たりたの日記
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2003年11月30日(日) 800字小説「物語の扉が開く時」を投稿

今日はmGとともに、教会学校、礼拝、図書館、ラーメン屋、Y先生のお見舞いと続き、家に戻ってからジムへ。わたしはバックに用意はしていったものの、なんだか身体の具合がイマイチなので運動は断念し、英語学校の子ども達のクリスマスプレゼントを買った後はゆっくりお風呂とサウナに入り、ドトールで本を読みながらmGを待ちました。

モールの中にあるスーパーとやまやで食料品を調達して、夕方より焼肉大会。
ダイエットを忘れてはいない我々は肉より野菜が断然多い焼野菜ともいうべきものですが・・・。

それからやおら3日前からちょこちょこ書いては直してきたゴザンスに投稿する800字小説をなんとか12時直前に書き上げました。苦労します。毎回のことですが。でも、ほんと、これいい訓練だなって思うのです。無駄な言葉を削いで、削いで、それでいて、800字の中に込めたいものがしっかりと印象づけられるようにとねちねち作業を繰り返します。普通わたしが書く時とはずいぶん違ったモードです。できたてほやほやの800字「物語の扉が開く時」は空の鳥と野の花と)からどうぞ。

でも、これって、ここから始まるんです。いつかここから始まる物語の本体を書かなければと思いました。

さて、体調が思わしくないということを今思い出しました。
寝なくてはいけません。
では、おやすみなさい。


2003年11月29日(土) 雨の土曜日 「ナントに雨が降る」を聴きながら

久し振りの日記です。
窓の外のハナミズキの赤い葉が雨に濡れています。
静かな雨の土曜日の朝、
バルバラの「ナントに雨が降る」を聴いています。

初めてバルバラを聴いたのが20年以上も前の11月の終わりでした。
その年は冬の間中そればかり聴いていたからでしょう。
バルバラの歌を聴くといっしょに浮かんでくる風景は
ストーブもなかった、6畳一間のアパートの小さな台所、
やかんの蒸気をあげている様子と、かもめの絵がついたマグカップ、
窓の外に広がる冬景色。
寒い朝とバルバラはとても似合うと今でも思います。

木曜日と金曜日のパフォーマンスが終わって、とってもほっとし
くつろいだ気持ちです。
朝起きてまず、2時間くらいかけて家の中を整えて掃除機をかけました。
心から寛ぐためにはまずこれが必要・・・
それからいつものミューズリーとフルーツの朝ごはんを用意し
今朝はミルクをホイッパーでしゃかしゃか泡立て、カプチーノを入れました。
はぐくみ園でお土産にいただいた、手作りのクッキーとパウンドケーキを
いただきながらずいぶん幸せな気分。
mGはかわいそうに今日は出勤、秋休みで帰ってきているMとサッカーの試合が中止になったHはまだ眠っています。

木曜日の駅前でのゴスペルは室内でやっていたようにハーモニーがきれいに聴こえなかったようです。戸外だと声が拡散してしまうことと、マイクはすぐ前にいる人の声しかひろえなかったことが原因でしょう。それでも、駅から降りてくる人々が足を止めてくれたり、わたしが仕事をしている英語学校のネイティブの先生が生徒を連れて聴きにきてくれたり、mGの姿もありました。機械の調子が悪く、予定していたレイ・ドーシー氏のソロもなくて残念でしたが、多くの人達と少し早いクリスマスキャロルを分かち合うことができて楽しい夕べではありました。

昨日の「はぐくみ園」は「歌とダンスの集い」、ミュージカルでごいっしょしたEさんといっしょに伺いました。今度は夏に続いて2度目だったので、もう、知り合いといった感じで気楽にやれました。来月、通園生の方々が障害者の集いで歌うことになっている「世界で一つだけの花」と「ピースインハーモニー」に簡単な振り付けを付けてみたのでそれで動きながら歌ってみました。どの方もとても楽し気に動いて下さるのですが、ダンスに一生懸命になるあまり、歌を歌うのを忘れてしまいます。それで、前後左右などの動きはやめて、スタンプとクラップだけを組み合わせて動くだけに変更しました。ずいぶん簡単な動きですが、直立で歌うよりも生き生きした感じになり、なによりみなさんが楽しそうだったのが嬉しかったです。

ここのところ練習してきた「世界ではじめのクリスマス」を弾き語りしたり、Eさんの歌の伴奏をしたり、また園生といっしょに何曲かいっしょに歌いました。一人の園生の方が近づいてきて、今度はぜひビートルズをお願いしますとリクエストされました。若い指導員のH先生はPPMやボブディランが好きなんですよとおっしゃる。どれも若い頃歌ったなつかしい歌です。今度伺う時までに、リクエストに答えられるように練習をしておこうと思います。


さて、さて、もうお昼。我が家の青年達も起きてきました。
ではみなさん、良い週末を。


2003年11月24日(月) シモーン、お前は好きか、落ち葉ふむ足音を?

秋がずんずん深くなっていきますね。
窓の外のハナミズキの葉は赤く色づき、ハラリ、ハラリと
一枚づつ落ちてゆきます。
今朝はホームページのトップの写真が変りました。
この写真を見て 堀口大学の訳詩集「月下の一群」の中にある
「落ち葉」という詩を思い出しました。

   シモーン、木の葉の散った森へ行かう。
   落ち葉は苔と石と小径とを被っている。

口にして読みたい、耳で聞きたい詩。
この日記のおしまいにこの詩を書いておきましょう。



土曜日の夜、mGと共に、下北沢のARTISTであった「心太ライブ」に行きました。
ライブはいくつかは行ったことがあるけれど、こんなに演奏する人たちをまじかに感じるライブは初めてでした。オレンジ色の灯りが柔らかい心地よいお店に観客は20人くらいだったかしら、どの方もどの方かと繋がりがあるようでくつろいだ空気がありました。

