たりたの日記
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2002年06月28日(金) 今日という日

何年か月日が経過した後、私は今日のことをどのように思いかえすのだろうか。駅で電車を待っていた時に心地よいと感じた湿り気を帯びたひんやりした空気の動きだろうか。車内で読んだ本の「内面の過越、死の世界の底の底までの下降」といったフレーズだろうか。地下鉄を降りたらすぐ目の前にそびえていた異様に大きく物々しい出版社のビルディングだろうか。それとももっと別のこと。編集者との言葉のやり取り、その大きなテーブルと窓から見える景色。初めのひとこと、あるいは帰り際のそれだろうか。
いずれにしろ、私は今日という日を一生忘れることはないだろうと思う。

その日の私はおおよそ自分の世界とは異なる場所の中に紛れ込んで、いわば夢うつつの状態であった。私がキッチンのダイニングテーブルでパソコンに向かって書いてきたもののことが話題になっているのに、何か自分の書いたものがそこにいる私とは無関係なもののような気さえして心もとなくもあった。それらは、書いたといえるものではなかった。言ってみればその日のお味噌汁を作るようなものではなかったか。実際、冷蔵庫に何が入っているかを確かめ、それでできるものを、その日の夕餉のテーブルに載せるべく作ったあり合わせの一皿のようなものだった。日常の中でその時の私の心の引き出しにあった素材をとりあえず、言葉のつながりにしたものに過ぎなかった。

編集者のKさんはそんな私の日々の惣菜のような文の束を、ひとつひとつ丁寧に読んでくださっていて、ただただ恐縮した。お金を出して買ってもらえるような本にするにはどういう方向で書けばいいのかという問いがそこに横たわっていたが、それは当然すぎるくらい当然のことだった。編集者のKさんは決して拒否といった態度を見せず、方法をさぐろうと考えてくださってきたことが感じられ ありがたかった。何ひとつ厳しい言葉を向けられはしなかったのに、私は書くということにおいて身を削るような努力をしてこなかった自分を深く恥じていた。一つのテーマを徹底的に探っていく。あるいは一つのストーリーを徹底的に書ききる、そういう厳しさをまず自分の中に養っていくことが先決だと思った。

私でなければ書けないオリジナリティー、そんなものがいったい私の内側に存在するのかどうかがまずあやしいものだが、しばらく書く内容と方向を探ってみようと思う。時間をかけて、ゆっくりと。


2002年06月26日(水) 母親引退の日

英語学校のすぐ前にあるパン屋さんでよくお昼のパンやおやつのケーキを買うので、そこのおばさんとはすっかり顔なじみになっているのだが、ひょんなことから家族のことを話すことになってしまった。
まず、彼女は私が独身者と信じて疑わなかったようで夫がいることが分るとひどく驚いた顔をして
「まあ、これからなんだろうと思ってたわ。」
と、おっしゃる。
いくらなんでも20代に見えるわけはないのだから、私を独身と見たその根拠はいったい何なのだろう。

「これからなんかじゃなくて、もう終わりなのよ。明日で息子が20歳になるんだもの。」

おばさんの
「ええーつ」という声にびっくりしたのはこっちである。
「あんたいくつなの」と真顔で聞いてきた。裏切られたような気分になっているようだった。 
「人って分らないものだねえ」
というおばさんに、私は何と答えてよいのやら。
若く見えると単純に喜んだ訳ではない。私は見えていることと実態の間のギャップがどういう訳で生じるのだろうと複雑な思いでいた。

わたしにはそれほど夫や子どもの匂いが付いていないのだろうか。それなりに妻の役割も母の役割もやってきたつもりなのだが。そう見えないということはそこにあまり気持ちが入っていなかったということなんだろうか。生活感がないというのは褒められたことではない。

しかし、人がどう見ようとも、今日でHは二十歳になった。
この日を母親引退の日と決めたのだ。上の子にとっての母親という意味だけれど。



2002年06月21日(金) つくしんぼ、6月のあそぼう会

2ヶ月に一度のつくしんぼ保育室のあそぼう会の日。
昨日までの雨がうそのよう、すばらしいお天気。暑いくらい。
今日のテーマは「からだを動かそう」
ピアノ担当のNさんも9時30分にはいらっしゃるということだったので、いつもより早めに保育所へ行く。

