たりたの日記
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2001年10月31日(水) “霊性”(スピリチュアリティ)を育む

今朝、龍村仁事務所から、地球交響曲第4番の企画意図の転載の許可をいただいた。読む度に胸を打つ。
どの文も意味深くすっかり覚えてしまいたいくらいだが、最後の
「子どもたちの“霊性”を育むのは、映画そのものではなく、子どもたちの日常に直接触れている大人たちの中の“霊性”であるからです。」
という言葉は何か私の日常を変えるほどのインパクトを持つ。なぜ子どもたちとかかわりたいと思ってきたのか、今接する子どもたちと私はなにを共有したいと思っているのか、漠然としていたものがくっきりとした輪郭を伴って見えてきたからだ。
私自身が大人たちの”霊性”によって育まれたように、私は子どもたちに”霊性”を育みたいと願ってきたことを知る。

今日も子どもたちの前に立つのだと思い、背筋がぴりっとする。

<転載>

21世紀に生まれ育つ子どもたちのために
映画監督 龍村仁

21世紀は、人類のあらゆる営みの基盤にやわらかな“霊性”(スピリチュアリティ)が求められる時代になって来ると思います。教育、文化、芸術の分野ではもちろんのこと、従来は“霊性”とは縁遠いと思われていた政治、経済、科学などの分野でも、それが最重要な課題になってくると思うのです。なぜなら、“霊性”を持たない人類の営みが、我々人類だけでなく、この地球の全生命の未来を危うくしていることに、もう誰もが気づき始めているからです。

“霊性”とは、私たちひとりひとりが、日々の何気ない営みの中で、
「自分は、母なる星地球(ガイア)の大きな生命の一部分として、今ここに生かされている。」ということを、リアルに実感できる、その力のことをいうのです。

自分の内なる“霊性”に目覚めることによって、人は謙虚になります。
日々の出来事に対して、感謝の気持ちを持って対処できるようになります。
自分以外の生命のことを、本気で考え、行動し、祈る、ことができるようになります。 遠い未来を想い、遙かな過去を感じる力だって増してくるでしょう。
見えないものを見る力、聴こえない音を聴く力だって甦ってくるかもしれません。そしてそのことが、結局、自分自身を最も幸せにするのだ、ということに気づき始めるのです。内なる”霊性”に目覚めるのに、必ずしも旧来の宗教が必要だとは思いません。

21世紀に生まれ、育つ子どもたちにとって、“霊性”に目覚める道は無限にあります。科学、芸術、スポーツ、教育、経済、政治・・・・、
100人の人がいれば、100通りの道がある、というのがこれからの時代でしょう。

ただ、確認しておかなければならない大切なことが、いくつがあると思います。まず第一は、「全ての人の中に“霊性”の芽が必ずある」ということへの揺るぎない信頼です。この信頼があってこそ、“霊性”に目覚める無限の道が開けるのです。

そしてもう一つは、「この“霊性”の芽は、育まなければ開花しない」ということです。“霊性”と“自我”は同じ力の裏と表です。人間に与えられた最大の特性です。放っておけば「自分さえ幸せであればよい」という方向に向かう力です。だからこそ、“育む”ことが必要なのです。
ただ、その為に簡単なマニュアルはないでしょう。
なぜなら、“霊性”は究極的には、ひとりひとりが、自分自身の力で、自分自身のやり方で開花させてゆくものだからです。

だとすれば、21世紀に生まれ育つ子どもたちのために、今の私たちに何ができるでしょうか。私は「地球交響 曲」という映画を通して、世界の何人かの人々の生き方、考え方を提示し続けたいと思っています。

彼らの生き様が、子どもたちの“霊性”を育むのに役立つか否かはわかりません。 ただ、「子どもたちの中に必ず存在する、内なる”霊性”を激励する」という強い想いを持って、この映画を作り続けます。必ずしも、直接子どもたちに語りかける、という手法はとりません。 なぜなら、子どもたちの“霊性”を育むのは、映画そのものではなく、子どもたちの日常に直接触れている大人たちの中の“霊性”であるからです。



2001年10月30日(火) 地球交響曲第4番

地球交響曲第4番のロードショーが10月28日より青山スパイラルホールで始まった。11月17日には上映会の後龍村仁監督の講演があるということが分かったので空席の問い合わせをしたが、もう手に入らないかもしれない。出遅れてしまった。私はだいたい情報に疎い。けれども、ほんとに必要なものは不思議なように不思議な方法で届くのであるが、今回もそれを体験した。

数日前のこと、もう25年以上も会っておらず、どこでどうしているかも知らない中学校時代の友人の夢を見た。翌日またその友人が夢に出てきた。ほとんどどういう夢かも覚えていないのだが、夢現の中で、私はその友人の名前をネット検索しているのである。はっきり目が覚めてから人の名前がネットで出てくる訳はないと思ったものの、疑いつつも検索にかけてみた。ところが名前は出てきた。「ひとコマスポンサー」というリストの中に掲載されている名前だった。そして「ひとコマスポンサー」というのが、地球交響曲第4番のひとコマのオーナーになって制作費を支えるというプロジェクトだったのだ。なんとも不思議な導きだった。

この映画の企画意図として監督が書いた文を衝撃にも近い思いで読んだ。「21世紀に生まれ育つ子どもたちのために」と題された文はその言葉のひとつひとつが私が出会いたいと思っていた言葉であった。私の内にありながら表現するすべがなかったことがら。
龍村監督は21世紀に育つ子どもたちに”霊性”を育てる必要性を説いているがその中の
『「全ての人の中に“霊性”の芽が必ずある」ということへの揺るぎない信頼です。』
という文にはっとする。この言葉のなかに、私が歩んで行こうとしている方向、こうしてここに日記を書いていることも含めて、私の願いや祈りが言い表わされていると思った。この深い感慨を表わす言葉が見つからないがこの出会いを感謝している。これからもっと知ることになるのだろう。出会いはまだ見えてはこない様々なことを含んでいるのだろう。

その企画意図の全文を私自身のために、またこれを読んでくださる方のために
転載させていただきたく、公式サイトにメールで問い合わせをしたが、全文はここで読むことができる。

http://www.gaiasymphony.com/g4.html


2001年10月29日(月) 原爆展

北九州で小学校の教師をしている義姉から東京で原爆展が開かれるというメールが届き、掲示板にも書き込みがあった。それによると10月28日から11月4日まで、横浜、府中、町田と開かれるということだった。今週は土日も含めて丸一日空くという日がなく、見ることはできても手伝うことは無理だと残念だった。
ところが昨夜、原爆展の主催者で、義姉の友人のMさんに問い合わせると、なんと明日は大宮で行う予定だという。大宮であれば、今日は夕方のクラスだけだから朝から3時まで手伝うことができる。どなたとも会ったことはないが、平和を創るために労している人たちであればそれだけでいっしょに働けるという気がした。私は一足先に大宮へ行き、車を待った。駅の前の大型歩道橋。いつも通っているものの、立ち止まったり、そこにあるベンチに座ったりすることはなかった。ここは駅から次ぎの場所に向かうために足早に移動する所以上の何物でもなかった。ところが他に何も目的がなくて、車の到着を待ちながらそこに座っている何かその場所がまるで違った場所になるのが不思議だった。人がよく見えるのである。通り過ぎて行く人も、となりでコンタクトレンズのちらしを配ってる人もティッシュを配っている人も、ゴミを集めたり、その近辺の掃除をしている人も、今までは目に映っていなかったことがわかる。何も見ないで、ここをただ移動していたのだ。