ネット上でいろいろとやりとりをしてきた「心太」の編集人のワタナbシンゴさんと無事出会いを果たすと、その場所はわたしにとっても親しい場所へと変り、まわりにいらっしゃる方々にも親しいものを感じました。実際、わたしの隣に座られていた方は心太日記で執筆してらっしゃる小学校の先生のマコツさんでした。初めてお会いするものの、書かれたものはすっかり読んでいたので、どういう方かはなんとなく分かっているのです。

三輪二郎、kyoroko、ワタナbシンゴ、3人の言葉と音とを楽しみました。あぁ、歌って言葉なんだ。音って言葉なんだと感じながら聞いていました。日々、いろんな歌を歌いながら、聞きながら暮らしていますけれど、どちらかといえば、フレーズになんとなく言葉をつけて歌っているようなところがわたしにはあるのですが、この夜のライブでは言葉が内側に入り込んでくるようでした。

詩はたくさん読むけれど、耳から聞くことってめったになく、ワタナbさんの自作の詩の朗読は新鮮でした。繰り返し語られる「子どもたちよ火を焚きなさい」というフレーズがその場所に火を灯していくのが目に見えるようでした。言葉の持つ力。

言葉の持つ力。そうだ、語り。こういう場所でグリムの昔話の語りをするのはどうだろう・・・・
しばらくお話を語っていない・・・・日々お話を覚えて語ることに情熱を注いでいた時期がありました。
来週の金曜日は北本市であるお話会に久し振りに出かけます。
その昔、児童書の勉強会やお話の勉強会をしていたグループの20周年記念の企画です。なつかしい方々にお会いできる。

今週は歌う仕事(?)が2つ。
ひとつは27日に宮原の駅前でクワイヤの仲間とゴスペルを歌います。リーダーがアメリカのドリフターズのメンバーだったレイ・ドーシー氏で彼がすっごくうまいので我々はせめて言葉をまちがえないようにハーモニーをくずさないように歌えばいいのですが、まだ加わって間もないわたしとしてはちょっとどきどきしています。せめて7曲分の歌の歌詞は覚えておかなくては。

2つ目は28日の授産施設「はぐくみ園」。前に日記でも書きましたけれど、この日は彼らの歌の歌唱指導や振り付けをつけたり、いっしょに歌ったり、また聞いてもらったり、詩も読むつもりです、谷川俊太郎の「生きる」を。ほんとうは「耳をすます」を読みたいのですが、あれは長いので、聞くことが苦痛な方もいらっしゃるかもしれないと思って見合わせました。

そういうわけで、今週は練習に打ち込まなければなりません。ゴザンスの12月1日までの課題はちょっと無理かなぁ。日記も滞ることになると思います。

明日25日は心太日記の初書きです。ライブの感想も書いています。どうぞ
心太(ところてん)をお尋ねください。


では、最後に詩を。

子どもの時からなぜか好きなのです。この
「シモーン、お前は好きか、落ち葉ふむ足音を?」
というフレーズ。



    落ち葉      ルミ・ド・グールモン
             堀口大学 訳 (訳詩集 月下の一群 より)


シモーン、木の葉の散った森へ行かう。
落ち葉は苔と石と小径とを被っている。


シモーン、お前は好きか、落ち葉ふむ足音を?


落ち葉の色はやさしく、姿はさびしい、
落ち葉は儚く捨てられて、土の上にいる!


シモーン、お前は好きか、落ち葉ふむ足音を?


夕べ、落ち葉の姿はさびしい、
風に吹き散らされると、落ち葉はやさしく叫ぶ!


シモーン、お前は好きか、落ち葉ふむ足音を?


寄りそえ、われ等も何時かは、哀れな落ち葉であらう。
寄りそえ、もう夜が来た、さうして風が見にしみる。


シモーン、お前は好きか、落ち葉ふむ足音を?










2003年11月20日(木) 大掃除とオペラの木曜日

今日は朝から雨だったので、朝10時45分からのラテンに間に合うようにバッグの準備はしていたものの、自転車では行けません。そうすると電車を乗り継いで行くとすれば一時間かかるので、間に合わないと今日はジム行きをあきらめました。

ここからがなかなかえらいのですが、いつものラテンとエアロの時間に台所とお風呂と洗面所といった場所の大掃除をしようと思いたったのです。暮れの掃除の先取り、というより明日、排水溝のお掃除の人がやってきて台所やお風呂の排水口から高圧洗浄でお掃除をすることになっているので、作業がしやすいようにいろいろと物を移動させたり、磨いたりと、泥縄をやったというわけです。おかげで、たっぷり働いて、カロリーもかなり消費したことと思います。

その後、夕食の支度をしてから、一時間半かけて亀有まで出かけました。友人のNさんがオペラ「カヴァレリア・ルスティカーナ」のルチアやるので、そのステージを見に行ったのでした。Nさんとは5年ほど前、ヒーリングのワークショップで知り合ったのですが、オペラの舞台を見るのは初めてのことでした。

Nさんの演じるルチアというのは不倫の果てに決闘で命を落とすトゥリッドの母、居酒屋のおかみの役なのですが、声がとてもドラマティックなので、この役はぴったりでしたし、その役柄を良くこなしているなあと感心しました。

それにしてもこの「カヴァレリア・ルスティカーナ」、シチリア島での「村の騎士道」ということらしいですが、誘惑する人妻、裏切られて嫉妬に狂う娘、妻との関係を知り、決闘に持ち込む夫、不倫の落とし前は決闘しかないとそれに臨む若者と、大変なものです。時が移り変わっても、シチリアであろうが東の果ての国であろうが、人間の生きているところには同じようなドラマが繰り広げられるのですね。

行き帰りの電車の中で、川上弘美の「物語が始まる」を読み終えました。かなりシュールで、惹かれる世界でした。おかげで満員電車も気になりませんでした。すぐ脇に今にも吐きそうな格好をしたスーツ姿の酔っ払いが来た時にはちょっと気になりましたが・・・。

