たりたの日記
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2001年09月30日(日) 憎しみではなく

憎しみではなく
批難ではなく
しかし、直視する

あきらめではなく
ごまかしではなく
むしろ、夢見る

私たち
それぞれに課題を預かり
そのために歩く道はひとりの道
誰も私に代われない
誰もあなたに代わってあげられない

決別をする
古い私に
古い関係に
そこからお互いの内に生まれる
ほんとうを信じて

同じ所にあって
魂を傷つけ合うよりも
離れることで
魂のつながりを取り戻そうとしているのだ
私の道も
あなたの道も
ひとつ所へつながるのだから








2001年09月29日(土) 決断

これまで生きてきた中で、何度か大きな決断を迫られることがあった。
それまで信頼してきた人や深い繋がりを築いてきた人との間に溝ができる、あるいは信頼関係が無くなる、また自分へのごまかしが効かなくなる。
相手との関係が誠実なものであればあるほど、表面的な取り繕いやごまかしは
傷を深め、その傷の故に、その関係を一度清算したいという思いはどんな人の中にもある、むしろ健全な感情なのだと思う。

しかし、その清算は痛みを伴う。それ故、そんな痛みやリスクを負うくらいであれば、がまんしよう、あるいはそのことで傷つかないように心の中では相手を閉め出してしまい、表面なにごともないように振る舞おうという選択をする場合が多い。日本人の場合、欧米の人間に比べるとかなりこの傾向が強いのではないだろうか。その人間と対立することを避け、がまんしようとする。しかし、このことこそ、自分にも相手にとっても不誠実だという気がする。拒否と対立とは違う。きっぱりと対立してもそこに愛はなくならない。むしろ、積極的に愛することに近いのだと思う。

明日は決断をしなければならない。
この決断のことで、昨日からずっと心穏やかではない。その決断が正しいものなのか、それともエゴから起こったものなのか、揺れ動きがある。
「神よ、この時私たちと共にいて下さい。私たちの選択があなたのみこころにかなうものであるように。」と夜、眠りにつくまで祈りを繰り返していた。


2001年09月28日(金) 山川紘矢・亜希子さんのメルマガ

27日に届いた 山川紘矢・亜希子のメルマガ「紘矢・亜希子の自由気ままに」
に、亜希子さんが受け取ったメッセージということで、このようなメッセージが載せられていた。転送可能と記してあったので、ここに残していたいと思う。このメッセージや他にも、マイケルローズさんや、他のスピリチャルリ−ダ−からのメッセージを様々サイトで読むことができるが、そのどれにも共通することは、今世界が変化の時を迎えているということ。今回の同時多発テロから、人類全体が学びとるべきことがあるということ。憎しみを憎しみで返すこと、つまり報復への否定。自身の内に平和と祈りを保つようにという勧めだ。
でもどうだろう。スピリチャルリ−ダ−ではない、私たち一般の人間も、このリーダーたちのメッセージを体のレベルで知ってはいないだろうか。もうすでに聞いたことがある、私もそう思っていたという人は多いのではないだろうか。同時多発テロは私たちに恐怖や不安や悲しみを与えた。しかしまたそれから20日経った今、多くの人に目覚めや平和への希求などポジティブな思いが起こっているような気がする。それまで眠っていたものがそれぞれの内で目を覚ましはじめ、まどろんでいた心が生き生きと動き始めたのではないだろうか。少なくても私はそうだ。
9月11日を境に大きな変化が起きている。

< 山川紘矢・亜希子さんのメルマガ 9月27日より>


「今年、2001年は、世界中のエネルギーが大きく変化しています。

このような時、すべての現象を利用して、旧いエネルギーの精算と

新しいエネルギーの強化が行われます。

この事件もまた。その最もシンボリックな出来事です。

この事件を引き起こした方も、被害に会った方も、共に旧いエネルギーであり、

旧いエネルギーの自滅作用のひとつなのです。

沢山の人々が亡くなったのは、悲しむべきことですが、でも、「人は死なない」、

ということさえわかっていれば、少なくとも、巻き込まれた人々にとっては、

これは浄化に他ならず、彼らの魂が選択したニューエイジへの貢献です。

そして、これを企てた人々は闇に戻ることを覚悟の上で、こうしたことを

行っています。憎しみを焼き尽くす作業であり、今、私たちがすべきことは、

すべてを許し、自分の中を平静に保ち、痛みを持つ人々に、できるだけの援助の

手を差し伸べることです。そして、これをきっかけに、憎しみではなく、平和への

希求をさらに高めてゆくことです」






2001年09月27日(木) 平和を創りだす人々のネットワーク

日新聞のコラムで、CNACE!(平和を創りだす人々のネットワーク)のことを知りアクセスし,メーリングリストの登録をした.。平和についての意見、行動への提案、情報、意見についての反論。100通近くのメールが届く。その情報のメールには、関連のサイトが書かれてあるので、そちらへ行ってみる。趣味などのサイトであれば、適当に切り上げられるが、どれもそれぞれに重く、真摯な意見であり、サイトなので、どっぷり浸かってしまう。

午前中、ヨガ。夕方から夜にかけて中学生の英語クラスが2クラス3時間。
その間、また深夜2時まで、これらのメールと格闘する。
私にはハンドルできないかなとも思ったが、もうしばらくMLに参加していようと思う。

それにしてもインナーネットを通じてのネットワークは凄いものがある。情報は瞬く間に広がっていくし、行動が次ぎの行動を生む。
9月30日に2回目のピースウオークが行われる。ネットを通じて集まった500人の人が共に平和アのシンボルの黄色いリボンを付けて歩くことになるのだろう。平和を希求する人の群れがずんずん広がっていくイメージが心を明るくする。

規制されていたジョンレノンの「イマジン」は逆に多くの人がリクエストするので、あちこちで流れることになったと聞く。戦争へと促される人ばかりではないことが、こんなことからも明らかになる。

私も歌おう

You may say I'm a dreamer,
But I'm not the only one.
I hope someday you'll join us,
And the world will live as one.


2001年09月26日(水) 前期クラス終了

私がクラスを持っている英語学校は2期制を取っていて、今週で前期の授業が終了し、後期が10月より始まる。
昨日と今日の幼児とお母さんのクラスでは前回書いた通り、ピーナツバターとジェリーのサンドイッチを英語の説明をしながら、目の前で作って(作るというようなものではないが、そこはクラス、もったいぶって)みんなに食べてもらった。中にはきらいで食べられないという子もいたが、大方の子は
"It is good!"だったようだ。まおちゃんはミミのすれすれのところまで食べると「もういっかい、たべたーい」と、言っていたし、あすかちゃんと、あみちゃんは、ちょっぴりずつだいじだいじに食べていた。別のクラスのりょうたろうくんは半分を紙皿にくるんで、お父さんに食べさせてあげると持って帰った。英語の言葉もいっしょに記憶に残ってくれるといいけれど。

幼児は学習しようとか、覚えようとかいう気はさらさらない。また大人は覚えさせようなどと思ってはいけない。小さい子どもたちは体験が印象に残れば、そこにくっついてくる言葉も自分の言葉として取り込んでいくのだ。だから教師や親は覚えさせようなどという野心をむきだしにしては子どもにそっぽを向かれてしまう。そっぽを向く子どもはまだいい。大きい子がやるように早々とお勉強としての練習に従順だったりすると、逆効果になるとさえ思う。

言語学者の研究によると、子どもには自分が置かれている環境の言葉を、その複雑な文の構造や文法的なことまでそっくり自分の言葉とする潜在的な能力が備わっているという。日本人の子どもたちが2歳、3歳で英語なら中学生が習っているくらいの文を日本語で話している。それが日本語だから、私たちは驚きもしないが、苦労して外国語を勉強している大人がその国の幼稚園の子どもの会話能力に負けると、考えると大人と子どもの間に決定的な違いがあることが分る。この神様からいただいた幼児期の言語拾得能力を外国語にも適応できないかという研究はさまざまなところでなされているが、自国にいながら、外国と同様の環境を作ることは難しい。しかし、親が自然な形で外国語を使う場合、多少なりとも脳に自国語とは別の外国語の回路ができる。けっして、ぺらぺらに話すようにはならないが、短いフレーズが反射的に口を
突いて出てくるようにはなる。私はそれをひとつの回路だというふうに思っている。同じフレーズを繰り返し聞くことで、歌などに乗せて、繰り返し歌うことで、その回路をより多く作りたいと思っているのだ。

何だか固い話しになってしまったが、なぜ英語なのか。
将来、学校で良い点を取るためでもなければ、良い仕事に付くためでもない。
日本人以外の人と意志伝達をするためだ。今やアメリカ人やイギリス人と話しをするためではない。すぐ隣の韓国の人とも、中国の人とも、英語を媒体にして意志を通じ合わせることができる。英語がよその国の言葉という概念をまず捨てたい。英語は私たちの言葉でもある。決して借り物なんかではないのだ。この人類の共通の便利な道具をみなが、自分のものにしてしまうのである。
日本語っぽい英語あり、ドイツ語的英語あり、中国なまりの英語あり、自国の訛りを気にかける必要はない。ネイティブのまねなどする必要はないのだ。しかし、自分の考えが伝えられること。
道は果てしないが、、、


2001年09月25日(火) ピースウオーク

今日の朝日新聞の朝刊、「ポリティカにっぽん」というコーナーに
『インターネットで反戦デモ』という見出しで、23日に行われた「ピースウオーク」の記事が出ていた。
22日の夜、長男が突然、「明日、ピースウオークに行くから」と言うので、いったいどこの主催でどういう目的なのと聞くと、良く分からないけど、同じ大学のドイツ人の友人から誘われたという。コンサートや映画じゃあるまいし、良く分からなくて良くデモなどに参加できるもんだと内心呆れた。でも、その日、親はのんきに温泉に行こうとしていたわけで、彼の行為は動機はどうであれ、その行為には一応脱帽し、がんばっておいでと送りだしたことだった。

