たりたの日記
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2002年03月31日(日) イースター、そして送別会

毎年、3月にはいくつかの別れがあり、4月には新しい出会いがある。
去年の3月は7年間、英語講師として週に1,2度、授業に通っていた朝鮮学校の生徒や先生方との別れがあった。朝鮮語は数えるほどしか覚えられなかったが、日本で暮らす外国人の思いや教育にかける情熱、同じ祖国を持つ人たちのお互いをおもいやるやさしさ、そこにかかわらなければ知ることのできなかったことがらにたくさん出会った。

今年もいくつかの別れがあった。小さい頃から英語を習いにきていた中学生3人。去年1年だけ教えた小6のクラスの4人。そして、今日のイースターの日は9年間、私たちの通う教会で牧師をされた先生とアメリカからボランティア宣教師として英語学校の教師や様々な教会の活動を支えた方との送別の日だった。礼拝の後、持ち寄りの昼食会。会の最後には「神ともにいまして」という送別の讃美歌を歌う。アメリカから帰国して、社宅から一番近い教会にとりあえず通うことにしたのが9年前のことだった。子どもの頃から数えると6人目の牧師ということになる。それぞれの出会い、それぞれの別れ。

毎週日曜日の礼拝で聞く説教は私にとってはかなり大きなウエイトを占める。
その言葉で新しい週を始めたい。その言葉に力を得て歩みたいと思っているからだ。その牧者の言葉ではなく、牧者を通して語られる神の言葉。生きて働く言葉。それを得ることが出来て感謝の時期もあれば、得られずに渇望する時期もある。でもそれはそれで必要なことなのかもしれない。
4月、新しい牧師を迎える。


2002年03月30日(土) ネット日記一周年記念

ネットで日記を書き始めてから今日でちょうど1年が経ったことになる。
ところどころ虫食いのように穴が開いてはいるものの、ほぼ1年毎日書き続けることができた。300日以上は書いたと思われる。私の人生の中でこれほどまじめに書いた日記もなければ、人から読んでもらったものもない。そういう意味ではこの1年は画期的な年だったといえる。私の45歳の1年間が頼りない記憶に頼らなくても思い出せることもなんだかうれしい。なお読んでいただくことで人との触れ合いや出会いが起こったこともうれしい。

今日はイースターエッグつくり。毎年の行事だが、白い卵に絵を描き、様々な美しい色に染めるのはやっぱり楽しい。年によって、子どもたちを集めてやったり、英語学校の生徒さんを招待して、パーティーの形式でやったこともあった。今年は女性5人でおしゃべりをしながら楽しいカラリングだった。


2002年03月29日(金) 持ち味

弟のところの真ん中の子はいわゆる重度障害児だ。8歳なのだが、言葉を発することができない。しかし彼のまわりにはなんとも優しく美しいエネルギーがあって、私はそれが好きだった。でも言葉をかけられないし、彼の関心もこちらには向かなかったから私はそんな彼を一方的に眺めているだけであった。
ところが今度は少し違った。彼が私の膝の上に乗ってきたのは私の内に何か変化があったのかもしれない。私は言葉をかける代わりに、いつも花や木に話しかけるような具合に彼の心に向けて思いを集めた。いいな、好きだなと思っているだけではなく、はっきりと無言の言葉として彼に送った。彼のエネルギーがさっと変わったのが分った。彼は膝の上で跳びはね、私に顔を近づけ、また私の背中をこぶしでどんどんと叩いた。もう力は随分強くなっているので痛かったが、それは私のメッセージへの応答だということが分っているので嬉しく、また心を動かされた。
その後彼は私の存在を彼は認めてくれるようになった。姿が見えないと探し、別れようとすると別れを惜しんでくれた。言葉ではないけれど、彼から送られてくる直球型のエネルギーはとても強く、喜びに満ちていた。彼しかない持ち味。家族が彼を抱えることの労力は大変だが、彼の存在がもたらしているすばらしいものがここにはあることを知ることができた。

ここの家の長男、9歳のYの持ち味もかなりユニークだ。あまりにいろんな要素があって、こういうタイプという具合に分類ができない際立った個性を持っている。最も感動的なのは彼の喜怒哀楽の強さだ。彼は別れを惜しんで泣くことができるという希少な子どもである。私は彼のこの部分に心底感動を覚えているが、うっかり無防備でそこに立ち会うと4,5日はそのことが心から離れずに苦しい目に会う。きっと彼の方は数時間もすればけろりと元のモードに戻れるに違いないのに私の方が立ち直れない。そこで今回は初めから多少用心していた。
こういう心のコントロールも人間には必要になる。ストレートにエネルギーを向けてもまた受け止めても痛みになることがあるからだ。どこかでそのことを恐れてか、相手の心とできるだけ触れ合わないでいようとことさらに努力する大人は少なくないのだろう。愛も憎しみもストレートに向けようとはしない。あるいはそうしたくても出来ないのかもしれない。そういう人たちの前では言葉は心をつなぐものとしての役目を果たせず、発する言葉はそのそばから地に落ちていくようで、その人の心へ達する道は気が遠くなるほど遠く感じる。それもこれもそれぞれの持ち味には違いないが。



2002年03月28日(木) 赤ちゃんの不思議

26日から28日まで金沢の弟のところへ1月に生まれた赤ん坊を見に行った。

わが子が今年二十歳を迎えようとしている今、赤ん坊と過ごした時ははるか遠くのこととなってしまい、その時のことも切れ切れにしか思い出せない。当時付けていた育児日記を紐解いてみても、ミルクの量や睡眠の時間、日々変化していく赤ん坊の様子などは詳しく記されているものの、その時の私の気持ちや考えていたことなどは何も書かれていない。しかし、赤ん坊を与えられたということがそれまでの私の人生の中でも一番大きな変化だったことは記憶している。生活パターンの変化も去ることながら、自分自身の生きる方向のようなものがそこから変わった。そこにあった想いはしかしどういうものだったのだろう。生まれて間もない赤ん坊を腕の中にもう一度抱けばその時の想いの中身を確かめることができるのかもしれないと、そんなことを漠然と考えながら新しい甥との対面を待っていた。

ベビーベッドに寝かせられた小さな生き物。初めに見た時は「かわいい」と思う以上の感情は取り立てて起こらなかった。ところが2度3度とミルクを飲ませるうちに不思議な力に引き寄せられてくように心が赤ん坊の方に引きつけられていくのを感じた。もうこれだけで十分といった充足感と、泣きたくなるような切ない気分。そして赤ん坊の前に何ともちっぽけな存在になってしまう自分。

