たりたの日記
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2002年07月29日(月) いざ ふるさとへ

晴れ晴れと朝を迎えている。
久し振りに良い眠りを眠った。
眠りの中で、まるで滞りが解きほぐされたように、言葉の泉が満たされている。
立ち止まったり、じだんだふんだり、後戻りしたり、そんな内面の旅でも、突然のように新しい平原が目の前に広がることがある。

その広々とした広がりの中で深く息を吸い込む。

さて、スーツケースのふたを閉めて
ふるさとへの旅にでかけよう。


2002年07月28日(日) わたしのもとに来なさい

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

マタイ11章28〜30


昨夜は深夜の2時過ぎにベッドに入ったものの、明け方まで眠れなかった。このところ眠りの浅い日が続いている。今日は教会学校でのオルガンと礼拝の司会に当たっているので、睡眠を取らないまま教会に行くことが不安だったが、
頭はきりりと冴えていて身体も疲れてはいなかった。しかし、何かが疲れていたのだ。今日のこの聖書の箇所が心に染み入った。

重荷、生きていく上には実に様々な重荷がある。平常を装いながらも、逞しく日常の中でその役割を担いながらも、心の中は嵐に吹かれ、息も絶え絶えであるのかもしれない。ひとりひとりの心の中のことは誰も分らない。

そういう重荷を負うわたしたちにイエスの言葉は直接的に響く。まさに語りかけられているような親密感を覚える。この「わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」という言葉の元に私自身どれほど重い荷を下ろしてきたことだろうか。
なぜ、イエスの前には荷を下ろすことができるのだろう。それはイエスこそは誰も知りえないその人間の個人的な重荷の中身を知っているからだ。知られていると感じる。そのような確信がある。だからこそ、その足元に荷を下ろし休みをいただくことができるのである。

今日の礼拝の説教の中でこの「休み」ということについてこのように語られていた。この休みという言葉は「新鮮な命の力をいただく」ということであり、決してそこに立ち止まることではない。むしろ喜びを持って前に進もうという力をいただくことであると。リフレッシュという言葉のニュアンスに近いものがあると。

イエスと密接に結びついている時、わたしたちはイエスの言葉に繰り返しリフレッシュされる。新しい命をいただけるのである。重荷は無くなることはない。けれどもそれを荷って歩む力と勇気をいただくことができる。


2002年07月27日(土) 帰省の準備

帰省の日が迫ってきた。今回は夫もいっしょに行くので子ども達だけが残ることになる。食べ物のこと、洗濯のこと、掃除、花の水やり、気にかかることは山ほどあるし、抱えていることを中断して全く別の時間が流れるところに入っていくことに、これまで以上に心もとなさを感じている。

旅というのはそういうものだろうが、いったん日常の外に出るとそれまでの生活がすっと遠のく。実家の台所で食事の支度などをしていると、もうずっとここに寝起きしているような気がしてくるから不思議だ。それまで見ることのなかった朝の連続テレビドラマを見ながらお茶を飲んだりする。母に付き合い、昼も夜もドラマやなにやらを見ることになる。私がPCに向かっている時間がそのままテレビの前で過ごす時間になるわけだ。それはそれで時間が過ぎ、それまでの自分と違ったものになっていく気さえする。

しかし、ここ最近、私のPC依存度は大きくなっている。あまりにそこに気持ちと時間を取られるので、掲示板への書き込みをやめたが、それでも日に何度となく開いては書いたり、読んだりしているのである。10日間、PC無しに生活することができるだろうか。今の日常を抱えていることがらをすっかり忘れてしまうことができるのだろうか。もしできるのだったらある意味それは好都合かもしれない。なにか煮詰まっている感もあるのだから、一度火を止めて、自分を外側から見てみるのもいいかもしれない。

今日は帰省のための準備をするのだが、本やCD、そしてノートなどの準備も注意深くしよう。少しでも私自身内的生活の渇望が和らぐように手段を講じなければ。


2002年07月26日(金) 内的な旅

この4月から7月にかけて、それまでとは少し違ったレベルのところにいた。何かひとめぐりの旅を、内なる旅をしてきたような気がする。
過ぎてみれば、ひとつひとつの出会いも事象もまた葛藤もこの旅の行程だったのではないだろうか。