歩道橋の上から下を見下ろしていると、原爆展と書いた、黄色い看板が目に入り、みなさんがいらしたことが分かった。原爆展をやっている人達は、パネルなどの展示物を車に積んで下関からはるばる来ていらっしゃるのである。Mさんにも初めてお目にかかったが暖かい包容力のある女性だった。また他の方々も呼び止められたら、話しを聞いてみようかという気にさせるようなゆったりとした時間を持っている方々だった。自己紹介もそこそこに、大宮駅西口のコンコースのところにブロックとプラスチックのポールを組み立てパネルを通し、かなりインパクトのある野外展示会場ができた。折り畳み式のテーブルには署名用紙、書籍などが並べられた。風が強いのが気になるが、空は高く晴れわたり、気持ちのいい秋の陽射しだ。

パネルは「原爆と峠三吉の詩」と題された55枚のパネルで、これまでに見たことのある写真もあったが、初めて見るショッキングなものもあった。峠三吉の詩も知らないものがほとんどだった。
「原爆手展をやっています。」と言いながら駅から出て来る人にちらしを手渡すのだが実に様々な人々、様々な反応だった。一番多いのが目を合わせようとせず、何も聞かなかったかのごとく、誰もいないかのように無視するタイプ、このタイプにとってはわれわれは透明人間でしかない。一応ちらしを配る人を認識はするが、関係ないですというサインを出すタイプがそれに続く。チラシを受け取る人は思ったよりも少ない。ゆっくりと独りで歩いている人、年輩の人は比較的ちらしを受け取ってくれ、パネルの前に立ち止まって見ていた。ちらしを受け取る、受け取らないは別として、パネルの前は多い時には10人以上の人が見ており、話しかけてきたり、署名やカンパに協力してくれる人も少なからずいるようだった。金髪の若者たちがかなり長いことパネルを見ていると思ったら、Mさんと何やら話しているようだった。私は見るからに飛び入りと分るのかあまり話しかけられなかったが、他の方はちらしを配りながら、あるいはパネルを見ている人たちと話をしている姿が見られた。

戦争がどんなに非人間的なものか、日本に投下された原爆は何よりもそのことをはっきり示しているように思う。被害者意識だけを強調したくないし、アメリカを責めるということも本質をそれてしまうような気がする。原爆のことがらは人類全体の過ちであると認識したい。そのような過ちを再び私たちが犯すことがないように、私たちは繰り返し原爆のことがらを思い起こし、今の時代で原爆の問題を新しく読み解かなければならないのではないかと思う。原爆のことは米国多発テロの後、また新しい意味が加わったという気がする。原爆の間違いを私たちははっきり追求することをしないまま、アメリカから援助だけを受け取り「友好」な関係を築いてきた。そして今だにその関係は尾を引いている。日本のどこかきっぱりとした態度が取れずに、アメリカの顔色を伺うといった有り様が今回のことでも露になった。ここにも解さなければならない絡まった糸がある。



2001年10月28日(日) 大学芋の思い出

芋、栗、カボチャがおいしい季節になった。2日ほど前、母から栗の渋皮煮と、マロングラッセが冷凍便で届いた。マロングラッセは父がお世話になっている病院の看護婦さんや看護士さんに食べてもらうために毎年たくさん作るというので、私にも送ってとたのんだのだった。手間暇かけて作ったこれらのもの、一度に食べてなるものか。ひと粒づつ味見をして、そのまま冷凍庫にしまった。母はこの時期にこしらえた栗の渋皮煮をお正月用に取っておいく。我が家の冷凍庫のスペースが許す限りしまっておこうと思う。それにしても冷凍庫は超満員の状態だ。たこやきの他には大学芋が場所ふさぎになっている。最近は大学芋は冷凍に限ると思っている。外側はぱりっとしていて中はほくっと柔らかい。お弁当の隙間を埋めたい時に重宝する。凍ったままを入れれば、自然に解凍するのだから。

冷凍の大学芋のことを父が知ったら何というだろうか。大学芋くらい自分で作れというだろうか。父はきっとこう言っただろうな。「お父さんが作ってやろうか」と。子どもの頃、父はよく大学芋を作ってくれた。それも我が家ではとうてい食べきれないほどの量の芋を皿に何枚分も揚げこれも大量に煮詰めたたれにからめた。それにしてもあの大量の大学芋はどうしたのだろう。冷凍庫などなかった時代である。きっと御近所に配ったのだろう。

この大学芋で大変だったことがある。私が小学校2年生の10月に下の弟が生まれた。まだ母と赤ん坊が病院に入っていたある日、父が大学芋を作った。そして、どういう訳か、私とすぐ下の弟がその芋を持たされて、長い道のりを歩いて母のいる病院まで持っていくことになったのだ。父は鍋2つに作ったばかりの大学芋をぎっしり詰め、蓋をして風呂敷で包んだ。
弟が一つ、私が一つ持ったのだが、いくらも歩かないうちに重さがこたえはじめた。坂道を降りたところで、二人とも手から鍋の包みを降ろして、痺れた手を振ったりしなければならなかった。私は弟の鍋が私のものより小さくて軽いのを知っていたので、弟をうまくだまくらかして、私の包みと取り替えっこしたらしい。そこいらのことを、作文に書いたのを覚えている。作文によれば、姉なのに、弟をだまして、重い方を持たせたりして悪かったと反省し、また取り替えっこしたらしい。とにかく無事に病院にたどり着いた。母はどんな顔をしたのだろう。私と弟はそれからどんなことを母に話したのだろう。そういうことは作文にも書かなかったから、思い出す寄すがもない。

それにしても、こんなにたくさんの大学芋を母がみな食べたとは思えない。そんなにたくさん持っていく必要があったのだろうか。またそれほど重いものを小さな子ども達に運ばせて自分は何をしていたのだろうかと今になってみれば不思議に思う。きっと、同じ病室の人や看護婦さん方に差し上げるつもりだったのだろうし、実際そうしたのだろう。父の大学芋をみんなが喜び、感心したに違いない。ところで、父はなぜいっしょに病院にこなかったのだろう。父は私たちに持っていかせた後も延々と芋を揚げていたのだろうか。なんだかそんな気がしてくる。

今も実家の台所にはきっとどこかからもらったさつま芋が袋いっぱいはあるに違いないが、子どもの頃も買ったお菓子などはあまりなくても、さつま芋はどっさりあって、処理に困るほどだったような気がする。畑をやっていたわけでもないので、どこからかいただいたのだろうが。さつま芋は嫌いではないが、どうしても買う気にはなれない。大学芋は確かにおいしいが2、3個も食べればお腹が膨れる。冷凍のものを買っておいて必要なだけ解凍して食べる方がいいと、大学芋を作らないのは、どこかであの重い鍋の大学芋が災いしているのかもしれない。

ところで下の弟が生まれた日のこと。病院から生まれたという知らせの電話があった。当時は自宅に電話を持っている家などほとんどなく、電話局に勤めている人の家の軒先きに公衆電話があり、電話がどこかからかかってくると、そこの家の人が家まで呼びにくるというしくみになっていた。弟が生まれたという知らせもそんな風に届いたように記憶している。知らせを受けてすぐ、私たちは病院に向かった。夕方だった。父を真ん中にして私と弟が両脇にくっついて病院まで歩いていった。男か女かはまだ分かってなかったのか、それとも私たちには隠していたのか、父は歩く道々、弟と妹とどっちがいいかと私たちに聞いた。私は女の子がいいといい、弟は男の子がいいと言った。

