たりたの日記
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2002年02月28日(木) 春のはじめのグレゴリアンチャント

木曜日の朝、今日はきまりのヨーガへは行かずに明日からの不在に備えて、家のことをやったり、持ち物をまとめたりするために一日家にいることに決めた。ヨーグルトとバナナとりんごの朝ごはんを食べる前にグレゴリアンチャントをかける。これはスペインのサント・ドミンゴ修道院のもの。

なぜだか分らないが、春が来る一歩手前のこの季節にとりわけグレゴリアンチャントが聞きたい。まだ木々の枝枝は裸のままで、それでいながら今にも芽吹きそうな新しい命のエネルギーをためているその姿。冬のなごりを残す枯れた草地、見えないけれど、その下には新しい緑がもう少し顔をだしているはず。植物の春を待つこのエネルギーのせいなのだろうか、それともイエスの十字架の道行きを追う受難節という季節のせいだろうか、この時期の空気にはぴんと張り詰めたものが混じっている。そしていつもこの季節に決まって訪れる気分というものに気づく。命のみなもとへと心はさまよい出る。「わたしはどこから来て、そしてどこへ行くのか。」すでに答えをいただいている問いではあるけれど、何かそこのところに思いを凝らしたいそんな気分になる。


2002年02月27日(水) 出発前緊張症候群

私という人間は直前というのがかなり苦手だ。たとえば旅行ともなると何日か前から持っていくもののリストや留守の時の食事のリスト作りや買出しをしないではおれない。別にそれを楽しみにしているというわけでもない。実際出かける2,3日前というのが一番精神状態が良くなく、「どうしよう」と心はあせっている。「だから家を開けるのはいやなのよ」と夫にぐちってみたりかんしゃくをおこしそうになる。昨夜から今朝にかけてがその最悪の状態だった。これを私は出発前緊張症候群と呼んでいる。

義父が私の作ったバナナケーキを気に入ってくれて今度来る時には持ってくて欲しいということだったので、それを何時作るかで迷っていた。一番良いのが前日の木曜日に作って当日持って行くことなのだが、そうすると何かハプニングがあった時にパニックになってしまう。また焼きあがるまでは荷物詰めができないので緊張が持続する。そこで火曜日の夜に焼き、他のお土産類といっしょに翌日仕事に行く前に宅急便に出す予定だった。ところが昨日は英語のクラスに2人見学者があって、そのうち4時半からのクラスはその日に急に連絡があったので体験学習が可能になるように直前になってレッスンプランを変えたりと「直前」の変更を余儀なくされたこともあってなんだかへとへとに疲れてしまった。幼児に英語を習わせたいというお母さんの中にはしばしば超教育熱心な方がいて、日本人の英語教師に対しては厳しいチェックの視線が向けられる。そしてそういう方のお子さんに限って無表情でノリが悪い。そうなるといつものクラスの10倍くらいのエネルギーを消費することになるのだ。という具合だったから夜はとてもケーキを焼く気力がなかった。

そこで一夜明けて今朝、仕事に出かける前にケーキ焼きと相成った。ほんとは仕事で出かける日は洗濯を干す以外の家事はめったにしない。心のゆとりがないのだ。しかし今日はそんなことも言ってはおれない。主人の実家の分と私の実家の分、そしておいしい匂いだけかがせて家族に食べさせない訳にはいかないから家族の分のも焼くのだ。小麦後8カップとバナナ8本分の大量のケーキとなる。さて焼けたケーキをなんとか冷まして他の荷物といっしょに梱包して宅急便に持っていかなければならない。初めはしっかりしたキャスター付きのスーツケースに着替えなど滞在中の荷物といっしょに詰めたのだが、どうも中身の割りにケース自体が重くて不経済だ。そこでいったん詰めたものを全部出して、再度ボストンバッグに詰め替える。ところがこれだと上に荷物を詰まれてしまえば、バッグの一番上のケーキはぺしゃんこになる危険性がある。これもだめ。また全部出して今度はダンボールの箱に詰め替える。これだと宮崎から大分に移動する時、手持ちで行くわけにはいかなくなるが荷物を送ればいいか。よしこれで決定。宮崎への荷物と大分への荷物をそれぞれの箱に詰め、電車に乗る前に駅前のコンビニに荷物を預ける。ここでやっと緊張が解け、私は晴れて「出発前緊張症候群」から開放される。荷物を送ってしまえば、あとは楽なものだ。そしてあたふたとあせりまくるわりには前日や当日の朝はかなりリラックスして優雅にすごすというきまりだ。こうしてパソコンに向かって長々と書くことだってできる。


2002年02月25日(月) 新聞の記事がファックスにて届く

いつもこまめに新聞を読む友人のFは時折、私が好きそうな所を切り抜きファックスにて送ってくれる。実に得難い友人である。
だいたい私は新聞を開かずにいることの方が多いから同じ朝日新聞が届けられるというのに友人が届けてくれるファックスを見るまでは気がつかないという始末。いつも大切な情報や好きな記事をみすごしているのだろうなあ。

今朝Fが届けてくれたファックスは日曜版にあった高橋たか子のコラムだった。「いつもそばに本が」というタイトルの記事で3回に渡って連載されるらしい。彼女は私が高橋たか子に入れ込んでいることを知っている。

ー小さな白い壁の部屋で「生涯の本」と向き合うーという小見出しがついている。すみに小さな祈りのコーナーのある廊下で執筆中の作家の写真もあった。以前に見た写真と随分印象が違っていた。何か人を寄せ付けない感じをうけたものだったが、この記事の写真は何かそばに行って話しかけたいような印象を受けた。
彼女の書くものを私はとても好きだ。この短い記事の中にも彼女特有の世界がある。「私は、その場所が何の音もないところであるならば、この無音の中にいつまでも何もせずにいて倦きないのであったから。」というところなどいかにも彼女らしく、また私の共感するところだ。
以前この日記のどこかに私はこの作家の書くものは好きだし読み続けるだろうが決して会いたいとは思わないと書いたが今日はそのことを訂正したい気持ちになった。この人に会ってみたいとそう思う。


2002年02月24日(日) 26年ぶりの新宿御苑

大学一年目をなんとか終えた長男のHは今日、ヤップ島へと旅立った。友人と二人、一ヶ月の間あちこち行ってみるらしい。まだ子どもたちが小さかった頃、家族4人でヨーロッパを歩いたがその時に私と夫が背負った特大のバックパックが再び役に立つ。寝袋から鍋、米まで押し込んでまるでキャンプの出で立ちだ。彼はアルバイトの翻訳を済ませメールで送信してから出かけるというので、「では元気で」と声をかけて私の方が先に家を出る。今日は新宿御苑の近くのレストランでマオさんたちとミュージカル「森のおく」の今後について話をすることになっていた。

