たりたの日記
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2005年04月29日(金) 福知山線の事故

25日のJR福知山線の事故で、友人の連れ合いが亡くなりました。
子育て時代を同じ団地で過ごした友人で、子ども達も同じ歳。同じ幼稚園に通わせ、教会学校もいっしょ。家族ぐるみのお付き合いをしてきた友人です。

その友人一家が転勤で宝塚に引っ越していってからは、10年間、会うこともないまま時が過ぎ、最近は年賀状だけのやり取りになっていましたが、今度の事故の後、何をしていても、その友人や家族の姿が浮かんできます。

わたしはいつもと変わりなく、ご飯を食べ、仕事へ行き、ジムへも行き、宴会もありました。変らない日常が流れて行きますが、でも、どこか、塞がらない穴が心に空いて日々の事を、記すことができません。日記が25日から空白のままなのはそのためです。

友人とはまだ話していません。どう言葉をかけてよいのか、またいつの時期が良いのか迷っているうちに時が過ぎてしまいました。
明日は手紙を書きたいと思っていますけれど・・・

こうして突然やってくる不幸、死に対して、心では準備しているつもりでいても、実際は誰もが無防備なのだと、そして、痛みや喪失感も避けられないのだと思います。
せめて、そこに上からの深い慰めがありますように。
犠牲になった方々のご冥福を心より祈ります。


2005年04月25日(月) 尾崎翠 「花束」を読む

夕方より文学ゼミへ行く。
今回のテキストは尾崎翠(おざきみどり)の「花束」というもの。全く知らないこの作家の作品を、何の先入観もなく読んだ。

好きな読み心地だった。少女漫画の持つ独特な世界に通じる何かにも、重く低い雲が覆っているようなメランコリックな気分にも、不思議となごむ感覚があった。

わたしがこのゼミに参加するようになって、最初のテキストが冨岡多恵子の「遠い空」で、その後は男性作家の作品が続いていた。それらの作品には、ある意味対決を強いられるようなところがあって、自分にない世界、今まで知ろうとせず、はなから閉ざしてしまっていた世界に覚悟を決めて足を踏み入れる感覚があった。そして踏み入れるからにはきちんと対峙しなくてはならないという迫りがあった。

そういう意味からは、今回のテキストを読みながら、ぎゅっと絞りこんだ気持ちの中に、風がゆき渡り、ふわりとふくらむような心地よさを覚えた。
その言葉のやってくる方向がとてもよく感知できる。その心象の描写も、風景の描写も、まるでぴったりとフイルムが付いたように密着した近さ。
これは、男性の作家には覚えることのない感覚だが、しかしすべての女性作家にこのような感覚を持つわけでもない。これまで読んだどんな女性作家にもない、独特さ、そう、奇妙な独特さがあるのだ。それは、今まで味わったことのない不思議な果実のような、そして一度食べたら、その匂いも味も決して忘れることのできないような独特さがあると感じた。

まず感じたのは彼女の使う言葉、表現に対して感じる「新しさ」だった。明治生まれの作家とは思えない。現代の人気女流作家たちの新しさも霞んでしまう気がした。ではどうして新しいと感じるのだろうか。
それは、彼女が時代にもまた女性性にも影響を受けない、彼女独自の感性の故なのではないだろうか。

様々な作家の中に、人間の内なる男性(アニマ)と内なる女性(アニムス)、の葛藤のようなものを感じてきたが、尾崎翠のアニムスは少しも脅かされることなく、自由だという印象を持った。アニムスがアニマに脅かされたり、支配されたりする必要のないほど、それだけで充足していると。
たった一作だけ、しかも代表作ではなく初期のこの短編を読んだだけでは何も言えないが、出会いの予感を感じたことは確かだ。さっそく作品集を注文した。


この作家について、ゼミで学んだ事、またその後にわたしが調べたことを記しておこう。



   <参考>  尾崎翠について

1898(明治29)年、鳥取県の温泉町に生まれる。宮沢賢治と同年代。1914(大正3)年、鳥取高等女学校を卒業し代用教員となる。この時代は投稿がさかんな時期で、翠は「文章世界」に投稿して認められる。同時期の投稿者として、翠のライバル的存在に、吉屋信子がいる。

1917(大正6)年、21才の時、「新潮」に作品が掲載されたのを機に、小学校を退職し、上京し、文学の道を志す。三兄史郎のもとに下宿していたが、1919(大正8)年、翠23才の時、日本女子大学国文科への入学し、女子大寄宿舎に入舎する。

1920(大正9)年、女子大当局から干渉を受け、中退に追い込まれ、やむなく帰郷鳥取で創作を続ける。
1930(昭和5)年、代表作「第七官界彷徨」の執筆にとりかかり、1933(昭和8)年に刊行された。これは一部の人に熱狂的に迎えられる。
持病の頭痛のためのミグレニンの常用を常用していたが、それが副作用を引き起こし神経科の病院に入院する。
以後作品の創作はなく戦中・戦後にかけて、東京の友人達には翠の消息は不明となる。

1960年代後半になって、一部の人達に思い出されるが、本人はその後も筆を折ったまま、1971(昭和40)年、7月8日、尾崎翠は高血圧と老衰による全身不随の病床で75年の生涯を閉じる。


