たりたの日記
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2005年03月30日(水) 大分から携帯で

28日から大分の実家に帰省中です。前日は朝はイースターの昼食会の持ち寄り料理をこしらえ、イースター礼拝の司会を何とか果たし、午後のパーティーの後、急ぎダンスの練習会場へ。それから踊る事5時間。まさに部活の特訓のノリ。といっても私は運動部に入ったことないのですが。
しかし良く踊りました。実に満足。こういう疲れはいいものです。

それで夜は日記を、それもかなり力入れて書いたのを二つアップして、翌朝6時起床で羽田へ向かったのでした。

帰省の目的はこの日28日の父母の金婚式を祝うためと入院中の父を見舞うためです。
父はこの春、大分市の病院から地元の病院に戻って来たので帰省中は毎日行って食事の介助する事ができます。

ところで、いつも帰省中は運動不足と食べ過ぎで体重が増えてしまうので今回はランニングシューズとウェアを持参しました。昨日は朝6時に起きて歩きました。母校の中学校のグラウンドまで来たのでそこでダンスの練習をしていたところ、はっと気が付くとかしこそうなコリー犬が私をじいっと見ているのです。飼い主らしい人ははるか遠くにいます。当然綱は付いていません。御存知ないかもしれませんが私は犬がオバケのQ太郎なみに怖いのです。どきりとはしたものの、それを悟られないようにしばらく犬に背中を向けたまま、一人物思いに更けるポーズを取り、ドキドキしながら犬から離れていきました。



2005年03月27日(日)   ラボニ!と、その時マリアは叫んだ。 ―マグダラのマリアが復活のイエスに会った朝―

 

今日はイースターだ。キリスト教の習いとしては、 茹で玉子に色をつけたり教会での礼拝の後は祝いのテーブルを囲む。
アメリカに住んでいた頃は、イースターともなれば、商店街のあちらこちらにうさぎのマスコットが出没した。イースターの前の晩、サンタクロースよろしくイースターバニーが、眠っている子ども達の枕元にお菓子の入ったバスケットを置いていくのだそうだ。
町が主催するイースターエッグハンティングなるものもあった。バスケットを手にした子ども達が公園に集まり、公園のあちらこちらに隠してある色とりどりの玉子(と言っても、プラスティックでできた中にキャンディーなどが入っている玉子型のカプセル)を見つけて歩く。
イースターはキリストの復活にかこつけた春のお祭りといった賑やかな祝日なのだ。

日本ではイースターはクリスマスのようにはお祭り騒ぎされないことにほっとする。欧米のお祭りがそのまま、概観だけ輸入される中にあって、イースターは手付かずのままに残されている。クリスマスはキリストの誕生を祝うのだから良いとしても、キリストの復活を祝うとイースターは、宗教色が強すぎるのだろう。

クリスチャンだと言うと、たいてい受ける質問は「キリストが生き返ったなんて信じているの」というもので、信じていると言えば、狂人扱いでもされそうで返答に困ってしまう。しかし物事は科学的に視るだけでは十分ではない。「詩的視点」が必要だ。

わたしは復活のできごとを、マグダラのマリアという一人の女性を通して、信じる事ができるのである。
娼婦であったマグダラのマリアはイエスから7つの悪霊を追い出してもらったとされている。イエスが捕えられ、十字架に付けられた時、男の弟子達はちりじりに逃げていってしまったが、マグダラのマリアはイエスの母マリア、そしてサロメと呼ばれる女性と共に苦しむイエスを見上げ、その場を最後まで離れなかったのである。苦しむイエスをこの3人の女達がどのように見つめていたのか、わたしはこの女達に自分を重ね合わせることで、女たちの身に起こったことが、わたし自身の身に起こったこととして生々しく体験する。これを「詩的体験」と言おう。

愛して止まない人が自分の目の前で苦しみ血を流し死んでいった。その事の痛みと喪失感はマグダラのマリアの全身を苛んだことだろう。眠れぬ夜を過ごした朝、せめて、墓の前に立っていたいと、イエスが葬られている墓へ出かける。しかし、墓石は動かされ、そこにイエスの遺体はない。イエスの遺体すら取り去られてしまってはもう、力なく泣くしかなかったマリア。しかし、その時、マリアはイエスを見るのである。泣いていたマリアに「マリア」と呼びかけたその声は間違いなくイエスの声だった。その瞬間、マリアはイエスの復活を知るのである。愛している人がここに確かにいる。死んだこともまた確かなことだが、今生きてここに居るということは、動かし難い事実。なぜなら愛する魂は、その人を他のもとと取り違えたりはしないのである。

「ラボニ!」(先生)と、マリアは振り返りざまに叫ぶのだが、その声の強さも、その輝くような表情も、わたしの魂にはくっきりと映る。空っぽの墓のように虚ろだったマリアの心がイエスの存在によって満たされる。その歓喜!
そして魂は、尽きない泉のようにけっして枯れない井戸のように、いつまでもイエスを内に湛えることができるのである。自分の内に湧き起こる泉のような力。その迸るような命の力の故に、マリアにとってキリストの復活はゆるぎない真実。そして、それはそのまま、わたしにとっての事実なのだ。わたしの魂がそう認めるのだからしかたがない。このことを「詩的事実」と言えばいいだろうか。


芥川龍之介は自死するわずか2週間前に、「西方の人」と題して自らのキリスト観を書き残している。
1章、<この人を見よ> の最後に <わたしは唯わたしの感じた通りに「わたしのクリスト」を記すのである。厳しい日本のキリスト教徒も売文の徒の書いたクリストだけは大目に見てくれるであろう>という文章がある。

そして15章<女人>にはくだんのマグダラのマリアが取上げられている。そしてわたしは芥川のマグラダのマリアの記述がとても好きだ。イエスとマグラダのマリアとの関係はこのようであっただろうと、わたしもまた思う。そしてそれは過去に存在したマグラダのマリア一人にいえることではなく、イエスに「詩的恋愛」を感じつづけているあらゆるマグダラのマリアたちにいえることだと思っている。あらゆるマグダラのマリアたちは男であってもまた女であっても良いのである。娼婦であってもヤクザであってもよければ、貞淑な妻であってもマジメな会社人間であってもいっこうに構わない。現世の制限を超えた愛はきっと存在する。「詩的恋愛」とは良く言ったものだと思う。わたしなぞは「信仰」という言葉より、この言葉の方がよほどしっくりくる。

