たりたの日記
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2004年02月29日(日) 居酒屋風の夕餉/ ことばあそび


昨日、鹿児島に住む叔父から、なんだか由緒正しそうな焼酎と日本酒がドーンと届いた。

そこで今夜は酒に合いそうなものを作るべく、冷蔵庫の中身をごそごそと物色し、切干大根と豚肉の煮物やら、里芋と骨付き鶏肉の煮物やら、白菜とニラのゴマ油炒めやら、しめ鯖やらを小皿に盛り、居酒屋風の晩御飯となった。居酒屋風と思っているのはわたしだけで、夫はこういうのは居酒屋にないよという。彼はおふくろの味系をあまり有難がらない。

確かに最近のこじゃれた洋風居酒屋や居酒屋チェーン店では和洋折衷の創作料理が主流だが、わたしとしては、日本酒なんかだと、田舎料理ともいうべき、おふくろの味が欲しいと思う。

とはいうものの、わたしが育った家というのは、父親が酒は一滴も飲めない人だったので、いわゆる酒と料理が並ぶ食卓というのは、まるで縁がなかった。どういう料理がどういう酒類に合うかなどという知識も感性もなかったものの、夫の付き合いで少しづつ酒類も飲むようになると、飲み物と料理の相性も自ずと分かってきた。多分に自己流ではあるが・・・。

さて、気持ち良く飲んで食べたのはいいが、もともとアルコールが強くないわたしはすぐにひっくり返ってしまう。いつの間にかソファーで熟睡してしまい、一眠りしたお陰でこんな夜中に書きモードに入って、ゴザンスの課題のことばあそびを2つも作ってしまった。このことばあそび、なかなか作れないでいたから、今日はずいぶん調子が良かったということだ。

ところで、盆でも正月でもないこの時期になぜ叔父が酒を送ってくれたのかお礼の電話をかけた時に不思議に思い聞いてみた。理由は叔父がわたしのHP日記で大分の焼酎「なしか」について書いた記事を読み、土地の酒や焼酎を送ってあげようと思いついたらしい。

Web日記を書いているとこんなラッキーなこともある。
叔父さん、ありがとう!



できたてほやほやのことばあそびもくっつけておこう。


   【ことばあそび】食うは易し、減すは難し

た  退屈に任せて食べる
べ  勉強がはかどらないから食べる
す  好きな子にふられたから食べる
ぎ  ぎょっ!1キロ増

の  のんきに食べる
み  見てくれ気にしつつも食べる
す  スカートが締めつけてきても食べる
ぎ  ぎょっ!2キロ増

い  いいことがあったから食べる
の  残したらもったいないから食べる
も  もらったのにわるいから食べる
た  たくさん食べたのにまだ食べる
れ  れれっ!5キロ増。こりゃマズイ



た  食べたつもりで朝抜いて
べ  弁当手づくり、ローカロリー
す  少しの妥協も許さずに
ぎ  ギラリ、眼光鋭くし

の  のぞみは体重5キロ減
み  水の中でも歩きます
す  ステップ踏んで汗かいて
ぎ  ぎりぎり息が続くまで

い  いつまでこれが続くやら
の  望みは捨てずひたすらに
も  もうすぐ目標マイナス5
た  体重計に神頼み
れ  れれっ!どうして!減ってない!食うは易し減すは難し


2004年02月26日(木) グレープフルーツを一個持ってお風呂へ

前回、わたしはジムでの風呂の過ごし方を「ヘルスケア入浴法」として書きましたが、今回は家でのお風呂のことを書くとしましょう。

家で入る風呂は大きく2つに分かれます。
ひとつは明かりをつけて入る時。この時持ち込むものは本や紙や鉛筆。風呂の中で読み、また書く「ライティングサポート入浴法」。ただし、本も紙もいくら気をつけてもフヤケテしまいますから、大切な本や創作ノートなんかは持ち込めませんけれどね。

ふたつめは明かりを消して入る「メンタルケア入浴法」。この時の必需品はろうそくと香り。その両方がひとつになっているアロマキャンドルなどというバスグッズも出回っていますが、あの香りは人工的なものが多いので、わたしはあまり使いません。香りは断じて、ピュアなもの。天然の植物の精油(エッセンシャル・オイル)か、生のハーブや柑橘類を用います。
 今日は心に効く「メンタルケア入浴法」にフォーカスしましょう。

植物の精油(エッセンシャルオイル)はさまざまな植物から抽出された、いわばその植物の命ともいうべきものです。わたしはそれを「植物の魂」とよびます。

お風呂にその植物の精油を3滴から5滴たらすと、香りが浴室に充満するだけでなく、その植物のエッセンスが口や鼻から身体に入ってきますし、また皮膚を通して血管に入り、血液にも作用し、それが心や身体に効くというわけです。わたしはこのことを「植物との交流」とよびます。

さて、では何の植物と交流したいかということなのですが、それはその時の気分や体調で異なります。最初はラベンダーの精油ばかり使っていましたが、そのうち体や心の状態に応じてユーカリ、ペパーミント、ローズマリー、パチュリー、レモングラス、サイプレスなどを使い分けるようになりました。

リラックスしたい時にはラベンダー。
意識をはっきり目覚めさせたい時にはローズマリー。
風邪をひいて鼻がグスグスする時にはユーカリ。
蒸し暑い夏の日にはペパーミント。
ちょっと気落ちしてるかなと思う時にはレモン・グラス。
エロティックな気分に浸りたい時はオリエンタルな香りのパチュリー、
しんとした森の中で瞑想したい気分の時には糸杉から抽出したサイプレスの精油。

植物のそれぞれに違ったエネルギーが、その時時に身体や心が欲しているものを満たしてくれます。


昨夜はグレープフルーツを一個持って風呂へ入りました。
九州の親戚からみかんが箱いっぱい送られてきたので、お風呂の度にみかんを5.6個持ち込んで食べていたら、これがすっかりクセになってしまいました。剥いたみかんの皮をぽんぽんとお湯の中に放り込み、ぽっぽっと暖まってきたお風呂の中で、ひんやりしたみかんを食べるのはコタツでみかんよりもさらにおいしいんです。

もうみかんが無くなってしまったので、冷蔵庫にあったグレープフルーツで代用したところ、皮を剥いた時にあたりに広がる香りがなんともいい。立ち上る湯気に混じるグレープフルーツの香りで芳香浴するといった感じになります。

