たりたの日記
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2002年10月31日(木) コンサート「ルネッサンスの肖像」

映画は1人で見るのも悪くないがコンサートは気が置けない人といっしょに行きたいと思う。今日の浜離宮朝日ホールでの波多野睦美さんとつのだたかしさんのリサイタル「ルネッサンスの肖像」、HPやミュージカルの仲間に声をかけ、また誰かを誘おうとチケットは余分に用意していた。

10月の半ば、高校時代の友人のTから夏のクラス会の写真が送られてきた。その手紙には24日から11月1日まで文部省の研修のため都内にいるとあった。これはクッドタイミング。わたしはTをコンサートに招待することにした。仕事の合間に合唱にも参加していたT、ルネッサンス時代の歌曲も、波多野さんの歌も彼女はけっして嫌いじゃないだろう。つもる話に花を咲かせるのもいいが、美しい音楽を共に聞くのもいい選択だと思った。夕方研修を終え戻ってくる彼女を待って新宿のホテルに迎えに行った。夕食を食べるだけの時間はないからスターバックスのテラスで夜気にさらされながら暖かいコーヒーとサンドイッチの軽食をおしゃべりの合間に流しこみ、地下鉄で会場へ向かう。

彼女とは高校3年間同じクラスで大学も同じだった。さまざまなシーンを共有してきた。お互いの配偶者のことも良く知っている。大学卒業後、私は2年で教員を止めてこちらへ来てしまったが、彼女は地元の町でずっと小学校の教師をしている。今は中堅どころ、そろそろ管理職試験を受ける時期だ。お互いの長男はそれぞれ大学生になっていて傍からみれば中年の女の二人づれなのだろうが、わたしたちは若い頃の友人同士に完全にタイムスリップしていた。ふるさとから遠く離れた土地でふるさとで親しくしていた人と会うのは独特のなつかしさがある。どこかよそよそしい東京の街がふるさとと地続きの親しみ深い土地にしばし変化する。

浜離宮朝日ホールは室内楽専用のホールとして室内楽の繊細な音の響きを美しく生かすために設計されたホールで世界のベスト9にランクづけされているらしい。このコンサートはこのホールの10周年記念の古楽コンサートの第2夜ということだった。10分前に会場に着くと同じ並びの席にはミュージカルでごいっしょのSさんがすでにいらしていた。またあちらこちらに見知った顔が見える。いつもはいっしょに来る友人のYも別の友人と連れ立って来ている。

目の醒めるようなオレンジ色のエレガントなドレスをまとった波多野さんがつのださんとともにステージに現れ、ダウランドの歌が始まると、その空間が、すっかり心になじんだなつかしい世界へと変る。
後はもうすっかりほどけた心でただただその音楽に身をまかせるだけだ。ダウランドの歌は切なく哀しい恋の歌ばかりだというのに、ひとりでに笑みが浮かんでくるのを禁じえない。わたしの体がこの音楽を喜んでいるからなのだろう。

 ♪ 流れよ わが涙 泉より滝となって!
   永遠に追放されて ぼくは嘆きに浸ろう
   夜の暗い鳥が 悲しい辱めを歌っている
   その闇の中で ぼくはひとり打ちしおれて生きよう

4曲目のFlow My Tearsを聞きながら歌といっしょに浮かんでくる光景があった。波多野さんのレッスンを受けたくて、都留音楽祭のサマースクールに3日間だけ参加した時、わたしが課題曲として選んだものだった。今思えばろくに声も出ていなかったのによくこんな難しい歌のレッスンを受けようとしたものだと思う。一日目は波多野さんのレッスンを受け、二日目はリュートのつのださんから指導を受けた。窓いっぱいに深い緑色の木立が広がり、しんとしずまりかえった空間にリュートの繊細な音が流れていた。CDでうっとりしながら聞いていた音の世界の内側に入り込んだことへの深い感動があった。歌を始めようと決心した。


 ♪ めざめよ 愛 追放は終わった
   遠くにあって 嘆きに沈んでいたわが心は
   今は欠けるところなき喜びにひたっている
   遠く離れても死ぬことのない愛が
   今度はあの人の目に永久に生きつづけるように!


5曲めの Awake,Sweet Love はわたしが波多野さんに弟子入りして初めてのスチューデント コンサートで歌った歌だった。英語の歌詞がなかなか覚えられなくて苦労した。何度も覚えてすっかり覚えていたはずなのに、ステージの上では一番と二番の歌詞を混同してしまった。ちょっと苦い思い出が蘇ってきた。


あの時、歌ってはいたものの、ダウランドの嘆きの歌やその言葉も旋律もどこか私の世界とは遠かった。母業真っ最中の時であれば仕方のないことだ。
今、あの時より6年分年は取ったものの、気持ちはあの時よりもっと若い時の私に戻っている。ダウランドが決して遠くはない時に。
歌を続けていこうと思う。




2002年10月30日(水) 秋の日の昼下がり

いつもなら仕事に出かける水曜日の午後だが、今日は英語学校が休みでたまたまオフ日になった。それにしても、こんなにゆったりと 家で過ごす昼下がりはなんて久し振り。
こんな自由な時間があれば、大きな黒いスポーツバッグにタオルや着替を詰め込んでジムへと走るのがこのところのわたし。でも今日は外に出るのをやめた。ひとつのことを選ぶことで別のものが失われているのは確かなこと。どんなに欲張ってみてもひとつの身体、限られた時間なのだから。
今まで選んでこなかった時間の過ごし方を今日は選んでみよう。何もしないという選択。ただただ秋の陽射しと静けさとにすっかり身をゆだねる無為の時を。

テーブルの上には窓辺のハナミズキと陽の光と風とが作り出す影絵がゆらゆらと動いている。木の枝に目をやるとあちらこちらに真っ赤な実がいくつもついていた。季節は実りの秋を迎えているのだ。
秋の燃え上がるような絢爛さがわたしはことのほか好きだ。NJにいたころ、紅葉した木々の中を走るためだけに子ども達を学校へ送った足でNYのファームまでの道を1人でドライブした。そして息を呑むような華麗なランドスケープに心を奪われた。春の木々にも夏の木々にも感じることのなかった迫ってくるような感動。

