たりたの日記
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2004年04月29日(木) |
「内なるオルフェウスの歌」を開いて |
今朝は珍しく、朝の五時半という時間に起きて、PCの創作のノートに向かった。
といっても、ストーリーの筋を考えたり、物語の出だしを考えたりしたわけではない。どのように書こうとしているのか、また書きたいのか、そこのところについて考えを巡らせている。
手元にある本は、古楽音楽家、アントニー・ルーリーの「内なるオルフェウスの歌」(有村裕輔訳・音楽之友社) この本の帯には 「この世はすべて舞台だ!人はみな自らの内にオルフェウスを宿している。 その歌声に耳を傾けるとき、人生はひとつのパフォーマンスになる。 ―古楽界の奇才が繰り広げるパフォーマンスの錬金術」とある。
ずいぶん前に買った本だったが、「育つ日々」の最後の章を書いている時に、この本からもらったインスピレーションのことを思い出して、書架から取り出したのだった。読み返してみると、その言葉が長い時間の内にわたし自身のものになっているのに気がついた。 というよりも、この本を読んだ時、わたしの内にあって今だに表現されていないものを、そこに見出したのだった。
この本の序文の中にこういう文がある。
――ここでは私が定義している「パフォーマンス」という言葉を定義しようと思う。ここで示すのは、ひとつの哲学的見解であり、パフォーマンス以外の何物でもないということだ。私たち各人が、ひとつの役や複数の役をある程度、自らの意志でもって、意識的に、自らの能力によって演じているのである。すべての行動、すべての種類の追求行為は「「パフォーマンス」と見ることができる。ややもするとこういう見解は、それからすべての自然さを取り去るように見えるかもしれないが、結局はこのことだけが、さらに大いなる自由へと導いてくれるかもしれない発見なのだ。私たちが自らの役割を、気配りと愛を持って、気楽に、意識過剰にならずに演じれば、己の芝居の中で自らが開花し、私たちの周囲も同じように開花するかもしれないのだ。―― <中略> 正式な「パフォーマンス」というものは、平凡な日常から私たちを引きずり出すための促進剤とか、有益な刺激剤としての役割を果たしており、同時に人間に体験がいかに並外れて豊かなものであるかを気づかせてくれる。すべての行為には驚異の感覚がつきまとうということを私は確信している。………
(以上、抜粋)
「日常の中にあるファンタジー」
これは、わたしの中にいつも留まっている言葉だ。 テーブルの上にある一個のグレープフルーツが、 花瓶の中にかすかに揺れているビオラの薄い紫の花びらが 非日常の入り口と成り得る。 同様にどのような日々の行為もそこに、物語を含んでいる。
何を見るかではなく、どう見るのか。 何を書くのかではなく、どう書くのか。 書かれたものの中で、日常が異なる光を帯びる。 読む者自身の日常が、その時、ふっと異なる次元へと移行する。
書くこともまた、舞台の上の「パフォーマンス」のように捉えたい。 優れた「パフォーマンス」が、意識の高揚感、静止したかに思える時間、永遠へと繋がる感覚をもたらすことができるように、書くものもまた、そこに、インスピレーションをもたらし、別の次元へと誘うものとして意識したいと思った。
2004年04月27日(火) |
ブラウニングの詩 「春の朝(あした)」 |
今朝は風が強い。 まだ眠りの中にある時から、庭に木に吊るしたウインドチャイムの音が、 耳に入って来ていた。 この密やかな風が作り出す音が好きだ。 意識がはっきりするに連れて、その音がはっきり聞こえてくる…
ベッドから降りて階下へ行きPCを開く。 「創作のノート」というタイトルのファイルを作った。 ストーリーでもエッセイでもなく、 今の気分をとどめるメモのようなものを書き留めておこうと。 一日に一時間の創作の為の時間用に。
ロバート・ブラウニングの 「春の朝(あした)」の詩が 浮かんできた。
春の朝 ロバート・ブラウニング・上田 敏訳
時は春、 日は朝(あした)、 朝(あした)は七時、 片岡に露みちて、 揚雲雀なのりいで、 蝸牛枝に這ひ、 神、そらに知ろしめす。 すべて世は事も無し。
確か「赤毛のアン」のどこかにこの詩が引用されていたはず。 本を取り出してみると、本の最後の部分だ。 アンにこの詩を小さな声で呟かせてこの本を終わりにしているモンゴメリ、 改めて、さすがだなと思う。
“God’s in his heaven, all’s right with the world,” wispered Anne,softly.