その皮をお風呂に入れると精油とはまた違った味わいがあり、身体がぽかぽかしてくるようです。そして大きな実をひと房取り出し、薄い袋をていねいに剥がします。普通これをやると汁がぽたぽたと手首に流れて落ちて気持ち悪いは、テーブルのぽたぽた落ちるわであまり都合良くないのですが、お風呂だと平気、果汁は湯船に落ちては良い香りを放ちます。濡れた手首もざぶんとお湯で洗えますしね。

せっかく剥いた実、お湯の中に落っことさないように丁寧に扱いながら口へ入れます。果汁をいっぱいに含んだ柔らかで張りのあるグレープフルーツの果肉の甘さとすっぱさが口に広がり幸せな気持ちに満たされます。そしてその実はひんやりと冷たいまま、口から食堂、胃と暖まった身体の中を心地よく通っていきます。

ちなみにグレープフルーツの効用はリフレッシング。欲求不満、ストレスの解消だそうです。また脂肪の消化促進作用によるダイエット効果もあると本には書いてありました。
いかがです、今晩のお風呂はグレープフルーツとごいっしょに。









2004年02月25日(水) 夢のまわりをぐるぐると回って

 日記が20日から停滞していました。
はっと気がつくと今日も書いていないという具合に日々が過ぎていきました。ここ数日間は「夢」のまわりをぐるぐる回っていたのでした。

 毎月25日は心太(ところてん)日記にわたしの文章が掲載されるのですが、今月はテーマが設定されていてそのテーマは「夢について」というものでした。
 そのテーマにそって様々な方が書かれていて、詩やイラストもあり、とても興味深く読みました。それでわたしも、わたしの「夢」と向かいあってみたのです。

 始めは、楽なテーマだと思いました。ところが、夢に対して、なかなかフツフツした気持ちが起こらないのです。でも期日も迫っていることだし、夢の周辺のあたりになんとなく漂いながら書きました。2月23日のたりた日記に載せた「夢みたこと」がそれです。
 でワタナb編集人からはしっかり見透かされていて、差し戻しが来ました。

 そこで第2稿を書きました。今度はおもいっきり真ん中のところから書く気で、はじめに書いたものは無視してかかりました。でも、きっと読む人には伝わらないだろうな、伝わらなくってもいいやと気分はかなり「ヤケクソ」気味でしたね。2月24日のたりた日記に載せた「夢と現」がそれです。
 妥協をしないワタナb編集人は、どうです、初めて出会う方にも伝わるように丁寧に書いてみませんかと、言ってきました。

 はじめの場合も、次の場合も、言われていることは良く分かりました。言葉の言い回しや書く技術的なことではなく、わたし自身の伝えたいことへの「熱」が、その文を書くときの心のありどころが問われているのです。 
 ところがそれが難しい。わたしは夢の芯のところへなかなか居心地良くすっぽりと入れないでいました。

 昨日の朝、家族が家を出て、わたしが仕事に行く前の時間、不思議と慌しさや気にかかることがすっと消えていて、心がふっと「その場所」へと入りました。
 「その場所」に入ると指先から打ち出される言葉はどれも違った色を帯びてきます。少しも立ち止まらずに、考えることすらせずに、わたしの身体から何かが流れ出すように言葉は流れ出していきました。
 その言葉を文字に変えて、そのまま送信しました。今度はパス。いただいた評価はとてもうれしいものでした。

どうぞ夢シリーズ、最終稿を心太(ところてん)日記でお読みください。








2004年02月24日(火) 夢と現

心太日記への投稿 その2 「夢と現」


 「あんたはいつまでたっても夢みたいなことばかり言っている」

久し振りに会う古くからの友人は決まってわたしにこう言う。

 いったいわたしは夢みたいなことばかり言ってきただろうか、夢ばかり追いかけてきただろうか、大いに疑問がある。
 わたしはこの世で一番現実的な母親というものをそれは地道にやってきた。
 そりゃあ、小さい頃には歌手になりたかったり、漫画家になりたかったり、作家になりたかったりと他の子どもと同じように分不相応な「夢」を目の前にぶら下げては、一目散に、そこへと向かって駆けた。
 しかしそれは所詮、目の前にぶらさがった人参。走っても走っても距離は縮まるはずはない。そのことに気が付いたわたしは野心というようなものはさっぱりと捨てた。

 にもかかわらず、人から「夢のようなことばかり追っかけている」と言われれば、どこかで否定できない気はする。 
 なぜなら、わたしは確かに現(うつつ)の向こうにあるものに目を注いでいるから。今ここに展開している日常とは異なる場所にひょいと入り込んではその場所で呼吸をする。
 いえ、ほんとうのことをいうならば、わたしの日常はむしろ現(うつつ)ではないところにある。現を生きているように精一杯カモフラージュすることは忘れてはいないにしても。

 しかしそれを「現」の反意語として「夢」と言ってよいものかどうかわたしには分からない。わたしにとって、内的にはよほど現実的でクリアな場所をわたしは「夢」と呼ぶことはできないから。

 そこにはわたしという存在を創り司る神が在る。人と人とを結びつける天使が在る。わたしがその日出会うすべてのことがそういった必然の秩序の中に存在する。わたしは現実の人間と対話するよりはよほど、そういう見えない存在と対話し、そこから何かを聞き出し、そこから来るインスピレーションによって歩みを定めている。人はこういう生き方を「夢のような」とディスクライブするのかもしれない。

 そうだ、夢というならば、わたしにだって夢はある。
 それは、現の向こうにあることがらを現のツールを用いて表現すること。誰もが共有して持つ言葉を使って、現の向こうにあるものを目に見えるかたちにするということ。わたしは日常にころがっている言葉を、誰の目にも見える風景を、ただ綴る。しかし綴るわたしの目は神を見ている。そうとすれば、わたしが綴るものの中に、神の眼差しが映し出されているのではないかと尊大にも考えている。
 そういった意味での表現者として、証人として生きていたい。











2004年02月23日(月) 夢みたものは

心太日記への投稿 その1  「夢みたものは」


 わたしはこの心太日記でわたしの中にある「子ども」を軸に書こうとしているので、今回の「夢」についても、そこのところから覗いてみたいと思います。さて、記憶を辿り辿って、わたしが抱いた夢はどんな形をしていたのでしょう。