昨日電車の中で旅行会社の広告のキャッチが目に止まった。
「若い時がいちばん美しいのではないということを絢爛な秋が教えてくれる」
と、こういうフレーズだったと思う。美しい紅葉の写真を背景に印刷されたこの言葉がなんだか直接語りかけてくるような近さで入ってきた。
このコピーを書いた人はきっと若い人ではないのだろう。40代か、50代、その時期を美しく生きたいと思っている人なのだろう。いえ、実際に若い時にはない豊かな時間を過ごしている人なのかもしれない。そんなことに思いを馳せながらそのキャッチを何度となく繰り返し、心に刻もうとした。
その時のわたし、美しい時はこれからなのだわと、挑戦的な眼差しをしていたかもしれない。


2002年10月29日(火) みじかき葦のふしの間も

難波潟みじかき葦のふしの間も、逢わでこの世を過ぐしてよとや

今朝、仕事に行く電車の中で、昔覚えた百人一首のこの歌が記憶の底からふっと立ちのぼってきた。

後から調べてみると伊勢の詠んだ歌だった。彼女のバックグラウンドについてはまるっきり知らないし、この歌の背景も知らない。ただ、何と辛抱の足りない女なのだろうと思う。我が身は棚の上に上げてのことだが。

この歌のもともとの意味は難波潟に生える葦、その葦の節と節の間の短い間でさえもあなたに逢うことなくこの世を過ごせというのですかといった意味らしいが、何だか脅迫じみている。だいたい女からこのように迫られた場合、普通の男なら逃げ出したくなるのではなかろうか。女を扱い慣れている男なら適当にあしらうのだろう。いずれにしろ、こういうアプローチはあまり効果は期待できないような気がする。

しかし、この要領の悪そうな、熱血型の伊勢という女性になにか興味が湧いてきた。何かあるかもしれない。いつだって出会は妙なところにころがっているから。調べてみるかな。



2002年10月26日(土) ハロウィンは魔女の帽子で

ハロウィンは10月31日だが、英語学校では26日に、ハロウィンパーティーをする。以前は夜に大人と子ども両方を対象にハロウィンパーティーをやって、大人の仮装もなかなか雰囲気があって楽しいものだったが、幼児が増えたこともあって、小さい子たちが楽しめるよう、去年からは子ども達だけのパーティーを昼間にやることにした。

集合時間の2時になると、お母さんやお父さんに連れられて思い思いの格好をした子どもたちが集まってくる。3歳児、4歳児など、普通にしていて十分かわいいのだが、変装した姿は格別にかわいい。紙袋を上手にアレンジして作った猫の耳の帽子に、顔は鼻とひげをボディペイントで描いてある、Yちゃんの猫。ほっぺに赤いまるいフェルトをくっつけたKちゃんのアンパンマン。カッコイイ忍者、白いひらひらのドレスの天使、いろんな格好の魔女、パイプをくわえたもじゃもじゃ頭のピエロ。いつものホールがまるでおとぎの国に入り込んだようなファンタジーに包まれる。

わたしは魔女の大きな黒い帽子をかぶりスカーフをまく。黒いロングスカートも用意してきたが、ダンスを踊ったり、ゲームをリードする時にふんずけてもいけないので黒いジーンズのまま、ちょっとボーイッシュな魔女。

歌、ダンス、ゲームと続き、最後はトリック オア トリート。スタッフやお母さん方にそれぞれの部屋のドアの向こうにキャンディーをかかえて待機し、「Trick or treat!]と言いながらドアをノックする子どもたちのバッグに、キャンディーを入れてあげる。お菓子に不自由することのない子どもたちでも、このトリックオア トリートでたくさんの人からいただくこの時のキャンディーは特別なのだ。

アメリカにいた頃、子ども達の付き添いを口実で、モール街といわず、町の商店街、学校、近所と子ども達といっしょに変装してトリック オア トリート
に回った。わたしまで子どもと間違えられてキャンディーをいただいたりもした。その時のわくわくする気持ち!子ども達が夢中になるはずだと実感した。来年はもっと工夫を凝らしたデコレーションだとか、コスチュームを用意しようと思いながら後片付けをしたことだった。

「楽しかったけど、子ども相手っていうのは疲れるわ。こういうの毎週やってるのね、わたしはとってもできない。」と大人のクラスを教えているKさんが言う。わたしは大人のイベントだとどっと疲れるものの、子ども対象だと自分のテンションがハイになってしまってけっこうその後も気分がいいのだ。
すっかり片付いた後、教会役員のNさんが用意してくれたほくほくの北海道の
じゃがいもをいただきながらほっとした時間を過ごすことができた。感謝!


2002年10月24日(木) アットホームな美容院

ジムへ行く道の途中に美容院があって、そこの前を通り過ぎた時そこの方から声をかけられたことがあった。声の主はつくしんぼ保育室のMちゃんのお母さんだった。つくしんぼでのあそぼう会の時、彼女のふわりとしたウエーヴのかかったショートヘアーが素敵だなと思っていたが、その若いお母さんは美容師さんだったのだ。

「ジムの帰りに、寄ってくださいね。お茶でも飲みに。」
「ありがとう。今度髪、切ってもらおうかしら」
「ぜひいらしてください」

そんな会話をかわしてから今度髪を切る時にはそこへ行ってみようと思っていた。

今日はあいにくの雨、ピンクの雨合羽を着て自転車に乗る。前から今日はジムの帰りに美容院へ行こうと決めていたが、こんな日に雨合羽を着て美容院へ行くのはどうしたものかしら・・・。しかし雨合羽姿でその美容院に立ち寄り、4時に予約を入れてもらう。