さて、ピースウオークから帰ってきた息子、例によって興奮し、影響を受け、すっかり平和主義者になって戻ってきた。出会った人たちの中に「すごい」と感じる人がいたようだ。一人のおばあさん(彼がそういうので)は、湾岸戦争の後、子ども達を支援するために、年に2度、イラクに出向いている人なのだという。若いものから老人まで、様々な人が共に集まり、その人達の放っているエネルギーの有り様が伝わってくるような気がした。

さて新聞の記事に戻ると、この「ピースウオーク 」は23日午後、代々木公園から渋谷駅周辺を行く若者たち300人の反戦デモで、呼びかけたのは
「CHANCE!」(平和を創る人々のネットワーク)ということで、数日前からインターネットで知らせただけで、これほどの人間が集まったということだった。我が家のHのように、何かは知らねど、ともかく馳せ参じたという若者も少なからずいたことだろう。

出発前の呼びかけ人の若者のあいさつの言葉が新聞に記事の中にあって
「これは」は、と思った。
「初めは静かに沈黙して歩きましょう。呼吸を整え、命を感じて。自分の心を静めて平和で満たして。ゆっくりとていねいにあるきましょう。歩いた足跡から一輪一輪花が咲くように。アピールではなく哀悼とヘ平和を祈って」
そのデモは声高に戦争反対のシュプレヒコールを繰り返す、私がイメージしていたデモではなく、むしろ祈りだったことを知った。
そうして、若者たちはこの呼びかけのように歩いたという。

それにしても、この呼びかけの言葉はまっすぐに私に訴えてくる。まるで私の内から出てきた言葉のように私に近い。たくさんの人々と知らないうちにすでに手を繋ぎ合っているの違いない。祈りは祈りと繋がり、平和を創りだそうとしている者達は深いところですでに共に歩き始めているのだろう。

同じ新聞の別の面には23日ヤンキースタジアムで行われた宗派を越えた「アメリカの祈り」という祈りの集会が開かれたと伝えられていた。
カトリック、プロテスタント、ユダヤ、ムスリム、ヒンドゥー。宗派を越えて一体になろうと、さまざまな宗教指導者が祈りをささげたという。
この光景が浮んできて胸がいっぱいになった。多くの人々の犠牲を前に、これまで実現されなかったことが実現している。
今度のテロ事件で私たちが示されているのは、やはり戦いではなく、一つになることだという思いがさらに強くなる。


2001年09月24日(月) 休日

今日は休日らしい休日だった。
午後から夫と車で40分くらいのところにある古墳公園に行った。
スパンと開けた草原が気持ちの良い場所だ。
ここへは子どもたちが小さい時に何度か来ている。たいていはボールやブーメランを持ってきて遊んだような気がする。お正月に凧を持ってきて上げたこともあった。下の子を私がおぶって上の子に凧を上げさせている写真が残っている。
もう子どもたちを連れてくることもない。バスケットには古いシーツと本とペットボトルのお茶と簡単なものである。木陰の草原に古いシーツを広げ、寝転がる。
頭上いっぱいに広がる青空。下から見上げる木。葉は陽の光りに透けてそれは緑色のステンドグラスのようだった。草原は地面すれすれの視線で見ると途方もなく広く広がっている。背中には少し湿った草の、そしてその下に続く黒い土からの冷気が伝わってくる。
「子どもが大きくなるっていうのはいいもんだね。」
そういいながら、お互い、持ってきた本を広げる。
私は「魂のみなもとへー詩と哲学のデュオ」(谷川俊太郎/長谷川宏)を読む。今月の始めに出たばかりの本。久し振りに買った新刊だ。
詩とそれを受けて哲学者が書いた文章が交互につながっている。韻文と散文との異なった味わい、詩人と哲学者の異なる視点、二人のパーソナリティーの違いが二つの異なる楽器のようにおもしろく、また心地よいデュエットだった。
未来という題の詩があった。
青空へむかって僕は竹竿をたてた
それは未来のようだった
というフレーズで始まる詩だ。
実際、私が広げた本の向こう側に広がる青空はどこまでも続いていて、私はその広さの中にとけこんでいくような気分になっていた。



2001年09月23日(日) 復讐してはならない

NYのテロ事件の直後、聖書を開いた時に飛び込んできた活字が太字で印刷されてある「復讐してはならない」という言葉だった。
マタイによる福音書5章38節から42節。これに続いて、「敵を愛しなさい」という記事が続く。
ともに、イエスが群集に向かって語った言葉である。

<復讐してはならない> マタイによる福音書5ー38〜42
「あなたがたが聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」

<敵を愛しなさい> マタイによる福音書5ー43〜48
「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかしわたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたが、天の父の子になるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」

アメリカの経済のシンボルだった、天にそびえ立つ美しい二つのビルが破壊され、行方不明者は6千人にも登るとうい現実の前で、虚脱感に襲われる。思考が停止してしまう。こんなに遠くの国にいてもそう感じるのであれば、アメリカの人々、特にNYやその近辺の人達の痛みはどれほどのことだろう。実際、多くの方がひどい鬱状態の中にあるという。

アメリカでは今、国旗と銃が売れているという。皆が愛国心を奮い立たせることで、この苦痛の中から立ち上がろうとしているその気持ちが痛々しいほどに伝わってくる。91パーセントのアメリカ人が報復に賛成していると報道されている。国家を歌い、旗を振り、一団となって敵に立ち向かう。そのことで喪失感から脱しようとしているように見える。しかし、アメリカ社会で生活するイスラム教徒への迫害がエスカレートしているし、報復処置で実際に苦しむのは逃げ場のない女性や子どもたちということは明らかだ。罪のない人たちの苦しみや死はさらに広がっていく。

平和な地球の裏側にいて、彼らを批難することは許されないことかもしれないが、もし、このことが日本で起こったとして、私はこの厳しい、イエスの言葉を手放さないように持っていたいと願う。このイエスの言葉は平和の中では快く響き、親は子どもに、教師は生徒に教えさとすのに、好都合な言葉だったはずだ。クリスチャンなら何度となく耳にしながら育ったはずだ。しかし、ほんとうに自分を痛めつけるものを前にした時、自分が苦しめられる立場に立った時、この言葉を受け入れることは容易ではない。しっかりと掴んで死守するつもりでおかないならば、この言葉はまるで絵空ごとに吹き飛んでしまい力を失う。私たちの怒りはとてつもなく大きい。あの大きなビルを一撃のもとに倒してしまうほどの憎しみを内に持つことができるのだ。憎しみに対して憎しみで応答した時、そこに訪れるのは何だろうか。より大きな殺戮、罪のない人達の死、世界の崩壊。

イエスはこの言葉を貫いて、一人、十字架の上で血を流した。自分の体を死ぬために悪の手の中に引き渡した。イエスは十字架の上で「父よ彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」と言った。私たちの中に
ある怒りを復讐心をイエスは御自身の内にすべて引き受けて生け贄の小羊となって死んだ。

復讐するのではなく、敵のために祈るという厳しい課題はイエスの十字架なしに私達は乗り越えることはできないように思う。けれど、イエスの十字架の故に怒りを愛に変える道も与えられている。私たち、ひとりひとり、何を選択するのかこれからは問はれ続けることになるのだろう。


2001年09月22日(土) 文化祭と温泉

すっかり秋。
10日振りに夫の運転する車で出かける。
あの忌わしいテロ事件以来、気持ちが晴れることがなく、また夫がオランダに出張中だったこともあって、何かずっと内にこもっている感じだった。
太陽の陽射しが新鮮で、深々と息をする。
こんな世界のただ中にあるけれども、ともかく命を与えられている。この命を愛おしもうという気持ちになる。

午前中は、Mちゃん(従兄の子ども)の高校の文化祭へ出かけ、彼女が出演するうファッションショーを見る。服飾デザインのコースで学ぶMちゃんは自分でデザインし、縫った服を着て、ショーに出るのだ。彼女のは母親を7年前に亡くしている。久し振りに会ったMちゃんは前よりも母親に似てきたと思った。母親のJさんはこの世界にはいないけれど、しっかりと娘達の歩みを支えている、彼女たちが逞しく自分の道を切り開きながら歩いている姿を見るたびにそう思う。来月はJさんの命日だ。

午後はK市にある日帰り温泉へ行く。ここは水着で入れるテルマがあるので、泳いだり、ウオーキングをしたり、またリクライニングチェアで読書したりして過ごす。「ローズ メリー ローズ」という本を読み上げる。また始めてアカすりエステなるものをやってもらう。アカすりは韓国からきたものと聞いているが、そのブースでアカすりをしている3人の若い女の子たちはみなラテン系で、さかんに国の言葉で話しながら仕事をしている。「痛く無いですか」とかなど、客に対しては達者な日本語で対応している。どこの国の言葉か聞くと、ポルトガル語、ブラジルですと答えてくれた。

食事の後、スクリーンのある仮眠室に行くと何と「ダンサー・イン・ザ・ダーク」が上映中だった。音量がかなり下げてあり、ほとんどの人が寝ているようで、あの映画館のような緊迫感などどこにもない。
それでもやっぱり泣けた。何回見ても、どういう場所で見ても、私は文句なしにこの映画に泣いてしまうのだ。この数日間、泣きたくても泣けない鬱々とした気持ちが涙になって溶け出していくようで嗚咽しながら癒されていた。
帰る前にまた温泉に戻る。外気がひんやりとして露天にはいい気候になった。
岩によりかかり、地中深いところから沸き上がってきた泉に身を浸す。夜中の12時過ぎに帰宅する。


2001年09月21日(金) 歌づくり

昨夜、夫は無事、出張先のオランダから帰ってきた。
何にしろ、出発したのが、NYのテロ事件の翌日だったので、オランダ行きの航空機は無事飛んだものの何だか心配だった。
お土産はチューリップの球根とチューリップのプリントのTシャツに、チューリップの表紙のノートとチューリップづくし、さすがオランダ。
すでにチューリップの球根は50個買っていたので、新たなオランダ土産の球根と合わせると、来春には100本のチューリップが咲くことになる。