病院についてみると、待ち合い室が人だかリで、なんだかひどく熱気がある。時は東京オリンピックの頃、東洋の魔女と言われた日紡の女子バレーチームの金メダルをかけた闘いの最中だったのだ。それが分る前は弟は生まれたのでみんなが集まっているのだと思っていた。ところが看護婦さんはテレビの前から立ち上がると、私たちを賑やかな待ち合い室から離れた人気のない病室の廊下に連れていった。その廊下の隅に赤ん坊が入れられたワゴン車がほつんと置いてあった。我が家の赤ちゃんをみんなが取り囲んでいないのが口惜しかった。生まれたての赤ん坊は絵本などに載っているキューピーちゃんみたいではなく、真っ赤で、くしゃくしゃな顔をしていた。しかも女の子ではなかった。弟は勝ち誇ったような得意な顔をしたので、私はなんだか負けたようで悔しかったのを覚えている。しかし赤ちゃんの顔はすぐに白くお人形のようになって、私は世話もしたが、生きているお人形のように小さい頃の弟を楽しんだような気がする。

東洋の魔女達はオリンピックで優勝し、また他の種目でも日本人の活躍が伝えられ、日本中が何か沸き立っていた時ではなかっただろうか。父は赤ちゃんは東京オリンピックの最中に生まれたのだから、平和の和と五輪の環の2つの意味を持たせて和という字を入れようと提案した。終戦から20年近く経ち、日本はすっかり平和な国となって再生していた。そして、ますます豊かになっていった時代だった。おもちゃや絵本、お菓子、テレビの番組、私と上の弟が育つ時とは比べ物にならないほど豊富になっていた。世界、一部の世界はその後もますます、豊かに便利になった。でも今世界の平和はぐらりと揺らいだ。
明日誕生日を迎える下の弟のところには幼稚園に通う男の子が2人育っている。上の弟のところには三人目の男の子(おそらく)が生まれようとしている。平和な世界にしていかなければ。


2001年10月27日(土) ハロウィーン子ども大会

英語学校の秋のイベント、Halloween Fun、ハロウィーン子ども大会が無事終わった。
今年の春、今年は子どもの活動を充実させようと夏のキャンプと今日の ハロウィーン子ども大会を計画し、スタッフ で英語でのジャズチャンツミュージカルのLittle Red Liding Hoodをでやろうということを決めていた。これは、つまりラップでやる英語劇の「赤頭巾ちゃん」だ。

9月に入ってから練習を始めた。この春にアメリカから戻ってきたばかりのA
ちゃんに赤頭巾ちゃんを、お兄ちゃんのY君はハンターをやってもらうことになり、残りの役をアメリカ人と日本人の教師4人と英語学校に通うお母さま方で受け持った。子どもたちは一週間で英語の長ったらしいセリフも覚えてしまい、演技も映画出られるのではないかしらと思うほど上手で、短い2、3言ですむおばあさん役の私の方がオタオタする始末だった。英語学校のマネージメントをしているMさんはアメリカで演劇の勉強を専門にやってきた人なので、さすがオオカミはプロ並、練習も本番も楽しませてもらった。礼拝堂の中央にベッドとテーブルとイスを置くとにわか舞台が出来上がり、衣装もそれぞれにあるものを利用したり手作りしたりとあまりお金や手間をかけずにそれらしい感じになった。

さて、リハーサルが終わると、様々なコスチュームをつけた子どもたちがバッグとキャンディー持参で教会にやってきた。りんご、パイナップル、ハムスター、おひめさま、悪魔、魔女、牛、大臣、あんぱんマン、どれみちゃん、
と様々。私は黒い魔女のとんがり帽子をかぶり、竹ぼうきを持って魔女になる。予定の時間には40人近くの子どもたちと15人ほどの父母が集まった。赤頭巾ちゃんのA ちゃんのところはお母さん、お父さん、おじいちゃん、おばあちゃんと御一家で参加してくださった。

始めはみんなで手をつないで大きな円をつくり、英語での「大きなくりの木の下で」を歌い、ステップを踏みながら ハロウィーンの歌を歌う。
私の創作の ハロウィーンチャンツ(ラップのようなもの)をみんなで唱える。
その後、劇、ゲーム、コスチュ−ムコンテストと続き、最後はTric or Treat
でしめた。

アメリカやヨーロッパの子どもたちは ハロウィーンの日、様々に変装して近所の家のドアを叩いて、「トリック オア トリート」(いたずらか、もてなしか)と叫ぶ。家の人たちは小袋にキャンディーを詰めたものなどを用意して子どもたちの訪問を待ってくれているのである。凝った家は家の前の庭に墓場に見立てて、棺桶から半分のぞいた骸骨の模型を飾っていたり、かぼちゃ頭のかかしのディスプレイや、薄気味悪い音楽まで流している家もあり、この日は何かどきどきするような非日常になるのである。そして子どもも大人もその気分を楽しむのだ。

この「 トリック オア トリート」の気分を子どもたちに少しでも味あわせたいと模擬 トリック オア トリートをやる。教会のそれぞれの部屋の中にお母さん方にキャンディーを持って待っていていただき、子供達がやってきて、
”Tric or Treat”と言うと”Happy Halloween! ”と言いながら、キャンディーをバッグの中に入れる役をやっていただいた。子供達は7つの場所で
トリック オア トリートができ、自分が持ってきたキャンディーの代わりにいろんな キャンディーをもらったのである。

大人には及びもつかないことを子どもたちが夢中になることは多々あるが、私はこのキャンディーをもらって歩くというのはどの子も間違いなくわくわくすることだという気がする。わいわいがやがや教会中がキャンディーをもらい歩
く変装した子どもたちで溢れているのを見るのは楽しかった。英語の時間に習った言葉は忘れても、今日のわくわくした気分はきっと心に残るに違いない。


2001年10月25日(木) 交際開始記念日

10月26日、晴れ。
ビョークのヴェスパタインを聞いている。
コーヒー、今朝のは特別。昨日、スーパーの隣のコーヒー屋さんで手に入れた
100g400円の上等。いっしょにヨガをやっているMさんのお店。素敵な陶器や乾燥ハーブも置いてある素敵なお店。割れてしまった私の気に入りの茶わんと同じものがあるかもしれないと久し振りに訪ねる。茶わんはテーブルに置いてあったのを上の息子が床に落っことしたのだ。「私の気に入りの茶わんを勝手に使ってよくも割ってくれたわね。弁償してちょうだい!」と一応はすごむ。彼が動くとそれに伴って、物が壊れる事がしばしば起る。しかし、これはおそらく私の遺伝子。彼も薄々そのことに気が付いているから私が叱ってもあまり効き目はない。私のこと、おとおいの朝、トースターのコードを足にひっかけてしまった。トースターは中に焼きかけのパンを入れたまた派手に床に落っこち、とうとう壊れてしまった。これまでに少なくとも5回は落っことされているから、いよいよということになったのだ。ごめんなさい、トースター。家族はまだこのことに気が付いていない。

