たりたの日記
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2003年10月31日(金) 書きモードが来ているんだけど

昨日ジムへは行き、いつものラテンとローファットエアロを2本やって午後3時過ぎに戻ってきた。
この時間から6時まで夕食を作ったり、こまごまとした家事をやっつけて、7時からのゴスペルの練習に出かけるために電車に乗るところだが、昨日はそれをさぼった。

書きモードに入っている。実際、スタジオにいる以外の時間は、行き帰りに自転車をこぎながらも、サウナの中も、マックでハンバーガー食べてる時も、頭は勝手に「書いて」いた。その書いたことを文字に置き換える時間が欲しかったのだ。

書いたのは「死ぬまでにしたい10のこと」の映画評。さっきゴザンスに投稿した。(こちらで読めます空の鳥と野の花と
この映画のことを日記に書いたものの何か書き足りない気分だったのだ。昨日から今日にかけて、じっくり取り組んだので気分がすっきりした。
あと書きたいのは課題の「夢中になった本の思い出」と800字のショートストーリー。
書きたい気分が押し寄せてきているけれど、これって曲者。
だいたいわたしがひとつのモードに入る時っていうのは、その時は夢中になっても少しも長続きがしない。その熱心さが強いほど冷め方も大きいからこの状態は警戒しなければならない。
このモード、ちょとクールダウンさせる必要がありそう。
図書館から借りてきている本が10冊、どーんと目の前にあるし。さっき、アマゾンから注文していた本が4冊届いた。今日は読むことにしよう。

おっと、今日は生協からチューリップの球根が40球とランナキュロスの球根が20球届くのだった。パンジーやビオラといっしょに植え込みもしなくてはならない。花やに苗を買いに行かなくては。

ジムだって、さぼればせっかくの理想体重が旧の木阿弥になってしまう。それはなんとしても避けたい。今夜はファンクがあるのだった。

時間、時間、時間、なんて時間は短いのだろう。
と、こんなことを書いていると、これを仕事の合間に読んだ連れ合いは
「いいなぁ〜、自由人は。オレだって自由が欲しい」と思うことだろう。
ゴメン!
せめておいしくて体にいい夕食を作ることにしよう。


2003年10月29日(水) 映画「死ぬまでにしたい10のこと」を観て

今日は何としてもこのことを書こうと午後からずっと考えていたものの、キーボードの上に指を置くと、いつものように軽やかに打ち始める指のリズムがやってこない。深く息を吸い込み、吐いてはまた吸い込み、そして心の内側に視線を向け、祈るような気持ちで、おもむろに指を動かし始めた。

今日観た映画「死ぬまでにしたい10のこと」を書こうとしているのだ。
原題は My Life Without Me, わたしのいないわたしの人生。
主人公アンが生き切ったlifeの重みが深夜になっても、まだわたしの体の中に残っている。
たかが映画、スクリーンの向こうにある虚構の世界。しかし時に映画や物語はわたしたちが生きているこの場所よりもはるかに現実的な世界へ我々を引っ張り込む。


この映画が観客を引っ張り込んだ場所はあと2ヶ月に限定されてしまったアンの人生だった。観客はいやがおうでも、彼女の死に向かっての歩みに寄り添って歩まねばならない。しかしこの限られた命のことを知っているのは彼女と主治医の他は客席にいる観客のみ、彼女の死を知らない2人の小さな娘たち、失業中の心やさしい夫、不幸の中に閉じこもる母親と10年間刑務所に服役中の父親、そして彼女の恋人、その人たちにやがて襲ってくる激しい悲しみや喪失感をも先取りして共有していかなければならない。哀しい。つらい。

泣いているのは私だけではなかった。右隣にいる友人のFも、左隣の見知らぬ女性も泣いている。恐らくは客席中の大方の人がむせび泣いているのだろう。凝縮されたような共感の空気がそこにはあったから。映画館はレディースデイの午前中、大方の観客は主婦であったり、母親であったりだろうから、なおさらのことだったのかもしれない。母親の子どもにたいする愛情は等しく共感できる。

アンは自分の命が2ヶ月で終わるということを知った時、自分を哀れむことをきっぱりと断念し、やりたいことを10項目リストアップする。そして密かにそれを実行していく。自分がいなくなった後の彼女の人生,my life without meを想定しながら。
子ども達の記憶の中に生きる母親としての自分を良いものとしたい。彼女のいなくなった後 彼女の代わりとなって夫や子ども達を愛し、また愛される女性を見つけておきたい。
そして、誰かを自分に夢中にさせたいという健気な項目もそこにはあった。17歳でファーストキスの相手の子どもを産み、19歳で次女を産んだアンはそれからは育児と生活に追われるばかりの日々だったから。彼女の心と身体は燃え立つような恋愛を必要とした。

主治医から死の宣告を受けたアンの表情がゆっくり変っていく様子をカメラは時間をかけて捕える。そして画面には、戦場へ赴く戦士の顔のように、甘さのない、ふっきれた顔が映し出されている。死を積極的に迎えようとするその潔さ。泣いている時間なんてない!
観ている者も彼女といっしょに立ち上がる。

アンは死んだ。娘たち、夫、母親、恋人にメッセージや歌を録音したテープを残して。
映画は終わり、彼女が描いたmy life without meがそこから始まる。アンはいないけれど、でもいるのだろう。家族や恋人の中だけでなく、彼女の最後の2ヶ月を共にした観客すべての心にアンは生きるのだろう。そして彼女の生きた2ヶ月間は、生きるということがどんなにすばらしいことなのか、私たちに与えられた命がどんなに煌めいているかを示し続けることだろう。
彼女はみごとに彼女の死を死んだ。



2003年10月27日(月) クミコが歌うシャンソン 「わが麗しき恋物語」

昨日から今になっても、頭の中で鳴っている歌がある。

クミコが歌うシャンソン「わが麗しき恋物語」
バルバラの曲に覚和歌子が作詞したもの。

映画にしろ小説にしろ、びえびえと泣くわたしをクスリと笑い、本人はいたってクールという連れ合いが、ラジオから流れてきたこの歌を聴いて不覚にも泣いたと、このCDを買ってきた。

そういう前置きを聞いてしまえば、泣けるものも泣けはしないだろうと思いつつ聴いたが、わたしも泣いた。もう何回も聴いたはずなのに、連れ合いもまた泣いていて、わたしたちはそれが可笑しく、泣きながら笑った。

バルバラのシャンソンは20歳の頃からずっと聴いている馴染みの歌で、この「わが麗しき恋物語」もすっかり聴き慣れてはいるものの、フランス語がさっぱり分からないわたしは、その言葉の響きや音を楽しんでも、そこに語られている詩を旋律とともに味わうことはできない。だから器楽曲を聴くような調子で、音だけを楽しんでいたのだった。

しかし、日本語でクミコが歌うシャンソンは曲よりもむしろ言葉が先に入ってくる。そうするとその言葉の向こうには映像が浮かび、またそこで歌われている男と女のずっしりと重い人生が押し寄せてくる。

そういえば、「千と千尋の神隠し」を観た時、最後のテーマソングを聴いた時にボロボロと涙がこぼれて止まらなかった。言葉に反応した。あの詩を書いたのが覚和歌子だった。彼女からは泣かされてしまう運命にあるようだ。
今手元にある詩集「0になるからだ」もその文字の連なりに心を揺さぶられる。

クミコの歌もまたいい。バルバラの歌の味わいとはずいぶん違うが、シャンソンの持ち味を損ねることなく、みごとに日本語のシャンソンをクリエイトしていると感じる。

この歌がずっと鳴り響いていたせいだろうか。
わたしはゴザンスというライターのサイトの「ことばあそび」で愛する女を失う男の詩を書いた。どういうことばあそびかといえば、お題が決められていて、その言葉ひとつひとつから始まる言葉で文章を綴っていくというもの。
今回のお題は「くだものみたいなくちびるに」だった。

書いたついでに、ライター登録をし、投稿までしてしまった。
こういうことに関してはおそろしく行動力を発揮する。これから先、そこで書くかどうかも落ち着いて考える間もなく空の鳥と野の花とというページまで設けてしまった。これはいわゆるメルマガで、登録すれば、わたしが書いたものが随時、メールで届くらしい。
となれば、これはもう書くしかないな。