 保育園の休み時間、わたしは大型積み木を2段重ねた仮設ステージの上で、小さな積み木をマイクにして「♪かわいい、ベイビー、ハイ、ハイ」なんていうその頃の流行歌を、同じ5歳児の観客の前で歌っていました。5歳のわたしの夢は「ステージで歌う人」になることでした。これが一番古い、夢みたものの形でした。

 小学校6年間、わたしが夢みていたのは漫画家でした。学校でも家でも時間があればイラストのようなものを描き続けていました。少なくともクラスでは一番「うまい」ということになっていたので、他のクラスの一番「うまい」子と他流試合みたいなことをしたり、クラスメートがノートを引き破って「かいて〜」と持ってくる紙に、注文どおりのカワイイ女の子のスタイル画を描いてあげたりしていました。中には新しい自由帳一冊にまるごと物語を描いてと注文してくる子もいて、わたしはけっこう得意になって、そんな注文を即引き受けては、創作活動に熱中するのでした。わたしとしては絵が描けるだけで満足で、そのノートをその子が得意げに他の子に見せて賞賛を得たりすれば、それで十分幸せな気持ちになったものです。けれども、小6のあたりから、どうしたって自分に漫画家になる才能はないと自覚しました。わたしは単に漫画家の絵を真似しているだけで、自分では絵も、ストーリーも生み出すことができないことに気がついたのですね。

 中学校3年間、わたしが密かに夢みていたことは作家でした。手当たり次第に本を読んでいたありがちな文学少女だったわたしは、自分の書いたものが活字になるということをぼんやりと夢みて、そんな仕事ができるならどんなにいいだろうと考えていました。それだったから、作文関係のコンクールともなれば、はりきって賞を狙って書いたものでした。あの時期、わたしはその夢に乗っかることで、本を通して知らない土地や世界を知り、文学を通して様々な境遇や年齢の人と出会い、書くという行為を通して自分の内面を覗くというずいぶん貴重な体験をしたように思います。

 高校時代は夢はぐっと現実的なものなり、なんとか自分の住んでいる町を出て、都会で暮らすということことが夢にとって変わりました。そのためには都会の大学へ行くしかないと、その夢の実現に向けて無意味だと思われる受験勉強をたらたらやっていました。自分でも効率悪いなあと思っていましたから、時間とエネルギーを費やした割りには結果は惨憺たるもので、わたしは地元の駅弁大学の教育学部、一番やりたくない仕事と思っていた教師になる道へと進むことになりました。明らかな挫折です。ところが、教育実習で教室の子ども達と接触して、意識がすっかり変わったのです。どうやらわたしはその時、「子ども」という存在にフォール・イン・ラブしたようなのでした。育ってゆく子ども、そこにかかわるあらゆることが興味の対象になり、また夢になりました。

 そうして、さまざまな夢の果てに、子どもの頃には夢のリストの中に入れたこともない「母親」という仕事をわたしは選択しました。そして実際、それはエキサイティングな夢でした。生まれたばかりの人間の命を育んでゆく、その人間の成長を見つめるというのは、それ自体が夢を追うことのような気がします。存在する人間の数だけまた母親も父親もいるわけで、親であるということは、けっして特別なことではないはずなのですが、そこにはそれまで夢見たどんなこととも引き換えにできないほどの「夢」が横たわっていたのです。日々の驚きと発見。足はしっかりと地面を踏み、苦労や不安も含めて、生きるということの味わいを噛み締めていました。

 さて、では子ども達が育ってしまった今、わたしの夢ってなんでしょう。年齢から考えると折り返し地点を過ぎてしまいました。これまでかき集めてきたもの、走りながら、後で取りに来るだろうと置き去りにしてきたもの、その時々に夢みてきたことも含めて、そういうものを材料に何かを織り上げる時期を迎えているという気がしています。わたしが過ごしてきたわたしの人生なのですから、わたししか紡げない糸があるだろうし、わたししか織れない布のがあるはずです。まずは糸を紡ぎ、そうして織ってゆく、それがわたしの今のところの夢でしょうか。素材になるものは、言葉、音、色、動き、そして時間…。それがどのような表現になるのか、まだ形は見えませんけれど、この時期をゆっくりと味わいつつ、わたしの「夢みたもの」を形にし続けていきたいと思っています。









2004年02月20日(金) たりたのヘルスケア入浴法

 午後11時30分。ジムから戻ってきてPCのスイッチを入れたところです。今夜もビシバシ汗をかきました。

 今日のメニューはウルトラシェイプ(サーキットトレーニングのようなもの)30分。ベーシックエアロ、30分。ファンクを前半のみ30分。その後いつものバスタイム1時間。

 ええっ、運動90分で風呂が60分。ずいぶん風呂の時間が長いんじゃないって。いえいえ、ジムでのバスタイムは最短コースで一時間は必要です。
そうだ。今日はジムの風呂の利用法を書くとしましょう。何かの参考になれば…。
 ちなみに、今から書くものはヘルスケア入浴法ですが、他にはメンタルケア入浴法、さらにはライティングサポート入浴法とさまざまな入浴法があるのです。後の入浴法はまたいずれ。


 運動して全身滝のような汗を流した後の風呂は格別です。もしかすると、わたしはこのバスタイムのために運動しているんではないかと思うほど、ジムに出かける前から運動の後のバスタイムを何かのご褒美のように楽しみにしています。
 ただぼおっとお風呂に入るだけでも十分満足できるわけですが、お風呂の時間もトレーニングの続きとしてヘルスケアに使うことは十分可能です。
 ジムで30分走ろうが、エアロビのクラスを3本取ろうが、その後のバスタイムは最低一時間は確保したいところです。もし時間が1時間しか取れないという日などは、わたしの場合、むしろ運動するのをあきらめて風呂を取りますね。

 さて、たりた式ヘルスケア入浴法の時間配分ですが、最短コースはこのようになります。

1、顔、髪、全身を洗う。         15分
2、サウナ(足指まわし、足裏マッサージ) 12分
3、水風呂 ( 指の爪マッサージ )    3分
4、入浴  ( 腹つまみマッサージ)   15分
5、顔、髪、ボディーの手入れ       15分