電車の中ではしきりと旅に出る息子のことが思われたが同時に私が19歳の春のことも思い出していた。大学が春休みに入るやいなや、一人で東京行きのブルートレインに乗ったのだった。初めての一人旅だった。親はどんな気持ちで送りだしたのだっただろうか。表向きは世田谷に住む伯母を訪ねるための上京だったが、実は人に会うことが目的だった。地元から早大へ行った3つ年上の先輩から東京を案内してもらうということになっていた。朝早く東京駅へ降り立つとその人が出迎えに来てくれていた。彼は好きな場所へ連れて行くと言ってまず新宿御苑へと連れていった。春の初めのまだ寒さの残る朝の公園を歩きながらグリークラブでソロも歌うというその人は合唱曲の歌の1節を歌ってくれた。本の話や絵の話。たしか梅の花が咲き、ほのかな匂いを放っていたような気がする。

新宿御苑駅に着いた。あの19歳の時の春以来26年ぶりだった。そんなにも長い時間が過ぎたのだ。集合の時間までしばらく時間があったので私は駅から御苑の方へと歩いてみた。広い公園だったから、あの時いったいどこをどう回ったのかはさっぱり覚えていないが、今梅の木の下を歩きながら、そこにただよう空気には覚えがあると思った。19歳だった私は恋をしていたが、それはいつの間にか片思へと移行し、私はずいぶん苦しい時期をしばらく過ごした。そんなこともあったからこちらへ出てきても新宿御苑に足を運ぶこともなかったのだ。このことに限らず、青春の頃の思い出はどれも苦く思い出そうともせずに封印してきた。それを今、開こうとするのはもう私がそのことから脅かされることがないとはっきりと確信できるからなのだろう。息子がその頃の私の年に追いついた今、私はもう一度、その時の私に会おうとしているのかもしれない。なぜその人に出会ったのか、なぜ恋は実らなかったかったのか、私の固さはいったい何にその理由があったのか。梅の下を歩きながらもつれた糸がほどけるようにその時の意味が分ってくる気がした。

猫の絵がいくつもかけてあるレストラン「ディ カッツエ」でのランチョンは愉しいものだった。おいしいワインと家庭的な料理は心をゆったりと解放してくれたし、一旦、中断したミュージカル「森のおく」が来年の春に向かってまた動きだしたことはうれしいことだった。マオさんの日記にもあったが、今日、また新たな出会いがあったと私も思う。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れてゆっくりと熟成させたい。


2002年02月23日(土) 人間ドック

今日は1年に1度の人間ドックの日。毎年いやだいやだと言いながらも夫に促されて行っている。しかし今年の人間ドックは実は何となく楽しみにしていたのだ。ここ4年ほど、ドックに行く度に肥満指数とコレステロール指数と中性脂肪指数が年を追って増えてきていた。これが中年になるということかと半ばあきらめ、医者や栄養士からコレステロールを減らす食事や体重を落とすことについて言われても「そんなの無理」と少しも改善しようという気になれなかった。そんな風だったから、去年の人間ドックから夏までの間に体重は3キロ増え、このままだと雪だるま状態になるとあせった。折りしもお試しのダイエットセットが届き、やおら腰を上げた。ところがこのダイエット商品がべらぼうに高くて頭にきてしまった。そこで自力でやるんだとダイエット宣言をし、ビール酵母やノニジュースで自分なりのダイエットを続けた。その甲斐あって5キロ減。ノニジュースも毎日飲んでいるし、きっとコレステロール指数や中性脂肪指数も減っているに違いないと楽しみにしていた訳だ。思った通り、すべての数値が平常値になっていてオールAという結果だった。夫も体重が減り去年より良い数値が出たようだ。医者から褒められたりすると弾みがついて、食生活をもっと改善しようとか、もっと運動をしようとか俄然やる気が出てくる。子どもの時からいつもどこか調子が悪くしょっちゅう病院のお世話になってきた私としては40代半ばにして訪れた「健康」の感覚がなんともうれしく、また有難い。来年の人間ドックはさらに良い結果がでるようにこの1年間がんばろう。


2002年02月22日(金) 朝目覚めると

朝目覚めると頭が、あるいは心が日常とは別のところにあって何か内側から焼かれるような気分でいることがある。これは書きたいというワイルドな衝動だということがこの頃わかった。何か書くことがあるというのではない。話の筋が見えているのでもない。ただタイプライターの前に座って指をキーボードに打ちつけたいという衝動なのだ。指が動き始めると言葉が出てくる。私の外に出たがっている言葉を出してあげるためにともかく私は指を動かしたいのだ。

家族が出払った静かな空間。小鳥のさえずりが聞こえ、車の走る音も聞こえ、もう窓の外には日常が始まっているというのに、私の想いはそちらへとは向かわずに、ずんずんと底へ降りていこうとする。いつか戻ってきて味わおうと過ぎた時間の中に置いてきたものをそこへと戻って 手はつかもうとする。その時の想いの切れ端、痛みだったり、喜びだったり、不思議に打たれたのだったりするその想いたちはどうやら言葉になって私の外へと出てきたいようなのである。私が覚悟して、あるいは状況が許してどっぷりとそこへ浸かって言葉を汲み取っていくならば、もうたくさんの言葉が押し寄せてくることは分っている。しかし幸か不幸か私の日常は細切れだ。朝のこの時間をいつまでも続けるわけにはいかない。朝ごはんのぶどうとバナナ入りのヨーグルトの最後のひとすくいを口にいれたら私はパソコンのスイッチを切ることにしている。そして言葉がひしめきあっているそのドアもきっちりと閉めて日常へと向かう。

今日は2ヶ月に一度のつくしんぼ保育園の「英語の歌とあそび」の日。体に関係する英語の言葉をいろんな手遊びや歌遊びで学ぶ。英語と日本語での絵本の読み聞かせ。最後はパペットを使って「3匹のこぶた」の人形劇。オオカミとこぶたのやり取りのところだけ英語でやる。リズムのある擬音の繰り返しは小さい子にもうけるように思うがどうだろう。


2002年02月21日(木) 強靭な孤独

福永武彦の「愛の試み」はなつかしいと表現できるものではなかった。それは私の世界だったし、まるで私の内から出てくる言葉のようでもあった。これほど長い年月の間、私はその作者と何も関係なく生きてきたのに、実は自分でも意識しないで二十歳の頃取り込んだ彼の思想や言葉を繰り返し反芻しすっかり自分のものにしてしまったのかもしれない。またはもともと私の内にある言葉にならない思いを作者の言葉の中に見出して、ある時その作家にぴったりと寄り添っていていたのかもしれない。

