、誰にもしっぽは見えなかったに違いない。

今日は文学ゼミで坂口安吾の「私は海を抱きしめていたい」を学ぶ日だった。
ゼミの前に、ゼミ仲間の中では主婦とかいう立場が同じであるSさんから自宅にお招きを受けていた。昼間から山ウドの天ぷらやら、こっくりした煮物やら、そこいらの居酒屋では決して食べることのできない美味しい手料理と彼女の故郷のワインや、後主人お勧めの焼酎やらを散々ごちそうになって、ほとんど夢心地。朝から降り続いている雨も少しも心を曇らせることなく、足取りも軽くSさんとゼミの会場へ。

会場へ着いて見れば、この前の山行きでお会いしたSさんがわたしに下さったという鹿児島芋焼酎「純黒」が届いていた。見るからにおいしそうな焼酎。当然の成り行きで、みなでその焼酎を飲みながらのゼミと相成った。
先生から安吾についてのレクチャーと作品の解説があり、その後、それぞれに感想を述べていく。何時もと変りないゼミの光景だ。個人がどのような感想を持っても、又批判しても良い。自分とは違う読み方、違う受け止め方はそれなりにおもしろく勉強になる。時に異なる受け止め方がぶつかり合い、白熱することもある。それがまたこの場所での学びのおもしろさだと思っている。

ところがこの日はわたしの心の中は何とも妙な具合だった。酒のせいであるのかもしれないし、そうではなくテキストが坂口安吾だったからなのかもしれない。安吾に関する客観的な批評がなぜかグサグサと心に刺さった。例えば、彼はお坊ちゃんだとか、甘えているといった辛口の言葉。それに反発しようという熱い気持ちは起こらずただ痛かった。その痛さというのは、わたし自身がまな板の上に載せられているような、あるいは夫や子どもや親の事を言われているようなやりきれなさにも似ていた。「それはその通りだろう。そのようにも受け止められるだろう。けれどもそのような自分の魂とは無関係の高みから、批評しないでくれ!」と心は叫んでいるのだ。

それはどうしてなのか。ついこの前知ったばかりだというのに、坂口安吾という作家、わたしが生まれる前に死んだ一人の作家とわたしは契りを結んでしまったらしい。男とか女とか、生きているとか死んでいるとか、そういう事とはまるで無関係に、ひとつの魂と結びついてしまうことがある。その事はわたしもほとんど無自覚のまま、わたしの内面で突如として起こる。そうなれば、もうその魂は身内のようなものなのだ。とても批判の対象には成り得ない。その魂の高さや純粋さだけでなく、そのものが持つ弱さや欠けや痛みともまるごと結びついてしまうわけだから。
そういう特別な出会いが起こってしまったことを知らされた。
わたしの傍らに安吾、その人が座しているのである。その魂の波だって伝わって来る。何も言えないではないか。

わたしは少しさびしい気持ちのまま、オレンジ色のレインコートの中にそっとしっぽをしまい込み、みんなと雨の中を歩き、それから別れて電車に乗った。安吾は電車の中でもわたしの傍らに居て、黙ったまま、雨が降りつける黒い電車の窓を見ていた。


2005年05月28日(土) 高尾山へ

同居人mGと高尾山へ行く。春先、たまたま本屋で「大人の遠足」という雑誌の<春が来た!高尾山へ>という特集を買った。春の高尾山の植物を見に行こう同居人と話しながらそのままになっていた。うかうかしている間に3月も4月も過ぎ、はや5月も終わりを迎えている。まだ春の植物が残っている内に行かなくてはと腰を上げた。

高尾山は山行きというよりはハイキングと言った方が良いくらいの山だが、植物を楽しむには打って付けの山だ。1500種類もの植物が生育していると聞く。高尾山口駅から高尾山山頂に至るまで、高尾山自然研究路という1号路から6号路までの特色のある山道が整備されている。さすが国定公園。

わたし達は5月にお勧めとされる6号路を通って山頂へ向かうことにした。
ちょうどシャガの花盛りで、山道の両側といわず、沢の両端といわず、いたるところにシャガが咲いている。シャガという花は、カキツバタのミニチュアみたいな花で色は薄紫色。mGはこの花きれいだとカメラを向けては次々にシャッターを切っていたが、実はこの花は我が家の玄関脇に毎年咲いている花だ。確か山野草が好きな友人から苗をもらったのだったと思う。水をやらなくても。肥料をあげなくても、ここ10年咲き続けているのだから、ほんとうにワイルドフラワーだ。

6号路の途中で、高い杉の木の着生して咲く、ラン科のセッコクという白い花を見つけた。他にもフタリシズカやヤブデマリなどの珍しい花もあちこちで咲いていた。
このセッコクだが、雑誌に大写しの写真があったので、その存在は知っていたものの、ずいぶん高い木の上に生育する花なので、ずっと上を向いて歩いているのでなければ到底見つけられない。ところが、山から降りて来た方が、この先のベンチの上を見上げるとセッコクが咲いているのが見えますよと熱っぽく教えてくれたのだった。彼の興奮の状態から察すれば、セッコクの花を見るというのは特別な事なのだろう。セッコクの花は確かに高い杉の木の又のところに見えた。しかし何分遠いところに咲いているので、雑誌の写真のようにはっきりとは見えない。双眼鏡で見ている人もいたから、そもそも肉眼で観察できるような花なのではないのだろう。

ほどなく山頂。かなりの人。昼にはまだ早いが、あちらこちらで宴会が開かれていてえらく賑やかだ。ケーブルカーで上がってくる人もいるいるだろうし、お蕎麦などを食べさせてくれる茶屋などもあるから、山頂のピクニックというよりは居酒屋のようだった。それでとういうわけではないけれど、わたしは思わず焼酎を飲みすぎてしまった。もともとアルコールは弱いので、山なんかでは舐めるほどに留めておくのだが、今回はmGと二人なので、すっかり気持ちがゆるんでしまったんだろう。顔は真っ赤になるし、もう目を開けていられないないほど眠い。おまけに寒くってたまらない。おにぎりやつまみやらですっかり腹いっぱいになった後だったが、休憩するために茶屋で名物のとろろ蕎麦なんかを食べる。

ひどいことにならずに無事アルコールも抜け、下山。帰りのルートは自然研究路の4号路、2号路、1号路と繋いで高尾山口まで戻る予定だったが、2号路の途中から道を間違え、蛇滝の方へ入っていってしまった。こうなれば、引き返すよりはさらに歩き、蛇滝口のバス停まで抜けた方がよさそうだと先へ進む。この路はさすがに人がいない。聞こえるのは鳥の声だけ。まさに密林のジャングルのような植物の濃いエネルギーに圧倒される。

雑誌の付録についていたバスと電車の乗り継ぎの時刻表を持参したのが役に立った。ほどなく来るくバスに乗れば、電車の乗り継ぎもタイミングよく、6時からのファンクのクラスにも出ることができる。
とういうわけで、新宿でmGと別れ、ジムへ直行しファンクを踊る。その後再びmGと予定のラテンのクラスへ。一週間の締めくくりはやはりラテンでなくては。なんと贅沢な土曜日だったことだろう。






2005年05月26日(木) 今ごろ、坂口安吾を読み始めている

昨日から読み始めた坂口安吾全集04、読んでしまった。
今日はジムの日でほぼ一日ジムで過ごしたから、クラスの合間に自転車こぎながらとか、帰りにドトールに寄り道してとか、そして夜はパソコンを開かずに本のみに没頭した。その間に焼酎のお湯割りを3杯飲んだので、途中ノビてしまったが、目が覚めてまた読んだ。
読むことを止めることができなかった。そして読むほどにこの作家が好きになる。同居人は、あきれた調子で、なんで今頃と言うけれど、わたしにとっては、若い時ではなく、今が出会う時だったのだろう。

