たりたの日記
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夏休みというのは世の母親にとってこの上なく面倒で「休み」などではないものと相場が決まっている。だから子ども達がまた学校へと行き始める9月を心待ちにするものである。昼間の喧騒や毎日の昼食の準備や宿題の手伝いなどと比べれば、早く起きて弁当を作ることの方がまだましだと思える。
ところが今年の夏休みはそうではなかった。大学生の長男は暇な時間はアルバイトに出かけるので朝家を出ると帰宅は深夜。高校3年生の次男は大学受験を控えているので朝には予備校の自習室へ行き、帰宅は9時過ぎになる。お昼の心配もいらず夕食の支度など8時からでも間に合う。子どもが育つということは何といいのだろうと思いつつ私はひとりの時間を楽しむことができた。
そういう夏休みの中で今日は唯一の例外の日。次男が今日は受験勉強の中休みをするとかで自習室には行かず家でごろごろする日と定めたようだ。人間そんなに毎日集中が続くわけではない。そんな日も必要だろう。今日はお昼ご飯も作ってあげようとジム行きはやめて家にいることにする。朝は久し振りに長男と次男が顔を合わせ、「夏休みってこうだったよね。いつも家にいて、ごろごろして、テレビ見て、、、」などと少し前までの夏休みを懐かしんでいる。
家でごろごろされる分はまだいいにしても、このテレビの音っていうのは、なんとも嫌い。自分が見ているのならまだしも、見ていないテレビの音だけが隣の部屋から聞こえてくるくらいおじゃまなものはない。本を読んでも集中しないし、歌の練習も芝居の練習もちょっとやる気が起こらない。せいぜいPCに向かうことくらいである。でも、ま、一日くらい、こういう日があってもいいか。
夜の9時を回っても誰も帰ってこないのでパソコン相手に1人で夕餉を始めることにする。ジャズピアノがかかっているせいか、お酒が欲しい気分。梅酒の水割りにしよう。母が毎年作って送ってくれる梅酒を私たちは「母の味」と呼んで、酒類を切らした時の助けにしている。こんなこというと酒に強そうに聞こえるが私はその気分は好きなもののアルコールを分解する酵素が欠乏しているのかアルコール類にはめっぽう弱い。
今日のメインディッシュはチキンと夏野菜のクワ焼きカレー風味。いつだったかたまたまテレビをつけている時にどこかのタレントが作り方を披露していた。作ってみたら簡単でおいしく、すっかり我が家の定番になったもの。
一口大に切ったトリモモ肉500グラムに塩を少々振りかけ、それに片栗粉とカレー粉を同量で合わせたものをまぶし大目のサラダ油を入れたフライパンで外がかりっとなるように焼く。肉に火が通ったところでナスとピーマン、あれば赤や黄色のパプリカを一口大に切ったものを加え火を通す。最後に醤油と砂糖をあわせたものを回しかけ、先ほどトリ肉にまぶしたカレー粉と片栗粉の残りを水で溶いたものを加えとろみとつやを出す。今日はカレー粉にガラムマサラとチリパウダーとターメリックというタンドリーチキンに用いるスパイスを加えてみたがカレー粉だけより味が深くなった。
大きめのディナープレートにご飯とこのチキンと野菜のソテーをいっしょに盛 り、わきにサラダも載せフォークで食べるのが我が家風。最近は何とかプレートとかいって一枚のお皿にいろんなものを盛り付けたお料理を目にするようになったが、洗うお皿も一枚で済むし、場合によればお皿と飲み物をかかえて好きな場所に持っていって食べることができるこの方法は前から気に入っている。
さて、お腹もいっぱいになり、酔いも回ってきた。 ひとりの食事もなかなかいいもんだ。
2002年08月28日(水) |
テーマは swimming |
英語学校は8月いっぱいお休みで9月からのスタートになるが、私は夏休みを一週間早くいただいたので、その分のクラスを先週と今週にかけて持っている。久し振りのクラス。暑い夏を通り越しても子どもたちの元気さは少しも変らない。
幼児のクラスではテーマをswimming にし、いくつかのストロークを英語で教え、実際に身体を動かしてみる。私自身の水泳のクラスで習ったことをクラスに役立てようというわけだ。その後は水泳を題材にした絵本の読み聞かせ、歌、チャンツと続く。 発展としては Can you swim? のフレーズの応用でswimのところに様々な動詞を持ってきてYes,I can. No,I can'tで答えさせる。さらに7月のテーマだった動物のカードを並べて、It can fly, but it can't swim, what is it?といった具合にヒントを出して動物の名前を当てさせるなぞなぞ遊びをした。
中心にするものをテーマに定め、それに関係することを通して様々な学習活動を盛りこむコアカリキュラムといわれる授業の形態は好きだ。しかし、テーマにそった題材を集めてくるのはどうしても時間や手間がかかるので毎週この形態でクラスを行うことには無理があるし、子ども達が持っているテキストのカリキュラムに沿って教えていくことを無視はできない。テキストに沿ってやっていきながら、月に一度はテーマにそった手作りの教材でクリエイティブなクラスにしていきたいと思う。
2002年08月26日(月) |
去り行く夏を惜しむように |
せっかく秋になったと思っていたらまた暑くなった。 炎天下に外に出ることに気後れはするが、バッグに水着や運動靴を詰め込んで 自転車を走らせる。 仕事は夕方より3時間。3時までに帰ってくれば良い。 耳にイヤホーンを突っ込み音楽だけ頭に詰めてひたすら走る。
