たりたの日記
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2004年01月31日(土) 他の人の動きを感じて踊るということ

木曜日、金曜日とずっと書いていてあまり体を動かしていなかったから、今日こそは夕方ジムへ行こうとはりきっていました。

ヒップホップを60分、その後、ボディーコンバット(ボクシングスタイルのエクソサイズ)を半分の30分だけ。そして本命のラテン。今日はmGがラテン初デビューです。最初はエアロビも敬遠していたmGは少しづつチャレンジの枠を広げています。さすが我が同居人。わたし同様チャレンジ精神は旺盛です。

ラテンはもうすっごく楽しいからお勧めなんだけど、あの素早く足を動かす動きというのは日常にはない動きだからきっと初めての人は大変だと思うのね。でも体ってすごい学習効果があるから何回かやっているうちに、そのステップを体が取り込んでしまう。

と、ここまで書いて、わたしの場合はとりわけラテンと相性がいいようです。というのはエアロビクスの難しいクラスとなると何回出ても、やっぱりまごまごしてしまいます。ヒップホップも形がうまくキマラナイんですね。鏡に映る自分の姿を見ながら、これはやっぱり若い子のダンスだなぁ〜と
思うわけです。でもね、楽しいからやりますけど。

ラテンはむしろ若者よりも熟年の方が味を出せるんじゃなかろうかと勝手に解釈しています。動きに微妙なニュアンスというかムードがあるんですね。
毎度、このラテンではすっごく気分よくノリノリで踊れるし、半端じゃない汗をかいて、爽快なことこの上ないのですが、今日のはなんだかいつも以上にいい気分でした。普段は自分の動きだけに精一杯なんですが、今日はそのスタジオにいる人たちの動きやエネルギーも楽しみながら踊れたように思います。そうするとますますエネルギーが満ちてきます。

歌もそう。人の歌声を聞き、そこと響きあう時にいい気持ちになるのです。
ダンスもそうだったんだと新しい発見です。遅すぎるかな。
そう、今度からもっと全体の動きを感じながら踊ってみよう!
でも、そうするためには、余裕が必要。そのためにはやっぱり修行。
できるだけ休めずに続けて出ることですね。

さっきBBSをのぞいたら、ラテンの先生のぽっぽさんが、あたしからエナジーもらたって書き込みをしてくれていてうれしい気持ちになりました。エナジーはもらっただけじゃあなく、あげることもできたんだ、それも先生に!

で、初デビューのmGはどうだったって?
彼はわたしの真後ろにいたんで、微妙に鏡には映っていなくて、どういう風だったか見れなかったんです。

ただ滝のような汗が滴っていましたから、相当運動にはなったようです。でもあたしに稽古つけてもらいたいようです。
こうなったら、家にスタジオが欲しいところです。
そういえば、駅の脇でラジカセ持込でダンスの練習している若者がいますよね。
あれって、やっぱり、若者じゃないとまずいのかしらね。
中年がああいうところでダンスの練習をするようになれば世の中楽しくなるんじゃないかしら、なんて思うのはあたしだけ?





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2004年01月30日(金) 育児日記

わたしのVAIOはあの日、お茶をかけてから次第に調子の悪さが広がってゆき、今は使えない状態です。今日はmGが休みなので、朝から修理してくれているのですが・・・
ほんと、ちょっとしたことで、重症になってしまうんですね。人間も同じです。義母の骨折は思ったよりひどく、来週に入院、そして手術となりそうです。先ほど、2人とも、飛行機のチケットを取りました。わたしの場合、ぎりぎり10日前だったので、いつも利用する旅行会社の一泊付のパッケージが手に入り、正規の航空運賃より2万円安くなりました。それにしても交通費って高いです。新幹線はもっと割高ですもの。

木曜日、金曜日と、一日中原稿づくりをしていました。テーマがひとつは父の子育てで、もうひとつがわたしの子育て。というわけで、昔書いた育児ノートを引っ張り出して読み返したりしたのです。自分が書いたものだというのに、なんだか泣けました。みんなそうでしょうが、若くて経験がない上に
責任はずんと重く、悲壮なほど一生懸命な時期でしたね。

読んでいるうちに、当時の育児仲間のことが思い出されて、そのうちの一人はたまに会っておしゃべりをするので携帯に電話したりしました。彼女から来たメールには「あの頃ほど一生懸命で輝いていた時期はなかった」とありました。

あの頃、同じ団地に住む母親たちとまるで共同保育のようなことをしていたんです。20代の母親4人に7人の幼児。なぜか全員男の子でした。どの子も自分の子のようにかわいがったり、めんどうをみたり。助けたり助けられたり。思い出す彼女たちの顔がどの顔も笑っている顔ばかりなのです。わたしたち、それぞれに髪振り乱しながらの大変な日々だったのに、みんないい顔していたなあと今さらのように思います。さて、あたしはどんな顔として、彼女たちの記憶に残っているのでしょうか。

子どもといっしょに生きる日々が遠くなってしまうと、人とダイナミックにかかわると言うことがめっきり少なくなっています。一人で考えたり行動するのは楽チンで、ついつい自分の中だけに閉じこもってしまいます。今日は昔の自分を思い出しながら、こんなんじゃいけないなと思いました。でも、人といっしょに何かを作り上げるという元気は若さの故かなという気もします。今は今にふさわし人との付き合い方があるのかもしれません。

ともあれ、エッセイの中ではそのダイナミックな関係や輝いている若い母親たちの様子を再現できたらと思うのです。


2004年01月28日(水) 在宅介護サービスに電話する

さてっと、今夜も今週の私のテーマ、「日ごとの決意と日ごとの発見」へと戻って書き始めましょう。

まず今日の決意は、2月11日から15日まで宮崎の夫の実家へ行くということ。
夏までは帰省する予定はなかったのですが、夕べ遅く、義母が右手を骨折しているというニュースが入りました。今朝電話をしてみると、いつもは元気いっぱいの義母がかなり落ち込んでいるのが声の調子から分かりました。小倉に住む義姉が今週末には帰省するとのことですが、きっとわたしたちにも帰ってきてほしいのだと分かりました。それで、すぐに夫に電話し、彼が来週末、そしてその次の週末には私が帰省することを決めました。手の骨折も大変ですが、義母が病気で弱っている義父を一人で世話しているので、母が支障をきたすと父の介護も大変になります。きっと二人とも心細い思いで過ごしているのでしょう。

そして今日の発見は、全労災在宅介護サービスの存在です。義母のことを考えながら、わたしだったらどうするだろうと考えました。息子たちはまず当てにできません。親戚もなく、近所の人たちにも援助を頼むのには無理があります。そういう状況で生活を回すのに支障をきたすとすれば、ホームヘルパーの人に1日に一時間でも来てもらって、必要な買い物や家事、介護を頼むだろうと思いました。

そこで昼休みに、ネットで宮崎のホームヘルパーの派遣業務について調べてみたのです。そこで、一番よさそうだと思ったのが全労済在宅介護サービス。非営利団体で、各都道府県にあるようです。全国のリストがあったので、宮崎の在宅介護サービスセンターに電話で問い合わせてみました。
問い合わせてみてまず驚いたのは、その対応のよさでした。事務的な対応を予想していたのですが、とても親身に事情を聞き、在宅介護でどういうことができるのか説明をくれました。彼女が言うには、この在宅介護サービスには予防という意味があって、家族でどうにもかかえきれなくなって、病気や状況が深刻になってしまう前に、サポートをして、のっぴきならない状態を避けるというつもりで利用してくださいとおっしゃいました。

きっと、利用者の多くは、ぎりぎりまで介護保険には頼らず、自分の家族だけでなんとかクリアしようとするのでしょう。けれどもそれぞれに生活があり、家族だけでは限界があります。どこかに歪みがきて、介護者が病気になったり、あるいはストレスのために追い詰められたりするといった事例が多くあるのでしょう。

在宅介護のサービスがここまで利用者の心理や、抱えている問題について、
深く理解を示してくれることがほんとうに心強く思われました。そこでここなら、私たちがカバーできない週日には生活援助という目的でヘルパーさんの派遣を頼めると思いました。