その方、いかにもりっぱそうな風情なのに、ここまで酔っ払わなければならない何かを抱えているのかしら、過ってホームに落ちたりということはないかしらと心配になりました。その人を見るそれぞれの視線というのも、同情、蔑み、迷惑と様々で、ここにもドラマがあると思いました。
きっと、オペラと本の物語にどっぷり浸っていたからなのでしょうね。

さて、新しいゴザンスの課題が出て、わたしはわたしの物語をどう作っていこうかと思案しているところです。
これからお風呂の中でしばらく考えよう。


2003年11月19日(水) さまざまな あたしの さまざまな トーン

今夜もここへ来ると12時。
どうやらわたしが日記を書きたくなるのはこの時間のようです。
こういう語りかけの日記はあたしは書くことはないだろうと思っていたのに、書いていますね。ちょっと心の位置を移動させているのです。
自分の内側の深い底のところから、もっと外側の、人と何かを分かち合おうとする時の位置に。
それはわたしにとってしんどいことのはずだったのですが、やってみれば、そんなこともありませんね。極めてフレキシブルです。あたくしは。

今朝は夕べの日記の予告どおり、きちんとバイオリンの音階練習をやり、その後でヘンデルのやさしい二重奏と、バッハの無伴奏ソナタ2番の4楽章をとってもゆっくりと弾きました。そしてやっぱりバッハはいいと思いました。弾くことですごい充実感があります。
他の音楽とはちょっと別の部分に入ってくるような・・・・
でもバイオリンって、一時間も弾くとかなり疲れて、仕事に出かけるのが少しおっくうになってしまいました。

本は昨日から川上弘美を読んでいます。しばらく保坂和志を続けて読んでいて、その発想や視点が自分にはないものだなあ。男の人の頭の中ってやはり女とはその構造が違うんだろうなあと感心しながら読んだわけですが、川上弘美を読んでいると、田川未明さんの本にも感じたことですが、なんて女なんだろうとまた感心するのです。その女特有の世界というか気分というか、形としてはなかなか取りだせないその空気をみごとに書き表しているんですよね。ああ、そうだ、そうだっていう共感が起こります。

今日読んでいた川上弘美の「溺レる」、そこに出てくる女たちに、どれもあたしみたいと感じてしまうのですが、たとえばあたしのことをよく知っている人達はきっと、ぜんぜん違うよ。そんなずるずると溺れたり、堕ちたりっていうイメージじゃないよってきっと言うと思うのだけれど、そしてそれは言えてないことでもないんだけれど、他の人には見えないところで、やっぱりここの女達に似ていると思う気持ちは変りません。もしかすると、誰もが「あたしみたい」と思うのかもしれない。そこに何か普遍的なものがあるということなのでしょう。それにしても、なんだかゆらゆらと漂っているような不思議な世界です。

バッハを弾いて、川上弘美を読んで、小さい子達と歌ったり踊ったりし、それからジムでビートの効いた音楽に合わせてジャブやクロスやサイドキックをかなり闘争的にやる。あまりにも違う世界を、テンションや気分をがらりと変えて渡り歩いている感じ。その合間に土鍋いっぱいおでんを煮たり、洗濯物を干したりという分野も一方にあるし。この多様なトーンというのがあたしの特徴なのかもしれないけれど、いいのかしらね、こんなんで。

さて12時半だ。明日は朝からの仕事。では、おやすみなさい。


2003年11月17日(月) バイオリンのおけいこ

今日も12時を過ぎてから日記に向かっています。
口調は昨夜に引き続いて語りかけ口調にしました。迷いましたが。
でも今日は 長いおしゃべりをするつもりはありません・・・どうかな。あやしい。夜中だというのに、オレオビスケットなんか食べてるし、ハーブティーを入れるためのお湯も沸かしているし、後1時間は起きているつもりだし。
お茶はカモミールです。良く眠れるハーブということになっています。あたしの場合、なんだって関係なく、たいていは目を閉じるとそのまま眠ってしまいますけど。

そういえば今日は夕方からEさんがいらして「はぐくみ園」でのボランティアの打ち合わせや練習をして、いっしょに明太スパゲッティーとフルーツサラダを食べた後、Eさんは顔のマッサージとパックをわたしにほどこしてくださいました。彼女の本業は書道家ですがエステシャンでもあります。ソファーに寝た姿勢でマッサージしてもらっていたらあまりに気持ちが良くて、いつの間にか眠ってしまっていました。Eさんがそおっつとドアを開ける時に目が覚めたからお礼とさようならを言うことができてよかった。Eさんが帰った後、テーブルの上には「ゆっくりお休みください・・・」と美しい文字のメモがありました。

Eさんのいらっしゃる前には3年生の英語のクラスが一時間。その前はお掃除と観葉植物の葉っぱふきをし、午前中はバイオリンのレッスンに行きました。なんと今日が初日でした。10年ぶりのレッスンです。バイオリンをすっかりさぼっていて、200年も生きてきたバイオリンにとってもすまない気持ちでいたのですが、楽器を維持する目的で(楽器は鳴らさないと具合が悪くなってしまいますから)月に一度、近くに住む、若いバイオリンニストのSさんのところへレッスンに通うことにしたのです。わたしの幼児とお母さんの英語クラスにいらしてる方です。

今日は10年も取り替えていなかったバイオリンの弦を取り替えてもらって、その間、わたしは3歳のTくんに、英語の絵本を2冊読んであげたりして遊びました。バイオリンの音はずいぶん良くなりましたよ。子ども達が上手になったらいっしょに弾こうとずいぶん前に買っていたヘンデルの二重奏の楽譜、もう子ども達は早々とリタイアしてしまい、そのままになっていましたが、しばらくはこの楽譜をやることにしました。で、目標はバッハの無伴奏パルティータ。楽譜はずいぶん前から抱きしめているんです。曲は覚えるほど聞きましたからね。なんとなく弾けるような気になって。