すっかり忘れていた母親になりたての時の気分が蘇ってきたが、それはくらくらするような陶酔感、いわば恋に落ちた状況だった。この小さな命を守るために、自分は何もかも放り出してもかまわないという一途な気持ちに支配されていた。他の物は何もいらない、他には何も関心が向かないという、かなりエゴイスティックな閉じていく心の動きだったように思う。いったいいつまでこの蜜月が続いたかははっきり覚えていないが、赤ん坊がやかて一個の人間として自己主張を始めるようになるまで母子一体のその時が続いたのだと思う。その時期はやがて過ぎ去っていくので、その気分もじき忘れ去られていくのだろうが、恐らくどの母親もあるいは父親も一度は通過した時期なのに違いない。

生まれて間もない赤ん坊は一様に自分を抱く大人を自分への愛へ引き込まないではおかない強力なエネルギーを放っているのだろう。大人が世話をしなければ一日も生きることができない頼りない存在であるが故に、神は人の愛を喚起する最大級の力を赤ん坊に与えたのだろう。手のひらにすっぽり入ってしまうほどのぐらぐらと首も据わらぬ頭、力を入れれば壊れてしまいそうに柔らかな身体。しかし、その呼吸する小さな生き物は命の源としっかり繋がっていて、その大きさと不思議の中に人間を引き込まずにはおかない。


2002年03月25日(月) 夕方のモンク

今日は小学校5年生の英語クラスの今年度最後の日。
お母さん方をお招きして1年の成果を見ていただいた。それが終わるとなんとも開放感に浸って夫のCDコレクションからCARMEN MCRAEの歌うセロニアス・モンクを選び出し聞いている。他にも気が重かったことの解決があり、心も体も晴れ晴れとしている。寝つきだけは誰にも負けない私が昨晩は何だか眠れず、朝4時から起きていたのだが、今は様々な緊張から開放されて心地よい。そういえば、ジャズの和音は緊張と解放を繰り返していると聞いた。このホアンとした解放感はその前後に緊張をもたらす和音があるからなのだ。そういえば、モンクはジャズが好きになったきっかけだった。音の向こうにその時の気分が浮かびあがる。クラッシク音楽の勉強に辟易としていた時にさわやかな風のように吹き込んできた音、自分のいる世界とは違う魅力的な音だった。そうそう、一人でジャズ喫茶に日参していたのもこの頃だった。自分とは違う世界の人間たちの中に身を置く居心地の悪さは無くもなかったが、そうすることの必要に迫られていた。そうでなければ「音楽」することの苦しさに押しつぶされそうだった。貸してとも言わないのにジャズのレコードを押し付けてきた昔のmGが後に連れ合いになったのも、あの「音楽」の苦しさや緊張と無関係ではないような気がする。


2002年03月24日(日) 保育所でのジャズ

このところネットで知った方との出会いが続いているが、今日は奇しくも同じ町の住人だということが分ったナベトモさんに近くの「つくしんぼ保育所」にご足労願い、園長のTさんと保母のNさんといっしょに保育所でのボランティアのことを相談した。ナベトモさんは華麗にジャズピアノを弾かれる方だ。また精神障害者の施設やホスピスで音楽ボランティアとして演奏していらっしゃる。
「シャボン玉とんだ」や「たき火」といった童謡がその和音やリズムも複雑なジャズに変身していくのを聞きながら、こういう豊かな音を小さなうちから聞かせたいねとスタッフの人たちと話したことだった。ちなみに私はここで二ヶ月に一度の「あそび会」と称する地域のお母さんと幼児を対象にしたオープンハウスで英語の歌と遊びを担当している。英語のリズムの楽しさを子どもたちに伝えるということなのだが、英語にかかわらず、いろんな音遊び、言葉遊びができるといいと思っていた。今後はナベトモさんも時々、ジャズピアノを弾きに来てくださることになり、この小さな保育所にいろんな和音やリズムが溢れることになる。子ども達がどんな反応をするのか楽しみだ。ここ数ヶ月、ビョークとグレゴリアンチャントしか聞こうとしなかった耳にジャズの和音の持つ緊張と緩和は心地よかった。
こういう具合にモードが変わることがある。

夕方、九州から戻ってきた夫と温泉銭湯へ行ったが、サウナで「知ってるつもり」の最終回があっていて、なんと「キリストの生涯」がテーマだった。
これに使われているジーザスという映画はビデオで持っているものだが、いわゆる大衆番組がどのようにイエスを伝えているのか知りたくて、出たり入ったりを繰り返し、一時間もサウナで過ごすことになった。今日の礼拝で朗読したイエスの十字架への道行きと重なった。関口宏と相方の女優の方が想いを込めて読む、イエスに影響を受けた人たちの言葉は乾いた喉にしみこむ水のようだった。でもサウナでイエスの受難物語を見るなんて、ちょっと不謹慎だったかしら。


2002年03月23日(土) 団栗さんにお会いする

団栗さんとマオさんと新宿で会った。団栗さんが都内にいらっしゃる用があるということで、マオさんがアレンジしてくださったのだ。
いっしょにお昼をいただきながら、4時間ほどいっしょにすごす。
マオさんも私も団栗さんと会うのははじめてのことだ。随分古くから知っている友人のような気がしているが、顔を知らないことにはたと気がついた。いったいどのようにその人と確認すればようのだろうとそんなことを考えながら中村屋の3階にあるフレンチレストランの入り口で待っていた。マオさんがすぐにいらしたものの、どうやって確認するか話してはいないということ。入り口に30代くらいの男の方がいらっしゃったのでマオさんが声をかけるとその人は違う人だったものの、上の階に行こうとしていた団栗さんが自分の名前を通りがかりに聞きとめ、お互いが確認できたというわけだ。不思議なもので初めて顔を会わせるという対面が終わるとすでに知ってきたその人と目の前に現れた人との間に一致が起こり、その顔もずっと前から知っている顔になる。ネットで知った人と実際に対面する時におこるこのことがとても不思議でその度にわくわくする。
お互いのことはすでに書いたものを読んで知っているので、話が表面的なところに終始するありがちな初対面の人との話のようではなく、いきなり深いところでの話しが進む。キリスト教のこと、教会や信仰のこと、これから団栗さんが向かおうとされていることについて団栗さんの飛行機の時間ぎりぎりまでおしゃべりしたが、時間はあっという間に過ぎてしまい、まだ話足りないという感じだった。今度は他の方々にも声をかけてお会いしましょうとお別れする。
MAOMAOジャングルに初めて投稿した詩と童話はいずれも団栗さんの書かれたものにインスピレーションを感じて書いたものだった。あの時からわずか1年
ほどしか経っていないが、この1年、書くということを通して長い旅をしてきたような感覚がある。実際心は旅をしたのだろう。自分の過去に向かって、またそれぞれに出会う人たちの心に向かって、時空を超えた旅をしてきたのだろう。団栗さんのこれから始まる旅が神の守りと祝福の中にあることを心から祈る。