義母にその情報を伝えたところ、始めはそういうサービスを受けることに難色を示したのですが、これまでは、他人の世話になることを嫌がっていた義父が自分からヘルパーを頼もうと言い出したということで、在宅介護サービスセンターと連絡を取り、さっそく明日、相談に来てくれることになりました。

今日仕事から戻ってみると留守電に、担当のKさんから、明日、夫の実家を訪ねること、またその結果を連絡してくださるという旨のメッセージが録音されていた。ほんとうに、細かい配慮に頭が下がります。

このサービスセンターは非営利団体なので、いわゆる勧誘はしないのですとおっしゃっていたが、このところ電話といえば売らんかなの電話ばかりで、こういう親身になってくれる電話の応対に久しく接していたかったので、何とも嬉しかったのです。

さて、わたしは英語学校の生徒や父兄、あるいはかかってくる問い合わせの電話で、相手のことを思いやる応対ができていただろうかと思いました。授業をきちんとやればそれでよしとしていなかっただろうかと思いました。生徒だけでなく、家族、友人、病気の人、親、兄弟、親戚、日々の配慮が充分でないなあと反省しました。
これもまた新しい発見には違いありません。




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2004年01月27日(火) 「美しい日本の歌」のリサイタルへ行く

さて、今週のわたしのテーマは「日ごとの決意と、日ごとの発見」です。
昨日は動きについて、新たな決意と発見があったのですが、今日は歌うということについての決意と発見とがありました。

ハクジュホールで開かれた、波多野睦美(メゾソプラノ)のリサイタル
「美しい日本の歌」へ行ってきました。

からたちの花、この道。雪の降る町を・・・・・どれも、小さい頃から親しんできた、いわばもう身体の一部と化したようななつかしい歌の数々だったのですが、その歌を、まるで初めて聞くかのように聞いたのでした。

歌の中から言葉が立ち上がっていました。確かに聞いているのは歌なのですが、まるで詩の朗読のように、その言葉の世界が、情景や、気分が、色鮮やかに浮かび上がってくるのでした。
日本語を歌う、言葉を歌う。わたしはその言葉をほんとうに歌っていただろうかと思いました。歌う時に、言葉をほんとうに大切に歌おうと、また聞こうと思ったのでした。

どの歌もすばらしかったのですが、日本民謡集(間宮芳生曲)からの5曲には、はっとするものがありました。土着の歌の中にある高い芸術性がみごとに引き出されていました。世界に通用する音楽だと思ったのです。それが、どこの国の歌のまねでもなく、わたしたちの国、日本の土壌の中かから、生活の中から生まれた歌だからです。そして、その生活の歌が、芸術作品としての普遍性を持っていたからです。

美しい日本の歌(波多野睦美、野平一郎ピアノ伴奏)のCDがエイベックスから出ています。


さて話題が変りますが、わたしが書いた1月25日の心太(ところてん)日記が更新されています。タイトルは「死なないと思ったらなんだってできるよ」
と、なんか凄い感じなのですが、場所はスキー場。この言葉は当時10歳の長男の言葉です。どうぞ、読んでみてください。




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2004年01月26日(月) 動き

昨日は夕方から、mGと共に、あゆみの箱Winter Special 2004という、催し物を見に行く。目的はラテンの師匠のぽっぽ先生が率いるM'S Partyのダンスを見ることだったが、本命のダンスはもちろんのこと、実に22のエントリー、300人近い人達の「動き」を楽しんだ。

ほとんどが仕事をしながら演奏活動をしたり踊ったりというアマチュアのミュージシャンでありダンサーたちだが、ステージで繰り広げられるさまざまなジャンルや様式のダンスはどれもおもしろかった。

見ているとまるで自分も踊っているかのように、アドレナリンが出てくるのが分かるのだが、いったい人間の動きを見ることでなぜ、こういう高揚感を覚えるのだろうと何か不思議な気がした。

どんなに華麗な動きでも、これが機械の動きであれば、それがぴしりと狂いなく揃っているほど退屈なことが予想できるが、それが人間の動きであれば、たとえ途中でバトンを落としても、間違った動きをしたとしても、人間がつくりだす動きというのは、ほんとうにおもしろくて見飽きることがない。

ダンスというパフォーマンスが音楽や演劇に比べて、より直接的な刺激をもたらすように感じるのは、ダンスが人間が言葉を持つようになる前から存在した、人間の根源にかかわるアートだからだろうか。

とにかく、エネルギーをたくさんもらえた。また動きについて思いをめぐらすことができた。





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2004年01月25日(日) 日ごとの決意と、日ごとの発見

今日は午前中、教会の礼拝に出て、夕方からmGとダンスのステージを見にいった。どちらも、この1週間を始めるにあたって、充分な滋養とエネルギーをもたらしてくれた。ダンスのことは明日の日記に書くことにし、今日は主日なので、礼拝のことを書いておこう。

今日の礼拝の説教の冒頭で、牧師がひとつの願いを語られた。
牧師は、日曜日の説教が、たとえ一言でも聞く人の心に残り、その人がその言葉を持って、1週間を過ごしてくれたとしたら、踊り出したいくらいにうれしいことだと言われた。

さて、わたしは日曜ごとに説教をいったいどのように聞き、また聖書をどのように読んでいるだろうか。その聖書の言葉なり、説教の言葉をそのまま、繰り返し思い出したり、反芻したりすることもあるが、わたしにとっては礼拝そのものが、ひとつの体験として、その時間を生きるというようなものだと感じている。讃美歌を歌う、祈る、聖書を読む、説教を聞く、そのひとつひとつは体験となってわたしに浸透するような気がする。食物が身体を維持するエネルギーとして体に浸透するように、礼拝は、魂の必要を満たすものとして、浸透する。だから、その日食べたもののことをその後思い出すこともないように、礼拝を終えて魂の糧をいただいた後は、すっかりとまた日常に戻って行くという具合だった。

しかし、今日は、その日いただいた言葉を1週間の間、反芻することの大切さにはっと気がつく。言葉を心に止め、その言葉の内にすっと立つということはきっと必要なのだ。そうでなければ、日常の出来事は様々で、そのひとつひとつには必ずしも関係がない。ちょうど、その時の気分のまま徒然と記されるこの日記のようだ。それらを統べる軸はない。

しかし、どうだろう。日曜日の聖書の言葉を、語られた説教を、そこから始まる1週間のテーマとしてそれを軸にするのは。決してそのことをテーマに書いていくというのではない。一つの言葉をあくまでも携えて生きてみるということ。


今日の聖書の箇所は、イエスがシモン・ペテロに、今から後あなたは人間をとる漁師になる といい、彼らがすべてを捨ててイエスに従ったというところだ。

説教の中で心に残ったところは、「イエスに従っていくということは、何も特別なことをするというのではない。神の前に生きる者として、昨日やったことを、今日もまたやるといこと。しかし真実に生きるということ、イエスと共に生きるということは、同じことを繰り返しやっているようで実はそうではない。いつも新しい決意がそこにあり、いつも新しい発見がある。自分は神の前で何と小さいものかということを知るのだが、その小ささと共に、恵みもまた知る。」というところだった。


この1週間、日ごとに新しく決意し、日ごとに新しい発見をしていきたいと思う。
実際、このようにして書く時、決意は新しく生まれ。また発見も起こるのである。わたしにとっては書くということが、イエスと共に歩むということであるかもしれないと思った。




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ルカ5章1〜11
◆漁師を弟子にする
5:1 イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。 5:2 イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。 5:3 そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。 5:4 話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。 5:5 シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。 5:6 そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。 5:7 そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。 5:8 これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。 5:9 とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。 5:10 シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」 5:11 そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。





                    