2003年10月25日(土) ハロウィンパーティーとミニオフ会の土曜日

さてさて、この週末は何しろ、コンテンツのぎっしり詰まった、リッチな土日だった。

つい先日、ゲストノートに、日記はいわばミニシアターで、そこに必ずしも日常を登場させる必要はなく、毎日エッセイを書こう、なんて書いたものの、今日はこの週末のことを書いておきたいので、いきおい「日記」になってしまいそう。

ま、いいか。今日は日記らしい日記にしよう。


この土曜日は、大きなことが2つあって、手帳のカレンダーには星のマーク入りでこの2つの予定が書き込まれていた。この2つのことがどういう具合に運ぶのか、楽しみもあり、またどきどきもしていたのだった。

ひとつは英語学校のイベント、子どもハロウイン大会。これは、1年で一番大きな子どものイベントで、子どもも親も楽しみにしている。
3歳から12歳までの子ども達、赤ちゃんたちも入れると50名あまりの子ども達が、思い思いの格好に仮装して、ダンスやゲーム、コスチュームコンテストや、トリックーオアートリートをする。お母さんのみならず、お父さん、おばあちゃん、おじいちゃんもいらっしゃる家があるから、これは父兄参観日の感じでもある。これを3人のスタッフで回すのだから、かなり気合を入れてかからないと、参加者をエンターテインするのは難しい。

でも、子ども達はその日頃と違った雰囲気だけでも充分、ファンタジーの世界に入っていたようだし、いろんな子どもたちと大勢で何かをすること自体がわくわくすることなのにちがいない。家のドアをトントン敲き、そこの人からキャンディーをバッグに入れてもらいながらはしごするのは、いくらまねごとでも嬉しいことなのだ。また親達もそんなきらきらした子ども達の姿を見て嬉しがってくれたんではないかと思う。
来年の反省点もたくさんありはするが、

ま、いいか。成功だったということにしよう。


わたしは今年はちょうちょに変装した。パープルのアフロのかつらを付けて、
ちょうちょの形のマスクをつけて、さらに透き通ったカーテンの羽を背中に生やして。
この格好で子ども達を連れて表の通りを歩いて、近くの家にトリックーオアートリートに行ったので、道行く人や車の中の人から「ぎょっ」とする視線をあびた。でもマスクがあると、そういうことも平気だから不思議だ。
しかし、このマスク、ロフトで見つけ、きれいだなと思って買ったのだが、後で写真を見た連れ合いが、このマスクはやばいよ。いかがわしいパーティーなんかで付けるやつだよと言う。そんこと言われたって、このマスク付けてダンスやゲームして、おまけに子ども達といっしょにたくさん写真撮られてしまったのに。

ま、いいか。知らなかったのだから、許してもらおう。


さて夕方5時にはすっかり後片付けも終わったので、次なるイベントの向けて電車に乗る。
今夜はいつものジムのラテンに、まだ見ぬネット仲間のOが来ることになっている。0はラテンエアロのインストラクターP先生のダンスチームのメンバー。ステージのビデオは見ているから、会えば、その中の誰かか分かる。それにしてもオフで会う前というのはいつだって独特な緊張があるものだ。

ちらちらと入り口の方に目をやりながらストレッチや筋トレをしていると、真っ赤なタンクトップ姿のP先生と黒いシースールのダンス衣装のOが華麗に現れる。
Oの最初の印象は「やっぱり知っていた」という感覚だった。文字で知っている相手がそのまま実物と繋がるのも、いつもの不思議。
この日のラテンはダンサーのように(実際そうなのだが)Oの脇で踊って、とりわけ楽しかった。いつものように、わたしはくるくる回るところになると方向が定まらず、オタオタしてしまったけれど。

ラテンが終わるのが9時だから、その後即効シャワーに入り、3人で近くのパスタ屋さんに行く。
P先生にしても毎週顔は合わせていても、座り込んで話すことは初めてのこと。Oとは今日初めて会ったのだが、日記、その他でもうわたしのことは割れている。なんだか気心の知れた者たち、現役の女たちの会話が続く。P先生とは母親同士でもあるから子どもの話しも出てくる。P先生の21歳の長男の涙が出てくるような兄弟愛の話を聞き、感動してしまった。我が家の青年Hと同じ年。こういうのをつめの垢を煎じて飲ませたいというのだろう。初めてこの言葉を実感をこめて使ったような気がする。


まだわたしが30代の頃、すでに40代を迎えた友人から40代っていいのよ。なってみると分かるわと言われたことがあるが、昨夜も様々なことを話ながら40代って女が女として一番生き生きとして美しい時なんじゃないかと思っていた。しかし、わたしは配偶者がいる分、なんかシャープさに欠けるというか、生ぬるいというか、言ってしまえば、ぬかみそくさいなあと自覚する。

ま、いいか。それもまたあたし。


けれども大切なのは、立場や年齢が違う者たちが、その違いの中で新しく出会い、新しい関係を作り出していくということ。
ひとつのジャンルの音楽が別のジャンルの音楽と出会う時、そこに新しい音楽が生まれるように。

フレキシブルでいよう。
いろんな年齢、いろんなジャンルの人と出会っていこう。
そうだ。来月から心太(ところてん)の日記も書くのだった。


おっと、もうひとつ、今日の最後のイベントのことを忘れることろだった。
つくば市で寮生活をしている次男が、今夜は大学のサークルの仲間を2人、我が家に連れてきて泊まらせるという。よりにもよって、あたしが飲んで帰る時に...。ま、どうせ、汚い寮に慣れているむさくるしい輩たちだろうから、次男の部屋で雑魚寝でもなんでもすることだろうと考えてとりわけ掃除もしないで家を出たのだった。ところがレストランに迎えに来た夫の意外な発言
「どうする、家に泊まる子、一人は女の子だよ。それもいかにもお嬢様風の子だぜ」と少し慌てぎみ。
「ええっ」
驚いたのはこっちの方。なにしろ次男は長男と違って女の子と話もろくにできないタイプのはずだったんじゃないのぉ。

とりあえず家に戻ってみると、ムサイ男子学生2人とかわいらしい女子学生が
仲良く、明日の英語討論の他流試合のための作戦を練っているのである。えらく寛いだムードがそこにあり、おもわずにんまりと笑みが漏れてしまった。ともかく女の子のために、寝る部屋を整え、明日の朝、早く出かける彼らのためにサンドイッチを沢山作る。夜中の2時の話。

ま、いいか。明日は教会に行かないし、保育所のイベントは午後11時からだし。

と、いう具合にめまぐるしくも人との出会いが心に残る豊かな土曜日だった。





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2003年10月24日(金) 髪を染めてもらいながらケルトの美しい調べを聴いていた

今日は何も予定の入っていない金曜日だったので、いつもの美容院に行った。
出産のためにお休みしていたYさんがもうお店に出てきていて、お店の中においてあるベビーベッドの中に生まれたての赤ちゃんがすやすや眠っている。いつもシャンプーしてくれるHくんは最近本を読むようになったと、ここ最近読んだ本の話をしてくれる。店長はわたしが好きそうなCDを見つけたからといって17人の女性ヴォーカルの曲が入っているケルト音楽のCDをかけてくれる。ひったし、わたしの好み。
前回来た時には沖縄のバンドてぃんがーらのCDで、それも良かったけれど。
窓の外はえらくくっきりとした秋晴れの風景が広がっていて、コーヒーをいただきながら、美しいケルトの旋律に癒され良い時間を過ごしたことだった。
もちろん、ヘアダイとカットで髪もきれいになったし。

ケルトの音楽を聴いていると、そのあまりのなつかしさに、生まれてくる前にそこに住んでいたこともあるんじゃないかという気がしてくる。10代の時、ジョーン.バエズにどっぷり浸かって、彼女のCDを聞きながらひたすらギターをコピーし、歌もすっかり空で歌えるようになったけれど、今思えば、あの歌い方もメロディーラインやハーモニーも、伝統的なアイリッシュフォークソングだった。ジョーン.バエズを通して、あの頃からケルトの音楽に惹かれていたのだろう。