身体を酷使することで私は何かから逃避しているのではないかという気がふとする。ジムへとプールへと逃げ込む。どこかそんなところがある。 心と頭を使わなくてもすむように、できるだけ空っぽの自分でいられるように。
人生にはいろんなステージがあるのだから、これもまた私の大切なステージなのに違いないが、何とも安定を欠いている。
去り行く夏への愛惜。人間を季節に例えるなら春は20代までの青年期、そうすると夏は30代、40代だろうか。50代、60代の秋の後70代以上の冬の時期、、、。
今の私はさしずめ今の季節、夏の終わり。 豊かな秋の実りの時期までもうあと数年しかないというのに未熟なおろかな自分の姿しか見えてこない。 去り行く夏を惜しむかのように、がむしゃらに自転車を走らせつつしばらくジム通いを続けることになるのだろう。
2002年08月24日(土) |
掲示板を一時休止にする |
言葉の前で立ち往生してしまうことがある。 表面に出てくる言葉のその向こうに見え隠れしている感情の動きが言葉の意味とはことなる響きを持って同時にやってくることがある。 それは時折、その言葉を発した本人が全く意識していないことまでも伝える。受け止める方に問題があるといえばそれまでだが、いずれにしろ言葉がトリガーになってそこに予期しなかった不調和が生じる。
また私もそのような言葉をたくさん発してきた。自分の本当の感情をストレートに表現しないで、屈折した形で、あるいはカモフラージュして巧みに隠す。お笑いにしたり、詩にしたり、暗喩や直喩、またキーワードとなる言葉をちりばめてみたり、、、。
インターネットの掲示板のようなところでは、一対一の関係のコミュニケーションではないので、特にその傾向は強くなるのかもしれない。当然そこには誤解も生じるだろうし、意図せずして傷つけたりすることだって起こりうる。相手を傷つけたりまた自分が傷ついたりする度に、ネット上でのコミュニケーションの限界、あるいは落とし穴のようなものを見る思いがした。しかし、良い方で考えれば、そういう行き違いもお互いの本質をより深く理解する手がかりになるし、実際、そういうことを通して理解も深まってきたといえる。実際しばらく休んでいた掲示板を再開した時は、書き込みの言葉にわくわくし、人とネット上で交流できることの楽しさを再び味わってもいた。
しかし今日ここのHPの掲示板を一時休止の扱いにした。考えてみれば、掲示板をはじめにやすんだことの意味を私は十分に考えていなかったという気がする。そこにつまずきがあったからこそ休んだのに、なんとなくまた始めてしまった。ネットでの交流に深入りする傾向にある自分を見つめようとしたのだった。ネット依存症ともいえる自分をそこから離してみようと思っていたのだった。掲示板を一時休止にしたそのきっかけはまた別のところにあるものの、これはある意味でそういう流れに導かれたのだろうと思っている。またまたお勉強。
話たい時にはできれば顔と顔を合わせて話す、それができなければせめて電話で。さもなければ個人メールにすればいい。暗号や比喩ではなく真っ直ぐに相手に向かうことをこころがけよう。
今朝のこと、夫が家を出て数分後に電話が鳴った。こういう場合はたいてい夫が私に言い忘れたことを思いついて、携帯からかけてくる電話と相場が決まっている。果たして本人だった。
「ぼくがね、がんばって働いてくるんだから、、、、」
おっとぅ、何かしらの警告だ、とちょっとばかし緊張が走る。 昨日は一日中ジムで過ごしたし、今朝は彼のお気に入りのボタンダウンのオックスフォードシャツはアイロンが間に合わなくて、ちょっと派手目のブルーのピンポイントシャツを着させることになってしまったし、いろいろと落ち度だらけの主婦とすれば、忠告に対しては従順である。 受話器片手に神妙な面持ちで次に来る言葉を待っていると 「日記書いてよね」と続いた。 思わず、きょとんとし、「うん、書くよ」と受話器を置いたものの、なんだかきつねにつままれたような気分で、思わず「ふうん」とうなってしまった。
彼がフツーの亭主じゃないことは先刻承知だが、それにしてもこの人変ってると感心してしまった。知ってるつもりでまだわたしは彼のことが分ってしまってはいないのだろう、今朝のようなことが今もってちょくちょくあるのである。 ところでこの変っているという言葉は私にとっては褒め言葉である。彼が相当変っていたから結婚したんだろうし、だいたい変ってもいない人間と日々顔つき合わせて20年も過ごすなどという退屈なことはとても私にできそうもない。 それにしてもアイロンかけでも、掃除でもなく、夫が妻にやってほしいことがお金にも何にもならない文章を書くこととは・・・
今日はどこにも行かなかったものの、生協の注文書きや雑用で、てきぱきと家事をこなすという具合にはいかなかった。その上、2回分の洗濯物は朝早く干したものの久し振りの友人からの電話で話し込んでいる間にすっかり雨にぬれてしまい、やり直し。それなのにもう夕方になっている。これからアイロンかけやら食事の支度やら押せ押せの時間である。けれどそんなこともほっぽらかしてまず書かなくてはとパソコンを開ける。がんばってお仕事している夫からたってのご要望なのだから。今日の分からさかのぼって日記の穴埋め作業をすることにしよう。