ラボニ!と叫んだマグダラのマリア、それはまたわたし自身。



【参考】  

 <ヨハネによる福音書 20章11節〜18節>


マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。


 <芥川龍之介作「西方の人」より  十五章 「女人」>

 大勢の女人たちはクリストを愛した。就中(なかんづく)マグダラのマリアなどは、一度彼に会つた為に七つの悪鬼に攻められるのを忘れ、彼女の職業を超越した詩的恋愛さへ感じ出した。クリストの命の終つた後、彼女のまつ先に彼を見たのはかう云ふ恋愛の力である。クリストも亦大勢の女人たちを、――就中マグダラのマリアを愛した。彼等の詩的恋愛は未だに燕子花(かきつばた)のやうに匂やかである。クリストは度たび彼女を見ることに彼の寂しさを慰めたであらう。後代は、――或は後代の男子たちは彼等の詩的恋愛に冷淡だつた。(尤も芸術的主題以外には)しかし後代の女人たちはいつもこのマリアを嫉妬してゐた。
「なぜクリスト様は誰よりも先にお母さんのマリア様に再生をお示しにならなかつたのかしら?」
 それは彼女等の洩らして来た、最も偽善的な歎息だつた。



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2005年03月26日(土) 芥川龍之介著「蜃気楼」を読む


「蜃気楼」芥川龍之介の小品。初出は昭和2年2月4日とある。芥川が自死したのが昭和2年7月24日だから、この作品は死の半年ほど前の作品ということか。

印象的な作品だった。芥川その人の素顔を間近に見ているような、またその風景の中に共にいるような臨在感を覚えた。蜃気楼を求めて、友人や妻と連れ立って海岸を散歩する作者。美しい描写の中にも、陰鬱な気分が通奏低音のように響いている。そして掴みどころのない獏とした不安や無気味さはどこか死に近い。のた打ち回る苦悶や慟哭の激しい悲しみは案外、生命の力を感じさせるものだが、しかし、この作品に見える作者の命の力は希薄に感じられる。そして、そういった自身の心の状態を、作者は客観的に眺め、記録しているような印象を受ける。

作者の陰鬱な心の深部を投影するような言葉や表現が目に止まる。例えばこのような。

・蜃気楼
・まだぼくは健全じゃないね。ああいう車の痕を見てさえ、妙に参ってしまふんだから。
・絵の島、家々や樹木も何か陰鬱に曇っていた。
・鴉の影、その陽炎の帯の上へちらりと逆さまに映っていた。
・水葬した死骸の付いていたと推測する木札、何か日の光の中には感じる筈のない無気味さを感じた。
・真白い犬が一匹、向こうからぼんやり尾を垂れて来た。
・僕はなぜかこの匂いを鼻の外にも皮膚の上に感じた。
・やあ、気味が悪いなあ。土左衛門の足かと思った
・鈴の音―幻聴
・自動車の運転手と話しをしている夢―それだけに気味が悪いんだ。何だか意識の閾の他にもいろんなものがあるような気がして。
・ つまりマッチへ火をつけて見ると、いろんなものが見えるようなものだな。
・ 偶然僕等の顔だけははっきり見えるのを発見した。・・・・僕は又何か不気味になり、何度も空をあおいで見たりしていた。
・松は皆いつか起こり出した風にこうこうと梢を鳴らしている。
・ 背の低い男が一人、足早にこちらへ来るらしかった。 

一方、作者の陰鬱な心情との対極にあるもの、命とか未来を感じさせる表現もまたある。それらはどれも、作者の心の向きとは違う方向にあるのだが、その命の力のようなものを作者は退けず、はっきりと認識しているのだ。そこへの憧憬にも近いものがあるというのは読み込み過ぎだろうか。例えばこのような箇所。

・轍―何か圧迫に近いものを感じた。逞しい天才の仕事の後
・新時代、女の断髪。パラソルや踵の低い靴
・妻―「わたしのぽっくりの鈴が鳴るでせう。」「わたしは今夜子どもになってぽっくりを履いて歩いているんです。」
・おぢいさんの金婚式
・ 東京からのバターとソーセージ

これらの表現を眺めてみると、芥川が精神的に病んでいる、弱っているということは明らかだ。自分でもどうすることもできない、何かわからない無気味さに支配されている事が伝わってくる。

ところで、芥川の自死の理由はどういうものなのだろう。良く言われているように、狂った母親を見てきた芥川は自分が狂いつつあることを憂えて、そうなる前に自ら死ぬ事を選んだのだろうか。自らの命を蜃気楼のように儚いものとして、虚無のうちに自らの生に決着をつけたというのだろうか。
しかし、それなら、死の2週間前に書いた「西方の人」をどう読めば良いのだろう。閉じたところで自分を持て余している文章ではない。鋭いジャーナリストの眼で、独自のキリスト観とでもいうものを記している。

聖霊を「永遠に超えんとするもの」といい、聖母マリアを「永遠に守らんとするもの」と定義する。そして「クリストは兎に角我々に現世の向うにあるものを指し示した。我々はいつもクリストの中に我々の求めてゐるものを、――我々を無限の道へ駆りやる喇叭の声を感じるであらう。同時に又いつもクリストの中に我々を虐んでやまないものを、――近代のやつと表規した世界苦を感じずにはゐられないであらう」とキリストのことを語る。ここには自死を匂わせる表現や、神経を病んでいるような印象は見当たらない。むしろ、現世の向こうにあるものへの憧憬やキリストへの愛が表現されている。

病む者の症状として、時折、激しい死への渇望が発作のように襲ってきていたのだろうか。当然、死へ流れ込もうとする自分を 生へ繋ぎとめる努力もしたことだろう。この作品「蜃気楼」の中に見え隠れする、生と死、陰と陽のコントラストも、作者の内なる闘いを垣間見させてくれるような気がする。