この本の最初のエッセイは「孤独」と題されるもので私はその書き出しがとても好きだった。そして今も同じように好きだと思った。それはこういう文だ。

「人は孤独のうちに生まれてくる。恐らくは孤独のうちに死ぬだろう。僕らが意識していると否とに拘わらず、人間は常に孤独である。それは人間の弱さでも何でもない、謂わば生きることの本質的な地盤である。」

孤独だったと言っていいだろう。親も兄弟も友人も恋人さえもいたのに孤独だった。そしてその孤独に育てられてもいた。あの頃の孤独はしかし作者が語るようなより積極的な、強靭な孤独にはまだほど遠かった。今だってまだ遠いが。
2つ目のエッセイ「内なる世界」の冒頭をここに書きとめて今日を閉じるとしよう。

「人は生まれながらに固有の世界を持っている。その世界はいわば孤独というのと同意義なのだが、決して悲劇的な、閉鎖的なものではない。それは充足した、円満な、迸り出る世界である。」


2002年02月20日(水) 深夜のBook Off

昨日の日記に神田の古本屋街のことを書いたが、今日は夜11時頃にもなって車で近くの大型古本屋のBook Offへ行く。夫と次男がそれぞれ買いたい本があって出かけるというので私も便乗したのだ。
私は長男が旅に持参するのに良い文庫本を物色した。アルバイトでほとんど家にいない長男は24日からヤップ島を皮切りにアジアを一ヶ月かけて歩くという。いったい準備は済んでいるのか、さっぽり様子が分らない。何とか自分でやるのだろう。「本をたくさん持っていかなくちゃ。飛行機の中やヤップ島なんかはきっと退屈で、相当退屈な本だって読めるような気がするから、聖書も持っていくよ。」などと全くふとどきなことを言っていたからこの機会に読ませたい本を押し付けようという腹だ。

100円の文庫本に目を泳がせていると、なつかしいタイトルの本が目に止まった。福永武彦の「愛の試み」。二十歳かそこらのころ愛読した作家だった。
この作家の作品は手に入るものはみんな読んだと記憶している。そしてこの「愛の試み」と題されたエッセイは何度も繰り返し読んだ。あちこちに線が引かれてぼろぼろになった本はもうとっくに手元からなくなっていたし、その後彼の物を読むこともなくなっていた。私はこみあげてくるなつかしさからその本を手にした。もう少し前なら決して手に取ることはなかっただろう。その本を開くことで思い出したくない昔の痛みをひきずりだしたくはなかったから。
今、この本を開こうとするのは通り過ぎてきたものを別の眼差しで見ることができるようになってきたということなのだろうか。それともあの頃の自分と向かい会ってみたいと思っているからなのだろうか。

夫と次男はお目当ての本が安く買え、私は思いがけない本も手に入れ、長男に持たせる本も確保できた。本屋の帰りミニストップに立ち寄り、夫はビールを、次男と私はソフトクリームを買って家に帰る。
深夜のBook Offもいいもんだ。


2002年02月19日(火) 本の街

神田、神保町の古本屋街は好きな場所のひとつだ。本が山積みにされている入り口を人の背中の後ろをやっと通って狭い通路を奥の方へと行く。床から天井まで本また本。人がやっと一人通れるほどの小さな階段は昔の木造の小学校の階段のように少しかしいでいたりする。実家の倉庫の中から出てきた古い本に釘付けになるように古い本たちの吸引力に引っ張られる。古本の時間や人間を通ってきたエネルギーがそこここに満ちているようだ。その不思議な熱っぽさに酔ったような面持ちで目を本たちに泳がせる。そうしてぼーっとしたまま何かに引き寄せられるようにして本の群れの中を掻き分けていくのだ。

いつだったかもう書店にも出版社にもない高橋たか子の著作を求めてこのあたりをうろついたことがあった。立ち並ぶ古本屋を一軒ごとに探すのは大変だ。図書館や大型本屋のようにコンピューターで検索できるわけもなく、また大型古本屋のブック・オフのように作者ごとにあるいはジャンルごとに並べられているところは少ない。しかし出会いたい本には出会えるものだとその時はいたく感激した。まず入り口のところで足が中へと引き寄せられる。そうして片っ端から見つけるわけではないのになぜか目が止まったところに探していた作者の本の背表紙がまるでそこだけ光っているように見えているのである。短時間の内に何軒かの本屋から数冊貴重な古本を手に入れた。

ネットで知り合った祐子さんから、神田の古本街のミニコミ誌「本の街」が送られてきた。3月号より彼女の詩が毎月掲載されるというので一冊お願いしたのだ。知っている人の詩が私の好きな街の冊子に載っているというのは
なんともうれしい。時折訪ねる場所がすっかり馴染みの場所になった気にさえなる。あのちょっとくせのある古めかし気な街の中にふっと花の匂いのするやわらかな風がひとすじ吹き抜けていく。祐子さんの詩はそんな詩だ。今度神田の古本街に行った時、書店の入り口に積まれているこの冊子を手にして友達に出会ったようにほのぼのとした気持ちになることだろう。


2002年02月18日(月) 映画「地獄の黙示録」

「地獄の黙示録」特別完全版を見た。4時間近く、それもかなり緊張を強いられる映画だった。
監督コッポラは戦争映画はそもそも反戦映画なのであって、この地獄の黙示録はまた「反”嘘”映画」だと語っている。彼はアメリカが経験した最も非現実的で、悪夢のような戦争の狂気や興奮、鋭敏な感覚とモラルのジレンマを見るものに訴えたかったと言うがしかし映画はまた、見る者の心の内に潜入し、どのようにも受け止められ、また作用するのだと思う。この地獄に魅入られた人がいてもおかしくはないし、戦闘のシーンに快感を覚える人だっていただろう。

私がまず感じたのは神との繋がりを失ってしまった人間の心に巣食う底なしの恐怖だった。カーツ大佐はその鋭敏な感覚の故に戦争の持つ残忍さや欺瞞の中で壊れていったのだと思う。写真家がいみじくも言ったように彼の心は狂ってはいないが魂が損なわれているのだった。そうして彼自身がそういう自分にまた自分が創り上げた世界に辟易し、終わりにすることを願っていた。

昨日の日記にイエスを誘惑しようとした悪魔をいささかコミカルに書きすぎたと少し反省しているが、そういう意味ではこの映画にはシリアスすぎる形で悪魔の巧妙な手口が描かれているような気がする。人間を何の痛みも覚えることなく殺戮することのできるマシーンへと作り換える悪魔。そしてまた鋭い感受性や倫理観を破戒し、狂気へと向かわせる悪魔。ベトナム戦争は今過去のこととしては語れない。何の反省もないままに「新しい戦争」は起こってしまったから。そしてそれ以来、不気味な空気がそこここにたちこめている。