気になったので、原詩も調べてみた。
The Year's at the Spring Robert Browning
The year's at the spring, And day's at the morn; Morning's at seven; The hill-side's dew-pearled; The lark's on the wing; The snail's on the thorn; God's in his Heaven— All's right with the world!
上田 敏訳 の訳でこの詩を知ったけれど、 そしてみごとに美しい日本語の詩として生まれ変わってはいるけれど、 オリジナルを読んでみると、やはり、詩の気分は違う。
ブラウニングの言葉はとてもシンプルだ。 何の変哲もない、春の朝の七時。 彼はきっと家から出て、そこいらを少し歩いたのだろう。 丘の緑色の草の上に露が光っていて、 空の高いところで、雲雀が羽をはためかせている。 そして足元には蝸牛がつのを出している。 その時、彼はふつふつと沸き起こってくる、 強い幸福感に満たされたのだ。 わたし的には「お腹の中から笑えてくる瞬間」 中学生の時に、このタイトルの詩を書いた。まさにこの、ブラウニングの 気分だったのだ。 もちろん、この気分は言葉としてはブラウニングの詩の中に書かれていない。 その気分が最後の2行から伝わってくる。 アンが本の最後で呟いた、その2行。
この2行の気分を伝えるストーリーを書くことができるだろうか。
初校が終わり、原稿を送ってほっとしているところです。 で、今日は午後から久し振りにジムへ行き、エアロビクスとボディーパンプ(音楽に乗ってやる筋トレ)をやり、晴れ晴れとしています。
だいたい、わたしは本というものがどういうプロセスで出来上がるのか、さっぱり分かっていないので、いったい幾つの山があり、どの山が険しく、またどの山にどういう注意が必要なのか、見当が付いていなかったのですね。結局、今度の山が結構険しく、いろいろと見えてきました。後、最後の(おそらく)校正という小山が残っています。
書くということは、きりきりと自分を見つめていくことなんだなあと思いました。もともと出発が、気分転換とか、リフレッシュする目的で書いた日記だったので、校正する度に甘さとか欠けとかが見えてくるんです。それを書いた時と今の自分が違うというのも、なかなか苦しいものがありました。前にも書きましたが、人間て日々違うし、体のリズムや、その日のお天気で、気分も言葉も変化します。それを本という形に固定しようとするのですから、ジレンマが起こるのです。 ネットで書くということと、本を書くということの間にはわたしが想像していたより遥かに大きい違いがあることが分かりました。
ネットの言葉も確かに文字として残ります。けれども、これを書き終えて、それをクリックしてしまえば、それはその時の言葉ですむわけです。この文章は明日のものでも、1年後のものでもない、今だけの文章。少なくともわたしはそういうつもりで書いています。 いわばライブ録音のようなものですね。その時に録音されたというのが意味を持つ。たとえそこに雑音が入ろうとも、間違った音が入っていようともそれがライブなのですから。 ところがスタジオ録音ともなれば、何度も何度も録音をし直して完璧なものができるまで粘るわけでしょう。本っていうのはスタジオ録音だったのですね。(何ていって、わたしはそういう録音の経験はないのですが…)
それで今度本を書くとしたら、始めから本として読まれるものを想定して、一つの流れの中で、同じトーンで始めから終わりまで通して書いていきたいと思ったのです。それはそれで大変なのでしょうが… ちょうどそんな事を思っていた時、タイムリーに書く仕事のお話があり、ああ、今度はこれだなと、思いました。また産みの苦しみが始ることでしょう。同じ産みの苦しみでも、出産同様、プロセスが分かっているというのは心強いものです。
ところで今日は心太日記の担当日です。一昨日の金曜日、春の庭で書いたものです。「4月の庭で思ったこと」、心太(ところてん)日記でお読みください。
2004年04月23日(金) |
本の表紙のデザインが届く |
日記の日付が月曜日のままです。 この間、ずっと初校に没頭していました。 3日間の内に初校を出します。そうすると、もう文章の書き換えなどはできないので、ここ数日間が最後の勝負といった感じです。