2004年01月24日(土) がんばりモード前夜

木曜日に、えいやっ!とばかり、本の構成案と、選んだ原稿を編集部に送りました。送って、数週間ぶりに晴れ晴れとしたのもつかの間、「こんな原稿じゃ、本にできません」という答えが返ってくるのではないかしらと、夕方近くからだんだん不安が募ってきていたのですが、夜のジムから戻ってくると、なんとも励ましに満ちた編集のSさんからのメールにほっと胸をなでおろし、よおし、本格的なリライトにとりかかるぞ〜と新たな決意が起こってきたことでした。

それにしても編集する方の視点って確かだなと思いました。原稿を選びながら、どこか自分でも不安というか、しっくりこないところがあったのですが、
その理由が見えてきました。なにしろ、この3年間に書いてきた日記風のエッセイですから、いくらひとつのテーマに沿って選んでも、それぞれのエッセイを結ぶ軸がはっきりしていないのです。日記であれば徒然なるままでもいいのでしょうか、エッセイとしてひとつの本まとめるためにはしっかりした構成と、それぞれのエッセイを貫く軸がくっきりしていることが必要だということを改めて感じました。

リライトをする上での貴重なアドバイスをいただき、選んだエッセイを種に、もう一度、わたしの今という時間の中で、ひとつのはっきりした軸の元に再構成させていこうと新たな目標ができました。


土日と、全国教研集会の参加のために義姉が上京していて、我が家に泊まるので、この週末は義姉と、楽しい時を過ごすことにして、来週から、ねじり鉢巻
(なんだか古過ぎますね、このいいまわし)で原稿書きに集中するつもりです。

そういえば、去年の今頃はミュージカルの追い込みで、「鬼のようにがんばる」と宣言した我が家の受験生の向こうを張って、がんばりモードに突入したのでした。

幸いなことに今年のわたしは我が子も、また生徒にも受験生を抱えていない!
自分のことのみに専念できるということが何とも有り難いです。




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2004年01月23日(金) それぞれのエロティシズム

今日は午前中いっぱい掃除や家事をし、午後は久し振りにピアノを弾いた。
といっても教会学校の新しい歌や奏楽曲をピアノで弾いたというだけで、
、ピアノの楽曲の譜面を弾いたわけではないのだが。

昔弾いていた大中寅二さんの奏楽曲を弾いたら、昔通っていた教会の礼拝堂の様子がふっと浮かんできた。素朴でやさしく、西洋のオルガン曲にはない世界があるなと思う。

ずっと父のことや家族のことばかり書いていて、すっかり娘や母親のモードになってしまっていたから、今日は全然別のものを書きたくて、ゴザンスの「ことばあそび」はエロティックな詩にした。(ここで読めます空の鳥と野の花と

エロティシズムって、男と女とではずいぶん違うなと男性の書いたものを読んで思うのだが、女性作家のものを読んでも、やはり何かしっくりこない。きっとわたし固有のそれがあるのだろうが、その表現を試みたことや、掘り下げたことはないなあ。

わたしの場合、究極のエロティシズムはプラトニックな領域の中にあるという気がしている。何を持ってプラトニックというか、それが問題だけれど、プラトンがいう、駆け引きとか世俗的な繋がりとかと無縁な恋愛関係。しかし彼は女性ははなからその領域には入れず、男性同士の間に生じる愛情に限定しているが、女をのけものにしているのがなんともしゃくだ。




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2004年01月22日(木) 気合入れて書いた日

今日、明日と仕事がない。仕事のある日は、いくら夜遅くまで起きていたとしても、原稿にかけられる時間は2時間か、いいところ3時間。しかし、そのくらいの時間ではどうしたって納得のいくところまで掘り下げることができずに不安ばかりが募ってくる。そこで、今日、明日でなんとか形にしようと目標を定めていたのだった。


家事を一通り済ませてPCの前に座ったのが午前10時、まず瞑想のために、
このクリスマスからずっと読んでいるPURPOSE DRIVENを一章を声に出して読む。今のように差し迫った課題を抱えている時、こういうスピリチュアルな書物というのは、実によく浸透する。のほほんとしている時なら読み過ごしたであろう言葉に胸が詰まり涙がこぼれたりする。

こう、エモーショナルになることがいいことなのかどうかは分からないが、わたしは書く時には自分の底の部分から汲み上げて書くので、それを汲み上げるためにはどうしてもスピリチュアルでなくてはならない。

本のことが始まってからずっと祈ってはきたが、今日は具体的なことを挙げて、声に出して祈った。

闘病日誌をエンピツで書いているfunnyさんが、「わたしを使ってください」と書いてあったが、同じ気持ちなのだ。わたしが書くものが単なる消耗ではなく、用いられたいと思う。わたしが伝えたいことは、このいただいた命と時間への感謝だから、そのことが伝わってほしいと。

祈りが聞かれたのだと思う。10時間くらいの作業の後で、提出する第一稿は
もうこれでいいと、自分で納得がいった。それができないで苦しい思いをしていたから、原稿を送ってしまうと、ほんとうに気が楽になって、アイオナ共同体のビデオを見ながら、たまっていたアイロンかけをすることもできたのだった。

きっと編集からはいろいろなサゼッションが来ることだろうし、全面的に書き直すつもりだってある。それはそれとして、ひとまず、原稿を外に出して、一歩前へ進むことができてよかったと思う。

さて、そうなると明日が空いた。週末に九州から義理の姉が来るから、その準備も余裕でできる。本を読もうか。ゴザンスの新しい課題に取り組もうか、
とにかく今日は早く寝よう。
と、いってももう12時20分だが。




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2004年01月21日(水) ビールを飲みながらスピリチャルな話に花を咲かせる女3人の図

1日のもろもろを終えて、家に帰り、パソコンの前に座る。
今日のどの場面も、心が動き、満ちていたが、ここにこうして座ると、やはり言葉が指の先から流れ出すこの時を至福だと感じる。

今日はちょっとおもしろい日だったかもしれない。このところ、家に篭って1日中PCに向かっているというような日だったが、今日は1日いろんなことがあった。

まず、保育所でのお母さんと幼児の英語クラス。その後、クラスにいらしているお母さんから、今度はわたしがバイオリンのレッスンを受ける。彼女はプロのバイオリンニストだ。ヘンデルの2重奏の小品を3曲弾く。とても易しい曲なのだが、やっぱりヘンデル。二重奏で弾くととても気持ちがいい。この一月はほとんど練習らしい練習もしないままだったが、それでも弾かないよりはいいに違いない。

今日は夫が腰を痛めて仕事を休んでいたので、お昼にはお蕎麦をたくさん茹でていっしょに食べる。そしてわたしは英語学校の仕事。ここでも歌ったり踊ったり、読み聞かせをしたり。

7時から、聖書の勉強会をしているグループの新年会。残念ながらリーダーのTは身体の具合が悪くてこれなかったが、残りの3人で飲みながら、食べながらおおいに盛り上がる。ビールを飲みながら話す話が聖書のことや、スピリチャルライフのことというのも、傍から見れば、ヘンなのだろうが、日常の中にいて、そういう話に飢えている我々としてはかなり満たされる。気がつかないうちに3時間以上も話込んでいた。

わたしたちのやってる聖書の勉強会も、聖書そのものの勉強というよりは、考えていることや、疑問に思っていることをぶつけあたり、考えあったりする。
話は聖書のことに限らず、家庭での問題、職場でのこと、読んだ本などのこと
と様々。話はいつもぐんぐんと深くなっていく。話しながら考えがまとまったり、発見があったりするからおもしろい。いい仲間だと思う。




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2004年01月19日(月) ウインターコスモスが咲く冬の庭

まだ冬が始まっていなくて、
ピンクや白いコスモスも庭のあちこちで見かけていた時期に
ウインターコスモスという花の苗を3株買いました。

この秋はコスモスを植えそびれ、少し残念に思っていましたから
これから冬の間に咲くらしい、コスモスをうれしい気持ちで買ったのです。

苗といっても、もう1メートルくらいの高さにひよろっと茎が伸びていて、
コスモスの花の姿によく似た、けれども大きさはコスモスの半分ほどの花が
ぽつぽつとついていました。

色はしろっぽい黄色といったところでしょうか、
けっして華やかさはないのですが、いかにも冬の寒さの中でも生きぬけるといった強さを感じました。
そうですね、ハーブや雑草などにある、野性味のようなものが、この花にはあります。