そこの美容室は店長が彼女のお兄さん。先生と呼ばれている年配の方が彼女のお母さん。そしてもうひとりの若い男性は彼女の従兄といったファミリービジネスだった。それだからだろう、そこはアットホームで部屋の植物やインテリアとも相まって実に居心地の良い空間だった。パーマ液を馴染ませる間、窓辺に面したカウンターで丁寧に入れたコーヒーを素敵なカップで出してくださるのもうれしい心遣いだった。また彼女のお母さんは年配ながら長年社交ダンスで鍛えた美しいプロポーションで、またお兄さんはわたしが通っているジムの会員で、エアロビクスの大会にも出たような大先輩だということが分り、体力づくりの話題もタイムリーだった。

しばらくパーマをかけずにカットだけだったが、軽くパーマをかけてもらう。
「あのね、おばさんなのにこんなこと言うの変だけど、おばさんっぽくしないでね。ファンクとか踊るから、それに似合うようにしてね。」
と、ずうずうしい注文をする。

以前はソバージュや三つ編みパーマにしていたが、ショートカットのパーマは初めてのような気がする。軽やかで、前よりもフェミニンな印象になったかな。でも、前のヘアースタイルがまるで女学生みたいだったから、今度のはなんだか歳相応って感じがしないでもない。歳が歳なんだからさぁ、若い子のように見えないのは当然だよねぇ。。。





2002年10月22日(火) もともとのわたしって

昨日の日記に本来のわたしになっていくと書いた。
もともとのわたしって何なのだろうとふと思う。

これまでの歩みの中でいくつものドアの向こう側に閉じ込めてきた自分自身を
解放してきたと思っていたけれど、わたしはもうすっかり本来のわたしへ戻っていると思っていたけれど、まだ開いていないドアが見えてくる。


しかし、そういったドアを開けることはよいことなのだろうか。
パンドラの箱や、浦島太郎の玉手箱のように開けてしまうことで失ってしまうことだってある。たとえそれが真実のことだとしても。
12時の鐘の音とともに馬車がかぼちゃに戻ってゆく、その白々とした光景を見るのは怖い。願わくば、魔法だと分っていてもかぼちゃの馬車やねずみの御者を従えたシンデレラのままでいたい。

でも、人間は閉められた箱を開けないではいられない生き物なのかもしれない。だとすれば、そこから何がでてきてもたじろがないだけの心構えは持っていなくてはならない。


2002年10月21日(月) 雨なのに

朝から雨。
秋の雨の日なんて、一番気が滅入りそうな日だが、今日は心が晴れ晴れと軽い。

もう何度も繰り返してきたアップ、ダウンの今はアップのところにいるだけのことかもしれないが、それでも今日は気分がいい。


ギターを出して、即興で歌う。言葉とメロディーが自然に出てくる。

昨日、砕けた魂のことを書いた。
私の傲慢さや砕けていない魂は私自身の固さや不自由さに関係していると思う。そうしてさまざまなことが私の課題をクリアするためのプロセスのように思えてきた。

混沌としていたものの上に光がうっすらと射している。

わたしは成っていくのだろう。
変るのではなく、本来のわたしへと。


2002年10月20日(日) 悔いくずおれた魂

今日の主日は私たちの教会に引退牧師として所属しておられるY先生の説教だった。テキストはマタイによる福音書21:33−44の「ぶどう園の農夫のたとえ話」だが、話の冒頭で氏が語られた言葉が印象的だった。

Y先生は有名な神学者でもあり、また長年牧師も勤めてきた方なのであるが、その方が「私はずっと心にかかっていることがあるのです。それは、この私がこの世での人生を終えた時、神様は自分を天国へ入る者としてわたしを選んでくださるかどうかということです。」と

キリスト教の世界では洗礼を受けてクリスチャンになることが天国へのパスポートのように考えたり、語られたりすることがよくある。私はずいぶん若い頃からこの考え方に馴染めないところがあった。神の選択は全く神のもので私たち人間が干渉できる余地はいっさいないと思っていたからだ。神の裁きの前にはクリスチャンであろうがなかろうが関係ない。神の裁きの前にすべての人間が一直線上に並んでいるのだ感じていた。実際神の基準がどのようなものか私たちが知るよしもない。ましてや自分は選ばれるなどと思うことなど、その根拠などどこにもないと。

そういう意味で、Y先生がこれまでの功績や励んでこられたことを神の前で取り立てていただけるようなものではないと受け止めていらっしゃること、今なお神のもとに近づくことができるよう真摯に励んでおられることを思い打たれるものがあった。「悔いくずおれた魂」を目の当たりにしたと感じた。




今日の教会学校の準備をするためにインターネットでこの箇所について調べたときもいくつかの説教の中で、悔いた魂、砕かれた魂のことが語られていて印象深かった。


>神は、有頂天になって大笑いしている魂を求めておられるのではなく、
>「我が人生に悔い無し」と自己満足している魂を求めておられるのでもなく、
>神はただ砕かれた悔いた魂を探し求めておられます。
>砕かれた魂を、神は収穫として天国に導き入れようとしておられます。
>イエスは
>「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。」
>とおっしゃったではありませんか。
                 
              テモテ牧師の説教より


>ファリサイ派の人々がイエスをキリストであると認め、礼拝することが出来>なかったのは、彼らが、この世をよくしようと思ったからです。
>彼らは、自分がよくなろうとしようとは思わなかったからです。
>自分の貧しさ、悲しさ、愚かさに打ちのめされることがなかったからです。
>神が収穫の時にぶどう園に送った僕とは、一体、何を集めようとしたのでし>ょう。
>そして、それをなぜ集めることが出来なかったのでしょう。
>それは、彼らが「悔い改めの実」を集めに遣わされたからです。
>神が求めるのは「悔いくずおれた魂」であると聖書は私たちに語っています。
                
              HP ぶどう酒の皮袋より


神が収穫として天国に招きいれようとしているのは功績者でも、徳を積んだ者でもなく、自分に悔い、くずおれた魂を持つ者。
そのことが何か大きな音響のように体中を駆け巡る気がした。