読む前は、遠い人という先入観があったが、4巻を読んだ限りでは、これまで読んだ男性作家の中では最も近さを感じる。すぐそこで呼吸をしているその人を感じるような近さを思う。男性の詩人や作家ではどちらかと言うと女性的な中性的が好きだと思っていたが、安吾はそうではない。ある意味、男男している。苦手なタイプのはずなのに、感じてもいいはずの違和感や拒否反応がない。これはいったいどういうわけだろう。

嘘がないから、たぶん。むき出しの魂だから、おそらく。こんなにも純粋に生きた文学者がいたのだと溜息が出る。それに宗教的だ。彼は宗教家ではないし、作品に聖書や仏典を引用しているというのでもない。それでもわたしには堕落論も、女性や性への向かい方にも、なぜか宗教性を感じてしまう。それも純度の高い。わたしが塩をかけられると感じるのも、そこに寄るのだ。わたしのなまぬるさや濁りに塩が降りかかる。

全集は全部で17巻あるのだっただろうか。明日にでも次を読みたいところだけれど、もう一度4巻を読み返し、課題の「私は海をだきしめていたい」のことを考えよう。

4巻には、1945年〜1947年にかけて発表された著作44編が収録されている。この中でとりわけ印象が深かったものは、
「堕落論」、「白痴」、「女体」、「いづこへ」、「恋をしに行く」、「風と光と二十のわたしと」、「私は海をだきしめていたい」、「道鏡」、「通俗と変貌と」、「ぐうたら戦記」


―「通俗と変貌と」より―

芸術は「通俗」であってはならないが、いかほど「俗悪」であってもよい。人間自体が俗悪なものだからである。むしろ俗悪に徹することだ。素朴や静寂に徹するよりも、俗悪に徹することは、はるかに困難な大事業だ。そこには人の全心全霊のあらゆる力が掛けられることを必要とする。その道は自爆以外にないのである。





2005年05月24日(火) 悲しみを慈しむということ

いつも感想を送ってくださる日記の読者のTさんが、昨日の感想のメールで、良い言葉を教えてくださった。

<慈悲と言う言葉は、悲しみを慈しむという意味合いを持つ>



透き通った悲しみというものがある。それは、その人の感情とはかかわりなく、その人の存在に常に透けて見えている。わたしはその悲しみの冷たさに触れるのが好きだ。それはとても犯し難く、尊いものに思え、またわたしにも伝染する。

まだ尾崎翠に浸っていたい気分ではあるが、今日は次のゼミの課題の坂口安吾を読んでいた。テキストの「私は海を抱きしめていたい」は、そういう意味では、恐ろしく純度の高い悲しみが滲み出ていて、くらくらと眩暈がした。センチメンタリズムとはほど遠い、むしろ宗教的なものを含む根源的な悲しみ。

この短編の始まりの言葉はこうだ。

「私はいつも神の国へ行こうとしながら地獄の門を潜ってしまう人間だ。」


昔から坂口安吾はなにかおっかなく、塩をかけられてナメクジのようになってしまう自分を予感し、読まずに来た。その予想は当たっていたとも言える。それでも、「坂口安吾全集04」というのを読み進めている。
傷口に沁みる塩のような味わい、その痛さはむしろ心地よい。

感想はまたいずれ。


2005年05月23日(月) 「絶えず死の悲しみに心をうちつけて居たい」 尾崎翠

夕暮れ時、しかも雨。
窓の外のトーンがわずかずつ落ちて来る。まだ見えているハナミズキの葉の上の雨の雫も闇に飲み込まれてじきに見えなくなる。木の幹と枝はもうすっかり黒いシルエットになっているのだもの。

考えてみれば、暮れなずむ時間にこうして窓の外を見ているというのは珍しい。多くの場合、この時間帯は仕事や用で外にいるか、そうでなければ忙しく夕食の支度をしているか、あるいはジムにいるかだ。
もしかすると無意識のうちに暮れていく時間に独りで窓辺に座わるという事を避けているのかもしれない。
けれども今はこの暗さとさびしさが心地よい。
このひとときの時間、ふっと死の姿が窓辺を横切る。
誰もが死んでゆくという死、累々と連なっていく命の終わりという死・・・


今日アマゾンから届いた尾崎翠集成(下)をさっきまで読んでいた。
4作目の「悲しみを求める心」はとても心に染入った。一度沁み込めばもう決して抜ける事がない染料のようにしっかりと染み付いてしまった感覚がある。
この夕暮れ時の窓辺の景色といっしょに、その気分をしまっておこう。

「絶えず死の悲しみに心をうちつけて居たい」 尾崎翠

 

―尾崎翠「悲しみを求める心」より抜粋―

 私は死の姿を正視したい。そして真にかなしみたい。そのかなしみの中に偽りのない人生のすがたが包まれているのではあるまいか。其処にたどりついた時、もし私の前に宗教があったら私はそれに帰依しよう。又其処に美しい思想があったら私はそれに包まれよう。
 私が母と話していたある時―私もこれから先十年の間だよ―と母が言ったことがあった。その瞬間に強い悲しみが私の胸を通った。十年―それは母の心やりである。母はなぜ今日、明日と言って呉れなかったであろう。私はそう言ってほしかった。私の頬には父の死にむかった時よりももっと深い悲しみの涙が伝わった。それは瞬間のものであったけれど真の涙であった。母の心と私の心とはその時真に接触していた。私の願うのはその心の永続である。絶えず死の悲しみに心をうちつけて居たいのである。それは決して無意味な悲しみではない。私の路を見つけるための悲しみである。


2005年05月22日(日) 湯けむり横丁 癒し処

今日の日曜日は忙しくも充実していた。まず教会学校のお話とオルガン、そして讃美の集いのリードと礼拝の司会。

今日はイエスを信じる弟子達を迫害していたパウロ(サウロ)が、イエスの霊に出会い、キリストが神の子ということを知り、キリストを伝える使徒に変えられるという出来事を話す。

午後からはM’Sのダンスレッスン、みっちり2時間。ヒップホップの方はなんとか。でもラテンの新しい部分の振りがわたしには難しすぎ・・・て、いうか、きちんと頭にしまいこまれない。自分の中にストンと落とすためには、どうしても、一度、動きを分解して頭に整理する必要がある。ま、ステージまでは時間があるので、あせらずいつかできるようになる事を期待することとしよう。

そういえば、今日、ダンスの前に図書館へ寄って本を返したついでに雑誌関係を主に4冊ほど借りてきた。その中の一冊は <現代詩手帖 特集「身体のポエジー」コンテンポラリーダンスの現在>興味深い特集だ。
ダンスのジャンルこそ違うが、踊っていると、身体のポエジー、身体が表現する詩的なものについて発見したり、考えたりする事が多い。人間の動きの中には確かに詩的なものがあると感じる。

さて、ダンスの後はジムの風呂へ行くはずだったが、ちょっと贅沢をして、奈央先生から教えてもらった湯けむり横丁へ。
聞いた通りにそれは素晴らしい空間だった。まず、そこに足を踏み入れた瞬間、宮崎駿のアニメ「千と千尋の神隠し」のお風呂屋さんみたいだと思った。あくまで人工的に作った空間なのだが、それ故に遊び心があり、ファンタジーに満ちている。
松明の燃える火を見つめながら、源泉掛け流しの温泉に身を浸す。打たせ湯の水の音、露天の涼しい風。まさに火と水と風の饗宴。うたた寝之湯なんていうのは、こんなのあればいいなと思っていたものが実際にあった!背中の下をちょろちょろと暖かいお湯が流れる。あぁ、ほんとに生きていることがつくづく悦ばしく思える。2時間などあっという間。今度は日がな一日、あるいは午後から深夜くらいまでここにいたいものだ。
いいとこ見つけた。奈央せんせい、ありがとう!