2ヶ月に一度とはいえ、回を重ねると、ここの保育室に常時来ている子どもたちの顔は分るし、近寄ってきては私が用意している本を眺めたり、話しかけてきたりする様子がとてもかわいい。もはやよその子ではなくなっている。

今日のプログラム

1,Hello
2,The Finger Family
3,Eency Weensy Spider
4,Under The Spreding Chestnut Tree (大きなくりの木の下で)
5,If You are Happy and You Know It(しあわせなら手をたたこう)
6,Hokey Pokey

以上の歌遊びと英語の絵本の読み聞かせ

If You are Happy and You Know It

Head to Toe (Eric Carle)

開始時間の10時になってもNさんが見えないので、そのうちいらっしゃるだろうと、一人で始める。3曲目をやっている時に、渋滞に巻き込まれて遅くなってしまったNさんがいらしたので、さっそくピアノでジャズ風の伴奏を入れていただく。

日頃、3歳児から小学校低学年のクラスでやっている歌だが、ここのあそぼう会に集まってくるのは1,2歳の赤ちゃんとお母さんが圧倒的に多い。お母さん方はそれなりに興味を持って下さるが、子ども達はいまいち乗ってこない。私はレッスンではなく、その時間に英語の音とリズムに触れてもらうということしか考えていない。またNさんも、その空間に自然と溶け込むような響きを心がけていらっしゃるようで、英語であそぼうの後のピアノの演奏もそこに集うお母さんたち、小さな子どもたちを日常とは少しトーンの違う音の響きで包んであげているといった印象だった。

英語にしろ、ジャズにしろ、日頃お母さんや子どもたちが接している言葉の世界や音の世界と異なる世界で遊んで、解放していただきたいというねらいがある。
英語の歌遊びが終わった後、NさんがBGM風に童謡やTVの主題歌をアレンジして弾いている。部屋で子どもを遊ばせながら聞いているお母さん、外のプールで子どもを遊ばせるお母さん、みんな思い思いにその時間をすごしている。

Mちゃんがこれから仕事に出かけるという母親にしがみついて離れないので、「絵本を読んであげるから、おばちゃんにおいで」といって、母親から受け取った。その子は私にじっと抱っこされたまま、絵本をじっと見つめていた。
遠い昔、アメリカに行って間もない頃、4歳の次男をYWCAの保育所へ預けた日のことを思い出した。早く言葉に慣れさせようとして連れていったものの、次男は泣いて私から離れようとしない。無理に置いて出ようとすると、彼は私のハンドバッグを持っていると聞かない。このバッグがあれば戻ってくると思うのだろうか、言葉の通じない場所に捨ててしまわれると思っているのだろうかと、つらい気持ちで、バッグから財布だけ取り出して、息子に持たせた。2時間ほどして迎えにいくと、次男は保母さんにしっかりとしがみついていた。言葉は通じなかったのだろうが、この保育者に心を開いたのだろう。
あの時の保母と次男の様子は忘れることができない。

Mちゃんは私に抱っこされたまま「ぐりとぐら」を最後のページまで読んでもらうと、お母さんのことはすっかり忘れて、お友達と遊びはじめた。
Mちゃんがひざに乗った感触、そのやわらかなエネルギーはその日一日、わたしのうちに留まっていた。



<おまけ>

「幸せなら手をたたこう」の歌の英語の歌詞です。
検索で、こちらに辿りついた方は、タイトルだけで、歌詞がないことに
がっかりされるのではないかと、ここにくっつけました。
というのも、この検索アイドルでこの日記にいらっしゃる方がけっこういらっしゃるからです。
たりたの日記もよろしくです。


If You're Happy, and You Know It

If you're happy, and you know it, clap you hands
If you're happy, and you know it, clap you hands
If you're happy and you know it
and you really want to show it
If you're happy and you know it clap your hads

If you're happy and you know it, stamp your feet
If you're happy and you know it, stamp your feet
If you're happy and you know it
and you really want to show it
If you're happy and you know it, stamp your feet.