2005年03月24日(木) 2年ぶりに友と会う

「2年ぶりね。」
「もう、そんなに経った?」
駅の待ち合わせ場所で友人のEと会った時の開口一番の言葉。

この2年間の間に、Eは母親を看取り、わたしは義父を見送った。そして子ども達の受験も終えた。Eの一人娘のAちゃんは今年の春から大学生。

15年前、Eとわたしはニュージャージーのコミュニティーカレッジで出会った。同じように幼児を抱えてカレッジに通う母親同士。授業を受けている間は、カレッジの中にある託児所に子どもを預けていた。試験もあればレポートもある。20代の学生の頃よりはるかに勉強に追われた日々だった。

あぁ、時が過ぎたねえ、お互いの子ども達が大学生なのだから。
そしてわたし達はどういう風にこれから生きて生きたいかと、老後の話などしている。

いえいえ、こどもが20代を過ごすのだったら、わたし達もまた20代を生きなおすのよ。
実際、わたしはHが大学生になってからの4年間、実に様々なことを体験し、それを通じて育った自分があった。
さて、Eはこれから。わたしにしてもMが卒業するまでには後2年もある。
まだまだ続く、2回めの青春。


2005年03月23日(水) 奥多摩へ

21日、mGと奥多摩へ御岳山から日の出山へ。天気も良くすばらしい見晴らし。
山頂で早目のお昼ご飯。前回の山行きで伝授されたポーランド産のハーブ入りウォカ、ズブロッカで乾杯!
ほろ酔い加減のいい気分で歩くこと3時間。ようやく梅の花に覆われる吉野梅郷へ到着。
あぁ、その梅の林の美しいこと。実際、夢のようで、もう、いつまでもそこに居たいのだった。



**************************************
オレンジ色の新しい携帯電話から、日記更新に成功。これでPCがない場所でも日記を書けるというもの。しかし、親指で打つ日記はやたらと時間がかかる。ずいぶん書いたつもりだったのに、アップしてみると10行にも満たない。けれども、それ故に、余計な事を書かなくてシンプルで良いのかもしれない。
といいながらPCだと、途端に饒舌になる感じ。
今日、デパートの婦人服バーゲンの催事場で、新しい携帯電話とそっくり同じオレンジ色のスプリングコートを見つけた。着てみると格好もなかなか良い。
おまけに安い。普通売っているこの手のコートの値段からすると四分の一くらしのお値打ち品。即、買う。
この春は外歩きが楽しいかもしれない。


2005年03月20日(日) 教会学校でのお話 「君もそこにいたのか」

来週は何の日ですか?
そうですね。イースターです。イースターにはどんなことをするの?
そう、きれいな色や絵がついたイースターエッグを見つけるイースターエッグハントをしたり、礼拝の後で、みんなでポットラックのパーティーをしたりするんでしたね。

それじゃあ、今日は何の日でしょう?
今日は枝の主日、また受難主日と呼ばれる日です。なぜ枝の主日というかといえば、イエスさまが十字架にかかる前に小さなロバの背中に載ってエルサレムの町に入ってきたのですが、その時みんなは、イエスさまをお迎えするために、手に棕櫚の枝を持ってホサナホサナと言いながら、イエスさまを大歓迎したのです。さっき歌ったダビデの子ホサナよと言う歌はその時の事を歌った歌です。

では受難主日の受難ってどういう意味でしょうね。誰か知っている人がいますか?
英語ではパッションといいます。イエスさまが十字架の上で苦しみを受けられたことを受難、パッションと言うのです。

でも変ですね。同じ日曜日にイエスさまをお迎えするうれしい日の名前と、イエスさまの十字架の苦しみを覚える日の名前があるのですから。
どうしてかと言えば、イエス様はエルサレムにいらした時にはみんなが、イエス様を大歓迎したのに、何日も経たないうちに、同じ人達がイエスさまを十字架にかけろと叫び出したのです。弟子たちもそうでした。それまでイエスさまの側にいて、いろいろなお話を聞き、イエスさまのお手伝いをしていたイスカリオテのユダは、イエスさまを捕まえようとしている人達に、あそこにイエス様がいるよと告げ口して、そのお礼にお金をもらったのです。それだけではありません。弟子のペテロは、「たとえ、みんながあなたから去っていっても、わたしはそんなことはありません」と言いました。ところがイエスさまが兵隊たちに捕まえられてしまうと、弟子たちはこわくなってみんな逃げていってしまいました。わたしだけは逃げませんと言っていたペテロも、「あなたはあのイエスの弟子でしょう」と人から言われると、怖くなってしまって、「そんな人は知らない」と3度も言ったのです。その後に鶏が鳴きました。イエスさまは「あなたは今夜、鶏が鳴く前に三度わたしのことを知らないというだろう」とおっしゃっていたのです。鶏が鳴いた時、ペテロさんはイエスさまの言葉を思い出しました。ペテロはどういう気持ちだったでしょう。イエスの言葉を思い出して激しく泣いたと聖書には書いてあります。


イエスを十字架につけろと叫ぶ声の中でイエスさまは祈りました。
「神様、わたしを十字架にかける人をゆるしてください。この人たちは自分が何をしているのか分かっていないのです。」と
イエスさまは、たった一人で十字架の上で苦しみを受け、血を流し、死んだのでした。


いったい誰がイエスさまを十字架にかけたのでしょうか。イエスさまを憎んでいた祭司や律法学者たちでしょうかイエスさまを銀貨30枚で売ったユダでしょうか、イエスさまを3度知らないといったペテロや逃げていった弟子たちでしょうか、ホサナホサナと喜んで迎えたすぐ後に十字架にかけろと叫んだエルサレムの人達でしょうか、イエスをとらえたローマの兵隊たちでしょうか、それとも死刑を言い渡したポンテオピラトでしょうか。

黒人霊歌の中に「あなたも見ていたのか」という歌があります。黒人霊歌というのは、アフリカからアメリカに奴隷として連れてこれらた黒人の人達がつらい奴隷としての生活の中で、歌って、伝えていった民謡のような歌です。
その歌はこんな風に歌っています。