私の中にある傲慢、砕かれていない魂を思った。そしてふらふらと心惹かれるものを辿ってみるとそこに「悔いくずおれた魂」が横たわっていることに気づく。私は自分でも気が付かないままに、そうではない自分(傲慢な自分)をそうありたいもの(砕かれた魂を持つもの)へと近づけようとしてきたのではないだろうか。

イブが誘惑にかられて食べた禁断の果実を私もまた食べた罪ある者であるということ。それを覆い隠そうとするのではなく、罪のないもののように振舞うのではなく、罪を内に持つ自分のまま神の前にうなだれるということ。


2002年10月19日(土) ミュージカル通し稽古

時間の流れ、その時間の中で様々な出来事が起こり、様々に人と人とが交流し、何かが新しく生まれたり、創られたりする。
一日を振り返りながらその日のできごとを、ビデオカメラを巻き戻すように記憶をたどりながらもう一度ゆっくりと考えながら振り返ってみたいと思う日がある。今日はそんな密度の濃い一日だった。

ミュージカルの初めての通し稽古の日。これまでMDで練習していた歌や踊りも生ピアノの伴奏で行う。それだけでうんと臨在感があり、舞台のイメージが湧く。もちろん、それだけに、声量の問題やリズムの問題などこれからクリアーしていかなければならない課題もはっきりと見えてきた。また劇のバックにWさんが即興で入れる音がその場の空気ががらりと変るのも興味深かった。

振り付けのIさんから振り付けを渡される。舞踏家のIさんが動くとほんとうに決まるのだが、同じ動きを真似て私たちがやっても表現力の問題なのだろうか、びしっと決まらない。この動きを決めていくというのがこれからの練習になるのだろう。

それにしても 芝居、歌、音楽、踊り、その他にも証明や装置など、気の遠くなるような作業が必要となる。見るだけではけっして分らない、エンターテイメントの裏にある苦労や、それ故の創造するおもしろさを味わうことができるのは感謝だ。



2002年10月17日(木) 草は枯れ、花は散る

昨夜の教理クラスから、「主の祈り」の学びが始まった。
「主の祈り」とはイエス自らが「このように祈りなさい」と
わたしたちに示した祈りでいわば究極の祈りだ。
今日は「天に在します我らの父よ」という呼びかけと
第一の祈り「御名があがめられますように」を学ぶ。

この第一の祈りは神御自身の存在が聖とされるようにという意味がある。
神の御名は本来、それ自らが聖であるのに私たちがそれを汚してしまう。
それで神を聖ならざるものから区別し、聖いものとすることができるようにと祈るのだ教えられる。

きっとこのことについてはこれまでのも何度となく聞き、また読んできたのだろうと思う。
けれども耳は聞いても心が開かれていなかったのだろう。
まるで初めて聞くような新しさがあった。

神を聖いものとするためには、わたし自身の有り様が聖いかどうかそこが問はれているという。
わたしは聖いか、聖くない。
様々な欺瞞や混沌の中でもがいている。
水の上には光が見えるのに、そこへと浮上するかと思えば
また光の射さない水の底に戻っている。
明日は枯れる草を、明日には散る花を
追い求めている自分の姿が見える。
そして
そんな私をごらんになっている神の眼差しも感じている。
だから呼びかけてはいるのだ
「こういうわたしは なんなのですか!」と


以前にも書いたような気がするが、
幼い頃、教会学校でもらった小さなカードに書かれた聖書の言葉に
衝撃を受けた記憶がある。
昨日の学びの中でその箇所がふいに目の前に立ち昇り、何か呼び覚まされる感覚があった。


ペテロの手紙1 1−22〜25

あなたがたは真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち神の変ることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。こう言われているからです。

「人は皆、草のようで、
 その華やかさはすべて、草の花のようだ。
 草は枯れ、
 花は散る。
 しかし、主の言葉は永遠に変ることがない。」

これこそ、あなたに福音として告げ知らされた言葉なのです。







2002年10月15日(火) 修行、あるかもね

昨日の体育の日、連れ合いは仕事が入っていたので、わたしは家事を一通り済ませるとジムへ自転車を飛ばした。月曜日にはいつもわたしをジムへとそそのかした友人のFといっしょになる。普段ならわたしは夕方に仕事が入っているから、Fとはプールやサウナで話すくらいだが、今日は祝日で仕事もないから運動の後は近くのイタリアレストランでパスタを食べながら話をした。

「育児っていうのは修行だったわね」

彼女も私も育児が難なくこなせるというタイプではない。子どもを育てていくことに非常なストレスと重過ぎる責任感と、そのうえ面倒な理想まで抱えていたから、日々はそれだけでいっぱい、いっぱいだった。わたしたちは「子どもの本を楽しむ会」という児童文学のサークル活動で知り合い、文庫活動や語りなどをしてきた仲間だ。その会は保育も当番でしていたから子どもぐるみでの繋がりがあった。またそのサークルの仲間の多くは裸足で野生児のように過ごす幼稚園に理想の姿を求めて、かなり遠くからでも、親が様々な場面で借り出されることがあっても、そこへ通わせていた。わたしは父母会や学習会には下の子を背中に負ぶってその幼稚園まで一時間ほど自転車をこいで行くこともあった。確かにあの時期は親というものになるための、子どもを育てていくための修行だった。

「でも、死ぬまでにもうひとつ修行があるわね」

この話題は何度となく出てくるのだが、すっかり子どもたちが独立してもう親としての役割がなくなった時、今までの暮らしを離れてどこかの開発途上国で
ボランティア活動をしている夢を語る。奉仕の精神に満ちてというよりはまだ十分ではない「修行」をしなくてはと思っているとFは言うが、わたしもその気持ちに通じるものがある。ただわたしの場合は気分としては悠々自適にのんびりと老後を過ごしたいと思っているが、決してそうは行かないだろう、自分の意思とはまた違ったところで「修行」へと送り出されるのだろうとそんな気がしているのだ。
将来のことは誰も分らない。ひょっとすると10年後は遠い国のあちらとこちらでそれぞれに最後の修行に励んでいるのかもしれない。