出張の翌日くらいは会社は休みだろうと今日は何も予定をいれず、生協の注文もせずに、温泉でも映画でも付き合う用意をしていたのに、何といつもの時間に出勤らしい。私はぽっかり時間が空いた。外は雨、外出を迫られることもないし、庭しごともできない。雨を理由に買い物もスキップ。何にも縛られずに一日家に居れる幸せはそうはない。さて、ヨガを少しやり、お手抜き家事をし、パソコンの前に座りメールのチェック。いくつかのメールの中にマオさんからのものがあり、ミュージカル「森のおく」の歌詞のことだった。前に書いた、たけるとママが迷子の子猫を探しながら歌う歌で、ママの歌に続いて、たけるの歌う歌の歌詞を書いてほしいという依頼だ。この前同様、頭の中には何も浮んではいなかったが、やってみますとメールを返信し、さっそく取りかかった。
私に必要なのはインスピレーション。まず、精神を集中させるために黙想。それからピアノの前に座って、前回作った歌を歌ってみる。頭の中の舞台にたけるのママとたけるが浮び上がる。ママの歌に続いて、それとは別の方向性を持つメロディーが欲しい。ママの旋律はママのパーソナリティーを表わすとすれば、たけるのパーソナリティーを浮びあがらせるような メロディー。2つの違った性質の旋律がかぶるような感じで歌われるといい。ミュージカルのステージで2人が別々の メロディーと言葉をそれぞれが主張するように歌う場面がよくある。双方のエネルギーがお互いに影響されあっていて、身震いするような感じを覚えるあのディユエット、あんな歌が書けないものかしら、単なるハーモニーではつまらない。あくまでも、別の言葉、けれどもお互いの言葉は影響されあっている。異質だけれど、ひとつにととのっているような二重唱。

幸い、ママの歌はゆっくりしたフレーズでしかも初めの2つのフレーズは2拍分の休符がある。ママの歌い終わりにかぶさるようにたけるのフレーズを挿入することができる。しかも言葉はママの言葉を受けるような感じで、男の子らしい言葉をつなげていけばいい。ママの歌の部分を自分で歌いそれを録音し、たけるの歌をそれに合わせながら創っていった。途中で、マオさんに電話し、こういう創り方でいいか了承を得る。マオさんからOKがでた。マオさんの話しでは、ママ役の人ももたける役の人もすばらしい歌い手なので、それぞれの歌をじっくり聞かせたいということだった。

それならば、ママの2コーラスのソロに続いて、たけるの旋律をソロで入れるといい。たけるの旋律はあくまで、ママの旋律の対旋律として作っているものだから、このソロのところではママの旋律をフルートで演奏してもらうといいかも知れない。ソロにしては短いのが気になるが、2コーラス、同じ言葉で歌うか、場合によれば、新たに歌詞を加えよう。そして、ソロに続いて、先のママの歌にたけるの歌がかぶさる感じでの ディユエットが2コーラス続く。たけるの旋律はちょっとグレゴリアンチャント風になった。好みが出てしまうなあ。

はっと気がつくともう3時過ぎ、朝食はヨーグルトフルーツを食べただけだったのに、お腹が空いていることにも気がつかずに没頭していたらしい。
楽譜を書いて、マオさんにファックスで送る 。
さて、アイデアは悪く無いと思うが、音楽として良いものかどうかは自信ない。また、それぞれの歌を相手の歌がじゃましないで、両方がきちんと聞こえてくるかどうかも実際に歌っていただくまでは分からない。欠陥があるかも知れない。作曲担当のかおるさんとも相談したいところである。
今隣の部屋で「天使にラブソング2」をやっているのが聞こえる。高校生たちがミュージカルを創っていく場面だ。さて見てこよう。

今日は一日創造的なことをすることができて良い休暇だった。感謝!


2001年09月20日(木) アフガニスタンからの手紙(9月13日付け)

心配していたことが現実になりつつある。
いったいどうすればいいのだろう。何かとてつもなく大きな流れに世界全体が流されているような気がする。ひとりひとりの考えや思いはさまざまであっても、このように流れはとどめることができないのだろうか。
今日、大学時代の友人のYさんから、アフガニスタンからの手紙というタイトルで国連難民高等弁務官カンダハール事務所で働いていらした−千田悦子(ちだ・えつこ)さんの手記が届いた。千田さんは、一時的に勤務先をパキスタンに移転するという措置で、「避難」をしているとのことだが、これはその緊急避難の最中にしたためた手記だ。
より多くの人に読んでもらいたいということで送られてきたメッセージだということなので、この日記にも記すことにしよう。
すでに、今日は20日、その時にははっきりしていなかった犯人像はかなり確実性の強いものになってきたが、確かに13日には、まだ疑いの範疇にあった。
彼女が伝えるように、標的になるのは何の罪もない弱い人たちだ。どんな事体においても人が人を殺すことが許されていいはずはない。

以下、千田悦子さんの手記

> > 報道機関の煽る危機感
> >
> > 9月12日(水)の夜11時、カンダハールの国連のゲストハウスでアフ
> > ガニスタンの人々と同じく眠れない夜を過ごしている。私のこの拙文を
> > 読んで、一人でも多くの人が アフガニスタンの人々が、(ごく普通の
> > 一人一人のアフガン人達が)、どんなに不安な気持ちで9月11日(昨
> > 日)に起きたアメリカの4件同時の飛行機ハイジャック襲撃事件を受
> > け止めているか 少しでも考えていただきたいと思う。テレビのBBC
> > ニュースを見ていて心底感じるのは 今回の事件の報道の仕方自体
> > が 政治的駆け引きであるということである。特にBBCやCNNの報道
> > の仕方自体が根拠のない不安を世界中にあおっている。
> >
> >  事件の発生直後(世界貿易センターに飛行機が2機突っ込んだ時
> > 点で)BBCは早くも、未確認の情報源よりパレスチナのテログループ
> > が犯行声明を行ったと、テレビで発表した。それ以後 事件の全貌が
> > 明らかになるにつれて オサマ.ビン.ラデンのグループの犯行を示
> > 唆する報道が急増する。その時点でカンダハールにいる我々はアメ
> > リカがいつ根拠のない報復襲撃を また始めるかと不安におびえ、
> > 明らかに不必要に捏造された治安の危機にさらされる。何の捜査も
> > しないうちから、一体何を根拠にこんなにも簡単に パレスチナやオ
> > サマ・ビン・ラビンの名前を大々的に報道できるのだろうか。そして
> > この軽率な報道がアフガンの国内に生活をを営む大多数のアフガ
> > ンの普通市民、人道援助に来ているNGO(非政治組織)NPOや国
> > 連職員の生命を脅かしていることを全く考慮していない。
> >
> >  1998年8月にケニヤとタンザニアの米国大使館爆破事件があ
> > った時、私は奇しくも ケニヤのダダブの難民キャンプで同じくフィー
> > ルドオフィサーとして働いており、ブッシュネル米国在ケニヤ大使が
> > 爆破事件の2日前ダダブのキャンプを訪問していたという奇遇であ
> > った。その時も物的確証も無いまま オサマ・ビン・ラデンの事件関
> > 与の疑いが濃厚という理由だけでアメリカ(クリントン政権)はスー
> > ダンとアフガニスタンにミサイルを発射した。スーダンの場合は、製
> > 薬会社、アフガンの場合は遊牧民や通りがかりの人々など 大部
> > 分のミサイルがもともとのターゲットと離れた場所に落ち、罪の無い
> > 人々が生命を落としたのは周知の事実である。まして 標的であっ
> > た軍部訓練所付近に落ちたミサイルも肝心のオサマ・ビン・ラデン
> > に関与するグループの被害はほぼ皆無だった。タリバンやこうした
> > 組織的グループのメンバーは発達した情報網を携えているので、
> > いち早く脱出しているからだ。前回のミサイル報復でも 結局 犠
> > 牲者の多くは 子供や女性だったと言う。
> >
> >  我々国連職員の大部分は 今日緊急避難される筈だったが天候
> > 上の理由として国連機がカンダハールに来なかった。ところがテレ
> > ビの報道では「国連職員はアフガニスタンから避難した。」と既に報
> > 道している。
> > 報道のたびに「アメリカはミサイルを既に発射したのではないか。」
> > という不安が募る。アフガニスタンに住む全市民は 毎夜この爆撃
> > の不安の中で日々を過ごしていかなくてはいけないのだ。更に、現
> > ブッシュ大統領の父、前ブッシュ大統領は 1993年の6月に 同
> > 年4月にイラクが同大統領の暗殺計画を企てた、というだけで 同
> > 国へのミサイル空爆を行っている。世界史上初めて、「計画」(実際
> > には何の行動も伴わなかった?)に対して実際に武力行使の報復
> > を行った大統領である。現ブッシュ大統領も今年(2001年)1月に
> > 就任後 ほぼ最初に行ったのが イラクへのミサイル攻撃だった。
> > これが単なる偶然でないことは 明確だ。
> >  更にCNNやBBCは はじめからオサマ・ビン・ラデンの名を引き合
> > いに出しているが米国内でこれだけ高度に飛行システムを操りテロ
> > リスト事件を起こせるというのは大変な技術である。なぜ アメリカ
> > 国内の勢力や、日本やヨーロッパのテロリストのグループ名は一切
> > あがらないのだろうか。他の団体の策略政策だという可能性は無い
> > のか?
> >  国防長官は早々と 戦争宣言をした。アメリカが短絡な行動に走ら
> > ないことをただ祈るのみである。
> >  それでも 逃げる場所があり 明日避難の見通しの立っている我々
> > 外国人は良い。今回の移動は 正式には 避難(Evacuation)と呼
> > ばずに 暫定的勤務地変更(Temporary Relocation)と呼ばれてい
> > る。ところがアフガンの人々は一体どこに逃げられるというのだろう
> > か? アメリカは隣国のパキスタンも名指しの上、イランにも矛先を
> > 向けるかもしれない。前回のミサイル攻撃の時は オサマ・ビン・ラ
> > デンが明確なターゲットであったが 今回の報道はオサマ・ビン・ラ
> > デンを擁護しているタリバンそのものも槍玉にあげている。
> > タリバンの本拠地カンダハールはもちろん、アフガニスタン全体が
> > 標的になることはありえないのか? アフガニスタンの人々も タリ
> > バンに多少不満があっても 20年来の戦争に比べれば平和だと
> > 思って積極的にタリバンを支持できないが 特に反対もしないとい
> > う中間派が多いのだ。
> >
> >  世界が喪に服している今、思いだしてほしい。世界貿易センター
> > やハイジャック機、ペンタゴンの中で亡くなった人々の家族が心から
> > 死を悼み 無念の想いをやり場の無い怒りと共に抱いているように、
> > アフガニスタンにも たくさんの一般市民が今回の事件に心を砕き
> > ながら住んでいる。アフガンの人々にも嘆き悲しむ家族の人々が
> > いる。世界中で ただテロの“疑惑”があるという理由だけで、嫌疑
> > があるというだけで、ミサイル攻撃を行っているのは アメリカだけ
> > だ。世界はなぜ こんな横暴を黙認し続けるのか。このままでは 
> > テロリスト撲滅と言う正当化のもとに アメリカが全世界の“テロリ
> > スト”地域と称する国に攻撃を開始することも可能ではないか。
> >
> >  この無差別攻撃や ミサイル攻撃後に 一体何が残るというのか。
> > 又 新たな報復、そして 第2,第3のオサマ・ビン・ラデンが続出す
> > るだけで何の解決にもならないのではないか。オサマ・ビン・ラデン
> > がテロリストだからと言って、無垢な市民まで巻き込む無差別なミ
> > サイル攻撃を 国際社会は何故 過去に黙認しつづけていたのか。
> > これ以上 世界が 危険な方向に暴走しないように、我々も もう
> > 少し 声を大にしたほうが良いのではないか。
> >
> >  アフガンから脱出できる我々国連職員はラッキーだ。不運続き
> > のアフガンの人々のことを考えると 心が本当に痛む。どうか 
> > これ以上災難が続かないように 今はただ祈っている。そしてこ
> > うして募る不満をただ紙にぶつけている。
> >
> > 千田悦子    2001年9月13日 筆