今朝も庭に出てみると、ウインターコスモスは黄色い花を健気に咲かせていました。薄紫のビオラとスイートアリッサムの白い小花といっしょに寄せ植えにしているのですが、
この寒さの中で、ビオラもアリッサムも花をつけています。

今年の冬は例年よりも植物が元気な気がします。ほとんどのハーブが葉をつけていますし、アリストロメリアは青々としています。ムスカリなどはもう土の中から紫色の花を覗かせています。

この冬の庭をイメージして植えた、紫とグレーの花キャベツと銀色の葉のシロタエ菊やレースのようなしろっぽい葉っぱの寄せ植えは、思い通りに渋く、シックな感じて整ってきました。

アイスバーグという白い薔薇も小さい蕾を2つつけています。
真冬に咲く、白い薔薇は素敵でしょうね。
楽しみです。

昨日は、日記を書き終えてしばらくすると、小糠雨がボタン雪に変わって、
わたしは家事に取り掛かるのをやめてしばし、雪を眺めていました。
それで、いくつかのサイトにおじゃまして、雪ですね、なんて書きこみを
したのでした。
雪が降り始める時って、なにかわくわくしませんか、
気持ちが急に華やいで、どこか別の世界へ誘われるような気持ちになります。

けれども、雪はすぐにまた雨になり、午後には太陽まで出てきましたからね。
ちょっと裏切られて気持ちでした。


昨日も本のことをいろいろ考えたり、原稿を並び替えたり、書き直したり、書き加えたりという作業をしていました。その作業の中で、どのくらいのボリュームで、どのくらいの値段で、どういう方々に読んでもらいたいか、少しづつ本の姿がはっきりしてきています。

本のコストを抑えるためにも、また散漫な感じにならないためにも、ページ数は100ページくらいと少なくし、ネットのみの販売にしようと思います。

そうするとISBNコードはつきませんが、書店などにおかれて特定多数の方に読まれる本ではなく、ここに日記を読みに来て下さる方々や、友人、知人を想定しての本ですから、それでよいと思いました。価格も1000円か、そこいらにできたらと思います。

本の形がはっきりしたら、HPにでも予約掲示板を設けようと思いますので、その時はよろしくお願いします。
まだ、形にもならないうちに、こうやって書いておくのは、公言することで、
前に進もうとしているわけです。つまりお尻を敲いてるんですね。後には引けないように、ね。

さて、今朝は青空が広がっています。午後から夜にかけて英語学校の仕事です。では、良い1日を。

                 1月20日 朝





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2004年01月18日(日) 木の枝枝には水滴が

月曜日の朝
起きぬけにいつものテーブルの所定位置に座りPCを開きます。

そう、賢い主婦はこういうことはしません。
まず身づくろいを整え、洗濯機をまわし、掃除などもするのです。

そのつもりで起きてきましたが、
夫も出かけて静かな部屋で、外の木を見ていると
言葉が流れ出したいような気配が分かります。

枝枝には、光るガラスのつぶのように水滴がいくつもつき、
細い針のような小糠雨が
音も立てずに降っています。

あれほど、雪のアナウンスがあったのに、
この3日間とうとう雪は降りませんでした。
あの雪の華やかさは待ち通しくもありますが、
通勤とか、いろいろ不便ですものね。
でも九州は大雪だと、母から電話がありました。


さて、この静かな雨に合う音楽は何でしょうか…
今朝は何も音が欲しくない感じです。
さて、いつもの朝を、
そしてそれにつづく1日を始めることにしましょう。

家事、英語学校の報告書作成、クラスの準備、メールの返信
そのあたりで夕方のクラス。子ども達が5人やって来ます。
原稿に取り掛かるのは夜になるでしょう。
その合間に本も読んでビデオも一本はなんとか見たい
と、時間の算段をしています。




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2004年01月17日(土) 夏を越したミニシクラメン

パソコンを前に座り込みの日が続いています。

パソコンのすぐ脇に、ちょっとおもしろい形の陶器に植えた白いミニシクラメンがなんとも清楚にかわいらしく咲いています。

このミニシクラメンは、一昨年のクリスマスに買ったもの。友人たちのプレゼントにこのシクラメンと他の花の寄せ植えのバスケットを買った時、このシクラメンだけは自分用にも買ったのでした。

春になって花が終わったので、外に出し、特に手入れや管理するでもなく、適当に水をやっていただけなのですが、秋になると葉がでてきて、そのうち蕾がいくつも上がってきました。ここまで育つと、きっと花が咲くのです。

寒くなる頃、家の中に入れて、またほおっておきますと、クリスマスあたりに真っ白で花芯のあたりがピンク色の、それはかわいいシクラメンが咲きました。今12個の花が咲いています。

小さく、細いのですが、なんともエネルギーに満ちていて
そばから元気をもらえそうな感じです。

さて1時半、明日は教会学校。早いです。
では、おやすみなさい。




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2004年01月16日(金) 夜更けに脈絡もなくいろいろと

もうじき、夜中の2時。
今日もPCの前でよくがんばりました。でもずっと座ったままでは身体によくないので、夕食後、夫といっしょにジムへ行き、ボディーアタックを30分だけやってサウナに入ってきました。短い割りには結構な運動量で汗もかきました。サウナの中で腹筋もやりましたしね。

昨日は自分のことばに食傷したなんて書きましたが、人間って順応するものですね。じいっと自分の書いたものと向き合うことになんだか慣れてきました。
今日は作業が進み、ひととおり原稿を選び終え、構成のおおまかな輪郭ができ、本のイメージがはっきりしてきました。そこでようやく焦燥感から解放されています。

次の作業は選んだ原稿を、テーマにきちんと合うように、フィットさせてゆくことです。というのも小説のようにひとつの流れでもって書いたものではなく、時間も、モードも、それぞれ違っているからです。エッセイ集の場合は、その時間やモードが均一でないことのおもしろさも確かにあるでしょうが、
それぞれの文の間にハーモニーがなければ、読む人は不協和音に疲れてしまう
ことになるでしょう。

いつだったかゴザンスのテーマで「ネットで綴る心意気」という文章を書きましたが、それはこういう日記のように、即興でさくさく書いてそのまま読者の前にアップするネットライティングの心地よさみたいなことを書きたかったわけですが、本を作る作業は、それとは正反対で、職人のように、コツコツ作業を進めて行くことのようですね。

そういえば、今朝の新聞に直木賞を受賞された京極夏彦さんが書いてらっしゃいました。「・・・職人魂というものを大切に書き続けたいと」
ところで、今日初めて、この作家の風貌を新聞の写真で見て驚きました。
実は電車で行きあったことがあるのです。わたしの向かいに、なんとも不思議な和服の男性がいて、どう見ても、伝統的ないわゆる和服じゃあなくて、何か芝居じみた和風なのです。へえ〜、この頃はこういうコスプレもあるんだと思ったことでした。でもひょっとすると京極さんご本人じゃあなくて、その格好を真似た人だったかもしれません。あまり顔、よく見ませんでしたから。

ところで、今日の芥川賞のニュースは驚きました。21歳の息子と朝ご飯食べながら、ほんとに若くて今風の新人女性作家たちの写真を眺めていました。
息子はわたしなどのショックよりも大きいようでした。だってね、自分より年下の子たちが数あまたいる作家たちの中から選ばれ、スポットライトを浴びているわけですからね。

彼女たちの作品はまだ読んではいませんが、きっとこの年齢の人にしか書けないことが書かれてあり、他の世代にはできない表現がなされているのだろうなと思います。こういう力ある若者の存在は、きっと同じ世代や、後に続く世代に大きな刺激をもたらすでしょうね。

金原ひとみさんの作品は読んだことはありませんが、彼女のお父さんの
金原瑞人さんは、翻訳者として馴染みがあり、ヤングアダルト向けの文学書をすばらしい感覚で翻訳されていて、ロバート・ウェストールの「かかし」を読んだ時にはその翻訳に衝撃を覚えました。児童文学の翻訳書はあっても、まだヤングアダルトという分野の文学が日本には定着していなかったので、その分野の紹介や普及に尽力されていたと記憶しています。そういう意味では、お父さんの仕事を娘がさらに広げたということになるのでしょうか。