<お知らせとお願い>

いつも「たりたの日記」を読んで下さり、ありがとうございます。お陰で、一日平均、100件前後のアクセスがあり、投票によるランクも現在、文芸ジャンルのトップになっているようです。深く感謝です。

ところで、「たりたガーデン」のトップのページのURL http://www.geocities.co.jp/Bookend-Hemingway/3048/が近近、削除されることになりますので、http://members.jcom.home.ne.jp/tarita/をトップページのURLにします。お手数ですが、今のうちにお気に入りやブックマークなどの変更をお願いします。






2005年05月20日(金) 今年のアンネのバラ

今朝、アンネ・フランクのオレンジ色のバラが一輪開きました。
2001年の冬に植えて、2002年の5月に初めて咲いたから、今年で4年目ということになります。

確かこの花のことに付いては以前詳しく書いたはずだと日記を調べてみたところ2003年5月17日の日記で「アンネのバラが咲いた」というタイトルで書いていました。

今日はもういい加減に酔っ払って、まともな事は書けそうにないので、とっても短い日記ですが、これで止めてベッドへ行く事にします。
ついでに今日のお酒のことも記しておきましょう。今夜は宮崎の麦焼酎「いいとも」です。

いけない、ますます、眠い。どなたさまもお休みなさ〜い。





2005年05月19日(木) 尾崎翠 「第七官界彷徨」からやってくる匂いのこと

尾崎翠という作家のことは、「花束」と言う小品を文学ゼミで読んだ折に、4月25日の日記に書きました。

あの小品を読んだ時、それ一冊だけで予感した事が、当たっていたという事を今日は書いておきましょう。

ゼミの翌日、アマゾンに尾崎翠集成(上)(筑摩書房)を注文し、読み始め、ちびちびとそれは楽しみながら読み進め、今日、おしまいまで読んでしまいました。読み始めてすぐに、下巻を注文しなかった事の愚かさを悔やみました。

この作品集の中で一番好きなのは、代表作と言われる「第七官界彷徨」でした。いったいこの不思議に素敵な世界をどんな言葉で表したら、その匂いの一部でも伝える事ができるのかとさっきからうろうろと書き出せないでいました。とうとう書きあぐねてソファにひっくり返って小一時間ほど眠ってしまいました。眠った事は対して役には立ちそうにありませんが、とにかく思うままに書くことにします。

まだこのストーリーを読む前に、ゼミのメンバーのKさんに、その話はどのようなものですかと訊ねると、Kさんは一言、映画の「アメリ」のような感じですとおっしゃったのです。アメリというのはなんとも不思議で、みょうちくりんな、それでいてなつかしいような感じがする女の子が出てくる詩的な映画です。あっ、分かるとその時にぷんと匂ったその匂いが、ストーリーの中には確かにありました。

いえ、実際の匂いということであれば、このストーリーは、主人公、小野町子の兄、小野二助の部屋から匂ってくる肥やしの匂い(彼は肥料の研究をしている学生で、コケの恋愛と肥やしの関係について調べているのです)にまみれているのですけれど、まさか、そんな有機物の匂いを感じたというわけではありません。

肥やしの匂いではなく、「私はひとつ、人間の第七官にひびくような詩を書いてやりましょう」と、分厚なノートを詩でいっぱいにすることを夢見ている女の子の持つ、ハッカ菓子のようなすきとおった匂いを匂ったのでした。そして、そのどこにもないくせに、ひどくなつかしい匂いは、この本を読むうちにすっかり、わたしの身体に染み付いてしまったようです。思えば、小さな少女の頃からこの匂いはわたしを包んでいたような気がします。

今のこころもちというのは、出来る事なら、この匂いを消さないために、他の本を読むことをしばらくよしておきたいと思うほどです。
いよいよわたしも、翠病にかかってしまったのかも知れません。と言うのも、ゼミの仲間のTさんが、「尾崎翠だけ読んでいればそれでいい、後の作家のものなど読みたくないという気持ちになる」とおっしゃるのを聞いて、これはまた凄い入れ込み用だなと、ひとしれず感心したのですが、この作家のファンにはそういう信奉者が少なからずいるらしいのです。
でも、その気分はとても、とても分かります。そういう、特別な魅力を持つ作家です。

ひととおり読んだ後で、このストーリーを朗読するとしたら、どういう朗読の仕方が合うのだろうかと、しばらく声に出して読んでみました。いわゆる、アナウンサーや声優のようないかにも訓練したようなそつのない朗読は全く向きません。ぼそぼそと、独り事のように、いっさいの虚飾と艶っぽさを捨てて、かさりと枯れた花のような、人間の匂いの極力しないような朗読でなければなりません。けれど老婆のようなという枯れ方ではないのです。意図しないかわいらしさとユーモアの潤いがある、そんな朗読。果てしなく難しいと思います。

そういえば、このストーリーの主人公にどこか似ている、少なくとも、似た匂いを持っている人物をわたしはひとり知っています。この日記の読者(おそらく、今でも読んでくれていることでしょう)のSがその人です。

そういえば、このストーリーに出会ったところから、順に遡って行けば、Sに行き当たると言うのも、偶然の一致です。尾崎翠→勉ゼミ→朗読会(高橋たか子&正津勉)で、この朗読会の事を教えてくれて一緒に出向いたのが同じ高橋ファンのSでした。

さてさて、とても影響を受けやすいわたしですが、また激しく、興味と関心が移り変わるわたしでもあります。この匂いがいつまでわたしの回りに漂っていることでしょうか。
取り合えず、明日にでも下巻を注文しなくてはと思っているところです。

きちんとした感想でも書評でもなく、こんな感じの文章を書いたのも、言ってみれば、その匂いのせいです。


2005年05月18日(水) Eと会う

読んだ本の事などで、書いておきたい事、書きながらもっと考えたい事はたくさんあるのですけれど、それをするのに十分な時間が今はありません。
もう時計は深夜の12時ですもの。
けれども今日の事で忘れたくない事はやはり書いておきましょう。

今日は仕事の後mGと共に、アメリカからの出張で日本に滞在中のEと飲みました。前回日本に来た時に会ってから4年ぶりの再会でした。
Eは中国系アメリカ人。顔は日本人と少しも変らないのですが、話す言葉は英語。顔が外国人っぽくないぶん、日本では苦労も多いのかも知れません。

EはmGが赴任していた会社で働いているので、話題はもっぱら、会社の人達の消息や、ニューヨークやニュージャージーの日本食スーパーや日本食レストランがどのように変遷を遂げたかといった事でした。

ここ10年ほどの間に、駐在員相手の日本食レストランやスーパーは次々に潰れ、その一方で、日本の漫画が勢いを伸ばしているということでした。翻訳されるコミックはますます増え、売り場も面積が広がっているとの事。日本食のスーパーは日本のアニメファンの溜まり場のようになっていて、様々な国の子ども達が、ポケモンやデジモンのゲームで対戦し合ったり、ゲームなどのトレイドをしたりしていると話していました。

アメリカの漫画は男の子用の悪者と良い者が闘うという単純なストーリーのものしかなく、いわゆる少女漫画はなかったので、日本のコミックはとりわけ女の子に人気があるらしいです。
そういえば、今年から英語学校で教えているネイティブの教師も、日本のアニメにそれは詳しく、わたしが知らないアニメをずいぶん知っています。

当時、教育熱心な親や教師達は日本から入ってきて、子ども達を魅了し、彼らの時間をすっかり奪ってしまうテレビゲームに困ったものだと眉をひそめていましたが、日本の漫画やアニメはどのように受け止められているのでしょう。
良いも悪いも、影響はもはや一つの国に留まらず、世界中に及ぶようになっているのですね。