一旦はこれでよしとして出し、編集部からオッケーをもらっているのに、 どうしても書き直したいものが出てきました。 最後の章は、タイトルから中身まですっかり書き直しました。 後は章ごとすっかり削除したものもありますし、書いたものの三分の一をごっそり削除したものもあります。
この時点にならないと見えてこないものがあるんだなあと思います。 と、いうか、自分自身がこの作業の間にも、刻々と変化しているのです。 ここまでぎりぎりと産みの苦しみを苦しむと育つんだなあと改めて思います。何か大きな変化が始っています。
今朝は表紙デザインをお願いしている池原ゆうこさんから、デザイン画が送られてきました。 一目見るなり、もうすでにこの表紙が、これしかないという確かさで、決まっていたもののように感じました。 わたしは彼女に、こんな感じでなどというリクエストは何もしなかったのです。ただ本にする原稿を送りました。そして彼女がその原稿を読んでそこから出てくる絵がいちばんふさわしいものだろうと、彼女のインスピレーションに期待しました。 と、言うのも、池原さんが描く、「墨と朱のスローアート」に、とても響きあうものを感じていたからです。
その表紙は、清清しく、あたたかく、そして力強いです。 手に取って、中身を読んでみたくなるそんな本になることでしょう。 さて、その問題の中身… 今日は、この絵を眺めながら、校正の作業に励むことにします。
早朝、6時前。 窓の外には満開のハナミズキ 暑くもなく寒くもない。 こういう季節の朝は貴重だ。 目覚まし時計の指令に従って あと1時間早く起きてくればよかった…
顔だけ洗って着替えもせず、 窓辺に座りパソコンのスイッチを入れた。 すぐに過ぎてゆくこの朝を留めるには キーボードを叩くのがいちばん。
秋に初めて植えたランナキュロスが ビオラのこんもりした鉢の中から茎を伸ばし花を咲かせた。 赤、黄、ピンク、オレンジ、白 この花の色はくっきりと鮮やかで チューリップの赤や黄とも違う。
ルピナスも初めての花、 しっかり葉を茂らせ、日に日に育っている。 ビオラやパンジーが終わる頃に咲くのだろう。 あの紫色の華麗な花房が待ち遠しい。
3種類のバラ、それぞれ葉が茂り、花の蕾がふくらんでいる。 アイスバーグの白、アンネのバラのオレンジ、つるバラの真紅 5月に咲き揃うことだろう。
クリスマスローズを地植えにしたら株が広がり 花もたくさん咲いた。 クリスマスの頃にはまだ咲かないけれど 2月頃からずっと咲き続けている。
チェリーセージの赤が 枝の先の方にぽつぽつ付き始めた これから先、冬の入り口までこの花は咲き続ける。
おや、ソファーの上に見慣れたバック、 あっ、Mが帰ってきている。 深夜、あるいは早朝、つくばから戻ってきたんだ。 もしかすると 熊の肉のさそわれて、はるばる帰ってきたのかもしれない。 夕べ圧力鍋で柔らかくした熊で 今日はとびっきりおいしいシチューを作るはずだから よかった、土曜日に焼いたブラウニーもまだ残っている。
さてさて、朝ごはんを作ろう。
熊の肉を食った 噛み締めながら食った
熊が過ごしただろう深い森や 熊が渡っただろうさらさらと石の上を流れる小川や 熊が夢みただろう暖かく湿った穴倉 そんなものもいっしょに食った
熊の命のかけらはみっしりと弾力があり 噛んでも噛んでも飲み込めない
「俺の命を食うんだぞ、そんなにやすやすと飲み込むんじゃない。 噛め、しっかり噛め、俺の命を味わえ」
しっかり動かしている歯と歯の間から 熊の声が聞こえてくる
昨日食った熊の命は 今朝はわたしの身体の中で血液となって 流れているんだろう その肉は分解され、また組み合わされ わたしの腕の筋肉に組み込まれるのだろう
森の熊といしょだ、今日は 身体にも心にも強い力が満ちているはずだ
朝が新しい気がする
***********
昨日のこと、mGにネット仲間のKから熊の肉が送られてきた。 遠い山奥の場所からKが熊の肉を送ってくれたことに われわれは痛く感動したんだった。 Kは「せっかくの熊の命の欠片ですから 一番熊が浮かばれるところで消費してもらおうと思った…」 とメールをくれた。 熊の命の欠片の行き先を我々のところに選んでくれた、そのことがまたうれしかった。 ありがとう、K.