2002年06月19日(水) 夏の帰省

ここのところ、夫といっしょに九州へ帰省することがなかったが、今年の夏の帰省は夫の夏期休暇に合わせていっしょに帰省ことにする。いつものようにビッグホリデーの九州フリープラン、往復の航空券と一泊の宿泊券がセットで3万円という格安のチケットを手に入れる。
まず夫の実家の宮崎へ行き、その後私の実家の大分へ。一足先に夫が戻った後は私だけ大分に残り、母の手伝いをする予定。
今年は大学の時のクラス会にも参加できそうだ。実に24年ぶりに会う友人たちもいる。みんなどんな風になっているのだろう。教育学部の音楽科だったので女ばかり、ほとんどは小学校か中学校の教師だ。昔からピザなんかをソースから作っていたAさんは教員にならずに大分市でご主人と肉料理のしゃれたレストランをやっている。今回の同窓会はそこに集まるらしい。
子どもたち、なんとか自分たちでやるでしょう。もうそういう年齢。そういえばあと6日で長男が20歳になる。


2002年06月18日(火) 朗読パフォーマンス

あいにくの雨だった。
ブラウンのインド綿のロングドレス、民族衣装っぽいその服を着るつもりだったが、雨の中、すそまであるスカートをはいて駅までは歩けない。急きょ、いつものパンツルックに変更。

結婚後、8年間住んでいたK市へはバスと電車を乗り継いで行った。
K市の駅前、懐かしいような気もするし、ずいぶん距離のある場所のような気がする。

中村勇さんの陶芸展が開かれている美容院の2階のフリースペースには所狭しとたくさんの作品が展示されており、動物をモチーフにした作品は力強く、生きる力に満ちていた。
この展示会場での朗読パフォーマンスの話しがあった時に頭に浮かんだのがグリム童話の「熊の皮を着た男」だった。

マオさんの司会で朗読会が始まる。雨のためかいらっしゃる方は少なかったが、とても静かで暖かい空気が流れていて、どの方の朗読も一言一言が心に染み渡っていくようだった。井出さんの紙芝居を聞くのは初めてだったが、岡田なおこさんの書いたバリアフリーの紙芝居「ゆっくり、ゆっくり」をみごとに演じられていた。この紙芝居は私も買って、教会学校でやったことがあったが、障害を持つ女の子のところをどう読むのか分らなくて、この紙芝居のメッセージを引き出せなかったような気がする。井出さんが障害を持つ方々の側に立っているが故にできる自然な表現だと思った。

音声になった言葉を聞くというのはほんとうに心をほぐされる感じがする。活字を追うのとは違った、人と人とのエネルギーの交流が起こるからなのだろう。

私の順番が回ってきたが、不思議と緊張感はなかった。途中で話しを忘れてしまう不安はいつもあるが、語っている間は意識が飛んでしまうこともなく、聞いてくださっている方の顔を見ながらも、私は私でお話の世界を頭に描きながら楽しんで語ることができた。お話しは聞く人をそっくりその場所からお話の世界へとお連れし、そのままその時間と空間の中をいっしょに旅し、そしてお話が終わると共にもとの場所で戻してあげなければならない。良い語りを聞いた後はまるで夢を見ているように別の次元に魂が旅していたような気持ちにさせられた。その様な場面が創れたかどうかは分らないが、少なくとも座礁しないで旅を終わらせることだけはできて感謝だった。
始めにグリム童話を、次にイギリスの小話、「豚とおばあさん」の英語版を語った後、谷川俊太郎の詩「みみをすます」を朗読した。



2002年06月15日(土) お話の練習

6月18日の朗読パフォーマンスのためお話の練習をしている。文庫や子どもの本を楽しむ会の勉強会で、お話をしていたのはもう10年以上も前のことになってしまった。その当時、覚えて語ったグリム童話の「熊の皮を着た男」を13年ぶりに語ろうとしている。