話しをコーヒー屋さんに戻そう。果たして気に入りのお茶碗はひとつだけあった。この店は茶わんや皿、コーヒーカップなど、日本各地の焼き物を集めているので、セットではなく、ほとんど一点かせいぜいペアでしか売っていない。
この前来た時に素敵ながらとかたちの夫婦ちゃわんがあって求めたのだった。男の茶碗の方が大きい夫婦○○は本来好きじゃない。色は違ってもサイズは同じであってほしい。だいたい私の方がいっぱい食べるのだし。しかし、このおちゃわんは大きさに格差があっても欲しいと思えるほど気に入った。だから、店先に割れた方の茶碗がひとつだけ残っていたのはラッキーだった。きっとどこかのお宅では男用の茶碗が割れて片割れは買われていったのだろう。これで、もとどうりの揃いの茶碗になった。お茶碗を見ている間にMさんはコーヒーを入れてくださった。いい香り、いい味。いつも安物の豆に2倍はお湯を注いで入れる我が家のコーヒーとはやっぱり違う。100gだけ挽いてもらった。昨日はせっかくの上等コーヒーなのに、いつもの癖でお湯をたくさん注ぎすぎ、薄いコーヒーになってしまったが、今朝はお湯の量も加減しておいしいコーヒーを飲んでいる。

昨夜はmGがいつものより上等のワインとカマンベールチーズを買ってきた。給料日だからというのではない。我々の記念日なのだ。といっても結婚記念日ではない。交際開始記念日。
25年前。大学の近くの間借。いつものようにレコードとか本とかを抱えて「話し」に来たmGはその日はどうしたきっかけからかスケッチブックに鉛筆で私を描いていた。彼は工学部、美術専攻ではないが自分のデッサンや写真にかなり自信を持っていた。タイタニックのワンシーンみたいだが、そんなロマンチックなもんではなく私は服も着ていた。2人でいるとほとんど喧嘩のような討論を明け方までするような間柄だった。夜じゅう明かりがついている私の部屋の窓を見上げながら、我々の仲間はまたあの2人が「討論」しているとあきれていたらしい。
私はすることもなくデッサンをしているmGを眺めていた。言い負かされる時の憎たらしい顔はそこになくて、なんともピュアな目をして対象を見ていた。対象は私のはずだが、「私」ではなく、私の外側の皮を真剣に見ながら鉛筆を動かしている。変な気分だった。私の皮ではなくて、「私」を見てほしいとその時ふっと思った。そう思った瞬間、何か霧のようなものが晴れて、ここにいる人間は私にとって特別な人間だという気がした。恋は盲目というが、そういう意味では恋ではなかった。そこに起ったのは覚醒だったから。何かが見えたのである。私はその発見を確かめるべく、天井の左上の方をちょっと見て、「ねえ、そう?間違いない?この子?」と聞いたのだった。思ったとうりそこには応援団がいてかなり熱っぽく「そうだ、そうだ、」「イケー、ソレー」と私をそそのかしているのである。天使達を見たことはなかった。話しをしたこともない。それなのに、なぜそこにいると感じて話しかけたのか全く不思議だが、あの時そこに応援団の天使たちがいたことを私は今でも疑っていない。あの応援がなかったら私はあの「ひとこと」を言うことはなかったに違いない。

コーヒーの最後の一口。上等なコーヒーは冷めてもおいしい。CDの最後の歌もちょうど終わった。贅沢な朝の時間はおしまい。日常に戻るとしよう。




2001年10月24日(水) ブリジッド・ジョーンズの日記

夜、話しがまとまり、夫と映画に行く。
お互いの仕事が終わって、家で夕食をすませ、風呂にまで入って、パジャマのようなトレーナーにすっぴんで映画に行くことができるのも、近くにできたマイカルシネマのお陰だ。マイカルが倒産したことを聞いたときは、もうこの恩恵にあずかれなくなるのかと非常にがっかりしたが、今のところ映画館は営業しているし、けっこう流行っている。夜9時40分からレイトショーというのに
映画館はなかなか込んでいた。レイトショーはなんと1200円、しかも水曜日は女性は1000円なので、仕事帰りと思われる若い女性の客が多かった。
私たちが見たのが、独身女性の日常を描いたラブコメディー「ブリジッド・ジョーンズの日記」だったからか、客席は圧倒的に若い女性が多く、ちょっとくたびれぎみの(けっしてくたびれてはいないが、そう見えるかもしれなかった)中年夫婦は我々くらいではなかったかしら。

ロンドンを舞台にした軽いノリのラブコメディー。今夜は2人ともそういう気分だった。ワインが大好きでヘビースモーカー、口が悪く、おそろしくへまばっかりやるブリジッド、豊かな胸をしてセクシーなかっこうをしていても、なぜか色っぽくなくプリントのフランネルのパジャマが何より似合っている。かわいらしいという形容詞はぜんぜん似合わないのに「かわいい」。こういうキャラを夫も私もなぜか好きだ。いえいえ誰もが好きなのだ、きっと。ブリジッドが日々書いている日記がストーリーになっているので、独り言のおもしろさがある。けっして上品とは言えないその言葉はなんとも魅力的だ。そういえば、原作はベストセラーになったとか聞いた。本屋でぱらぱらめくったくらいでちゃんとは読んでいないけれど、ページから飛び込んできた言葉がなにか過激で、映画を見てみたいなという気になった。ジョークが効いていて、げらげら笑いながら見たのだが、まわりからはあまり笑い声が聞こえなかったような気がする。どうしてだろう。とにかくたくさん笑って、最後には良い男性をつかまえるというハッピーエンドにほんわかした気分になって帰ってきた。


2001年10月23日(火) バイブルクラス

今日はTがリードするバイブルクラスの日だった。Tはアメリカ人だが日本語が上手で読み書きもできる。教会の英語学校には無料の英語でのバイブルクラスもあるが、Tは月に一度、あえて日本語でのバイブルクラスを開いている。
Tは祈って、充分に準備してこの会をリードしてくれるが、いつも、自分の持って行きたい方向に固執せず、メンバーから出てくる言葉や話題を大切にする。
だから、参加者、それぞれが聖書の箇所についての疑問や、読んだ本の感想や、自分が今直面していることを心のままに出すことができる。
今日の会は私がペシャワール会や中村医師のことを話題にしたので、話しはイスラム教とキリスト教の違い、異なる宗教どうしの確執、ユダヤ人とパレスチナ人との問題などに話しが及んだ。
クラスの後はTが焼いてくれたキャロットケーキをみんなでおいしくいただいた。Tが畑を借りて育てているにんじんで作ったケーキだ。私より15才も若いのに、信仰の面でも、他の人への配慮の面でも、彼女から多く学び、また教えられている。


2001年10月22日(月) 悪魔について

掲示板にマオさんから悪魔についての問いかけがあったので、それに応答して書いていくととんでもなく長くなってしまったので、掲示板で書く事はやめて、日記に持ってきました。
悪魔学の本を見かけたことがありますし、研究もされているのようですね。聖書の中にも悪魔は登場してきます。
基本的に宗教や宗派によって、何が悪魔かが違ってきますよね。神もそうですが。
原理イスラム主義の人にとっては、他の宗教は悪魔とみなされるわけですから、クリスチャンや仏教徒が悪魔になってしまうんですものね。
宗教や宗派で言われている神や悪魔の概念から一旦離れて、私の感覚で悪魔を語らせていただきたいと思います。けれども、私の場合、やはりキリスト教の世界の中で、聖書などを通じて得た悪魔観だとは思います。ただそれが神学的に正しいものとか、キリスト教の教義にかなっているかは分りません。あくまでも私の主観です。