2002年03月22日(金) 最後のクラス

3月という月は何かしらの別れがある。
今日は家に英語を習いに来ていた中学3年生の最後の日だった。一人は中学校3年間、もう一人は小学校5年生の時からだから5年間、ここ通ってきたことになる。無事に志望の高校へ送り出すことができる安堵感と、もう来週からこの子たちが来なくなるという寂しさの両方がある。

今日は中2の子2人もいっしょに最後のクラスをした。中2の英語の教科書にトラップファミリーの読み物があるが、子どもたちはトラップファミリーをモデルにしたミュージカル映画「サウンド オブ ミュージック」を見たことがないというので、今日はDVDでこの映画の鑑賞会をした。事前に映画の中に出で歌われる歌を4曲選び読み、意味を考えあうという授業をしておいた。私はもう何度もこの映画を見ているが見るたびに新鮮な感動がある。そして最近の映画に比べるととても分りやすくきれいな英語だと思う。

途中でピザをスパゲティーの夕食をし、続きをみる。中3の子たちへのプレゼントに今年はマガジンハウスから出ている「世界がもし100人の村だったら」を選んだ。英語の教材に使いたかったのだが、後半は高校入試にフォーカスしていたのでこれを取り上げる時間が持てなかった。残念だった。
彼らが自分で読んでくれるとうれしい。今はピンとこなくても、この本のことが心のすみにでも残ってくれたらうれしい。いろんな意味でこの1年に起きた出来事を思い出させてくれる本になるだろうから。

プレゼント用にこの本を何冊か求めたのに、自分の分はPCに入っているからと買わないでいたら、しばらく音信が途絶えていた故郷の知人からこの本が送られてきた。なんだかうれしくなって、明日会うことになっている団栗さんとマオさんにもこの本を差し上げようと思った。


2002年03月21日(木) ミュージカル再開

ミュージカル「森のおく」は新しくマオアキラさんを座長とする劇団MAOMAOジャングルで再スタートすることになった。来年の4月6日、会場は埼玉芸術会館。
以前のミュージカルは猫ノラの役だったが今度はママの役になる。ほとんどメインキャラクターのこの役を私がやってもよいのだろうか、いったいやれるのだろうかという恐れが先に立つ。同時にこれまで曲りなりにも学んできたこと、大切にしてきたことを形にする貴重なチャンスだという声も私の内から聞こえる。
また音楽関係のチーフの役目をいただいたが、大学で音楽教育を副専攻したにもかかわらず、ピアノはうまく弾けないし、学んだはずの和声学も作曲法もすっかり忘れてしまっている。私の音楽の知識や感性がどこまで役に立つか自信は無い。でも音で表現したいという欲求はずっと私の中に続いている。
先週の英語のクラスで「Yes,I Can」という詩を教材にして、「できると思う心のどこかに無理かもしれないと思う心があると次から次に無理が出てくる。、、、、、、、、私はできる、そう信じている人が結局は勝つのだ!」
と、子どもたちと学習した。「できると思ったら何でもできるのよ。」と彼らを励ましておいて、私が弱気になるわけにはいかない。Yes, I can!」
ボイストレーニング、歌の練習、音楽作り、さっそく始めよう。劇やミュージカルもできるだけ見に行こう。やれるだけのことをしよう。あきらめや恐れを克服するチャンスになるかもしれない。


2002年03月20日(水) 桜の蕾

桜の木で染色する時、まだ花の咲かない蕾の時の枝で染めると淡いピンクの色に染まると聞いたことがある。
友人とまだ2分咲きほどの桜の並木を歩く。
こんなに蕾がついている時期のお花見は珍しい。いつもは散る寸前にあわてて見に行くから、桜ははかない印象しかなかったが、今にも咲こうとしている桜の蕾は内に力を秘めているようで見ていると元気がでてくるような気がする。
3,4年前にもここに連れてきてもらったがみごとな桜のアーチなのに人がほとんどいなくて静かだった。あの時は花冷えという言葉がぴったりの曇りの天気だったが今日はぽかぽかと陽射しは暖かだ。
桜の下にシートを敷き、お昼を食べ、しばらく寝っころがって桜を見上げながら話をする。青空を背景にした桜の蕾は美しくエネルギーに満ちていた。この春はいろんな桜を見たいと思う。


2002年03月19日(火) おさらい会

今日は英語学校で私の担当している「幼児とお母さんのクラス」のおさらい会。3クラス合同でやるので親子で30名になる。こういう企画は初めてなので昨日からなんだか落ち着かなかった。子どもたちが集中してくれるだろうか。でんでばらばらになったらどうしよう。なにしろ3歳から6歳までの子どもたち、同情や協力ははじめから期待できない。楽しくなければ容赦なくそっぽを向かれる。いくらシュミレーションをしても実際やってみないことには分らない。私一人でやるはずだったが、日本語の達者なアメリカ人のTが応援に来てくれることになり心強い。

はじめの一時間は4月から今までやってきたことを順におさらいしていき、間に英語の絵本の読み聞かせと3匹のこぶたのパペットショーをはさむ。その後、外の芝生に出したテーブルを囲んでみんなでケーキや飲み物をいただくという計画だ。子どもたちにゲストだといってTを紹介すると、緊張しているがこれは良い作用をもたらすなと感じる。子どもたちも4歳以上になると「かっこよく見せたい」という気持ちが働く。見学者があったりすると無意識なのだろうがふだんよりもはりきってやるのである。

全員が集まるまでギターを弾き、元気のいい英語の歌を歌っていった。みんながそろったところで、ひとりづつTに自己紹介をし握手をする。ここが英語クラスのいいところである。日本語なら「わたしは○○です。はじめまして」などと3歳の子が言ったりするのはなんか変だが、英語だとそれはごく自然なこと。どの子もTの前に立って神妙な顔つきで
"My name is○○. Nice to meet you."
と言っていた。その表情のかわいいこと。一番の腕白坊主も今日はぴりっとしている。