Eと話していたらニュージャージーやニューヨークが恋しくなりました。土地とも人ともとても濃い関係を結んだ5年間だったからでしょうか。今だに心はその場所や人々と容易に結びつきます。

今朝は女友達のCからメールが届いていました。日本語は分からないけれど、
わたしやmGのサイトの写真を楽しんでくれているとの事でした。
Cは次男を初めてYMCAのナーサリースクールに預けた日に、スーパーで声をかけてくれた人でした。よく家族でパーティーや夕食に招いてくれました。
そういえば、初めてのヨガの体験も、彼女から誘われたのでした。

いくつもの出会いがそんなふとした一声から始っていく事を思えば、日々の出会いがどれほど大切か改めて思い知らされます。
新しい出会いも一つ一つ大切にしていかなければ・・・

この日記を読んで下さっている方。お会いした事もないのに毎日のように感想を下さる方、BBSに書き込みをして下さる方、欠かさず投票して下さる方。そういった姿は見えない心の繋がりにも感謝して、今日の日記を終えましょう。


2005年05月15日(日) ペンテコステの今日

ペンテコステ、聖霊降臨日。この日は教会の誕生日とも言われる。
イエスが復活し50日後の五旬祭(ペンテコステ)の日、イエスの弟子たちに聖霊が下り、彼らは突然、様々な国の言葉で語り始めたという。

今日は教会学校のお話の担当になっていたので、子ども達にペンテコステの話をする。はじめに英語で使徒言行録 2:1−4までを読み、子ども達に意味が分かるかどうかたずね、今度は同じ箇所を日本語で読む。言葉が違えば、語られている事が理解できないという事を体験させるためだ。

それに続いて、女の子と男の子のパペットを用いて、弟子達に聖霊が降りてきた場所に、ユダヤから遠く離れた国からやってきた男の子と女の子が居合わせ、その不思議な出来事を体験するというストーリーを演じた。

分級ではアメリカ人のAが、炎のヘアバンドを作る工作を指導してくれた。弟子達の頭の上に留まった炎を赤いセロファンと金色の紙などを用いて、炎を作り、ゴムひもで頭につけるというもの。アメリカ人の発想というのはほんと、おもしろい。

礼拝ではヨハネによる福音書 7:37−39 をテキストに説教が語られた。

「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおりその人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」

馴染み深いイエスの言葉だ。わたし達は渇いているだろうか。渇いていなければ、イエスが与える水を飲みたいとは思わない。わたし達は本来の渇きを見つめずに、他のもので心を満たそうとしていないだろうかという問いかけがあった。

わたし自身のこと。渇いていた日々があった。また渇く時がある。そしてイエスが与えてくれる水によって、生きた川が流れ出るのを感じる時がある。
祈る時、讃美する時、聖書の言葉を聞く時もそうだが、山の中を行く時、川の音を聞く時、野辺の花を見る時にも水は溢れて流れ出す。神が創り給うた自然が語りかけてくるからだ。
そしてまた踊る時も、歌う時にも水は溢れて流れ出す。それは神が創り給うたこの体が自らの表現を許され、命を得るからだ。
大切なのは、そこに大いなる力を感じとる事だろう。我が身から出た力ではなく、大いなる者が与える命、そして力。




【参考】

<使徒言行録 2:1−21>

五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、 この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。 人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。
どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。
わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、 フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、 ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。

人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。 しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。 すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。 今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。 そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。 『神は言われる。終わりの時に、、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、、若者は幻を見、老人は夢を見る。 わたしの僕やはしためにも、、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。 上では、天に不思議な業を、、下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。 主の偉大な輝かしい日が来る前に、、太陽は暗くなり、、月は血のように赤くなる。 主の名を呼び求める者は皆、救われる。


<ヨハネによる福音 7:37−39>

祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」
イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。




2005年05月14日(土) 滝子山山行



勉ゼミ(遊山倶楽部)での滝子山山行。今回は前回ダンスチームで行った三ッ峠とは対照的で、山からの眺めというよりは、山の中がすばらしくよかったのです。新緑は眼が覚めるように美しく、また山頂まで30分ほどの地点まで山道は大鹿沢に沿っているので、沢の流れの心地よい音と共に歩く事ができ、美しい滝もいくつか見ました。

気分はサウンド・オブ・ミュージック。川の側を行く時などは、まさに、
♪To laugh like a brook when it trips and falls over stones on its way♪ ( 石の上に落ちては旅する小川のように笑って)です。

2箇所ほど、足元がぬるりとする細い丸木橋を渡る場面があり、ちょっとスリリングでした。ま、すべって落っこちたとしても、ズボンをひざくらいまで濡らす程度の事なのですけどね。

頂上近くになると、下草をきれいに刈った、緩やかな丘のようなところが開け、ここはまさに 
♪The hills fill my heart with the sound of music. My heart wants to sing every song it hears ♪(丘は私の心を音楽の音で満たす。私の心は、心が聞き取るすべての歌を歌いたい)の気分。


メンバーは女性5人、男性5人。そのうち5人は初めてお会いする方々でしたが、中に山野草にとても詳しい方がいらして、行く先々に咲いている花や珍しい植物の名前を教えてくださいました。
延齢草、黄ケンマ、破れ傘、走り草、トリカブト、豆桜、春りんどう、アブラチャン、地獄の釜の蓋、ひとりしずか・・・まだまだありましたが、とても覚えきれません。

中でもとりわけすてきだったのは、山ツツジでした。滝子山の山頂から少し下山したところで急にガスってきたのですが、その白い靄の中に、濃いピンク色の蕾を無数に付けたツツジの木が浮かび上がっていました。わずか一つか二つ、花が開いて後はちょうどキャンドルのような格好で枝枝に蕾がついていて、もう今にも咲きそうな様子。この時期の花が内に秘めているエネルギーのようなものが伝わってきます。携帯でこの花の写真を撮ったので、夜にでもやり方を教わって、この日記に写真を貼り付けられたらと思います。


さて、先に山の様子の事を書きましたが、実はこの朝、ちょっとひやひやするハプニングがありました。
ここ数日間、早起きする練習をしていたので、朝は4時に起床し、お握りなども作り、ゆっくり朝食も取り、余裕で5時半に家を出て、同居人mGにJR北上尾駅まで車で送ってもらいました。ここから5時59分発の湘南新宿ラインに乗れば、乗り換えなしで新宿に6時46分に付きます。7時発の京王線に乗れば、仲間と合流できるので、ここまで来ればもう何も心配ないという気持ちで、mGに手を振り、意気揚々とホームへの階段を駆け上がったのです。

ところがです。人身事故のため、高崎線は始発から動いておらず、ダイヤは大幅に遅れるとのこと。こんなことなら乗り継ぎ覚悟でシャトルの始発5時48分に乗るのだったと思いましたが後の祭り。考えられる方法はシャトルの駅までタクシーで戻り、大宮→新宿。しかし、どうがんばっても7時の京王線は無理。こうなれば、特急を利用する他ありません。新宿発7時30分発の特急あずさ3号で大月まで行き、そこで乗り換えて笹子駅へ。集合は笹子駅に9時なので、大月で仲間と合流できるはず。もしもの時に備えて特急の時間もメモしておいてよかった。

しかし、早朝のためか駅前にはタクシーが一台もありません。mGへの携帯もつながりません。今日の山行きはあきらめるしかないなと思っていたところへタクシー。運転手さんも窮地を察してくれ、急いでくれました。6時5分発の電車に駆け込み乗車。ふうっ・・・この電車に乗り遅れればアウトでした。