<熊の肉をどうやて食べたかということについて>
1、熊の肉の細切れとニラともやしの炒めもの
熊の肉はとにかくチューイーで、包丁で切り分けるのが難儀だったので、頑丈なキッチンバサミで切り分けました。そう、肉の密度が高いんですね。硬いんではないんです。柔らかい肉だけれど、筋が強いんです。
「クセが強いので焼く場合はたれなどに漬け込んで」と、ネットで調べたら書いてあったので、肉は焼肉のたれにからめておきました。
中華鍋で、たれに漬けた熊の肉を炒め、それにニラともやしを加え、最後に焼肉のたれを全体にからめました。
まずはこういうシンプルな料理で、熊の肉そのものに出合ったというわけです。少しも臭みはなく、噛めば噛むほど、肉の味わいがするのでした。ニラともやしの相性もいいと思いました。
2、Kから教えてもらった通り、熊の肉とごぼうのささがきと豆腐(これも送ってもらったんですが、その土地の名物のがっしり、しっかりした豆腐でした)を手でくずしたものと、なめこの味噌汁を作りました。 熊の肉の出しは脂っこくもなく、臭みもなく、なんと上品なんだろうと思いました。味噌汁の中で、あまり自己主張をせずに、全体の味を支えてるって感じです。
3、これは今夜作るんですが、熊の肉を圧力鍋で極限まで柔らかく煮てみるつもりです。それにトマト缶とじゃがいもと玉ねぎと人参を加え、ゆっくりと弱火で煮て、熊シチューにしてみます。じっくりと煮ることで熊の肉のエキスがしっかりと染み出すことと思われます。
昨夜、編集部から初校レイアウトが送られてきた。 今まで、横書きで書いたものが、縦書きの本の体裁になっている。 それをプリントアウトすると、紙に印刷された本という感じだ。
実際、読む時の気分が違っている。本として読む。すると、それまで気にならなかったところが見えてくる。だいたいは書きすぎているところ、不必要なところだ。 書き手としてではなく、読み手の側から読むからなのだろう。 本人は書きたくても、読む方は必ずしもそれを必要としない場合がある。 話しの筋から外れたり、蛇足は、読む気持ちをダウンさせることだろう。 じゃ、削除!と思い切って割愛すると、でも、このことは書いておきたかったことだったと、書き手側の自分が「待った」をかける。 さて、どっちを取るか。徹底的に読み手の側に立つのか、自分自身の記録として、書き残そうとするのか…
わたしが好きな作家というのは、どちらかと言えば、読み手の思惑など考えずに、その人が書かなくてはという思いに突き動かされて書いたもの。高橋たか子なんて、読み手のウケなんておおよそ頭の中にはないだろう。 ふむむ…ムズカシイ
そんなことをあれこれ考えながら、今日は日がな一日、校正を続けた。 夕方、ゴザンスライターズニュースが送られてきた。そこの最後のところに、わたしの「育つ日々」が紹介されていた。
これは担当者の編集者、Sさんが書いてくださったものだろうが、ずいぶん深いところで、わたしの書いたものに共感し、評価してくださっていることがしみじみと嬉しかった。 本と一口に言っても様々なものがあるが、その様々な本の中で、「育つ日々」はどういう位置づけにあるのか、改めて確認することができた。
わたしはわたしの世界をそこに展開するわけだが、わたし以外の人にとって、それがどういう意味を持つのかというところが、自分ではワカラナイ部分であり、不安を引き起こす震源地でもあるのだ。
そういう意味では、ようやく不安や恐れから開放されたような気がする。今日は一日、自分の書いたものに向かい合いながら、それが少しも苦痛ではなかった。 もう深夜の1時を過ぎてしまったが、体のことを考えなくて良いのなら、このままずっと作業を続けて行きたい気分だ。
昨日と今日にかけて、BBSとメールで25部の予約が入った。 その本を手にも取っていないのに、申し込みをして下さる方々に、感謝の気持ちでいっぱいになる。どうもありがとうございます!