「今はね、それができるように体力つけてるんだわ」

お互いパートの仕事でジムの費用は捻出しているものの、夫の働きの下にあってのジム通い。フルタイムで働いている人たちからすればずいぶん暢気に運動にうつつをぬかしていることになる。でも、それが将来へのステップだと考えれば、今は準備の時。学生が勉強したり、運動したりするのと同じだと自分たちを納得させる。

「あらっ、あなたも」

ロッカールームから出てきた我々は申し合わせたように同じような黒いブーツカットのジーンズをぴったりとはいていた。こういうジーンズ姿なんてお互い見たことなかった。しかし、ウエストのサイズは辛うじて同じものの、彼女のはさらに細いタイプ。わたしは負けている。半年わたしよりジム通いが長いからしかたないか。気合の入れ方も違うかなあ。

「この前、いっしょに映った昔の写真見たら、お互い10年前とずいぶん違ってたわよ。」

「何、そんなに老けた?」

「ううん、昔の写真の方が老けてるの」


2002年10月14日(月) ジーンズ

秋になってジーンズを2本買った。
そもそもジーンズなんてここ5,6年、いやもっと買っていない。ジーンズまがいのおばさん用らくらくパンツはジーンズとはいわない。

一本めはブルーのローウエスト。短いTシャツだとおへそが見えるあれ。
さすがにおへそ出しは風邪ひくのでタンクトップをジーンズの中に入れてその上からTシャツなどを着る。ちなみにサイズはW64。20代の時のサイズ。立ったり歩いたりは問題ないものの、座るとお腹を圧迫されて体に悪いという気がする。やはりこのデザインはお腹に脂肪がある年齢にはつらいものがある。

さて2本目は昨日ゲットしたのだが、ウエストの位置は普通でストレッチ素材の洗いざらしの黒。前回はユニクロで買ったが今回はジーンズショップへ入った。細めのジーンズをぴしっと決めたかわいらしい女の子が甲斐甲斐しくお世話してくれる。以前、こういう店でジーンズを買おうとした時、言葉には出さないまでも、「おばさん、あんたの来るとこじゃないわよ。」「そんなの似合わないわよ。」と若い店員の心のつぶやきが聞こえる気がしてへこんでしまった。実際、どれも似合わなかった。ところが昨日はえらく雰囲気が違っていて私がW64を試着すると、

「まだおしりや足の付け根の部分にもゆとりがありますね。もうひとつ小さいサイズをお勧めします。はいてみてください。」

えぇーっ、W61なんて私の人生ではいたこともないサイズだわ、とたじろく。それでも試してみるととちゃんとジッパーも閉まるし座ることもできる。

「きれいですね。それがお客さまのサイズですよ。」と涼しい顔で店員はおっしゃる。

これからいっしょにジムへ行くので買い物に付き合っていた夫に
「ちょっときついんだけど、これどう思う」と聞くと
「かっこいいよ。身体をジーンズに合わせればいいんだよ。」
もう、人事だと思って、、、しかし決めた。
「そうね、このサイズを目標にがんばるか。」

その後、我々はボクシングエクソサイズを60分、ベンチチェストのエクソサイズを60分、アップテンポのギンギンの音楽の中、良い汗を流したことだった。


2002年10月13日(日) 後にいる者が先になるー「ぶどう園の労働者」のたとえ

今日の礼拝の福音書の箇所は「ぶどう園の労働者」のたとえ(マタイ20章1〜16)だ。このたとえ話をしめくくる「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」という言葉をわたしは好きだ。これまで何度となく繰り返し思い浮かべてきた。でもなぜこの言葉が好きなのだろう。

この言葉を初めて聞いたのは子どもの時、教会学校でだった。
朝から晩まで一日中働いた人と夕方からわずかな時間しか働かなかった人に同じ賃金の報酬が支払われたことに子ども心にも不公平な気がした。そしてたくさん働いた方の人間が不公平だと主人に言うと主人はその人に「わたしはあなたに不当なことはしていない、約束した額を支払ったといい、さらに「わたしの気前のよさをねたむのか」と厳しいことを言う。これでは朝から働いた人は踏んだり蹴ったりだとぶどう園の主人をうらめしく思った。さらにその時子ども達にお話をしていた牧師の言葉はさらに追い討ちをかけるものだった。

確かあの時、牧師はこういうことを言った。
「この教会学校にはYちゃんのように小さい頃から来ている子もいれば、ついこの前から来るようになった子もいるし、今日来たMちゃんもいますね。でも神さまはみんなに同じだけのごほうびを下さる。同じように愛してくださる。それだけではなくて、わたしはいちばん先輩で何でも知ってると思っている人が、後はから来た人に追い越されることになるんですよ。神様の国では古い人も新しい人もいつも同じスタートラインに立っているんですよ。」

なにかぎくりとした。学級委員タイプのいい子であった私は教師から特別に信頼されたり褒められたりということを得意に思うところがあった。わたしは特別という意識があったように思う。ところが教会というところではそれが通用しない。神様というお方はこの世の価値観と違うものを持っていらっしゃる。そしてその前ではわたしのような高ピー(その当時そういう言い回しはなかったが)こそ鼻持ちならない子なのに違いないと悟ったのだった。
世の中と違った価値観を持つその場所に、ある意味日常のわたしが否定される場所にわたしは不思議な居心地のよさを感じていた。それというのも日常の中でわたしはどこか無理をして良い子を演じ続けていたからなのだろう。