今までに習った歌をはじめからいっしょに歌い、歌遊びや手遊びをやっていったが、今までにないくらい全員の子が心をひとつにしてやや興奮気味に歌う姿にびっくりする。これは集団の力なのだろうか。わきあがってくるような喜びが子どもたちの表情の中に見えた。クラスの最後はBig Hug。
”Give mom a big hug"
という掛け声で子どもたちはお母さんにハグするのだが、年長児ともなるときまりが悪そうにしてお母さんに抱きつけない子もいる。
”Give me a big hug."
今度は私に。私とは英語モードの中にいるからハグも抵抗なくできるのか、子どもたちからの笑顔と強いハグは何よりものプレゼントだった。

言葉はその向こうに文化をくっつけている。私は英語をよその国の言葉として教えるつもりはない。もはや英語は人類が共有する言葉、わたしたちの言葉でもある。その向こうにある文化だって同じ地球のどこかから生まれた人間の文化なのだから私たちのものであってもいっこうにかまわない。その文化や習慣が自分の心に合うのであれば。真似をするのではない。この日本という国の枠の外に自分を広げることだと思っている。実際子どもたちはごく素直にその言葉や言葉のむこうにあるものを自分のものにしていく。

心配するほどのこともなく、一時間はあっという間に過ぎ計画していたこともすべてやることができた。夕べせっかくタイプした3匹のこぶたの人形劇のシナリオは家に忘れてきてしまったけれど、かえって子どもたちの顔をみながらやれたからよかった。子どもたちは英語の台詞のところも集中して聞いてくれていたが、英語はちょっとあやしかったな。今度Tに聞いてみよう。
4時過ぎ、風も出てきて外は少し寒かったが、外に出てお向かいのベーカリーのおじさんが作ってくれた苺のショートケーキとアップルパイをいただく。
これを持って2001年度の英語クラスは終了。このおさらい会、なかなかよかった。来年もやることにしよう。


2002年03月17日(日) 空の鳥、野の花

今日は教会学校で話をした。本当は長男のHの当番なのだが何しろいつ旅行から戻る分らないので当てにできない。結局、Hは昨日の夜帰ってきたのだが、もう話の準備をしていたのでやはり私が話すことにした。Hには来週やってもらおう。

今日の聖書日課は「ラザロの復活」の箇所だったが、どうしても伝えたいことがあって聖書は別の箇所を選んだ。マタイによる福音書6章の25節から34節まで「空の鳥、野の花」のところだ。昨日星川ひろ子さんの講演に行ったことを話し、「ぼくのおにいちゃん」の絵本の読み聞かせをする。その後、私の甥がその絵本のおにいちゃんとそっくり同じ障害を持っていることを話す。絵本のおにいちゃんのように家族は困らせられることもあるし、私もがぶりと噛み付かれたりしたこともあるけど、いつも楽しそうなその子の傍にいるととても優しい、うれしい気持ちになってくることを話した。絵本のなかのおにいちゃんも、私の甥も家族の中でとても大切な役目を果たしている特別な存在なのだ。空の鳥は種も播かず、刈り入れもせず、倉に納めもしないが神様は養ってくださる。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の花でさえ、神様は美しく咲かせてくださっている。空の鳥や野の花はそんな神様の愛を、命の不思議や尊さを私たちに教えてくれている。私たちの周りには体が不自由だったり、知能が遅れていたり、様々なハンディを持っている人たちがたくさんいるけれども、神様はそんな人たちを通して大切なメッセージを私たちに伝えている。そのメッセージを聞き取れる人であってほしい。この社会では何もできない役に立たない人のように思われて入るかも知れないけれど、ほんとうは神様の国に一番近い人たちではないかと思う。
そんな話を子どもはまっすぐな眼差しを向けて聞いてくれていた。最後に障害をも持つ保育園の先生とこともたちのかかわりを描いた「ぼくたちのこんにゃく先生」を読む。絵本を出したら、一人の男の子が「あっ、コンニャク先生だ」と声をあげた。どうやら彼の方がコンニャク先生との付き合いは長いらしい。私は昨日出会ったばかりだもの。星川さんの仕事がここに広がっていることを思ってうれしかった。

それにしても不思議。目黒に出かける前にHPの掲示板をのぞくとネモさんから「空の鳥野の花」というクリスチャンの方のサイトのご紹介があった。アドレスをクリックすると讃美歌ならぬ、ジョンレノンのイマジンが流れてきて、私はそのサイトにはや興味を持ち、しばらくそこで時間を過ごしたのだった。出会いたいもの、出会う必要のあるものにはこうして出会う道筋が与えられる。感謝!


2002年03月16日(土) 星川ひろ子さんの絵本

岡田なおこさんが企画したイベント「障害を知ろう・語ろう」の特別講演を聴きに目黒障害者支援センターへ行く。初めて行く場所だというのに下調べもしないで都立大学駅に着いてしまった。途中で買った東京ミニマップはさっぱり役に立たない。新しくできた施設らしく聞く人聞く人知らないという。交番に行って聞くと、「おそらくこの先を行ったところだと思うけど、もし違っていたらまた戻ってきて右に曲がって、、、、。」「あの、あと5分で講演が始まるので間違った道を行きたくないんです。確かにこちらですか。」と私はきちんと調べておかなかった自分のことは棚に上げて、ぎろっとおまわりさんを睨み付ける。早足にその道をまっすぐ行くとどーんとりっぱな建物が目の前に現れ、目的の場所だったことが分る。それにしてもこんなに大きな建物をなぜおまわりさんも知らないわけとまだ腹立たしい。走るようにして建物に入り、会場の部屋へたどり着く。入り口になおこさんがいて迎えてくれた。ああよかった間に合った。ハラハラドキドキの気分がさっと引いていった。なおこさんに会うのはこれで3度目だというのに、なつかしさでいっぱいになるのはどういうわけだろう。彼女の書いた児童書やエッセイやHPの日記などで彼女にたくさん出会ってきたからなのだろう。
写真家 星川ひろ子さんのことは聞いてはいたものの、お話を伺うのははじめてだった。「しょうがいってなあに」の5冊の写真絵本シリーズの作者としてしか知らなかったが子どもが小さい時5年間に渡って購読していた福音館の「かがくのとも」で星川さんの仕事にはすでに出会ってきていることが分った。重度の障害児の母親として生きてこられた氏の言葉は真実で重い。一言一言がびんびんと響いてきて私はおよそ泣くような場面ではないところでぐしゅぐしゅと泣けてきまりが悪かった。こういう時というのはたいていなぜ泣けるのかそのはっきりした理由が分らない。けれど何か人事ではない自分に直接かかわってくる何かがあることだけは分る。
休憩の時間に急いで写真絵本を4冊求める。講演会の後だと売リ切れてしまって買えないかもしれないとなおこさんにお願いして早めに確保させていただいた。障害を持つお兄ちゃんを弟の目から見た「ぼくのおにいちゃん」は2冊買った。今月末に訪ねる金沢の弟のところへ持っていこうと思う。上の子にとっては弟が、新しく生まれた子にとっては兄がこの絵本のおにいちゃんと同じ障害を持っている。彼らにとってこの本は特別な意味を持つことになるだろう。