今回の芥川賞がきっかけとなって、日本のヤングアダルトの分野がさらに充実していくようで、楽しみです。




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2004年01月15日(木) 日がな一日PCの前にいた木曜日

今日木曜日はジムへも行かず、ほんとうに朝から夕方まで、ずっと座りっぱなしでパソコンの前に座っていました。

今日は父のことについて書いたエッセイのリライトがまず、終わりました。
書く作業は何にしろ好きです。疲れることもありません。ここまではよかったのです。

ところが、その他に何をどのようにまとめていくか構成を考えながら、今までに書いたものをすべて読んでいくという作業をしました。これがなかなかしんどいのですね。何というか自分のことばに食傷してしまう感じなのです。

また過去に書いたものというのは、どうしても「今」の気分とは微妙にずれています。そのずれにまた疲れてしまうのかもしれません。本を作るとはこういうことだったのか、ああ、ほんとに初心者なのだとつくづく思います。

わたしにとって読むという作業は、自分のものではないエネルギーを取り込む作業です。自分と限りなく近い世界であっても、自分の持ち物ではないから、そこにおいしい水をごくごくと飲むような気持ちよさがあるのです。ところが、本をまとめるという作業は、なにしろ自分の書いたものを読まなければなりません。それもざっとではなく、丁寧に。
疲れます・・・


ちょっと気分をリフレッシュしなければと、他の方のサイトへ行って、自分のものではない新鮮な言葉をごくごく飲んだりしたのです。
おいしかった・・・
そして自分のものではないことばに、ああいうのがいいなあ・・・などと間違ったうらやみを持ちます。
そう、それは間違っているのです。好きでも嫌いでも、自分の持ち物で表現しなくてはならないのですから、どれほど真実に自分かということが問われるわけですから。

人のことばにリフレッシュされる・・・
と、いうことは、わたしが食傷してしまう自分のことばも、わたしではない人にとっては時においしいこともあるのでしょう。
そう考えれば、この作業にもやる意味が見出せるというものです。

それにしてもこれは、自分に向かいあう貴重なトレーニングですね。
いつかわたしは鏡が好きだったなんて書いたこと、ありましたけれど、
あれは間違いかもしれません。自分の姿をじいっと見るなんて脂汗もんです。
自分の言葉って姿形よりも自分を写していますからね。鏡のようなもんです。

ちょっとマイナーなトーンですね。たまにはいいですよね。いつも元気よすぎる傾向がありますから。

さて、久し振りに自宅のお風呂に浸かりながら、好きな佐野洋子のエッセイを読むことにしましょう。

そうそう、昨日、満員電車の中で佐野洋子のエッセイ、もう何度も読んでいる
「がんばりません」を読んでいて、またまた激しく吹き出しそうになってしまい、笑わないでいるのがたいそう苦しかったです。3回目だから大丈夫だろうと思って読み始めたのですが、やっぱしだめでした。
あのくらいおもしろい文章書く佐野さんだって、きっと自分の書いたものには食傷するんだろうな。




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2004年01月14日(水) 本づくり、事始

数日前の日記に、今年の抱負は本をまとめることと、書きましたが、そのことを少し具体的に書こうと思います。そうすることで、今のわたしの気持ちをはっきりさせて、どこへ向かって、誰に手渡すための本なのかということを確認していきたいと思うからです。

昨年の10月末に、ネットライターのサイト「ゴザンス」のことを知り、投稿を始めました。まずは書くトレーニングのつもりで、すべての課題に挑戦しようと思ったのです。それ事体、充分おもしろく、日記とはまた違った視点で書けるようになりました。その課題とは別にすでに「父の12ヶ月」というタイトルで書いた父の思い出に関するエッセイを月にひとつづつ、リライトして投稿してきました。そして、12ヶ月分のリライトが完成したら、それを冊子にでもまとめて、父のことを知っている人に差し上げようと思っていたのです。

今年の暮れ、アルツハイマーの症状が進んだ父を病院に訪ねた時、父が生きている間にその冊子をまとめたいと強く思いました。もちろん、父はもう字など読めませんし、読んで聞かせたところで、何も分かりはしないのです。それでも、冊子をできれば、本の形で父のところへ持っていきたいと思ったのでした。

そんなことをぼんやり考えていた年明けの2日、母の姉である伯母夫婦を訪ね、伯父や伯母と話をしている時に、父が伯父に、退職したら、これまで生きてきたことを自叙伝にまとめたいと話していたということを聞きました。いったい父が書き残したいと思ったことがどういうことなのかは、もう知るすべもありません。父は記憶障害が出はじめて、ようやく昔の話をぽつりぽつり話すようになったくらいで、元気な時には、昔話など少しもしなかったのです。

父が書こうとしたことは、きっと外地で育った子ども時代や、予科練にいた時のこと、また引き揚げ時や終戦直後の混乱、そして新しい仕事を見つけるに至ったあたりのことではないかと思います。けれど、残念ながらわたしはその頃の父のことは何も知りません。

わたしが記録に残せるとしたら、子どもとしてかかわった父親の側面だけです。父は自分の人生の中で、父としての日常など特筆すべきものなどないと思うかもしれません。けれど、その中で人間として育っていった者にとっては、それこそが特筆すべきことなわけです。

そういういきさつもあって、今年のうちに父親のことについて書いたものを本にまとめたいと、年明け早々、ゴザンスの「100人の本の企画」に応募しました。編集部の返事は、父のエッセイの投稿が終わったところで本にすることを持ちかけてみるつもりだったということで、わたしの応募を快く受け入れてくださり、本づくりがスタートしたというわけです。

さて、当面の課題は本の構成です。父のエッセイだけでは30ページから40ページにしかなりませんから、本の体裁を考えると90ページ分は別のものを加える必要があります。今まで書いたものを広げながら、何を中心にしてまとめるか、ああでもない、こうでもないと試行錯誤しているところです。

原稿を揃える今月末までは、他の活動を一時停止にして、このことに集中する必要がありそうです。ジムに行かずに体重が増えるのがちょっと怖いですけれどね。とにかく明日、明後日は構成を考えます。




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2004年01月12日(月) テゼ共同体の祈りの歌が流れる朝

もう13日の朝なのですが、夕べは日記を書かないまま寝てしまったので、今書いています。マキさんから送っていただいた、たくさんのCDやビデオの中から今朝はテゼ共同体のCD「テゼの音楽と祈り」を聴いています。深い部分に浸透していくような音楽、また、それは、広がってゆくような明るさに満ちています。そう、光りのよう・・・

テゼ共同体というのは、フランスの田舎にある、越教派のコミュニティーで、そこからたくさんの祈りの歌が生まれ、世界中に届けられています。もともと第二次世界大戦のさ中、25歳のブラザー・ロジェが和解を祈って、東部のほとんど人がいない村にホームを作ったのがこの共同体の始まりです。

わたしがテゼに出会ったのはもう20年以上も前になります。フランスから一枚の絵葉書が届きました。それは、郷里を離れて同志社大学の神学部へ行った
後輩のT君からのものでした。大学を卒業した後、すぐに牧師にならずに、独りフランスへ渡り、そのテゼ共同体で暮らしているという便りでした。

その後、Tくんは牧師になり北海道の教会で働くようになりましたが、T牧師を通して、都内で行われているテゼの集まりを紹介をしてもらい、何度か四谷のイグナチオ教会で行われていたテゼの祈りの讃美の集いに参加しました。

今では、テゼの歌が教会学校のこどもさんびかにも入っていて、先週の教会学校ではグロリアという短いフレーズの讃美歌を輪唱にして歌ったりしたのです。

CDからは、その時、見知らぬ方々といっしょに歌った讃美歌も入っていて、その時に覚えた深い感動が甦ってきます。ブラザーの指揮で、とても単純な旋律を繰り返し歌うだけなのに、歌がずんずん変化していくのです。
あの時、そこにいる、ひとり、ひとりの祈りの歌がいくつもいくつも重なりあい、うねりあい、大きな祈りの渦のようなものが沸き起こっているような感覚を覚えました。