目に見える肉体とは別に目に見えない精神の営みがあるように、目に見える人と人との結びつきの向こうには魂のレベルでの出会いや再会や交流がなされていると考えることは可能だろうか。それが時を経て、実際の人間どうしのかかわりや言葉のやりとりへと移行もするのだろうが、たとえそうであっても、深いところで、生身の体があずかり知らないところで進展してゆくことがらがあるような気がする。

モザイクの破片がひとつの絵になるように、古い過去の事象や出会いが繋がりのなかった破片と破片をつないでいく。そうすると、この目に見える日常の向こうに展開するもうひとつの私自身の生が浮かび上がってくる。そこへ集められる破片は無意識の領域のこともあるかもしれないし、まどろみの中で見た夢であるかもしれない。またあらゆる内的旅で拾い集めた思い出の品であるかもしれない。言葉では記すことのできなかった、日記の外にある事象。

ひとつの旅が新たな旅へと繋がっていくのか、それともモザイクの絵はこのまましばらくの間ほおっておくことになるのか、今はそれが分らない。


2002年07月25日(木) わかば園の見学

松戸市にある知的障害者のための通所施設「わかば園」へ見学に行く道すがら、わたしは福井達雨氏が起こした重い知恵遅れの子どもたちのための施設 「止揚学園」のことを思い出していた。福井さんの著書、「命を担ぐって重いなあ」「ぼくアホやない人間や」を大きな感動と衝撃を持って読んだのは20代前半のころ、まだ母親になる前のことだった。その後、教会学校の教師研修会で福井氏の講演と学習会に参加し、氏のお人柄に触れる機会にも恵まれた。

福井氏の障害児に学ぶ、障害児の中にある輝きを見出すという姿勢に強い共感を覚えたのだったが、その後教職から離れ、育児に追われる中で、障害児と共に歩んでいる人たちのこともその施設のこともすっかり忘れてしまっていた。ふっと記憶の底から蘇ってきたものの、今の今まで思い出すこともなかったことに唖然とした。そして、このように月日が経って、同じような施設に今初めて足を運ぼうとしていることがなんとも不思議な気がした。それは手渡されていながら忘れていた課題をようやく思い出したような気持ちだった。

わかば園の玄関に連なるホールにはアップライトのピアノが置いてあり、その前にはゆったりとくつろげるソファーがいくつか置いてある。
音楽ボランティアとしてすでにこの施設で活動を始めているWさんがピアノを弾き始めると直にどこからともなく通所生が集まってきてピアノを囲んだ。Wさんが弾く童謡に合わせて、手拍子を取りながら歌い始める。音程やリズムが思いの他正確で、歌詞に至っては正確に覚えて歌えるものが多いのに驚く。一曲歌い終わるごとに、「○○ちゃん、じょうずねえ」とは「すばらしいねえ」と、お互いに声を掛け合う姿にはっとさせられるものがあった。歌うことが、ピアノを聴くことが心からうれしいのだ。そしてその喜びを素直に分かち合おうとする。それは人間らしい姿、私たち健常者といわれるものが失っている姿でもあった。彼らといっしょに歌いながら何か豊かなもので満たされ浄化されていくものを感じていた。この日いっしょに見学したTさんとMさんも同様なことを言っておられた。ボランティアはやってあげてるというのではなく、むしろ、彼らからもらうものの方が大きいというWさんが日頃言われていることをそれぞれが体験した感があった。
Mさんもポピュラーの曲を2曲弾かれ、私も讃美歌を2曲弾いた。今度は歌の伴奏ができるように楽譜をそろえて練習もしておこうと思った。音楽を通して喜びを分かち合う、そういう音楽活動ができるとしたらうれしいことだ。