 時間が許せば、2,3,4、を1セットとして、2セット、3セットと繰り返します。

 1に関してはスキップ。洗い方や用具、石鹸、シャンプー類はみなさん好みと流儀がしっかりおありのことでしょうから。たりた式をご披露するまでもないでしょう。

 2のサウナにしても、本を読む、TVを見る、しゃべる、瞑想する、熟睡すると人それぞれでしょうが、この足のマッサージ、なかなか良いのです。何もすることがなく、砂時計ばかり眺めているような時にはぜひお試しを。

 まずは足首回し。足の裏と手の平を合わせるような格好で、足の指の間に、ぐぐっと手の指を割り込ませ、足と手の指の付け根が接触するところまで深く差し入れます。そうしておいて、手を右方向に30回、左方向に30回、と回し、足首を回転させるわけです。

 次は足の指回し。足の指を一本づつ手の親指、人差し指、中指でしっかりと掴み、やはり右方向、左方向に20回から30回づつ回転させます。この時、指の付け根のところの関節がしっかり動くよう、足の指の付け根を掴むのがコツです。

 今度は足の裏。足裏マッサージためのつぼ押しをお持ちの方はそれで足の裏を順番に押していくといいのですが、わがジムはサウナにはタオル以外の持ち込みは禁止ということになっているので、自分の手の指で足裏を押します。ご存知の通り、東洋医学では足の裏に身体の各部に繋がるすべてのツボが集中しているということになっているので、身体の部位を意識しながら足の裏を隅から隅まで押してゆくわけです。

 仕上げは足の甲。足の甲の骨と骨の間の筋をしごくといった感じで強く圧力をかけます。この部分の刺激と発汗との関係について調べたことはないのですが、この時、刺激に伴って身体中から汗が噴出す感覚があります。

 それでなくても高温のサウナ、リキ入れてマッサージすれば、もう全身から汗という汗がしたたることになります。くれぐれも水分補給を心がけてくださいね。

 また10分もサウナに入れば、顔と言わず髪と言わず、乾燥します。わたしは顔のオイルパックも兼ねて、サウナに入る前に、顔と髪にスクワランオイルを塗りつけます。スクワランオイルには発汗を促す作用があるらしく、顔から大量の汗が出ますよ。

 サウナは苦しくてとても入れないとおっしゃる方は、この足マッサージをお風呂の中でなさってはいかがでしょう。その場合は首までお湯に浸からないで、ぬるめの半身浴がお勧めです。心臓への負担もなく、長く入っていることができますから。この方法でも半端じゃない量の汗がたらたらと滴ることでしょう。

 さて、先を続けましょう。3の水風呂に関しては健康に良いか悪いか賛否両論ありますから、あくまでご自分の身体と相談してから温度や時間は決めて下さいますよう。わたしは18度くらいの水に3分というのが好みなのですが、銭湯やジムの水風呂の水温は14度から20度以上と様々ですよね。
最近、指の爪のマッサージがダイエットに効くと聞いて、水風呂の時間を爪のマッサージに当てています。ダイエットの効果のほどはまだ分かりませんけれど、代謝を高めるのにはいいはずです。

 ここからがいわゆる入浴ですね。自宅の風呂の場合はハーブ類の精油に始まり、飲みの物、食べ物、読み物の果てまで持ち込みの入浴となるのですが、ここはあくまでジムの風呂。ヘルスケアに徹します。で、ここでは何をするかといえば、お腹の脂肪に注目。お湯の中だから恥ずかしいことはありません。憎い脂肪をここぞとばかり、ぎゅうぎゅうと掴みます。あまりやりすぎると、真っ赤になって、出る時にバレバレですからどうぞほどほどに。

 さて、運動の汗に加えてサウナで汗を搾り、全身にマッサージが行き渡りました。気の流れも良くなって気分は爽快のはず。十分に水分を取り、肌が乾燥してしまわないうちに化粧水や保湿剤などでお肌のお手入れも忘れずに。夜はぐっすりと、前後不覚の眠りに落ちることでしょう。










 


2004年02月18日(水) スターバックスでのひとこま

知らない人に話かけるなんていうことをほとんどしないのに、その日駅の構内にあるスターバックスでコーヒーブレイクを取っていた時、わたしはわたしの隣のソファにどかりと座り込んだ外国人に話しかけた。

その時、わたしは宮崎への旅を終えたばかりで気分は旅人であり、日常がまだ戻ってきていなかったせいかもしれない。あるいは、その時読んでいた本が須賀敦子の「トリエステの坂道」で、彼女とイタリア人の家族や友人との会話が綴られているその本の中の異国や外国人とのやりとりにすっかり沈潜していていたからかもしれない。そして目の前に現れたトレーでコーヒーとシナモンロールをぎこちなく運ぶ、のっそりしたその外国人の所作がいかにも洋画の一こまのようで、突然、日常がファンタジーに変わったのかもしれなかった。

その外国人は見たところ40代。大柄。ざっくりしたウールのセーターに、黒いふちの眼鏡。とてもオープンなオーラを放っていて、何かスクリーンの中の役者を見ているようだった。キャラは朗らかだが深い物言いをするインテリの三枚目といったところ。

わたしはそのスクリーンの中にひょいと飛び込み、わたしの台詞をしゃべる気になった。
「ハイ、あなたは旅行者に違いないわ。たった今、どこかの国から日本にやってきたんでしょう。」
と切り出す。
幸いなことに、その外国人は唐突なわたしの言葉にびっくりする様子も構える気配もなく、わたしが描いたシーンの通りの顔つきで、ゆっくりわたしの方に顔を向けると、
「ほう、おもろい。なぜそんな風に思うの」
と聞いてきた。これもわたしの欲しい台詞。

「なんだか疲れているように見えたわよ。周りの空気と馴染んでない感じだし、それに周囲の人間に興味があるっていう感じだったもの。日本に長くいる外国人って、壁をはりめぐらしているし、日本人と似たような表情や動きをするものよ。」

「そう〜、ぼくもいくらかは日本人の所作を身につけたんだけどなあ〜。もう5年も住んでるもの。」

「へえ〜、それは意外。で、どこから来たの」

「オーストラリアから」


そうか、わたしはオーストラリアには行ったことがないし、オーストラリア人も友達といえるほど深く付き合た人間はいない。彼の雰囲気全体に、何かわたしが知らない外国の空気を感じたが、それはその国の故かもしれないと思う。