そう、そう、音階練習の大切さを言われました。ずっとさぼってたことです。バイオリンにしろ、声楽にしろ、ピアノにしろ、音階練習とか、発声練習とか指づかいの練習とか、そういう避けては通れない訓練を地道に続けることができないから何にしろ上手には弾けないし歌えないんです。それはもう、わたしの欠点であることに間違いありません。ここは○○の手習いのつもりで、こつこつ練習することを自分に課さなければと思います。

さて、明日は仕事の前に音階の練習くらいはできるかな。そのためにはもう寝なければ・・・おやすみなさい。


2003年11月16日(日) おやすみ前のおしゃべり

日曜日が無事終わりました。
今日はあまりパソコンを開く時間がなくて、12時過ぎてみなさんの日記をつらつらと読んで、その中におやすみなさいのごあいさつがあったりして、なにかふっとなごみました。
で、今夜はなんだか口調がこんなんです。
語りかけ口調というんでしょうか。
日頃は独りごと口調で、そうでないと日記は書けない感じがしていたのですが・・・

そもそも日曜日っていうのはあたしにとっては一番忙しい日で、朝が早いんです。9時半から始まる教会学校に行くためには家を8時45分には出ますから。日々早朝に出勤する方々や学校へ行っていらっしゃる方にとってはあたりまえのことですけれどね。

今日はそれに加えて、町内の清掃作業が8時からあったので、掃除を終えて、急いで着替えて電車に乗って、教会学校ではオルガンを弾いて、その後、子ども達とクリスマスの歌の練習をし、10時半からは礼拝。今日はわたしは聖書の朗読の当番で、ちょっと緊張ぎみ。と、英語学校の生徒のおばあちゃまが礼拝堂に入っていらっしゃる。
「今日は先生の朗読の日だったでしょ。それで、朗読を聴きにきたんですよ。」
おぉ、うれしいような、困ったような。とても朗読会のような読み込みをしてはいないのですよ。夕べ1,2度読んだくらいだし。でも初めて教会の礼拝にいらしてくださったのだから、なんとか言葉が伝わるように読みたいと、結果はよけいに緊張してしまって、読むべきところの手前で終わりにしてしまったりとドジってしまいました。

礼拝の後はダンテの「神曲」の読書会。神学校で教鞭を執っておられたY先生の直々の講義です。お昼も食べないまま2時間以上は続きますからかなり気合が入ってます。はじめはとっつきにくいなあと感じたものですが、回を重ねるに従っておもしろくなっていきます。今日は「地獄」の第6曲と7曲でした。その中味も書きたいところですが、また何かの折に。

さて、読書会が終わった後は、アメリカからボランティアの宣教師としてやってきて、英語学校で教えているKの買い物に付き合うことになっていました。空腹状態はとっくに過ぎてしまっているので、Kの家に立ち寄ってから大宮ソゴウへ。クラフト用品や本屋へ行き、エスニック調の小物の店で、あれがいい、これがかわいいとさんざん迷ったあげく、わたしは四葉のクローバーが透明なプラスティックの中に入っているピアスを買いました。
夕方の5時近くになってようやく、パン屋さんの中にあるカフェで、焼きたてのパンとコーヒーにありつけました。

Kと駅で別れた後もまだ家には帰りません。電車で3駅のところにあるジムへ寄り道です。仕事を途中で抜け出してきたmGとボディーステップの45分のクラスで合流。彼は夕食の休憩時間をこのクラスに回すほど、これにハマっています。ジムの後わたしを車で家まで送るとその足でまた会社へ。ここのところ土日がないほど忙しいのですが、それもあと数日で解放されるようです。ほんと、ごくろうさま。

一人で夕食を済ませた後は、今月末に授産施設はぐくみ園で歌唱指導することになっている歌を聴きながら今週の分のYシャツのアイロンかけをしました。施設の方からのリクエストの歌はスマップの「世界で一つだけの花」と上条恒彦さんの「ピース・イン・ハーモニー」でどちらも、知らない歌だったので、送っていただいたテープを聴きながら練習し、振り付けを考えたりしました。なんだか、ジムのダンスの続きみたいなことを一人でやってました。後、ギターの弾き語りの練習をして、そうこうするうちに、すっかり日曜日が終わってしまいました。青年HとmGも帰ってきました。それぞれの部屋に引き上げてリラックスタイム。さて、わたしはあまり遅くならないうちにベッドへ行くとします。

それにしても、語り口調で書くとついついおしゃべりになっていけません。
だらだら書いてしまいました。
最後まで読んでくださった方、おつきあい、どうもありがとうございました。

では、Good night!


2003年11月14日(金) 主張のあるMAJO&MAJO の服

わたしの家のすぐ側に、それこそ歩いて5分とかからないところに
「寧(ねい)」というギャラリー喫茶がある。そのお店は道からその店のドアまでの間が森の小道のようになっていて木々の鬱蒼と茂る中の蛇行している小道を辿ってゆくと目の前にドアが姿を見せる。その辺り一体がこの店の敷地になっているので、店の中のガラスの壁からは四季折々の木々や植え込みや花々が見渡せる。ちょうど林の中に包まれるような格好になるのだ。

好きな場所だし、家から近いからといって頻繁にはこない。ここはあくまで自分の日常とは別に取っておきたいと思うからかもしれない。ま、近すぎるから、わざわざそこでお茶をというのが少し贅沢すぎるというのが正直なところ。

今日、銀行へ用を足しに行く時、そのギャラリーの脇を通ると催し物のポスターが目にとまった。おもしろい模様やデザインの洋服が載っている。どうやら手作りの洋服らしい。前回この店に来たのは、「アジアの涼しい服」というポスターに惹かれてのことだった。あの時にはインド綿のシックな泥染めのプリントのブラウスに一目惚れして買ったのだったが、夏の間中、ジーンズとタンクトップに合わせて出かける時の定番になった。今度も好きな服に出会えるかもしれないと、銀行の帰りに店に寄る。

MAJO&MAJO ブランドはすべてこの町に住んでいるKEIKOさんのデザイン、縫製による一点もの。ニットのカットソーやベスト、スカートやコートまで。プリントやカットにははっと人目を引くような新鮮さがある。デパートに並んでいるオーソドックスな感じが苦手なわたしはこのちょっと変った感じがうれしい。

その時間、お客があまりいなかったので、勧められるままに、いろんな服を着ては楽しませてもらった。どれも欲しいものばかりだったが、わたしが選んだのは様々な色が錯綜する中に胸のところに真っ赤な大きな花が2輪あしらわれているニット。ノースリーブでタートルネック、ウエストはお臍の線ぎりぎりのところでスパッと切ってある。ちょっとサイケデリックな感じ。これを、たとえば、黒やグレーや紫や赤の長袖のぴったりしたセーターやニットの上に重ね着するとかなりおもしろい。下に着るものでいろんな表情が出てくるだろう。黒やブルーのジーンズとの相性もすこぶるいい。決めた!