止揚学園の「止揚」とは、哲学用語の「アウフヘーベン」というドイツ語を訳したもので、ふたつの全く異なったものが激しくぶつかり合ってつぶれ、その中から今までとは違う、新しいひとつの統合体が生まれてくるという意味だという。知能に重い障害をもった子どもたちと、障害をもたない者たちとがぶつかり合い、今までになかった新しい生き方が生まれる場にしたいと願い、止揚学園と名付けられたという。
その名前にこめられた「止揚」という言葉の意味を改めて噛み締めた日であった。


        


2002年07月15日(月) この頃

6時半起床。
次男がわたしに続いて起きてくる。
まず、パソコンのスイッチを入れコーヒーのためのお湯をわかすべくやかんを火にかける。
まず、ノニジュースを30cc飲む。起きてきた者から、その健康ジュースを注いだ小さなグラスを手渡す。これはもう儀式のようなもの。その日一日の元気の元。
家族にはトーストにハムとレタスをはさんだトーストとりんごを用意し、自分用にはバナナとりんごにヨーグルトをかけたものを用意する。コーヒーを飲みながらメールのチェックと書き込み。

洗濯物を干し、掃除機をかけ、クラスの準備を整え、ジムへ行く支度をする。
その間に電話もあり、花に水もやり、ゴミ出しもする。目標の10時を15分過ぎたが何とか11時のエアロビクスのクラスには間に合いそう。それ急げ!

MP3プレイヤーのイヤホーンを耳につっこみ、もう3ヶ月は聞いているキャロルキングのいつもの曲に合わせて自転車をこぎ始める。農道をかなりのスピードで走りぬけジムのあるモールへは20分ほどで到着。

すぐに、アスレチックで筋トレを始め、11時から45分間のエアロビクス。
初級とはいえ、運動量はかなりのものだ。終わるやいなやまた筋トレの続きをし、12時15分からの平泳ぎのクラスを取るべくプールへ。もうみんなプールに入っている。友人のFの姿もある。30分のクラスの後、10分ほど泳ぎ、シャワー、サウナ、水風呂のおきまりのコースへ。実はこれが一番楽しい時間。まさに「極楽」なのだ。今日のようにFといっしょの時は話ができてさらに楽しい。なんという贅沢をしているのだろう。

昼も食べないまま、2時にはジムを出て自転車を飛ばして帰宅。
パソコンのチェックをし、クラスの準備。夕べのうちにレッスンプランは立てているのでノートを見返すくらいですむ。
3時半から小学2年生が4人。4時半から小学6年生が3人、6時半から中学3年生が2人。クラスは8時まで続く。この間は全く仕事モード。いっさいの雑念がなくなる。

最後の生徒を送りだすと主婦モードに切り替わり、夕食の支度にかかる。少し前に帰ってきた次男と2人で夕食を食べながら学校のことや読んでいる本のことなどたっぷりと話す。お皿洗いは彼の仕事なのでわたしはようやくパソコンを開く。リラックスタイムである。

この日記を書き終えたら明日のクラスの準備。
こういうのが私のこの頃である。


2002年07月14日(日) 日記を書かない一週間

日記に大穴が開いている。これではとっても日記とは言えない。ここをクリックしてくれる人がいたとして、月曜日のまま更新がストップしている日記をみたら、来て損したという気持ちになるだろう。掲示板も閉鎖した状態だから、具合でも悪いのかしらと心配してくれる人もいるかもしれない。

実際、私はすこぶる元気で、週に3日はジムに通って、エアロビやボディパンプやスイミングで体を鍛えているし、ミュージカルの練習もやっている。昨日などは午後1時から5時まで、キャストひとりひとりのレッスンを担当したし、今日も礼拝の後3時間、さくらちゃん役とひかるくん役の自主トレをした。明日は早朝からジムに通うべく、今晩のうちに明日のクラスの準備をする予定だ。日常は忙しく、かつめまぐるしく過ぎている。