講演の後、講師の星川さんやなおこさんをはじめ主催者の方々と食事をしながら話すことができた。また星川さんとは新宿までごいっしょすることができ、いろいろとお話を伺った。一冊の本を出すまでの大変さが伝わってくる。また星川さんの絵本はいわばドキュメンタリーであるが故に、そのモデルになる人の家族の方々の思いもあり、創作絵本にはないご苦労があることを知った。大変な作業なのですねと言うと星川さんは夕鶴が自分の羽を抜いてそれで布を織っている、そんな感じだとおっしゃった。書くということを始めた私にとってそれははっとする言葉だった。本を書くということ、作品を世に出すというのははそういうことなのだ。忘れられない言葉になるだろう。

帰りの電車の中で求めた絵本を広げた。「ぼくたちのコンニャク先生」「ぼくのおにいちゃん」「となりのしげちゃん」、その写真からすごい力で押し寄せてくるものがあって、後から後から涙だ出てきて止まらなかった。暖かい写真、美しい写真。だけどそれだけじゃない。いったいこれはなんなのだろう。なぜ泣いているのだろう。何か溶けていくものがあって、感謝の気持ちに満たされていた。


2002年03月12日(火) ヤップ島

2月24日に友達と2人で旅に出た長男から2週間連絡が途絶えている。
出かけて2、3日後にグアムから電話があり、翌日ヤップ島に行くということだった。その後連絡がないのである。テレホンカードを買ったというのだから電話はできるはずだ。拉致でもされていない限り。いったん不安になるとじっとしてはおれない。それにしても、連絡の取りようがないのである。いっしょに行った友達も「だいちゃん」としか知らないし、ヤップ島から上智に来ている女の子の連絡先も知らない。その子の親戚の家に滞在するようなことを言っていたが、いったい今そこに居るかどうかもさだかではない。大学で学生の電話番号などを聞こうと電話をかけてみたが、個人的な情報は伝えられないという。これが高校だったら、担任の先生に相談にのっていただくこともできるのだろうが、大学とはこういうところだったのか。当然ながら、連絡網のリストなど存在しない。そういうものは個人の責任で確保しておくものなのだとこんな当然のことに今ごろ気がつく。あまり息子のプライバシーにかかわらないようにしてきたが、友達の携帯番号くらいは聞き出して控えておくのだったと悔やまれた。
そこで彼の部屋に入り、手がかりになるものを探しにかかる。彼らが企画したパーティーのゲストリストが見つかった。おびただしい名前と電話番号。ここに息子の友人もいるだろうし、そこから連絡の糸口も見つかるだろう。
知らない若者の携帯電話にかけるのは抵抗があるがこの際しかたない。上から順番にかけていくが、圧倒的に通じない。番号が変わっている。通じたと思っても、ただ誘われたて出かけたパーティーだったから知らないとそっけない。そこで思い出したのが昨年の誕生日に彼がもらったサイン帳。確か同じ学部の子達がメッセージと名前を書き込んでいた。
あった、あった。そこに書かれた名前の有難いこと。プリクラまではってある。プリクラの写真の下にある名前とゲストリストの名前が一致した。この子は少なくとも息子のことは知っている。電話が通じ、フレンドリーな声にほっとする。2週間も連絡がないというのはやっぱりたいへんと彼女も友達として心配してくれたようで、ヤップ島出身のJの連絡先や他の息子の友人に当たってくれると言ってくれた。間もなく彼女から連絡があり、Jの携帯番号が分った。有難いことにJとはすぐにつながった。家の電話であればこうはいかないであろう。携帯を持っていない私であるが、携帯とはこういう便利なものかと感心する。
さて、J。1週間前にヤップ島の親戚の家から、日本から客が来て楽しくやっているという電話が入ったということだった。ほっ。ともかくヤップ島へはたどり着き寝泊りできる場所で暮らしていることは分った。Jから親戚の電話番号を教えてもらい、さっそくかけてみる。電話局で国番号を問い合わせるとヤップ島では分らないという。そもそもヤップ島ってどこの国なんだろう。グアムから行くというのだから、アメリカの国番号と同じだと思っていたのだが、違うらしい。国番号を無視してかけてみると何とつながった。市外局番だと思っていた3けたの番号がどうやら国番号だったらしい。電話の向こうから女の人の声が聞こえた。なまりのある英語だ。Hの母だというと、彼は今いないが夜に帰ってくるという。ということはそこにまだ滞在しているということだ。私はがお礼を言うと向こうの方がしきりにThank youと言われる。やっかいになっているのは息子たちなのだが彼らが有難がられる理由が何かあるのだろうかと訝しかった。
夜になるのを待ってもう一度電話をする。「はい、もしもし」と息子の声。「なんであんたが日本語で応対するの。別の人からの電話だったらどうするつもりだったの。」「ここのおばさんが今日お母さんから電話があったって言ったから、きっとお母さんからの電話だと思ってね。ここ電話なんてめったにかかってこないから。公衆電話なんてないし、高いからここの家電は使わせてもらえなかったんだ。」
自給が75円なのにコカコーラはアメリカと同じ値段だという。電話に限らず、売られているものは島の人たちにとってはかなり高い。そこで食料は自分たちで作っているタロイモであり、毎日海へ出かけ、えびやらかにやらを取ってきて食べるという自給自足の生活だという。「それで君たちはただで食べさせてももらっているというわけ?」「とんでもない。ちゃんと2人で300ドル出したよ。」
自給が50セントの社会では300ドルは大金だがホテルに泊まるとすれば3日分にもならないのだから有難いことだ。一方的にやっかいになっているのでなくてよかった。今日も海に出かけ食料となる蟹やらえびやらを採って過ごしたらしい。Hが言っていたように地上の楽園のようではないか。アジアのあちこちを見聞して歩く社会派の旅ではなくひたすら自然児の生活を満喫する旅となったようだ。彼らしいとも言える。ヤップ島に渡るのに、500ドルもかかり、とてもインドへ渡るお金がないので予定を繰り上げ明日はグアムに戻り2,3日内には日本に帰ってくるらしい。「えっ、もう帰ってくるの」と夫。「いいじゃない、よかったわよ、インドに行かなくて。」と私。母親と父親の意識は随分違うようである。