今、毎週水曜日の夕方、洗礼を受けようとされている方々のための教理の勉強会に出席して、聖書や教理の基本的なところを学んでいる。洗礼は25年前に受けたものの、今求めて受洗の志しを持っている方々の熱さからするとすでに私は後の者になっている。これからという方々に触発されることの方が多い。ネットで知り合ったMさんが隣の市にある姉妹教会でこのクリスマスに受洗される。彼女と出会ったサイトの掲示板にはいつも彼女の洗礼の準備をする喜びが書き込まれていて、その度にわたしは何か身が引き締まる思いにかられる。
思えば彼女との出会いもまったく不思議な出会いだった。いったい神様の人と人を結びつける業は予想だにしていないところから始まっている。まだイエスに出会っていない人たちの中にほおりこまれる気がすることがある。そういう時、その人たちの中にある輝きを見て「後にいる者が先になる」という言葉を思い浮かべる。そういう意味での「先の者」として神は私を用いるのだろうと思う。

「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」この言葉は今もなお、ぎくりとさせられ、また慰めを与えてくれる言葉だ。


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マタイ20章1〜16
◆「ぶどう園の労働者」のたとえ
20:1 「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。 20:2 主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。 20:3 また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、 20:4 『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。 20:5 それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。 20:6 五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、 20:7 彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。 20:8 夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。 20:9 そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。 20:10 最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。 20:11 それで、受け取ると、主人に不平を言った。 20:12 『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』 20:13 主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。 20:14 自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。 20:15 自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』 20:16 このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」


2002年10月11日(金) なぞの女

ウォーキングマシーンの上をかなり早足で歩きながら、その中年の女性はなにか冊子のようなものを片手に持ち、時折そちらに目をやりながらも顔は正面の鏡を見据え、何やらしきりに独り言を言っている。横顔しか見えないが、その表情も何か尋常ではない。だいたいここのジムのウォーキングマシーンではそれぞれがひたすら走ったり、歩いたりしている。中にはイヤホーンを耳につっこんでいる人もいるから、音楽だかラジオだか、はたまた英会話のカセットテープでも聞いているのだろう。ごくたまに文庫本を片手に歩いている人も見かけはする。しかし、鏡に向かって独り言を言いながら歩く人間を見たのは初めてだ。そもそも、この場所はそれぞれがいわば無機質に個性などとは無縁なところで呼吸している。それを破るかのようにそこの部分だけ何か異質な空気が漂っている。いったい彼女は何を語っているのだろうか。私は少なからずその女性に興味を覚えた。

と、小説の書き出し風に書いてみる。
実はこの鏡に向かって独り言をいいながら歩いている女はわたし。何のことはない。単にミュージカルの台詞を暗記すべく台本片手にウォーキングマシーンの上を歩いていただけのこと。自分の家の居間でやるよりはるかに集中でき、効率が良かった。それに前方は鏡だから、台詞を言う時の表情チェックできる。こんな良い練習場所があるだろうか。それに運動しながらやれるのだから一石二鳥というもの。ただ、周囲の人間に異様な印象を与えるのはできれば避けたいもの。そのためには、気が触れて独り言を言っているわけではなく、芝居の稽古をしているらしいと認識してもらわなければならない。しかし、そこがまた演技というものではかろうか。いかにも芝居の練習をしているらしく見せるという。

さあて、本日のわたしはちゃんと「芝居の稽古をしているおばさんの図」であっただろうか。それとも冒頭の書き出しのように不可解な「なぞの女の図」であっただろうか。なぞの女ならそれでも良いが、そういう異様な女性に興味を持つような男性は私の周囲にはいそうもない。


2002年10月10日(木) 回復

人間の身体の回復力ってすごい。
確かに夕べまでしくしく痛かった傷が、今日は切ったり縫ったりしたことも忘れるほどだった。

しかし、ラテンエアロもファンクも涙を飲んでがまんし、布団をほしたり、シーツを洗ったりと甲斐甲斐しく働く。
脚立を持ち出して、レッドロビンの生垣の剪定までやっちゃった。
しかし、ぐいっと力を入れた時に「バッチ」と背中に何かが落っこちてきたような痛み。てっきり縫い目が開いたんだと帰宅してきた夫にチェックしてもらったが縫い目はきちんとくっついていた。
「あぁ、よかったぁ」
それならばと夕食後ジムへ行き、背中の筋肉は使わない自転車漕ぎをやる。
ジムは5日ぶり、せっかく落とした体重が1キロ以上も増えていた。何ヶ月もかけて減った体重がわずか数日で元に戻るなんて、これも人間の身体の回復力?しかし、こちらはすこしもありがたくないわ!

こんなことで投げ出すものか。ナイスバディとパワフルな身体をゲットすべく、また明日から自転車でジムへ通おう。

それにしても、「やらなきゃ」と思いながらどうしても腰が上がらなかった生垣の剪定がやれた。昨日は本も読めた。(ここ2ヶ月ほど、ろくに活字も読んでなかったのだ)
心と身体の軽さは続いている。


2002年10月09日(水) おしらせ板

去年の8月に開設した「たりたガーデン」のカウンターが9000回を越えた。あまりカウンターも、アクセス数も気にはしていないものの、これまでいろんな方がここを訪ね、読んでくださるからこそ、書き続けることができたのだと改めておひとりおひとりに感謝したい気持ちになった。

「今、この日記を読んでくださっているあなた、ほんとうにありがとうございます。」

掲示板を休止にし、他の方のサイトへもほとんど行かず、いわばネット上の引き篭もり状態が続いていた。感情の起伏が激しく、その時のモードに支配される私は、同じことを淡々と地道に続けることが苦手だ。何かに夢中になると他のことはすっかりどうでも良くなってしまう。まったく我ながらあきれるほどである。子どもならまだしも、いい歳をしてこれである。

おしらせ板を設置し、ご無沙汰していたサイトへご挨拶まわりをしたということは私の中で何かが変化し始めているのかもしれない。モードの切り替わりなのかなあ。やっぱり、あの背中の瘤といっしょに何かがスルリと抜け出したのかもしれない。
背中の傷はまだしくしくと痛いが。


2002年10月08日(火) ジムに行かない火曜日の夜

いつもであれば、この時間、ジムのランニングマシーンの上を走っているか、スタジオでカロリーバーナーエアロ60分のクラスを取っている時間だ。

医者が少しくらいの運動はしても良いというので、仕事の後、ジムへ行くつもりでいたが、幼児の英語クラスでジャンプするだけでも、背中にズンズン響いて、イタタタタ・・・・という感じ。とっても運動は無理だとあきらめた。