その昔、私は惚れっぽかった。男によらず女によらず、生きている人によらず死んでいる人によらず、生身の人間によらず架空の人間によらず。人ではないものにも惚れた。音楽だったり、絵だったり、場所だったり、香りだったり。そういう自分とは異なるものからのエネルギーに強烈に刺激され支配されるという意味で。 大人になってから、そういう惚れっぽさも少しづつ治まって、最近などはテレビや映画に登場するいい男やいい女にも少しもときめきを感じることがなくつまらなく思うほどだった。人がみな背景になってしまったような気がした。他人が他人以上の何者でもなく、木や花ほどにも自分の内側に浸透してはこなくなっていた。
ところがこのところそれまでモノクロだった絵がちょうどカラーになるような感じで人が見えはじめている。 今日のこと、ジムでマシーンを使って筋トレをしていた時ふっと顔を上げると一人の女性と視線が合った。エアロビクスのクラスで何度か見かけていた人で、なぜだか目がそちらに引き寄せられる感じに自分でも気が付いていた。視線が合った瞬間、私がどきりとしたのが微妙に相手にも伝わったのか、瞬間エネルギーがぶつかり合う。その人の姿を追おうとする自分にさからって極力彼女を見ないように努めながら「全く、中学生じゃああるまいし」と大人らしからぬ自分の心の動きにあきれた。 しかし、一方でこういう心の動きをおもしろいと思っているのも事実だ。いったい、数限りない人間の中で彼女に特別に心惹かれるのは私の何が作用しているのだろうかと分析してみたくもなる。
その女性、歳は私よりは2,3歳は上、もしかするとすでに50代。すこぶる細く、ショートカットで、ショートパンツの姿は少年を思わせる。もうエアロビクスを20年はやっているといった感じで格好も決まってるが、引き締まった無駄のない身体は鍛えたものにしかない美しさがある。成熟した女性の顔というよりは中性的なあどけない顔。愛想笑いなどはできないタイプだ。人と話す時も笑顔を見せない。世の中の何にも心を動かされないといった超越した感じがどこか漂っている。言葉の人ではないような気がする。音楽の話が合うとも思えない。おおよそ共通する話題が取れそうな感じはしない。これまで接触してきたことのないタイプということだけは分るがお互いに苦手なタイプなのかもしれない。
私とは全く違う人間。私が感じることと違うことを感じ、異なる世界の中で生きている人。おそらく話しをしてもお互いの言葉は通じあわないに違いない。それならなぜ特別に彼女に惹きつけられているのだろう。 私はおそらくまるっきり自分とは正反対のものを彼女の中に見ていて、それがひとつの引き金になって、それがわたしの中のファンタジーを呼び起こしたのだろうか。それが私自身の現実とは違っているという理由で。 惚れるという現象は現実とファンタジーの世界を隔てている厚い壁がある瞬間に消えてしまって現実の中にファンタジーが侵入してくることではないだろうか。もうその瞬間に現実のその人間を離れてファンタジーそのものに支配されはじめるような気がする。憑依される、囚われる、自己が自己をコントロールできないところに置かれる。
私の場合、それが高じてくると元のところに戻りたいという気持ちが作用し、生身のその人間と話しをしたい、実際はどういう人なのか確認したいという欲求にかられる。人間以外のものであれば、それに関する本をとことん読んだりといわゆるはまり込む。そうすることでバランスを取り戻し、自分のコントロールできるところに持っていきたいと思うのだ。さて、その女性と私は人同士としての出会いを果たすことになるのだろうか、それとも何の出会いも交流もないまま行過ぎるだけなのだろうか。
2002年08月18日(日) |
メメント モリ・あなたの死を覚えよ |
メメント モリ、あなたの死を覚えよ。 フランスのどこかの修道院で挨拶の言葉のように修道女、あるいは修道士が言い交わしていた言葉だと聞く。生きることの喜び、命への深い感謝にひっそりと寄り添っている死。死が在る故に命あることへの喜びが、命あるものへの愛おしさが掻き立てられる。死を身近に引き寄せている時ほど生き生きと生きているという実感がある。死は虚無であるが、また死は虚無の対極に在るものという気がしてならない。 人はひとりで生まれ、またひとりで死んでゆく。
たとえ、何かのアクシデントで人と同時に死んだとしても、あるいは死後、人と同じ墓に葬られたとしても他者と死を分かち合うことはできない。けれど、人間はそうと知りつつも死を共にしたいという願望を捨てきれないのかもしれない。人と深く出会おうとするほど、間柄が近くなるほど、恐れや淋しさを伴った死のイメージがそこに入り込む。それは、やがては朽ち果てるそれぞれの身体を、またその存在を愛しむからなのだろうが・・・。
メメント モリ、しかしこの言葉には、死を他者と共有したいといったセンチメンタリズムも、あるいは人と死別することへの不安も見出せない。そこに浮かびあがってくるのは 厳粛な独りの死。しかし死んでゆく先が開かれた場所であることを知っているような、透き通った明るさがその言葉にはある。そして死はここでは命と同じくらい豊かさに満ち満ちている。
いつだったか、何の本の中からだったかは覚えていないが「強靭な孤独」という言葉を見つけた。そしていつの間にかこの言葉は私の心に他の言葉では置き換えることのできないひとつの場所を作ったのだが、「メメント モリ」と朝に夕に言い交わす人たちを思い浮かべる時、その人たちの豊かで強靭な孤独もまた見えてくるような気がする。その豊かさを自分の内に培っていきたいと願う。