2002年02月17日(日) 悪魔との対決

今日の聖書日課はイエスが荒野で悪魔と対決する場面だ。子どもの頃から何度もこの箇所を読み、また話を聞いてきた。映画やビデオでも見た。それなのに今回読みながら不思議に新しい感覚があった。新しいと感じるのは私の心持ちの方に何か変化があったのかもしれない。この箇所を非常に緊迫した対決という風に思ってきた。また悪魔が人間を誘惑する方法はこうなのだと悪魔の存在を恐ろしく感じてもいた。ところが今読みながらこの悪魔がなんともコミカルに感じられるのである。

イエスは40日間断食をしているのである。40日も断食ができるほどの精神力があるのである。そのイエスを前に「神の子ならこれらの石がパンになるように命じたらどうだ」と誘惑するとはなんと間の抜けた誘惑の仕方だろうと思ってしまった。それ対するイエスの応答はもうレベルが違う。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」とムキになって悪魔と張り合おうとはせずにあくまで聖書の言葉を引き合いにだす。悪魔が「神の子」だと証明しろと向かってくるのに対してイエスの方角は全然別の方向を見ているのだ。神の子だと証明することなどにはてんで興味がないといった風だ。これには悪魔も肩透かしを食らったことだろう。

悪魔はしかしイエスの方角が見えないでいるから同じように馬鹿な誘惑をする。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」と。確かに今度はイエスのように聖書の言葉を持ち出して格調高く対抗してはいるがその下心は露である。イエスは神を試すという行為の卑しさを指摘する。

3つ目の誘惑はもう笑ってしまう。「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言うのだ。人間は誰でも彼でも権力や冨に弱いと悪魔は思っているのに違いない。人間をなんというステレオタイプで見ていることか。権力や冨にまったく興味がない人間だってたくさんいます。ましてやイエスがそんな誘惑に引っかかるわけないでしょう。イエスは「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」 と悪魔を撃退するのである。

悪魔の方向とイエスの方向の違い。言い換えれば悪魔の眼差しとイエスの眼差しの違いがくっきりと出ていておもしろい。神とひとつにつながっている時、どんな誘惑も誘惑にはならないのだろう。

さて、今この世界に出没する悪魔はこのイエスを誘惑した悪魔のように分りやすく笑ってしまうくらい読みが浅い悪魔だろうか。悪魔はあの当時より数段腕を磨き、また一筋縄ではいかなくなっているような気がする。正義の中にも、愛国心の中にも、どんな人間の美徳とするところにでも悪魔は入り込む隙を見つけることができる。私たちは隠れ潜んでいる悪を注意深く見つけなければならない。そして見つけたならそれを拒まなければならない。でもいったいどのように拒めばいいのだろう。私たちは悪魔を退ける力ある神の言葉を以前にも増して見失っているのに。


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マタイ4章1〜11
◆誘惑を受ける
4:1 さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。 4:2 そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。 4:3 すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」 4:4 イエスはお答えになった。
「『人はパンだけで生きるものではない。
神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』
と書いてある。」 4:5 次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、 4:6 言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。
『神があなたのために天使たちに命じると、
あなたの足が石に打ち当たることのないように、
天使たちは手であなたを支える』
と書いてある。」 4:7 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。 4:8 更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、 4:9 「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。 4:10 すると、イエスは言われた。「退け、サタン。
『あなたの神である主を拝み、
ただ主に仕えよ』
と書いてある。」 4:11 そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。



2002年02月16日(土) Mちゃんのお母さん

今日は次男の高校の父兄懇談会だった。新学期の時の懇談会に行けなかったので今度初めてクラスメートのお母さん方と顔を合わすことになった。あまり学校のことを話さない次男だから数名の男子生徒の名前の他は聞いたこともない。せっかく男女共学だというのに、女の子とはほとんど口を利かないというのだからあきれてしまう。この時期、ガールフレンドの一人もいないというのは何だか淋しい。

懇談会が終わって外に出たところで呼び止められて振り向くと懐かしい顔がそこにあった。咄嗟のことだったが思わず手を取り合ってはしゃいでしまった。彼女は何も古くからの友達というわけではない。次男の入学式の日に初めてお会いし、その後も2、3度しか会っていない。そしてもうお会いすることもないだろうと思っていた人だった。その人は長男の高校時代のガールフレンドのお母さん。娘のMちゃんは息子が家に連れてきた初めての女の子だった。

ある日、仕事から帰ると玄関に女の子の靴とピンクの傘がある。どぎまぎしながら「ただいま」と言うと「Mちゃんが来てるよ。」と2階から長男の声。Mちゃんのことは話には聞いていたし、今度連れてくるとも言われていたもののあまりに突然のことに心の準備ができていない。ともかく部屋に行くとかわいい女の子が「こんにちわあ」となんとも屈託の無い笑顔で笑いかけた。私はその笑顔がすっかり気に入ってしまったらしい。それからというもの彼女が学校帰りに我が家に立ち寄るのを楽しみにした。時には夕食食べていかないとさそったり、夫と次男も交えて5人でファミレスに行ったこともあった。後部座席に子どもたちが3人仲良くくっついて話していると、3人子どもがいて、そのうち一人は女の子というかつての夢が現実のものになったように錯覚した。なんだが夢のような気がしたものだった。その年のバレンタインデーにはMちゃんが焼いて来てくれたブラウニーズをみんなで食べて、翌月のホワイトデーには彼女が息子にハート型のクッキーを作って欲しいとリクエストした。息子がクッキーの材料を買ってきたので彼に手ほどきをしながら、テーブルにクッキーの生地を伸ばし、様々な大きさのハートの型でくりぬき、上に飾りをつけ、夜中までハート型のクッキーをいくつも作った。ついおとといのバレンタインデーもブラウニーズを焼きながらMちゃんのことを考えていたのだった。

長男とMちゃんは高校が違っていたが次男とMちゃんの妹が同じ高校に決まり、しかも同じクラスになってびっくりした。同じクラスにならなければMちゃんのお母さんや妹に会うこともなかっただろうに入学式の日、私たちは昔からの親しい友人かあるいは親戚のような親近感を感じていて、2人してPTAの役員に立候補したりまでしたのだ。デザイナーの彼女は文化部の行事の度になかなかすてきなポスターを作った。お陰で私も苦手だと思っていたPTA活動に楽しく参加することができたのだった。母親たちはまだ高校生だというのに2人がいずれ結婚するといいとか、ついでに下の子同士も、なんて勝手なことを言っていたが当の2人は大学受験を前に別れてしまった。お互いにブロークンハートを抱えていたのだろうし、私自身、何だか泣きたいくらいだったが(実際泣いたような気がする)、目の前には乗り越えなければならない受験のハードルがありなんだかそんな悲しみも次々にやってくる波に呑まれてしまったような感じだった。