従来「悲劇の天才的マイナー作家」として、一部の男性評論家や研究者に祭り上げられてきたが、、90年代になって主に女性の作家や研究者によって、読み直しが行なわれ、女性監督・浜野佐知が、この「幻の作家」の謎に包まれた人生と、代表作『第七官界彷徨』の世界を映画化し、98年11月、東京国際映画祭・国際女性映画週間に出品された。

尾崎翠の作品は、目下ジェンダーやセクシュアリティ、少女論、モダニズム研究など、新たな文脈で読み直されつつあり、筑摩書房から2巻の『定本尾崎翠全集』が刊行され、また、文芸春秋からは群ようこ氏による評伝『尾崎翠』が出るなどという動きがある。また2000年より毎年、鳥取で尾崎翠国際フォーラムが開かれている。


2005年04月24日(日) 失敗は成功の元ということにしておこう

もう夜も更けに更けて、あと10分以内に寝なければ、明日の仕事に支障をきたす。けれど、今書いておかなければ、もうここに書かないような気がする。
24日のダンスのステージのこと。
いろいろとデティールがあるのだが、取り合えず、事の成り行きだけ、ダンスチーム M’s Partyの掲示板に書き込んだことを貼り付けておいて、
後日、まだその気があれば、詳しく書くことにしよう。


、、、、、、<M’s Partyの掲示板へ書き込んだこと>、、、、、、

すみません、ハデに間違ってしまいました。
R&Bのしょっぱな、話に聞いていた、真っ白状態に見舞われました。
思い返せば、ステージに上がる前、地に足付けて深呼吸するという心の準備をしないまま、いきなりライトの中に出てしまったのがいけませんでした。
その後は踊りこんでいたお陰で、気持ちがバラバラなのとは裏腹に、身体は勝手に動いてくれましたが、お終いの方で、わなわなと失敗した感覚が押し寄せてきて、まん前で、反対方向にターンしてしまった!
みなさん、おゆるしください。(深々とペコリ)

練習も大切だけど、この自分をまとめるというか、コントロールする力ってのが必要なんだなぁとガツンと学ばされました。次回の肥やしにしますです。

でも、なおさんも、みんなも、暖かく、さりげなく、ゆるし、励ましてくれて、救われました。心からアリガトウ!!!

ラテンは、思いっきり楽しく、しっかり声出して踊れました^^
ここに至る練習も通して、また失敗も通して、かけがえのない、ドラマを体験しました。

次ですね、次。


2005年04月22日(金) 中性脂肪が低すぎ?

毎年、3月には同居人に引っ張られて、人間ドッグに入るのですが、最近は問題だったコレステロールの数値も下がってきたので、それほど気に止めないで放っておいたのですけれど、ちょうど、献血した時の血液データが届いたので見比べてみました。

問題のコレステロールは去年は223mgで、標準の150mg〜219mgからすると、まだ高めの値だったのですが、今年は189mgと平均的な数値に下がっていました。
その打ち明けを見ると、善玉コレステロールは増加し、悪玉コレステロールが現象するという良い状況を呈していましたが、よくよく見れば、中性脂肪のところにL、つまり低すぎるという警告の印がほどこされていました。

中性脂肪の標準値は50mg〜149mgなのですが、わたしは一昨年104mg、昨年91mgと推移し、なんと今年は49mgになっていました。これ以上低くなると低中性脂肪症という事になり、脂肪に溶けて作用するビタミン類が欠乏したり、また血管が脆くなったりといろいろ問題が起こるようです。

これはダイエットが効き過ぎたという事でしょうかね。体重も標準体重を2キロほど下回り、この日記を付け始めた頃にここでダイエット宣言をした時からすれば、12キロ減。体脂肪は29%から20%に下がっています。
調子に乗ってこれ以上、減量しないようにする必要があるのかもしれませんね。理想としてはあと3キロくらい減らしたいところですが。
というわけで、最近はクッキーだのケーキだの気にせずに食べてます。いいんでしょうかね・・・


2005年04月21日(木) はじめての美容院へ

今日、木曜日は朝からジムの日だが、クラスはラテン一本だけにし、ジムのすぐ目の前にある美容院へ行くことにした。

もう3ヶ月も髪を切っていない。伸ばしたいから切らなかったのだが、あさってのステージの事を考えると少しはましな頭にしなくてはと思い立ったのだ。

美容院で髪をやってもらった直後は、何かしっくりこなくて、一月くらい経ってようやく自分らしい髪になることが多い。そんなもんだろうと思っている。というのは美容師さんとわたしとでは、わたしへのイメージが違うからだろう。わたしを知っている人であれば、どうしてもわたしの仕事や役割からやってくるその人なりのイメージがあり、髪のデザインも微妙に影響されるのだろう。

今日行った美容院は初めてのところ。やってもらった美容師さんはわたしの事を知らない。ステージでR&Bを踊るから、それに合うようにして欲しいとだけ注文した。彼女のイメージとわたしのイメージはダンスという共通のイメージがあったのだ。それはよかったのかもしれない。
「髪もいっしょに踊るような感じで、ワイルドな感覚で仕上げましょう」と言ってハサミを動かしていた。