「メメント モリ」という言葉について、人と話したことはなかったが、ある時、教会の日曜礼拝の説教の中で語られたことがあった。すでに牧師を引退されて自宅でドイツ語の神学書の翻訳をなさっている方による説教だった。ご高齢で身体も弱くなっていらっしゃるその方が、日々ご自分の死を意識し、その準備としての暮らしをされていることを厳粛な思いで聞いた。
礼拝の後、説教の感想とこの言葉が好きだということをお伝えしたのだが、それからしばらくたったある日、礼拝の帰り際に挨拶をしようとすると、その方は小さな声でそして静かな笑みをたたえて「メメント モリ」とひとこと言われた。一瞬はっとして私も「メメント モリ」とお返した。それだけを言い交わし、その後に言葉を続けることはなかったが、深いところで触れ合ったような充実した想いが後に残った。
生きるということはそのまま 死へ向かって歩いているということ。良く生きるということはまた良く死んでいくということ。若い者も年老いた者もそのことには変わりがない。そして向かっていくところは暗闇ではなく光のあるところ。終わりではなく新しい始まり。豊かな場所へ、なつかしい場所への帰還。そんな思いを込めて、 「メメント モリ」あなたへ。
その昔、新卒で赴任した小学校で歌の指導に命をかけていた時期があった。命をかけるとは大げさだが、そこにかなりエネルギーを注ぎ夢中になっていたことは確かだ。そんな時があったことをもうすっかり忘れていたのに、ここのところミュージカルの歌唱指導をするようになって当時のことを20数年振りに思い出している。
新卒で初めて受け持ってのは小学校3年生のクラスだった。子どもたちに初めて会う日、私はギターを抱えて教室に入った。当時ゴダイゴが歌っていた「ビューティフル ネーム」を歌った記憶がある。国際児童年の年だった。恐らく私は当時見た「サウンド オブ ミュージック」に影響を受けていたに違いない。新米の家庭教師を追い出そうとかかっている子ども達に歌を教えることで、子どもたちの心を掴んだマリアに習って、新任教師を不安気に見つめる80の瞳に内心たじたじとなりながら、彼らの心を掴むべく私は必死で歌ったような気がする。とてもジュリーアンドリュースのような美声ではなかったが、子どもたちの眼差しから警戒心が取れ、気持ちが繋がっていくのが見えるような気がした。
それからというもの学級経営は歌を中心に据えてとばかりに歌を歌った。子ども達の心をふつふつとさせる歌を見つけてきてはは足踏みオルガンをキコキコと力いっぱい踏んで、朝に夕に歌い続けた。はじめは固く、よわよわしかった子ども達の声が次第にのびやかで張りのある声に変っていき、その歌う表情に魅了された。歌い終わった後のふんわりと柔らかく解きほぐされたようなクラスの空気はなんとも心地よかった。上手く歌うことでも、美しく歌うことでもない、自分を表現することの喜びを知らせること、お互いの歌声の中に共感の喜びを感じさせること、これが私の目標だった。
ミュージカルの歌唱指導なんて、大人に歌のレッスンをするなんてとしり込みしていたものの、いっしょに歌を作っていきながら、歌の指導に夢中になっていた頃の自分が自然に戻ってきた。数時間に及ぶ歌唱指導、確かに相当なエネルギーを注ぐので終わった時には放心してしまうほどだが、なんとも心地良い疲れである。
2002年08月14日(水) |
ミステリアスな関係? |
このところ夫の仕事は忙しく、お盆の休みはこの日だけだというので私たちは1日をめいっぱいバケイションしようと朝早く家を出た。まずは車で30分くらいのところにある天然温泉。そこはクワゾーンがあるので水着を着ての混浴ができる。リクライニングシートを確保し、湯に浸かったり持ってきた文庫本を読んだりする。最近は二人ともジム通いをするようになったので、それまでは利用することもなかったプールへも行き、エクソサイズをする。さんざんぱら温泉三昧をした後は9時半からのレイトショーに間に合うべく映画館にかけつけ、スターウォーズ2を観、深夜帰宅。途中、受験勉強中の次男にメールすると、「楽しんできてね」という親孝行のレス。長男はヨーロッパ旅行の費用を捻出すべく日夜バイトに励んでいて、近頃は夕食の心配もいらなくなっている。子育てに明け暮れていた日々からすると夢のような身分である。
さて、遊ぶ相手にお互いを選ぶという夫婦が幸せなのかどうかは別にして、二人で過ごすことの居心地のよさというか安心感は我々が出会った20歳の頃とほとんど変りなく今まで続いている。というより子ども達の前で父親と母親でいなければならなかった時期を過ぎ、今また昔の関係に戻りつつあるのかもしれない。あるいは20代前半で結婚し、早くに親になってしまった我々はどこかで足りていなかったものの埋め合わせをしようという気持ちもあるのだろうか、子ども達が離れていく寂しさよりも自分たちだけになった時の気楽な生活を待ち望む気持ちの方が強い。
夫も私も、しかし、人との関係において実につまずきが多い人間だ。お互いに人の言動や態度に対して過敏過ぎるし、また激怒しやすい。相手からの誤解もはなはだしく多い。こういう難しい人間同士ならハリネズミのようにお互い、近寄れば近寄るほどそれぞれのとげで相手を傷つけもするだろうに、不思議なことに2人だけでいる時にはこのセンシティブなとげがするすると消滅するらしい。これは単に組み合わせの問題か、暗黙のうちに身につけたお互いの努力のたまものかは分らないが、なんとも不思議な関係だと思う。