さて、アイリッシュダンスのミュージカル「リバーダンス」の公演ももうすぐ。久し振りのミュージカルだ。つい先ごろ、すでに来日しているリバーダンスの主役コナーとジョアンのインタビューがチケットぴあの情報メールに載っていて興味深かった。

(以下抜粋)

ジョアン「アイリッシュ・ダンスは、イギリス人に抑圧され、娯楽を奪われた人々が、上半身を動かさずに下半身だけでこっそり踊った“隠れダンス”が起源という説もあります。だから情熱をはき出すように力強くパワフルなんです。アメリカのタップはフリー(自由)だからステップもまちまち。グループとしてのパワーは表現できません。その点アイリッシュ・ダンスは集団が一緒に踊った時に地面から沸き上がるようなパワーが発揮される。会場の皆さんはお腹で感じることでしょう。その強さの中に逆に自由を表現していくのです」

コナー「黒人たちのストリート・タップは力強いでしょう?それはアメリカに移住したアイルランド移民と黒人は共に虐げられ、寝食を共にしていた。そこでアイリッシュ・ダンスを黒人も一緒に習ったからなんですよ」





2003年10月23日(木) 「9歳の危機」で出会ったのは「鳥の眼」だった

昨日の日記でシュタイナーのことに触れたが、シュタイナーの言う「9歳の危機」のことで今日はひとつの発見があった。

シュタイナーによると、子どもは幼児期、母親の中から出ていこうとし、やがて、母親を背中に感じるようになる。さらに9歳ごろになると、もう母親のひざから立ち上がり、母親の隣へと来る。ちょうどこの時期、子どもは自分の周りにいる人たちが、自分とは別の人であることを実感するようになり、その時はじめて、「死」の恐怖を味わい、孤独感や寂しさに襲われるのだという。

わたしはこの「9歳の危機」の話を、シュタイナー学会が主催したある講演会で聞き、かなりの衝撃を覚えた。
それというのも、私自身が、この「9歳の危機」に見舞われたことを、鮮明に覚えていたからだ。覚えているだけではなく、そこの記憶に引っかかっりを持っていた。

わたしの記憶というのはこうである。
9歳の頃、不意に暗い気持ちに襲われるという状況にしばしば陥った。それは友達と遊んでいる最中だったり、家族揃って食事をしている最中だったり、おおよそ何の脈絡もなく、まるで発作のように起こるのだった。
一旦、その気分に襲われると、ちょうど金縛りにあったような感じで、自分ではどうにも振り切れないのだ。もう友達といっしょに遊べない、食事がどうしても喉を通らない、というフリーズ状態になるのである。

そういう時のわたしは、まるで追い立てられるようにその場を離れ、とにかく、高い場所を探してよじ登った。幸いわたしの生まれ育ったところは山にぐるりと取り巻かれており、家も丘の斜面にあったので、家の脇をずんずん登っていけば、すぐに丘の上に立つことができた。そしてそこから下に広がっている町並みや田畑をはるかに見下ろすのである。そこにたくさんの家があり、人々の暮らしがあり、その上には共通にどこまでも広がる空がひとつづきに繋がっているのを見ると、不思議なようにそのフリーズの状態が解けた。呼吸が楽になり、暗い恐怖は消えていた。そして、何もなかったかのような心持で丘を降りて遊びの続きをしたり、食事を続けたりしたものである。

講演の中で「9歳の危機」の話を聞いた時、わたしが襲われた発作のようなものが何に由来するものかが分かって、なにか霧が晴れるような気がしたのだ。そしてちょうど9歳の頃、教会学校へも毎週通うようになり、聖書の話や神のことを求めて聞くようになったことも納得がいった。しかし、今日まで、どういうわけで丘に登ることで、その状態から解放されていたのか、そこの部分が分かるようでいてもうひとつはっきりしないままだった。

昨日、ワタナbシンゴさんの日記
魚眼鳥目
で紹介されていた、にしはらただしさんの日記散歩主義を最初のものから読んでいくうちに、2001年8月24日の「鳥の眼」と題された日記に行き当たった。それは「俯瞰」について様々な方向で、また様々な人々の有り様を通して述べられている興味深い記述なのだが、朝読んだこの内容を風呂の中で(風呂で考え事をする。今日は午後のジムの風呂の中だった)反芻しているうちに、その「俯瞰」のことが、わたしの「9歳の危機」の記憶に突然結びついたのである。

>神とはまさしく自らを含めた『俯瞰する眼』の中にいる。


そうか、あの時、丘に登ってその地点から下を見た時、わたしは鳥の眼を持ったのだ。親や友人が遠のいてしまい、全くの孤独の中に閉じ込められた時、この世界を創り、すべてを支配している神をその「俯瞰する眼」の中で感じ取ったのだ。そして、それは親から離れて神へとのかかわりを持ち始める、大切な入り口だったのだ。
この発見をとてもうれしく思った。どこかですでに感じてはいても、それが
言葉にフレーミングされる時、その漠然とした想いがくっきりとした絵になって修まるから。わたしはようやくわたしの「9歳の危機」の記憶の呪縛から切り離されたのかもしれない。


にしはらさんは日記をこのように結んでいる。

>結局、「鳥の視点」とは魂の視点だと思う。
>世界と溶け合っている「もう一人の自分」の眼なのだ。
>ぼくは、ぼくたちは「その眼」からなにを紡ぎ出すかなのだと思う。
>常に「俯瞰」を意識する。そこからもういちど羽撃いてもいいんじゃない
>か。そんな気がしている。

もうあの9歳の時のような激しさで闇に心が支配されてしまうことはないまでも、、時としてふっと空虚な感覚に襲われることはある。そんな時、わたしは、空を見上げたり、木の幹を撫でたり、また草花の香りを嗅いだりと、自分の外に広がっている世界に一歩出ることで、またそれをイメージすることで、垂直な線を取り戻そうとする。
これはまた世界と溶け合っている「もう一人の自分」をそこに見つめること。つまり「鳥の視点」で見ようと、視点を正しい位置に戻そうとする営みなのだ。



2003年10月22日(水) 今、踊るということ

英語学校の仕事が終わった後、そのままの足で夜8時45分からのファンクのクラスに出るべくジムへ寄る。火曜日の夜はヒップホップのクラス、そして明日の木曜日の午前中と土曜日の夜のラテン。金曜日の夜のファンク。こうして書いてみると一週間に多い時は5クラスもダンスをやっていることになる。
クラスの他にも家でステップのおさらいなんかをやるし、たまにはラテンのCDをかけながら家事をするわけだから、実にあきれるほど踊りまくっている。
こんなのはこれまでのわたしの人生でも全く珍しい。

ダンスのクラスといえば、小学校2年生の時から5年生まで習っていたバレエ。しかしあれは楽しむというよりはむしろ修行のような感じで、トウシューズに血を滲ませながら、毎晩エシャッペ100回を自分に課したりしていた。

その後は、子育て時代、ニューヨークのオイリュトミー学校の早朝練習に
毎週通った。オイリュトミーとはドイツの教育者、哲学者 ルドルフ.シュタイナーが創造した身体を楽器にするというひとつの芸術表現だが、これはダンスのトレーニングというよりは自分の魂の有り様を身体の動きの中で確認するというような性質のものだった。音楽で動く。また詩の朗読で動く。

それなりに貴重なトレーニングだったと思っているが、今は純粋に、楽しむため、解放するために踊っているように思う。それでも、自分の身体にはなかったリズムやビートと出会う時、当然、身体は新しい動きを獲得する。そしてそこにはまだ知らなかった自分との出会いもまた起こる。
瞬間、瞬間に起こるダイナミックな出会いが、ダンスにハマってしまうことの一番大きな理由なのかもしれない。
心ばかり、頭ばかり使ってきた。それはそれで良かったのだが、身体を通して出会うこと、変ることを知りつつある。

あ、いけない。
明日のラテンを踊るためにはもうこれ以上夜更かしするわけにはいかない。踊るということについてはまたいつか書くとしよう。
今まで無自覚に踊ることにのめり込んでいたけれど、ここに何かあるのだろう。


2003年10月20日(月) 書きたい気持ちを抱えて

昨日の日記のみなしごの女の子の話を絵本にした「お星さまのおくりもの」という本が手元にある。本の内表紙には1991年クリスマス、○○さんよりと贈り主の名前が書いてある。