結果、おくさま風でもなければ、せんせい風でもない、ダンスする人風の髪に仕上がった。これだとR&Bのマニッシュな黒のジャケットにも、ラテンの露出度満点の真っ赤なトップにも合いそうだな。
でも、その前に教会学校と教会の役員会もあったな。ま、いいか。


2005年04月20日(水) March winds and April showers

今日は一日雨。咲きはじめたばかりのチューリップにも、株が広がったビオラやパンジーにも、そうして気がつかない間に、花盛りになっているアメリカハナミズキのピンク色の花にも雨が降る。

 March winds and April showers
Bring forth May flowers

 3月の風、4月のにわか雨、5月の花盛りを恵む


今日から、英語学校で、無料の英語おはなし会がスタートした。
昔、団地の狭い我が家で文庫を開き、おはなし会をしていた頃、どうして、あんなにたくさんのこども達がやってきたのだろう。

今日は雨だったせいもあるのか、二人の子供を連れたお母さんだけだった。
それでも、アメリカ人のAとTといっしょに、英語と日本語で「はらぺこあおむし」の絵本を読み、英語の歌遊びや工作をして、楽しいひとときだった。来週はチラシを配ったりして、呼びかけてみよう。


何をやるにも、雨や風の時期があって、花が開くというもの。


2005年04月16日(土) 「最終目的地は日本」 指紋押捺制度と闘った女性の話


この日、六本木の俳優座劇場で公演されている「最終目的地は日本」を観に行きました。
この劇は在日韓国人3世のピアニストの崔善愛(チェソンエ)さんの著書「『自分の国』を問い続けて」をもとに、崔さんの友人で米国在住の劇作家堤春恵さんが執筆したもので、とてもインパクトの強い、揺さぶられる劇でした。そして、崔善愛さんの指紋押捺を拒否する心情、その制度との闘いの背景がとてもよく理解できました。


崔さんは、指紋押捺裁判初公判(1984年1月23日)での初めての意見陳述で
「私が指紋押捺に屈辱を感じるのは、その裏に、戦争を起こし、おこない、侵略した、その時の人の心を見るからです」と語ります。そして、陳述の最後では
「私は日本がどんな国であっても、私をどんなに苦しめても、日本は私が最も愛し、なつかしく思う国です。日本が私を追放しても、私は最後まで愛し続けます。私を育ててくれた両親、先生、友人を私は尊敬しているし、私の感性は日本の自然によってつくりあげられたので、私を愛することは日本を愛することだからです。」と育ての国、日本への愛を表明しています。

なんと強い愛だろうと思います。日本の批判はしても、日本という国を愛していると心から告げたこともなかった事にはっとさせられました。国っていったい何なのだろう。血の繋がりに縛られない、民族主義や宗教にも支配されない豊かな関係を結び合うことが可能なのではないだろうかと、何か明るい希望のようなものも感じたのです。

確かにアメリカ合衆国で暮らした4年半の間、わたしはその国を愛しました。その国の弱さや間違いは十分見えましたし、差別の眼を向けられる事もありました。けれども、その国の豊かな自然、暖かい人々、同じ地球にある場所として共に生きる仲間として愛しました。そしてその場は外国ではあるものの、わたしや家族が生き、育つ、尊い場所であるには違いありませんでした。そして、その国に住みながらアメリカ人の悪口を言う日本人や同じマイノリティーでありながら、平気で差別的な言葉を口にする日本人に怒りを覚えた事も幾度となくありました。

祖国への愛と、生まれ育った日本への愛を見つめ、ほんとうに正しい事から目をそらさずに闘ったひとりの女性に、同じ女として心からエールを送ります。そして、わたし自身が問われます。ほんとうに正しい事のために、たとえそれが徒労に終わろうとも、自分の不利益になろうとも、闘うことができるだろうかと。

様々な困難と苦しみを潜り抜け、彼女の勇気ある行動が、日本政府の過った制度を変え、法律を変えました。このことはほんとうに大きな事です。

この劇について書いてある毎日新聞西日本新聞の記事を御覧下さい。


2005年04月13日(水) とうとう手にしました遠近両用眼鏡

午後4時から英語学校の仕事なので、早めに家を出て、眼鏡屋へ。2週間前に注文した遠近両用眼鏡を取りに行く。遠近両用眼鏡・・・年寄りじみているが仕方ない。

わたしの場合、ひどい近眼だから手元のものを読むには眼鏡を取れば読めるのだが、この近いものを見るのに眼鏡を上にずらすという所作がもう年寄りじみていて、人前ではあまりしたくない。

遠くは近眼用のレンズで、手元は老眼用のレンズで見る遠近両用眼鏡だとひとつの眼鏡で事が足りる。
そんなにうまくゆくかしら・・・
いった! 遠くは遠くで、近くは近くでよく見える!