ところで夫婦関係といった物理的にも精神的にも親密な関係を長い間古びさせることなく常に新鮮な関係にしておくことの秘訣はなんなのだろう。人生終わってみないと何ともいえないが、今ぼんやりと考えていることはお互いがそれぞれに自分だけしか入ることのできない「独りの場所」を心に持っているかどうかではないだろうかと思うことがある。矛盾するようであるが、どんなに信頼しあっていても、そこへはお互いに入っていかない、また入れることをしない「孤りの場所」を持つことでお互いが支配されない存在となる。その「孤りの場所」の中では時に揺れ動き、傷つき、また何か囚われるかもしれないが、それ故にそこから漂ってくる微妙な色合いの違いや光や影の変化をもまた大切な要素なのかもしれない。
この日プールサイドで読んだ本は蓮城三紀彦の「恋文」だった。10年連れ添った夫がある日突然、別の女性から送られてきた恋文をテーブルに残したまま家を出る。妻の知らない夫の顔があった。妻はそこで初めてのように夫に愛を感じる。そうして彼女は離婚届に託して何より強烈な恋文を夫へ手渡す。現実にはありそうにない御伽噺のようにも受け取れるストーリーだったが、一筋縄ではいかない、妻と夫を結び合せるひとつの愛のかたちを私は興味深く読んだ。
夫婦にしろ、親子にしろ、あるいは友人どうしにしろ、お互いに異なる人間同士、何も努力しないでいてはお互いの関係は深く、豊かなものにはなっていかないことだろう。時にののしりあい、お互いに失望し、また刺で刺しあう、そういうことを経て次第にお互いの存在が心地よいと感じられる関係を育てていくのだろう。
お勉強は日々続きます。
ふるさとの大分に近頃登場した麦焼酎に「なしか」というのがある。「いいちこ」や「吉四六」は関東でも売っているが「なしか」という黄色いラベルに男の子のマンガや大分の方言が印刷されている焼酎は見たことがなかったので夫へのお土産にと送ったのだった。
夫はパッケージの大分の方言を見るなり、やれやれという顔をする。宮崎出身の彼は何かにつけ大分の方言を嫌悪しているところがある。実は私も両親は大分の人間ではないから、生まれて育ったものの、どこかよそ者意識が抜けず、当然大分弁もどこかとってつけたようにしかしゃべれなかった。このように日本国内でも異文化の中で育つ場合があるのである。そういうよそ者にとってはその土地の言葉をそのニュアンスもイントネーションも巧みに駆使できるこの土地の子ども達、大人達にどこか羨望にも似た気持ちを抱いていた。
たまたま実家に「なしかの本」という冊子があったのでもらって帰ったが、その冊子のはじめには「なしかの風景」としてこんな文がある。
「昭和30年代。それは戦後復興から高度成長へと向かう時代でした。 ・・・ 大人がすごく大人であり、子供は果てしなく子供であっただけに、お互いの コミュニケーションも、お互いの立場を尊重するという前提がしっかりとし ていて、噛み合っていたようでした。 ・・・ 特に我々のふるさと九州の大分県はキツい方言が多いのですが、それだけに 本音もストレートに伝わり、人間が人間として生きていく上で考えなければ ならない様々なテーマを内包しています。 そのひとつが「なしか」という言葉です。「何故か」という意味ですが、こ の言葉は誰に向かっているのかというと、話す相手であるばかりでなく、自 分に対して、また広く世間に対して、そして世の中のきまりごと、つまり常 識というものに対してまでも疑問符を投げかける広域で強力な武器なのです この武器は主に子供の持ちものとなっているところが、面白いしくみです。 ・・・」 と続いている。
こうして長い間ふるさとを離れ外からその地方の文化を眺める時、その土地の言葉に含まれる他にはない独自性により敏感になる。好きな言葉もあれば嫌いな言葉もある。そいういう好き嫌いの感情やどうにもまわりにしっくりと馴染まなかったこころもとなさも含めてふるさとの言葉をなつかしく反芻したことだった。
ところで夫はこのパッケージは気に入らなくても、味の方はえらくお気に召した様子で、めずらしく私の分の水割りも作ってくれる。なしか!
帰省から戻ってきた後、週末はミュージカルの練習、教会、ジムと、身体もまた心もいろいろと忙しかったので、今日は1日、どこへも行かずに発声練習や歌の練習に集中した。以前声楽のレッスンに通っていた時のMDを聞き返しながら声を出す。レッスンを受けていた時よりも今の方が先生の意図するところが分るような気がする。でもまだまだ課題がたくさんある。あせらないで毎日トレーニングしていこう。
昨日教会の帰りに図書館に寄った時、まだ読んでいない高橋たかこの小説を見つけた「君の中の見知らぬ女」昨年の3月に講談社から出版されている。彼女の書いたものはそのタイトルからして惹かれるものがある。夕方より読みはじめる。
小説の冒頭のところに出てくる「わたしって成っていく者なのよ」という詩のフレーズに早くも心を掴まれている。 事故で妻を失った男は無神論者であったのにもかかわらず、修道会へ入る。死んだ妻は夫ではない男のバイクに乗っていて事故に合う。妻のジーンズのポケットには夫が妻へ送った詩が折りたたんで入っていた。
君は君だと思っていた そこに居る、君 見えている君 聞こえている君
・・・・・
だというのに、何だろう? 僕の知らない女が居る 君の中の、それは、誰?