  <君もそこにいたのか> 聖歌400番


君もそこに居たのか  主が十字架に付くとき
ああ なんだか心が震(ふる)える  震える  震える
君もそこに居たのか


この「君」というのは、だれのことでしょう。あの時、イエスを十字架につけた人たちのことでしょうか。いいえ、違います。ここにいるわたし達ひとりひとりに、「君もそこにいたのか」と呼びかけているのです。あなたもわたしも、イエスさまが十字架にかかる時、その場所にいて見ていたのですよ。わたしたちの罪がイエスを十字架につけたのですよ。と歌っているのです。

では、イエスさまを十字架につけてしまったわたしたちは神様の罰を受けるのでしょうか。
いいえ、その反対です。わたしたちはイエスさまの十字架の下にいて、この罪を赦されるのです。なぜなら、イエスさまがわたし達が受けなければならない罰を、たったひとりで引き受けてくれたからです。わたしたちはわたしたちの代わりに十字架の上で死んでくださったイエスさまを見ているひとりひとりなのです。
この1週間、わたしたち一人一人がイエスさまの十字架の下にいることを思って過ごしましょう。     


2005年03月19日(土) ♪Were you there  君もそこにいたのか 

今日は黒人霊歌のWere You Thereをくり返し歌っていた。
明日の教会学校では、この歌を主題にして、受難主日のための話を子ども達にするつもりだ。



  <Were You There>

Were you there when they crucified my Lord?
(were you there?)
Were you there when they crucified my Lord?
Oh!
Sometimes it causes me to tremble, tremble, tremble.
Were you there when they crucified my Lord?

Were you there when they nailed Him to the tree?
(were you there?)
Were you there when they nailed Him to the tree?
Oh!
Sometimes it causes me to tremble, tremble, tremble.
Were you there when they nailed Him to the tree?




  <君もそこにいたのか> 聖歌400番


君もそこに居たのか  主が十字架に付くとき

  ああ なんだか心が震(ふる)える  震える  震える
  君もそこに居たのか


君も聞いていたのか  釘(くぎ)を打ち込む音を
  ああああ なんだか心が震(ふる)える  震える  震える
  君も聞いていたのか


君も眺(なが)めてたのか  血潮(ちしお)が流れるのを
  ああああ なんだか心が震(ふる)える  震える  震える
  君も眺(なが)めてたのか


君も気が付いたのか  突然日が陰(かげ)るのを
  ああああ なんだか心が震(ふる)える  震える  震える
  君も気が付いたのか


君も墓に行ったのか  主をば葬(ほうむ)る為に
  ああああ なんだか心が震(ふる)える  震える  震える
  君も墓に行ったのか  


2005年03月18日(金) 芥川龍之介を読む

今日は歯医者に行った他は珍しく家で過ごした。
午前中は家事をして、午後からはほとんど、ダイニングテーブルの上にノートパソコンを開いて読んだり書いたりしていた。

今日読んだものは、次回の文学ゼミのテキストになっている芥川龍之介の「蜃気楼」と、ネット図書館で読める芥川の作品をいくつか選んで読んだ。以前読んで好きだった「南京のキリスト」とまだ読んでいなかった「西方の人」そして遺稿とされている「ある阿呆の一生」

「西方の人」は、芥川の眼を通して語られるキリスト教。そこに描かれている詩的イエスに好感を持った。
1章の「この人を見よ」の最後に<わたしは唯わたしの感じた通りに「わたしのクリスト」を記すのである>という一文があるが、これこそがわたしの読みたいこと。
難しい神学書やキリスト教を宣伝するかのような伝道書ではなく、その人が受け止め、愛したキリストを知りたいといつも思っている。そしてわたしは芥川の視るイエスや他の人物や事象にかなり共感を覚えた。
このことはまた改めて書くことにしよう。

書く方は、今度の日曜日(受難主日)の教会学校の子ども達に話す話を書いた。受難の話を子ども達にするのは難しい。十字架に意味など、わたし自身、すっかり分かってはいないのだ。だから、知っていることを知識として語るのではなく、わたしが受け止めている十字架を語るしかない。題材に黒人霊歌の
Were You there 「あなたも見ていたのか」を用いることにした。話の中でこの歌を歌おうと思う。

そして、ふるさとの町の文芸誌に投稿する原稿のことを考える。
わたしが保育園の園児だった時に担任だったH先生はクリスチャンで詩人だった。学生の頃だったか、先生が出された詩集をいただいた。それから20年も経って、わたしが書いた本をお送りした。先生は喜んで下さり、地元の文学者達で発行している文芸誌に投稿を勧めてくださった。

ふるさとに帰省している時にはすぐに書ける気持ちがしたのに、こちらへ戻ってくると、ふるさとを離れた人間が、いったいどのような気持ちで、どのような事をどのような調子で書けば良いのか、はたと困ってしまったのだ。
けれども、書くことで再びふるさとと繋がることはわたしにとってとても大切な事だと受け止めている。
H先生から「ゆっくりでよいですよ」とメールをいただいた。ゆっくりふるさとに向かい合おうと思う。

そういえば、芥川龍之介を初めて読んだのはふるさとにいた小学生や中学生の頃、あの時の文学に触れたばかりの驚きにも似た気持ちは今もわたしの身体の中に残っている。
芥川ともふるさととも、新しい出会い直しだ。


2005年03月17日(木) 音楽を連れて歩く、あるいは踊る iPod shuffleのこと

iPod shuffleという音楽を聴く小さな機械(?)を手に入れた。正確に言えば、同居人mGからの突然のプレゼントだった。

まず、夏に青年HがiPodという、やたらとたくさんの音楽が取り込めるウォークマンのようなものを自分で買ってきた。次に、青年Mの成人の祝いに、mGがiPod miniをプレゼントした。次はわたしの番、なんて言った覚えもないし、期待もしていなかったのに、誕生日でもなんでもないおとといの晩、iPod shuffleを「はい」ってくれたのだ。

「なんでもない時にもらうの悪いから、これを早めの誕生日プレゼントにして」と言う。そうすれば、誕生日のプレゼントのことを考えなくてもいいだろうという妻心(ツマゴゴロ)???、ま、いいや。
どうやら、自分のiPodを買う前に、わたしに持たせるという計画みたいだ。

良いことには、わたしの一番のお気に入りのキャロル・キングのCD、LOVE MAKE THE WORLD がすでに入れてある。つまりPCから音を取り込むという面倒な作業をしないでもイヤホーンを耳に当てれば、もうそこから音楽が流れ込んでくる。面倒な作業が苦手なあたしを良く知っている彼は、わたしのために、音楽取り込み係も引き受けてくれるらしい。すごいアフターサービス付き。過保護という人もいる。ま、いいや。

ところでこのiPod shuffle、なんとガムくらいの大きさ。首にぶらさげるようになっているし、別売りのアクセサリーを付ければ、腕にくっつけて、聞きながら踊れるらしい。これはいい!世界が変わる!