このアフガニスタンからの手紙とい転送メールについて、今日9月25日に
このメールを転送してくれた友人から緊急のメールが入り、今後、転送はあひないでくれという依頼だった。
そのメールによると、千田さんの手記を目にした報道機関の一部が千田さん個人的な手記ではなく、UNHCR(国際連合難民高等弁務官事務所 )の意見として取り上げているということで UNHCR東京事務所から、差し止め命令を出されたということだ。千田さんからは、転送へのお礼と共に、転送してくださったかたにご迷惑を おかけするのではと深く気に病んでいらっしゃるそうだが、 どちらにせよ、転送の差し止めをお願いせざるを得ないので、 ご協力をお願いしたいとのことだった。この刺し止め命令というものがどういうものか私自信よく把握していないのですが、このHPでは千田さんの手記と記していますし、UNHCRの意見とはどこにも書いていないので刺し止めにする理由はないように思います。ただ、こういう命令が出ている以上、転送や、印刷物としての配布は避けた方が良いと思います。
それにしても、こういう個人としての私信にクレームが付くという事体がとても不可解だ。(9月25日に記す)



> >


2001年09月19日(水) ピーナッツバターとジェリー

幼児とお母さんのための英語のクラス、今週と来週のテーマはランチ。
そこに登場するのはアメリカの定番の弁当、ピーナッツバターとジェリーのサンドイッチなのだが、これが日本では以外と知られていない。
お母さんたちに、アメリカで子どもに持たせるお弁当の定番は何だと思いますかと聞いてみたところ、知っている人はいなかった。また「えーっ、それっておいしいんですか。」という声があがった。

そういえば、私が初めてこの存在を知った時には、その組み合わせの意外性に「はっ?」とか「ふ〜ん」といった反応だったのを覚えている。バーバラ・クリアリ−著の「がんばれへンリ−くん」の中に、ヘンリ−くんがクラッカーにピーナッツバターとジェリーをぬって、自分のおやつを作る場面があった。子どもが自分でおやつを作って食べるということが印象的だったので、このきみょうなおやつも記憶に残っていたのだ。

さて、アメリカで暮らしてみると、確かにこの食べ物は一般的なのである。さしずめ、梅干し入りのおにぎり、いやそれ以上だと思われる。幼稚園や、小学校で、何度となく子どもたちがお弁当を開く場面に行きあったが、半分以上の子はこのピーナッツバターとジェリーのサンドイッチを持ってきていた。アメリカのピーナッツバターは砂糖を加えていない塩味のものが一般的だ。感覚としては日本の味噌に相当するポジションをしめているような気がする。スープに仕立てたりこそしないが、これで栄養が取れるといった感覚がある。確かに、タンパク質に富み、脂質もコレステロールを含まないヘルシーな食品のようだ。しかし、ナッツをペースト状にしたものだから、それだけだと口の中でもこもこしてしまい、あまりよい食感とはいえないし、甘味もない。そこで、ジャムというよりはむしろ、固めのゼリーといった感じのグレープのグレープジェリーの出番となるのである。なぜ、さまざまな果物の中でグレープなのかは分からないが、このつるんとした食感がピーナッツバターの重さをやわらげ、適当な水分も加わり、食べやすくしているのであろう。

さて、このサンドイッチ、食パンに片側にピーナッツバターをぬり、もう一方にグレープジェリーをぬり、お互いをくっつけただけのものである。パンの耳を切り取るというようなめんどうでもったいないことはしない。その食パン2枚をあわせたものを、それがちょうど入る大きさのサンドイッチバックと言われるジッパーがついたビニール袋に入れて出来上がり。この他に子どもたちのプラスティックの四角いランチボックスには、りんごが丸ごと一個とか、スナック菓子が一袋とか、小さい箱に入ったレーズンとかが入っている。何としても野菜を食べさせたいお母親はセロリやにんじんのスティックをビニール袋に入れて持たせる。煮たり、焼いたりの我々の弁当と比べると何とも簡単である。

さて今日のレッスンでは色々な食べ物のカードを見せながら、
" What would you like for lunch?"
(お昼ごはんに何が食べたい?)
と聞いていく。
子どもやお母さんは
" I want ○○”
と欲しいものを答えたり、
" Would you like to eat ○○?" ( ○○が食べたいですか?)
という質問に
"Yes, I do.", "No, I don't"で答え、カードをもらう。
その後で、"Peanut butter and Jelly"の歌を振りを付けて歌う。
今年の4月に発売されたアプリコット社の幼児向けのシリーズの最新版をコースブックに
使用しているのだが、この"Peanut butter and Jelly"の歌も振り付けもなかなかいける。
スイング調の曲はなかなか乗れるし、大人も楽しい歌だ。ここで、歌詞だけ書いても、曲の感じは伝わらないので残念だが、こういう感じで始まる。

Peanut, peanut butter, jelly
Peanut, peanut butter, jelly
First you take the peanut, and you
crush, crush, crush,

来週は実際にピーナッツバターとジェリーのサンドイッチを作ってみんなに食べてもらおう。そしてこう聞く。"Is it good?"
さて、みんな"It is good!"といってくれるかしら。

それにしても、いくつかの輸入食品店で探してみたが、グレープジェリーが見つからない。ブルーベリージャムの代用でがまんしてもらおう。
ちなみに、我が家の冷蔵庫にはたいていにスキッピーという名前のピーナッツバターとブルーベリージャムが入っている。





2001年09月18日(火) フェミニスト神学、つづき

昨夜、このテーマで書く予定にしていたのに「風の谷のナウシカ」のコミック本にはまってしまい、書けなかった。いつかナウシカのことも書こう。15年前に読んだ時には見えていなかった部分が見えるようになっている。

さて、本題、前回のつづきである。
聖書をどのようなものとしてとらえるかということは、学者の間でも、教職者の間で様々に意見の分かれるところだ。カトリック教会は別として、プロテスタントは宗派によって理解の仕方にはかなり違いがある。私自身、大変リベラルな牧師から、保守的な牧師まで様々な立場に立つ牧師の話しを聞き、また接触してきた。

荒井氏はこの問題について、大きく3つの立場があると説明された。
第一の立場、これは、聖書の言葉は一字一句、神の霊感によって書かれたもので、何の間違いもないとする逐次霊感説を取る立場で、原理主義といわれるもの。
第二の立場、これは聖書の聖典性を否定し、聖書を越え、聖書を捨てるという立場で、ポストモダンといわれるもの。
第三の立場はいわば、第一と第二の中間の考え方で、聖書の聖典性を受容しつつも、聖書をあくまで人間による信仰の証の書として受け取る立場である。
従って、聖書は社会的、歴史的影響を受けていると考え、私たちには信仰を選択する自由が与えられている。つまり、自分がこれだというメッセージを選択することが可能だとする。

荒井氏は御自分は第三の立場を取る者だとおっしゃった上で、女性を低い立場に置いている、マタイやルカによる福音書や、ユダヤ社会の影響を色濃く受けているパウロの書簡ではなく、マルコによる福音書を選択するといわれた。なぜなら、マルコは人間の尊厳に対する鋭い感受性を女性の中に感じ、その視点で福音書を書いているからだと。

「人間の尊厳に対する鋭い感受性」という言葉を耳にした時、この言葉が非常な強さと光りを伴って内側に入ってきた。
私がイエスを慕う理由、教会に繋がってきた理由がこの言葉の中にあると確信したからだった。また同時に、キリスト教に、また教会にしばしば批判の目を向け、また失望してきたことの理由もこの言葉の中にあると分かった。人間の尊厳に対する鋭い感受性が重んじられるべき場所が皮肉なことに、それを軽んじる場所になることがある。大方の社会の機構が「人間の尊厳に対する鋭い感受性」を失っているが、たとえそうであるにせよイエスを信じる集団が大方の社会と同じ感覚に支配されていることにがまんがならない。