「で、日本で何をしているの」

彼は結婚指輪を見せながら、

「時には夫、時には父親、時には英会話の先生。それで君は?」

住んでいるところや2歳と4歳児の父親であること、英会話を幼児から大人までに教えているが、幼児のクラスが一番おもしろいといったことなど、家庭人、同業者としての会話をしばらくし、お互いに名乗りあい、握手する。

この後、電話番号やビジネスカードを交換したりというシーンはわたしのシナリオにはない。わたしは空になったコーヒーのトレイを持ち上げると席を立ち、まだシナモンロールが半分残っている彼の座席を振り返りながら

「じゃあ、またいつか、どこかでね」と笑顔を向ける。

わたしは帰りの電車に乗るホームに向かいながら、今入ってそして出てきたばかりの自作映画のひとこまに、すっかり愉快な気持ちになっていた。






2004年02月16日(月) 嵐の後

夫の実家での5日間に渡るプロジェクトを終えて帰宅した家は予想以上にきれいに片付いていて、夕方英語教室に子ども達がやってくるのに支障はなく、事は平和に過ぎてゆくように思えた。

しかし、2階から降りてきた息子がえらく不機嫌。わたしがクラスの準備で忙しいというと自分で冷凍のピラフを炒めて食べていたものの、父親と過ごしたこの5日間のストレスが噴き出した。

我が家だけでなく、夫の家を見ても、わたしの実家を見ても、父親と息子の関係は実にややこしく、屈折し、よじれていると感じる。そして、どこかでこんなものなのだろうと、その間に母親が居ることで辛うじてバランスが取れているような家族の関係に、慣れてしまった。

子どもはどうせ出てゆくもの。自立させるまで育てれば、親の役目はそれでお終い。いろいろな確執や葛藤も、それまでのことと、それまでの平和を祈りつつ、その時が無事に来るのを待っているのである。それは当の本人も、夫も、わたしも、それぞれにそうなのだ。

しかし、今度のように、わたしが留守をすることで、その辛うじてバランスを保っているような関係がぐらりと傾くのだろう。この家が居心地の悪い場所になり、父も息子も、ストレスに閉じ込められる。やはり、大学生の息子が20歳を過ぎて家に居るという状況そのものが不自然なのだろうと思う。

親はもう、もう面倒を見る時期ではないと子どもを見ようとするが、子どもは親の家に居る以上、頭では分かっていても感情のレベルでどうしても親へ甘え、依存してしまう。わたし自身、実家に戻ると、どうしても母に対して、感情のコントロールがとても難しくなる。それは甘えの裏返しだということは良く承知しているが、どうにも押さえがきかない。

夫にいわせれば、男と男の関係の中にわたしが入り込み、問題を余計に複雑にしているという。そしてそれは実際、その通りかもしれないと思う。いわゆる母親の近視眼的な盲目的、動物的な愛情がほんとうの意味で子どもを大人にすることの支障になっているのかもしれない。そういう母親を子どもは本能的に利用し、そこへと逃げ込むものなのだろう。

このことは多かれ少なかれ、どの親子も、どの家庭も抱えている問題なのだろう。家族といえども、人間どうしの関係。それが似ていたり、血が繋がっていたり、また同性どうしであったり、異性どうしであるため、複雑さや、やりずらさを生み出す。けれども、そのしんどさがそのまま、生きる力を養うトレーニングでもあるのだろう。人間は死ぬまで人の間で生きていかなければならないのだから。

我が家は夕べは嵐に見舞われたが今朝になると凪いでいた。台風の後のような、大泣きした後のような、洗われたすがすがしさが漂っている。







2004年02月15日(日) 川の流れを窓の向こうに感じながら

ネットってほんとうにいろんな可能性や広がりがあるなあといつも感心させられてしまうのですが、昨夜は帰省先の宮崎で、ゴザンスライターのnolicoさんと初めてお会いし、出会いの不思議さ、おもしろさを感じていました。

相手の書いたものを読むということが始まりで、その人本人との出会いがその後に続くということを昨年から、何度が経験しているのですが、その度に、わくわくする思いと感動があります。

待ち合わせの場所で、会ったことがない者同士が出会いを果たすというのはいつでもスリリングなものですが、不思議と「その人」だということは分かるものなのですね。書くものから伝わるものとその人の雰囲気はそれほどかけ離れてはいませんから。たいていの場合。わたし自身は文章と実物との間に何か差異があるようなので、誤解を避けるためにHPにはぼおっとした素のわたしの写真をくっつけていますけれど…。

そういう意味では、食品添加物に関するメルマガを発行していて、想像力豊かな800字小説やウイットの効いたエッセイも書くnolicoさんは、わたしが思い描いていたイメージと、とても近いと感じました。ですから初めてお会いした方のような気がせず、しょっぱなから、取り組んでいる本のことに始まり、書くことや出版のこと、また母親同士の会話と、話は尽きませんでした。

nolicoさんが案内してくださったたお魚亭「なぶら」は、窓一面に大淀川のゆったりとした流れが広がり、水の風景が何より好きなわたしは、その場所に入っただけで、とても豊かな気持ちになりました。もちろん、お料理もおいしかったです。それにしても、かなり食いしん坊のわたしが、食べ物よりは話の方に夢中になっていました。

あまりその場所が気に入ったので、義父と義姉に話すと、今夜行こうとしていた夕食はここにしようということになりました。義父が義姉とわたしにご馳走してくれることになっています。今夜は食べることにしっかり集中しよう。さて、どうかしら。夕べは家に戻ってきてから、お酒を飲みながら、義姉と夜中の2時半まで話し込んでいましたからね〜。

さて、明日の朝の便で我が家へ帰宅です。
また日常が始まります。明日の夕方は仕事も入っていますし、いろいろとたまった家事も待っていることでしょう。
忙しい一週間の始まりです。


2004年02月12日(木) 義父と過ごす

昨日から同居人の実家で義父と二人で過ごすという初めての体験をしている。今のところ、つつがなく時間は過ぎ、我が家では煎れることのない目覚めのお茶を煎れ、我が家では作ることのない朝の味噌汁も煮干と鰹節の出しでおいしいのを作った。なんだか主婦という気がする。やれば出来るんだ、わたしにだって。