イエスが伝道を開始する前に荒野で40日間、断食をした際に悪魔はイエスを誘惑すべく、さまざまな方向からアプローチをしますがイエスは悪魔に屈することがなかったという記述がありますが、その箇所から、悪魔がどのようなアプローチで人を神から引き離し、我がものとしていくかを知るてがかりになると思います。今度時間がある時にこの聖書の箇所を調べ考察してみたいと思いますが、今日は私が思っていることだけから書いてみます。

まず悪魔というのは聖なるものと敵対するもの、聖なるものを忌み嫌うものだと思っています。また神が生きて働かれるように、悪魔も生きて働いていると思います。人間の中には聖なるものもあれば、それと敵対する悪魔的なものも存在すると思っています。ですが、神が自分の姿に似せて人間を創ったのだから、神の中にも悪魔的なものが存在ししているという掲示板に書かれてあったkさんの考えには同意しかねます。聖書の創世記の初めに象徴的に書かれていますが、神は初めは人間のなかには罪、つまり悪魔的なものがない状態で創られたのだが、後に神に敵対する悪魔が(蛇という象徴を取っていますが)人間に働きかけ、人間はその働きかけを受け入れ潜在的な罪を持ってしまいました。ここで人間は聖なる神とは顔を合わせることも出来ない者となって楽園から出ていきます。しかし、神はイエスという全く罪のない、悪魔的なものの支配が及ばない自分の分身を、人間の歴史の中に投げ込み、人間が持っていた罪が赦されるチャンスを与えてくれました。それは、イエスを知ることで、何が神から来るもので、何が悪魔から来るものか、私たちが見極めることできるようにしてくださったということ。さらに、そのイエス故に、その悪魔的なものをかかえたままでその存在を許していただけるということ。なぜなら、その人間のなかに繰り返し起ってくる悪魔的なものを、十字架で流したイエスの血が繰り返し清めるから。

ではもうクリスチャンになれば、悪魔と縁が切れるかといえばそんなことはなく、悪魔はよけいに強い働きかけをしてくると思うのです。だから大切なのは自分の悪魔的な部分を認識することだろうと思います。悪魔は巧妙に、人間の中に存在する悪魔的な部分を利用するのですから。悪魔の目的は人間を神から、聖なるものから遠ざけることにあるんですから。
悪魔の働きを思い浮かべる時、まず思い浮ぶのはヒットラーです。悪魔は完全に彼を支配し、彼の才能や機会を有効に悪魔の目的のために用いたのだという気がします。彼を支持した当時のドイツ国民も悪魔の支配下に入れられてしまったといってもよいのではないでしょうか。誰もそうとは気がつかないうちに、神を語る場である教会でさえ悪魔の巣窟になり、そこに集う神の子であるはずの人間が悪魔の弟子に変えられることだって起こりうる。ナチスを許したドイツの教会がこのことに深く心を止め、そこから立ち直ろうとしていることを読んだことがあります。日本の教会やキリスト者も戦時中、あくまで軍部に反対し、投獄され人は少数で、多くは天皇を神とする流れに従いました。オウム真理教はどうでしょう。初めは聖なるところから出発したものが、悪魔からみごと乗っ取られて、言うなりに動かされてしまい、あのように卑劣なことをなす集団に変えられてしまったのでえはないでしょうか。

全く悪魔の手口は巧妙です。けっしてそれとは分らないように本来聖なる場所とみなが認める場所や正しいと誰もが信じる人をまず取り込もうとしているような気がします。また、人の成功や幸福も利用します。自分は正しい、これは間違いないと思う時、同時に悪魔も働きかけを開始するような気がしてなりません。悪魔から見入られないためには自分は神の前で徹底して無力であるといことをまず正しく認識すること、そして、自分に与えられている機会やチャンスは自分が優れているからではなく、神から預かっているものという認識を持つことだと考えています。誇るものは主を誇れとい聖書の言葉がありますが、これはことさら謙虚にふるまうというのではなく、自分の力や恵みを正しく知り、しかし、そのことで我と我が身を誇るのではなく、それを与えられたことの意味を知り、その持ち物を正しく用いるということだと思います。態度や物腰を謙虚にしても神を認めないという傲慢さを悪魔は見抜き、それを利用するように思えてなりません。

悪魔に今勝っていたとしても、次ぎの瞬間、悪魔の側に寝返ってしまうのが人間なので、悪魔との闘いは気をゆるめることができません。私たちはいつも死に引き渡されているように、いつも悪魔に引き渡されているのだと思います。
祈りは神との対話ですが、祈りはまた悪魔を拒む行為だと思います。祈る人に悪魔は取り入ることはできないのではないでしょうか。
悪魔のことはこれを機会にもっと深めていきたいと思います。私自信にとって、とても大切なテーマであることに書いていて気がつきました。


2001年10月21日(日) 教会学校父母会、その後墓参り

日曜日、朝8時半に家を出る。
9時半から教会学校の生徒の父母会があるのだ。
今年度から始めた集まりで今日で3回目になる。
子どもたちが教会学校の礼拝に参加している間、育児や家庭教育、学校教育のことについて話しましょうという会だ。
4、5人の集まりだが、これまでお顔だけ見かけながら、話したことのないお母さんお父さん方とひとつのテーマにそって話し合ってみると、それぞれに様々な考えを持っていらっしゃることが分り面白い。あいさつ程度の言葉をかわすだけではいつまでたっても距離は近くならないが、考えていることや抱えている問題など本音で話すと親しさが生まれてくるものである。
今回はルーテルアワーから出版された「親子ではじめるメディアリテラシー」の冊子と、「米国同時多発テロのニュース、学校と家庭で用いるヒント」という印刷物をテキストにして話し合う。
視聴率を確保するため、あるいは購買力を促す目的で作成されている子供達向けのテレビ番組を良くないと思いながら、自分の子に見せないようにすると他の子からのけものにされてしまう。自分はテレビに関しては制限を設けているが、そういう親は少数派で、親の価値観があまりに違うので、子どもたちも戸惑う。テロの報道の子どもたちの反応など、さまざまなことが話題に登る。テレビの青少年への功罪については私が子どもの時から話題にされてきたことだが、この30年間、それに対する処置は取られることのないままに、ますますエスカレートしていくような気がする。親はもっと意識的にならなければならない。

教会学校の後、夫と世田谷の伯母夫婦を訪ね、伯母と伯父を連れて、八王子の
霊園へ。今年は伯母たちにとっては嫁、私にとっては義理の従姉妹の7回忌にあたる。仏教の習慣には馴染みのない私たちであるが、私の母もそうだが伯母も供養に関する仏事はきちんとやりたいことだろうと足の悪い二人に墓地までの送迎を申し出たのだった。伯母も私も花が好きだったその人のことを思って花を抱えて行ったが、どちらの花束にも示し合わせたように白いストックが何本か入っていた。そういえば彼女の葬儀の時、ぎっしりと埋め尽くされていた花は白菊ではなく、白いストックだった。