で、昨日(木曜日)は雨もようであるにもかかわらず、山行き用のドイターのザックに雨具も詰め込んで、自転車でジムに行くことにした。音楽を聴きながら自転車に乗るのは、たとえ雨の中でも楽しい。実際、ジムまでの往復1時間ほどのサイクリングは抜群に楽しかった。(結局、雨は降らないままで、雨具のお世話になることはなかった)

音楽をどこにでも連れてゆけるというのがいい。さて、今日は家事日。まず音楽連れて洗濯干してこよう。花の水やりもしよう。歯医者にも連れてゆこう。で、誰もいない公園かどこかで踊りたいんだけれど・・・


2005年03月16日(水) 今度の携帯はオレンジ色

2年半前に買った携帯電話(これが初めての携帯だったのですが)が、数日前に突然、壊れてしまいました。もう機種変更をしなくてはと思っていたので、携帯を変えることはいいのですが、やっかいなのは、登録していた情報が取り出せないということです。つまり携帯を落としてしまって見つからないという状況と同じなんですね。

携帯電話を持つようになってから、電話番号や携帯メールのアドレスは、アドレス帳に書いたりせずに、直接携帯電話に登録していましたから、その情報が消えてしまったとすれば、ほんとに困ってしまいます。実際、こちらから連絡したくても、電話番号もメールアドレスも分からないのですからね。

そこで、この場を借りてお願いです。
わたしの携帯メールアドレスを登録してくださっている方は、わたしの携帯電話にメールをくださいませんか?携帯電話の番号もお知らせください。わたしのアドレスはもとのままです。そうすれば、再登録ができますから。
よろしくお願いします。

それにしても、新しい携帯電話の使い勝手がまだ良く分かっていなくて、なんとも不自由な思いをしています。マニュアル見て、使い方を覚えるっていう作業、ほんとに苦手なんですよね。
今までの携帯電話は使いずらいといいながらも、あれで日記までアップしていたのですから、けっこう使いこなしていました。
さて、今度の携帯とも早く仲良くなりたいものです。


2005年03月15日(火) 牧野信一著「父を売る子」を読む ―カリカチュアのおもしろさ

今回のゼミの課題、牧野信一の「父を売る子」では、とてもおもしろい体験をした。
どのようにおもしろかったかといえば、この2週間、この作品を何度も読むうちに、わたしのその作品への評価がおもしろいように変化していったのだ。

そこで学んだことは、自分の第一印象のようなものは、案外当てにならないなという反省と、人にしろ作品にしろ、自分が分からないと思うもの、嫌悪感を覚えるものには、自分には及ばないエッセンスがあると考えて、簡単にうっちゃってはいけないという教訓だった。

まず、最初にこの作品を読んだ後の率直な感想というのは、そこに描かれている主人公である「彼」とその父親に、いやなオトコ達だなあという、どちらかといえば嫌悪感に近い印象を持った。妾の家で談笑している父と息子、息子の妻の悪口を二人して言い合うのだから始末に終えない。少しもかっこよくなく、ひたすら俗っぽい。二度目に読んでも、がまんして三度目を読んでみても、なんとも退屈で、苦痛すら覚えた。感想など一行も書けそうになかったので、ゼミの前日までうっちゃっておいたのだった。

ところがゼミの前日に風呂に浸かりながらもう一度読んでいて、一瞬はっと気づきのようなものが起こった。この作品への嫌悪感、まったく自分とは接点がないと思うその遠さは、いったいわたしのどこから来ているのだろう、むしろこれはわたしの側の問題ではないのだろうかという疑問だ。前回の課題になっていた、やはり父親と息子の葛藤を描いたカフカの「判決」という作品が思い起こしていた。ユダヤ人が描いた父親と息子の心理の方がずっと分かるし、その父と息子の葛藤はそのまま自分のものとして感じ取れるような近さがある。それなのに日本人の作家が日本語で書く小説の中の登場人物を分からない、自分とは無縁だと感じるのはぜんたいどういうことだろうかと自分に疑いを持ったのである。そこでそこの部分に思いを凝らしてみると、わたしは決して牧野氏のこの作品が分からないのではなく、分かりたくない、見たくないという気持ちがまずあって、そこへ近づくことを拒んでいるという事が見えてきた。

そこで再度読み返してみると、書き手の視点が自分の外にあるという事に気がついた。作者はかなり離れたところから自分を観察して書いていることが読み取れる。そこには自分への幻想というものが微塵もなく、むしろ自虐的とも言えるほど、自分というものを客観的に見て描いている。しかもそれだけでは足りずに、そういう自分を鋭く見抜いている妻の視点から追い討ちを書かけるかのように、我が身へのこき下ろしを妻に語らせているのだ。そしてその妻は洞察力に優れ、しかもどこか余裕を持ってなさけない夫を許している節がある。もしかして牧野氏はフェミニストではなかろうか。ゼミの直前には、わたしのこの作品への評価はかなり好意的なものに変化していた。
ところで自虐的と書いたが、この作品に悲壮感はなく、あくまで明るい。このおおらかに自分を裸にできる力量というのが、この作家のユニークさであり、強さではいのではないだろうかという気がしてきた。そう、この脱力加減には好感が持てる。ここで、作家が好きだと思えてきた。