時間がまだあったので、駅の構内の献血センターで400ccを献血。数日前に日赤から献血のお願いの電話がかかっていたのだ。
昔は貧血気味で献血など考えてもみなかった。今は血液の状態はすこぶる良い。看護婦さんから血液濃度が男性並みに良いですねと言われる。
前回の人間ドッグではもうコレステロールの数値も下がっていた。

目は加齢とともに衰えているが血液は今のところ良くなってきている。感謝に思う。


2005年04月12日(火) 新年度、はじまり、はじまり〜

火曜日は一日、仕事の日。
朝、10時から10時50分まで幼児とお母さんの英語クラス。
午後 3時から幼児クラス、小学校低学年、高学年の3クラス。
合計、30人ほどの子ども達やお母さん方と活動していることになる。
この日ばかりは教える事にひたすら集中。

子どもって楽しいなと思わなければ、その活動に満足感がなければ、学習が成立しない。身に付かないのだ。だからわたしの仕事というのは、子ども達にちょうど遊んだ時のような心の高揚を1時間の間、持続させる事。ということはわたし自身、かなり気持ちを高いところに持っておく必要があるいわゆるハイの状態に。
こういうところは、ジムのインストラクターに学ぶところが多いなぁ。本人が楽しみ、生き生きと動くインストラクターのリードだと、うまく動けるし、気持ちが高揚する。結果、効果的な運動ができるし、またやりたいという気持ちになる。大人でもこうなのだから、子どもはもっとだろう。

できるように分かりやすく教えること、間違っても平気という気持ちを持たせること、繰り返して定着を図るも、必要以上の繰り返しはあきさせてしまう。
理屈として分かっていることが、自分が教わる立場に立つ事で身に染みて分かる。
良い仕事をするためにも、ジムのクラスやダンスのレッスンで生徒になることは案外よい学習。

今月から新年度のクラスがスタートした。新しい試みを取り入れながら魅力的な学習の場を創りたいと思う。


2005年04月11日(月) 文学ゼミで読んだ「片腕」のこと

朝から雨。昨日満開だった桜は雨に叩かれて冷たい地面に落ちているのだろうか。
今日は夕方文学ゼミに出かける他はこれといって用はない。
火曜日から始まる英語クラスの準備をし、ゼミのテキスト、川端康成の「片腕」をまた読む。この2週間、繰り返し読んできた。おもしろい作品だった。読むほどに、その世界が少しづつ輪郭を露にしてくるのだが、先にまた新しく問いが広がる不思議な作品。

「片腕を一晩お貸ししてもいいわ。」で出しから意表を突かれる。物語のはじめから終わりまで、そこには女の片腕を抱え持つ一人の男の姿しかない。

はじめに読んだ時の印象は、グリム童話のようだという印象だった。非現実的な筋書きの中に、人間に共通する潜在的な何か、普遍的な何かが紛れ込んでいる昔話の匂いがすると。この作品を川端の別の作品「眠れる美女」同様、フェティシズムの産物だととらえるのが一般的な見方なのだろうが、わたしには、川端が女の片腕を通して、自らが訪ね求めているもの、何ものかへ向かう強い希求が描かれているように思えてならない。

正津先生から、川端康成は3歳の時に母親を失くし、15歳で天涯孤独の身の上になっている。この物語は満たされなかった母親の愛を求める「母を求めて三千里」の話だと思うと聞いた時、何かストンと胸元に落ちた。幼児の頃に受けることのかなわなかった母親からの無償の愛。彼の希求はそこなのだろう。その欠けを埋めるべく、その空洞を満たすべく旅を続けているのだろう。

たりたさんには、この作品の中の2箇所に出て来る聖書の引用について話してもらいましょうと、促された。

どちらもヨハネによる福音書からの引用で、一つはラザロの復活の場面で、ラザロが死んだことを聞いたイエスが涙を流したという箇所。
小説の中で、主人公が過去に出会った女が自分に身をまかせる時に、唐突に「(イエスは涙をお流しになりました。<ああ、なんと、彼女を愛しておいでになったことか。>とユダヤ人たちは言いました。)」と男にふるえる声で言う。
もう一箇所は男が女の片腕を自分の腕と取り替えた後、「だけど血が通ふの?」と言う男の問いに対して「(女よ、誰をさがしているのか。)といふの、ごぞんじ?」と女の片腕が問うのだ。これはマグラダのマリアがイエスの葬られた墓へ行き、空っぽの墓の前で泣いている時にイエスが「女よ、なぜ泣いているのいか。誰をさがしているのか。」と訪ねる場面だ。女の片腕はさらに続ける「あたしは夜なかに夢を見て目がさめると、この言葉をよくささやいているの。」と。

この聖書の引用は、わたしが先に書いた作者の「訪ね求めているもの」が何であるのか、それを解く鍵のように思って読んでいた。何か永遠なるもの、魂と魂の深いつながり、そういった宗教的な命題が浮かんでくるのだ。なぜなら、聖書のその箇所はともに復活の場面だから。そしてここにはイエスのラザロへの、そしてマグラダのマリアへの深い愛が描かれている。川端はそれをイエスの側からでなく、イエスから愛される人間の心情を表わすべくこの箇所を用いているのだ。小説の中の女達が感じていたこと、神なるイエスから愛されていることへの恍惚感、あるいは至福を、わたしはそこに認める。母親と赤ん坊の間に起こる一体感、母親の自己犠牲的な愛、川端の母性愛への幻想がイエスに投影されていると読むのは読み込みすぎだろうか。