2001年10月20日(土) ねこんさーとの練習日

今日はねこんさーとの2回目の練習。
前日から、発声練習をやり、インターネットで、所要時間や電車の時間などを調べて、準備は万端だったはず。ところが前回行った場所だというのに、新宿駅から、どっち方面の電車に乗るのだったか忘れてしまった。前回同様、すぐそばにある本屋の入り口で確認しなければならなかった。たくさん並べてある東京ミ二マップを一冊手に取り、買おうかなという風になに気に開きながらすばやく確認するのだ。それにしてもあきれる。地図というものが頭に入っていないのだ。もともと入らないしくみの頭なのかもしれない。極めつけの方向音痴なのである。夫などは私がかなりの確率で、正反対の方向へしかも自信を持って歩き始めるものだから、それならこちらだと思うのと逆の方向に行けばいいんじゃないのというが、試してみたことはない。

練習が無事に、また楽しく終わり、メンバーでいっしょに夕食を取るべく居酒屋へ。道々Mさんと話していて私と同じくらい方向がだめということが分り意気投合。おまけに買い物が嫌い、特にデパートが嫌いというところも同じだった。みんなが訳なくできることにひっかかり、たいていの人が好きなことが苦手というのはいろいろ孤独にもなるものだから同類がいるとほっとする。

ところで、忘年会などがある職場もなければ、テニス仲間や近所のお茶飲みグル−プにも所属していない私は飲み会などはとんと縁がないし、居酒屋は夫と行くところでしかない。まるでテレビのコマーシャルのように10人以上の人といっしょに飲むなんて私にとってはとても珍しいことだった。年齢も20代から60代と様々、仕事も様々、居住地も様々、男性もいる。ついこの前まで、お互いを知らなかった人達と緊張も違和感もなくこうしてテーブルを囲んで飲んだり食べたりできるというのも不思議なものだなと思った。




2001年10月19日(金) ノ二ジュース

タヒチアン ノ二ジュースという健康食品を飲みはじめた。
体にとても良いと聞き、病状の重い義父に飲んでもらおうと送ったのがきっかけだった。医者の薬では一向に治らない息子のアトピーにも効果があるかも知れないと思い、そんなの効かないよという息子に、騙されたと思ってと言いながら、機嫌を取りつつ飲ませている。これで治ればめっけもの。治らなくても体に良いものには違いないのだから。

義父の病気のことが分り、沈んでいた時、たまたま知り合いからこのジュースのことを聞き、一口そのジュースをいただいた。飲んだ時になぜか、これを義父に飲んでもらいたいと思い、その場でその人が自分用に買っていたものを送られてきた箱のまま譲っていただき、翌日義父へ送った。アガリクスやプロポリス、世の中には数えきれないほどの健康食品と、それにまつわる体験談や成功例が氾濫している。義母はもう随分前からミキプルーンという健康食品を信奉しているし、わたしたち家族にも良く送ってくれた。義父はそういった健康食品と無縁ではなかったし、アガリクスだって飲んできたが、それでも病気は進行するのだ。このジュースも、そういう健康食品のひとつであろうと思いはしたが、相性が合ったというのか、信じてみようという気になったのだ。何かの拍子に効くことだってないとも言えない。効かないにしても、遠く離れている義父に私たちの気休めでも何かできるのはうれしいと。
ノ二というのはポリネシアに 2000年前から伝わるハーブフルーツだという。医者や薬屋がないころは代々伝えられる薬草や果実など、自然が持っている力に頼っていた。私はハーブには特別な思い入れがある。その純度がそこなわれることなく抽出されたハーブのエッセンスには現代医学にはない、また別の力があると思っている。そんな植物の力に助けてもらいたいと「藁をもすがる」という思いがあったのかもしれない。

そのジュースのせいかどうかは分らない。ところがである。義父は不思議なように元気になった。7月に会った時には1日伏せっていた義父が今は車も運転して義母を買い物や教会に連れて行っているという。いったい義父の体内でどんなことが起っているのか知る由もないが少なくとも今は痛みに煩わされることもなく、日々普通に暮らすことができている。実際、この普通の生活を家族は予想だにしていなかった。次第に大きくなっていくに違いない痛みを思い私たちは怯えていた。この先、どういうことが待っているのか考えるだけで胸が塞がった。

奇跡は起るのかも知れない。祈りは聞かれるのだろう。そこに何が介在しようと、癒すのは神。神は様々なものをお使いになる。物、時、人、出会い、思い、一見偶然のように見えることがつながっている。この健康食品を信奉するわけではない。神が人間の命を守り、癒すためにこの地上に備えてくれている自然の恵みにただ感謝している。


2001年10月17日(水) 3歳児クラス、混乱から学ぶ

風邪なのか胃腸炎なのか、とにかく空き時間は朝と言わず、昼と言わず寝て、3日間、何とか仕事は穴を開けずに乗リ越えられた。
今朝も午前中いっぱい寝て、お粥におろし生姜と梅干しを加えたものを食べて、仕事に行ったが、子どもたちと歌ったり、踊ったり、お店やさんごっこなんかをやっているうちに治ったようだ。夕食は普通に食べられた。

それにしても3歳児というのはなかなか読めない。10月のテーマはshopping、食べ物の名前なども学ぶ。イスを後ろ向きに丸く並べて、その上にピザやハンバーガーやケーキなどのカードを並べて、その周りを音楽に合わせて行進し、音楽が止まったら、目の前のカードを手に取り、食べ物の名前を英語で言うというゲームをやった。初めは音楽に合わせて行進するだけで楽しそうだったが、2度目の行進になるとあすかちゃんはケーキのカードの前から動こうとしない。動くと別のカードを取らなくてはいけないことが分かっているのだ。なかなかかしこい。そこで、カードを別のセットに変えたところ、行進はできたものの、ストップの合図で子どもたちは目の前のカードは無視してアイスクリームのカードに殺到。ママが「先生、子どもたちみんなアイスがほしいようですう。」ママたちは、この結果、やる前に分かっていたのかも。「そうだよねえ。」と私。このゲームは3歳児には使えないことが判明、読みが甘かった。
次ぎには野菜や果物の模型を使って、英語でお店やさんごっこをするのだが、「これも混乱するかなあ、でもやってみよう」とテーブルに模型を並べた。今度はどういう訳かどの子もきちんと順番を待ってお買いものができた。
日常の生活の中で、お母さんといっしょに、レジの順番を待ったり、大人とお店やさんとのやり取りを見ていて、そこにあるルールをすでに身に付けているからだろうか。3才児にとってはこれはもう遊びではなく、社会生活の中でのお買い物の場面なのだろう。なんだか、キーポイントをつかんだような気がする。3才児の場合、競争や勝ち負けの原理が根底にあるゲームや遊びに持っていくよりも実際の生活のシュミレーションの方が混乱なく活動につなげられるのだろう。さて、来週のクラスはどんな活動を持ってこようかな。


2001年10月14日(日) これは風邪か

ごく普通に1日が始まった。いたって元気だった。
午前中は教会へ行き、役員会なんかがあって、3時半まで教会にいたのだが、その間、飲まず食わず、だったのに、食欲がないのがちょっと変だなというこらいだった。mG(夫のこと)と近くの温泉に行く約束をしていたので、息子たちの夕食をそそくさと用意し(めずらしく二人とも家にいる)、我々は10時の帰宅を申し渡して温泉へ。
ところが、お湯に長く入ってられない。お湯から出たら出たで、すぐに、寒くなってしまう。いつもは10分は平気なサウナも5分ともたなかった。これは変だ。体の調子がいつもと違う。待ち合わせの時間よりも1時間前に退出した。こんなことも始めてだ。帰って、それでも、メールのチェックをしたり、返事を書いたりしていたのだが、いきなり胃に激痛。痛い痛いといいながらも、ビョークのコンサートのチケットの予約だけはしておかなければとPCの前でしばらくねばる。
何だか胃腸に来る風邪のような気がしたので、胃薬とカボスをしぼって熱いお湯と蜂蜜を入れたものを飲む。痛い痛いといいながらそれでも眠ってしまった。翌朝、熱っぽい、風邪だ。
困った、今週は月曜日から週末まで予定が入っている。なんとか治さなくては。