・・・・・
ちらっちらっ、ぎらっ、ぎらっ、と 反射光が立ち
君はそれを背負って歩きだす、何処へか そして、言う、ついに言う 「アントワーヌ、ごめんなさい」と 「やっと、わかった、わたしには」と 「わたしって、成っていく者なのよ」
( 君の中の見知らぬ女 p35 より抜粋)
彼女のぴっしりと隙間のないような独自の孤独な空間を私は愛していたがしばらくそこから遠ざかっていた。今また彼女に戻ろうとするのはいつの間にか外に向けて開いた扉を閉める必要性を自分のうちに感じているのかもしれない。
扉を閉めるとは決して他との交流を絶つことでも、他に心を開かないということでもない。そうではなくて私が「強靭な孤独」と呼んでいる場所へ帰っていくこと。自分の寄って立つ垂直な線に戻るということ。揺るぎない私自身が呼吸する場所。神に目覚めている心の在りか。心の平安。
「イエスはこれらのことをみな、たとえを用いて群衆に語られ、たとえを用いないでは何も語られなかった。それは、預言者を通して言われたことが実現するためであった。「わたしは口を開いてたとえを用い、天地創造の時から隠されていたことを告げる。」
(マタイによる福音書13−34、35)
今日の礼拝の説教ではイエスのたとえのことが語られた。「たとえ」という言葉は新約聖書に50回使われているがそのうちの48回がイエスの言葉を記した福音書の中で使われているという。
たとえを用いて話されたことにはそのたとえの奥義が分る者と分らない者とを分けるという意味があるという。難しい抽象的な言葉ではなく、具体的な日常目にするものを用いて語られる奥義なのである。
知識があっても学問があってもその奥義が分るとは限らないし、何も知らない子どもがその意味するところをキャッチすることだってある。わたしたちはたとえに隠されているほんとうの意味をいったいどこで捉えるのだろうか。インスピレーション、私たちの内にあるものによってではなく、吸う息のように外から身体の中に入ってくる力によってなのだろう。
詩を書くとき、直接的な表現を避け、メタファーを用いる。そこにはどこかで書く者と読む者の間に介入するインスピレーションを期待するからなのかもしれない。しかし言葉は難しい。ほんとうに難しい。伝わっているはずと疑わなかった言葉がことごとく届いていなかったことを知る時、私はあまりにインスピレーションに頼り過ぎていたかもしれないと反省する。だからといって直接的な表現だと伝わるのだろうか。そうでもないような気がする。同じ日本語を用いながらも人それぞれ言葉を取り出す心の場所に違いがあるからだ。時として科学者の言語はそれとは無縁の者には理解できないのだろうし、男は女の言語を理解するのに支障があるのかもしれない。親子の間でさえ伝わっていかない言葉の前でお互いに途方に暮れる。にもかかわらず、相手に向かって様々に言葉を伝えようとすることを止めない。
イエスの言葉もほんとうのところをどれほど私は理解しているのだろう。分っているつもりでまだその奥義のはじっこをやっと掴んでいるくらいなのだろう。理解していくための時間と経験、心の柔軟さ、そして降りてくるインスピレーションを望みながら言葉のうちがわへとさらに深く入っていきたいと思う。
思えばここ10年ほど、あまり人と交流することに積極的ではなかった。所属していたグループから遠ざかり、それまで比較的まめにしていた電話や手紙などもすっかり億劫になっていた。人を招いたり、訪ねたりということもほとんどしなくなった。人の中へ入っていくことに疲れを覚えたし、どこかで本当の自分を偽ってしまうことに釈然としない気分があったのだ。それはある意味ではそれまでの反動ともいえる。もともと私は社交的だった。できるだけ多くの人間と関係を取り持つことを良しとしていた。でもその陰には誰にも明け渡すことのない自分がいて、その自分のきちんとした居場所を作ってやれないでいた。
いったん自分の世界に篭って扉を閉じてみるとそれはすこぶる気持ちが良かった。独りであることの豊かさを味わった。言葉も人に向けてではなく自分に向けて、あるいは遥かかなたの方へ向かって発した。自分が人にどう見えようが、どう思われようがいっさい頓着する気持ちがおこらないことは快適だった。これが年を取るということかしらと半ば人生の秋を迎える用意をしていたところがある。
ところが何かの調子にシフトが変ったのか、閉じていた扉が知らない間に開いてしまったのか、気がついてみるとあの閉ざされた独りの空間の心地よさから様々に人のエネルギーに影響を受けては一喜一憂し、、また翻弄されるいわば嵐のような場所にほおり出されていた。それは10代後半から20代前半の時の心の状況に良く似ている。聞く音楽も変ったし、自転車を飛ばしてジムに通うというそれまでの私には考えられないことを始めた。そして何より人が自分の内側に入ってくるのである。人はもはや単なる背景ではなく、生々しく私に向かってくるように感じられる。
以前、私は自分の子ども達の成長に合わせてもう一度自分の人生の生き直しをしていると書いたことがあった。そうするならば、息子達は今20歳と17歳、まさに青春真っ只中。私の生物学上の年齢やステージとは裏腹に、私は私の17歳をまた20歳を生き直しているのかもしれない。すっかり忘れていたその時期に特有なときめきや痛みや揺れ動きを再現させようとする心の働きがあるのかもしれない。
しかし10代や20代の波乱万丈を生き直すにはいささか年を取りすぎてしまっている。多少服のサイズが小さくなったところで目じりの皺がなくなるわけでもない。太るに任せてあきらめきっていたことが良かったとは思わないが、扉をしめて自分の世界に充足していた時の気分を取り戻したくもある。