ゼミの後も、その聖書の箇所のことを考えていると、いろいろな部分に光りがあたってきて言葉にならない思いが溢れてくる。

川端は自らのセクシュアリティーのありどころを深く自分の内側に降りていって探した。そうしながら、思いがけなく、永遠なるものへの憧れ、神の心との深い融合への希求に出くわしてしまったのではないか。
しかし小説の中ではその憧れも希求もそのままに取り残され、男は求めるものに出会うことのできないまま、再び孤独の闇の中に留まる。なぜ男は求めるものを手にすることができなかったのだろう。

女たちは自分に死んでいた。永遠が見えていた。自分の腕を男に与えた女も、男に身をまかせた過去の女も。しかし男は自分に死ぬことができなかった。もぎ取られた自分の片腕を目にして恐怖を覚え、発作的に、一度は自分に付けた女の腕をもぎ取り、また自分の腕を付けるのだ。自分に死ぬことなしには救いはない。

この作品についてはまだもっと読み込み、改めて書くとしよう。


*川端康成「片腕」は↓で全文が読めます。書名をクリックしてお読みください。
川端康成著「片腕」


2005年04月10日(日) 倉岳山へ

朝、目覚まし時計が鳴るより30分前に目が覚める。
眠りもけっして深くなかったから3時間も眠ってはいないだろう。しかし昨日のダンスの疲れも残ってはいない。山行きに支障はないようだ。

同居人を起こさないようにそっとベッドから抜け出し、急ぎ支度を整える。
炊きたての赤飯をおにぎりにし、プロテインとミルクのシェイク、ヨーグルトにバナナとミューズリーを混ぜたものを朝食に取り、6時15分家を出る。

7時45分に新宿。8時14分発のホリデー快速河口湖1号に乗るべくホームで仲間を探すが見当たらない。電車が入ってきてしまったので、一人一番前の車両に陣取るものの落ち着かない。というのもこの電車は目的地の梁川駅には止まらないので途中で乗り換えなければならないからだ。うまく仲間と合流できるだろうか・・・よかった。同じ車両の端に幹事のDさん発見!
Dさんとはアーユルヴェーダやヨガの話をする。立川からS先生、Kさん、Oさんが合流。塩津で乗り換え梁川駅下車。そこでさらにAさんNさんの若いご夫婦と合流。7人での山行き。

出かける時は曇り空であまり良い天気は期待してはいなかったが、なんと強い日差し。日焼け止めクリームを塗り、半袖のTシャツ一枚で歩き始める。
倉岳山までの登り道は途中ずっと月屋根沢が続いていて、軽やかな水音を聞きながら歩く。途中の沢でペットボトルに沢の水を補給。立て札には「飲み水ではありません」とあるもののみなで無視。実際水はおいしかった。

最後はかなり急勾配だったものの、それほどきつい思いもすることなくほどなく山頂へ。
山の上での宴。フランス人のAさんが朝作ってきたというパリ仕込みのキッシュとおいしいワインに始まり、それぞれが持ち寄った美味しい食べ物と美味しい酒。満足。わたしは例によって少量の酒で酔いがゆきわたる。かなり酔っ払っていたのに違いない。Amazing Graceを歌えと言われ、山に向かって歌ったのだから。今日は主日なのに教会の礼拝をサボって山行きをしているのだ。せめて讃美を。

帰り、鳥沢駅の方へ下山。途中小篠貯水池で花見休憩。貯水池の下に広がる桜を眺めながらみなで草に寝る。「おお心地よいこの無為の時」これはハイネの詩のフレーズだったか。30分ほどもそこにいただろうか。わたしは例のごとく熟睡。目覚めるとなんだかいい夢の後味がした。

この花は何?ムスカリ。これはレンギョウかしら。ボケの花の色の美しいこと。家家の脇にきれいに植えられている花々を眺めながら鳥沢駅へ。

帰り道、吉祥寺駅下車。井の頭公園で花見。驚くばかりの人。これほど人のひしめく花見にでくわしたことは今までなかった。世の中はこのように動いているのかと感心する。しばらくして0さん合流。隣はなにやらアフリカの民族楽器をやるグループらしい、おもしろい楽器を手にした若者たちが一人、また一人と集まってきては音が増えていく。花見というよりは川辺に様々な人が集まるサマーキャンプのような雰囲気。
Kさんから何度か踊ってよとオファーがあったが、音楽なしで踊るのはあまりに間が抜けているし、お酒も飲んでなかったから踊らなかった。飲んでいたら踊っていたかもしれない。危ないところだった。

しかし夜空に広がる桜の美しいこと。豪華絢爛。桜の花の屋根のもと、再び宴。
桜の花びらの散りかかる。そこにいる2時間ほどの間にも花びらの降る間が短くなっていった。
散る花の哀しい美しさ。


はらはらと花びら肩に家路ゆく


2005年04月09日(土) ダンスの練習とリハーサルの一日

実は今日はすでに4月13日水曜日だ。日記が5日も滞っていた。
書く事がなかったわけではなく、書くべき事が多すぎたからだ。書く時間が取れないほどさまざまな事があった。そしてまた、そのさまざまな事を書くのに十分な時間が無かった。