熊っ皮が悪魔との取引で熊の皮を着て過ごしたのは7年間だった。あの頃は7年間はとてつもない長い時間に感じていた。けれど今その倍近くも昔のことになってしまったことに出会いなおしをしている。過ぎてきた時間の中の様々な場面でこの話しをいろんな風に思い出してきた。昔話の常でいろんな要素が、また人生や人物の元型ともいうべきものがその話しの中にはある。
この話しに出会って、そしてまた覚えて語る機会を与えられてよかったと思う。話を覚えて語るというのは朗読とは違った入り方をする。その話しが自分の一部になるような感覚がある。お話の登場人物が生き生きと私の内で生きはじめるのである。演劇もそうなのかもしれない。

お話の勉強をしていた頃、子どもを練習台にしてはいけないとよく言われていなのに、私は本番の前によく自分の子どもや夫を相手にお話の練習をしたものだった。昔を思い出して、昨日は次男に、今日は夫に語りを聞いてもらった。次男は私が語りをしていた頃はまだ3、4歳だったからお話をしてもらったことは覚えていないという。あの頃の幼い幼児ではなく、いがぐり坊主の高校生に向かって話し始める。ちょっと照れくさい。20分近くの長い話だ。息子が目を閉じたので、眠っているのかと思っていたら、話しが終わると「面白い話だね」と、他にも彼なりの感想を話してくれた。大きくなった息子に語るグリムも悪くない。それにこの話しはまさにこれから世の中に出ていく若者の話、17歳の彼には、ぴったりのストーリーであるかもしれない。13年前の時と今がつながる不思議な時間を過ごした。


2002年06月14日(金) バスケット、引退の日

何でも終わりは来るのだが、試合の場合、勝てば新たな挑戦がそこから始まり、負ければその時点で幕が降りる。日本とチュニジアが勝敗を争っている同じ時、次男たちのバスケット部は引退をかけた苦しい試合のさなかにあった。去年20点差で勝ったチームとの対戦だったが、初めから相手にリードされ、最後まで逆転することはなかった。
日本は勝ったが、息子たちのチームは負け、今日は3年間、中学校からだと6年間のバスケ人生の最終日となった。さて、今までバスケットボールにぶつけていたエネルギーをどこに持っていくのだろう。目の前には大学受験がぶらさがっている。いやでもそこに向かわないわけにはいかないだろう。
奮発して、ラバッサのケーキと渦潮巻きという太巻きを買って帰る。


2002年06月13日(木) 梅雨の晴れ間のジム通い

人と会う約束が延期になったので、一日がすっぽり手に入る。
やはり、身体を動かしたい。
朝降っていた雨が昼前には上がったのでジムへ行く。
今日はキャロルキングは聞かない。
「熊っ皮」のお話を練習しながら自転車をこぐ。
エアロビを45分、水中フォーキングを30分、お話をぶつぶつ繰り返しながら。その昔、掃除機をかけながらお話を覚えていた。
背泳ぎのレッスンを30分、さぼってばかりいるので少しも上手くならない。
スタートの練習でおもいっきりキックしたら、みごと足がつってしまった。
ガードに立っていた親切なインストラクターがバケツ2つにお湯をくんできて
足にかけながら、マッサージをしてくれる。息子ほどに若い青年。
お仕事とはいえ、なんだか申し訳ない。
それにしても、梅雨の晴れ間の、少しひんやりした湿っぽい空気の中、自転車を走らせるのも悪くない


2002年06月12日(水) アニマとアニムス

いつからか始まっていた憑依の感覚が、すっと抜けた。
自分がそっくり自分の持ち物になっている。
ストーリーを一つ書いた。この骨だけのストーリーにディティールを加え、色を付け、香りをつける作業をしていこう。
書くということが深いところで戻ってきた。
私の内なるアニマとアニムスのバランスが戻ってきたのだ。