夕べは背中がしくしくと痛む上、腹ばいで寝るのもなかなか難儀で、めったなことでは夜中に起きたりしない私が何度も目を覚ました。一度など、本人は覚えていないものの、「痛い!」っとすごい声で叫んで、隣にいる夫を起こしてしまったらしい。

しかし、昨日も今日もクラスはキャンセルすることなく無事に終えることができた。今日から新しいクラスも始まって、小6の女の子が3人やってきた。
「今日は初めてクラスだから、何でも質問受けつけるよ。」と私。
この年齢の女の子たちがまず聞くことは結婚しているかどうか。次には年齢。
「何歳か当ててみて。ぴったしだったらご褒美あげる。」というと、35歳、36歳、37歳と来た。ちょっとにんまり。
当ててみてなんて言っておいてみごとに当てられたらがっかりするに決まっている。
「みんなはずれ。残念でした。何歳かはね、ないしょ。」



さあて、今夜は何をしよう。まだ9時という時間。
読みかけてそのままにしている本をそこここから集めてきて、読むのもいいかもしれない。それとも夜中に起きることを予測して早く寝るとするかなぁ。
そうだ、台詞の練習もあった。
歌はさすがにこんな夜中に練習するわけにはいかないが。


2002年10月07日(月) 背中に突き刺さるメス

今日は例の粉瘤の手術の予約を取るために病院に行った。私がこの日はだめ、あの日もだめと手帳を見ながらごねごね言っていると、医者が
「では、これからやりましょう。」と言う。
そういうつもりではなかったから、掃除もせずに来たのだし、午後からはクラスが3つもある。今日は風呂もシャワーもだめというのならせめて朝シャワーを使うのだった。頭の中はいろいろとエキスキューズを探してみたが、どうせ切らなければならないのであれば、早く片がついた方が良いと医者の勧めに応じることにした。

診察用のベッドに腹ばいになり、麻酔の注射を受ける。
「麻酔の注射は痛いですからね」
と医者が心の準備を促す。
こういう時、私はわりかし肝が据わっている。実際注射の針が刺さるちりちりする痛みが不思議な安堵感に変るのを感じていた。この身体の痛みを心地よく思えるほど、心が疲労していたのだと思う。

麻酔が効いているので、メスが皮膚を切り裂く感触というものなどとても感じられない。せめて、今わたしの背中に突き刺さったメスの動きを、医者がその瘤を取り出す様子をこの目で見てみたい。その昔、私の父が十二指腸潰瘍の手術をした際、手術室に8ミリカメラを持ち込んで「切腹の記」の記録フィルムを撮ったということは以前、父の思い出の中で綴っているが、私はやはりあの人の娘だ。

40分ほどで縫合まで終わり、ホルマリン漬けの粉瘤とよばれるものを見せていただく。ピンポン玉ほどの肉塊に見えるがこれは中にどろどろの膿を閉じ込めた袋なのだそうだ。こういう塊が一ヶ月かそこらのうちにできるはずはない、何年かかけて大きくなったのですよと医者はいう。少しも気が付かないうちに身体にばい菌が侵入し、膿をこしらえ続けてきたのだ。身体も心も自分の持ち物でありながら把握しきれないものなのだなあと実感する。

しかし、痛い。しくしくと痛い。この痛みのせいなのか、それとも抉り出された瘤といっしょに私の内から抜け出したものがあったのか、心は妙に凪いでいる。



2002年10月06日(日) ふんりゅう(粉瘤)ができた

昨日ジエットコースターのように激しく浮き沈みする心模様を書いたものの削除してしまった。夜になって急下降がふっと止まり、緩やかなカーブを描いてまた上昇するかに感じられたからだ。ところがだめ、今日も低迷している。このままほおっておくと心が病みついてしまうのだろう。本気で何とか抜け出す方法を見つけなくては。人は当てにできない。何かで紛らわそうとするのも本当の解決ではない。

話は飛ぶが、2週間前に突如、背中の真ん中に瘤ができた。触ると痛い。硬く盛り上がっているが骨ではないようだ。虫さされかなにかかもしれないと放っておいたのがいけなかった。瘤の色が赤っぽく変色してきたのでこれはおかしいと昨日医者にいったところ、この瘤にはふんりゅう(粉瘤)というれっきとした名前があり、炎症を起こす前に切開して取り出すのが最善の方法だということが分った。

しかし、もうすでに炎症をおこしているわけで、ともかく炎症を治めるための抗生物質をもらって帰ってきた。明日また病院へ行き、切開する日の予約を取らねばならないし、縫った後は抜糸まで毎日消毒に通わなくてはならない。いったいジム行きはどうなるんだろう。今の私からジム通いを取り上げられたらウツウツから這い上がる方法がなくなるではないか。

この粉瘤という皮膚の病気は毛穴から入ったばい菌が時間をかけて体内で繁殖し、やがて目に見えるほど大きくなるらしい。こうなったら袋状になった内部にどろどろの膿がたまっているのだそうだ。切開してその袋ごと取り出すのだが、そのまま放置しておくと袋が破れてやっかいなことになるらしい。

しかし、よかった。ともかく切り取って対外に出せば問題は解決するのだから。ジム通いも、通院の面倒も一時のことだ。
心の鬱鬱もその原因になるところにぐさりとメスを突き立て、それをそっくり自分の外へ排出することができたらどんなにかさっぱりするだろう。それともこういう鬱の中に閉じ込められなければならない必然性というものが今の私にあるというのだろうか。