2002年03月09日(土) 友と会う

1年に1,2回帰省するものの実家か病院に行くだけであちこち訪ねり、人と会うということもなくなっていたが、今回の帰省は違っていた。私は積極的に電話をし、教え子のTさんを皮切りに、やはり新卒の時の教え子のNちゃんとSくんのカップルと大学時代の友人のYに会うことができた。

父の病院を訪ねた後、大分駅でNちゃんとSくんのカップル、そしてもうじき一歳になるKちゃんの3人と待ち合わせをし、市内に新しくできたしゃれた中華料理のレストランに行った。NちゃんとSくんとは3年前にふたりの結婚式の時に会って以来だった。私は2人が小学校3年生の時の担任だったのである。結婚式で3年2組の時の2人の思い出を話した。二人のご両親ともなつかしい再会だった。その昔、3年2組の教室の一番後ろの席からNちゃんはとびっきりの笑顔を私によこしてくれていた。Sくんは一番前の席で私を少し見上げるようなかっこうで、じっと私を見つめていた。視線が少しもそれないでまっすぐに私に向かっているというのはそれだけで何か力をもらえるものである。何も知らず、力のない新卒の私が曲がりなりにも授業ができたのは、そういうNちゃんやSくんが私に向けてくれる信頼や愛情のお陰だったと私は今でも感謝でいっぱいになる。教え子などと偉そうに呼べるものではない。教えられ子、そして私の人生で出会ったかけがえのない友人たちだ。

Sくんは市内で良く知られている洋風居酒屋の店長をしている。連れて行ってくれたレストランは新しくできた姉妹店だということで、店長や料理長が親しげに声をかけてくれた。一歳になるKちゃんを連れてレストランに来るのは初めてだということだったがなかなか良いお母さんお父さんぶりを見せてもらった。逞しいママとパパになった2人に9歳の時の彼らをこっそり重ねてみながら深い感慨に包まれていた。「Kちゃん、せんせいだよ。パパたちのせんせい」そういってKちゃんを渡してくれた。抱っこしながら、孫ってこんな感じなのかしらと何かしみじみとした気持ちになった。Kちゃんの成長の過程を私も見守らせてもらえるのはなんとうれしいことだろう。帰省の楽しみが一つ増えたように思う。

9日、大分から戻る飛行機は夕方の便だったので、私は大学時代の友人のYを別府湾の海岸公園の中にある温泉施設に誘う。私は帰省の旅にここに寄り道するのを恒例にしている。ここは水着を着て入れるプール感覚の温泉がある。潮の香りをかぎながら、目の前に広がる海を眺めながらジェットバスに入ったり、水中ウオーキングをしたり、泳いだりする。市営の施設でありながらあまり知られていないらしく、Yは初めてだという。

駅で待ち合わせをする。7年ぶりくらいだろうか。お互いに中年体型になっているが気分は学生の頃と変わらない。小学校の教師をしている彼女にとって、この時期は指導要録の記入などで忙しい時期なのだが一日付き合ってくれるという。初めにYの勤務する学校へ車を取りに行き新しくできた県立美術館に連れていってもらう。以前上野の森と呼ばれていた場所に素敵な設計の美術館ができていた。Yはクラスの子どもを連れて時々来るのだという。美術館の一角にまわりの林とその向こうに広がる市内の町と遠くの山々が一望できるガラス張りの場所があり、故郷の眺めを楽しんだ。一時間ほど、静かな館内で絵を見た後、別府の温泉へ行く。Yといっしょに風呂に入るのは結婚前に2人で湯布院を旅した時以来だ。あの時は大胆にも入り口の木箱に50円だかを入れて入る混浴の温泉に入った。私たちが入ると中にはおじいさんが一人いて、「わたしはもう出るから、あんたがたゆっくりはいりなさい。」と言って出て行った。いったい男の人が入ったきたらどうするつもりだったのだろう。なつかしい思い出である。

いつもは「じゃ、また来るから」とわりと淡々と母と別れるのだが、今回は別れ際、不覚にも泣きそうになってしまった。一人で暮らす母を置いて帰るということがなんとも心もとなく寂しかった。感じまい、認めまいとしてきた母の寂しさを素直に受け入れた自分を感じていた。私が親と分かれてきたように私の息子たちが私を離れる時はすぐそこに来ている。ようやく母の気持ちが分るようになってきたのかもしれない。


2002年03月08日(金) 坂道

その坂道をのぼったところに
わたしの生まれたところがある
ある日おとなになってわたしは
その坂道を上った

と、風景はいきなり光をまとい
そこここから 声が聞こえた
道からも、そこにある石ころからも
山からも、そこにある木々からも

「オマエヲ シッテイルヨ ズット ムカシカラ」

時間と空間のフレームは
いつはずれたのか
わたしはひとり
不思議の中におかれていた

「オマエヲ シッテイルヨ キノウモ キョウモ」

見えている世界の扉をひと押しすると
向こうに別の世界のあることを
あなたは覚えていますか
わたしは忘れていました

子どものころ
扉を開けては
山や川や木々たちと
交信していたことを
紫色の稜線は教えてくれた

「オマエヲ シッテイルヨ タトエ オマエガココニイナクテモ」

なつかしさに泣きながら
回れ右をすると
背中の向こうで扉が閉まった
大人に戻ったわたしは
その坂道を下りていった


2002年03月07日(木) 父を訪ねる

今日は父の74歳の誕生日だ。母といっしょに好物の桜餅と私が作って送っておいたバナナケーキを持参して病院を訪ねる。
看護婦さんに伴われて面会室に入ってきた父はにこにこしていてやわらかくおだやかな空気をまとっている。すっかり力のぬけた屈託のない父の顔を見て、何かうれしさがこみあげてくる。この感情も今までのものと違うなと感じる。

職業柄か、それとも父の性格のせいか、いつもどこかに緊張があった。敏感というよりは過敏でちょっとしたことでイライラし、キレルこともしばしばだった。だからこんなに穏やかな気分でじっと父のことを眺めるなど、父が痴呆になったからできることなのだと思う。すっかり記憶はないというのに、物を食べたり飲んだりする仕草はまったく父のもので、それを見るのは心地良かった。いつもいつも父とぶつかって来たのに、私は父のリズムのようなものが好きだったのだと改めて思う。