Confitemini Domino (主よ満たしてください)

♪主よ、わたしたちの心をあなたの平和で満たしてください、

♪主よ、あなただけが聖なるおかたです。

昨日はずっと書いていました。まず、父のことを書いたエッセイのリライトをしてしまおうと、はじめのものから順に手がけて行きました。その作業をすることで、ちょうど数年前父のことを1週間書き続けた時のように、父のことに気持ちがとどまります。祈りが生まれます。

本にするとなると、なんだか、あまりに自分の書いているものが頼りなく、自信のなさに気持ちが沈みがちになるのですが、もともと祈りからはじまったこの日記、祈りの中で、この仕事を続けていきたいと思います。今は見えない方向も、きっと与えられることでしょう。




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2004年01月11日(日) 道連れかライバルか

ちょっと、ここんとこなんかおかしな具合なんですよね。連れ合いが・・・
いえ、浮気とか、そんなんじゃないんですけど・・・

あたしが、夕食時にワインをしこたま飲んで、ストーブの前でブランケットに包まって転寝しておりますと、隣でカチャカチャやっていた連れ合いが、えらい活力に満ちた声で「書いたよ、書いたよ、日記、おもしろいから読んで!」
と起こすのです。「起きるから炭酸買ってきて」と寝ぼけ眼で言うと、ものの一分もしないうちに彼はコークをゲットし(家のまん前に自販機があるもんで)それをえさに、あたしを起こしてテーブルの前に置いてあるあたしのノートパソの前に座らせました。

冷たいコークをまずゴクゴク飲んで、やおらmGの日記を読んで笑い、ようやく本格的に目が覚めました。よかった。これで書ける。今夜はというか、今後は書くことが山のようにあるのです。転寝などしている場合ではないのです。

それにしても、やっぱりおかしな具合です。今まで、酒飲んでひっくり返ってるのは連れ合いの方で、それを横目にこれ幸いにと、書きまくり、書けるやいなや、「読んで読んで」と、たたき起こしていたのはあたしではなかったでしょうか。全く、これでは立場が逆です。

しかし、Web日記って、ハマる人はハマるもんなんですね。
ま、道連れができたというか、ライバルができたというか、悪いことではないでしょう。

さてさて、書こう。




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2004年01月09日(金) 新年の抱負、今ごろになって

そういえば、まだ日記に「新年の抱負」を書いていませんでした。
心の中にはあったのです。ちゃんと元旦の朝に。
けれども、それを公にしなかったのは去年のことがあるからです。
覚えていらっしゃる方は、あれはいったいどうなったのかしら?
と不審に思われたことでしょう。

去年はまだ新しい年が来る前に、「来年はホノルルマラソンに出る!」
なんていう抱負を掲げたのでした。

実現しませんでした。時間とお金という問題の他に、そこに向けての日々の努力が続きませんでした。
あれが、もし、早い時期から、参加の申し込みをしていたら、すべてはそこに向けて動いていったに違いありません。

去年は4月6日にミュージカルのステージの本番がドーンと控えていたから、
次男の大学受験やその後の寮への引越しなどと重なっていても、すべてのエネルギーをステージへと傾けて、なんとか大役を果たすことも可能だったわけです。

やれたらやろうというスタンスではなく、始めにやると決めて、もう逃げられない状況の中で自分をそこに追い込んでいくのでなければ、自分の実力以上のことには挑戦できないものです。

そこで、新年の抱負

<今まで書いたものを本にまとめること。>

今日、迷ったすえに、えいやっ!と一歩を踏み出しました。
その時点では、その一歩が果たして前進へと繋がる一歩なのか、少しも分からなかったのですが、ほどなく、進めそうだということが分かりました。というわけで、今日から今年の抱負に向かって歩き始めたことになります。
このことについては後ほど、はっきり書きます。

ああ、産みの苦しみは充分予想がつきます。でも去年のミュージカルのステージのことを考えれば、私一人の作業で事が進むのですから、ひたすら篭って
書いていけばいいのですから、やってやれないことはないでしょう。後は時間の確保と、集中力を持続させること。
鍛えた体にも、ここで成果を発揮してもらって、ひとつがんばります。

さて、もう深夜の2時、明日がんばるためには、もう寝なくては。
おやすみなさい。




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2004年01月08日(木) 日記のカウンター、あと10ほどで5万回です。

この日記の右上にあるカウンターがあと10カウントで5万に達します。
今この日記を開いてくださった方、もし5万回目でしたら、どうぞ、掲示板か、メールでお知らせください。その前後の方もぜひ。何か記念のものを差し上げたいと思います。


この日記を、はじめから三日坊主覚悟で付けはじめてから、この春で3年になります。何でもすぐに熱が冷めてしまうわたしにとって、これはとても稀なことです。そうして、3年も経てば、もうこれはわたしの習慣といってもいいのかもしれません。石の上にも三年。冷たい石もおしりの熱で少し温まってきたということでしょうか、このウォーミングアップの時期から、今年はもっと集中して書いていけるような予感もしています。

昨日、この日記を続けて読んでくださっているFさんから、久し振りにメールをいただきました。ちょうど、3年前の元旦の朝、掲示板に、毎日日記を読んでくださっているということを励ましの言葉とともに書き込んでくださった方です

北海道という、まだ行ったことのない土地、母の世代に近い方が、わたしの綴るものに、共感を覚えて読んでくださっているということは、大きな驚きでしたし、Fさんを通して、この日記の向こうにいらっしゃる見えない読者の存在を強く感じたことでした。


Fさんは「3年という年月がたりたさんにもたらし続けたものを陰ながら共有出来たことを感謝しています。」と書いてくださいましたが、3年もの間、共有し続けてくださったということの前に深い感謝を覚えます。そしてこの日記を通して、Fさんのように、日々ここを訪れ、わたしにもたらし続けたものを共有してくださっているお一人、お一人に心から感謝します。


「あなたの日記から発光するもの、ますます輝きをましてきました。」

書くものにとって、こんなうれしい言葉はないのですが、もし、そうだとするならば、それは読み手から送られてくる共感とかエールとかのエネルギーによるのだろうと思ったのです。Fさんのおっしゃる「声なき声で応答しているものの存在」から送られてくる光を受けて、発光することができるのだろうと。


こうした無言の交感の中に、思いもかけないエネルギーが潜んでいることを思います。祈りが強く人を支え、世の中を変えていくように、書き手と読み手の交感がさらに新しいステージを開いていくのかもしれません。

新しい年もどうぞよろしくお願い致します。


2004年01月07日(水) 成人式を迎えるMちゃんと食事をする

今日は仕事の後、大宮駅で、従兄の娘のMちゃんと待ち合わせていた。この前彼女に会ったのは、高校3年の時の文化祭に行った時だったから、あれからもう2年、会っていなかった。

お正月に伯母を訪ねた時に、Mちゃんが今年成人式を迎えるということを聞き、そうだった、何かお祝いをしようと、電話で約束を取り付けたのだった。

我が家には娘がいないから、どうしても息子を基準に考えてしまうのだが、
20歳やそこらの若い子が親戚のおばさんからいっしょにご飯食べようなんて言われても、迷惑千万、ありがためいわくもいいところなんじゃないかと、声をかけそびれてきたのだった。

待ち合わせの場所にいたMちゃんは少し大人びているものの、赤ちゃんの頃から知っている馴染みのMちゃんには変りがなかった。いっしょに本屋へ行き、お祝いに画集を選び、その後、食事をしながらいろいろ話したが、とても楽しい気分だった。その後のお茶には仕事帰りの夫も合流して、服飾デザインの勉強をしているMちゃんの作った服の写真やファッション画などを見せてもらいながら話したことだった。