わたしはゼミの中で、牧野氏のこの作品を翻訳して外国人が読むとするとかなりインパクトがあるのではないか、この作品には日本人しか表現できないユニークさがあると 発言した。彼のオリジナリティーというのは、日本の風土の中ではそれほどくっきりとしないとしても、日本の外を視界に入れた場合に、他の国の人間には特異なものとして、奇妙にもおもしろく映るのではないかと思ったのだ。父と息子との距離、妻と夫との距離、また母親と息子との力関係、そういうものは日本の中では良く見かける関係であっても、欧米の親子や夫婦の関係からするとかなり奇異に映るはずだ。そして、牧野氏はその奇異が奇異として見えていたという気がする。つまり、牧野氏は自分の外から自分を眺めるのと同様に、日本という国の外から日本のひとつの家庭の状況を描いて見せていると思えてきた。どっぷり日本の中だけに浸かっているのではないからこそ書ける、この国のユニークさがそこには浮かび上がってくる。

日本の芸術の持つオリジナリティーがむしろ、日本の外に置かれることで際立つということでは、この作品は浮世絵に通じるものがあるのではないかなどと突拍子もない考えが浮かんできた。例えば、ゴッホやルオーを見る視点で浮世絵を見るとすると、何て単純な線と色だろうとか、描かれている世界が俗っぽく、また表現があからさまで下品、芸術作品としての価値などないように見えてしまう。実際、当時の日本では浮世絵は外国に輸出する陶器などを包んだ包み紙ほどの価値しかなく、浮世絵の芸術的要素を見出したのは、その包み紙に驚いた欧米の人間だった。浮世絵の持つオリジナリティーと高い芸術性に気がついた海外の審美者によって、浮世絵は辛うじて保護され、ニューヨークやボストンの美術館は日本の美術館よりはるかに良い浮世絵を多く所有しているという始末だ。そしてわたしなどは、この浮世絵がゴッホなどにも大きな影響を与えたと知ってようやくその価値に気づいて、その絵の見方が分かってきた。牧野氏のこの作品をわたしはゴッホやルオーの油彩画を見るような具合で読んでいた。そうではなく、浮世絵は浮世絵の見方で見なければその価値は見えてこないと思ったのだ。牧野氏のこの作品を浮世絵に結びつけるのは唐突だが、ふとそんなことが閃いたのだった。

この浮世絵のイメージはゼミの翌日、この作品のことにさらに想いを巡らしていた時に浮かんできたのだが、そこからさらに導き出されたイメージというのがカリカチュアだった。そう、「父を売る子」はカリカチュアだ!と閃いた。これは、充分に風刺の効いた、洞察に富む人間描写だと言える。そうするとなんだか、大きなものを発見したように嬉しい気持ちになった。そうしてカリカチュアを見る目ではじめから改めて読んでみると、何ともこの作品の世界はおもしろいと感じた。どこか非日常的で、また可笑しくも生き生きとしている。もはや読んでいて退屈ではなく、思わず声に出して笑ってしまったほどだった。そして力のある風刺画のように、また浮世絵のように、その描写に無駄がなく、実にすっきりと整っていて、気持ちが良いのだ。その風刺に甘さはなくとも毒のあるトゲなどは隠しもってはおらず、ユーモアと人間愛に支えられている。そのことが気持ちの良さに繋がるのだろう。あれほど、おもしろくない、嫌だ、と思っていた作品を別の視点で読んでみると、まるで印象が違ってくるのだからおもしろい。とにかく牧野氏のこの作品をうっちゃらなくて良かった。この作品のおもしろさに気づいただけでなく、読む力が少しだけ広がったような気になっている。




牧野信一の「父を売る子}はここ↓から読めます。

http://mori.s9.xrea.com/text/titiwour.html








2005年03月13日(日) 映画「地球交響曲第五番」を観る

埼玉いのちの電話主催の地球交響曲第5番を観る。
以前に「地球交響曲第四番」を観て、その感想をここに書いているが、今回の映画もおおいに共感した。

わたしが日頃考えていること、こだわっていること、大切に思っていることが、映像や言葉を通して語られるのだから、わたしはもう、身を乗り出して、うなずきまくって観るというよりは自分も表現しているような気分になる。

誕生と死のドラマ、陣痛から出産までの時間を追いながら、すでに亡くなった地球交響曲第の登場人物達を思い起す。
 
西表島に工房を持つ草木染織作家、石垣昭子さん。
植物の魂である色を芭蕉の命である繊維で織った布に映す染色というすばらしい仕事。

―「生きている生命(芭蕉、蚕)から糸を紡ぎ出し、生きている生命(福木、藍、紅露)に秘められた色を誘い出し、太陽の巡りに寄り添い、月の満ち欠けに波長を合わせ、一日、一刻、一瞬たりとも同じではない母なる星地球の歌声を聴きながら仕事を続けています。」―   (解説より)


音楽家であり科学者であるアーヴィン・ラズロー氏( Ervin Laszlo)は、すべての存在が繋がっているということを科学的に証明しようとしている。

―彼の提案する「量子真空エネルギー場」理論は、生命の誕生と進化の謎を解き明かすとともに、「全ての存在は繋がっている」という事実を、科学の側から説明できる考え方として政治、経済、科学、芸術、教育などあらゆる分野で「持続可能な未来」をめざす人々を勇気づけています。―
                     (解説より)


これまでの地球交響曲第一番から四番までに登場してきた人々との再会は、時を置いて会った友人のように懐かしく、慕わしかった。ということは、それらの映画を観た後も、そこで出会った人達との心の中で交流が「ずっと続いていたという事だ。

一人でも多くの人にこの映画を観てほしいと思う。
いのちの電話の働きはすばらしいと思っているが、今回は「地球交響曲第五番」を自主上映して下さったことに深く感謝。






2005年03月12日(土) 大岳山へ

山行きに参加すべく、靴もザックも雨具も、そしてアイゼンまで買ったのに、前回は天候が悪く行けなくなったのでしたが、今日、晴れて山行きを果たすことができました。ようやく駆け出したわけです。
勉ゼミのみなさんの山行きに初参加させていただきました。

山は奥多摩の大岳山と御岳山。
今日はとても暖かく、まずジャケットは脱いで歩き始めるものの、じきに熱くなり、フリースのセーターも脱ぎ、薄いコットンのタートルネックのシャツだけで登りました。