父は母も私ももう認識はできないのだが、でも親しい人間ということは分るのかとてもくつろいだ様子で椅子に座っている。そして昼食のすぐ後にもかかわらず、私たちが差し出すものは何でもあっという間に食べてしまう。桜餅、苺大福、バナナケーキ、プリン、ヤクルト、その食べっぷりから胃腸がとても丈夫だし、身体はとても健康なのだと分った。

去年の春にはまだ上手に吹けたハーモニカはもうほとんど吹けなくなっているが、鼻歌の音程はまだしっかりしていた。「春が来た」などの小学校唱歌を3人で口ずさむ。父の残された能力が少しずつ減っていく。言葉もさらに少なくなってきた。記憶も、そしていただいたひとつひとつの能力も順にお返して行きながらそれでもますます豊かになっていくものが目に見える。いったいそれをどう表現すればいいのだろう。その人間の本質がその人の持ち物ではないことを教えられる。それはその人の知恵や記憶ですらない。脳が司るものではない、もっと別のところにあるもの。生まれたばかりの赤ちゃんは文句なしに誰からも愛されるという力があるが、何もかもはずしてしまった痴呆の老人には赤ちゃんと同じような力があるのではないかとふと思う。


2002年03月06日(水) 別府の温泉

ここで風邪を引き寝込むことになったらどうしようと思っていたが、一夜明けるとすっかり良くなっており、予定通り母の医者行きに同行できた。肝臓の専門の病院まで電車と徒歩で一時間ほどかかる。肝炎のウイルスの検査結果はまだ分らないが肝機能や血液の数値は良くなっていて安心した。インターフェロンを使っての治療も可能になるかもしれない。
明日は父の病院に行くのでこの日は別府に一泊し、母とゆっくり温泉に入る。子どもの頃も娘時代も母と温泉に入ることなどなかったが、この頃はいっしょに温泉に泊まるのも恒例になってきた。この日初めて私は母の背中を流し、わたしも流してもらった。そういうことに慣れていない母と私なのでたいそうぎこちなく、今ひとつ不自然なのだが、普通の母と娘の図に自分たちを近づけようとそんな努力にも似た思いがある。


2002年03月05日(火) 風邪

実家に帰る目的のひとつは日頃何の手伝いもできないから、まとめて家の掃除や片付けなど母の不得意なことをやることである。いつもなら私は時間を惜しんで片付けに専念する。ところがひき始めていた風邪がすっかり悪くなり5日は朝から夜まで一日中寝込んでしまった。熱はないのに、体中がぞくぞくし、皮膚がひりひりするあの風邪特有な気分だ。とにかく眠った。それにしても来客や電話の多いこと。朦朧とした意識の中に客の話し声が入ってくる。不意の客など来ることのない私の日常では玄関先で客がかちあったり、2人の人が同様にたくわんを持ってきたり、そしていっしょにお茶をしたりというようなことはとても考えられない。それにしても帰省してきた娘が風邪で寝込んで起きてこれないなんて格好がつかないではないか。そう思いながらもさらに深い眠りに引き込まれていった。
風邪はうらめしかったが、この方が良かったのかも知れないとこれも朦朧とした頭で考える。てきぱきと仕事を片付けていく娘は便利かもしれないけど、母は決して楽しくはなかったはずだ。私は「なんでこんなもの取っておくの」とか、「こんなのはその都度捨てていかなくちゃ」とうるさいんだもの。母が作ったりんごのデザートをおいしいねとしおらしく食べている病気の私の方がましだと自分でも思う。
一人暮らしの母をいろんな方が気遣って、おかずを持ってきてくださったり、野菜を届けたりしてくださる。有難いことだ。私が風邪を引いていることを知って、母の昔の教え子のお母さんという方がおいしい肉じゃがとおかゆ用にと特別な自家製の米を届けてくださった。こういう親切を私はすっかり忘れてしまっている。


2002年03月04日(月) ふるさとの顔

21才になった春、私はほとんど強引に家を出て、一人暮らしを始めた。大学へは家から十分通えたが、このまま家に居てはいけないと感じて、先輩が卒業して引き払うアパートにさっさと引っ越した。その時から私は私の生まれた町を離れ、父母の元を離れ、自分だけの空間を持つことになった。親たちは勝手な娘だと思ったことだろうし、近所の人たちからもなにをわざわざと言われたが私はいつからか夢に見てきた一人暮らしが何ともうれしかった。私の生まれた町は時々帰るところとなり、こちらに出てきてからは一年に一度訪れるところになった。

ふるさととの距離は離れるばかりだと思っていたが、最近そうでもないことに気がつく。一度は遠のいていたふるさとが、これまでと違った角度で私に近づいてくるような気がしている。私が歳をとったためだろうか。それとも親が歳をとることで関係に変化が生じたためだろうか。とにかく帰省する度に印象が変わっていく。町の小さな駅を降り立ち、なつかしいような、昨日も歩いたような妙な気分で母の待つ家に向かって歩く。ふるさとはまたこれまでとは違った顔をしている。

桃の節句だからと母は散らし寿司と甘酒を用意してくれていた。私が小さなころ、甘酒は毛布を巻かれたかめの中に入っていた。麹と米が白くて甘い飲み物なるまで時々毛布をはずして味見をしながら辛抱つよく待ったものだった。母はこの甘酒を炊飯ジャーで作ったらしい。ちょっと味気ないが味は昔のままだ。

一日はNHKの朝のテレビ小説に始まり、決まりの番組に付き合いながら、こういう朝の過ごし方があることを思う。日ごろテレビを付けないまま過ごしているが、こうやって見ようと思えばいくらでも見れるものだ。昼から母といっしょに庭の草取りをする。水仙がいっせいに咲き出していた。


2002年03月03日(日) シングルマザーのT

朝9時過ぎ、義父と義母に見送られて宮崎駅から大分へ向かう。今度は私の実家へと向かうのだ。アルツハイマーの父は専門の病院へ入院しており、母が一人で暮らしている。母も肝硬変の病気持ちだ。しかし、検査の結果が次第によくなっていくらしく、このところ電話の声が明るい。そのせいだろう今回は帰省する足取りがいつもよりも軽い。

父の痴呆が進むにつれ、帰省しても実家にいるだけで、友人に会ったり、なつかしい場所へ出かけたりすることも久しくなくなっていたが、今回は気持ちの軽さからか、帰省の前にあらかじめ、何人かの人に連絡をしていた。実家に向かう前に、大分駅で待ち合わせをしていたのは教え子のT。私が新卒の時、3年生で受け持ったTはもうりっぱな2児の母親になっていた。しかしつい最近離婚し、彼女は元の姓に戻り、私が家庭訪問で訪ねた彼女の実家に戻っていた。