その絵本の贈り主は、わたしが保育園の年長児(さくら組)だった時の受け持ちの先生。つまり、「星のおくりもの」の劇を指導してくださった先生だった。
彼女が、すっかり大きくなって母親になったわたしに、わたしの小さな息子たちに読んできかせるようにとその絵本を送ってくださったのだった。

その時、わたしは送っていただいた本が自分が演じた劇の絵本だったということに気がついていたのだろうか。アメリカで子育てをしながら、ボランティアをし、コミュニティーカレッジに通っていたあの当時は、とにかく立ち止まって物を考えたり、遠い記憶を呼び覚ましたりという心のゆとりもないほど、日々の生活に追われていた。その絵本や、先生の想いにゆっくり心を留めないままに素通りしてきたのではなかったろうか。

今になって、年長児からわたしが母になった時まで、変わりなく、心に留めてくださっていたH先生の心がしみじみとありがたく、感謝の気持ちでいっぱいになる。ああ、なんだか申し訳ないなあと、いつもの後悔の気持ちがまたおこる。

H先生はその当時から詩を書いていらした。先生が初めて出版された詩集をいただいたのは高校生の時だった。わたしたちの結婚式はH先生と同じように、保育園が併設されている教会で挙げ、その後のパーティーは保育園で祝っていただいたのだが、その席でH先生は自作の詩を読んでくださった。朗読を聴きながら、幼い頃、父に連れられて行ったH先生の結婚式で、美しいウエディングドレスのいつもと違う先生の姿にぼおっとなっていた幼いわたしを思い出していた。

そういえば、今わたしはあの詩を読んでくださった先生の年代。
何か霧が晴れるような感じで、見えないものが見え、聴こえなかったものが聴こえてくる不思議の中で、H先生のことが、また、その時さくら組のわたしがいただいたかけがえの無いもののことがしきりに思い出される。人生が始まったばかりの時に彼女は美しいお話をいくつも聞かせてくれた。先生の机の上には「ひろすけ」と大きな字で書いてある分厚い本が置いてあった。浜田ひろすけの童話集だったのだろう。

今夜は遅くなったので、書きたい気持ちを抱えて眠るつもりで、タイトルもそのようにして2,3行だけ書くつもりだったが、やっぱり書いてしまった。
吉原幸子の「幼年連祷」から始まって、記憶がまた次の記憶を連れてやって来る。


2003年10月19日(日) 教会学校で話した「星のおくりもの」

昨日の日記で吉原幸子の詩集「幼年連祷」のことを書いたが、わたしは自分の幼年時代のいくつかの場面をかなり鮮明に記憶している。

今日の教会学校でのお話でわたしは保育園の年長児の時、クリスマス会で演じた劇のことを話した。わたしの通っていた保育園はキリスト教会の付属の施設で、クリスマスの時期には同じ町にある少年院へ園児がでかけ、お遊戯会をしていたのだが、わたしが6歳の時に演じた劇はグリム童話の「星のおくりもの」というものだった。


          「星のおくりもの」


むかしあるところに、おとうさんもおかあさんもいないひとりぼっちの女の子がいました。すむところもねるところもありませんでした。

きがえの服もなくなってしまったので、女の子は旅に出ることにしました。
持ち物といえば、しんせつな人がくれたパンがひとつだけでした。

ひとりぼっちですから、神さまにたよるほか ありません。野原を歩いていきました。

しばらくいくと、むこうから、ぼろぼろの服を着た男の人がやってきました。
「はらがへって死にそうだ。なにか食べるものをくれんかね」
女の子は ひとつしかないパンをさし出していいました。
「おじさんに神さまのおめぐみがありますように」
そしてまた どんどん歩いていきました。

しばらくいくと むこうから ひとりの女の子がやってきました。
「あたしは あたまがさむくてしょうがない」とその子は泣いています。
女の子はじぶんのぼうしを その子にかぶせてあげました。

しばらくいくと むこうから ちいさな男の子がやってきました。
その子ははだかで寒そうにしていました。
女の子はじぶんのベストをぬいで その子に きせてあげました。

そうして歩いていくうちに 森にさしかかりました。
あたりはもう 暗くなっていました。
そこへ また はだかの子どもが通りかかりました。

女の子は 考えました。
「もう、暗くなってきたわ。森の中ではだれに会うこともないでしょう。
このシャツをこの子にあげてしまおう。」

女の子はさいごの一枚になった下着をぬいで その子にあげました。
女の子にはもうなんにもありませんでした。
女の子はまるはだかで 森の中に立っていました。

するとその時です。
それまで空の上できらきらまたたいていた星が
いちどにふってきたのです。
ぱらぱらと夜空からふってきた星は地面に落ちると
きらきら輝く銀貨になりました。

気がつくと女の子は、いままで見たこともないような
美しい服を着ていました。
そして女の子のまわりにはたくさんの天使がいて
女の子をとりかこんでいました。
女の子はそれからはしあわせにくらしましたとさ。



さて、この劇でこの女の子を演じた6歳のわたしは、みなしごで、さらには自分の持ち物をひとつ、またひとつと手放してゆくことに、劇の中ではあっても、不安で、つらい気持ちがしたことをうっすらと覚えている。星が降ってきて幸せになったという最後のところは残念ながら記憶からストンと落ちてしまっている。しかし、どういうのいだろう。この手放していくということの中にある尊さを、その時、感じ取っていたと思うのだ。それは痛みを伴うものではあったけれど。

なぜ、この話のことを思い出し、子ども達にしようと思ったかといえば、今日の聖書の箇所がマルコ10章17〜31、「金持ちの男」の箇所だったからだ。
イエスに永遠の命を得るには何をすればよいのかと訪ねた金持ちの男はイエスが「自分の持ち物を売り払って貧しい人たちに施しなさい」というと、悲しい顔をしてイエスの前を立ち去った。みなしごの女の子はちょうど、この金持ちの男の対極にあると思ったからだ。

しかしわたしは、その金持ちの男のことを子ども達にこのように話した。

「けれど、それを言うイエスさまの顔はけっしておこったきびしい顔ではなかったのよ。イエスさまは優しく、じっとその男の人を見つめて話したの。男の人はイエスさまから愛されていることが分かったけれど、自分は自分の持っているものを手放すことができなくて、悲しい顔で背を向けて離れていったのね。けれども、もしかすると、その男の人は次の日に、また一週間後に、もしかすると10年後かもしれないけれど、「イエスさま、今わたしは持っているものをみんな人にあげてあなたについていきます!」とイエスさまのところに戻ってきたんじゃないかと思うの。イエスさまのあの顔を思いうかべて、たくさんのお金や財産に囲まれて生きることよりも、もっと幸せな生き方があるって気がついた時に。」

************************

マルコ10章17〜31
◆金持ちの男
10:17 イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」 10:18 イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。 10:19 『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」 10:20 すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。 10:21 イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」 10:22 その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。
10:23 イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」 10:24 弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。 10:25 金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」 10:26 弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。 10:27 イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」 10:28 ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした。 10:29 イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、 10:30 今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。 10:31 しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」




2003年10月18日(土) 吉原幸子の詩集 「幼年連祷」

昨日の日記に吉原幸子の詩集のことを書いた。
わたしが昨日持ち歩いた現代詩文庫56「吉原幸子」の裏表紙には詩人の顔写真が載っている。机の上で頬杖をついて虚空を凝視している鋭い眼。細面でショートカットのきりりとしたその詩人の顔を好きだと思った。30代とも40代とも見える写真がわたしにとっての吉原幸子だったので、彼女が去年の11月に70歳で亡くなったことを今頃になって知り、なにか後悔のような気持ちが起こる。

何に対しての後悔かといえば、彼女の詩が好きで繰り返し読みながらも、現実に生きている彼女に関心を向けてこなかったことへの後悔。たとえば、今何歳なのかとか、どこに住んでいるのかとかを把握し、講演などで実際に会ったり話を聞いたりする機会を求めるといったそういうことを全くしてこなかったから。