人は何という思い込みの中で生きていることだろう。 真実だと疑わなかったことが実はイリュージョンであり、どこにも実態のないものであったことがふとした瞬間に明らかになることがある。 落胆、失望、虚無、そういったものの中に瞬時に突き落とされる。 一瞬、それまで築いてきたものがガラガラと音を立てて崩れていくのを目の前にし、そこにはぽっかりと虚無が大きな深淵の口を開け、人間を誘う。 しかし人間とは良くしたものでそういう大きな落胆の中にひきずりこまれようとしながらも必死で生き延びる道を見つけようとする。 様々な思い変えを試み、闇の力に打ち勝とうとする。
つい最近語ったグリム童話の「熊っ皮」の話の最後のフレーズを思い出す。悪魔と取引した若者は最終的に悪魔に魂を奪われることなく勝利したのだがその 若者の前に悪魔が現れ捨て台詞を残していくのである。 「どうだ、お前の魂ひとつの代わりにふたっつの魂を手に入れたぞ。」 若者が勝利したその一方で花嫁の2人の姉達は怒りと失意の果てに自ら命を絶ったからである。
悪魔のねらいはここである。人間の魂が闇の中を落下していくこと、光を離れて虚無の只中へと墜落するのを見届けることである。そのためにはどんな手段も選ばない。
そういう悪魔の手口を知っている者はしかし、やすやすと自分を虚無の谷にほうり投げたりはしないのである。失望は失望として、それを許しや愛や望みへと変えようとする。そしてある意味で自分のプライドを手放してしまう。そうすることでふっと底の方から支えられ虚無の深淵から浮上するのである。
私には弟が二人いる。2歳下と8歳下。結婚して実家を離れてからは会うことも少なくなり、それぞれの弟やその家族には合っても、共に育った兄弟どうしが実家で顔を合わせたのは20年ぶりであろうか。
これまでであれば、私たちの通った小学校や中学校をいっしょに訪ねるなどということはとても恥ずかしくてできなかったに違いないが、お互い父親母親になり、押しも押されもしないミドルエイジともなれば、昔を訪ねることにもそれほど抵抗はなくなるらしい。
この日は夕方の飛行機で埼玉へ帰るので、下の弟の車で上の弟と4年生になる彼の子どもと私の4人で思い出の場所を訪ねてまわった。私たちは3人ともふるさとを離れて暮らしている。生まれて育った場所は現実の生活とは程遠い思い出の中に閉じ込められている場所となっている。昔通った小学校や中学校を訪ねるということはそれぞれが思い出の中に閉じ込めているものとの再会になるわけだ。
まず、小学校を訪ねる。3人が6年間通った小学校だがわたしたちが毎日通った通学路はすっかり無くなっていた。校舎も最近改築されて見知らぬ場所のようだった。あの3本の楠はどうなったのだろう。運動場の真ん中に3本並んで立っていて、昼休みにはこの木のごつごつした根っこの上に座って遊んだ。枝は大きく広がり豊かな木陰を作ってくれた。運動会はこの木を囲んで行われるのでじゃまになるといえばじゃまになったが、この学校のシンボルであるこの3本楠を切ろうとは誰も言わなかったらしい。何が変ろうと、この大きな古い楠だけは変ることはなかった。
新しく立ったばかりの校舎はどうやら昔木が立っていた場所に建てられているようだ。それならばあの運動場も3本楠ももう無くなったのだろうか。半ばあきらめて私たちはゆるやかなカーブを作って立てられている校舎をぐるりと回って正面へと歩いてみた。果たして3本楠はそこにあった。半円を描いて立てられた校舎のちょうど中心に昔のままの格好で立っていた。校舎より樹木の方がはるかに高いのでまるでその樹木を守るような形で2階建ての校舎が建てられている。なんとも暖かな空間が出来上がっていた。
私たちは子どもの時のように木の根っこに座り、幹を撫ぜ、芳しい楠の匂いを嗅いだ。あの時分、木と交流しているという自覚はなかったが、ただの建物や空間に寄せるのとはまったく別のなつかしい友と再会を果たしているような気持ちだった。校庭の周辺を歩きながら、昔の面影が残っているところを見つけて回った。
その後、保育所を併設している教会、今は貸家になっている私たちが育った家、中学校、高校と思い出ツアーを続けた。 この町を離れてからの時間の方がもう長くなってしまったが、育ってきた時間は無くならないで心の中にしまわれているとそんな思いがしきりとした。これまでも1人であるいは子どもを連れたりしてなつかしい場所を訪ねることはあたが、今回は弟たちとそれができることが何か嬉しかった。長い間、それぞれの生活を維持することで精一杯だったが、今また、お互いを近くに感じながら生活する時期が来ているのだろうか。新しいステージを迎えているのかもしれない。
ふるさとから離れて暮らすとクラス会などで昔の友人に会うという機会にはあまり恵まれない。年に1、2度帰省しても友人に一人や二人でも会えばいい方でたいていは文字通り親の顔だけ見て戻ってくることの方が多い。 しかし今回は卒業後初めて大学の時の同窓生の集まりに参加する幸いに与った。
卒業したのは22歳の時だからあれから24年もの歳月が過ぎたことになる。 同窓生のひとりが経営しているこじんまりしたレストランに8人の仲間が集まる。少しも変っていないという表現はおそらく的確ではないのだろうが、知らない人が見れば40代のおばさんたちの会合にすぎないのだろうが、テーブルを囲んでいる彼女たちは24年前のままだった。その時の個性がそのままそこにあって、人間って変らないものだなあと思う。
ピアノのレッスンで泣いたこと、卒業演奏会の悪夢、ロマンスのこと、私たちはお互いが知らない母や妻としての日々を話すことせずにもっぱら20代に戻って話に花を咲かせた。家庭に帰れば大学生の子供の母であり、職場では学年長などを勤める中堅教師なのだろうが、その姿を想像することは難しい。 きっとまた来年も会おうと来年のクラス会の日をそれぞれの手帳に書き込み別れた。