2001年10月13日(土) 詩の投稿

今日は珍しく予定がなーんにもない日だった。
別に予定をいれようというわけではなかったが、しばらく訪ねていない、世田谷に住む伯母のところへ顔を出そうかなと思い電話をした。墓参りの時期なので、私たちが八王子の墓地まで連れていってあげることができる。
電話をかけると今日は用があるが、来週の日曜日に墓参りのお供をするうことが決まる。
さて、晴れて何もない土曜日。書いたり読んだりして1日をすごす。子供達はそれぞれ出払っており、夫も隣の部屋でコンピューターをいじっている。
前から書きかけてそのままになっていた詩を書き上げZamboaに投稿する。毎月15日が締めきりで、パスした詩は翌月の1日にUPされる詩のサイトZamboa
に掲載されることになっている。
投稿がサイト上でできるというのは私のような気紛れで、めんどくさがり屋には良い方法だ。原稿用紙は学校の宿題を思いださせちょっぴり緊張するし、がんばって書いても、封筒に入れてポストに持っていくあいだに、こんなことやめようと思ってしまうに違いない。そもそも新聞や雑誌にも旧式の方法で投稿ということをしたことがない。
すごく、感動した本でも、本の中に入っている読者カードに書くまではしても、どういうわけだかポストに入れた試しがない。
どうやら、書くという行為とそれを読み手に向かって手放すいう行為の間に何やら心理的な葛藤のようなものが生じ、思い切りのようなものが必要になるのだろう。そしてその思い切りは私の場合、わずかポストまで歩いていくという行為のために容易にしぼんでしまう。
とまれ、友達へのメールにしろ、掲示板の書き込みにしろ、この日記にしろ、投稿にしろ、「送信」のボタンをぽんと押すだけですむこの方法は 心変わりする暇なくて非常にいいのである。最近わたしは勇ましく思いきりがいい。

詩はパスしなければ人目に触れないことになるので、ここに書いておくとしよう。

  01・9・11

崩れ落ちた巨大なビルは
屍を抱えたまま墓場となった
仕立てのよいビジネススーツの男たち
かかとの高いパンプスの女たち
抱えているローンの心配
健康診断の通知
夕食の算段
日常が一瞬のうちに消えた

大統領は戦争を叫び
国旗が翻る
悲しみや不安を愛国心で束ね
闘争へ駆り立てようというのか

しかし明らかになった
世界は平和ではなかったと
正義はまやかしであったと
すべては崩れたビルディングのようであったと

飢える人々を横目で見ながら貪り食べていたのはわたし
死にゆく人々の叫びに耳をふさいでいたのはあなた
豊かな国に住む者たちの傲慢さ
歪んでしまった地球のSOS

テロリストは豊かな国々をねらい
豊かな国々はテロリストに報復する
攻撃は破壊を生み
解決への糸口は見失われてしまう

糸口はどこ
探さなくてはいけない
ほどいていかねばならない
そもそものもつれを手繰って

あなたは歩き
わたしは歌うだろう
あなたは叫び
わたしは祈るだろう

新しく死んでいった命たちと
長い間に死んでいった命たちをたずさえて
糸口をさがしながら
今日を生きるのだろう






2001年10月12日(金) ローズマリ−のリース

自分の家の庭でも、私はあまりまめに草抜きなどせずに、ハーブや花といっしょに雑草も大きくなる。
同じ植物なのに、差別をするようで、雑草を抜く時、ちりっと胸が痛む。
けれども雑草というのは、何か特別にワイルドな力があり、あまりに無視するうと、他の植物にも影響を及ぼし、手が付けられない状態になってしまう。
そういう状態にならぬうちにやはり手入れは必要なのだ。

教会の敷地の隅に今はもう誰も住まず、何にも使っていない小さな家があるのだが、この夏、何のケアもしないままだったので、家全体を草が覆うほどになってしまっていた。
今日はクラスもないし、夕方まで時間があるので、婦人会の後、できる分だけでも草抜きをしようと思い立った。屋根ほどの高さになった草でも、草は草。それほど苦労なく抜ける。フェンスにからまったつる草もばさばさと剥がしていった。これほど、夏の間好き放題に伸びたのだから、もう許してもらってもいいだろうとそんな気になるほど、ゴージャスな雑草だった。フェンスにからまったつる草をはがすと、なんともいい匂いがしてくる。見るとローズマリーの大きな株がつる草にからまれながらも、逞しく枝を広げてみごとに生きていた。誰かが植えたものの忘れられてしまっていたのだろう。
枝を刈り込むとローズマリーの枝はビニールのごみぶくろにいっぱいになった。教会の中に持ち込むとあたりがローズマリーの香りでいっぱいになる。英語学校やバイオリン教室にいらしている方々に持って帰っていただこうと入り口に置いておいたが、それにしてもたくさんの枝だ。そうだ、ローズマリーのリースを作ろうと思い立った。

私が子どもの頃に行っていた教会では11月の終わりともなると、教会の玄関先で、牧師先生がリース作りをしていた。教会のまわりの常緑樹の枝をたくさん刈り込み、藁を丸く束ねて芯にしたものに緑の葉のついた枝だを針金で固定しながら巻き付けていくのだ。枝は思いの他たくさん必要となる。いい匂いのする緑色の環が出来上がるとそれに赤いリボンを巻きつけ、ろうそくを4本立てる。さらに赤いリボンでその環を四方からつるし、礼拝堂の高い天井につるすのである。実はこれはリースではなく、アドベントクランツと呼ばれるもので、アドベントに入った週の日曜日から、毎日曜日ごとにろうそくに点される火が一本づつ増えていき、4本のろうそくに火がともった日曜日がクリスマスの礼拝をする日曜日だった。

ふくろいっぱいのローズマリーもワイヤーで結わえながら環っかにしていくと、ひとつのリースにまとまってしまった。クラスを終えた英語学校の生徒たちが立ち止まってはのぞきこんでいく。ちょうど、その昔、牧師先生がクランツを作るのを見ていた私のように。子どもたちは理由もなく、植物で何かを作るというのが好きなのだ。出来上がったリースを壁にかけるといい匂いがさらに広がった。赤いリボンで巻くとクリスマスリースになるがクリスマスにはまだ早い。世界の平和を願って黄色いリボンを巻くのはどうだろう。