彼女の詩はとても近くに感じられた。その近さの故に、その詩はぴったりと私自身の言葉であるかのようにわたしの中に入り込んだ。そうした時、詩はもうすでに詩人を離れてわたしのものなのである。
もしかすると、わたしはその詩を生み出したその詩人の日常や身辺のことから無意識のうちにも遠ざかろうとしてきたのかもしれない。その詩をわたしだけのものとするために、それを書いた人を遠ざけようとすらしていたのではないだろうか。

いったいいつ、どういうきっかけで彼女の詩を知ったのだろう。
その出会いの始まりのことは覚えていないが、
わたしは育児日記の中に「あたらしいいのちに」という詩を書き写している。
そして、その詩を読むたびに泣けた。

その詩は彼女が初めて出した詩集「幼年連祷」の中に入っているが、彼女はその詩集についてこんなことを書いている。


「「日記以前の、或いは決して日記に書かれていない筈の、おぼろげな、しかし色彩にあふれた閃きのような存在感だけが、わたしの憶い出せるすべてであった。意識の記憶より感覚の記憶の方がはるかにつよいことに私は驚いた。道の、家のたたずまい。陽射しと暗がり。音のきこえ方。匂い。−それらを手がかりに、私はいつの間にか、数年がかりで私の幼年を再体験していた。そうしながら眺めてみると、それは実在の記憶より以上に親しみ深く、いきいきと、<ほんとうの幼年>として私の眼に映ったのだった。」


わたし自身、自分の幼年時代にかなり強い執着を持っていて、そこのところの記憶から自由になれないでいたのだが、自分が子どもを産み、母となることで、もう一度赤ん坊の頃に遡り、幼年時代を生き直すことで、自分のその時にようやくけりをけることができると感じていた。また自分の抱えている赤ん坊や幼児の中に、その時は見ることのできなかった自分自身をまた見てもいた。
吉原幸子の詩集と、そういう時に出会ったのだ。


 
       あたらしいいのちに
                   
                   吉原幸子


おまえにあげよう
ゆるしておくれ こんなに痛いいのちを
それでも おまえにあげたい
いのちの すばらしい痛さを

あげられるのは それだけ
痛がれる といふことだけ
でもゆるしておくれ
それを だいじにしておくれ
耐えておくれ
貧しいわたしが
この富に 耐えたやうにー

はじめに 来るのだよ
痛くない 光りかがやくひとときも
でも 知ってから
そのひとときをふりかへる 二重の痛みこそ
ほんとうの いのちの あかしなのだよ

ぎざぎざになればなるほど
おまえは生きてゐるのだよ
わたしは耐えよう おまえの痛さを うむため
おまえも耐えておくれ わたしの痛さに 免じて



2003年10月17日(金) 迷い込んだ場所であっても

結婚式とか祝賀会とか気の張るパーティーとか
そういう場所は自分とは遠いと感じる。
そして、そこから浮き上がっているわたしは
そういう時にこそ、ひたすらわたしに近づく。

今日はなにか、わたしがわたしを引っさげて
わたしと遠い世界に迷いこんだ不思議な日だった。

わたしのラテンのお師匠でいつもなみなみならぬエナジーを注いでくれる
P先生が、ある会社の10周年記念のイベントで踊るというので、わたしは見に行った。彼女の仕事を見たい、客席から応援したいという気持ちで。

そのイベントは招待されている人たちが一斉に「センセイ」と呼ばれている。
どうやら芸術関係の方々らしい。
わたしの生きているところにあるゲイジュツとはどこかニュアンスの違うゲイジュツの世界だと思った。

しかしステージの上には無名(わたしにとって無名なだけで、その世界の中ではそれぞれプロとして活躍している人たちだが)のアーティストたちが、それぞれに自分を精一杯に出していて、その真摯さが心地よかった。

p先生や仲間のダンスはわたしにとってはもう馴染みになっているので、舞台のそこだけはわたしの良く知った世界。楽しそうにのびのびと踊っているので
見ているわたしも気分は高揚し、心はいっしょに躍っていた。
ステージの向けてエナジーを送りながら。

行き帰りの電車の中ではずっと吉原幸子の詩集を読んでいた。
好きな詩人。彼女の詩は呼吸のように親しい。
バッグが小さいので読みかけの単行本が入らず、薄い現代詩文庫の
「吉原幸子詩集」を入れてきたのは正解だった。
ある意味、その詩の気分がずっと心の底に流れていた。迷い込んだ場所であっても自分のところへ戻る道がバックの中にはあることが何か心強かった。

読みながらまだ出会っていなかった詩があったことに気づく。
目は読んでいても、心は読めないでいたのだろう。
読めるようになったのはわたしが少し歩みを進めたせい?

明日、この詩人のことを書けたらいいと思う。




2003年10月16日(木) めずらしく家にいる木曜日の午後に

美しい秋の日の午後
こういう時間に家にいることがあまりないので
この時をとどめるためだけに日記を開く

日頃であれば木曜日は朝から夜まで家の外で過ごしている。
朝のラテン、エアロ、ファンクとこなし、夕方からゴスペルの練習。
仕事や役割がないオフの日をそのように動くことに当てている。
そうしなければ、一日ぼんやりと過ごしてしまうから。
本質的にわたしは出不精。篭るのが好きだし。

けれども今日はノルマにしているジム行きをやめた。
休息の必要を感じたからだ。
身体というよりは心の。
先週末からずっと出かけていて家に一日いることがなかったから
少しバランスを崩しているような気がした。
安定感に乏しい。

台所を磨いたり、掃除したり、ただこうして書いたり、
昼間の光りの中で、誰とも、何ともかかわらずに一人で過ごすことで
回復するものがある。
そう思いさえすればできるというこの贅沢さに感謝しつつ。
(そうしたくてもできない時期があった。そうしたくてもできない
人達の方がむしろ多い。)

窓の外に広がるハナミズキの葉が紅葉し始めている。
メキシカンセージは紫色の花を咲かせるばかりになっている
夏の間のセミの声に変って、しきりと聞こえてくるのは鳥の声
走る過ぎるバイクの音すら
ひっそりと静か。




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2003年10月15日(水) 心の深い底で触れ合うものがあるとするならば

一日を終えて、この日記を開くという行為は、一日のうちで、最もわたしがしたいことなのかもしれない。

この一日という時間の中で、感じたこと、考えたこと、その流れては消えゆく想いにしばらくの間心を向けて、その流れを止めようとする。
そして、それをひとつの消えないものに留めておこうとする。
時間とともに消えてゆく夕焼けの空をなんとかカメラに収めようとする、そんな心の動きにも似ているだろうか。

その日に何をしたとか、どんなことがあったとか、そういうことはわたしにとってはどうでもよかったりする。まして人に伝える意味もないような気がする。しかしその出来事の中で、また、出来事と出来事の狭間で「動いた心」は記録しておきたいと思うのだ。その時の色や音や香りとともに。

しかし、何のために。
ひとつは自分自身と深く出会うために。
今だけではなく、これから先も。
もうひとつは、その深みのところで自分以外の魂と出会うために。
それはわたし自身が、深いところから出てきた他者の言葉に触れる時に、そこに強い心の振れや、安らぎや、共感を覚えるから。

著名な作家が書いたものばかりではけっしてない。
同じように無名で生きている人の言葉にそれは起こる。
むしろ売りものではない文の中にこそ、わたしの出会いたいものは潜んでいる。


WEB日記行動にまつわる研究をしておられるという聖心女子大学社会心理学研究室のSさんからアンケート調査の依頼がメールで届いた。おそらく、ここや他のWEB日記で書いている多くの人にこのアンケートの依頼があったことだろう。そのアンケートに答えながら、その選択肢のどこにも当てはまらないものがいくつかあり、わたしにとって日記は何なのだろうと考えた。

人を、読者を、意識していないかといえば、嘘になる。
では読者を楽しませたり、喜ばせたりすることを、あるいは言葉の遊びを共に楽しむことをひとつの目当てとして書いているかといえば、わたしの場合は違う。ある意味、自分自身の魂に対して真実ならば、他の人がこれをどう読もうがかまわないという意識すらある。
しかし、そこには共感してくれる誰か、
言葉を交わさないまでも、姿すら見えないまでも、確かに底のところで触れ合い、細かな振動が伝わり、何かが行き交う他者が存在するという前提がある。