埼京線で新宿へ。もう仲間は高尾へ向かっているはずなので、ひとり特急を待っていると、すぐ眼の前に見覚えのある横顔。3月の山行きでごいっしょだったTさんではありませんか。あれ以来、Tさんの書かれた内村鑑三とバルトについての著作をかなり集中して読んでいるところで、さまざまに刺激を受けていたので、その著者と会えるとはラッキーでした。Tさんが今回の山行きに行かれることは知らなかったのです。Tさんの書かれたバルトの本を通じて、バルトへの入り口が見えてきた事、日頃キリスト教に感じている問題やジレンマのようなもの、そのもつれた糸が解きほぐされるように感じている事、バルトの言う「弾孔と空洞としてのイエス」は眼から鱗状態だったということなど話したことでした。

バルトを長年翻訳してこられたY先生から、この本はあなたの生涯において最上の書物の一つになるでしょうと言って手渡された「カール・バルト「キリスト教倫理学総説」は途中まで読んでそのままになっていたのですが、今度は読み進められそうです。きっと最上の書物の一つになる、そんな予感がしてうれしい気持ちになります。

そうでした。山頂での宴会の事も記しておきましょう。みんなが持ち寄った食べ物でなんだかずいぶんなご馳走でした。フキの佃煮、ぬた、煮卵、きのこのお料理、ゼンマイと干し筍の煮物、他にもいろいろありました。お酒もワイン、ズブロッカ、泡盛、ウイスキー、麦焼酎。わたしは下りがまともに歩けるかどうか心配だったので、どれも少しづつ、合わせて100ccほど飲みました。それでもけっこう良い気分。登りの4時間に比べると、3時間半の下りはすいすいと駆け下りる感じで楽にゆきました。

一行はその後宴会へ。わたしは何とか8時15分のラテンに間に合うべく、新宿から北上尾へ直行。けれどもラテンには10分遅れで間に合わず、ジムのお風呂とサウナでゆっくりし、ラテン踊っているmGを待つことにしました。サウナで、クラスを終えてきたダンスの方の登山隊隊長のSさんにバッタリ。次の山行きの話です。6月4日両神山。早朝の出発で、山から戻ってきてラテンも踊るという計画。これはすごいかも知れません。


<今回のコース>

笹子駅 9時出発→ 吉久保 → 道証地蔵 → すみ沢経由 → 滝子山(昼食休み1時〜2時半)→ 桧平 → 藤沢 → 初狩駅から5時38分発中央線で戻る


2005年05月12日(木) 水曜日の仕事、木曜日のジム

これで今日は3つ目の日記を書くことになります。
11日の事と12日の事をいっしょに書いてしまいましょう。

11日は英語学校の仕事日。3時からの英語のお話会では、食べ物がテーマだったので、エリックカールの絵本「Today is Monday」の読み聞かせと、その本の巻末にある歌を歌いました。この歌はもともとある子どもの歌をこの絵本に合わせて少しアレンジした歌のようです。というより、子ども達が歌う歌をエリックカールが絵本に仕立てたと言うべきですね。

4時からはいつもの幼稚園年長児のクラスでした。歌や読み聞かせや会話の練習の後、ゲームをしながら、その中で英語を使ってゆきました。たとえば、「今度誰の番?」「ぼくの番」という言葉を英語で言うとか、じゃんけんを英語でやったりとか。遊びとなると彼らはがぜん本領を発揮します。ゲームそのものがアルファベットビンゴとか、英語の言葉を覚えるためのゲームなので、遊びの中で言葉を定着させるという下心ありありの活動なのですけれどね。

6時からは、第3回目の「英語で歌おう」の初日。こちらは大人向けのクラス。ゴスペルソング、マザーグースに続いて今回はのテーマはThe Sound of Music。ミュージカルです。このクラスの為に4月から準備してきましたが、やはり初日ともなれば、うまくゆくかどうかどきどきです。

今日は、わたしのVAIOをザックに入れて持っていき、DVDで、サウンド・オブ・ミュージックの冒頭の部分を見るところから始めました。今日、見学で入られたAさんは、この映画を御覧になった事がなかったという事なので、映像を用いた事は良かったかもしれません。その後はThe Sound of Music
の歌詞を英詩の朗読として練習。続いて発声練習、譜読み、歌詞を付けて歌ってみる。なにしろ予定している5つの歌の中でこの歌が一番難しいので、他の歌と平行して、この歌は毎週少しづつ仕上げて行く予定です。

クラスの後は、9時まで仕事場にいて、ミーティングや準備や歌とか伴奏の練習をし、帰りはmGが英語学校に立ち寄り、いっしょに帰宅。この日は珍しく焼き鳥屋へは寄り道せずまっすぐ家に帰りました。何しろ早く寝なくてはなりませんからね。


さて、一日仕事だった翌日は、心置きなくジムで過ごす一日。
この日は降水確率50パーセントというので、ジャケットの代わりに、山行き用の雨具の上を着て、自転車に乗って出かけました。朝10時45分からのラテンに出た後は、次のカロリーバーナーエアロまでの時間、ほとんど自転車をこぐまねをしながら、気にかかっている尾崎翠著「第7官界彷徨」に没頭しました。この本の事は次の日記に書こうと思います。

不思議な話ですが、ジムへ行く日と言うのは、思いがけなく読書が進んだりします。サイクリングマシーン乗りながらとか、サウナの中とか(最近は眼が見えなくなってきたのでやれませんが)帰りにドトールでとか。

さて、今日の出来は・・・いつものようにハデに間違えたりできなかったところがありました。でもおまじないのように「臆病な自尊心、尊大な羞恥心」と唱えていたお陰で、エアロでは、一箇所、どうしても動きが入らなくってマジ他の人と顔が合ってしまいましたが、それでも挫折感や逃げたい気持ちに陥らずに、できる部分で楽しく動く事ができました。
できない!と思うと回りを意識してしまって、なおさら出来なくなってしまいます。また、できないのも、間違うのも、身体の反応というよりは、心にかかるブレーキが原因なように思えます。
かつてピアノのレッスンを受けていた時のボロボロもまさにコレ。
けっこう、しつこいですね。あたしの中にある臆病な自尊心と尊大な羞恥心。

でもね、いつかは間違えないで、インストラクターの動きにすばやくついて行けるようになりたいものです。


あ、そうそう、この日は、珍しく太極拳もやったのでした。3年前にジムに通い始めた頃、10回くらいは参加し、その後は止めていました。こちらはまるで初心者なのですが、初心者の気楽さもあり、このゆったりした呼吸とリズムはわたしのリズムに合っているなと思いながら、気持ち良く動きました。
大地にぐっと足をつける感覚とか、ゆっくりと気の流れを感じる事とかは、速く激しく身体や頭を動かした後には良いものです。日も長くなってきたし、これからは太極拳まで出るようにしようと思ったことです。


2005年05月10日(火) 母の日の花が届いた日

今日(5月13日)は時間があるので、今日のうちに日記のまとめ書きをしてなんとか今日に追いつきたいと思っています。
それで、これは今日書く2日目の日記というわけです。


この日、5月10日に二日遅れで、青年Hから母の日の花が届きました。
中の花がのぞき窓から見えるようになっている大きな箱で配達されてきました。
箱を開けてみると、その中に入っていたのは、手の平に乗るほどの可愛らしいフラワーアレンジメントで、白く塗られたブリキのバケツに、ピンク色のバラとカーネーション、白のカーネーション、カスミソウが素敵にアレンジされていて、Hの手書きのカードが添えられていました。

I'm doing fine Mom.
I c u soon. 
Happy Mother's day .