本を創るということに付随して、わたしはずいぶんすばらしい出会いや経験をしている。そして何より、このことを通して、また育っていくわたしが在る。
2004年04月14日(水) |
たりたの本「育つ日々」 |
本が出ます!とお知らせしたのは1月の始めでした。 早々とお知らせしながら、その後、あれこれと校正し、リライトにリライトを重ね、ここ3ヶ月は頭の中が原稿のことで埋まっていました。 ほんとに本になるのかな、気力が続くかなとネガティブになることもあったのですが、今ようやくトンネルを越えたんだなあと実感しています。
一昨日、完全原稿を入稿したので、これからレイアウトに入るとのことです。今日ネット出版局ゴザンスサイトの「お知らせ」と100人の本で、これから出るたりたくみの本「育つ日々」が紹介されました。
表紙は心太日記でごいっしょしているデザイナーの池原ゆうこさんにお願いしました。彼女の絵を一目見た時から、心惹かれていたのです。 大地の豊かさ、命の力強さ…とても響き合うものがありました。 池原さんの絵にわたしの書いたものが包まれるということを思うとわくわくします。
本の申し込み受付も始めました。本をお求めくださる方はHPの掲示板か、メールでお申し込み下さい。
2004年04月12日(月) |
新年度のクラス、スタート! |
かなり頭はモウロウとしている。 たった今、本の原稿、完全版(のつもり)を入稿した。リライトを始めてから約3ヶ月。 これからレイアウトに入り、順調に行けば5月末には発売となるらしい。順調に行けばの話しだが… 何とか父の日には間に合うといいと思っている。
そんなこんなで今日は区切りの時だったが、 もうひとつ、大きな日でもあった。 これから1年続く、今年度のクラスが今日からスタートした。
今日はつくしんぼ保育室での英語教室が3クラス。 幼稚園年少クラス7名、小学校低学年クラス8名、小学校高学年クラス6名。低学年クラスは8人とも新しい生徒。 初めて教室にやってくる子どもっていうのは、緊張と興味と興奮がない交ぜになっていておもしろい。
幼稚園の年少クラスの子達は今まではお母さんといっしょのクラスで、なかなか集中する場面を作るのが難しかったが、わたしの予想通り、親から離れると、俄然集中度が増す。
歌を歌っても、読み聞かせをしても、ぐっとこちらへ入ってくる。 子ども達ひとりひとりとの間に糸を張った感じがある。 しかし、しかし、あまりにきりりとしすぎた為か、一人の男の子がおしっこをしてしまった。 他の子が驚いたものの、その子はびっくりしたり、泣いたりせずに 「だいじょうぶだよ」とみんなをなだめている。 「そうそう、平気よ、おしっこなんか。みんなするでしょ!」 と、言いながら側にあったティッシュを大量に用いて始末。 その後、彼の手を引いて下へ連れてゆく。 お母さんは下の保育室で待機していてくれたので、助かった。 びっくりしたのはお母さん。こんなこと初めてだという。 幼稚園は明日から。 そういう意味では今日が親から離れた初めての日。 緊張したんだろうな、精一杯おにいちゃんでいようとがんばったんだなあ。 そうか、そうか、年少児っていうのはこういうこともあるんだ。 来週からは雑巾を用意しておこう。 泣いて「帰る〜」なんて言う子がいなくてまずはよかった。
さて、明日、明後日とそれぞれ新年度のクラスが始る。 最初が肝心。カンバロウ。
ジョルジュ・ルオー、わたしの、おそらくは一番好きな画家。 複製だけれど、ルオーのキリストのフレームを壁に掛けている。窓辺には大きなルオーの画集。これもキリストの顔が表紙になっていて、この絵の辺りにはしんとした空気が漂っている。
昨日はバッハのパッションを聴いていたけれど、今日は校正の作業の合間に、画集を開き、ルオーのパッションを見た。 これはアンドレ・シュアレスの宗教詩集「受難」(原題は”PASSION”)にルオーが銅版画の挿画を載せているが、それを油絵に写したものだ。この54点の「受難」は日本にあるらしい。画集にはこのうち12点が載っているが、どれも「東京、個人蔵」と記されている。
ルオーは19世紀後半のフランスの画家だったが、どの流派にも属さず、また他の画家とも無縁な、孤独な画家だった。 彼は宗教画家と言われるが、多くの絵の中にキリストを描いている。彼が好んで描いた娼婦や道化師も宗教的なトーンを持っているのだ。ルオーの絵を見ていると、宗教的というものがどういうものなのかとてもよく分かる気がする。 日本語の、現代の日常の中で変質してしまったシュウキョウという、うすっぺらな語感の、それは対極にあると感じる。
黒の太い線と、独特なブルー、黒の中に光のようにちりばめられた色の美しさ。ステンドグラスのような印象があるのは、ルオーが十代の頃、絵ガラス師の徒弟奉公をしたことに関係しているのだろう。どれもずっしりと重く、画面は暗く静かだ。 絵がそのまま、ルオーの思想や信仰であるように、描かれている対象は違っていても、どの絵もただ一つのことを語っているような動かし難さがある。