久し振りにMちゃんのお母さんに会ってやっぱりあの親近感は変わっていなかった。今度ゆっくりお会いしましょうと言って別れたが、口先だけではなく私はほんとに彼女と会ってゆっくり話したいと思っている。できればMちゃんにも会いたい。息子の別れた彼女とそのお母さんを今だに親しく感じるというのは何とも妙な話だが。


2002年02月15日(金) ふりかえって

今日はこの1年間このネット上に書いた日記を印字したものを分類したり、選んだりという作業をした。日記はA4版の紙に300枚ほどになった。もともとネットの上だから書けるというところがあって、自分のノートやあるいは活字になることを予想しては書けなかったような気がする。それほど私にとってこのコンピューターを使っての書き方、また発表の仕方は向いている。同様に手紙や葉書、また電話も面倒で仕方ないがEメールだと抵抗がない。いったいこの気軽さはどこからくるのだろうと不思議に思う。理由は良く分からないまでも、この1年この方法で実に多く書いたということは確かだ。しかしネット上に書いたものが印字されて目の前にあると、何か紙の上に活字が載っただけの違いなのに、ひどく自分と離れたもののように感じられる。ほんとに私が書いたのだろうかとそんな気さえしてくる。これから後、私は書き続けることができるのだろうか、それともこの書くという行為もひとつのプロセスに過ぎないのだろうか。


2002年02月14日(木) バレンタインデーの朝

朝食に昨日仕事帰りにアンデルセンのパン屋さんで買ってきたハート型のチョコレートスコーンやチョコレートデニッシュなどのバレンタインのブレッドを並べココアを入れる。どうもチョコレートをもらう当てのなさそうな息子たちと夫にチョコレートの包みも添える。アメリカにいる時は赤いバラを1ダースもらうのは私の方だった。でも満員電車で赤いバラを抱えて帰るサラリーマンの図はあまりに異様だろう。バラの申し出は断って代わりにワインを頼む。

朝、北海道に住む読者の方とやはり遠い地に住んでいる団栗さんからメールをいただく。クリスチャンの世界では同じように信仰を持っている人達を兄また姉と呼ぶ。そういう意味では私はお二人にお会いしたことはないけれどネットを通じて兄を、そして姉をいただいたと思っている。兄の新しい決意に身が引き締まる思いがし、姉の言葉から励ましと慰めをいただいた。

今日はヨーガへは歩いて出かけた。風は冷たかったがキーンと澄んだ空気は気持ちがよかった。
教会暦はレント、受難節に入った。


2002年02月13日(水) バレンタインのカード作り

アメリカの幼稚園や学校の2月のプロジェクトといえばバレンタインカード作りだ。教室の後ろにはこれも手作りのカードを入れるバッグがかけられ、子どもたちは毎日少しずつカードを作ったり書いたりしてはクラスメートのバックの中に入れる。そしてバレンタインデーにはカードでふくれあがったバックを家に持ち帰るのだ。カードの中にはキャンディーがテープで止めてあったりするものもある。

今週の英語クラスではバレンタインカードつくりをした。お母さんやお父さんにあげるためのカードだ。たどたどしい字でI love you と書き、赤やピンクの紙でハートを作ってカードにはる。
カードを渡す時には「Ilove you 」と言ってhugするんだよ。と私を練習台にしてhug の練習をしたが、年齢が大きくなるほど、子どもたちの体が固くなって抱きつけないでいる。日本には無い習慣だが欧米に限らず多くの国で抱擁は大切なコミュニケーションになっている。アメリカで友人のご主人やお隣のおじさんからhugされる度に思わず体が固くなっていた自分を思って、こういうのは小さな頃に慣れておかなければと思うのだ。
英語クラスは英語を教えるだけではなくこうした異文化のコミュニケーションの方法を学ぶ場でもあると思っている。
小さいころから家族にIlove you と言葉に出して言う習慣を身につけるのは大切な気がする。親も子どもも愛情を言葉にして、また動作にも表していけたらどんなに良いだろう。

クラスが終わった後、いつも無口なKくんが下で待っていたお母さんに小さな声で「Ilove you 」と言ってカードを渡していた。「はじめてIlove youなんて言ってもらいました。」とお母さんはうれしそうにしていらした。

日本ではどこかのチョコレートメーカーの作戦でバレンタインデーは女性が好きな男性にチョコレートをあげる日になってしまったがそれが義理チョコや、お返しのホワイトデーにまで発展してきた。これもそれも仕掛け人は日本のお菓子やさんやデパートだろうが、すっかり日本風バレンタインデーが定着している。


2002年02月12日(火) 詩のモード


今日はひさしぶりに、ほんとにひさしぶりに詩を書いた。
詩は果たして書くというのだろうか。
わたしの場合、言葉は降りてくるという感じがする。
あるいは枯れた井戸水の底に水がたまってくるようなそんなイメージがある。
しばらく投稿詩のサイト「詩モードZamboa」に毎月投稿していたのに、この2ヶ月間は締め切りの15日になっても詩が生まれてはこなかった。今月などはバレンタインのチョコレートの買い物は覚えていても投稿の締め切りのことはすっかり忘れていた。そんな時にどうして詩のモードになったかといえば、朝、目にしたメールのせいだった。Zamboaのスタッフの方からのメールだった。私が11月に投稿した詩「クリスマスツリー」の感想が書かれてあり、そのメールは励ましにも詩作への促しにも感じられ、うれしかった。その拍子にふっとチャンネルが切り替わったらしい。何かパイプの詰まりがとれた感じもした。
駅までの道を歩きながらしきりと言葉が我先にとうごめいているのがおもしろかった。電車の座席に座ると言葉たちは行儀良く整列をはじめ、私はその順番を覚えておこうとしたけれど、最近は記憶に自信もないので手帳を取り出して書き付けた。春の詩だった。

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春のはじまり


春の風がひとすじ吹いてきたので
うすみどり色のコートを着て
外へ出た
田んぼのそばの川べりを
歩くのだ
土の中から生まれ出たばかりの命たちに
あいさつする時をのがさぬように

風は運ぶ
この地上の
どんなにちいさな命たちの息をも
匂いだったり
湿り気だったり
聞こえない歌だったりもするそれは
わたしが生まれる前から知っている
なつかしいしるし