しかし我が同居人はこういう主婦らしい振る舞いが好きではないらしく、わたしにそれを求めない。求められないのに、押し付けたりもしたくないから、朝はそれぞれのスケジュールに合わせて、それぞれが自分の面倒を自分でみる。あ、でも彼は言うかもしれない。時々身体にいいからとフルーツとカスピ海のヨーグルトとミューズリーの朝ごはんを押し付けられるって…時にはね。
朝ぎりぎりまで寝ていたい彼は、スローフードの朝食はご迷惑なのだ。
あれは食べても食べてもなくならない。確かに。

昨日、2月11日は実は結婚記念日だった。確か23回目。
3年前の結婚記念日も一泊旅行でもと相談していた矢先、義父が入院。同居人が単身実家に戻った。あの時はかなり深刻な状況だったが、今回は義母の入院は外科なのでずいぶん気が楽だ。

結婚記念日なのだからせめてもと、同居人が羽田空港まで車で送ってくれ、空港でお昼をいっしょにすることになる。というわけで、重い荷物を抱えて満員電車に乗る苦労から開放された。お天気も良く、道路空いていて気分はしばしバケイション。軽やかなジャズピアノが窓の外を走る過ぎる景色と呼応して心地いい。あのピアノの音は覚えているものの、NYで活躍している日本人という、そのピアニストの名前は忘れてしまった。

展望レストランでの食事はボーイさんの洗練された動きや、しっかりした織のテーブルクロスが気持ちよく、14時のフライトまでの時間をゆっくりと過ごすことができた。

でもひとつだけ悲しいニュースがその最中に飛び込んでくる。食事の後ノートパソコンを開くとアメリカからのメールが入っていて、友人のジョイから、教会のオルガニストで聖歌隊の指導者だったジュリアがクリスマスを前に亡くなったという知らせだった。毎年必ずまっさきに届くジュリアのクリスマスカードが今年は届かず、どうしたのだろうと思っていたのだった。ここ10年の間にわたし達が所属していたルーテル教会のメンバーが知らせを受けただけでも5人いる。その誰とも親しく言葉をかわし、いっしょに歌ったり食事をしたり、家にも招かれたりしたのだった。けっしてみんなが年老いていたというわけでもない。病死や突然死。ジュリアの葬儀は2月28日ということだ。行けるものならば行きたいところだが…。

そういえば、一度ジュリアから頼まれて、教会の葬儀でバイオリンを弾いたことがあった。
あの時、彼女が選らんだいくつかの曲はすばらしく、彼女の弾くパイプオルガンに合わせてその曲を弾きながら、わたしは亡くなった方と何の面識もないというのに、涙がこぼれた。



夕方、宮崎の実家に到着。この日は祝日で食事の宅配が休みで、かわいそうに義父は朝も昼も食パンで済ませたという。急ぎ食事を整え、いっしょに夕餉を囲む。その後、タクシーで義母の入院している病院へ。骨折の手術の経過も良く、わたしがいるうちに退院できるかもしれないということだった。

義父は毎日決まって午後4時から夕食の時間の6時間ではビデオに録画した洋画を見る。昨日は「真昼の決闘」だった。今日のはフランスの映画。かなり大きな音でTVが鳴ってはいるがフランス語だからちっとも書くことにじゃまにならない。日記を書くことができてよかった。さて、そろそろ夕食の支度。
今夜は9時に義父が寝た後、久し振りに原稿をいじる時間が持てるかもしれない。




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2004年02月10日(火) なんとか回復しました

日曜日から今朝まで、空いている時間は寝ることに費やしたお陰か、風邪あるいは鼻炎はひどいことにはならずに今日はいつもと同じように仕事も3クラスつつがなく終え、ぞの後のジム行きはさすがに断念したものの、明日からの帰省の支度もなんとか終えることができました。

さて、明日から日曜日までの夫の実家での日々がどういう具合になるのか今はさっぱり分かりませんが、やれるだけのことをやろうとは思います。わが同居人とは違い、義父は朝のお茶出しに始まり、事細かに一日の世話があるのです。人の世話が苦手なわたしにとって、これはトレーニングですね。
義母も慣れない入院でいろいろと不自由していることがあることでしょう。わたしが多少でも役に立つといいのですが。ケアについての学びと実践をしてきます。

そういえば、最近は教員免許資格を取るための項目に、老人介護施設などでの実習が入っているらしいですね。若い頃に保育実習や老人介護の実習を経験しておくというのは大切なことのような気がします。今のように核家族になり、老人や赤ちゃんを知らずに育つ人が多いですものね。わたしもそうでしたけれど。

さて、夜更かしにならないうちにお風呂に入って寝ます。
ここのところ何も書いていないので不安ですが、明日からは夜くらは少し原稿を書けるかなと期待しています。飛行機や電車の中で本も読めることでしょう。

日記の更新やBBSの書き込み、あまりできなくなると思いますがどうぞお許しを。




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2004年02月08日(日) 風邪かも

ゴザンスのテーマが「風邪をひいたら」で、ライター達が風邪について書いた文章を楽しみながら、うん、うん風邪で寝込むってあれはあれでなかなかいいもんなんだよなと思ったりしていたところ、夕方より悪寒。やたらと足が冷える。教会の総会が終わるや後片付けは他の方にお願いしてさっさと帰ってきました。明後日から介護帰省なのだからダウンするわけには行きません。格安航空券は変更、解約ができないものですしね。

そこであわてて風邪薬とノニジュースお湯割りショウガ入りを飲んでベッドに飛び込みました。携帯電話とのどあめとチョコレートと本を持ち込むくらいですからそれほど重い風邪じゃあありません。夕べ2時に寝て6時に起きるという無謀のせいで身体がストライキ起こしたのです。
ごめん、ごめんと言いながらなんとか今夜のうちにすっかり回復するよう寝ています。日記書いてるじゃないって?
ちゃんとお布団に入って携帯メールでの親指日記なんです。というわけで、おやすみなさ〜い。




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2004年02月06日(金) これからのこと

昨日は一日、ずっと家にいて、ほとんど朝から夜中まで座ったまま過ごしてしまいました。洗濯物や掃除やご飯作りはしたし、お風呂にも入りはしたのですけれどね。


朝の間は、義母が腕の複雑骨折の手術を受ける時間だったので、祈ったり、義母に付き添っている夫や一人で留守番している義父と電話で話したり、寮にいる次男に電話をしてお祈りの応援を頼んだりしていました。午後一時過ぎに無事に手術も終わったと知らせが入りほっとしたところです。