わたしは写実的な宗教画よりも、ルオーやシャガールが描く、宗教的な内面を表わした絵が好きだ。そこには言葉では置き換えることのできない神との関係のようなものが見える。画家の魂がくっきりと見える。
画集の中に、ルオーの言葉がいくつもあり、興味深かった。画家との交流はなかったが、哲学者や作家にルオーの良き理解者がいたということもうなずける。
<ルオーの言葉より>
私を傲慢の塊のように思い込んでいる連中は、決して―決してとわたしは断言しますが―世界からは孤立している人間が物を産み出す時の不安な気持ちを理解することはできないでしょう。産み出しうる、そして産み出すべきす べてのものを産み出すに到った時、彼は何よりもまず自分自身が見えなくなり、おそらく到達することも覚束ないよりよきものを目指しながら自らを責めさいなむのです・・・・・
今日は、朝花の水やりをして、咲き揃ったチューリップの写真を撮った他は、一日家にいて原稿の校正をし、合間に来週からの英語クラスの準備をした。
しばらく何も聴きたくない日が続いていたが、今日はパッションが聴きたいと思った。バッハのマタイ受難曲。 もうかなり前に録音したカセットテープのものしかないからひどく音が悪いのだが、それでもずっと聴いていた。
「血しおしたたる主の御頭」の主題が流れてくると、何か、身体ごと、はるか遠くへ持っていかれるような気持ちになる。
2月の終わりから始った受難節の最後の週を迎えている。明後日の金曜日はキリストが十字架に架けられた日で、3日後の11日が復活祭、イースターだ。わたしの好きなレントの時期が後3日で終わってしまう。 十字架を思う時… わたしにとってキリストの十字架は何だろう。 毎年新しくそのことを思う。 理屈や教義ではなく、わたしの心が何をどう受け止めるか、 バッハのパッションだって、いつも聴こえ方は違うのだし、 わたしの魂の状態は日々違っているもの
メイル・ギブソンが手がけたキリストの受難を描いた映画「The Passion」が 話題を呼んでいる。日本での公開は5月らしい。この受難節の時に見ることができないのは残念だ。 しかし、わたしはあの映画を見ることができるだろうか。 どういうことを感じるのだろうか。 あの映画を見ながら、2人の人が心臓麻痺で死んでいるらしいが。
さて、パソコンから離れて、グレープフルーツを持ってお風呂へ入ってこよう。 しばらく、原稿のこともパッションのことも忘れてほっかりしよう。
2004年04月06日(火) |
1年前の今日を振り返って |
1年前の今日、わたしはミュージカルのステージの上にいた。 埼玉芸術劇場の小ホールは350席がほぼ満席だった。
マオさんの書いた詩にわたしがグレゴリアンチャントの旋律をアレンジして メロディーを付けた歌。無伴奏。わたしの声だけで350人の観客をひっぱるという怖ろしい試み。
午後の部と夜の部、結局わたしは700人の前で歌った。 アカペラのソロの他には、わたしが作詞作曲し、ジャズ風にアレンジしてもらったものと、もう一つ、作曲家による曲をそれぞれソロとデュエットで。
ステージに立つ前での数ヶ月間の不安といったらなかった。 声が出せるか、そこに魂をこめられるか、わたしの作った曲はステージの上でその役目を果たせるのか、歌は果たして観客の心に届くのか。 わたしの頭はいくつもの?が入り乱れていた。
なぜ、こんなことを書くのかといえば、ちょうど去年の今頃、かなりのプレッシャーを抱えていたように、今、本のことがあの時のステージのようにひとつの越えなければならない山のように、抜けなければならないトンネルのようにわたしの前に立ちはだかっているからだ。
不安に駆られている。
観客を失望させたらどうしよう… わたし自身が出せなかったらどうしよう… 笑い者になりたくない…
その不安の性質が去年のステージのものとそっくり同じことに気が付いておかしくなった。 わたしという人間は、好き好んで大それたことに足を踏み込んでいながら、その最後のところで、恐れおののくという性質があるらしい。 どうしてもそこを通らないわけにはゆかないらしい。
考えてみれば、今回の本は100人の企画。700人からすれば7分の一。 去年のステージはいわば一発勝負。その時のコンディションさえ、自分ではどうにもできない。しかし今回の本は、本入稿の週明けまでにはまだ時間があるし、その後も初校校正など、完成に近づけるためのプロセスがある。
ふうっ、こうやって書いていると気持ちが落ち着いてきた。 恐れの気持ちを払いのけよう。
今日の午前中、バイブルクラスでTが教えてくれた歌、わたしはその歌に泣いてしまって歌えなかったけれど、深く慰められ、力をもらった。
He who began a good work in you, will be faithful to complete it. He'll be faithful to completeit. He who started the work, will be faithful to complete it in you.