もうこうなれば、多く詳しく書く事をあっさりあきらめ、防備録として事柄だけでも書いておこう。

4月9日土曜日。一日ダンスの日となる。
9時から午後1時まで24日のステージで踊るR&Bとラテンの練習。
練習場の窓の向こうには開いたばかりの桜が美しい。しかし、花見そっちのけで踊りに集中。一人でビデオを見ながら練習していたものの、みなといっしょに踊ると細かいところで揃わないところや動けないところがでてきてあせる。

練習の後、一旦家に戻り、夕方のリハーサルに出かけるまで30分ほどソファーで仮眠。熟睡するわたしに同居人あきれる。

午後3時、本番の衣装をバッグに詰め込み電車でリハーサル会場へ。電車で出かけたのはmGがその後の反省会で酒を呑めるようにだ。わたしは明日の山行きのため反省会は欠席するはずだったが心変わり。やはり出る。
まったく、欲張りだなぁ。明日の山行き、大丈夫なんだろうか・・・

夜11時過ぎに帰宅。一日分の汗まみれのウエアーを二人分洗濯。山行きの用意。ザックに入れる着替えを出したり詰めたり。明日の弁当の下ごしらえ。黒米入り赤飯を作る予定。mGが教会へ、わたしが山へ持ってゆく筑前煮と大根の千枚漬は2セット前日にすでに作ってある。
深夜1時過ぎに就寝。朝5時に起きるべく目覚ましをセット。
なんともフル回転の一日だった。


2005年04月08日(金) 桜の下で過ごした金曜日

今日は二度花見をした。
一度目は歯医者の帰りにわたし一人で。お弁当は持っていってなかったから、冷蔵庫に入っていたシュークリームとお茶とチョコレートを食べる。花を愛でるつもりが、持って行った本「内村鑑三」に没頭してしまい、そっちの感動が大きくて花の下にいることを忘れていた。

でも読みながら思わず泣いてしまったのは、やっぱり美しい桜のに包まれていかたらのような気がする。
イエスがすぐわたしの傍らにいるということの確かさが迫ってきたのだった。ついこの前までは枝だけだった桜の木に今は満開の花が開いているという、その確かさで。

夜は、早めに帰宅してきたmGと改めてお花見。お花見弁当もどきと、焼酎「ほげぽっぽ」と魔法瓶に熱いお湯を入れて、自転車で出かける。
昼間よりもたくさんの人。ライトニングのせいで、昼間よりも妖艶で、豪華絢爛といった桜たちだった。
今度はしっかり桜を愛で、食べて、呑んで、そして踊りもした。


*桜の写真はmGのブログカタチを越えてでごらんください。


2005年04月07日(木) 「ほげぽっぽ」を呑みながら

同居人mGが自分のブログで、♪水曜日はうえんずでい♪とかいうタイトルで、我々が水曜日の夜ごとに焼き鳥屋ののれんをくぐっていることをばらしていた。

だいたい、我々は二人で呑んだり食事していたりすると、近くのお客からジロジロ見られる。きっと「こいつらどういうカンケイなんだろう・・・夫婦には見えないし、仕事関係でもなさそうだし、不倫にしては翳りがなさすぎるし・・・」とこういう???が浮かんでいるのだろうか。

そう言われてみれば、男女のカップルで座っていたら、だいたいカンケイが透けて見えますねぇ。我々のカンケイが見えないというのは、我々がたりたとmGという個々の人間としてそこに居るからなのかもしれない。夫と妻とか男と女とか、そういうんじゃなく・・・

さて、わたしの場合、木曜日はジム日なので、早朝、自転車を飛ばしてジムへ行き、2本エアロビクスをやって、午後はドトールでサンドイッチをほおばりながらゼミの課題のテキストを読みながら、感想などをノートに書いたりした。その後、食料品などの買い物をし、夕方帰宅。

今夜はmGが一人でジムへ行ったので、わたしは大分は臼杵の麦焼酎「ほげぽっぽ」をお湯割りで呑みながら書いているところ。
最近は大分の焼酎でも宮崎や鹿児島の焼酎もずいぶん色んな銘柄が酒屋やスーパー、コンビニで買えるようになったけど、この臼杵産裸麦100%使用という「ほげぽっぽ」はまだここらでは見かけないなぁ。実に芳醇な焼酎だ。あまり酒の味が分からないわたしでも、このおいしさは感知できる。

さてさて、今日は早めにベッドに入り、明日はうんと早起きをしよう。
朝桜っていうのもいいかもしれない。自転車で見に行くかな。


2005年04月06日(水) 出遭いの連鎖

ここ数日間、読む事に没頭している。
読むと書けない、というより書く時間に読むから時間がなくなる。
しかし、何か書いておかなければ、この時期に何を読んだかということも定かではなくなる。

このところは、忘れる、覚えてはおれない、思い出せない、という事をすっかり学習したので、記憶に頼るということはももうあきらめてしまった。
いくら体力をつけても、贅肉を落としても、こういうところに衰えを見出す。
しかし、だからこそ、書こうとするし、またあまり時間が残っていないと思うから貪欲に読む。