と、美しいプリントのニットが目に止まる。わたしの色のひとつ、サーモンピンク。様々な形の薔薇の花がひしめき合っているロココ調。こちらは長袖で襟ぐりがボートネック状に大きく開いたデザイン。このニットには同じ布で作られたネックウォーマーが付いている。試着してみると、鎖骨のところはぐるりと開いて首の周りだけスカーフを巻いたような感じで覆われて、セクシー。最近薔薇の香りの紅茶にはまってはうっとりとしていたが、このニットはそんな甘美な気持ちで着れそう。このニットにしても下に黒や紫のタートルネックと合わせると襟ぐりのきれいなラインがはっきり出てなかなかおもしろい着方ができそう。

わたしはあまり流行に明るくないが、最近の重ね着の遊び感覚は好き。そんな遊びが活かせる服だと思った。2点で11000円。一点ものの手づくり、オリジナルとしてはそんなに高くはないと思う。この主張のある服たちで、わたしの持っているプレーンなセーターやパンツが生き生きと主張を始めるのだとしたらこの2点の価値は高い。


2003年11月13日(木) バースデーケーキは焼かなかったけれど

今日が特別な日であることに変わりはない。
恒例の朝のテーブルのバースデーケーキもなかったけれど
当のバースデーボーイがここに居ないのだからしかたない。
次男のMの携帯に「誕生日おめでとう」と電話をする。

あの日から19年も経ってしまったなんてとても思えないけれど、
「おぎゃあ」と声を上げた日からここまでの年月を育ってきたのだなあ。
ここを離れても、どうやら生きていっているようだから
大人になるまでには後1年あるとしても、
すでに「一丁上がり」っていう気分になっている。
あ、「二丁上がり」だった。

やれやれという安堵に、ふっと寂しさが混ざっている。
この寂しさの中味はいったい何だろう。
ここに子どもがいないからというのではない。
もう母としての仕事が終わったからというのでもなさそうだ。
生きるということの中に本質的に含まれる寂しさだ、きっと。

ケーキは焼かずにジムで立て続けに3本エアロをやり、その後ゴスペルの練習へ行く。
夜、九州の母に電話をし、久し振りに長話をする。
ひとり暮らしをしている母や、病院に入っている痴呆の父のことを考えると
ズンと気持ちが重くなるから、そこに立ち止まらないようにしているのだが、
今日のような日は、家族を持つが故の寂しさのようなものがひたひたと寄ってくる。

Mが「おぎゃあ」と生まれて来た日はそういう寂しさのかけらもなくて、まるでお祭りのようだった。医者の見習いや看護婦の卵たちや、どういうわけか見物人が大勢いる分娩室で、わいのわいのとみんながさわいでいた。まるで開幕式のリボンカットよろしく、夫が大きな(きっと)ハサミでまるでホースのように頑丈なへその緒を切った時、拍手喝采があったような、そんな記憶がある。
同じ産院だというのに、長男の出産の時の深夜から明け方にかけての真剣勝負みたいな出産風景とはずいぶん空気が違っていた。
そうそう、そんな賑やかな始まりだった。

さて、今日は夜の時間がたくさんあったから本を読むつもりで目の前に積み上げてほくそえんだのだったが、読まないままに就寝時間が来てしまった。


2003年11月11日(火) 秋だから?身体は脂肪を貯めこもうとやっきになっている

まずい。秋だからだろうか。身体は脂肪を蓄積し始めた。
2年と少し前にここでダイエット宣言した時から着々と前進して、10キロ減。ここ1年は理想体重を維持していたものの、ここのところなんだかあやしい。体重そのものは1・5キロくらいの増加にもかかわらず、身体全体に一回り脂肪がくっついたような不快感があるのだ。じっさい、ウエストサイズ61のパンツがきつい。ダンスばかりに現をぬかして、走っていなかったせいかなぁ。筋トレも気侭にしかやっていなかったから。いえ、それより食べる方に問題がある。朝や昼はいいとして夜から深夜にかけてのビールや間食が間違いなく悪い。でもね、毎日今日こそは食べないぞと思うのに、がまんできない。きっと身体は身体で蓄積した脂肪が燃焼された分、それを補いたいと思いのだろう。それが秋ともなると、やはり動物だもの、クマとかなんかのように冬眠に備えて脂肪を溜め込もうとやっきになっているのかもしれない。それで「食べろ」というサインを送るのだろう。

ダイエットというのは身体に危機感を与えてはいけない。いわんや身体に無理や負担をかけては逆効果。かといって、身体の要求するままに食欲の言いなりになるわけにもいかない。ここで気を抜いたらたちまち10キロくらいは増えてしまって元の木阿弥になるのは火を見るより明らか。さて、解決策は。
必要な栄養素とカロリーをきちんと取って、その上で脂肪を燃焼させり運動と代謝を高める筋トレをし、その後は夜更かしをせずに何も食べないで寝る!と、これがきっと理想だ。夜中にやっていたことを早朝に持ってきたらさらにいい。