今やパソコンが手元にない時にも携帯電話を用いてメッセージを送ることができるようになった。いつでも時間を置かずに相手に言葉を伝えることができる。しかしそれ故に、その言葉の返事なりリアクションを早急に求めてしまうという傾向がある。さすが携帯が生活の中心になっている若者達のリアクションは早い。なかなか連絡してこない息子たちも携帯メールには条件反射のように間髪入れずレスが帰ってくる。それが彼らの流儀らしい。携帯メールにそのような暗黙の了解があるが故に、何かの理由があってレスが遅れる場合も当然あるのに、そこから不安や心配が頭をもたげてくるのも事実である。自分の発した言葉に縛られていく。こういうことが予想できたので携帯電話は持たないで通すつもりだったが、旅の間パソコンから離れる不安にかられて、帰省の前日に急ぎ求めたのだった。
「花の水やりとヨーグルトの世話お願いね」
「大丈夫、ちゃんとやってるよ。」
「今おじいちゃんを海岸に連れてきたとこよ。海がきれいよ。」
「いいなあ、ぼくも行きたかったなあ」
「耳が痛い。中耳炎かもしれない」 「すぐに医者に行きなさい。抗生物質でよくなると思うよ。」
「おはよう!具合はどう?」 「耳はすっかりいいよ。ありがとう!」
「明日、帰ってくるんだよね。」 「うん、夜遅くなるけどね。」
「空港に着いたら知らせて、迎えに行くから。」 「そうする。ありがとう!」
旅先で夫や息子たちとこんな短い言葉をいくつもやりとりした。つくづくと便利なものだと思った。必要な情報の交換というのではなく、気分の伝達がそこにはあり、その短い文字の言葉が心地よい余韻として残るのだった。
言葉は伝達の役割の他に気分を伝える、見えない相手と関係を作るという働きがある。不思議なようだが携帯電話の短い文の中にその言葉を発する人の心の動きまでも見える。限られた文字の中で顔の見えない相手に心地よさや優しさを伝えるというのはそれほど簡単なことではないのだろうが、若者達は彼らの携帯文化の中で、相手と良い関係を紡ぎ出す言葉をさまざまに訓練されているのかもしれない。
実家へは1年に1,2回は帰省するが、今は父が入院しているので、ほとんど母と二人だけで過ごす。父を病院に見舞う他は家の中の片付けをしたり、庭の草むしりをしたりして過ごす。しかし今度の帰省は実家で弟たち、また甥といっしょに過ごす時間があった。不思議なもので、こうして昔の家族のメンバーが揃うといろいろと忘れていたことを思い出すものである。私が忘れていることを弟たちが覚えていたり、またその逆だったりする。その会話の中で、私はこの家での自分のポジションのことなどをぼんやりと思い出していた。
せっかく弟達が揃って久し振りの賑やかなテーブルだというのに、母はどうも明日お盆のお参りに来るお坊さんのことで頭がいっぱいのようで、心ここにあらずの様子。楽しい感じにしたいと夕食も翌朝の朝食も私がテーブルを整えることになる。そういえば昔もそうだった。誕生日やクリスマスなど家族のイベントや祝い事などにあまり頓着しない母を差し置いて、場を盛り上げるのは暗黙の内に私の仕事だった。多少重荷に思いながらも日常に潤いをもたらそうといろいろなことを試みていたような気がする。本や映画の中の世界を現実に持ってこようと、まあ、気取っていたわけである。思い出話の中でそんな話題も出てきた。
8歳年下の弟は私が「サウンド オブ ミュージカル」のマリアになりきっていて小学生の弟を相手に映画の主人公のような家庭教師役をやろうとしていたという。どうも弟の口調ではそのファンタジーに不本意ながら付き合わされていたらしい。あの当時、私がジュリー アンドリュースの真似をしようとしていたなどという記憶はないが、弟にとってはそんな姉だったのだろう。そういえば、うんと小さい頃、すぐ2つ下の弟を相手に私はよく芝居ごっこをやっていた。その芝居の中では私は母親で弟が小さな子ども。たいていは母親が病の床についていてもう助からず、子どもを置いて死ぬという場面設定だった。私はディレクターよろしく、弟に私の足元で「お母さん」と必死で泣き叫ぶよう指示していたような気がする。今考えるとそれはひとつの甘美な陶酔の世界でもあったような気がする。母親との関係の希薄さをそのような形で解消していたのかもしれない。しかし相手をさせられた弟としてはどうだったのだろう。なぜこんなことをさせられるのだろうとしぶしぶ付き合っていたのに違いない。このことを弟が覚えているかどうかは別として、わたしは彼らを有無も言わせず私の個人的なファンタジーの中に引っ張り込んでいたのだろう。
さて、弟たちから離れてからは、私は私のファンタジーを二人の息子たちに投影してきたのではないだろうか。試しに最近「サウンド オブ ミュージック」のDVDを見た息子に感想を聞くと「なんか、母ちゃんぺえって気がした」と言う。でも息子にとっては私の方がむしろオリジナルという気がするらしい。私のファンタジーも年季が入ったのか彼らのとってはそれがそのまま彼らの日常だったようだ。
いよいよ息子たちが私のファンタジーから離れていく時になって、私は無意識の内にも弟たちや息子たちに代るファンタジーの対象を見つけようとしているのかもしれない。いえいえ、生身の人間を個人的なファンタジーに取り込もうとして良いことなど何もない。そういう私の危うさをきちんと見極めていかなければ。それにしても私という人間は小さな頃から今にいたるまで夢見る夢子さんを地でやっているから恐ろしい。
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