登り始めたのが午前10時頃。途中何度か休憩を取りながら午後1時くらいには大岳山の頂上へ。そこから御岳山までの道はけっこう雪があるので、アイゼンを付けて歩きました。

東京にこんなに手付かずの自然が残っていることにまず驚きました。まっすぐにのびた杉の林にしても、谷間の川の流れにしても、とても美しいのでした。
大岳山からは正面に雪を戴いた富士山が見え、薄青い山山の重なりも清清しく、何とも気持ちの良いものでした。

帰りは御岳山のそばの宿へ立ち寄って1時間ほどお風呂に入り、ケーブルカーで下山し、バスでJRの駅へ。

今日の事はどの場面も、しっかり記憶に留められたように思います。
まだまだ書きたいことはあるのですが、深夜の1時半、眠くってしかたありません。おやすみなさい〜。

また明日。


2005年03月10日(木) たりたの日記、8万回アクセス達成

なんて、大仰なタイトルを掲げましたが、ちょうどこの日記を始めてから4年が経過し、アクセスが切り良く8万回というのは感慨深いです。
毎日とはいえませんが、7割8割くらいは書いてきたのではないかしら。

わたしが気がついた時にはカウントが80010になっていました。ちょうど8万回目にいらした方はどうぞ、メールか、掲示板でお知らせください。

日記をいつも読んでくださっているみなさま、ありがとうございます。
見えない応援に支えられていたからこそ、書き続けることができました。
5年目、ゆっくりと、そしてしっかりとした足取りで行きたいと思います。
これからもどうぞ、よろしくお願いします。


2005年03月08日(火) 珍しく電話をかける

かつて、高校生とかそのあたりの頃、やたらと電話をかけまくっていました。今のように携帯電話や持ち運び可能な子機などというものがなかった時代ですから、うるさい父親が聞き耳を立てているのを承知でしゃべくるわけです。たたいてい横からいい加減にやめろと文句が出ます。それにもかかわらず、電話で話さずにはおれない気分というものが確かにあったのです。

ところが今のわたしは電話はテレビ以上に好きではないものになってしまっています。実家に義務としてかける電話や連絡事項以外の電話はほとんどしなくなりました。それかといって、手紙を書くほどまめではないので、限りなく無沙汰が続くわけです。

そんなわたしですが、今日は珍しく電話びよりでした。まず、4月から1年ドイツに住むという幼馴染のTちゃんに電話してみました。電車で2時間とかからないとところに住んでいるというのに、もう7年も会ってないし、電話でも話していませんでした。年に一度の年賀状で小さかった子ども達が毎年大きくなっていく様子を知るくらいでした。電話の向こうの声はなつかしいというよりは、すっかり耳に馴染んだ親しいものでした。昔のように言葉は次々と出て来るのです。わたしはこんなにおしゃべりだったかしら・・・昔のわたしに戻っていたのでしょう。

はずみがついたので、今度はアメリカで知り合いその後もいっしょに仕事をしたEさんにかけてみました。大学受験を控えたお嬢さんがいるので、どんな具合か電話してみようと思っていたのです。がんばり屋のAちゃんは早慶パス。国立の発表待ちというところでした。試験の前日に、わたしの書いた本をずっと読んでいたと聞き、なんとも有り難い気持ちになりました。我が家の青年HとMはまともに読んではくれていないのにと。

苦手ははずの電話でのおしゃべりが、思いがけずとても楽しく、満ち足りた気持ちになりました。おしゃべりや情報だけでなく、大切なものが行き交ったことを知ったからです。あぁ、会えないんのだったらせめて電話でもかけて繋がりを大切にしなくてはと思ったことです。

この日記を読んでいる方々にも、ここのところメールも電話もしていませんから、ほんとにご無沙汰でごめんなさい。
いつも読んでくださってありがとう。


2005年03月07日(月) モーセの十戒

深夜12時45分。
明日の仕事のこと、6時起床のことを考えると、どうしても1時にはベッドに入りたいところです。けれども、今日は昨日の続きで、ミュージカルのテーマである「十戒」について書いておきたいと思ったのです。

わずかに10といっても、ひとつひとつ考察していけば、それだけで何日もかかるような事を10分かそこらでまとめようなんて、土台無理です。
ここではその戒めの言葉のみ書くことにします。


十戒は旧約聖書の出エジプト記の20章と申命記5章に記されています。
出エジプト記のそれぞれの戒めの最初の部分のみ取り出すとこのようになります。


1、あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

2、あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。・・・それらを拝ん  ではならない。それらに仕えてはならない。・・・

3、あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。・・・

4、安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。・・・

5、あなたの父と母を敬え。・・・

6、殺してはならない。

7、姦淫してはならない。

8、盗んではならない。

9、あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

10、あなたの隣人の家を欲しがってはならない。・・・


ミュージカルの最後で、この十戒がひとつづつ歌われるのですが、フランス語の歌詞を日本語に訳したものは、聖書のままの十戒よりも、理解しやすい言葉で表現されていました。
それにしてもモーセの十戒がポピュラーソングとして歌われ、それが会場に詰めかけている何千人もの人に聴かれているという情景は、それ自体がひとつのドラマのようでもありました。



*検索であれこれ調べていたら、十戒についてとても分かりやすく解説しているページがあったので、御覧ください。浜松キリスト集会のサイトにあったモーセの十戒のページです。


2005年03月06日(日) ミュージカル 「スペクタクル 十戒」を観る

フランスのミュージカル「Mother's Auction presents スペクタクル十戒を観る。

礼拝の後、教会の仲間4人と国立代々木競技場第一体育館へ。
NJに住んでいた頃、ブロードウェイには良くミュージカルを観に出かけた。週末には家族で、水曜日には友達と半額で観れるマチネへ。チケットも映画なみだったから気軽に観ることができたのだ。

それなのに日本でミュージカルを観るのは今回が初めてだった。なにしろ会場はばかでかい体育館。ブロードウェイの小さなシアターとはずいぶん赴きが異なる。去年観たアイルランドの「リバーダンス」を思い出す。