さて、あとは意志力の問題。やれるかなぁ〜。


2003年11月09日(日) ミュージカル「リバーダンス」ー音楽とダンスは限りなく近かった

夕方から連れ合いと東京フォーラムに「リバーダンス」を見に行く。ずいぶん久し振りのミュージカルだった。
ニュージャージーに住んでいた頃は車で30分ほど走ればブロードウエイに行けたし、もともとチケットが安い上に、マチネの半額のチケットを手に入れることもできたから、ミュージカルといっても映画に行くくらいの気軽さで楽しむことができた。が、しかし、日本で見ようとすると、とにかく高い。しかも何ヶ月も前に予約しなければ、チケットそのものが手に入らない。そこまでして見たいという気もも起こらなかったから、ここ10年、本格的なミュージカルの公演からはすっかり遠ざかっていた。

今回このミュージカルに行こうと思ったのは、夏に美容院に行った時、そこの店長が3年前のこの「リバーダンス」のステージのことをそれは熱っぽく語ってくれ、その時かけてくれたケルティックなリバーダンスの音楽にそそられてのことだった。そしてネットで調べて珍しく4ヶ月も前にチケットを手に入れた。しかもS席。11500円。大学生2人にローンを抱える我々にとってはかなりの贅沢。めったに行かないのだからどうせだったらステージの人達の表情もばっちり見えるところでと奮発したつもりだったが甘かった。会場はあまりに広い。確かに全体からすれば、一階の真ん中あたりの席だが、とてもステージの人の表情までは見えるものではない。ブロードウェイの客とステージが一体となるようなミュージカル小屋のイメージがあったのだが、ここにそれを期待してはいけない。

ケルトの音楽というのは何か辺境の地の音楽という感覚があって、厳しい労働の中で「かくれダンス」としてアイルランド人が生み出した力強いタップダンスというところにも惹かれていた。しかし、リバーダンスの世界はそこを起源としているものの、そのダンスや音楽を伝統を意識しながらも、より多くの人を魅了する大掛かりなエンターテイメントとして構成されていた。そこはもう辺境はない。誰もが楽しめ、誰もが圧倒される大掛かりなショー。実際、その大きな会場は多くの人で埋め尽くされ、会場の入り口にはパンフレットやビデオなどの他に人形やシャツなどのキャラクターグッツが並べられ、その周りも黒山の人だかりだった。けっして一部のマニアに愛好される音楽や踊りではなく、多くの人がそこに群がるショービジネスとして成功したものであることが分かる。それが好きか嫌いかは別にして。


アイリッシュダンスは確かにすごい迫力だった。ダンスというよりはドラム。つまり2本の足をリズム楽器にして大勢の人間が一瞬の乱れもなくとてつもなく早いリズムを刻む。足が打楽器になるというこれは新しい発見だった。私の知るタップダンスは身体全体を動かすし、ダンスの要素の方がむしろ強いが、アイリッシュダンスは上半身は全く動かさない。動きとしては足だけの動きだ。もちろん足の動きそのものも美しいし、洗練されているのでリズムを耳と目の両方で楽しむことができる。また音楽と踊りとの距離がとても近いところにある。中でもモーリン・ファヒのフィドルは圧巻だった。彼女自身がダンサーでもありボーカリストでもあるから彼女のフィドルを弾く姿や動きがそのままダンスで、しかもフィドルは彼女自身の身体から出てきた声であるようにまさに歌っていた。

このリバーダンスのステージを見て一番に感じたことは音楽とダンスが別々のものではないということだった。音楽は音でダンスを踊るのだし、ダンスは身体を楽器にして音楽することなのだと。そして音楽もダンスも人間の日々の暮らしの中から感情の中から生まれてくる。そのことを意識する時、音楽もダンスももっとわたしたちの日常の中に溶け込んでくるんじゃないかとそんなことを思った。


2003年11月08日(土) 保坂和志著「書きあぐねている人のための小説入門」を読む

ここのところ保坂和志さんの小説やエッセイをアマゾンで一気買いした。それで翌日ふらりと本屋に入ると一番先に目に止まったのが「書きあぐねている人のための小説入門」。タイトルに惹かれて、初めのページを読んで買ってしまった。著者が保坂さんだと気がついたのは家に帰ってからだったからあきれてしまう。それにしても「縁」がある。ここはどうでも彼に学ばなければならない何かがあるということなのだろう。

昨日の午後、この本を一息に読んでしまった。うん、うん、と頷きながら読んだ。こんなことを書くとすっごく傲慢のようだが、ここに書かれてあることをどこかで感じてきたと思ったのだ。共感するとか、分かるということはそもそもそういうことなのだろう。そのことが自分の中にあるからこそ、響く。

でも、なんとなく感じてきたことと、それがきっちりと納得のいく言葉で表現されていることとの間には雲泥の差がある。そこでわたしは保坂氏が文章にしたものを読むことで、「泥」が多少は引き上げられた。感覚が思考に繋がり始めた。

今日は昨日読んだ本をもう一度初めから鉛筆片手に読み始めた。わたしは本に線を引きながら読むことはほとんどしないのだが、どういうわけか、線を引きたくなった。線を引くということは、「そうだ」という感動もあるが、また後でそこに戻りたいから引くのだ。完全に自分のものとはなっていないので、また後で繰り返し考えたいと。

これは余談だが、若い頃に持っていた聖書は読んだページのほとんどに線が引かれ、引いた線の脇に別の色でまた線を重ねるという徹底ぶりだった。それだけ「分かる」と同時に「分からない」「もっと分かりたい」という気持ちが強かったというわけだ。

保坂氏の著作を読んでいて、聖書に没頭していた時の読み方が戻ってきたのだと思った。表面的なところで「分かる」のではなく、そこから自分自身の思考へと広がってゆく感じ。その時はもう文章からも離れて、心はずんずん別のところに分け入ってゆく。

「小説とは、‘個‘が立ち上がるものだ・・・・・・・つまり、人間に対する圧倒的な肯定なのだ。」

たとえばこの言葉は固定された知識としてはわたしの中には入ってこない。そうではなくて、この言葉はわたしの中で動きを生み出す。心はバンとひとまわり広がり、頭は生き生きと考えることを始める。