日記を書かないのは、朝言葉が降りてくる時間帯に自転車をこいでジムに行くからなのだろう。言葉を綴ることへの情熱が、体を動かすというこれまでにない体験へ移行しているのだ。体を使っている(歌も含めて)という充実感がある一方、心を内に向けて言葉を綴ることの欠乏間も感じている。言葉を綴ることへの欠乏感というよりは、祈りを欠いていることへのすわり心地の悪さなのかもしれない。このように書きながらも、何か足りなさを感じている。
問題はバランスだ。体も動かし、頭も使う。書きもすれば読みもする。外にも出れば、家事もする。それぞれの行為が調和していれば欠乏感もないのだろう。

さて、明日から始まる一週間、日記が書けない日々になるのだろうか、それともモードが切り替わるのだろうか。


2002年07月08日(月) 電話

朝、メールを開くと Hさんからひとこと 「お話したい」というメッセージが電話番号とともに記されていた。
何か、はっとし、また浮き立つような気持ちにもなった。

こういうストレートな表現が、彼女のありようがわたしは好きだ。私もそんな真っ直ぐな表現で相手にメールができたら良いのにと思う。

Hさんとは掲示板で知り合い、メールのやりとりはしているものの、電話で話すのは初めてのこと。家に人間がいると、あれがない、これはどこだと妨害が入るので家族が出払うのを待ってダイヤルを回す。

電話の向こうから届く声は優しく、暖かなエネルギーに満ちていて、私は私自身に向かっているような話ぶりだった。言葉がでてくるままにたくさんおしゃべりしたような気がする。書き言葉だけでは見えてこなかった彼女のニュアンスがしみじみと伝わってくる。
電話が必ずしも好きではないので(むしろ、電話は嫌いかもしれない)めったなことでは電話はかけないのだが、心地よい電話の時だった。
何ともやわらかな感覚がその日一日続いていた。


2002年07月07日(日) 虫の居所

虫の居所が悪いとはこういうことを言うのだろうか。何か気持ちがささくれ立っている。夫に飲ませようとテーブルに置いたジュースを思わずひっくり返しては怒鳴られるし、時間に追われてなんとかヨーグルトだけでも食べて出かけようと、冷蔵庫から取り出したヨーグルトの入れ物を手を滑らせてこぼしてしまう。とうとう電車は一本遅らせることになってしまった。今日は教会学校には間に合いそうにない。私の担当日ではないので、こうなったらゆっくりでかけようと朝食も取る。

礼拝では聖書の朗読の当番に当たっていた。夕べのうちに一通り読んで練習をしていたし、初めて読む文章でつっかえたりすることもないというのに、何箇所かつっかえたり、言い直しをしたりしてしまった。午後からのミュージカルの練習は何とか失敗もなく終えることができたが、何とも心のバランスを欠いた一日だった。

夜になって、鬱々した感じが戻ってくる。焦燥や破壊的な感情が押し寄せる。
どこに原因があるのかおおよそ見当はついても、それを認めたくない自分がある。「虫の居所が悪いだけ、それだけのこと」と自分に言い聞かせる。


2002年07月06日(土) 東京物語

私は母の死を、義母の死をどのように迎えるのだろうか。
そしてまた、私はどのように死に、子ども達はそれをどのように迎えるのだろうか。小津安二郎監督の映画「東京物語」を現代風にアレンジしたというテレビドラマを見ながら、そんなことを考えていた。

死ほど動かし難くすべての人に等しく与えられる未来はない。
何一つ持たないでこの世に来た身体は再び、何一つ持たないで元いた場所へと戻っていく。ここでの終わり、そして新たな始まりの時。
死にゆく人は何一つ携えることなく帰ってゆくとしても、その人が自分の生きてきた空間に何かを残してゆくことは確かだ。その人がどれほど愛したか、その目には見えないそのものこそが唯一、人がこの世に生きた証となるのだろう。その人から向けられた愛はその人の死によって失われることなく、より鮮明に残された者の心に刻印される。

ドラマの最後で、母親の死を迎えた子どもたちが、まるで眠りから覚めたように母親の愛に目覚める場面がある。しばしば、愛されているものはその愛に気が付かない。気が付かないうちに深く愛され、祈られ、支えられている。愛されているということの自覚がないということは、ある意味自分自身に目が開かれていないのだ。深く交流する心の繋がりをどこかで絶っているのだ。そして死はそのちぎれたコードを再生し、深い繋がりを取り戻す。
その繋がりは愛さない生き方を愛する生き方へと変えてもいく。ドラマは何も語っていなかったが、それぞれの子どもたちの歩みがそこから変化していくことは十分に予想できた。