義父が3年前にかなり進んだ癌だと宣告されたものの、今は癌そのものはすっかり姿を消してしまいました。けれども体は様々に衰弱しているものですから、義母が献身的に世話をしてきたのです。けれども今回のことで、義母の体も決して無理が出来ないということが分かって来ました。

これから先、老いが進んでいく夫とわたしの両親とどうかかわっていくか、兄弟もいっしょにこれからのことを具体的に話す時期に来ているのだなとつくづく思います。

子育てが終わると今度は介護と良く言われますが、実際その通りですね。わたし達の場合、子ども達がもう大きくなってしまいましたから、子育てや受験の最中の介護というのは何とか免れました。まずは感謝です。

子ども関係の諸々がなくなった今、わたしにとっての、のっぴきならない責任は週3日、7クラスの英語教室です。これは4月にクラスをスタートしてしまえば、途中で投げ出すわけにはいきません。英語学校の経営にも負担をかけることになってしまい、いろんなところに迷惑がかかります。

とすれば、そちらの仕事の方の後任を確保するか縮小するかしつつ、わたしがやれなくなても支障を来たさない状態にこの一年くらいかけて持っていく必要があるでしょう。

少なくとも10年は親の世話中心の生活を覚悟していますが、なにしろ遠距離。遠距離介護が可能なのか、どちらかがどちらへ移り住むことが可能なのか、考えていかなければならないことはたくさんあります。

いつだったか、ゴザンスのテーマに「昼休み」というのがあって、今は人生の昼休みと書いたことがありました。子育てと介護の間の昼休み。この自由な時がなんとかあと1,2年は続いて欲しいと願ってはいますが。




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2004年02月05日(木) 夢のような話

今日は久々に昼間、自転車でジムへ行き、ラテンとエアロをやってきました。というのも同居人が実家へ帰省したので、しばらく夜にジムへ行けないからです。

その後、一人ドトールでベーグルサンドを食べながら、書いていたら、友人から携帯メールが入りました。

「グッド・アイデアが今浮かんだから・・・一人だったら都内のホテルに篭って書くと集中できるよ。サウナもプールもあるし」

ああ、夢のようだわ、としばしその情景を思い浮かべながらうっとりしたのですが、また、一人でホテルっていうのは好きなのですが、これは、今回のように宮崎までの交通費を捻出しなくてはならない時期には贅沢すぎるというものでしょう。

今日などは、ドトールで結構集中して考えたり書いたりしましたし、青年Hが隣の部屋でTVを見ていても、こっちの世界に入り込めるから音も気になりませんでした。わたしは時間と、書く気さえあれば、どこだって集中はできるようです。

でも、どこよりも家のこのテーブルが一番落ち着いて書ける場所でしょう。
今日は7時間ほど、ここに張り付いていましたが、もう寝る時間ですね。

明日は義母が腕の手術です。わたしは一日どこへも行かずに、祈りながら、原稿づくりをやる予定です。青年Hからディスターブされることなく、ひとり静かに過ごしたいのですが、あちらは春休みで、バイトもなかなかないようでお暇らしいんですよね。明日あたり、良いバイトが見つかり出勤してくれるといいんですが・・・
2ヶ月も春休みが続くんですよ。大学生ってほんと楽な商売ですね。

では、おやすみなさい。




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2004年02月04日(水) ええっ、もうこんな時間だ!寝なくっちゃ!!

えっ、どうしてこんな時間なの!
とあわてています。深夜の1時15分。
ジムから戻ってきて、PCの前に座っていたらいつの間にか時間が過ぎていました。今日は原稿書きではなくて、他の方の作品を読んだり、BBSの書き込んだりしていたのでした。

このところ、自分の内に篭ってばかりいて、なんだかそのことで、ちょっと不安というか孤独感に囚われていましたから・・・
何なのでしょうね。

今日、義母が骨折の手術のために入院しました。明日から同居人が宮崎の実家に帰省し、彼が戻ってきて2日置いて、今度はわたしが行きます。義母は今まで入院などしたことがなく、どんな時にも、心底明るく、精神的に安定している人だったのですが、今回のことはかなりショックだったらしく、なにか空ろな感じがしていて、そのことが心配です。歳を取っていくということは、ほんとうに大変なことだと改めて感じているところです。

その時のためにいったいどういう「老い支度」をすればいいのでしょう。物理的なことは予想がつきますが、精神的なところで、どんな状況でも自分をしっかり支えるにはどういう準備や鍛錬が必要なのでしょう。ゆっくり考えていこうと思います。

さてさて、でも、今日のところは寝なくては。
明日のための準備がまずは先決ですね。
では、みなさん、おやすみなさい。


2004年02月03日(火) 2月の父  茶の間のカウンセリング 更新しました

節分でしたね。
というのも、すでに今は2月4日になっていますから。
我が家豆まきはしないんですが、いり豆は食べました。でもそれは2月1日のことですけどね。あの豆が大好きな同居人が節分まで待てないというので、それならとぽりぽり食べたのです。そうそう。口ん中へ「鬼は外、福は内」って豆まきしましたっけ。単なる遊びでですが。コンビにで予約承り中って貼り紙がしてある、あのまるごとの巻き寿司も、今年初めて食べてみました。切らないでまるごとというのがいいですよね。

さて、本の原稿づくりは日々励んでいます。ゴザンスに11月から父のシリーズを投稿しているのですが、この原稿はそのまま、本に入ることになるものの、2月も投稿しました。宣伝、広告の意味もあるかなと。編集部の方もそれを勧めてくださったので。

と、なると、「あっ、これはおもしろいかも。続きを読みたい」と思わせたいという欲が起こるものなのですね。書いているうちに、また内容が変わってきました。こう書いたほうが、おもしろいかもって、そんな感じでだんだん文章が変わっていくんです。実際本の原稿になる時にはまた路線変更になるかもしれませんが・・・。

「おもしろかった。声出して笑ったよ」と同居人は言ってましたが、どうでしょうね。こちらからどうぞ。空の鳥と野の花と




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2004年02月02日(月) 「連れ舞ひ」を観る

昨日、「連れ舞ひ」という現代舞踊のを観ました。
場所はティアラこうとう小ホール。マオアキラさんからご案内をいただき、
マオさんやミュージカルの仲間と再会できるのもうれしく、話に聞いていた
マオさんの友人の一色眞由美さんの舞踊や、前回見て衝撃を受けたケイタケイ さんの舞踊も見たいのでこの日を楽しみにしていたのです。