命たち、わたしのところへおいで
深く、さらに深くわたしは息を吸おう
命たち、わたしの命をお受け
遠く、さらに遠くへわたしは息を吐こう

ほおら、今
わたしは命のひとつになる
わたしは風のひとすじになる
そうして風は
まっすぐに天を突きぬけ
命のみなもとへと
届くのだ





2002年02月11日(月) 結婚記念日

建国記念日。それはおかしいと異議を唱える人達(私もその一人だが)にとっては「信教の自由を守る日」。そして個人的には私たちの結婚記念日。
こんな寒い日に良く結婚式を挙げたものだ。けれども、ウエディングドレスのままで外にいられるくらい暖かな良いお天気の日だった。
おかしな変わった結婚式だった。みなが成人式や卒業式に振袖を着るのに一人ツムジをまげて着なかった私だったから結婚式場の言うなりに演出される結婚式は我慢ならなかった。手作りの結婚式、それはそれで苦労もあったのだが、悪いことは記憶からずんずん抜け落ちていくから今になってみれば吉田拓郎の「結婚しようよ」の歌のような結婚式だったなあとなつかしい。
花婿は肩までの髪をその時までには短くしていたが、「町の小さな教会で」と「仲間を呼んで花をもらおう」のフレーズはそのままだった。花に限らず、レコード(CDなど存在しなかった)や本や自作の詩や短歌や書や手作りの絵本をもらった。お祝儀は極力お断りし、私たちは引き出物の代わりに八木重吉の詩集を配った。

21年もたってすっかり白髪混じりの頭になった私たちは朝から文庫本を片手に温泉に浸かって一日過ごし夜は映画館のレイトショーで夜中まで遊んで帰るという身分になっている。今はデリバリーのピザだってあるもの、子ども達は「どうぞどうぞ」とこよなく機嫌よく送り出してくれるわけだ。
「21年、良く飽きもしないでいっしょにいられるもんだね。」「変わった?変わらないよね。見掛けほどにはね。」こんな平和な会話はこれからの結婚記念日にも同じように繰り返されるのだろうか。先のことは分らないけれど今の平和を有難く思う。


2002年02月10日(日) 生きた言葉

注文していた本「Yes, I Can / 私はできる」が届く。アメリカでインターネットを通じて発信され、方々へ広がっていく作者不詳の詩を集めたものである。私も何度となくそんな海を渡ってやってくる「力」のある言葉に励まされたきた。この詩の編集と翻訳をした久保博正さんの序文はこういう風に始まっている。

「言葉には、生きた言葉と死んだ言葉がある。
生きた言葉は心に閃き魂をも刺激する。
言葉に秘められた不思議な力を感じる。
発信者のスピリットがそのまま伝わってくる。」

この序文の言葉そのものが生きておりスピリットに溢れていると感じた。生きている言葉がいったいどういう言葉なのか「はっ」とするように分った気がした。心にビンと響く言葉。何かを突き動かさないではおかない言葉が確かにある。

私は子どものころ聖書という生きた言葉をふんだんに聞き、また唱え、覚えてきたことを今更ながらに感謝する。教科書の言葉にも先生の言葉にも感じることのなかった閃きを聖書の言葉の中には見出すことができた。
はじめて教会学校へ行った時にもらった小さなカードには男の子と女の子が風に吹かれている絵で風に飛ばされた枯れ葉が舞っていた。そこに書かれている言葉は
「草は枯れ、花はしぼむ。しかし、われわれの神の言葉はとこしえに変わることはない。」(イザヤ書40章8節)

という言葉だった。その言葉は閃きと共に私の内に入った。何だか説明はつかないが幼い私はその言葉に秘められた力を感じたのだと思う。

今朝の教会学校で子どもたちは自分の好きな生き物の絵を描き、それにちなんだ聖書の言葉を調べて絵のそばに書くという作業をしていた。Aちゃんがかわいい花瓶にさした花を描いていているのでこのイザヤ書の言葉を思い出してAちゃんに教えてあげると、自分の描いた花の傍に書き移していた。


2002年02月09日(土) T先生の葬儀

教会での葬儀は別れを告げる時であるとともに、地上での戦いを戦い抜いて天へと凱旋する祝いの席でもある。悲しみの中にも深い慰めとまた内からふつふつと湧き上がってくるような力をいただく。

93歳で召されたT先生のご家族とは親しくしてきたものの、御本人とは面識のないままだった。私たちがこの教会に来るようになってからずっと病床にあり外出できないお体だった。10年の間文字通り病と闘い、最後の数年間は目も見えない状態でありながら息を引き取る時まで実に信仰的な方だったと看病に当たられた家族の方から伺い改めて深い尊敬の念をいだく。

喪主のTさんのお話によると、高校の教師として教鞭を執っていた時期にイエスとの出会いがあり、その瞬間に救いを受け入れそれまで浴びるように飲んでいた酒をその日以来すっかり絶ってしまったということだった。40代ですでに家庭もあるT先生にとってそれはドラマティックなキリストとの出会いだったことが偲ばれる。まさにイエスから私についてきなさいと召し出された弟子たちのようにT先生は勤めておられた高校の教師を止め、神学校に入り伝道者としての歩みを始められたのだった。その後教会やミッションスクールで証人としての人生を送られ、最後は闘病という形で証をし天に帰られたのだ。不自由な体から開放され、目が開かれイエスのもとに安らいでおられるT先生が見えるようだ。

人は自分の終末の形を選ぶことができない。私の父のように痴呆が進んでいく形もあれば、頭は冴えていながら体の自由が効かなくなるT先生のような形もある。どちらが良いともまた楽とも言えないが、それ以上に選択の余地はないのである。それぞれに与えられた終わりの時を受け入れそこに意味を聞き取っていくことしかできない。本人もまた家族も。


2002年02月06日(水) 映画「息子の部屋」を見る

2001年度カンヌ映画祭パルムドール賞受賞作品のイタリア映画。監督及び主演は異端の名匠の異名を持つナンニ・モレッティ。息子を不慮の事故で失う精神分析医を演じている。
映画はほぼ前半、暖かく愛情の絆に強く結ばれた4人家族の日常を描いている。盗みの疑いをかけられ学校に呼ばれる「事件」はあっても徹底的に息子を信じる家族であり、夫婦して二人の子どもたちのレポートを助ける場面ばどは欠けのない完璧な家庭という印象を与える。
しかし死は突然にやってくる。息子の死をどうにも受け入れることのできない両親のうめき、何もかもが崩れていくような深いダメージがリアルに表現されている。父親はもう精神分析医としての仕事ができなくなり仕事をやめる。仲の良かった夫婦の関係もその悲しさ故に変質してしまう。カトリックの国イタリアにあってこの家族は宗教と無縁なインテリの家庭だが、娘は「弟のためにミサをしようと思うの」と提案する。葬儀のミサの中で祭司は人はそれぞれ生きる時間が定められている。人は早すぎる死にどうしてと問うが、その人の死は神が定めたものだ。また私たちはいつ泥棒が入ってくるかを知らないがもし知っていたなら何も取られることはないと語る。しかし、その父親にとってそれは意味のない言葉にすぎず、何の慰めにもならずむしろ怒りを触発する。映画には子どもの死を前にして嘆き悲しむ親たちをしかし近距離からではなく何か空の上から眺めているような視点があった。人が受けなければならない現実をしんとした眼差しで見つめる視線とでも言えばよいのだろうか。それは背景に流れているブライアン・イーノの”by this river"の歌詞のせいかもしれない。その歌の言葉が映画の中で唯一宗教的なニュアンスを持って、無神論的な人間の上を流れているかっこうになっていると感じた。そしてその歌は人が信じようが信じまいが死は終わりではなく魂の救いはあるというメッセージのように沁み込んで来た。きっとこの家族も慰めを受ける、そう思い私もまた涙を流した。悲しいけれども感謝に満ちていた。