教会の外には「人間の尊厳に対する鋭い感受性」を持ち、それに従って生きている人たちが大勢いる。心情的にはその方々との方が結びつきの方が強く、行動を共にしているという充実感がある。そういう方々と接触するにつけ、その人の内なるイエスに出会い、はっとさせられるのである。イエスのおられる場所はけっして教会の中だけではない。キリスト者はそのことに目を開かなくてはならない。イエスは言われた。
後のものが先になると。


2001年09月16日(日) フェミニスト神学

新井献先生の講演「聖書の中の女性たち」を聞く。
新井氏は東京大学名誉教授、恵泉女学園大学学長という肩書きの他に日本 フェミニスト神学・宣教センター委員という肩書きを持つ聖書学者だ。
ずいぶん前に彼の著書「イエスとその時代」(岩波書店、1974年)を読んだが、どのページにも鉛筆に力を入れてぐいぐい黒い線を引きながら読んだことを思い出す。イエスがくっきりと見えてくることがうれしかった。教会の中では出会えないような生き生きとしたイエスとの出会いがあったような気がする。抑制の効いた、あくまで学問的なアプローチだったと思うが、こみあげてくるような深い感動があった。そういう著書との出会いがかつてあったので、この講演を楽しみにしていたのだった。しかし、男が語る フェミニズムは何かピンとこないものがあり、そういう意味からも興味津々といったところであった。

「新約聖書のマルコによる福音書はイエスのほんとうの弟子は、伝えられている十二弟子ではなく、イエスのそばにいた女性たちだったということを物語っているという見方がある。」という大胆なところから話しは始まった。マルコによる福音書は 4つの福音書のなかで一番先に書かれたものであり、他の福音書の元になったものだ。
ではなぜ、そういうことが言えるか。イエスが十字架の上で処刑された時、イエスの一番弟子といわれるペテロをはじめ、男の使徒達はみな、ちりじりに逃げてしまったのは周知のことである。ペテロなどはイエスの予言どうりに鶏が鳴く前に3度イエスを知らないと否定したのであった。そこで、マルコによる福音書15章の40節には十字架の上のイエスを見守っている女性たちが描かれ、名前も記されている。マグラダのマリア、ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメだ。逃げていった男の弟子たちとは対象的に最後までイエスに仕えた
女性たちのことがきちんと記録されているのである。また、復活したイエスがまず現れたのも、この三人の女性たちの前だった。
何を持ってイエスの使徒と定義するかといえば、常にイエスと行動をともにしていた者、そして復活のイエスに直接出会った者とされる。その定義にのっとれば、最後までイエスの側にいて従ったこの女達こそ使徒ということになる。

なんとも胸がすく話しだった。自分が女だから優越感に浸るというのではない。私が感じてきたイエスの感受性と、そのイエスの感受性をほんとうに知っていたのは女性たちだったのではないかという思いが講議の中で具体的にまた学問的に実証されたからだ。
教会は非常に男性的な理論に支配されていると思う。教会に限らず、国家、政治、社会機構、すべて男性の思考の上に成り立っている。その中で女性的なものの見方は重要ではないもの、正しくないものとして退けられてきた。男性の理論の上に立って男性と変わらない考えや仕事をする女性は受け入れられてきたが、今でも女性の特質や感受性はひどく脇に寄せられる。様々な場面でそれに直面してきた。

わたしがなぜイエスに惹かれるのか。男性の支配する教会にことごとく失望し、傷ついても、イエスの弟子でありたいと願うのはなぜか。その理由の一つに、イエスは男性でありながら、女性的なものの中にある感受性を理解し、それを何よりも大切なものとしてきたという点がある。ある意味で男性の構築してきた社会を破壊するような、反社会的な人であった。
全体ではなく個を。法律ではなく愛を。戦いではなく平和を。弱いものこそ強いと。イエスそのものが女性的な感性を持っている人だった。

講演の後半で、氏は聖書をどのように受け止めるかという点で、三つの立場があるとし、御自身の立場を明らかにされたがこのことに関しては明日、続きを書くことにしよう。


2001年09月15日(土) ミュージカル

「ねこんさーと」の打ち合わせで三鷹へ行く。
マオさん以外の方とは初めて顔を合わせることになっている。
席に着き、三角形に折られた画用紙に「たりたくみ」と名前を書いて、この名前をこういう場で使うのが初めてだということに気がついた。
別に本名を隠したいう訳では無い。私がいるこの領域はたりたくみの場所だという思いがある。

ひとりひとりの自己紹介はそれぞれにその方の個性がはっきりと出ていて、それぞれが独特なのに、どこか繋がり合っているような調和したハーモニーを感じた。ミュージカルの練習の日程表が説明され、台本読み合わせが始まり、ああ、ほんとにやっていると我がことながら信じられない気持ちになっていた。
というのも、ほんの一月前まで、私は自分がミュージカルのステージに立つなど考えてもみなかったから。

ミュージカルの中の歌詞を作ることになっただけでも、なんだか夢のような気分になったが、たまたま浮んできた曲まで使っていただけることになり驚いた。それが今度はノラという猫になることになり、セリフも歌も、なんとソロまである。これから6月まで、ここにいる人達とひとつの舞台を作り上げていくのだと思うと、ふつふつと沸き上がっってくるものがあった。人生っておもしろい。

家に帰って、鏡の前で猫の動きなどをやってみながら、映画ダンサー・イン・ザ・ダークのはじまりのシーンが浮んできた。あの映画は私の歩みの方角を定めるほどのインパクトがあったが、あの映画はセルマがその町の素人のミュージカル団で練習している場面から始まる。ミュージカルはやがて目が見えなくなる彼女の生き甲斐であり、夢だった。セルマはそこに自分をそっくり投げ入れる。すごく素人っぽい、洗練されていない動きになぜか惹き付けられる。あの時、完成度で計られる、評価を受けるパフォーマンスとは別のレベルのパフォーマンスがあることにガツンとショックを受けた。下手な踊りを踊りながら歌うセルマを見ながら、私はどれほど、その場で彼女といっしょにそミュージカルの練習に加わりたいと思ったことだろう。

それなのに、今度の「森のおく」のミュージカルに加わることになっても、その時の気分をすっかり忘れて、なぜ突然ミュージカルをやることになったのだろうなどど考えていたのだった。そうして、やっと今頃になって私はあの時ミュージカルをやりたいと、その中で自分を表現したいと願ったことを思い出した。今はあの時に繋がっていたのだった。


2001年09月14日(金) シャーリー・マクレーンからのメッセージ


山川紘矢・亜希子さんは、シャーリー・マクレーンの本や、「聖なる予言」「魂の伴侶」など、数多くのスピリチュアルな本を翻訳され、日本に紹介してくださっている御夫妻で、お二人の発行するメルマガを読んでいる。
今回はアメリカのテロ事件の直後にシャーリー・マクレーンから届いたメッセージを翻訳して紹介してくださった。原文の方は「海外からのメッセージ」に記すことにして、ここに彼女のメッセージを残したいと思う。
山川さんにメールで確認をとったところ、すぐに、載せて下さいという返信を
いただいた。

   <シャーリー・マクレーンからのメッセージ>

この事件で傷ついた人々、肉体を離れた人々、愛する人々、家族、友人を失った人々
のために共に祈りましょう。そして、疲れも見せずに生存者を探す人々や、救助に携
わっている人々に感謝の気持ちを送りましょう。


なくなった方々は本当は私たちのもとを去ったわけではない、という事実に気づけば、
少しは気持ちが楽になると思います。ある意味でこの人々は地上の生活を卒業して、
別の次元へと、移っただけなのです。彼らの魂は永遠であり、常に私たちと共にあり
ます。


最初のショックと悲しみ、怒りを乗り越えて、今こそ、私たちは恐怖に基づく攻撃を
やめるために、世界中の人々に呼びかける必要があります。そのためには、恐怖を乗
り越え、団結しなければなりません。


また、怒りと恐怖を自分の生活やまわりの人々の生活に持ち込まないようにすること
がとても大切です。怒りと恐怖に基づいた判断はテロリズムの一つなのです。


現実面では、献血、食料、お金などの寄付、被害にあった人々を助けるための運動に
参加しましょう。感情面では、自分自身の感情にやさしくしてください。泣く必要が
あれば、泣きましょう。そして、悲しんでいる人々をサポートしましょう。


霊的なレベルでは、神の導きを求めて祈り、瞑想し、神と一つになることによって、
心のやすらぎを得ましょう。


愛と光をこめて シャーリー


2001年09月13日(木) 問いかけ

昨日はまだ頭が動いた。仕事があったせいもあるだろう。今わたしたちが考えなければならないことや世界がひとつになるためのビジョンのようなものが沸き上がってきて、動き出さなければというポジティブなエネルギーがあった。
ところが、今日はうつろだ。被害者の数が多くなるにつれ、アメリカの報復を印象づける報道を繰り返し見るにつけ、体中がマイナスのエネルギーで支配されるようだ。憎しみとか憤りとかという言葉の中に覆い隠しているものが見えるような気がする。テロ行為は決して許すベからざるものだが、それを生み出したのはこの社会であり、そこに何かの歪みがあったことが露呈したのだ。
自分を正義のポジションに置き、他を裁くというこれまでのアメリカのやり方そのものも問はれているのに。

あのような犠牲を出した、第一次、第二次世界大戦から人類は何も学ばなかったかのようだ。いえ、物事を冷静に見つめ、正しい判断をしようとしている人々は多いはず、実際、Eメールなどで送られてくる彼らの実際の声は怒りにかられてはいない。報復などという言葉は見当たらない。「裁きは人間がすることではない、神にまかせよう。共に祈ろう」という諸国のルーテルアワーからの呼びかけが伝えられた。バプテスト教会に所属する友人からも同様な呼びかけがあった。