では、その「誰か」がもし存在しないとしたら。

誰もいなくても
神は在る。

むしろ、そこのところへ立ち返って書いていたいと思っていたのだった!
これは、祈り。
そう思いながらもしばしば、そのことを忘れてしまうが。




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2003年10月13日(月) Mの寮の部屋でまどろんだ雨の日の午後

連休の3日目、夫と共に春から大学の寮で暮らし始めた次男のMを訪ねる。
5月の連休の時以来だ。

彼が家に置いていった冬物衣料や食料品などを届けるのが目的だが、ちょうど学園祭の最中だから、キャンパスの様子などをちょっと見てこようと思ったのだ。

このことを巡って夫との間でちょっとした意見の食い違いがあった。
Mが入っているサークルが店出しをすることを聞いていたので、せっかくだったらその日に行こうというと、夫はよそうという。わたしとすれば、Mの友人達にも会えるだろうし、彼の大学での様子が分かるからと思ったのだった。

「あのときストロング・ウエイにぼくのおふくろが現れたと思ってみて、そんな男とつき合う気する?息子の学園祭なんてあんまりうろうろしたくないよ。」と言う。前回の日記で触れた夫と出会った模擬店「ストロング・ウエイ」のことだ。

うーん、そうか。あの場所であの風貌の少年の傍らに、すっごくまともな、りんとした母親がいたとしたら...我々の出会いは成立していなかったかもしれない...

そこでわたしも考えを改めて、模擬店をやっている日曜日は避け、Mが一日暇だという13日に訪ねることにした。

いっしょに食事や買い物をした後、ざんざん降りだったこともあり、雨が止むまでということで彼の6畳一間の寮の部屋でしばらく過ごす。きれいに片付いているというわけではないが、なんとか我々が座るスペースはあった。わたしは入るやいなや「掃除なんてしないでね」と釘を刺されているから、あちこちに目を光らせることなどあきらめて、ベッドの上にどっかりと座りこむ。
Mと夫はパソコンをクリックしながら、音楽の話を始めた。

なんだかこれは親が子どもを訪ねている図じゃないな。どうみても友達が寮に遊びにやってきている図だ。わたしだって母親モードにさえならなければ、この空間をけっこう楽しむことだってできる。

「元ちとせの新しいCD,なかなかいいよ。」
「ぼく、買おうと思ってるんだけど。」
「あ、お父さんが買うつもりだから貸すよ。」

二人のそんな会話を遠くに聞きながら、わたしは、窓から雨に濡れた木々が見えるベッドの上にひっくり返って、うつらうつらとしばらくの間まどろんでいた。




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2003年10月11日(土) そうして目の前に もう一枚 白い紙を 置く

谷川俊太郎さんの詩集「みみをすます」は文庫をやっていた時代、また子育ての間にずいぶん音読してきた好きな詩集だ。
その中に「えをかく」という詩がある。


まずはじめにじめんをかく


というフレーズでこの詩ははじまり、地面、空、おひさま、星と月、と、様々なものが描かれてゆくのだが、その長く続いた詩の最後はこのように終わる


そして
もういちまい
しろいかみを
めのまえにおく

まずはじめに
じめんをかく


声に出して読んでいると、ここのところでいつも胸が詰まった。
聞いている子ども達は、わたしがここのところへきて泣きそうになるのを妙だなあと思ったことだろう。
けれど、今でも、このフレーズのところで心は強く振れる。

生きるってことは、とってもすばらしいことには違いないが、
みな、それぞれに、とてつもない不安を抱きながら、果てしなく続く荒野のようなところをたったひとりで進んでいる、と、そういうイメージをわたしは持っている。
その通奏低音の上に美しい自然や愛する人たちや楽しい出来事のつらなりがあって、わたしたちは自分に与えられた白い紙の上に、思い思いの絵を描きながら進んでいるのだと。



心太(ところてん)というサイトの「心太処」というコンテンツの10月号に「ストロング・ウエイ」というわたしの書いた文章を掲載させていただいた。

このサイトの心太日記は様々なジャンル、年代(10代〜60代)の24人の方々が日替わりで書いているユニークな日記だ。また、編集人ワタナbシンゴさんのライブ情報をはじめ、そのサロンに集う方々の活動が紹介されていて、「ボーターに立つサロン」というキャッチの通り、様々な立場の人達の活動や考えを知り、そこに繋がることができる。

ワタナbさんから掲載の依頼があった時、注目していたそのサイトで書かせていただけることをうれしく思った。またふだんは自分の世界の中だけで書いているわたしは、この場所を離れて書くということで新しい体験をすることができた。

「人」について書くその場所で、いったい誰のことを書こうかと迷い、ワタナbさんとのやり取りの後、最終的には連れ合いとの出会いのところから始まる物語を載せていただいた。それは、限りなくわたしの実体験に近いものの、実際のできごとは書いていないことの方が圧倒的に大きいわけだから、これはやはり物語だろう。

実際、書きながら思ったのだ。これまで過ごしてきた、様々なことがらや気分をとても書ききれるものではないと。しかし、言葉を綴りながら、書ききれない多くのことも、気持ちの上で、その中に閉じ込めた。
それだからだろうか、その文章を書き終えることで、わたしはひとつの季節の節目を作ったような気にさえなった。
それは、連れ合いと出会ってから共同作業としての子育てを終える今までのひとつづきの時。
それをともかくも白い一枚の紙に描き、その隅っこに自分の名前を入れた。

「出来ました!」
と、手を上げて、その絵を壁に貼ってもらう。


そうして目の前に もう一枚 白い紙を 置く。





2003年10月10日(金) ナチュラルであっても野放図というのはいけない

たりたガーデンが大変なことになっていた。HPじゃなくて猫の額ほどの庭のこと。花は春に植えたまま、植え替えもせず、ハーブ類は茂るにまかせていた。花は時期が終わっていたり、途中で枯れていたり、ハーブ達は我が物顔でジャングルを形成していた。

「あたしはこの野生味溢れるナチュラルガーデンが好きなのよ」と言い訳を自分にしては、あまり良くは見ないようにして、その脇に置いてある自転車にさっさと乗っていた。

しかし、ナチュラルと野放図とは違う。子どもの育て方もそうだけど。
「自然に帰れ」と我が子にもナチュラルで対したものの、単に手をかけない野放図としか言えない部分も確かにあった。

全く、世話というものが下手である。

植物にしろ、人間にしろ、世話にあたる人間は降っても照っても、自分の感情に左右されることなく、一定のルールに従ってきちんとルーチンワークをこなしていかねばならない。情熱があるとかないとかはこっちの問題で、世話をされる側からしてみれば、たまに抱かれる情熱よりは、絶え間なく注がれる穏やかな配慮の方がありがたいのである。それはよおく分かっている。

そんなことを反省しつつ、今日の午後は庭仕事に精を出した。ナチュラルはナチュラルでも、すっきりと気持ちが行き届いた庭になった。
さて、これで来年の春咲くチューリップの球根と冬の間も咲き続け、春までの間に株を育てるパンジーやビオラを寄せ植えすれば、秋のガーデニングは終わりである。まだ冬のこないうちから春のことを考えて準備するこの時はなかなか楽しい時ではある。

さて、明日はひさしぶりに花の苗を買いに行こう。




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2003年10月08日(水) わたしはわたしの歌いたい歌を歌っているだろうか

今日は歌のことについて思いを巡らせていた。
わたしは今、ほんとうにわたしが歌いたい歌を歌っているのだろうかという
問いがふいに起こったからだ。

ある方の日記を読んでいて、そこで紹介されている詩を読み、試聴した時に起こった問いかけだった。

こんなふうに自分の心にわきあがってきた言葉を歌っていた時があったと、ふいにストンとある地点へ落とされた感覚があった。
忘れていたといえるのだろうか。歌うことがそのまま生きることだったあの頃の自分を忘れていたなどと...