この憑依を意識した時にエマ・ユングの「アニマとアニムス」を紐解いた。私に時々起こる憑依ともいうべき現象は、このアニマとアニムス(自己の内にある、女性性と男性性)の葛藤から来ることは明らかだからだ。私流の解釈をすれば、私の中にある男性性がある意味で何かに凌駕される時にそれが起こる。
そうすると自分を立たせていく上で大切な、自己の女性性が不安定なものになり、自分の外にある自分の持ち物ではないものに翻弄されてしまう。傾倒、恋愛、憧れ、尊敬、羨望、劣等意識、ストーカー行為、言葉も行為もそれぞれ違うが、そのどれにもアニマとアニムスの強い影響があると思っている。

自分の内にないものに羨望し、それを取り込もうという行為そのものには問題ない。それが問題になるのは、その存在が自分の立っている場所を脅かし始める時だ。自分の持つ言語、自分の持つ感性にどこか信用が置けなくなってくるのである。対象にひきずられようとする自己と、本来の自分の位置へ戻ろうとする自己は激しく葛藤する。そこにおこる虚脱感、自己嫌悪、憂鬱。

女性である以上、内に男性性を抱えているとしても男性のように生きることはできない。そうできないことの欠乏感はどんな女性にも少なからずあるのだが、女性であることの価値を脅かされないように守らねばならないと思う。女性特有の言語、感性、母性、それらのものに価値を見出さないものに対して無防備になってはいけない。

このことについてはもっと時間をかけて考えてみたいと思う。


2002年06月09日(日) 鬱々と

そういえば昔はよく鬱々としていたものだった。何か自分でもコントロールできないものに掴まれ、心はどこかうつろでどこかに自分を置き忘れているような所在無い感覚。
中心をほんの少しずれただけでも、垂直の線から離れてしまう。そうすると自分がひどく頼りないものになる。自分の中にあるすべてのものが疑わしく感じられる。
わたしはわたし。たとえ誰がどういう評価をしようと、どのようなエネルギーを向けようと、あるいは自分の世界の中に取り込もうとしても、わたしはわたしでしか在り得ない。
この混乱にも似た想いはしかし、ある意味でわたしの馴染みの感覚でもある。こうして揺すぶりをかけられながら、わたしはわたしにとってのほんとうを見つけようとしてきたのではなかったか。
誰も侵入することのできないわたしだけの静謐な場所。
心はその場所からあてもなく彷徨い出る。

行っておいで わたしの こころよ
そしてまた帰っておいで 

八木重吉の詩にこんなフレーズがあったのを思い出す。
鬱々とするのであれば、その心に付き合ってもみよう。それもまたわたし。
帰ってくるところは分っているのだから。



2002年06月08日(土) バスケットの試合へ

夫といっしょに次男のバスケットボールの試合を見に行く。
この春はベンチにいることの方が多く、活躍する場面を見ることなどできなかったが、引退前の大会になって、がぜん力が出てきたようだ。スターティングメンバーの中に次男の姿がある。我が家で一番年下の次男が誰よりも大きくなってしまった。生まれて間もない頃、黒目が据わらず、重度の障害を疑われた子である。小さい頃はいつもお兄ちゃんの後にばかりしがみついているよく泣く子だった。いつも間にこんなに安定して逞しさを身に付けたのだろう。彼のプレーはその性格が反映されている。ディフェンスに強く、確実なパスをする。自分ではシュートを決めようとはしないで、ボールをより効果的なところに送ろうとする。全体を見渡す目、安定した心の在り様。
もう親の手元からすっかり離れてしまった私たちとは違う世界を持つ息子を目で追いかけていた。


2002年06月07日(金) プール日

体調不調や、オフの日に予定が入ったりでしばらくジムへ行けなかった。
昨日、今日と無理しないように休み休みやる。
金曜日の午前中にプールへ行けば、友人のFと話しもできる。
水はいい。少しも泳ぎはうまくはならないが。
家から隣町までの自転車もずいぶん近く感じられるようになった。