確かにスペクタクル。舞台装置は大掛かりなものだった。歌もダンスの振りも
洗練され、すばらしいものだった。フランス語のミュージカルというの初めてだったが、日本語の字幕が出ていたので不自由することはない。

旧約聖書の世界がそのまま舞台の上に、歌と踊りとなって再現されていて、興味深かった。また改めて神が人間に渡した最初の10の戒めについて思いを巡らした。

「十戒」は旧約聖書の「出エジプト記」に記されているモーゼの物語。欧米では、ユダヤ教、及びキリスト教の教典である旧約聖書を知らない人がいないから、このミュージカルへの関心は当然高いだろう。ヨーロッパでは240万人の観客を集めたというのも頷ける。しかし日本の文化、風土の中でこのモーゼの物語はどのように受け止められるのだろうか。

10の戒めの中のひとつ、神以外の何者も神としてはならないという偶像崇拝の禁止ひとつ挙げても八百万の神を持つこの国の常識から考えれば納得のいかないことだろう。


さてこの続きは気分が向けば明日書きます。


2005年03月05日(土) 満ちた一日

さて、今日はなんとも盛りだくさんな充実した土曜日だった。
まず、朝の6時起床に始まり7時に家を出るところから始まる。
今日の午前中は恒例の夫婦で人間ドッグに入る日。

一年に一度だけ会う検査技師の方やドクター達と顔を合わせる。はじめはどうしてもバリウムが飲めなくて「もう検査、あきらめますか」とあきれられた胃の検査も、今日などは上出来。
この病院の人間ドッグはレストランでの昼食付きだ。去年と同じ位置の白い布のクロスのかかったテーブルで夫と向かいあって食事をしていると、1年前が今と摩り替ったような妙な感覚が起こる。


さて、これだけでもりっぱなイベントなのだが、今日は午後、錦糸町のすみだトリフォニーホールで女性アカペラ合唱団のコンサートを聴きに繰り出す予定。朝早くスタートできたおかげで、検査が早々と終わりコンサート会場に開場の1時半より20分も前に着いた。待ち合わせをしていたYさんも現れ、いざホールへ。
ステージに黒いドレスを着た歌い手たちが舞台の左右からひとり、またひとりと中央に出て来る様子に、いつか見たボイロンの修道院でのグレゴリアンチャントが歌われ始める時の情景を思い出した。

1、アヴェ・マリア、デュルフレ
2、「フォンテーヌの6つの寓話」
3、合唱讃歌「リグヴェーダ」、
4、ウィルコックス「10のフォークソング」

と、プログラムの曲はどれも興味深かったが、その女性アカペラ合唱団のハーミニーは素晴らしく、わたしは思わず手を握り、身を乗り出して聴いていた。
指揮者Kさんは義父の従妹にあたる人で、葬儀の時に初めて話しをし、今日のコンサートの案内を送っていただいたのだった。
Kさんのことを良く知っている義父が側にいていっしょにこのコンサートを聴いているような気がしてならなかった。

ところで「10のフォークソング」の最後の歌はなんと黒人霊歌の Nobody Knows The Trouble I See。
英語学校で先月から始めた「英語で歌おう」のクラスで、わたしが一番先に持ってきた歌だった。今日のコンサートにお誘いしたYさんはわたしのクラスを受講してくれているので、プログラムにこの歌を見つけた時にはお互い顔を見合わせて感嘆の声を上げたことだった。
繋がっている!と。
そこにある神の配慮と意図とをまた思わされた。
出会いは偶然ということはないのだ。今日この音楽と出会ったことが、また新しい始まりになるのかもしれない。


さて、この2つでもう充分過ぎるほどだが、この後駅の近くのカフェで、Yさんとハイネッケンとホットサンドイッチをお腹に満たしながら、コンサートのの素晴らしさを話し、さらに話す。話も音楽のように深くスピリットに満ちていたので、そこにも深い充実感があった。

そして、今日の4つ目は夕方7時からの英語学校のコーヒーハウス。
英語学校のスタッフと生徒が15名ほど集まり、英語の会話を楽しみながら、ゲームをしたり、短い聖書の話を聞いたりするという月一度のパーティー。
今日はアメリカからやってきている宣教師かつ英語教師のKが担当する最後のコーヒーハウス。テーマはchange(変る)。
あなたを変えるものにどんな物があるかという問いかけ。

人、場所、天気、音楽、結婚、引越し・・・・

すべてが出会いだと思った。出会いは人を変える。その出会いの向こうにいるのは神だと。
Kは今月末にはアメリカへ帰る。しかし別れはきっとまた新しい出会いに繋がっていく。







2005年03月03日(木) とりあえず、何か書こう

あれあれ、少しも意識しないまま、日記が2日空いてしまいました。
今日は何か書かなくてはと思ってここを開いたのはいいのですが、何も書くことを用意していなかったことに気がつきました。

今、今日届いたメールの返事を書き終えたところです。
りとろぐのメルマガが二つメールで届いたので、その返信も書きました。
メルマガで作品が送られてくるのはいいものです。
それなのに、わたし自身は自分のりとろぐの更新のことをすっかり忘れていました。
せっかく登録してくださった人に申し訳ないです。ごめんなさい。


このところ書くことと読むことが共におろそかになっています。歌の練習やダンスの練習はよくやっているのですが、どうやら気持ちがそちらへと向かっているのですね。それはそれとして書くこと、読むことに時間をきちんと使わなければと思います。



今思い出しましたが、今日は魚屋さんで、まだ動いているタコの足を買ってきて刺身と茹蛸にして食べたのでした。mGのブログにその写真などもあります。ただ皮の部分の大きな吸盤はあまりにグロテスクで写真は撮ったものの載せなかったようです。
しかし、生きのいい、美味しいタコではありました。


今夜は雪になるそうですね。まだ降ってはいませんけれど、雪を待たないで寝るとしましょう。



追加(3月4日朝)

朝起きてみるとmGのブログに、昨日おはなしした例のたこのグロテスクな吸盤がアップされてました。なんとも逞しい「たこ娘」たちです。カタチを越えてというブログです。興味のある方はどうぞ。 


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