けれど、その後もずっと歌は歌ってきたけれど、様々な歌を歌ってきたけれど、そこの場所からではなかったと初めてのように知らされる。上手に歌うとか美しく歌うとか、そういうことは考えもしなかった。誰が聞いていなくても(実際、自分ひとりでギターだけを相手に歌っていたのだが)それでよく、ただただ歌いたい気持ちに突き動かされて歌っていた、あの場所。
怒りの歌だったり、抗議の歌だったり、祈りの歌だったり、愛の歌だったりしたが、どれも、わたしの中心から出てくる言葉だった。

わたしは歌を歌っている。
でも、ほんとうにわたしの発したい言葉としての歌を今
歌っているだろうか。
もしかすると、わたしはとても大切なものを
あの時のあの場所へ置き去りにしているのではないだろうか。




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2003年10月07日(火) 三枝和子「恋愛小説の陥穽」を読む

 
この夏から読み始めていた三枝和子氏の「恋愛小説の陥穽」をようやく読み終えた。
おもしろかった。図書館で借りた本なので、何とか手に入れたいと思っているがともかく、返却する前にここにメモを取っておこう。

ところで、わたしは昔から、男性作家の書く恋愛小説を心からの満足を持って読み終えたことがないような気がする。そればかりか、反発を感じることが多かった。それもずいぶん昔から。わたしが記憶しているのでは15歳の記憶にまで遡る。

中学校2年生の2学期、読書感想文で、モーパッサンの「女の一生」の主人公とシャーロット.ブロンテの「ジェーン.エア」のジェーンを比較し、前者は男が描く女性像であり、後者は女性にしか書けない女性像だと書いたことを覚えている。まだ男女の機微も知らない15歳ではあったが、そこに男がどのように女を見たいのか、そしてまた女は女をどう生きたいと思っているのか、その両者に横たわる深い溝のようなものを直感したのである。わたしの書いた感想文を読んで、当時付き合っていた2級上の先輩が「正確すぎるほど正確な表現だ」という感想をよこしたが、それを複雑な気持ちで読んだ。賞賛ではない嘆息をその文面に読み取ったからだ。

男性の作家が書いた小説の中の恋愛や女性の描写を読む時、何かしっくりこないというものから、露骨に頭に来るものまでその程度は様々なのだが、その違和感がどこから来るかと聞かれてもそれは感覚的なもので、説明できるような気はしなかった。

そうであったから三枝和子の「恋愛小説の陥穽」を読みながら、それまで言葉にできなかったことが明確な言葉で表されていることに、長年の胸の痞えがとれたような爽快感を覚えたのだった。

三枝氏は序文の中で、このような問題提起をしている。

男性にとっての恋愛の発想が「それが俺には必要だ」というところから来て、自分の所有物にしたいという願望であるが、女性には所有という事態を逃れたいという願望が一方にある。女性の目から見れば、「それが俺には必要だ」という構造において、男性作家の書く「恋愛小説」は本質的には女性を観ていない。そして観ていないのに、観ることができないにもかかわらず、作家自身があたかも女性を観ることができるかの如く書いている作品に出会うとどうしても違和の感を持つ。これは小説の技術云々ではなく、作者の女性観、男性観、ひいては世界観にもかかわってくる問題だと。

そしてまた、わたしがこれまで少なからず抱いていた違和感もそういうところに元を発していると今は言うことができる。

序文の後、9人の男性作家の作品を考察し、結では「ノルウェイの森」と「たけくらべ」で終わっている。この9人の作家の中にはまだ読んだことのないものも多かったので、ここで上げられている作品について自分で読んでみたいと思った。

しかしどうだろう、陥穽についてはもう充分に納得したから、陥穽に陥っていない、新しい視点、きちんと女性を観ている男性作家の作品を探すか、あるいは、今まで通り女性作家のものを読んだ方がいいかもしれない。読む時間は限られているのだもの。

せめて、取上げられた作家とおもな作品を記しておくことにしよう。




     恋愛小説の陥穽      三枝和子著 青土社
  
   
*序「恋愛の発見」と「生血」
              秋山駿 「恋愛の発見―現代文学の原像」
              田村俊子 「生血」

*漱石の過誤       「三四郎」「それから」「門」他

*谷崎の矛盾       「少将滋幹の母」「蓼食う虫」他 
 
*太宰の逃避       「ヴィヨンの妻」「女の決闘」他

*川端の傲慢       「眠れる美女」「伊豆の踊り子」他

*荷風の逆説       「断腸亭日乗」「つゆのあとさき」他

*秋声の破綻       「黴」「あらくれ」他

*三島由紀夫の二重構造  「鏡子の家」「午後の曳航」他

*武田泰淳の虚無     「快楽」「富士」他

*石川淳.原型への渇望  「普賢」「処女懐胎」他

*結「ノルウェイの森」と「たけくらべ」     
              村上春樹 、樋口一葉






2003年10月06日(月) メイ.サートン詩集「一日一日が旅だから」

少し曇り空の肌寒い秋の日の午後、
メイ.サートンの詩集「一日一日が旅だから」を読む。

たりたの日記を始めて3日目にメイ.サートンの「独り居の日記」のことを書いたが、この本はわたしの愛読書で、繰り返して読むうちに、すっかり彼女の家の中や庭のたたずまい、そこにある空気まで自分のものとなってしまった。

日記を通して出会った80歳のサートンに、わたしは深い愛情と慰め、また綴ることへのインスピレーションをもらう。

サートンが詩人であることは日記を通して知っていたが、その詩集の存在を知らなかった。この前の日曜日、いつものようにわたしを呼ぶ本に出会うべく書架に目を走らせている時にこの詩集が目に止まり飛びついた。

翻訳者は「独り居の日記」と同じ武田尚子氏。出版社も同じ。みすず書房。ちょうど2年前に発行されている。メイ.サートンは1995年に他界しているから、死後7年経って、はじめて、彼女の詩が日本語に翻訳されたことになる。

どれも初めて読む彼女の詩ではあったが、その静かな情熱や、深い孤独、澄み切った魂から紡がれる言葉は彼女そのものだった。

この詩集を今日読んだことの記念に
ひとつだけその詩を記しておこう。



      仕事のまえの祈り

                 メイ.サートン 
                 武田尚子.訳

大いなるもの 厳しいものよ
はるかな星の運行を
明らかに定めるものよ
いまこそ わが精神を
飛翔させてくださいー
かの星々の自在を お授けください。

生きとし生けるものすべての
声もなく慰めもない 悲嘆をつらぬいて
澄みわたる楽の音を 響かせてください
フルートのように魂を裂く 清らかな音色を
狂いなく わが耳にとらえさせてください。

厳しいもの おおいなるものよ
あなたのかぎりない 恵みによって
けがれた この胸からさえ 永遠に変らぬしらべを
いまなお 生むことができるでしょうか
願わくばわが歌に 厳しい形をお与えください。




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2003年10月05日(日) トップの写真は色づいた葉っぱたち

木々の葉が一斉に芽吹く春、そこに集まっている途方も無いエネルギーを感じて、わたしはどきどきしてしまう。これから始まる葉っぱたちの命のことを思って、胸がいっぱいになる。

そうして木々は葉を広げ、たくましく深いグリーンの葉を茂らせ、夏の間中、涼しい木陰を提供してくれる。いくら考えても、やがてこの葉がすっかり地面に落ちてしまうなどとても考えられないほど、木々の葉は日々の生活に溶け込んでしまう。

けれども10月。ふと気がつけば葉は一枚、また一枚と枝を離れ、地面に積もってゆく。

やっぱり今年も終わりは来るのだ...