そういう死を私は準備できるだろうか。


2002年07月03日(水) Star Light Star Bright

英語の詩はいい。
踏んでいる韻とリズムが声に出して読むと心地よい。
私はマザークースなどの歌や唱え言葉同様、シンプルな詩の暗唱を時折、授業に持ち込む。
もうじき七夕、星まつり。
今日は6年生のクラスで星の詩の暗唱をした。

Star light star bright
First star I see tonight
Iwish I may, I wish I might
Have the wish I wish tonight

「一番星、みーつけた」
と小さい頃、唱えた覚えがあるが、この詩は子ども達が一番星を見つけた時に
ふっと、口をついて出てくる詩のようだ。実際の生活の中に溶け込んでいる詩といえる。
何かの映画で、冒頭の主人公が子どもの頃の回想場面で、男の子が夜空を見上げてこの詩をとなえるシーンがあって印象的だった。

さて、4人の6年生たち、「こんなのぜったい覚えられない」とごねていたが、「大丈夫、うまい方法があるんだから、ぜったい覚えられるし、暗唱が楽しくなるよ。」と私は自身満々に、そして強引にクラスを始める。

この詩をカレンダーの裏紙に大きく書いたもので何度か読んだあと、単語がばらばらになるように紙を切り離し、カード状にする。

子どもたちは共同作業で、ばらばらになったカードをつなぎあわせもとの詩の
形に戻す。

今度はその並べたカードから、一枚ぬいて、そこの部分だけは覚えて詩をとなえる。次は2枚分、3枚分と抜いていく。4枚まではみんなで唱えて、5枚目からはひとりづつやってみる。とたんに緊張するが、その分必死でフレーズを覚えようとする。
同じフレーズを繰り返し唱えるわけだから、カードが最後の一枚になり、机の上にすっかりカードがなくなっても、頭のなかに、言葉が順序正しくしまわれているので、心地よいリズムに乗って気分よく暗唱ができる。
子どもたちにはできないと思っていたことができたという喜びもあるし、詩のリズムがまるごとからだに入ってきたことの喜びがあるはずだ。

時間が来てドアの外に出ても詩の暗唱を続けていた。
今度は夏に関係のある、すてきな詩を見つけてこよう。
楽しいクラスだった。


2002年07月01日(月) 掲示板

いつからだったのだろう。

あんなに苦手だった掲示板、自分のところのそれさえ煩わしかったのに、そこに何かをみいだそうとしていた。
そこで分かち合おうとしてきたものは何だったのだろう。
わたしなりに心にあることを、わたしにとってのほんとうをそこで分かち合おうとしてきたことは確かだ。単なるうわべだけの議論や知識のひけらかしや自分の世界の押し付けだったら、わざわざ書き込んだりしない。そこで交流が起こることを、お互いに影響しあうことを期待したからそこに自分を持っていけた。

でも、そういう気持ちがばっさりと切られる時、何か自分のやっていることがひどく心もとなくなる。力が抜けていくこの感覚は、自分を開きすぎた時、相手に対するプロテクションが十分でなかった時に起こる感覚。ぐさりと言葉の不意打ちにあった時に。そこのところから、きちんと向かい会って話そうとしても、しょせん姿を見せないで成り立つコミュニケーションの世界。心を割っての会話が成り立つなどと思うのは幻想にしか過ぎないのかもしれない。こういうことを避けるために、私は外へは出て行かなかったのではなかったか。人と魂のレベルで交流することに慎重ではなかったか。

顔と顔を合わさないコミュニケーションの中にふくまれる危うさに十分気づいているはずだったが、いつの間にかその罠に落ち込んでいた。しばらくわたしがもともといた場所へ戻ることへしよう。開いた扉も閉じないわけにはいかない。



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