Your son H 2005

Hがアパートで独り暮らしをするようになってから2ヶ月になりますが、とりわけ淋しい気持ちになることもなかったのですが、こうして遠い見知らぬ土地(まだ住んでいるところを訪ねていないのです)から花や言葉が送られてくると、何か、切ないような、胸がきゅっと締まるような妙な気持ちになるものです。テーブルの上の花はまだきれいに咲いていて、花を見るたびに、胸が痛むので、こういう感情というのはどうにも処理不可能だなあと、痛むままにほおっています。

昨日はHが部屋に残したままにしている夏物の衣料を買い込んできた食料品といっしょにプラスティックの衣裳箱にぎっしり詰めて送りましたが、都内とはいえ、こうして荷物を宅急便で物を送らなければならない関係になったのだと改めて思いました。距離感ということであれば、九州に住む親の方が実際距離の上では遠いけれど、まだ近い感覚があります。親の暮らしは把握できますし、その場所も自分の育った馴染み深い土地ですが、息子達の生きている世界はわたしには把握しきれないし、そこには、わたしの知り得ない全く別の次元で時間が流れているからなのでしょう。

Hは7月までは大学に在学して残した単位を取るようですが、週に2コマ、夕方に授業を受けながら勤め人を始めました。学生ではあっても、ほとんどの時間は社会人として仕事をしているのですから、ずいぶんいろんな事があることでしょうし、自分の稼ぎで暮らしていく大変さも身に沁みていることでしょう。乏しい給料で四苦八苦していることは十分想像が付きますから、そんな中で花を買ってよこしたということがなんとも切なく思えるのですね。

彼がメールで、出世払いはもう少し待っててねと書いてきたけれど、きっとこの小さな精一杯のプレゼントがこれから先も、きっと一番心に残る贈り物になるのだろうなと思います。

次男の青年Mが大学寮で暮らし始めた最初の母の日にくれたピンク色の母の日のカードと、朝食に作ってくれたスクランブルエッグど同様に。


2005年05月09日(月) 臆病な自尊心と、尊大な羞恥心

只今の時間は5月13日の朝5時40分。

明日は山行き(勉ゼミで滝子山へ)なので、ここ、何日か、早寝早起きの練習をしているのです。で、今朝は明日起きる予定の4時半に無事起きることができました。

そういうわけで、夜はあせって早々と寝ようとするので、少しも日記が書けずにたまっていきます。それぞれの日付けで書いておきたいことがあるので、遡りつつ書いているようなわけです。

5月9日の出来事として書いておきたいことは、中島敦の「山月記」を読んだこと。
ここのところ読んでいる冨岡幸一郎氏のバルトに関する著作や、ゼミで取上げられている作家、尾崎翠の作品集の中に、なぜ唐突に「山月記」が入り込んできたかというと、話は5月5日のダンスの打ち上げに遡ります。

あの時、ひょんなことから虎の話になり、わたしが虎のイメージって好きだと言ってブレイクのtigerという詩を出したら、シャルさんが虎の持つイメージとして「臆病な自尊心」という言葉をふっと出したんですね。その言葉が何かピキンときました。で、また別の話題の関連で、シャルさんが「山月記」の冒頭の部分を暗唱してくれたのですが、その文章がなんとも良くて、家に戻って、さっそくアマゾンに「李陵・山月記」(新潮文庫362円)を注文したのでした。

「山月記」、読みながら昔読んだことを思い出しました。中学生だったわたしは「罪と罰」なんかには反応していたのに、この作品は読めていなかったです。詩人が虎になるという話としてしか印象に残っていませんでした。

で、今読んでみると、いいのです。とても短い作品なのですが、その緊張に満ちた文章は鋭い日本刀のように磨かれ、充実していて、そこで語られている事も、人間の本質に深く切りこんでくるテーマです。そしてあの時、気になったフレーズがありました、ありました。
「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」

文章をちょっと引用します。
虎になってしまったかつての鬼才、李徴が、旧友に出会い、草むらの中から、自分がなぜ虎になったのかということを語る場面です。

<己は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交わって切磋琢磨に努めたりすることをしなかった。かといって、又、己は俗物の間に伍することも潔しとしなかった。共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為である>

臆病な自尊心と、尊大な羞恥心・・・身につまされます。よくよく考えてみると、この事が生きる上でどれほど障害になっているだろうと思いました。躊躇や恐れや不安、心の重さ、何かをやろうとする時に、ふっと影のように伸びて来て、行動を阻止しようとするもの、それはまさしく「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」だなあと思いました。
それからいかに自由になるかというのが我々の課題であるかもしれないと思いました。

「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」を別の言葉で言えば「自我」でしょうか。自分をのみ頼みとし、自分を存在せしめている大いなる存在を拒む固くなさ。罪。
イエス・キリストは、そこにある我々の罪を負い、自ら十字架にかかることで、我々にその罪から自由にされるという道すじを開いてくれた。イエスの出来事を通り抜けることで、人間は神との自然な関係を取り戻すことが可能になった。それなしには、自分の力で自我から自由になることはできないのではないか、人間はみな虎になってしまう運命にあるのではないかと、そんなことも考えました。

ちょっと飛躍でしょうか。


2005年05月08日(日) 新しい曲、新しい動き

実は今日はもう5月11日なのだが、このところ日記が遅れ気味で、数日前の日記を追っかけながら綴っている。

この日は母の日。しかし家に子ども達がいなくなったので、子どもの日のイベントがなくなったように母の日のイベントもない。
それに、我々はそんなことよりはいろいろとチャレンジングな事が目先に控えていて、それどころではない。

この日の午後は今月から始る、奈央先生のダンスクラスの初日だった。
教会学校と主日の礼拝の後、mGと共に、練習場になっている公民館へ行く。
すでにみんな集まっている。先生と上尾PAPAメンバーが8人。
好きな時にふらりとスタジオに飛び込めるジムのダンスクラスとは違う緊張感がそこにはある。これまでのダンスのリハーサルや合同練習とも違う雰囲気。


もともと運動神経が鈍く、すばやく動きをキャッチできないわたしは、初めての振りいれはかなり緊張する。でもそこを通らなければ、楽しく踊るところへは到達しない。
これはダンスだけじゃなく、歌でも楽器でも、芝居でもそうなんだけど・・・

新しい曲と新しい動きが自分の中に少しづつ入っていく過程はおもしろい。もともと自分の中にない動きの前で、身体は少しく抵抗したり、憧れたりする。
2時間のレッスンはあっという間に過ぎてしまった。

かなりの運動量だったが、その後ジムへ行き、ボディーステップ45分というのをやり、風呂とサウナへ。

帰りmGからジムの近くのパスタ屋で母の日のトリートをしてもらう。デザートのケーキはわたしが2人分食べた。消費したカロリーをとっくに取り戻している。かまうものか。

夜、息子たちから、母の日メール。
長男は花を送ったとメールしてきた。泣かせる。


2005年05月06日(金) 友人をジムへ誘った日

今日は古い友人をジムへ誘った。
それこそ、会ったのは10年振りくらいなのだが、会ってみれば、そんなに時が流れた気はしない。

3年前のわたしと同様、運動らしいものとはまるで縁がなく、中性脂肪と悪玉コレステロールの数値が高いのだという。聞けば数値を下げるための薬も飲んでいるという。それなら運動するのが一番いいとジム通いを勧めたのだった。

一度、体験してみたいというので、ヨガや太極拳を組み合わせたようなボディーヒーリングと、はじめから終わりまで、ストレッチという感じのオリジナルエアロを選んでいっしょに出てみた。

身体に効きそうだから、やればいいのだろうけれど、とても続かないだろう。取り合えず一月だけやってみようなどど、3年前のわたしとまるで同じ事を言ってる。

わたしは、一ヶ月のつもりがハマりにハマって今や4年目に入ったところだが、さて、彼女はどうだろう。子どももおらず、御主人は単身赴任、仕事もしていないから時間もたっぷりあるとくれば、彼女のジム通いを妨げる要因は何もないのだが・・・


この日、彼女と分かれてから、夕方mGがジムに来るのを待って、ボディーステップに出る。ついでにちょっとチャレンジングなオリジナルエアロもやることになり、運動三昧の一日だった。