2003年11月06日(木) ことばであそぶ

ゴザンスの新しいことばあそびのお題、テーマ、800字小説の課題が出たので、今のところこのことが第一の関心事になっている。今日一日の中で、ぽっかり開いた時間に書こうと、本の他にノートと筆記用具をバックに入れて出かけた。
ジムからゴスペルに行くまでの時間、ドトールで遅い昼食を取りながら、ノートを広げてことばあそびを考える。今回のお題は「おちばのちるほどうをあるく」

あれやこれやといろいろ考えて言葉をあてはめてみる。ほんとにこれは
「ことばあそび」。久し振りに遊ぶ時のわくわくした感じを思い出す。
大人になってからは、あそぶといえば、映画を見たり、人とお茶をのんだり、ドライブしたりで、いわゆる「あそび」ではない。また仕事で子供たちを遊ばせることはしても、それはまた違う。それだから、今日はひとりで言葉を相手にして遊ぶという感じが新鮮だった。

今日のあそびの結果はこういうもの↓
前回のように、よくよく読みもせず登録してしまったりはしない。
しばらく寝かせてみよう。この文の中に酵母かイーストが生きているなら、パン生地のように膨らむかもしれないから。


 <秋とうさぎ>


おおいそがしの秋の精
近くにおいでなさったか
バケツに絵の具をたっぷりと
野を越え山越えやってきた

力を入れてよっこらしょ
ルビーの絵の具をこぼしたら
ほほう みごとな木々の色
どうだろ まるではなざかり

うさぎの子たちは木を見上げ
をかし をかし と打ち興ず
秋の日 森の動物は
ルルルと歌い また踊る

暗く冷たい冬来ても 心は燃えてあるように


2003年11月05日(水) 子供、子ども、こども、コドモ、

もう12時を回っている。書かないまま寝てしまおうかと思ったけれど、書かないでいると今日という日に悪いような気になって、たとえ数行であっても記しておこうと思った。そう、今日は子供づくしの一日だった。

午前中は2ヶ月に一度の「つくしんぼ保育室」の「英語であそぼう」の日。今まではジャズピアノのWさんといっしょにやっていたが、今月から彼が仕事の都合でやれなくなり、わたし一人。でも、いつもの英語クラスだと考えれば、それはそれでなんとかなるはず。

CDの伴奏で歌ったり、ダンスしたりもしたが、マザーグースでの手遊びなどは歌だけでやった。でも、もともとがわらべ歌。人間の声だけで親から子へ伝えられてきた歌や詩なのだ。そうやって声だけで歌遊びをしているとCDの音楽を使った時にはないような静かな集中のようなものが生まれる。
今日の読み聞かせは2歳児や3歳児の子どもたちがわたしの前に座りこんで、くるくるした目をいっせいにこっちに向け、今までにない集中だった。
その独特な迫力にどきどきしてしまう。
ああ、子どもって2歳や3歳だって、とっても大人がかなわないものを持っているといつも思う。


午後からの英語学校はお母さんと幼児のクラスと年長のクラス。どちらのクラスも教えるというよりは、彼らといっしょに遊んだ。どの子もかわいくて、おっかしくって、いっしょうけんめい・・・・そのしぐさなんかを思い出すと、それだけで口元が笑えてきて幸せな気持ちになる。

さて、今日はそのおちびさんたちの顔を思い浮かべながら眠りにつくとしよう。


2003年11月04日(火) 水のこと、癒しのこと

今日はまだ11時半。いつもなら10時半までファンクのクラスを取ってそれから一時間サウナや風呂に入るから、帰ってくるのは12時くらいになるのだが、あまりに、体育会系に偏っていることを少し反省して、あまり夜遅くまでジムにいないようにしようと思いはじめている。

しかし運動の後の一時間の入浴時間ははずせない。この時間は考えるのにとてもいい。いろんなことに気づく。きっと水(お湯だけど)の中にいるっていうのがいいのだろう。水が嫌いな人なんていないだろうが、わたしは水、あるいはお湯の中に浸かっているという状態がかなり好きで、そうでない時はいつもその状態にあこがれているようなところがある。水は見るのも好きだ。海でも川でもそれこそプールの水でも、水面の表情やそのゆらゆらとした動きなら一日でも見ていられるような気がする。

そういえば、1年くらい前に、江本勝という人が書いた「水は答えを知っている」という本を本屋で見つけ迷わず買ったのだが、それは水に言葉が通じるというなんとも不思議な本で、水に「ありがとう」と声をかけると水はとても美しい結晶を作るのに「ばかやろう」という声をかけると、ばらばらな無秩序な形になり結晶ができないといった実験の結果を写真を見せながら説明している。つまり、ポジティブな言葉とネガティブな言葉に対して、水が異なる反応をするというのである。

世間はこういう本をすぐにトンデモ本の仲間に入れようとするが、わたしはこの本を読んだ時、「やっぱりそうか」と思ったのだ。植物に言葉というか気持ちが通じるというのは植物とのかかわりの中で体験していたし、同じように人間の体に対しても、気持ちがいろんな具合に作用することを感じてきた。水だって石だって働きかけや心の通じ合いは可能だと考えることの方がわたしにとっては自然だ。これはアミニズムとは異なる。水や石や木を神にするのではない。そうではなくて、水や石や木も命のみなもとである神(宇宙と言う人もいるだろう)がはっきりした意図を持って創造したものであるから、そこと繋がっているのだと思うのだ。むしろ創り主を忘れて生きているわたしたち人間よりはもっと神に近いのではないかしら。命の源から発してすべてのものが繋がりあっている・・・・・

先週の金曜日の夜のこと我が家の青年Hが電話をかけてきた。ガールフレンドのKちゃんがお腹が痛いっていってるからわたしにヒーリングをしてあげて欲しいというのだ。それが効くかどうかは別としてわたしは家族の要請があれば痛いところに手を置いてヒーリングをしてきた。それだって何もわたしが特別な力を持っているわけではない。ただ人間は人間の体と意思疎通ができる可能性を持っていると信じているから、体の痛いところに手のみならず、気持ちを注ぐ。わたし自身がそれを癒すのではなく、わたしはあくまでそれを癒すことのできる創造主、つまり神に癒しをお願いするのである。ということはこれは祈りに他ならない。