結婚する前から彼女は良く手紙をくれた。恋愛の相談や失恋のこと、結婚式の写真が届いてそれほどたたないうちに、夫の浮気で苦労している手紙が届いた。元々明るく、世話焼きでお人よしの彼女、相手さえきちんとした人だったらどんなにかいい奥さん、いいお母さんでいられたことだろうと手紙を読むたびに悔しかった。Tさんに会ったのは実に10年ぶりだった。前回会った時、彼女はアメリカから一時帰国していた私のために、昔の3年2組を集めてクラス会を開いてくれたのだった。あの当時10歳だった子どもたちと10年の歳月を経て出会った時の感激は忘れることができない。警察官、看護婦、大学生、すでに結婚した子もいた。私を見下ろしていた警察官のK君が、「先生こんなに小さかったのか、ぼくこんな風に見上げていたけど。」と体をかがめて私を見上げるようなしぐさをした。彼は下手な字で驚くほどユニークな詩を書く鉄道マニアの少年だった。
あの時にはTにも未来に対して明るい夢があったのだ。大人になったばかりの彼らは一様にきらきらしていた。

離婚したとの知らせを受けてから今度帰省する時にはTと会おうと決めていた。というよりこれまで手紙だけのやり取りで会う機会をつくらなかったことが悔やまれていた。私が何かの役に立ったとは思えないがせめて会って話しを聞くことくらいはできたはずなのに。駅のホームで出迎えてくれたTの第一印象はきれいになったなというものだった。苦労したのだろう。ぽっちゃりしていた顔がやせて違う人のような印象だったが、笑顔はさわやかで、何か晴れ晴れとした気持ちがみなぎっていた。話してみると実際彼女はこれまでのうつうつしたところから脱出し、さばさばした気持ちでシングルマザーとして力強く歩み出しているのだった。保険の外交員の仕事にも意欲を燃やしている様子だった。この10年間、彼女は私などが経験したこともないような波乱万丈をくぐってきたに違いない。これからの10年間も苦労は多いことだろう。でもTは良い人生を生きるに違いないとそんな風に思った。

「この夏に先生が帰ってくるんだったらまたみんなを集めますよ。」
とTは屈託のない笑顔で言った。苗字だけでなく、彼女は本来の明るさと逞しさを取り戻したのだとなにかすがすがしかった。



2002年03月02日(土) てんぷら

飛行機で移動するとあっという間に移動が可能になる。
朝9時過ぎに家を出て、午後2時にはもう宮崎に着く。意識の中では遠いはずの場所へいつの間にか置かれているといった感覚になる。ぼんやりと音楽を聴いている間に、移動していることも忘れているうちに体だけ別の空間へ着いてしまった。空港から宮崎駅までの電車の中で私は急いでスイッチの切り替えをしようとする。私のここでの役割は夫の配偶者、嫁である。おおよそ嫁らしくない嫁なのだろうとは思うのだが、核家族の中で育った私はテレビや小説の中でしか嫁というものを知らない。
駅には病気治療中の身である義父が自ら車を運転し、義母といっしょに迎えに来てくれていた。こんなに元気そうな義父を見るのは久し振りだ。

「おとうさんが、今日はてんぷらを食べたいというの。」
「じゃあ、私 作ります。」
義父に駐車場で待っていてもらい、義母といっしょにてんぷらにする食材を買う。

役に立つことがあってよかったと思いながら、3人では食べきれないほどのてんぷらを揚げる。いも、ごぼうとにんじん、しいたけ、いんげん、青シソ、そして鶏肉。そういえばしばらく、てんんぷらを揚げていない。帰ったら夫と子どもたちにも山のようなてんぷらを揚げてあつあつのところを食べさせたいと思った。

てんぷらを揚げたのは3月1日のことだった。2日は義父の病院での検査に同行したのだった。義父は昨年の7月の手術の後、2週間ごとに検査に通う。医者はこの8ヶ月間、血液検査をし、結果を見て良いですねというだけで、後はただ同じ薬をくれるだけだという。私の目には義父はどう見ても良くなっているように見える。薬は強い痛み止めかなにかなのであろうが、私自身こういった医者の姿勢にかなり疑いを持っている。嫁の分際だが、いっしょに診察室に入って、医者に検査の必要はないのかと問うた。この次の検査の時、CTスキャンを取ってくれることになった。来た甲斐があったと思う。
薬局からもらった処方箋を見ると一つは強い鎮痛薬とあり、後の2つはどうやら抗癌剤のようだ。義父は退院して数週間は激しい痛みがあったが、ノニジュースを飲み始めてからは痛みが治まり、それ以来ずっと痛みがないと言っている。痛みがないところにもってきて強い鎮痛剤は体に害があるのではないだろうか。医者の出している強い痛み止めの薬のことが気にかかる。薬剤師をしている友人に聞いてみようと処方箋のコピーを取る。

義父は昨日も今日も食欲があった。私が焼いてもっていったバナナケーキをほんとうに喜んで食べてくれる。一切れずつラップにくるみ、2日分を残し残りは冷凍する。これがなくなるころまた焼いて、向こうから送ろうと思う。


2002年03月01日(金) 出不精、旅へ

3月、もうこの月になっただけで春が来たという気持ちになる。
チューリップの葉もずいぶん伸び、ムスカリはかわいい紫色のつぶつぶの花を咲かせはじめた。

このところ事情が許せば、朝から晩まで家にいたいというほど出不精になっている私が9日もここから離れようとしている。気まぐれに選ぶ本とかCDとか、また気が向くままに書き込むパソコンから切り離されてしまうことはすごく心もとないがそういう時も必要なのに違いない。
この前会った時から義父は見違えるほど元気になっているらしく、明日は駅まで車を運転して迎えに来てくれるという。母もここのところ声が元気で、心も体も今までになく調子が良いようだ。親たちに会うのが楽しみだ。こんなに晴れ晴れとした帰省は今までになかったような気がする。

今日、聞いていたグレゴリアンチャントをしばらく聞けないと残念に思っていたら夫が愛用のMP3プレイヤーにグレゴリアンチャントとビョークと彼の選曲のセレクト集を録音してくれた。ポケットに入るくらいの音を聞くコンピューターだ。これで旅が楽しくなるぞ。

それでは行ってまいります。
しばらく日記はお休みです。


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