「昨日はありがとう。今度はジムで会いましょう!」
翌日、彼女から留守電が入っていて、声にやる気が滲んでいた。10年も会わないでいた友人と、これからはジムで頻繁に顔を合わせることになるとすれば愉快だ。




2005年05月05日(木) 子どもぬきの「子どもの日」には

そういえば、今日は子どもの日だった。
そして今年は柏餅も食べず、菖蒲湯にも入らなかった。
今年は下の子も20歳になっているから、我が家には子どもがいないというわけだ。しかもこの春上の子も独り暮らしを始めたから、その存在すら目の前にはない。

柏餅、子供達が小さい頃に住んでいた公団住宅の前には大きな柏の木があった。5月になれば、その葉っぱを取ってきて、いくつも柏餅を作ったものだった。生の葉っぱにおもちがくっついて、かなり食べにくい柏餅ではあったが。
端午の節句の柏餅はなぜか食べなければならないものと思って、作らなくなってからも毎年どこかから買ってきていたのだが、今年はスーパーの山積みされた柏餅を買う気にはなれなかった。
そういえば、切らさないように買っていた子どものおやつの類も今は買うこともない。
しかし、彼らは一人暮らしになって食べ物には不自由していることだろう。
近い内に小包を送るとしようか。


さて、子どもの日のイベントはなくなったが、この日我々には子ども抜きのイベントがあった。
まず、朝のラテン、昼のエアロ、そして夕方からの宴会。宴会は先日のダンスのステージの上尾組みの打ち上げ。10人で楽しく飲む。30代前半から40代後半までの男と女。仕事も様々。水がいたり風がいたり火がいたり(これはあくまでアールユベーダの3体質)それぞれの発するエネルギーが実にユニークなので行き交う言葉や表情が何とも楽しい。音楽で言うならオーケストラでも室内楽でもなく、なんだろう、ジャズだろうか。ジャズの解放と緊張の解放の部分だけ?いろんな音が混ざり合っているという意味ではジャズっぽいかもしれないけれど、リラックスした無重力感はエリック・サティーのジムノペディーみたいな感じかなぁ〜。なんだか、ふわふわと優しくいい気分だったのだ。しがらみや建前に支配されていない風通しの良い関係がなせる業なのだろうか。

6時から始った宴会は5時間ほど続き、我々は初めて車の代行なるものを使って家まで帰った。

子ども達との賑やかでキラキラした、しかしクラクラもグラグラもする子どもの日がなくなっても、仲間とこんないい時間が持てる我々は幸せだと思った。


2005年05月04日(水) 三ッ峠山

この日は三ッ峠山行きでした。
今回は初めて、スポーツクラブのダンス仲間との山行きでした。
リーダーはSさん、彼女は高校生の時、インターハイ優勝した女子登山部に入っていた人で、今回の山行きの念密な計画書も作ってくれたのでした。

メンバーはSさんの他に、Kさん、Mさん、それにmGとわたしの6人。
午前5時、上尾駅を出発。Kさんの運転する車にみなで乗り込み、わいわいと遠足気分。首都高速道を走り、7時ごろ途中のドライブインで朝食休憩。三ッ峠登山口に着いたのは午前9時頃。

Sさんが言っていたように初心者向けの登りやすい山の割りに景色は抜群。高度も1785mあるので、空気は山はひんやりとした澄み切った空気。登る間中、ずっと富士山が見えているというのはなんとも贅沢なコースです。三ッ峠山の最初の山頂に着いたのは10時半ごろ。この山頂から見える富士は豊かに裾野を広げ、その荘厳なシェイプには圧倒されるものがあります。Sさんの話によれば、北斎の赤富士はここから眺めた富士山だということ。なるほど、そうだ・・・

次の山頂で昼食休憩。Sさんが燃料とコッフェルを持参していて、お湯を沸かし、コーヒーを入れてくれました。山の上で飲むコーヒーはおいしいものです。ズブロッカとブランデーも持参してましたが、車で来ていることもあり、ほとんど飲みませんでした。でもそれは正解。これまでの山行きは登ったら後はひたすら降りるだけで、ちょっといい気分で降りていたものですが、今回は、それから後がけっこうきつかったです。

12時ごろ、再び歩き始め、御巣鷹山から大幡八丁峠を越え、朝、車を置いた三ッ峠登山口まで戻るのですが、八丁峠というの名の通り、かなり急な斜面をようやく下ったと思えば、その先は急な登り、登ったと思えば、今度は下り。ほんとうに8回これが続くのかしらと思いましたが、実際は4回くらいアップダウンを繰り返し、登山口へ通じる広い道に出ました。この道を40分ほど歩くとようやく登山口が見えてきました。

さて、河口湖近くの野天風呂天水へ。お湯はかなりいいお湯で、柔らかくすっと身体に溶け込むような感覚でした。3時から4時半までそこでゆっくり過ごし、その後、名物のほうとうを求めて、河口湖の周囲をぐるりとドライブ。山頂から見えた富士山とはまた違い、湖を前に抱える富士山もそのコントラストが美しく、すばらしい眺めでした。

ようやく見つけた「大石茶屋」という店の前で車を止めましたが、しんと静まり返っていて、他に駐車している車はありません。けれども、踏み石が水で光っていて、今打ち水をしたばかりの様子から、丁寧な料理を食べさせる店だと良い予感がしました。古い日本家屋の内側へ入ると、なんと部屋の正面には湖と富士山の絶景!暮れなずんでいく富士山に見とれながら、食べても食べてもなくならないような「ほうとう」をゆっくりと食べたことでした。そう、お目当てのほうとうはとても一人前とは思えないほど大きな鉄鍋に入っていました。
思った通り、丁寧に作ってあるとてもおいしいほうとうでしたよ。それにしても、こんな素敵なお店だというのに、お客はずっとわたしたちだけの貸切だったというのがなんとも不思議。

帰りの車では、みんなの話す声を意識の外にぼんやりと感じながらわたしはほぼ爆睡でした。家に帰り着いたのは11時半。なんとすばらしい連休の一日だったことでしょう。
で、翌日はこの前のダンスのステージの上尾組の打ち上げ、いっしょに山行きした仲間と今度は宴会です。




  「大石茶屋」の情報です


TEL 0555-76-8698
営業時間 10:00〜19:00
定休日 年中無休
場所 南都留郡河口湖町大石2585
湖畔の面した大石公園近くにある食事処。

ほうとう御膳・茶屋御膳・麦とろ御膳など
和風のメニューが豊富に揃っている。
料金は、ほうとう御膳で2000円・クリームあんみつ800円。
ほうとう御膳には、甲州ほうとう・馬刺・角煮のセット。





2005年05月03日(火) 今日は朝の内に日記を書いておこう

今朝はずいぶん早起きをしました。
目覚ましをセットしたのは4時です。ふだんならこの時間は深い睡眠の真っ只中なのですが、明日は3時半起床なので、身体を慣らすために早く起きることにしたのです。

この時間、もう外は明るくなっているのですね。
一日を早く始めることができるというのは、それだけですごく特をしたような気持ちになるものですね。
まず昨日の日記を書きました。それでもまだ時間があるので、早起きの記念に早々と今日の分も書いているというわけです。

明日はダンスの仲間との初の山行きです。
山梨県の三ツ峠山と御巣鷹山。
三ツ峠登山口までは車で行くので、そこの駐車場を確保するために、早い出発となり、家を出るのは明け方の4時半です。

ダンスの仲間の中に、高校時代に女子山岳部に所属していて、全国大会で優勝を果たしたという経歴の持ち主がいて、今回は彼女のリードで、女2人男3人の山行きとなります。同居人mGは今はまだ宮崎なのですが、今夜戻って来るので、明日は参加できます。でも、宵っ張りの彼の事、早く寝ることができるかどうか心配。わたしは今夜は遅くても10時には消灯の予定です。

寝る時間の算段などを朝のうちからやっていますが、一日はこれから始るのでした。昨日は一日家に篭って、冬物の整理や、生垣の剪定やら、大仕事を済ませたので、今日はこれから洗濯物を干し、衣類の整理の続きを済ませたら、ジムへ行けるかなと思っています。
それにしてもいつもより3時間も早く起きたものだから、身体はまだ眠っている感覚で、頭も霞みがかかっているような変な感覚です。
でも、せっかく早いスタートなのだから、ぼんやりしないで、さ、お仕事、お仕事。

では、良い休日になりますよう!