Kちゃんが家に来たので、まずいっしょにクレンジングをした。これは水をイメージして自分の体の内部を汲まなく洗ってゆくという瞑想。これをすることで、自分の体と意識的に繋がることができる。痛いということは、体が起こしているサインなのだから、まず、そのサインに対して頑なに抵抗するのではなく、まず、そこにあるものに耳をすましてみるということがまず大切だと思ったからだ。kちゃんは深い瞑想に入ることができたようで、目覚めた時に、別の世界からズンと着地するような衝撃を覚えたようだ。そのクレンジングが終わった後、彼女の腹部の痛みがあるところに手を置いて、その癒しを祈る。手から伝わる気(エネルギー)は熱く感じられるはずだ。


「わたしができるのはこれだけ。痛みを止まるかどうかは分からないけれど、あなたが自分の体を愛し、身体にどうやって働きかけるのかそれをお伝えしたの。痛みや病気はあなたに体が訴えるサインだと思ってそこに素直に向かってみて」
わたしが言ったことを彼女は分かるような気がすると受け入れてくれた。もちろん彼女に明日にでも医者に行くことを勧めたが。
医者はその痛みがどこからくるのかその原因を突き止め、それに対処すべく薬を処方してくれる。しかし、その上で自分自身がすることがある。自分の身体にポジティブなエネルギーを送ること。つまり具体的に愛を示すということ。


水に「ありがとう」と声をかけることで水がそのことの応答のように美しい結晶を作るのだとしたら私たちの身体は半分以上が水なのだから、自分の身体に愛情を持って接することで身体は喜ぶに違いないと思うのだ。
さて、こんなことを書いておきながら身体に充分な睡眠をあげないのはまずい。さて、今日はここまでにしてベッドへ行こう。

おやすみなさい。


2003年11月03日(月) 午前1時までに

さて、なにやら雑用を片付けているうちに12時半を過ぎてしまった。
明日は早い。1時にはすっかり眠りの中に入っていなくてはならないから持ち時間は15分。そう、15分だけ書こう。

今日は文化の日。わたしのしたことは午前中はゴザンスの800字の小説、今日が締め切りの課題<水曜日の朝、お父さんが、映画館で>を書いて投稿する。創作は苦手。小説など逆立ちしても書けないような気がする。それでもどこか書きたいと思っている。きっと。何でもだめと分かるまでやってみるというのがわたしの主義でもあるから。しばらくゴザンスの課題で800字のストーリーを書いてみようと思っている。書いてみると、日記やエッセイと違う部分が要求されることが分かった。それぞれの登場人物になるというのは楽しい。日記やエッセイにしてもその場面を描きながら書いているのだが、創作の場合はよりその世界に入り込むことができるような気がする。書いているその世界を生きているという感覚。わずか800字の作業の中ですらそれを感じたのだから、これはハマるとすごいものがあるのだろう。

今平行して読んでいるは保坂和志氏の「世界を肯定する哲学」「生きる歓び」「書きあぐねている人の小説入門」「この人の閾」川上弘美氏の「物語が始まる」、高橋たか子氏の「きれいな人」、詩集は井坂洋子氏の「箱入豹」
この他に図書館から借りてきてまだ読み始めていない本や文芸雑誌が8冊。
どれもすぐに読みたいから並行して読むことになってしまう。

書くこと、読むことに時間を使うことができた今日は良い文化の日といえる
だろう。さて明日から仕事。予定の時間を超過。それでも1時までには5分ある。眠りに入るには一分あれば充分。さて引き上げよう。
では、おやすみなさい。



2003年11月01日(土) 秋の植え込み、今年の色は白

今日は恒例の秋の花の植え込みをした。春に咲く花の球根をパンジーやビオラといっしょに植え込むのだ。この作業が終われば、水遣りの他は春までほとんど何もしない。花の株が大きくなり、球根が育っていくのを楽しみながら待つ。

日記を調べてみると去年は11月8日、その前の年は11月1日にやっている。おかしなことには、去年も植え込みの記録をするにあたって前年の日記を開き、ついでにその月やその前後の日記の読み返しをしている。そして今年も同じように日記を読み返した。

今夢中になっていることや囚われていることが来年の今頃にはもうそうではなくなっているかもしれないと去年の11月の日記にいみじくも書いているが、
去年のわたしとずいぶん違っている今年のわたしがいる。そうして来年もまた違うのだろう。

さて、ガーデニングの記録をしておこう。
今日植え込みをしたものは

生協の共同購入で注文したもの。
・チューリップの球根40球(赤、白、黄色、ピンク、紫のセット)
・ランナキュロスの球根、5色10球。
・ブルー系のビオラ4株。

いつもの花屋から買ったもの。
・パンジー10株 
・ルピナス 8株
・ノースポール4株
・アリッサム4株
・葉牡丹 3株
・シロタエ菊 4株
・シルバーレース4株
・ウインターコスモス3株

今年はなんだか白い花ばかり選んでしまった。パンジーも黄色やオレンジなど毎年植えている色のものではなくて、白っぽいものばかり。
どうやら今のわたしは白が持つエネルギーを欲している。

それに今まで植えたことのないランナキュロス、ルピナス、葉牡丹、ウインターコスモスを植えてみたい気になった。葉牡丹なんて嫌いな花だったのに、今日花屋の店先でその紫の色とひだの美しさに驚いてしまった。銀色系の葉が美しいシロタエ菊やシルバーレースといっしょに植え込むと寒い季節にぴったりのシックな寄せ植えになった。

さてさて、3時間庭仕事し、ラテンも踊ったから、今夜はかなりくたびれている。
居眠りしながら書いてしまった。
では、おやすみなさい。


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