ところがCNNのニュースはブッシュの戦闘的な言葉ばかりを繰り返し流し、人々に愛国心を喚起しようとことさらに煽っているように感じる。日本ではアメリカの他の放送局や他の考えを持つ人の側の情報はテレビでは伝えられないので、よけいにその印象を強く感じるのかもしれない。
力で力を制することを、良しとするマインドコントロールが行われているのではないだろうかと別のレベルの憂いが頭をもたげてくる。
憎しみは憎しみを生む。今こそ、世界がひとつになる道を見い出していかなければならないと思う。

マスメディアに支配されることなく、一部の政治的リーダーに追従することなく、今だからこそ、ひとりひとりが「わたし」であり「あなた」でありたい。
問いかけはこの地上に今生きているひとりひとりに対してなされている。


2001年09月12日(水) ほどいていく

ほどいて ほどいて
わたしの国を、あなたの国を
ほどいて ほどいて
わたしの言葉を、あなたの言葉を
ほどいて ほどいて
わたしの歴史を、あなたの歴史を
ほどいて ほどいて
わたしの神を、あなたの神を

わたしたちではなく、わたしに
あなたがたではなく、あなたに
それぞれがそれぞれと向き合うのです
ひとりっきりで立つのです
なにもかもほどいてしまって
あなたと わたし 
同じ命のみなもとへとたどりつく

1本の木がすべての木とつながっているように
ひとつの花はすべての花とつながっているように
一つの命はあらゆる命とつながっている

わたしの国は、あなたの国
あなたの言葉は、わたしの言葉
わたしの歴史は、あなたの歴史
あなたの神は、わたしの神

ほどいて ほどいて ほどいて
ほどいていけば・・・・


2001年09月11日(火) 信じられないこと

信じられないようなことが起こった。
あのツインタワーにハイジャックされたジェット機が突っ込んだ。テロだ。
いや、もはや戦争だ。これほど世界が近くなっている以上、よその国の出来事
ではすまされない。
実際、数年前のツインタワーの地下が爆破された時は子ども達が通っていたニュージャージーの小学校の父兄が被害にあったし、日本人の駐在員の知り合いもいた。私たちも5、6回は日本からの客を連れてここを訪れている。閉じ込められた人達の中には知り合いもいるかもしれない。
ハイジャックされた ジェット機には160人ほどの乗客がいたというニュースが今入った。
どうなるのだろうか。とても眠れない。


2001年09月10日(月) 詩人ギルド

台風が来ている。でもテレビをつけるのがめんどうで、台風の進路がどのようになっているか知らない。今のところ風もない。
こういう日は書く気分になる。2つの詩の投稿サイトに投稿する。
「詩人ギルド」というサイトはテーマがその都度、出されているようで、
「ゴミ」または「豆腐」ということだった。
とても詩になりそうにないテーマというところがミソなのだろう。
それで豆腐の詩を書いてみた。


異国の豆腐たちへ


あの頃は豆腐を求めて
一時間も車を走らせ
いくつもの知らない町を通りすぎ
小さな町のチャイニーズの八百屋に
豆腐を求めて通ったのだった
なつかしい顔をした
白い柔らかい豆腐は
きれいな水の中で行儀よく待っていた
そこだけに光りがたまっている
ざらざらとした舌触りの日常にあっては
豆腐の繊細さが時に必要であった

アメリカ人の友人を昼餉によんで
豆腐を差し出す
鰹節をたっぷりのせて
ねぎと生姜と醤油を添える
この美しい食べ物を私は伝えねばならないと
使命感に震えるようだった

この四角く、白い食べ物が
いったい何からできているかあなたはご存じ?
鰹が鰹節になるまでの
気の遠くなるような時間と工程をも
私は語らねばならないと
ひどく愛国の人になったものである

祖国に戻り、ピーナツバターがなつかしい今
アメリカの友人からメールが届く

豆腐を食べてます、ブルーベリーのジャムはよく合うわ

異国で生き延びている豆腐たちよ
ブルーベリーのジャムにどうか気を悪くしないでおくれ
君たちは君たちの道を見つけていくしかないのだから

今宵、湯気の中に豆腐をつつきながら
異国の豆腐たちを思っている


2001年09月09日(日) スタッフミーティング

何の変哲もないような景色が家の中から窓枠というフレームの中に入る時、そこに全く別の世界が現れることがある。
今日は礼拝の後で英語学校のスタッフミーティングを、川越のびん沼のほとりにある、「と美多」というギャラリーと喫茶を兼ねたお店で持った。オーナー−は古くから、我々の英語学校の生徒さんだ。
ちょうどフラワーアレンジメントの作品が展示してあり、季節の野菜をアレンジしたものや、山のつるや実をアレンジしたものなど、自然のエネルギーに満ちていた。和室は一方はびん沼に面しており、そこから見える沼のたたずまいが何とも風情がある。自然のままの沼には白鷺が舞い降りていた。水の面は静かで沼を取り囲む植物は別の世界に生きているようにしんとしている。オーナーのTさんはこのびん沼の景色に見せられてここに店を構えたという。

さて、しかし、私たちの今日の目的は10月の末に予定している、ハロウイーンパーティーの計画だ。その時に私たちが見せる" Little Red Riding Hood"(赤頭巾ちゃん)の練習もある 。これはジャズチャンツで(ラップのようなもの)構成されている英語劇で、ラップしたり、叫んだり(?)と他のお客さんの御迷惑になる。お店の離れにはお誂え向きのログハウスもあり、そこでおいしい昼食やデザートをいただきながらミーティングや練習をした。

劇は初めての読み合わせだったが、ジャズのリズムに乗って楽しくやれそうだ。ネイティブ2人と、アメリカの演劇の勉強をし、今も、英語演劇の舞台に立っているMさんと、強力なメンバーが揃っている。主役の赤頭巾は近頃アメリカから戻ってきて、帰国子女のクラスに来るようになった小学校2年生のAちゃん、そしてお兄ちゃんのYくんがハンターの役。始めはスタッフだけで配役を決めていたのだが、クラスの時に彼らにやらせてみたところ、まるでテープの録音と変わらないほどにうまいのである。彼らがせっかく身に付けた言葉をみんなの前で発表する場にもなり、それを見る英語学校の生徒たちにとっても良い刺激になるに違いないと彼らを劇に取り込むことにした。

帰国子女たちは、日本の社会の中で、彼らが外国で苦労しながら学んできたことが何の評価もされない。まるで無かったかのように、彼らの成してきたことや見につけたことが0にされてしまう。それでなくても、日本から外国で生活するようになって、一度は0にされているのに。彼らは赤ちゃんの時からその国で過ごしてきた級友に交じって、新しい自分の言葉とアイデンティティーを1から獲得しなければならなかったのだ。しかし、また自分の国に戻ってみれば、身につけた言葉や習慣はあまりにも違いすぎ、またなかなか表面に出せるようなものでもなく、そのうちに、帰国子女の子たちは日本の普通の子になるために、自分たちが身に付けたことをどこかで否定すらするようになる。社会に順応していくためにはそれも仕方のないことかも知れないが、それはあまりに悲しい。他国で身につけた言葉も、またアイデンティティーも彼ら自身の持ち物には違いないのだから。彼らの日本人ではない、もうひとつのものも出していける場を何とか確保していきたいと思う。

さて、赤頭巾。私は狼にひと飲みにされるおばあさんの役だ。他のメンバーより15も歳が多いのだから、どう考えてもおばあさん役はまぬがれようがない。


2001年09月08日(土) K先生のこと

 今日はK先生に手紙を書いた。PCに書くようになってから、手紙を書くことがとても面倒になってしまっている。ここ一月ほど、書こうと思いながら、書けずに気にかかっていたので、今日便箋6枚に、私や家族の近況を書いて投函した時にはずいぶんとすっきりした気持ちになった。

 K先生は私が17歳の時に、私の通っていた教会に伝道師として赴任してこられた女性の教職だった。彼女は40才になった時、牧師になるべく、それまで20年ほど勤めた職場を辞し、夜間の神学校に5年間通って卒業し、その教会に赴任してきたのだった。それから彼女が他県の教会へ移るまでの2年間、毎週日曜日ごとに顔を合わせ、その他に何かと理由をつけては友達同伴で彼女の貸家に上がり込んでは長居をした。彼女が他県に移ってからは、夏休みや冬休みに彼女を訊ねては数日居候をした。

 考えてみれば、その当時彼女は、私の親と同世代であったが、私は彼女を親やその周辺にいる大人たちと同列には見てはいなかった。私がこれまでに出会ったことのない女性であり、教師だった。きちんとした生活をしている人で、食べることにも、住まうことにも、家事全般に大変なこだわりがあり、また徹底しており、私は相当に大きなカルチャーショックを受けたのだった。また、いわゆるおばさんの世代の人とは思えないような、並々ならない勉強の質と量に圧倒されもした。そんな彼女はまた大変に厳しい人でもあった。その頃、ほとんど惰性のように教会に出入りし、息が詰まりそうな受験勉強からしばし逃れるための避難所くらいにしか教会を考えていなかった私に、彼女は正面から神に対面する態度の甘さを突いてきた。いったいどういう経緯で、その話しがでてきたかは記憶していないが、彼女が言ったことで刻印されてた言葉がある。「Yちゃん、神様はね、熱いか冷たいかどちらかであれって言っている。生温いものは口から吐き出そうって、おっしゃってるのよ。」
ガツンと頭を殴られたようなショックがあった。神への姿勢に留まらず、その当時の私が抱えている様々に形を変えた甘えや生温さが日の元に照らされたように感じた。ぴしりと芯が通っている彼女の前で、若くエネルギーに満ちているはずの私はひどく弱々しく、頼りなく映った。私は彼女との接触の中で、洗礼を受けて別の私として生まれ変わりたいという願望を初めて持ったのだった。