あなたの中で、良い働きを始めた方が 誠実に、それを成し遂げて下さる。 彼はそれを誠実に成し遂げて下さる。 その働きを始められた方が、 あなたの中で、誠実にそれを成し遂げてくださる。
2004年04月03日(土) |
桜吹雪の中で迎えた誕生日 |
今日はわたしの誕生日でした。 いくつになったのかは言わない。 気持ちの上では28歳です。
朝はいつまでもベッドの中にいて、 遅い朝、夕べmGからプレゼントにもらった ananda ProjectのMorningLightを聞きながら朝ごはんを食べて、 mGと近くの公園に、桜に会いに行きました。 桜ははらはらと散っていて、 絶え間なく散っていて、 風が強く吹くと地面に落ちた花びらもいっしょに舞い上がって ほんとに吹雪のようでした。 五分咲きの桜が一番好きだと思っていたけれど、 今日はこのはらはらと散りゆく桜がなんともいいと思ったのです。 この儚さ、人生のようですね。
mGは何枚(70枚くらいですって)もわたしの写真を撮って、 デジカメはいいとしても、 一眼レフで撮った写真は現像する時恥ずかしくないのかなぁって 人事ながら心配になりましたけど…
イタリアンで食事をし わたしはつくしんぼ保育室のチャリティー絵画展で ボランティアのお仕事でした。 レセプションの司会の役になっていました。 フランス人の画家の通訳の方からアナウンサーだったのですかなんて言われたけれど、司会の順番間違えたりと冷や汗ものでした。 それでも大好きなシャガールやルオーのリトグラフをずっと眺めていられたし絵画展で久し振りにお会いした方とゆっくりお話もできて なかなか楽しい絵画展でした。 絵画展は後2日続きます。
いろいろな始まりがあるけれど 今日はわたしの始まりです。 いい年になるような気がしています。
わたしにとってやっぱり4月は始まりの時という感じがする。 後2日で誕生日ということもある。 仕事で新しい年度の始まりが4月だということもある。 花々が咲き出すということも関係してるかな。
まるで約束を守るように、朝、黄色と紫色のチューリップが咲いていた。 わたしはいつものヨーグルトとミューズリーの朝ごはんを チューリップが見える窓辺に持っていって、眺めながら食べた。
朝、8時50分に家を出て自転車でジムに向かう。 行きがけ、満開の桜があそこ、ここにあって見ながら走る。 カロリーバーナーエアロとラテンをやって、サウナに入る。
ネットカフェで初めて3時間パスポートを買って、ゆっくり過ごす。 ほんとはここで書くつもりだったけど、ちょっとブレイク 情報の収集も必要だからね。 週刊誌や月刊誌に一通り目を通す。 婦人公論の特集「それでも別れない理由」を念入りに読む。 様々な夫婦の姿。 いろんな愛のかたち。
帰り道、お寺の境内の桜があんまりきれいだったので 自転車を止めて、しばらく桜の下に座って考え事をする。 さっき読んだ記事のことや、今書いてるもののこと。 思いついて、携帯電話で大分の母に電話する。 友達と花見に行って今友達の家にいるという。 元気でなにより。
家に帰って、さて書くぞ! その前にメールやホームページやゴザンスの記事をチェック。 ただチェックするだけだったのに、 ひとつの詩に掴まってしまい、 わたしははらはら泣いて、しばらくそこにとどまっていた。 あ、その詩というのは いとうさんのジャングルの朝という詩だ。 なぜ泣いたのか、何に反応したのか、言葉に置き換えようとすれば、わたしの心にある言葉にはしたくないものに触れることになるから、書かないけれど…
自分が書いた詩じゃないというのに、今夜もいっしょに寝て、 明日もいっしょに朝を迎える同居人のパソコンへこの詩を送った。 なんだか、しみじみとしていた。
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