この日の夕方、訃報が入る。長く病床にあった教会の長老の方が召されたのだ。身近に接している家族の内に死が訪れた。日常の流れが止まる。



2002年02月05日(火) まとめ書き

こんな日記を書いていなかったっけとちょっとびっくりしている。
今週はずいぶん書いたのだが、そのために日記に来れなかったのだ。
空いてしまった日をしかし無い物とすることはできない。
お得意のまとめ書きをしようと手帳を開く。

この日は午後から英語学校。幼児とお母さんのクラスが2クラス。この日のテーマはSNOW。キーツの「ゆきのひ」を英語と日本語で読み聞かせしたり、紙と切って雪の結晶を作ったり、雪の日をテーマにした英語の詩の紙芝居をしたりした。その後帰国子女のプライベートクラス。小学校2年と3年の兄妹を教えている。2月のテーマが人間の体なので、今日は様々な病気の英語と内臓の英語を学ぶ。前回宿題で出したマルチン・ルーサー・キングの本についての感想の英語の作文は2人とも良く書いていた。日本に戻ってきて1年経った。まだ英語の力はなくなっていない。


2002年02月04日(月) 林の中の喫茶店

私の家から歩いて5分もかからないところに静かなギャラリー喫茶がある。何しろあたりは住宅か梨畑しかないおおよそ店などない場所に木立に囲まれてその店はある。入り口から雑木林の中の小道をたどって入り口のドアを開ける時には森のはずれのおばあちゃんの家のドアをたたくあかずきんちゃんの気分だ。春にはにスミレがたくさん足元に咲いているし。

今日は久し振りに訪ねて来てくれた友人と連れ立ってそこへ行った。何しろ小さな町だから見知った人がいても珍しくはない。いつも花の苗を買っている花屋のおじさんがいたので会釈する。この前バラの土のことでいろいろ質問に答えてくださったのだった。あのきれいな方はどこでおみかけしたのだろう、確かこの前行った歯医者さんの受付にいた方だ。すてきな陶器のカップにコーヒーを入れて運んで下さったのは息子の友達のお母さん。お昼を少し過ぎた時間だったからかいつもより人が多かった。庭に面した広いガラスを通して見えている2月の木々は私のすきな林の様子をしていた。

私たちが話こんでいるうちに周りの人はいつの間にかいなくなり、後ろの暖炉でパチパチ薪の爆ぜる音が聞こえ始めた。音楽はヘンデルのヴァイオリン協奏曲からキースジャレットに変わっていった。話は尽きないけれどもう時計は4時。よい空間と時間とを友と分かち合うのはいつも楽しくそしてなごり惜しい。私たちはまた林の中の小道を少しだけ歩いて日常の空間へと戻っていった。私の家からわずかに5分のところなのだからもっと行ってもいいと思いながらいつも林の入り口を横目で眺めては自転車で通り過ごしている。


2002年02月03日(日) あなたがたは地の塩である

日曜日の日記は聖書のことを、それもその日の聖書日課にそって私が感じたことあるいは礼拝の説教で感じたことを書こうとしている。時には教会学校で子どもたちに話したことだったり、あるいは話すための準備のためにここに書きながら考えたりもする。

昨日の日記で宮沢賢治の言葉を書いたが「すきとおったほんとうの食べ物」という言葉が私はとても好きなのだが、私にとって聖書は賢治のいう「すきとおったほんとうの食べ物」だと思っている。賢治は熱心な仏教徒だと聞いているので、仏教のことを何も知らない私は賢治の言葉を通して賢治の宗教観を知るのだが、わたしは賢治の宗教観にとても親しいものを感じている。けっして押し付けがましくない。少しも責められている気がしない。それなのになぜか内省を促される。聖人ばかりが登場してきてうんざりすることもない。人間のこすさや内に潜む高慢さもそこにはあって、それでもそれは善と悪というふうにはしきられていない。賢治の宗教観に親しみを覚えるのは私自身キリスト教徒ではあっても日本に生まれ育ち、知らないうちに身についてた仏教の影響があるからだろうか。それともキリスト教にも仏教にも共通している何かが私の見つめているところだからだろうか。きっとその両方なのだろう。いつだったかアメリカ人の友人があなたといると仏教の世界を感じると言った。彼女は自分の文化の中にない仏教に何かを求めている風だった。

今日の聖書の箇所はマタイ福音書5章13〜16「地の塩、世の光」というタイトルがついているところだ。「あなたがたは地の塩である。」というイエスの一言は重い。さらに「塩に塩気がなくなれば何の役にもたたず、外に投げ捨てられ人々に踏みつけられるだけだ」と語調はかなり厳しい。塩、それ自体は食べられたもんではない。しかし塩の入っていない食べ物も食べられたもんではない。そしてまた塩は物が腐敗するのを防ぐ。毎年味噌を作っていて思うことだが、いとも簡単に腐るはずの豆が大量の塩のお陰で一年でも二年でも保存できる。この「地の塩」はイエスが用いた比喩の中でも良く知られる比喩で本のタイトルや機関紙の名称にもされているが、しかしこれは比喩であるだけにどのようにも解釈でき、そこから具体的な指示を引き出すこともできない。その人その人が「塩の意味」を考え、自分をどう塩にしていくのかはいわば本人にまかされているのだ。わずか鍋いっぱいの煮物をする時にもきちんと作りたい時には軽量スプーンで塩や醤油の量を測ろうとする。多すぎても少なすぎてもおいしくない。この難しい塩加減を自分自身の有り様と結びつけていくというのだからこれはそう簡単なことではないはずだ。いくら正しいことを主張しても、腐りを止めるべく塩を振りまいてもそういうことには誰しも拒否反応を示す。塩辛すぎる食べ物を体が拒否してしまうように。しかし、何の主張もせず、長いものに巻かれてなるようになれと流れに身を任せていれば、イエスから「あなたは塩ではないのか」とおしかりを受ける。確かにそういう有り様の中には塩が塩の役目を果たさないのならまだしも、自分が腐り始めるという恐ろしさが潜んでいる。