今回のプログラムは舞踏作家協会の主催するもので、2人づつ7組の舞踏家たちによるとても個性的な7つの舞踏でした。連れ舞いのパートナーは必ずしも現代舞踏家ではなく、陶芸家、画家、一人芝居の役者、日本舞踊、地唄舞の家元といった奇想天外なコラボレーションでした。

異なる芸術、異なる世界が舞台の上で、その違いをくっきりと見せながらも、響きあい絡み合い、不思議なハーモニーを創り出していました。

わたしはどの舞踏も、体を前に乗り出して、ぐっと息を詰めて見入っていました。きっとすごい怖い顔をして見ていたんじゃないかしら。
いい意味でどれも観る者に緊張を強いる踊りだったのです。そういう意味ではこの前見た、フリースタイルや、ヒップホップ、ファンクといった踊りとは、同じダンスとはいっても全く異なる世界です。あの時には、体中が開放されエネルギーが駆け巡りましたが、昨日の舞踏は心のずいぶん深いところに、しかもふだん気がつかないくらいの深層に意識がきりきりと集中していくといった印象でした。けれども観終わった後にはやはりエネルギーがチャージされているのが分かりました。

人間が生きるということに伴う根源的な苦闘、悲しみ、所在無さ、情熱、憎しみ、そしてそれらを突き抜けたところにある光や希望や愛といったものが、そこに起こる心理的な葛藤や枯渇や希求が、洗練された動きで表現されていると思いました。

ひとつひとつの舞踏を見ながらこの朝に礼拝で聞いた聖書の言葉が踊り手の動きの上に重なるように繰り返し響いていました。

貧しい人々は幸いである。
飢えている人々は幸いである。
泣いている人々は幸いである
・・・・・・・・・・・・・

富んだところ、満腹したところからは決して生まれ得ない表現だと思ったからです。
舞踏家たちが目指すものの深さと高さをそこに見たからです。
そしてそれは、イエスが指し示そうとしている深さや高さに通じると思いました。

舞台の後でマオさんたちと話した際、一色さん、そしてケイタケイさんは舞踏家、大野一雄氏の流れを汲む舞踏家だという話を伺い感慨深く思いました。大野一雄氏がキリスト者だということを以前サイトに伺った時に知ったからです。まだ大野氏の舞台は見たことがないのですが、ますます見たいと思いました。

ほんとうに良い舞台を見ることができました。
お誘いくださったマオさん、舞台を見せてくださったアーティストのみなさんに心からありがとうございます。




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2004年02月01日(日) 貧しい人々は、幸いである

「なぜ幸いなのか」

というのが今日の礼拝の説教でした。

テキストはルカによる福音書6章17〜26です。

「貧しい人々は、幸いである、
神の国はあなたがたのものである。」

というあまりにも有名な箇所です。

牧師は説教の冒頭で、私たちはほんとうには知らないのに知ったつもりになってしまう。これが「バカの壁」。
ほんとうのことはいつも新しい。
今日、新しい神の言葉に向かって、新しい神の恵みを聞かなければならない
と語られました。

この貧しい人々は、幸いである という言葉はわたし自身、子どもの時から何度も聞いてきた言葉です。この聖書に関する話も何度となく聞き、また本も読んできました。けれども、きっとほんとうのところはまだ分かっていないのです。いつか分かるのでしょうか。もしかすると死ぬまでその奥義な分からないのかもしれません。
けれど、けっしてその全体ではないにしても、
一部分に光が当たってそこがうっすらと見えるように
多少なりとも見えたことを心にとどめて、
それをこの一週間のわたしのテーマにして持ち歩きたいと思います。

今日の説教の中で見えたことは、
貧しい人々は、幸いであるであるというイエスの言葉は
「わたしたち人間の本質、存在の根本に対して祝福されていると語られる言葉」ということでした。
決して、貧しい人と富んでいる人を二つに分けてこちらが良くてこちらが悪いというのでもないということ。わたしたちは貧しくもあるし、同時に富んでもいる。悲しんでいる者でもあれば、同時に喜んでいる者でもあるということ。
とすれば、イエスは同じ「わたし」に向かって、慰めと同時に戒めを与えているということになりますね。

貧しい状態。つまり、自分に悩み、飢え渇き、激しく何かを希求していく状態。また困難な中にあって自分で自分を支えられないような状況。こういう時にこそ、わたしたちは祝福されているとイエスは言います。

その反面、富んでいる状態。何もかも整い、不自由なく与えられた状態、魂は精神的飽食、過食のため、鈍く動かなくなっている。こういう状態こそ不幸だとイエスはいいます。

そして自分はこの貧しい状態と富んでいる状態の間を行ったり来たりしているなと感じます。何か苦しいこと、大変なことが起こると、魂ははっとして揺り動かされ、その結果、生き生きと動き、霊的に研ぎ澄まされますが、その大変なことが去り、何もなく平和に楽しく暮らしていると、魂は眠り、動かず、そのことがまた何か気持ちが悪くも感じ始めるのです。そうしてそういう時には決まって揺さぶりをかけられ、また、はっとして目覚めるという具合です。

どんな状況の中でも眠り込まないで「貧しくある」ことをこの一週間のテーマにしたいと思います。「貧しさの中の幸い」を見つめてみようと思います。そう、書くという行為はある意味、そういう眠りこんだ魂を自分で揺り動かし、目覚めさせる働きがあるように感じます。
ですから産みの苦しみを苦しんでいる今、とても通りがいいなと感じています。幸いなことに今のわたしは「貧しい人」でいることができているようです。
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ルカ6章17〜26

◆おびただしい病人をいやす
6:17 イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、 6:18 イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた。 6:19 群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。
◆幸いと不幸

6:20 さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。
「貧しい人々は、幸いである、
神の国はあなたがたのものである。
6:21 今飢えている人々は、幸いである、
あなたがたは満たされる。
今泣いている人々は、幸いである、
あなたがたは笑うようになる。
6:22 人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。 6:23 その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。
6:24 しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、
あなたがたはもう慰めを受けている。
6:25 今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、
あなたがたは飢えるようになる。
今笑っている人々は、不幸である、
あなたがたは悲しみ泣くようになる。
6:26 すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」




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