そういえば、このふんりゅうの縁で不思議なめぐり合いをした。夫が粉瘤を検索していておもしろいサイトに出会ったと私のPCに転送してくれたのだ。そのサイトの管理人の書いたエッセイが実におもしろかった。おもしろかっただけではなく、彼女が管理している精神系のサイトは興味深かった。アダルトチュルドレンのこと、カメレオンのように相手や立場で自分の色が変るということ、今私が見舞われているこのジエットコースターのような躁鬱の繰り返しのこと。わたしの抱えている心の問題よりはるかにシビアなそれらと雄雄しく格闘していることを知って励まされた。
ちなみにこのサイトの名前は「めぐりあわせ」
サイト管理人さんにメールを出す。


2002年10月04日(金) ファンク

今日は一日家事その他をやっつけ、夕方歌の練習をし、ダーリンが帰って来るのを待って用意していたおでんと、きんぴら炊き込みご飯の夕食を食べ、仲良くジムへとかけつける。

彼がボディパンプとボディコンバットで筋トレをする間、わたしはファンクのクラスを取る。このファンク、エアロビの上級者向けのクラスだったから今まで敬遠していたが、他のエアロビクスよりだんぜんかっこいい。良くテレビなんかで見かける若い男の子たちがやたら飛び跳ねて踊るダンス。クラブというジャンルにはいるのかな。
見渡せば、スタジオの中は20代と思われる若者たちが圧倒的に多い。でも、この手のリズムにはちょいと自信がある。我が家の20代が時折家で踊っているから、あぁ、あれね、とばかりわたしも挑戦することにした。
これも、見るとやるとでは大違い。けっこう大変。昨日のラテンエアロは成熟した女性の動きだったけど、今日の動きはティーンエイジャーの男の子の動き。気持ちまで男の子っぽくなるのがおもしろい。

運動を終えてお風呂に浸かりながら、どうしてこんな歳になって若い子たちがやるようなことをやっているんだろう。なぜ、若い頃におばさんくさいことばかりやってきてその頃の流行などと無縁に生きていたんだろうなどとぼんやり考えていた。
わたしって、単に年相応のことをするのが嫌いな天邪鬼なだけかもしれない。
うんと腰をくねらせたからか、ちょっと痛いぞ。いえいえこんなことでは諦めないわ。このステップも必ずやかっこよくキメテ見せる。


2002年10月03日(木) ラテンエアロ

9月からジムでラテンエアロというクラスを取り始めた。うわさには聞いていたが、これはやるとハマル。
ラテン音楽というのは聞いたり見たりするよりも演奏したり踊ったりする時にその醍醐味が深く味わえるのではないだろうか。
ラテンのリズムで動く時、独特の高揚感を覚える。身体の動きは官能的だが、抑圧された官能ではなく、どこまでも解放的なので、何か自分を解き放っているような感覚がある。それにしても全く異なるのリズムを持つ東洋人の中に炎のようなラテンのリズムに反応するものが存在するというのはおもしろい。

インストラクターの華麗な動きや長年やっている人のキマった動きにはとうてい追いつかないがけっこうこのリズムには乗れる。そしてこの動きがすっかり自分のものになった時、わたしの何かが変わるような気がしている。何かが加わるというよりは何かが外れるといった変化なのかもしれない。一皮剥けるという表現がぴったりかどうかは分らないが。

非常に速いステップなので45分間休みなく動き続けると半端じゃなく汗をかく。この後さらに2本、エアロビのクラスを取ったので1kも目方が減っていた。これだと理想体重まで後1kgということになる。身体の中から余分な脂肪が出ていくというのは見た目が細くなり、身体機能が良くなるというだけでなく、精神的にもずいぶん影響があるような気がする。ついこの前まで、自分の身体はどうにもできないものという考えしか持ち合わせていなかったのに、今は人間は自分の身体を変えることができるという積極的な考え方に変っている。

でも、ひねった見方をすれば、心がコントロール不可能になっている分、身体だけでもコントロール可能な状態にしておきたいと思っているのかもしれない。


2002年10月02日(水) 虚ろな季節

なんだか虚ろ。
仕事もしているし、書いてもいる。ご飯も作ってるし、ダイエットも順調。
このメランコリックを誰からも指摘されることはないけれど、虚ろであることはごまかせない。
この虚ろさがどこから来るのか、分るようでいて分らない。
いえ、分らないようでほんとうは分っている。



今日は久々にこれまで書いた日記を去年に遡って読み返しながら
そこにいる去年の私に少しも親しさがわかないことに唖然となる。
この人何の揺れ動きもなく、平穏無事に自分の中年のステージと
折り合いをつけて生きてるんだわ。
こういう人とはお話が合わないに決まってるなどと思ってしまった。

そう、季節があるのだ、何事にも。
旧約聖書の伝道の書にはこんなフレーズがあった。



天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。
生まるるに時があり、死ぬるに時があり、
植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、
殺すに時があり、いやすに時があり、
、、、、、、、、、、、、、、、、

、、、、、、、、、、、、、、、、

愛するに時があり、憎むに時があり、
戦うに時があり、和らぐに時がある。 ( 伝道の書 3章1〜10)



せめてこの虚ろな季節を大事にしよう
次の季節が巡ってくるまで。
それしか方法はないのだろうから。


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昨日の日記の後に夜の眠りを過ごし
朝を迎えてみると
台風一過、なんともゴージャスなお天気
この青い空と明るいひざしに
昨夜のメランコリックな日記は似合わない

そう、今日は今日の時を

太陽の陽射しや小鳥のさえずりや木々の歌が
喜びをもたらしてくれるかもしれない
深深と深呼吸
・・・・・・・
まずは今日一日を生きる。


2002年10月01日(火) 書くという行為が

書くという行為がふっと分らなくなる
私は何を書こうとしているのか
どこに向かって書こうとしているのか
方角を見失ってしまったような所在無さ

いつの間にか
あの一点へ向かって書くといことをしなくなっている
それなら一体何に向かって言葉を紡ごうとしたのか
響きあう音を聞きたいと願っただけ

あぁ、でもいったい、何とどう響き合いたいというのだろう
人とではなかったはず
風や花や空と響きあい
それで良いのだと思っていたはず

放ってしまった言葉
手の中から抜け出してしまった言葉
扉を開けてしまったことは
良かったのだろうか


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