冨岡幸一郎著「聖書をひらく」を読み、続いて同著者による「内村鑑三」を読み進めている。内村鑑三の著作はちょうど洗礼を受ける前、大学3年の時に手にしているのだが、わたしはそれを読み進める事ができなかった。時がまだ来ていなかったのだろう。その時にも、きちんと出遭いは用意していただいたのに、わたしの熱意も、また理解力も十分ではなかったのだ。神はあきらめることなく、人を通し、機会を通して、わたしが受け取るべきものを受け取るよう、道を用意してくださる。

また、冨岡氏が解説を書いているカトリック作家の小説を2冊読む。大原富枝著「アブラハムの幕舎」と森内俊雄著「骨の火」。「アブラハムの幕舎」では、母との間にある主人公の葛藤や、イエスへの思い、信仰への希求、また強靭な孤独の内に自分自身寄って立つところを見出そうとする意思など、わたし自身の葛藤や願い、また祈りがそこに映し出されているようで不思議な感動を覚えた。「骨の火」では、罪のあるところにまた神が存在するという深遠なテーマに若い頃に読んだドストエフスキーを思い起した。生々しい人間、人間の犯す罪、その罪に対する苦悶。圧倒されるものがあった。

正津文学ゼミの前回の課題の芥川龍之介を読んでいた時には、思いがけず、芥川のキリスト観に触れたし、今回の課題の川端康成の「片腕」でも作品の中に2箇所出て来る聖書の引用が興味深い。そこに作者のイエス観が見えるのだ。

わたしから探し求めたというわけではないのに、目の前に次々と出遭うべきものが置かれ、それが次へと連鎖していく。





2005年04月03日(日) 誕生日

誕生日だった。さすがに今年は嬉しくはない。
29歳であろうが、39歳であろうが、その世代の最後の1年を迎える日には、なにか溜息がもれるもんなんだろう。

40歳の誕生日の直前、わたしは思い立って一人アメリカへの旅に出かけた。ニュージャージーの友人のところに居候し、その後、セントルイスに飛び、日本で知り合ったアメリカ人カップルの結婚式に参加し、翌日はひとりでダウンタウンを探索し、戻ってきた。けっこうスリルもあって区切りをつけるには良い旅だったと思い出す。

さて、今年は何をしよう。次にやってくる50代にジャンプするための踏み台のような何かをしなければと、そんな事を考えていた。

さて、今日、どんな事をしたか書いておかなければ忘れてしまう。
土曜日に大分から戻ってきた事は前日の日記に書いた。今日は日曜日だったので、まずは教会へ。誕生日を記念して礼拝堂のお花を献花する。

お昼はmGから教会の近くのイタリアンレストランで、ご馳走してもらう。
グラスワイン、前菜はサヨリと春野菜のカルパッチョ、魚介類のピザと、きのこのスパゲティー、そしてお店からサービスのケーキ。デザートワゴンから3つのケーキを選ぶと、それを大皿にすてきにアレンジし、キャンドルを灯してくれる。従業員が出てきて歌も歌ってくれるということだったが、それはお断りする。

たったグラス1杯でも、わたしはワインにはめっぽう弱い。ジムへ行くmGと分かれて、眼鏡屋へ行くのだが、どうもふらふらする。コーヒーショップで、しばらく本を読む。読んだ本は森内俊男の「骨の火」しばし没頭。いけない、いけない、眼鏡を作るのだった。

数日前にコンタクトレンズを片方失くした。コンタクトレンズを新調し、いよいよ本格的な遠近両用眼鏡を買うことにした。目のためには眼鏡の方がいいに決ってる。コンタクトレンズはジムや運動する時のみにし、日常は眼鏡をかける覚悟だ。しかたないなぁ〜、トシだもん。
しかし、それはいいとして、眼鏡って高い。誕生日だから思わず太っ腹になって、店員から勧められるままに高いものを買ってしまったような気がするのだが・・・これもまた、しかたない。

眼鏡屋で思いの他時間を取られた。もうこれからジムへ行ってもクラスには間に合わないが、せめてお風呂とサウナには入る。
昼にかなり食べたので、夕食は軽くすまそうと話がまとまり、ドトールへ。

と、こんな誕生日の一日。


2005年04月02日(土) 別府、名湯めぐり

さて大分滞在は3月28日より4月2日まで。
大分での最後の夜は、母親と別府に一泊した。
午前中父の病院へ行き、その足で別府へ。午後からゆっくり温泉につかりながら話込み、その後、カラオケへ。母はカラオケルームは初めて、マイクを持って歌ったのも初めてだったようだ。そしてホテルの居酒屋で3日のわたしの誕生日を祝っての食事。肝臓が悪い母はアルコールは飲めない。そして「焼酎をお湯割りで」と注文するわたしにあきれていた。そういえば、この暮れに帰省した時はまだ焼酎にハマる前だった。

翌日、飛行機は午後4時半の便なので、3時に別府駅を出る空港行きのバスに乗ればよい。母は温泉は疲れるからもうどこにも寄らずに家に帰るというので、わたしひとりで温泉巡りをすることにした。