2002年06月06日(木) Love Make The World 試訳

かれこれ一月以上C・キングの新譜CD,Love Make The Worldをほとんど毎日テーマミュージックのように聞いている。これだけ聞くと音も言葉もすっかり自分の世界のものになってしまう。

英語の響きとテンポのよい言葉を日本語に置き換えることにどんな意味があるのだろうと思うこともあるが、私は日々の思考を日本語でしているわけで、この外国の言葉とニュアンスを自分の国の言葉に置き換えてみたいとやはり思う。



      Love Make The World (愛が世界を創る)

今夜は心にトラブルがあって
なんだかしっくりこないでいた
だからわたし、月の光の中であなたの顔を見た
わたしはあなたのすぐ隣
言葉はもういらない
選んだ言葉よりも深いのだから
もう手放せない
このニュース、みんなに言いたいわ
愛を手にいれたと、あなたのうちに

あなたがどんな風に感じてるのか分らずに
困ったこともあった
落ちてたこともあった

(コーラス)
わたし、信じることを止められない
愛が世界を回しているって
あなたがわたしの一部である限りは
どんなことも私を滅入らせたりはしない


と、半分まで日本語に置き換えて見たものの、英語のポジティブでドライな感じが出てません。
人を愛するということが自分の生きる世界を生き生きしたものにさせるっていう主旨の歌詞なんだけど、、、。
これを50代のキャロルがすごくノリの良いリズムで力強く歌うっていうのが良いわけです。
CDの彼女の顔は美しく輝いていて、もしかしてこれは彼女自身の身に起こっていることなんではないかと実は思っています。
音楽や言葉から溢れ出しているものがほんとうの気持ちだから力があるのではないかと。


2002年06月04日(火) Sailing

昨日からずっとSailingという歌が浮かんできている。ロック歌手、ロッド ステュアートのものだ。彼独特のだみ声で歌われるロックだが、その英語の歌詞を読んでみるとまるで讃美歌だと思った。どういうわけかCDに入っているライナーノーツはこれをラブソングにしてしまっていたがそれではこの歌の一番肝心なところが殺されてしまうと思った。今日はこの歌を訳してみよう。

I am sailing
I am sailing
Home again
Cross the see
I am sailing
Stormy waters
To be near you
To be free

わたしは漕いでいる
わたしは漕いでいる
ふたたびふるさとへと
海原を越え
わたしは漕いでいる
嵐れ狂う海を
あなたのそばへとゆくために
そして自由になるために

I am flying
I am flying
Like a bird
Cross the sky
I am flying
Passing high clouds
To be near you
To be free

わたしは飛んでいる
わたしは飛んでいる
鳥のように
大空を渡り
わたしは飛んでいる
高い雲を越え
あなたのそばへとゆくために
そして自由になるために

Can you hear me
Can you hear me
Should I talk like
I'm far away
I'm dying
Forever crying
To be with you
Who can say

わたしの声が聞こえますか
わたしの声が聞こえますか
もっと大きな声で言いましょうか
わたしはもう死にそうです
ずっとずっと泣いています
あなたといっしょにいたいと
誰にもそんなこと言えないけれど


We are sailing
We are sailing
Home again
Cross the see
We are sailing
Salty waters
To be near you
To be free
Oh Lord,to be near you
To be free
Oh my Lord,to be near you
To be free
Oh Lord・・・・

わたしたちは漕いでいる
わたしたちは漕いでいる
ふたたびふるさとへと
海原を越え
わたしは漕いでいる
塩辛い海を
あなたのそばへとゆくために
そして自由になるために
あぁ、主よ
あなたのそばへとゆくために
そして自由になるために
あぁ、我が主よ
あなたのそばへとゆくために
そして自由になるために















2002年06月03日(月) アダルト チュルドレン

物心ついた頃から私はよく不安にさいなまされた。友達と遊んでいても、テレビを見ていてもいったいどこから沸いてくるのか分らない黒々とした不安に掴まれた。どんなに振りほどこうとしても自分から去っていってくれない不安を抱えて、私はともかくも表へ飛び出し丘へと駆け上った。高い丘の上からは家々が小さく小さく見える人も車も。頭上には空が高く広がり、どこまでも続いている。空から自分を、小さな豆つぶほどしかない自分を見る視点を心に持った時、すーっと不安が去っていくのを感じた。それにしても長いことこの得体の知れない不安がどこから来るのかわからずにいた。