毎年のことなのに葉っぱの命の終わりを思って淋しい。



けれど、落葉の季節は場所によってずいぶん違う印象になる。
ニュージャージーに住んでいた頃、秋は最も華麗な季節だった。
それまで深いグリーンだった葉が鮮やかな黄色や赤に色を変える。その賑やかさときたら...一斉に絵の具をぶちまけたようなのだ。景色そのものが明るく光りを帯びる。

わたしたちは、葉っぱの散り始めた公園に出かけては、まるで子犬のように、葉っぱの中を駆けたり、転がったり、葉をすくっては相手に投げかけたりして打ち興じたことだった。

今日、たりたガーデンのトップにした赤や黄色の葉っぱも、そんな公園での午後に撮った写真。子ども達ときれいな色や形の葉っぱを見つけては拾って袋にいれた。家へ持ってかえって押し葉にするためだ。

そうそう、あの日、Hは黄色いジャンパーを着て、Mはお揃いの赤いジャンパーを着ていた。ふたりが落ち葉の中をころころと転げ回り、夫がカメラのシャッターをカシャカシャと切っている間、わたしは一人、ベンチで勉強していた。確か翌日がカレッジのテストか何かで、わたしは必死な形相だったと思う。


あれから15年も経ってしまったけれど、あの時拾ったメープルの葉は今でもきちんとフレームの中に納まっている。あの時の鮮やかな色は次第に褪せてはいったけれど、思い出の中の絵や、写真に納まった赤や黄色の葉の色は少しも色褪せてはいない。




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2003年10月04日(土) 20代に遡って生きてみる

今日は朝からすっきりとすがすがしい気分だった。
秋の澄んだ空気と柔らかな陽射し、何の予定も入っていない土曜日だということもあるが、何よりの理由は抱えていた課題を終えたことにある。

原稿を書き終えた。
いつも、ほとんど独り事のように書いてはろくに読み返すこともしないわたしが、珍しく、考え込み、推敲し、読み返し、さらに書くという作業をした。本来書くということはそういうプロセスを要求されるということすら忘れてしまっていた。恥ずかしい話である。苦労しなければ喜びを得ることはできないというどこかの国の諺があったと思い出した。


21歳の時に遡って書いた。
何と今の息子の年である。
ほとんど記憶の片隅に押しやられていたことがらが、不思議なように生き生きと甦ってきた。甦ってきただけではなく、しばらくの間、タイムスリップしたようにその時の自分に戻っていた。

時は進み、けっして逆戻りなどはできないが、内なる時間というものはまた別の動き方をする。過ぎたはずの時の中に容易に自分を置くことができるのだ。それは時間に限ったことではない。もうこの地上のどこにも存在しない場所へだって戻ることができる。時も空間も自分の内にきちんと存在しているのだから。

おもしろいのは、その時には見えなかったことが今は見えるということ。時の流れがそうさせる。それだから、過ごしてきた時間を、また愛しいと感じる。

ところでなぜ、子どもの頃のことでもなく、30代の頃のことでもなく、20代なのだろう。そこへ戻ってみたいと思った理由は...
そこへと促されるわけは...

わたしの魂が今それを必要としているのだ。

以前からわたしは自分の産んだ子どもの年齢と共にその時の自分を生き直していると感じてきた。そうだとすれば20代という時に自分をシンクロナイズさせようとするのはむしろ当然のこと。

夕べはとうとう連絡もなしに外泊した我が家の21歳が、たった今戻ってきた。彼には彼のストーリーが展開しているわけだ。
彼のリアルタイムの20代とわたしの心理的なそれとがどうかかわりあうのか
ちょっとおもしろい気がする。



2003年10月03日(金) 月夜のうさぎ、ふたたび

今日は締め切りをすでに過ぎてしまった原稿を完成させるべく、午前中に家事や庭仕事の雑用を済ませると、テーブルにアールグレイがたっぷり入ったティーポットとマグカップを用意し、深く息を吸い込むとPCに向かった。

昨日ドトールで紙とペンとで書いたものは今日になってみると、それをそのまま打つ気分ではなく、もういっぺん、最初に戻って指が動くにまかせてみる。
ん、今度は行けそう、指の先に熱を感じる。

いったいどれくらい時間が経ったのだろう。なんとか最後のフレーズまで打ち終わった時にピンポーンとドアのチャイムが鳴る。

「ピンポーン」


郵便配達のおじさんだった。
無愛想なそのおじさんは、ほとんど物も言わずわたしに郵便物の束を手渡した。
郵便物の中には大きな封筒があって、それがポストに入らないからドアベルを鳴らしたのだ。
今日、原稿書きのために一日家に居てなんとラッキーだったことだろう。

差出人の名前を確認しないまでも、その封筒の形でそれが誰から送られてきたもので、何なのかはすでに察しがついた。
あさみ、いえ、夕雅先生からの色紙に違いない。

あせる心を落ち着かせ、決して、封筒をべりっと破ったりはしないで、丁寧に取り出す。
思った通り、出てきたのは美しい色紙。
歌が書かれたその色紙には、なんと水色とピンクの和紙のうさぎが二匹、仲良く耳を寄せてお月見をしている切り絵!

歌は

「月夜には 耳よせあってうさぎたち
   あなたに会えた よかったよかった」

と詠まれていて


「あなたに会えた」は薄青の文字でブルーのうさぎの頭のところに
「よかったとかった」はピンクのうさぎの頭のところに、寄り添うように書かれている。
その文字のまた優しげなこと。

思いがけない贈り物に、顔がほころぶ。胸が温かくなる。
一ヶ月前に会ったお下げ髪のあさみの顔が浮かぶ。

「あさみちゃん、ありがとう!!」


mGは夕雅先生の色紙を注文したいと言っていたから、プリプリの特選CDと共に小躍りしてうれしがることだろう。


  

   かの地より 届いた歌とCDに
        
         跳ねて踊るは 二色のうさぎ


2003年10月02日(木) 舞台の上から観客とアイコンタクトを取るように

今日は一日家を空けていていたので10時過ぎまで、パソコンを開くことができなかった。まず掲示板へ行き、レスを書いて、アクセス数と投票の具合を確認するために日記を開いた。

「52」という数字が飛び込んできて、その瞬間にはっとし、その後、じわっつと熱いものが胸に満ちてきた。今まで一番多くて40票くらいだったから、
今日は特別に多い。

応援してくれたんだ、
これは「がんばれ!」という声援だ
と素直に嬉しかった。

「読んでくださるだけでも有り難いのに
励ましてくださってありがとうございます!!!」

昨日は自分の自閉的な部分を色濃く出してしまい、
まるで読んでくれてる人がいないかのような表現をしてしまったけれど、
今、この文字の向こうに生き生きと読み手の存在を感じている。
ちょうど舞台の上から客席を見ているような。

何か映画のシーンかなにかになかったっけ。
誰もいないと思ってひとり舞台で演じていたら、客席に光りが当たり、大勢の人がそこにいることに初めて気が付き、同時に一斉に拍手鳴るという情景。
そんな感じ。

この4月にミュージカルの舞台に立ってみて、舞台に立つというのはほんとうに自分を裸にすることなっだなあと実感した。弱さも未熟さも含めて、わたしというものを見ていただく。そこに生まれるであろう違和感や拒否感も受ける覚悟でともかく自分をさらけ出すという行為。そのことと書くこととが似ていると今思った。

初めのうちは人から見られているという意識を敢えて持たないようにし、客席の人と目を合わせないようにするのだが、次第に肝が据わってくるとしっかり観客の顔を見ながら歌ったり、演じたりするようになる。それはやっていることに自信ができたり、うまくなったからというのではなく、何かふっきれるものがあるのだ。どういうわたしであっても、どのように見えようともあなたと繋がりたいと、おもいっきり前方に差し出す手のような。

そんな風に書いていきたいと思う。


2003年10月01日(水) 書いてはきたけれど、書いてはいるけれど

わたしにとって書くということはどういうことなのか。
わたしは何か「伝えたい」ことがあってそれを伝えているのだろうか。
わたしは果たして読み手を意識し、その人たちと繋がることを意識して書いているだろうか。
今日はそんなことが頭を巡っていた。

ひとことに書くといっても、人それぞれにその動機や、書き続ける原動力は違うのだろう。

あることがらを伝えるために書く。
ひとつの架空の世界を作り上げることを目的として書く。
自分の日常の記録として書く。
ひたすら、読み手を楽しませるために書く。

そしてわたしはひたすらわたしのために書いているのではないか、と、そんな問いかけが起こる。
実際そうなのだ。

自分の心に蠢いていること、外に出さなければ、次の一歩を踏み出せない言葉を綴ることで、自分のその「時」と折り合いをつけ、何がしかの決着をつける。おおよそ読み手のことなど考えてはいない。もし誰かを意識しているとするなら心に湧いた喜びも不安も混沌もそのまま投げかける、神。
だからわたしにとって書くことは祈りのようなもの。

しかし、書くということの異なる側面を自分の内に養いたいと思っているのもまた確かなこと。伝えたいことをそのままにきちんと伝えている文。思いっきり架空のストーリー。読み手を楽しませることができる文。

ともかく今、抱えている課題にしばらく向かいあってみよう。
今日から始まる新しい月はこういう月なのかもしれない。



たりたくみ |MAILHomePage
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