まず、早朝7時前に、ホテルから徒歩10分のところにある別府温泉の看板のような木造建築の古い昔ながらの温泉、竹瓦温泉へ。この前の冬の早朝にもこの温泉に来たが、その時に顔を合わせたおばあちゃん達がやはり数人来ていて、その時のように親し気に話しかけてくれた。4月1日から3日までは温泉祭りという事で、市営の温泉はすべて無料。もともと100円かそこらの入浴料ではあるものの。その恩恵に与ることができてうれしかった。

ホテルに戻りゆっくり朝食を取った後、母を駅に見送り、わたしはバスで30分ほどのところにある明礬温泉へ。超名湯とされている無料の共同温泉、地蔵泉に入るべくやってきたものの、今地蔵泉はお湯の温度が下がり、閉められているということ。「大分の極上名湯」という本を頼りに、もうひとつの超名湯、山田屋旅館の温泉を訪ねる。そこは昔ながらの小さな湯治宿で、温泉小屋は宿から少し離れたところにある。全くの小さな小屋で、そこは共同風呂のように人もいない。入り口が一箇所しかないから、もしかして混浴?と思いきや、入り口を入ると内側に男湯と女湯に分かれた戸があってほっとする。

男湯の入り口には大きなスニーカーが一足だけあった。ということは男湯に先客が一人いて、女湯には誰もいないということだ。さて、戸を開けて入ったものの、戸には鍵がかかっているわけではない。誰でもガラリと戸を開けて入ってくることは可能だ。しかし、バッグを持って風呂の中へ入るわけにも行かないので、狭い脱衣所の籠の中に、バッグも服も入れ裸になって風呂の戸を開けると、ぎょっ・・・確かに入り口は男湯と女湯に分かれていたが、中に入ってみれば、湯船はひとつ。その真ん中に仕切りがしてあるものの、木の古い柵のようなものだから、木と木の間には隙間があって、微妙に向こうが見えるのだ。人が2人も入ればいっぱいになるような小さな湯船である。ついたての向こう側にいる客がお湯に入っているので、お湯の表面は音をたて波打っている。お湯をくぐれば、向こう側へも行けるという作り。ほとんど混浴。これで複数の入浴客が居れば気にもならないが、二人だけである。どうしたものかとしばらく佇む。

しかし、超名湯と言われるだけあって、少し緑がかってとろりとするようなお湯は見るからに極上の湯といった感じだ。すでにお金も400円払っているのだし、またいつ来れるとも分からない。入らずに帰ればきっと悔いが残る。この際、もう女であるとか男であるとか考えるのはよして、とにかくこのお湯に浸ることだけに集中しようと腹を括り、息を詰めるようにして、柵の方に背中を向けたまま、お湯の中に入る。うむ・・・がツンと掴まれる感覚。やはりいいお湯だ。これほどの緊張と居心地の悪さをしても、お湯の良さがひしひしと伝わって来る。すぐ側にいる男性のお湯に感嘆しているらしい溜息がはっきりと聞こえる。わたしは息を殺したまま、そっと、お湯に出たり入ったりを何度か繰り返し、30分ほどそこに居た。今度はもっとセキュアな気持ちでこの名湯を心行くまで味わいたいと思った。

さて、そこを出ても、もう一箇所くらい回れる時間はある。明礬温泉まで来る途中にあった鉄輪(かんなわ)温泉まで行って、その温泉地の超名湯とされる
鬼石の湯へ行く。こちらは最近になって改装された温泉らしく、今時のスーパー銭湯や温泉のように広いスペースに大きな内湯と2種類の露天風呂もあり、風呂の脇においてあるリクライニングの椅子や植え込みの木々はゆったりとした気持ちにさせてくれる。先ほどの温泉とはえらい違いだ。
良い温泉だということは身体の反応で分かる。温泉の強いエネルギーが細胞に染み渡る感じなのだ。そしていつまでもお湯の中にいたいという気持ちになる。今日のように時間に制限があるのはなんとも残念でもったいないが、しかたない。一時間ばかりそこでゆったりと湯に入ったり、出たりを繰り返してから、帰りのバスを掴まえ、別府駅へ。

帰り、温泉祭りのためか道路が混んでいてバスはなかなか駅に着かない。ようやくバスから降りた時には、大分空港行きのバスが目の前を過ぎて行った。まずい、このバスを逃すと飛行機も逃がすことになり兼ねない。変更の効かないパックの航空券だ。なんとしてもバスに乗らなければ。旅行バッグを肩に担ぎ、ダッシュ。道路が渋滞していたのが幸いだった。信号待ちしているバスに追いつき、乗車ドアを敲くと、ドアが開き、中へ入れてもらえた。ほっ・・・ここが九州のバスの良いところ。何とか予定の飛行機に乗り込むことができた。

さて旅モードを切り替え、羽田からの電車の中ではR&Bとラテンの曲を繰り返し聴きながら、頭の中でダンスのおさらいをする。電車はいつの間にか、ジムのある北上尾駅に着き、そのままスタジオへ駆け込む。8時15分からのラテンのクラスに間に合った。やぁ、mG、みんな、おひさしぶり!

本日の仕上げはジムのサウナと今日4度目の風呂。旅の話をしながらmGと飲むビール。


たりたくみ |MAILHomePage

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