夫はMちゃんのファッション画を見ているうちに、何かインスピレーションがわいたらしく、HPへ載せる許可を取り付け、さっそく短い文章とともにアップしていた。

Mちゃんの母親は10年前、ちょうど今の私の年、癌のため他界した。若い頃はオートクチュールの服を作るデザイナーで、病床では亡くなる直前まで、色鉛筆で風景画を描いていた。わたしが主婦なりたての頃、一度彼女からシャツの仕立て方の手ほどきを受けたことがあった。

Mちゃんは、彼女の母親がやりたかったことを受け継ぐようにして、取り組んでいるのだと思った。母親は側にいなくても、ずっと母親の力に励まされてきたに違いない。彼女の卒業制作展にはぜひ行きたいと思う。


2004年01月06日(火) 高橋たか子 第45回毎日芸術賞受賞

高橋たか子氏が第45回毎日芸術賞を受賞されたことを、今頃になって、1月1日の新聞で知りました。決して自慢にはなりませんが、また高橋氏の真似をしているという訳でもないのですが、わたしはほとんど新聞を読まないのです。
けれども、昨日、新聞の整理をしながら、元旦の新聞くらいには目を通しておこうと思って開いたところに、大きくこの記事が出ていて、高橋氏の顔写真もあったので、わたしは急ぎ、その記事を切り抜いたのでした。

そういえば、一昨年前、高橋氏の執筆する「いつもそばに本が」という記事が毎日新聞の日曜版に3回に渡って連載されたのですが、この時も、めったに開かない新聞をふっと手に取った時に、その記事を見つけ、あわてて切り抜き、その後2回はこの記事を読みたくて、日曜版が待たれました。

とにかく高橋氏の著作や記事の出会いはいつも、こういう「導き」のようなものに促されています。出版されている氏の著作56冊のうち、数えてみると45冊の本を読んでいました。そしてその多くと、そんな出会い方をしているのです。ちょうど、その人を訪ねることもしなかったのに、ばったりと出会ったというように。

今回の受賞の対象になったのは氏の最新の長編小説「きれいな人」なのですが、この本のことをまだ知らないうちに、ネット仲間のSが、高橋の新しい小説が群像の3月号に出ていると教えてくれました。そこで、次に図書館へ行った時に保管してあるバックナンバーを探して読んだのでした。

はじめこの小説を読んだ時にはこれまでの彼女の小説のように、ぐいぐいその世界の中に引きこまれていくような吸引力を感じられず、途中で読むのを止めました。その時思ったのは、この小説は次にどうなるのか、話の筋でひっぱっていくような小説ではなく、これを読むためには、読む側の心の状態が問われるということでした。先を急がずに、ずっとひとつところにとどまりながら試作しつつ読むには、その時のわたしは、あまりに様々なことを抱えていたので、今は読めない、読める時期を待とうと思ったのです。

それからしばらくたって、9月頃だったでしょうか、これも数ヶ月振りで行った図書館でふと目に止まったのが単行本になったばかりの「きれいな人」でした。いったん買ってしまうと、いつでも読めると思って後回しになってしまうからと、あえて図書館で借り、2ヶ月あまり、何度も図書館で借り換えをしながら読んだのでした。

以前の高橋氏の作品は1日で、少なくとも数日で読み終えていたので、今回はほんとに長くかかってしまいました。今日は読めそうな気分だという時にだけ開き、しかも1日にわずかなページを味わい、味わい、読むといった具合に読んでいったからです。ですから読み終えた後はほんとに長い旅を終えたような気持ちでした。

それでもまだこの本を、ほんとうには読んでいないということは分かっています。ここはよく分からないから、後で戻って読もうとさっと流し読みして、次にすすんだ部分もあるのです。これから本を買って、またはじめから少しづつ読んでいくつもりです。もし、書評や感想のようなものを書くことができるとしたら、それからですね。さて、わたしはこの作品を読み取ることができるでしょうか。きっと何年もかけて読むことになるのでしょう。きっと、わたしが彼女の年齢くらいにならなければ、見えてこないこともたくさんあるのでしょう。

この本の冒頭で、「私」はマダム・ヴィトラックの100歳の誕生日祝いに、彼女のフランスの住まいへかけつけるのですが、そのパーティーの席でその老女の書き綴った自家製の詩集が配られます。その詩を、マダム・ヴィトラックがまだ子どもだった頃のものから順に読みつつ、それと平行して、マダム・ヴィトラックの幼馴染、98歳のイヴォンヌから、何日にもわたって彼女の生きてきた道筋を、彼女自身の物語を聞くのです。そしてその話の中では二つの大戦に翻弄されて、記憶を失ったミッシェルという青年の魂の旅が、また語られます。3人の生きてきた長い年月が、深い想いとともにそこに横たわっているのです。

それにしても、高橋たか子氏が優れた芸術作品に与えられるこの賞を受賞したことがとてもうれしいです。キリスト教徒が人口の1パーセントにも満たないこの国で、彼女はカトリック信者としての立場で、神への応答という形での作品を書き続けています。決して万人受けする作品ではないし、どの作品も強烈なまでに、彼女の個性に貫かれていて、読者におもねるようなものではありません。いわゆるエンターテイメントの対極にあるような作品ばかりです。ですから、高橋ファンとしては、そういう作品が公の場所で芸術作品として評価され、より多くの人たちから知られるようになることがほんとにうれしいのです。

今年71歳になる高橋氏、その顔つきが年とともに、ますます「きれい」になっていくように、彼女の作品も、きっともっと、もっと「きれい」になっていくことをわたしは疑いません。彼女の作品を読み続けるということは、そのまま一人の作家の魂の成長を見守ってゆくことだと思っています。ほんとうのものと共にある魂を。


2004年01月05日(月) 次男、風邪をひいて、九州の旅から戻ってくる

暮れの26日から、鹿児島、宮崎、大分と旅していた次男のMが戻ってきました。旅とはいっても、初日の鹿児島以外は夫とわたしの実家を訪ねただけなのですけどね。

計画では羽田から直接大学の寮に戻ることになっていたのですが、風邪をひいて昨日から熱が下がらないので、そのまま我が家に戻ってきたのです。確かに熱は38度以上あるのですが、一人で羽田から2時間かけて帰ってきて、帰ってくるなり用意していた夕食をペロリと平らげるあたり、やはり運動で鍛えた体です。風邪薬を飲んで早めに寝ました。

そういうわけで、まだMからは詳しい話は聞いていませんが、小学校1年生と2年生の従弟たちが可愛いと思ったこと、彼らがMのいくところへどこにでもくっついてきて四六時中いっしょに過ごしたことなどは話してくれました。

この従弟たちに、Mは何と初めて会ったのです。わたしの弟の子どもたちなのですが、弟夫婦が結婚したばかりの時に会ったきりで、その時Mはまだ小学校3年生でした。今回、駅に迎えに行った弟はMのことが分からずに困ったようでした。弟のお嫁さんからは「Mちゃん、あんなにかわいかったのに」とずいぶん残念がられたようです。
子どもは、とりわけ男の子は変ります。あともう1,2回、脱皮を遂げるのでしょう。

弟夫婦は、今は可愛らしい我が子たちも後6年もすればこんな風になるのかと、思ったにちがいありません。そして、今のうちに子育てを楽しんでおこうと思ったのではないかしら。あるいは、今はこんなに大変でも、あと6年もすれば、これほどたのもしくなるのかと希望を持ったのかもしれません。

実際、長男には早く大きくなれという気持ちで育てたものの、次男はいつまでも小さいままでいてほしいなどと身勝手に思ったりしたものです。

明日には熱が下がっていれば良いのですが。


今日は他にも書きたいテーマがあったのですが、母まるだしの日記になってしまいました。悪しからず。


2004年01月04日(日) 星を頼りに旅する3人の博士たち

今日は新年初めての日曜日。教会暦では顕現主日。顕現日(エピファニー)は6日らしいが、教会ではこの日、エピファニーを祝う。これは言わば、もう一つのクリスマス。

東方の占星術の学者達3人が不思議な星を頼りに、はるばる旅してベツレヘムまでやってきた。星が止まったところはベツレヘムの馬小屋の頭上。そこで3人の博士たちは、生まれたばかりのイエス・キリストを拝し、黄金、乳香、没薬を贈り物として捧げた。
と、聖書にあるこのことを祝うのが顕現日(エピファニー)


今日の礼拝では、アメリカ人のTといっしょに
Three Kings of Orient (東方の三人の博士)というクリスマスキャロルを英語と日本語とで歌った。ささやかな歌の捧げ物・・・


♪We three kings of Orient are,
Bearing gifts we traverse afar,
Field and fountain, morr and mountain,
Following yonder Star.
O, star of wonder, star of might,
Star with royal beauty bright,
Westward leading, still proceeding,
Guide us to the perfect light.