去年1年はいろんな意味で塩味が効き過ぎていたと自覚している。その反動で何だか塩抜きでやってしまいそうな自分も感じている。塩がそれと分らずに食材の本来の味を引き出し、そして一方で腐敗を止める働きも行うという、そんな塩加減を自分の中に持つことができるだろうか。そういえば、賢治の塩加減は理想的に思える。そしてそれは誰にも真似のできないレシピが存在している。さて私は私の塩加減を探していくとしよう。

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マタイ5章13〜16
◆地の塩、世の光
5:13 「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。 5:14 あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。 5:15 また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。 5:16 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」


2002年02月02日(土) イーノトシロヲさんの宮沢賢治

息子の通う高校で宮沢賢治の作品の一人芝居があるというので夫と出かけた。一人芝居を演じるのはイーノトシロヲさん。会場の視聴覚室はもうアングラ劇のテントの中のような空気に包まれていた。
出し物は「どんぐりと山猫」と「なめとこ山の熊」。「どんぐりと山猫」は二人ともかなり好きな作品でいつだったかお互いに朗読してみたりしたこともあった。

宮沢賢治が好きな人にはたくさん会ってきた。本も映画も舞台も様々な人が語ったり表現したりする賢治の世界を見てきた。その人を通しての賢治なのに、そこには紛れもない賢治だけが持つ世界が再現されいつもいつも胸がいっぱいになった。目の前に現れたのはイーノトシロヲという初めて出会う人だが、彼の口から出てくることばは長年馴染んできた賢治の言葉であり、芝居を通して見えてくる情景も、そこに吹く風もなつかしくてならない世界だった。ただその世界がぼんやりとではなく色あざやかにまた生き生きとそこに映し出されていた。しっかりとした語りであり演技であったからだろう。私はすっかりお話に身をまかせて一郎の後をつけていっしょに山猫とどんぐりの世界へ旅し、また熊撃ちの男の後を歩き、熊の声を聞いた。

二つの芝居の後にイーノトシロヲさんは観客へ向けてのメッセージを語った。それは賢治の「注文の多い料理店」の序文として賢治が書いたものだった。それはそのまま賢治の作品を演じるイーノトシロヲさんの心からのメッセージだったのだろう。その語りかけを聞きいて泣けた。賢治の言葉に触れる時にしか起こらないひとつの感情。なぜ賢治が好きなのか言葉にはできないがこのどうしても泣いてしまうこのツボがその理由だと分かっている。

「わたくしは、これらのちいさなものがたりの幾きれかが、おしまい、あなたのすきとおったほんとうのたべものになることを、どんなにねがうかわかりません」という賢治の願いはみごとにかなって、どれほど彼のものがたりは私のすきとおったほんとうのたべものとなり私を養ってくれたことだろう。そして今日もこの一人芝居を通して私はこの稀有なたべものをたっぷりといただいた。感謝。


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注文の多い料理店  序


わたしたちは、氷砂糖をほしいくらいもたないでも、
きれいにすきとおった風をたべ、
桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます。
またわたくしは、はたけや森の中で、ひどいぼろぼろのきものが、いちばんすばらしいびろうどや羅紗や、宝石いりのきものに、かわっているのをたびたび見ました。
わたくしは、そういうきれいなたべものやきものをすきです。
これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらってきたのです。
ほんとうに、かしわばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかったり、十一月の山の風のなかに、ふるえながら立ったりしますと、もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。
ほんとうにもう、どうしてもこんなことがあるようでしかたないということを、わたくしはそのとおり書いたまでです。
ですから、これらのなかには、あなたのためになるところもあるでしょうし、ただそれっきりのところもあるでしょうが、わたくしには、そのみわけがよくつきません。なんのことだか、わけのわからないところもあるでしょうが、そんなところは、わたくしにもまた、わけがわからないのです。
けれども、わたくしは、これらのちいさなものがたりの幾きれかが、おしまい、あなたのすきとおったほんとうのたべものになることを、どんなにねがうかわかりません。

     大正十二年十二月二十日
                          宮 澤 賢 治 


電子図書館より


2002年02月01日(金) Nさんと会う

今日はしばらく会っていなかったNさんと久し振りに会っていっしょにお昼を食べ夕方近くまでいっしょに過ごした。この町に住んで7年になるが、その前に1年半ほどO市に住んでいた。Nさんとはその時に出会い、いっしょに学校や公民館で国際交流のボランティア活動を始めた。思えば私や子どもたちが逆カルチャーショックのダメージから守られ、のびのびと帰国後の1年半を過ごすことができたのは彼女とそしてやはり近くに住んでいたアメリカ人のGのお陰だった。帰国が夏休みだったので、2学期のはじめに上の子は小学校5年生、下の子は3年生として初めて日本の学校の生徒としての生活を始め、私は初めてその母としての生活を始めることとなったのだが、帰国した当初は何もかもとまどうことばかりだった。どうして学校を下校する時間が日により、またクラスにより違うのか。義務教育と言いながら、体操服、楽器に習字道具、給食当番のエプロンの果てまで個人で負担しなければならないのは変ではないか。どうして先生が子どもをたたくのか、そのことを親たちは口々に文句を言っているのに、どうして教師と話し合おうとしないのか。今までごく当然としてきたことがことごとく当然ではないことになった。そしてそれらがとても不合理なことに感じられ、憤懣やるかたないという状況だった。たいていの親たちには私が不自然だ、不合理だと思うことは言っても始まらないだろうなという感じがしたが、上の子のクラス懇談会で親しく自己紹介をしてくれたNさんは私が打ち明けるまでもなく、私の葛藤を察してくれ、またPTAの集まりの中でも何かと気を配り居場所を作ってくれた。Nさんは若いころ一年間イギリスで住み込みの家事手伝いをして働きながら学んだ経験がある。彼女自身、逆カルチャーショックの経験者だったのだろうし、また日本を外国人の目でも見続けてきた人だったのだろう。
私はもう9年も経てば「長いものに巻かれろ」がすっかり身についてしまって、学校を変えたり地域を変えたりという情熱もすっかりなくなっているが、彼女はその後、仕事もしながら小学校、中学校、高校とずっとPTA会長として学校刷新にかかわってきた。今も娘の中学校の担任とスカートの丈をめぐってバトルを続けているらしい。「おかしいと思ったことはきちんと声に出していかなくちゃ」と、変わっていない。私が尻尾を巻いて逃げてしまっている場所なだけに尊敬の念は大きい。
この夏、末の娘さんと27年振りにロンドンを訪れ、ホームステイ先の方々とも再会してきたと写真を見せてくれた。ホームステイ先の家族は20代の娘が、大きく成長した娘を伴って訪ねて来たことにどんなに喜び、また驚いたことだろう。私たちが出会ってからももう9年、子どもたちはそれぞれ見違えるように大きくなってしまった。ここ2年ほど行き来がなかったが、今年はもっと会いましょうと言って別れた。


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