私は自分の思春期がどういうものだったのか思い出さないようにしていたためかほとんど記憶に残っていないが、ある時、高校のクラスメートから言われたことで妙にはっきり覚えていることがある。放課後何とはなしに教室で話していた時、そこにいた男子生徒から「おまえ、いつ飛び降りるか分らないような顔してる。崖っぷちをふらふら歩いているみたいだ。」と言われた。その言葉に「分るんだな」と心のなかで呟いた。それとは見えていないように振舞っているつもりだったのだ。不安定きわまりない時期だった。

40半ばの今、気がつけば私は随分と平和に生きている。あんなに生きづらかった日々は遠い記憶の中にしかない。生まれた町を離れ、親からすっかり離れて暮らすことがひとつにはよかった。そして私に欠けてしまった子ども時代を自分の子どもを育てながら取り戻せたことがまたよかった。私はそれなりに長い癒しの時間を過ごしてきたのだろう。

ある時、私は自分の生きづらさが自分のACとしての生い立ちに因っていることを自覚した。アダルト チュルドレンと呼ばれるある共通する生きづらさを持った人たち。それはアルコール依存症の子どもに共通する問題を調べていくうちに浮上してきたひとつのパターン。

私の父はアルコール依存症ではない。それどころか全くの下戸である。しかし別にアルコールではなくても親が何かに依存傾向があり、子どもに対して愛情を注げず、子どもが早いうちから大人にならなければならないという状況に置かれた時、子ども達はACの生きづらさと同じ生きづらさを抱えて成長するとされこういう人たちも広義のACということになる。私の場合は母親の仕事依存傾向が原因だったと思っている。母は自分は不器用でいくつものことをこなせなかったから子どもにはかまえなかったと言うがそれは不器用なためではない。
母は自覚はないだろうが自らもACだったのだ。母の親もまた仕事に没頭することで何とか自分を保とうとする仕事依存症を抱えるタイプだったと私は思う。没頭している仕事も含めて生きることを楽しむことができない。苦痛の中でがむしゃらにがんばるという生き方を自分に課してしまう。ACは責任感が強すぎるかあるいは責任感がなさすぎるかだというが仕事依存症の母親は仕事に責任感がありすぎる一面、家事や育児に対しての責任感が欠如してしまう傾向を抱えていた。人目を必要以上に気にする母は誰からも良い人だと言われ誰とでもうまく付き合っていたが心の中には不安の方が多く、母親の不安やマイナーなエネルギーは家族の中でひとり長女である私に向かった。

私はその悪しき連鎖をなんとか終わらせたいと結婚したら教職を退き、育児に専念したが、そこがACの悲しさ、今度は子育てに依存してしまうのである。一生懸命になりすぎる。育児を楽しめず、生きづらさは変らない。自分が没頭できるものを見つけては憑かれたようにそのことに身をゆだね、わざわざ好き好んで焦燥感に身を焼くのである。今も深いところでは私のこの依存症は治ってはいない。けれどもこの自分の傾向がどこから来るのかを知ってからはその傾向を飼いならすこともできるようになってきた。人目を気にする傾向は相変わらず強いが、連れ合いが一向に人目を気にかけない人なので最近はかなりその傾向と同化してきている。異常な責任感が自分も周りも苦しめることは分っているので人といっしょにチームでやるような仕事はできるだけ避ける。何かに憑かれることがあっても、これは一時のこと、そのうちにどうでもよくなると自分に言い聞かせてその時はその状況を楽しむことに、あるいは利用することにしている。二人の息子たちはどうやら父親の方の傾向を受け継いだようで、がんばりすぎることもなく、焦燥感とは無縁である。それぞれに自分の今を精一杯楽しんでいるようで私は物足りない気持ちもあるが、どこかでほっとしている。


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