 今私はその時の彼女の年齢を生きている。彼女の生き方の力強さ、甘さのなさにはとても追いつけない自分がここにいる。あの時の彼女のように、頼りない女子高校生に一撃を食らわすことなどできそうにもない。この夏、一年ぶりくらいに電話をしたが70をいくつか超える歳になってもあの凄さはすこしも衰えていないことを知った。日々聖書の研究と祈りを中心に生活している様子が伝わってきた。「あなたのことは毎日祈っているよ。ほんとうだよ。あなたが一所懸命生きているってことはよく分かっているから、私は心配はしていないよ。ただ手紙をよこさないから、何を祈ればいいかが分からないじゃない。私は抽象的な祈りは神様に失礼だと思っているから、できるだけ具体的に祈りたいのよ。だから時々は近況を伝えて。」返す言葉がなかった。まず、近況も知らせない私のことをこれまでずっと毎日欠かさずに祈ってくれていることにパンチを食らった。そして17の時のように、私自身のいい加減さや甘さに一撃を受けた。彼女から言われてしまった。
「主婦の仕事をきちんとやっているの。家族ひとりひとりの食べ物をよく考えて手抜きしないで作るのよ。コンピューターで日記書いてる?そんなことは止めなさい。子どもたちをすっかり育て終えてからやればいいんだから。」

「いいえ、先生が聖書の研究に打ち込んでいるように、私も母親や主婦の仕事だけではなく、自分を育てることがしたいんです。今という時を捕らえていたいんです。」心の中でこう言いながらしかし、本業をきっちりやっていないことがやはり後ろめたい。PCを抱え込んで座り込んでいるソファーの脇にまだ片付けていない衣類の山が私を睨んでいる。


2001年09月07日(金) バリトンリサイタルの夕べ

青戸知バリトンリサイタル、東京芸術劇場にて。
1週間ほど前、古くからの知り合いのM ちゃんからお誘いの電話があった。青戸さんの歌は一度、Mちゃんの結婚式で聞いている。結婚式の暖かい雰囲気と豊かな歌声とが甦ってきた。幸いぎっしり予定の書き込んである手帳がその日だけ何も書き込まれていなかった。Mちゃんにも4月に会ったきりだし、うれしいお誘いだった。

Mちゃんと出会いは20年前に遡る。その時彼女は10才の少女だった。夫と私が所帯を持ち、ここの教会に行くことにしようと定めた教会の牧師の長女だった。夫も私もすぐに教会学校の奉仕をするようになり、私のクラスにMちゃんがいた。凛としていて、自立している少女という印象だった。小さな弟の面倒を良く見、ハードワークをこなしている母親をかばい、また心配している姿に胸が痛んだ。共働きの母を支えていた私の少女時代と重なるものを彼女のうちに見ていたような気がする。その牧師家族は私たちがその教会へ通うようになって一年後に北陸の教会へ赴任していったので、わずか一年間のお付き合いとなったが、その密度はとても濃かった。私たちは日曜日ごとのその牧師の説教を心待ちにし、一言ももらさないように聞き入っていたし毎週の祈り会、聖書研究会にも出席した。我が家で御近所の方々をお招きしてやっていた家庭集会には牧師が自転車の後ろにまだ4歳のYくんを連れてやってきた。夫も私もYくんが大好きで、将来こんな男の子が欲しいと話したりもしていた。私が病気の時やつわりがひどくて臥せっている時、牧師夫人が夕食を作って持ってきてくださったり、いっしょにバザーに出す人形などを手作りしながら夫人から様々な話しを伺った。故郷を離れて親も兄弟もまわりにいない私たちに対してまるで家族のようにおつき合い下さったのである。こうして書いていると、その時の豊かな教会生活が甦ってきて、改めて感謝の気持ちでいっぱいになる。

その家族と再開したのは、それから15年後、Mちゃんの結婚式の時だった。すっかり美しくなったMちゃんに、どれほど感動しただろう。ちょっぴり陰りを見せている大人びたYくんもなつかしい牧師夫妻にも胸がいっぱいになった。それぞれに遠い地で離れてすごしていた長い年月を思い、またそこを通ってもなお繋がっているものを味わいながら、それは感慨深い結婚式だった。芸大のオルガン科を卒業したMちゃんの仲間がそれぞれに歌や楽器の演奏をし、式に続くパーティーはコンサートのようだった。パイプオルガンを弾くMちゃんは牧師夫人になり、そしてお母親となった。私たちは時折り会って、それぞれの家族のことや教会のこと、音楽のことなど話しをするが、彼女に会う度に大輪の花がさらに大きくなっていくように見える。

青戸知氏のリサイタルはすばらしかった。欠けのない豊かな歌声だった。何の曇りも陰りもない安定した彼の声の中に安心して身を置くことができた。どこか悲痛なものを内に持つシューベルトの歌曲でさえも彼が歌うと陰りのない満ちた歌になる。音楽の世界の内側をそれほど知っているとはいえないが、音楽への道は非常なまでに厳しい。激しい競争や、たゆまない練習、厳しい芸術性の追求。ステージに立つ演奏家の背後に通ってきた苦しみが見えることがある。そのことは魅力でもあえうが、時として聞くものにも緊張をも強いる。しかし、このコンサートで私は少しも緊張することがなかった。むしろ体をマッサージ師に預けているような心地よさに我ながら驚いていた。この安心な気持ちはどこからくるのだろうと。演奏家のパーソナリティーの賜物なのだろう。奥様も声楽家と聞いている。それにしても彼の所属する教会は日曜日ごとにどんなに豊かな讃美がなされることだろう。




2001年09月06日(木) ビョークが好き

なぜ、ビョークが好きなのだろう。
若い頃は別として、この20年くらいはクラシック、それもルネッサンス、中世の歌曲や、グレゴリアンチャントしか聞かなかった。夫や息子たちが家に持ち込む「今の時代の音楽」にはおよそ興味がなかった。それなのに突然 ビョークが好きになった。ロックのCD売り場に足を踏み入れるようになった。

ビョーク の作る音楽が好き、言葉が好き、ファッションが好き、歌い方や声が好き、理由はいくらでもあげられるが、一番の理由は私の本性ともいうべきものがビョークのそれととても似ているからだ。ただ彼女はその部分を彼女の音楽や言葉や生きざまに注ぎ込んでいるが、私のそれはかなり深いところに息を詰めるようにして隠れてきた。その部分はいわば、わたしのかなり内向的な部分で人がいると別の私の陰に隠れてしまうほどの内向さだ。それが、ダンサ−・イン・ザ・ダークの中でセルマとなった彼女に会った時、誰の目にも触れないように隠れていたもうひとつの私が現れてきたのだった。常識を無視する、大人であろうとしない、時に破壊的、自分の感性を何より大切にし、本能の趣くままに生きようとするもうひとつの私がある。

ある時、まだ子どもだった頃、私は私の本性に怯えていたような気がする。社会に容認される人間、できれば尊敬される人間へと向かって痛々しく努力を重ねてきたような気がする。そこには私の本性に対する誤解もあったのだ。私はそれを悪魔的、神に反するものと考えていたが、むしろ神へと向かうもの、肯定へと向かうものだったということがその時は分からなかった。mG (夫)に会った時、一度私は隠れていた私を明るみに出すことができた。私が私のままで受け入れられる場所があることを知ったことは大きな出来事だった。それでもやっぱり私は良い母、後ろ指を指されることのない大人に向かってまた痛々しい努力を重ねることとなった。だれもそれを要求しなかったというのに、、、。子育てにはそれが不可欠と思ったし、それはそうだったのだろう。

もう子育てが終わろうとしている時期にさしかかっていたこともあったろう、ビョークとの出会いが引き金になって、私は隠れていた私を引きずり出す作業を始めた。まずは言葉が出てきた。その言葉を自分の外に出したくなった。自分の表現が優れていなくても、完成されたものでなくても、私を私のままの顔で外に出すことを課題のように思った。これが私、後ろ指でも何でもどうぞと強いのである。自分をさらけだされたりしたら迷惑よ、と言われても、あまり堪えないほどふっきれているのである。ビョーク のようなアーティストの資質はなくても、彼女の言う「いつもわたしは神と本能に動かされているんだから」という歩き方を自分に許してあげたいと今は思っている。

新しいビョークのCD「ヴェスパタイン」はこれまでになく内面的だ。聖域、祈り、内側、隠れた場所、など自分の内側へと降りていく言葉があちこちに見えるし、何より音が内向的だ。ますます、世界は近い。彼女の中にあった内向性を私は本能的に感じていたことに気づく。私が隠れたところから出てこようという気になったのも、隠れたところを持つ彼女故だったのだ。9月号のCutに掲載されている彼女へのインタビューで、ダンサ−・イン・ザ・ダークの中で彼女がセルマを擁護したのは彼女自身の内向性を弁護することだったのかもしれないと語っている。

ところでグレゴリアンチャントを聞く私にはうさん臭そうな目を向けていた息子たちが、ビョーク となると、ちと違う。ビョークのCDを買ってきてくれたり、友達からビデオクリップ集を借りてきてくれたりとえらく協力的である。先日、次男が学校帰りに、ビョークの新しいCD、買ってきてあげようかと電話してきた。彼らは私の歩調の変化を好ましく思っているのだろうか、そろそろ自分たちを支配しようとする母親が疎ましく思え、別のものを求める時が来ていたのだろうか。良くは分からない。