ところで、5月1日にりとろぐ「空の鳥と野の花と」に「聖書の風景 ♯4 We Shall Overecome 」
を更新しています。よかったらお読みくださいませ。またこれはメルマガになっているので、登録くだされば、更新時にメールでお届けすることができます。なお登録はテキストとHTMLを選べますが、HTMLがおすすめです。



2005年05月02日(月) 1年前の日記を開いてみると

ふと、昨年の日記を開いてみる気になった。
昨年は5月の連休をどう過ごしたのだったろう。どこかへ出かけたという記憶がない。

日記を読んではっとする。昨年の5月2日の日記のタイトルは「死の陰の谷を行くときも 」で、こう始っている。

<昨日と今日で、世界がまるで変わってしまったということがある。

思いがけないアクシデント、
予期せぬ人の死、
死にかかわる病気の宣告、

こういったことからほど遠く、日々は平和に過ぎているが、
わたしたち、一人一人、この壊れやすい、生身の身体を持っているということが、取りも直さず、日々死と隣り合わせで過ごしているということなのだ。>


すっかり忘れていたものの、この時の気分をありありと思い出した。
この日の前日、大学の次男の肺に異物が認められ、肺癌の疑いもあるので、まず、腹部と脳に転移がないかを調べる検査をするという知らせを受けたのだった。

検査の結果、悪性の腫瘍の疑いは晴れ、肺の奇形の一つである肺分画ではないかということで、夏休みに入ってから、そのまま家には戻らず、筑波大学病院に検査入院した。ところが、肺分画を予想した肺の摘出手術の直前の検査で、肺の異物は肺分画ではなく、肺の一部が石灰化したものらしいという事になり、手術は見送り、経過観察をするということで、8月もお盆を過ぎてようやく退院したことだった。

しかし、その間に、同じ教会に通う青年に肺癌が見つかり、すぐ癌センターに入院した。次男の事を喜ぶ間なく、深刻な状況と向かい合う事になり、友人を病室に訪ねる日々が続いたが、最後に病室を訪ねてから数日で逝ってしまった。あまりにも早い死だった。

そして、年が明けると義父の危篤の知らせ。急ぎ郷里へ帰省し、看取り葬儀と続いた。義父の死後、それまでしっかりしていた義母が精神的に不安定になり、それまでできていた事が急にできなくなり、夫は様子を見に帰省しているところ。

こうして振り返ってみると、この1年はある意味、死の陰の谷を意識しながら過ごしてきたのだと思う。そうして、その時には、その歩みが支えられるように、わたしはしっかりと中心にいらっしゃる方の手を握り締めていたような気がする。悪魔のもたらす虚無が入り込む余地などなかったのはそのためだ。ほんとうに支えられていた事が今さらながら分かる。

そういう事を考えていると、今、突然の事故で連れ合いを失った友人は、痛みの中にも、深い慰めと、次へ歩み出す勇気をすでに与えられているに違いないという確信のようなものが心の内に湧き起こってきた。

そして、頭の中ではバッハの二つのバイオリンのための協奏曲の2楽章が繰り返し鳴っている。永遠へ向かって二つの旋律が絡み合いながら上昇していくような、ひたひたと静かに満ちていくようなその曲。

この曲をその友人と二人で何度か弾いている。
林の中でのコンサートで演奏するにあたって、ストリートミュージシャンよろしく、人影のまばらな公園の中で弾いたことがあった。
また彼女の提案で、末期癌を患っていたわたしの従兄の連れ合いのためにささやかなコンサートをした。そういえば、わたし達が通う教会に彼女が出向いてくれて、礼拝の中で演奏した事もあった。

彼女に慰めの言葉もかけられなかった虚ろな心の状態は変っている。心の中でわたしは彼女の弾くバイオリンの音に自分の音を合わせている。澄みきって静かな、けれども力強い音が響き、広がっている。
大丈夫、彼女は力を得ている。きっと。


2005年05月01日(日) この水を飲む者はだれでもまた渇く

日曜ごとに礼拝に出て讃美歌を歌っていると、その時の身体や心のコンディションのようなものが妙にはっきり分かる。

今日は讃美歌を歌いたい気持ちが湧いてこずに、ただ声を出して言葉をメロディーにのせただけだった。むしろ歌うことが苦痛ですらあった。
心に喜びがないという状態をずいぶん久し振りに味わっていると思った。

悲しかったり、苦しかったりする時にも、深いところにある喜びや希望は失われないものである。3ヶ月前の義父の葬儀の時、わたしも夫も力強く讃美歌を歌った。死の闇はそこになく光りを感じていた。虚無の入り込む隙間はなかった。

JR尼崎の脱線事故で友人の連れ合いが犠牲者になったことは不意打ちだった。その事故に遭遇したのはわたしであったかもしれないし、わたしの連れ合いや子ども達であったかもしれないと思った。突然の喪失がこういう形で不意に訪れるのだ。夫を失い、父親を失った友人家族の前で、わたしは言葉を失ったが、言葉だけではなく、わたしはふっと自分の中心を見失ったらしく、その瞬間、「虚無」に足首を掴まれてしまったようだった。

友人や家族に対するへ正常な痛みや悲しみを抱くことができれば、そこへ積極的にかかわろうとする気持ちが起こるのだろうが、わたしはただ無力感を味わい為すすべもなく、虚ろの中を漂っていた。

礼拝の後は来週から始る歌のクラスのための準備をするつもりだったが、歌う気にはなれない。ジムへ行く気にもなれないので、15分くらい歩いて図書館へ行った。図書館は実に久し振りだった。

高橋たか子の著書を読みたいと思った。それも彼女が信仰者になってからのいわゆる後期の作品ではなく、初期から中期にかけての虚無の極みのような作品を読みたいと思った。
以前、「高橋たか子自選小説集」全4巻が並べられてあった書架にはその本が見当たらなかったので、本が保管されてある書庫から出してきてもらった。
数年前にこの分厚い全集は4冊とも熟読しているが、読み始めるとたちまち引き付けられ、しばらく没頭してしまった。おそらく、今のわたしの心の状況と呼応するのだろう。

高橋氏が自選小説集の第一巻の巻末に収めてあるオリジナルエッセイ「受洗の頃」の中にこのような文章があり、以前読んだ時にも増して印象深かった。



「・・・・・サマリアの女とイエスとの対話であるヨハネ福音書の有名な数行を引用することで、この巻のエッセイを書き始めたのであったが、この数行は私のすべての小説の全体にわたって鳴りひびいていると言ってもいい。「この水を飲む者はだれでもまた渇く」という「この水」を飲むことしか知らずに渇きつづけていた受洗に至るまでの私、受洗後もまだ「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない」という「その水」の在り処がわからず、渇きのやまなかった私が、あれほど小説をとおして渇きを乱舞してきたというのに、今、もう渇いてはいない私がここにいる・・・・・・」

―高橋たか子自選小説<1> P525より抜粋―


きっと、わたしは「その水」の在り処を見失って、今、渇いているのだろう。けれども、水の在り処を見つけようとする前に、渇いているというこの状態をしばらく見つめてみようと思っているのだろう。しかしすでに知ってはいる。渇かない水があるということを。


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