♪われらはきたりぬ はるけき国より
星にみちびかれ 野山こえて
あぁ、くしくかがやく 星の光りよ、
われらをみちびけ み子のみもとに


礼拝の説教では、顕現日の意義について語られ、とても興味深く、また励まされた。

「ただ何もすることなく眺めているのではなくて、3人の博士が星を追いかけて旅を進めてきたように、この人生の旅へ向かって歩き出しましょう。
どんなに小さなことでも、自分ができることを一生懸命にするということで、前へと進み出すことができます。旅を旅することができます・・・・」


わたしにとって、一生懸命にすることというのはなんだろうと考えていた。
子ども達に英語の言葉の世界を伝えること。教会学校の子ども達の霊的な成長にかかわること。主婦としての仕事。言葉で表現するということ。こうして、ネットを通じて、外に向かって発信していくこと。歌うこと、演奏すること、踊ること。それにしても、やっぱり項目が多すぎる。しかしどれもやるべきこと、やりたいこと。

せいぜいこれ以上はコンテンツを増やさないようにし、ひとつのことに極端に集中するあまり、他の大切なことがいい加減にならないように、自分を見張っていかなくてはならないだろう。

しかし、進む。どのことにおいても、そこで座り込まないで、たとえわずかでも前進していくこと。

今夜をもって正月気分もおしまい。明日は英語学校の最後の学期のための計画
や教材研究、保育所でのあそぼう会のプランと練習に集中することにしよう。


2004年01月02日(金) 5人で祝ったお正月の2日目

今日は、夫と車で都内へ出て、世田谷に住む伯母を訪ねました。

おせちと赤飯を持って行き、伯父、伯母、従兄とわたし達5人でお正月の二日目を祝いました。

伯母の煮たゼンマイの煮物がまるで母の作るものと同じ味だとわたしが言えば、従兄はわたしの作った筑前煮が、伯母の作るものと同じ味だと言います。

伯母は10歳年上の母の姉、同じ家で育ったのだから同じ味覚を持っているのでしょう。そうしてわたしもまた。
味って、やはり受け継がれるものなのですね、そういう話をしました。

夫もわたしも親戚付き合いのほとんどない核家族で育ったので、1年に2,3度のここの親戚との会話を新鮮に感じていて、伯父が繰り返し話す昔の苦労話も、それが何度目でも、それなりに楽しく聞いていたりするのです。
夫は「自分の親父だとこうはいかない」と言いますが、そういうものなのでしょう。
「フーテンの寅さん」の世界に入り込んだような気分だねと帰り道に話たことです。

「フーテンの寅さん」は二人とも好きで、すべて一度以上は見ているのですが、何が好きかと言って、最後のお正月の風景です。ちょっと淋しいさが混ざっているあの正月の賑わい・・・
実は「フーテンの寅さん」のよさを知ったのはアメリカで過ごしていた時でした。日本にしかないその空気とか気分に渇望していたのでしょうね。
1月2日には仕事も学校も始まるアメリカには、正月三が日の非日常がどこにもなく、正月を迎えないまま、新しい年が始まるようなそんな落ち着かなさを感じていましたから。


伯母の家を3時頃出ると、わたしたちはすぐ近くの駒沢公園を散歩しました。広い公園の頭上には寅さんのラストシーンの空のように、たくさんの凧が舞っていましたよ。

子ども達が小さかった頃は、わたしたちも正月の2日ともなれば、広い公園へ出かけて行って凧揚げをしたものですが、凧揚げを見るのは久し振りでした。

凧揚げの他にも、バトミントンや、ローラーブレイドをやっている人達がたくさんいました。何しろ、広い空間、わたしは踊りたくなって、ファンクやエアロビクスのステップをおさらいしました。
夫はエアロビは初心者で、まだ手と足の動きがうまくつながらないようなので、わたしが稽古をつけてあげました。次のクラスではうまくゆくはずです。

さすがに踊っているのは我々くらいで、近くのベンチに座っている人達が、気になる様子でちらりちらりとこっちを見てはいましたけれど、平気です。お正月ですもの。

でも、このくらいのステップを踏んだくらいではとっても運動量が足りません。それに加えて、ここ3日間、過食気味。体重は2キロは増えている感じです。
明日はなんとしてもジムに行かなければ・・・

それでは、この辺で。
明日も楽しいお正月の3日目になりますよう。


2004年01月01日(木) 二人きりの新春のテーブル

大晦日の団欒と元旦の朝のテーブルは夫とわたしの2人だけだった。
次男は九州、長男は友達や彼女とカウントダウンパーティー。

思い返せば、2人だけの元旦というのは初めてのことだ。
結婚したばかりの年は弟が大晦日から泊まりに来てたし、翌年は赤ん坊が一人、その2年後にはもう一人加わり。それ以降は少なくとも4人で新年のテーブルを囲んでいたから。

それでも、いつものように正月のテーブルセッティングをすると気分も改まって、けっこう優雅な新春のテーブルになった。今年はお試しにデニーズのおせち2段重ねを注文していたので、なかなか華やかだった。味もまあまあ。どこそこのホテルの高級おせちなんて食べたことないから味の比較はできないが、わたしの作るものよりやや劣る程度(すごい自信ですね)。しかし、後でテーブルにやってきた青年Hは、「さすがプロの味、やっぱうまい」などとぬかす。

買ったおせちは確かに見た目は絢爛豪華だけれど、何せ量が少ない。確かに
25種類も詰めるとなれば、かまぼこ5切れ、伊達巻3切れというのは止む終えないが、これはちょっとさびしい気がする。いつもの生協のおせちセットも買っておいてよかったし、筑前煮、数の子、なます、黒豆はいつも通りどっさり作っておいて良かった。でも一人で3人前は食べていた次男が今年はいない。いったい誰が食べるのだろう。明日、世田谷の伯母のところへはおせち持参でご挨拶に行くとしよう。

最近、我々はバカ食いをしなくなったせいか、おせちを一通りつまんでお酒を飲むと、もうお雑煮はとても食べられないので後まわしにし、夫は自分のHPを立ち上げるべくPCに向かい、わたしはゴザンスのテーマ「めでたい話」を書くべくやはりPCに向かう。向こうの部屋とこちらの部屋でカシャカシャとキーボードを打つ音だけがする静かな元旦の昼下がりだった。

「めでたい話」はすでに「誕生」というタイトルで出産の場面を書いていたが、新年にはちょっと重すぎると思い、投稿するのを見合わせていた。新年を迎えてみると、どこにもほっかりした正月気分というものが漂っていて、やはり出産風景はいくらめでたい話だといっても、ちょっと生々しすぎる。

ノートパソコンを広げたテーブルはまだ新年の装いのままだ。そのテーブルの様子を描写してみる。視覚的なものを言葉でどれだけ表現できるだろうか、単なるディスクライブではつまらないからそこに昔の記憶を織り交ぜる。

手で作り、目で楽しみ、文章にしてそれを記録する。そう、書くことの目的のひとつは記録だ。記録を読み物としていかに美味しく料理するか。この文章ははたして美味しく書けているだろうか。

「新春のテーブル」は空の鳥と野の花とからどうぞ。






新年早々、食べ物の話しで終始してしまいました。
読者のみなさま、どうぞ今年もたりたの日記、ご愛読のほど、よろしくお願いします。みなさまにとって2004年がすばらしい年となりますように。



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