2001年09月05日(水) 「お皿洗い」がテーマの英語クラス

昨日から1ヶ月の夏休みが明け、クラスが再開した。火曜日と水曜日の2日間で「幼児とお母さんのための英語クラス」を3クラス、帰国子女の2人の兄妹のプライベートレッスン、小学校6年生のクラス、合わせて5クラスを受け持っている。
幼児とお母さんのクラスでは一年を通して、日常の生活のそれぞれの場面をテーマにしていて、7月は「お洗濯」だったので、洋服や身につけるものを英語で言い、また色や数の英語も学んだ。そして9月のテーマは「お皿洗い」。テーブルの上にお皿やコップ、ボール、フライパン、などなどの食器を並べ、英語で言ってみる。お母さんが、ふきんを片手に、" Let me dry a cup." 「カップを拭かせて」と子どもたちに頼むと、子どもたちは " Here you are." と言いながらお母さんにカップを手渡す。単純なことだが、子どもたちは自分の順番を待ちながら、けっこう乗ってきた。いろんな食器があったが、何度もやるので、すっかり英語の言葉が聞き分けられるようになったようだ。わんぱく坊主のTくんは、どうしても、お母さんの役をやって、食器を拭きたいと聞かない。それじゃあ" Let me dry a ○○○." って言わなきゃだめだよ。というと、お皿を拭きたい一心で、回らない舌でそれでも、けっこうそれらしくしゃべっていた。
このクラスの目的は英語を教えることではなく、英語という言葉を体験することだ。もし、その体験がおもしろければ、家でお母さんと子どもで英語でやりとりをするかもしれない。言葉は教科書や先生から学ぶのではなく、毎日の生活の中から学ぶのでなくてはと思うのだ。さて、家で、子どもたちは覚えた英語とテーブルの食器を結び付けているだろうか。お母さん方は" Let me dry a cup." と言いながら、子どもたちにお手伝いをさせているだろうか。来週はこの「お皿洗い」をどう発展させようか。絵本や歌も探しておこう。


2001年09月04日(火) 木の言葉、風の言葉

今日はすでに9月6日、なかなか今日に追い付かない。それでも、過ぎた日々を無視できないのは、そうすると永遠にその日は記憶から消えてしまうから。このところの忘却の速度はずんずん加速している。すること、読むこと、聞くこと、どれほど印象が深いことでも、他のことをやっている内に印象が薄れてくる。

さてここには昨日の「植物と話す人」の続きを書くことにしていた。
もうすでにここでも書いたような気がするが、植物と無関係に生きていた私がというより、ありとあらゆる花をすぐに枯らしてしまっていた私が、ある時 突然かわった。植物との通路が開けたことを知ったのだ。「魂との対話」の著者のマイケルのように植物からの語りかけが直接聞けるなどというのではないが、植物が能動的に人間に働きかけていると、また人間の思いも植物に伝わると感じ取ってしまった。そういう目でこの世界を見渡すと、自然はとてつもないものとして私に迫ってくる。何かは聞き取れないものの、木々や草原や花々からはさかんにメッセージが送られてくるようである。その国の言葉は分からなくても、その人の語るエネルギーを受け取り、そこに交流が生まれるのと同じように、私は植物が発しているエネルギーを受け取っている気がした。
だから、この本の作者が実際に植物からのメッセージを、それを聞けない我々に向けて書いてくれたその作業に感謝しこそすれ、作り話しだなどと思うことはできない。なんとひっかかりやすい人なんだと言われそうだ。そうかも知れない。でも、信じられるか、信じられないかなど、議論する時間はもったいない。これまでにも目には見えないこと、聞こえないことを信じてきたのだもの。植物や風や岩が語った言葉をわたしは喜んで受け取ろう。
あまりにもたくさんの言葉があって、とても書ききれないし、覚えきれないけれど、そこへと辿り着く道しるべのようにいくつかの言葉を残しておこう。
木や花や川は著作権のことで文句をいったりしないでしょ。それを翻訳したマイケルさんと、飛田妙子も載せてはダメなんて言わないと思うので。

木が話したこと
 <、、、あなたが意識して、植物にでも自然界のどんな種類のものにでも、思いを発すれば、あなたがたの光りがほとばしるのです。距離も時間もこの結合をくずすことはできません。私たちはこの真実をあなたに見せてあげることができたのだから、あなたはたやすく疑いを捨てることができるでしょう。、、、、認識を広げ・・・・理解しなさい>

バラが話したこと
 <枯れるバラを悲しまないでください。私は死ぬけれど、生きるのです。なぜなら、私はこの庭のバラであると同時に、すべての庭のすべてのバラであり、すべての花瓶のすべてのバラでもあるからです。私の花びらはすっかり乾いてしまいましたが、もしあなたの愛がなかったら、私は一日で枯れていたでしょう。見てください。花びらは一つも落ちていません。
植物の世界を愛してくれる人のエネルギーには、栄養が入っているのです。だからあなたは私に栄養を与えてくれたのです。私は薄れゆく光りの歌を歌いますが、でも、私はこの見えない光りの中にいるのですよ。物質的な死など、問題ではありません。死はいつも私たちといっしょにいる伴侶ですが、死に意味はないのです。死とは「生命がない」という意味ですが、これは正しくありません。形だけ、物質的な殻だけが屈服するのです。
生命は永遠です。常に存在し、常に広がっています。
私は、花の輝きの中にいます。あなたの存在の光りの中にも、私は永遠に生きているのです。
私たちのエネルギーは交じり合い、あなたの中で私は完全になるのです>

川が話したこと
<、、、、、きみが人生を探さなくても、人生のほうがきみを求めてくれるだりう。ここで逆接が現れる。たえず動いている生活を送っていても、「昨日の」目で物事を見ていると、動きや変化を拒んでしまう。小さな土地に建つ家に住み続けていても、「今日の」目であらゆる生命の動きを見ていれば、君は開かれた窓となり、人生はそこからいつも新鮮で新しく流れていく。
遠く広く歩き回り、動き続け、常に意識を働かせ、心を開き、あらゆる生命を「この瞬間の」視点で見ている人には・・・・人生は祝福されたものになる>

それにしてもこうして書いてみると、これらの言葉は始めて聞いた気がしない。ぼんやり窓の外を見ている時、田舎道を自転車で飛ばす時、いつもいつも押し寄せてきていた言葉ではなかったろうか。私は私の内から聞こえてくると思っていたが、あれは自然から送られてきたメッセージだったに違いない。


2001年09月03日(月) 植物と話す人

この日は上智大のキャンパス内にある、聖三木図書館に行く予定で一月前からカレンダーに書き込んでいたのに、行くことを取り止める。久々に体調が悪い。風邪の兆し。
図書館には電話で延長を申し込む。
返そうとバッグに入れていた本を取り出すと1冊途中まで読んでそのままになっている本があることに気が付いた。
「魂との対話」原題はTalking with Nature。著者はマイケル・J・ローズ
オーストリアの作家だ。原題の示す通り、彼はある時から、植物と話しができるようになった。
しかし、これはファンタジーではない。ノンフィクションなのだ。
おおよそ、人が信じることができないことを前に彼は苦しんだ。
誰も信じてくれないことを書いて世に出すことを恐れた。その思いが伝わってくるから、私はそれはほんとうなのだろうと読みすすめていった。
不思議な体験だった。
そして私は、すでに植物からさまざまに支えられてきた私は
やっぱりそうかという思いに至ったのだった。


2001年09月02日(日) 目覚めてわたしを知ることを

今日の聖書日課  <エレミヤ9章22〜23>

主はこう言われる。
知恵ある者は、その知恵を誇るな。
力ある者は、その力を誇るな。
富ある者は、その富を誇るな。
むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい
目覚めてわたしを知ることを。
わたしこそ主。
この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事
その事をわたしは喜ぶ、と主は言われる。

謙譲の美とか、謙遜という言葉が私は好きではない。これに附随する「能ある鷹は爪を隠す」とか「沈黙は金なり」といった諺にもふっと心が曇る。考えてみれば、私はこの日本で育ちながら儒教的な思想が肌に合わないのだ。
ところが、同じことをエレミヤから「知恵を誇るな」「力を誇るな」「富を誇るな」と言われれば、私はたちまち素直にそれを受け入れることができる。
儒教や、日本の社会で徳とされる「謙遜」とこのエレミヤの言葉との差は何なのだろうか。聖書は「誇るな」というが、それは誇るべき方がまず存在するからだ。その方の前では、どんな知恵も、力も、富もなきに等しい。神と対比した人間というところで「誇るな」と言われるのである。説得力がある。一方「謙遜」というのは比較の対象がとても曖昧だ。人の中にあって自分を高くするなということなのだろうが、それは人の中で生きるための方便という匂いがして、真理からはどこか遠いような気がする。
エレミヤはさらに誇るのであれば、目覚めて主(神)を知ることを誇れという。この「目覚めて」という言葉が好きだ。神を見る眼差しは目覚めたものでなくてはいけない、様々なものに覆われていたのでは神が見えないのである。知恵も、力も、富も時として「目覚め」の邪魔になる。何をも誇らず、何をも後ろ楯とせず、裸のままで主の前にすっきりと立つ、そんな日々を送りたいと思う。


2001年09月01日(土) 9月はじまる

秋が始まった。
アメリカでは9月は始まりの時。
入学式も始業式も9月。町には”Back to School”の看板があちこちで見られ、文房具用品などのセールが行われている。
2ヶ月あまりの長い夏休みのグ−タラから足を洗い、日常の生活へ向けて「さて、やるぞ」と、気合いを入れる時である。
日本では夏休みは年度の真ん中だから、一年分の気合いを入れる必要はない。「さて、あと半分だ」と、半年分の気合いを入れる。
今日は土曜日で仕事もないから、次男を学校に送り出した後は、またベッドに戻ったりとまだまだ休み気分が抜けないでいた。それというのも今年大学生になった長男は9月末までが夏休みで、休みモードを色濃く振りまいているからだ。いずれにしろ、もう宿題のことで頭や気を使わなくてもすむ9月1日は有り難い。
今日、私のなすべきことは家事をのぞいては夕方の教会での「讃美と祈りの会」の司会だけだ。準備するにしても、たっぷり一日ある。
頼まれていた原稿を書いたり、祈りの会の準備をしたりしてすごす。
祈りの会はレギュラーのメンバーのうち、3人が来られず、3人だけの集まりとなったが、かえって深い話ができてよかった。祈っているうちに心の底にしまっていた痛みが浮び上がってくることがある。そういう痛みは涙といっしょに口にして自分の外に出すことで様子が違ってくることがある。もう痛まなくなったり、軽くなったり、あるいは痛みの正体が見えてきたり。日常の中で押し殺している感情を解放する場にこの「祈りの会」が用いられるのであればうれしい。


たりたくみ |MAILHomePage

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