2001年10月11日(木) チャクラを開く

昨日の雨が嘘のような秋晴れの朝。
自転車をとばしヨガへ。
ヨガの始まる10時までの間、発声練習や歌の練習をすることにしている。
私が習った発声練習はまともにやると、気が触れたのではないかと案じられるほど、えぐい音を出したり、舌をれろれろと力を抜いて声を出したりというもので、家では御近所迷惑が気になりなかなかやれない。
また広い空間で声を出すと声が良く見える感じがする。何より大きな声を思いきり出すのは心にも体にも良いような気がする。
ヨガは足のマッサージに始まり、呼吸方、瞑想、ストレッチ、柔軟、さまざまな要素があるが、すべては気が出入りするチャクラを開き、鍛えるのが目的だ。
はじめて、チャクラのことを知ったのは実はヨガではなく、イギリスから来た
スピリチャルヒ−リングのワークショップでだったが。なるほどと思ったのである。様々な感情も、体のレベルでの病気も気の流れの影響を受けており、気が出入りする入り口であるチャクラがふさがっていたり、痛んだりしていたのでは健康な心も体も望めないという理屈に私はストンと落ち着いた。
キリスト教徒なのに、ヨガとは何ごとかと言う人もいるだろうが、私の中では矛盾はない。
祈りというのは自分の奥深くへ沈み、神と出会うことだと思うが、その時、チャクラは開いているのだと思う。瞑想もそうだ。いくつもの心の層を過ぎると開かれた空間のようなところに魂が誘われる。深々とした至福の感覚が起る。
美しい音楽を聞いたり、心に沁み入る言葉を聞いたり、また歌ったりする時もチャクラが開くのだと思う。
ちょうど、体がブドウ糖でエネルギーを得るように、祈りや瞑想、芸術は魂を養うエネルギーとして開いたチャクラから体の中に入ってくるのだろう。


2001年10月10日(水) ざんざん降り

すごいざんざん降りだった。
午後から仕事だが、
やみそうな気配はない。

モンスーンパーカーという名の
ランズエンドで買った防水ジャケットを引っ張り出す。
バックには替えのズボンと靴下を入れ、でかけに替えのスニーカーを持って行くことを思い付き、ビニールバッグに入れる。

英語学校。
小さい子を自転車に載せてクラスに来るお母さんはこんな日は困ってしまうだろう。お休みの連絡がいくつか入る。
そういえば、こんな日があった。
ざんざん降りの中、2歳と4歳の子にそれぞれ雨がっぱを着せ、自転車の前と後ろに乗せて町の図書館まで行った。
おはなしの練習の日だった。そんなにまでしてでかけたのは、私がおはなしをする番に当っていたのだろうか。それとも何が何でも出かけるのが当時の私だったのか。そうとすれば、こどもたちはさぞかし迷惑だったことだろう。
帰りの自転車で、雨の中というのに子ども達が寝てしまった。
畑の間の狭い道、曲がった道だった。濡れた道ですべったのか、前と後ろでぐらぐらする子どもたちのためにバランスをくずしたのか自転車は3人を乗せたまま、横に倒れ、道の下のぬかるみに落ちてしまった。
眠りからいっぺんに落っことされてしまい二人は大泣き。
私も泣いたのだろうか。べそくらいはかいたにちがいない。
雨がっぱを着たお母さんと子ども達を見送りながら、もうすっかり忘れていた一こまが突然に記憶の底から甦ったきた。
あの雨の日といわず、ずいぶんあぶなっかしい育児をしてきたものだ。今さらながら、ひやりとする。

帰りになってもまだ雨は降っていた。暗い夜道を傘をさして歩くのはいやなものだ。歌を歌いながら歩いた。少し前を歩いているスーツ姿の女の人が後ろを振り返ったがかまわずに歌う。「グリーンスリーブス」をハミングで。
玄関を入って、手に下げていたビニールぶくろの替えのスニーカーを電車の中
に忘れてきたのに気が付いた。先週買ったばかりのスニーカー。
雨の日ってついてない。


2001年10月09日(火) 木曜日に書く火曜日の日記

実のところ、今日はもう木曜日。
火曜日、水曜日とどういうわけか昼間のエネルギーが夜まで持たなかった。
この日にしたこと。
午前中のことは思い出せない。
午後は英語のクラスを3コマ。
そうだ、仕事に出かける前にカレーを作った。
パキスタン人のタス二−ンからずいぶん前にもらった
カレーを作る時の香料を少しだけ入れてみる。
いつも布をかぶっていた彼女の顔が浮ぶ。
このところよく思い出す。
まだアメリカにいるのだろうか。
毎日の生活は重苦しいことだろう。

行き帰りの電車で読んだ本、向田邦子の「父の詫び状」
やっぱりうまいなあ。読むのが楽しいなあ。
こんなにいきいきと文の中から作者のスピリットを感じ取れるというのに
彼女はもういない。
事故にあった飛行機の中で彼女はどんな言葉を心に書いていたのだろう。

夕食後はソファーにひっくり返っていたような気がする。
ついこの前のことだというのにひどくぼんやりしている。


2001年10月08日(月) 空爆がはじまった

とうとうアメリカが空爆を開始したことを知った朝。
力が抜ける感覚。現実から自分の目や気持ちを反らそうという気持ちが起る。自分を守ろうとするのか、こんなストレスは耐えられないと体が拒否するのか、情報を遠ざけようとしている自分。

幸い、朝早く出かける用があった。往復3時間以上電車に乗り、その間もまた集会の間も人と話したり、話しを聞いたりと珍しく長時間を人の中で過ごした。普段は人の中にいると疲れてしまうのだが、今日のような日はこうした1日が何かありがたく思われた。

ブッシュの戦闘的な表情に胸が悪くなる。「新しい戦争」なんてとんでもない。ことさらに煽っているようにしか見えない。傷つき失われるであろうたくさんの命、長引くであろう戦いを考えると、怒りや落胆が無気力へ変わっていく。ああ、でもこの無力感こそ曲者。あきらめは悪魔の思うつぼ。
少なくとも自分自身の心に平和を保たなければ。
火を点し続けるのでなければ。

  平和をつくり出す人たちは、さいわいである。
  彼らは神の子と呼ばれるであろう。

マタイによる福音書 5ー9


2001年10月07日(日) お返し

小学校2年生の秋から教会学校に通うようになって以来、日曜日は教会に行く。このごろは教会の役員や、英語学校の仕事もあるので、土曜日の夜の集まりや、日曜日の午後のミーティングなどで、土、日とも、また日曜日の朝から夕方まで教会ですごすことがめっきり多くなった。

しかし、これは本意ではない。私にとって教会は礼拝に出られればそれで良い。いっしょに飲んだり食べたりなどしなくても一向に構わない。ところが、教会は礼拝するところとは別にひとつの社会である。ひとつの家庭といっても良いかもしれない。社会の役割を担ったり、家族の構成メンバーの為に尽くすというのは私の不得意とするところで、世話をやくのもやかれるのも苦手、一人で気ままにやるのが好きな我が儘者である私でも、どうにかこうにか母の役割や地域住民の責任は果たそうとするように教会の仕事もやらなくてはと思う。
めんどくさいと思いながらも教会の仕事をするのは、めんどくさいと思いながら、家事や家族の世話をするのと似ている。そこに私を必要としている人間がいるという点と、子どものころ世話をしてもらった、面倒を見てもらったことへのお返しという二つの点において。

教会学校に通い始めたころ、月謝もとらず聖書の勉強をさせてくれ、遠足に連れていってくれたり、クリスマスには食事や、プレゼントまでくれることに母は戸惑いを覚えていたようだった。何につけ、お礼をしなければ気がすまない母、一方的に世話になるということがひどく居心地の悪い母は、どこの子でも受け入れ、ただで教え、食べさせ、物を与える教会というところが信じ難かったに違いない。「ただほど怖いものはない」という言葉をいろんな大人から聞いて来たように思う。
そういう母親のお返し根性ともいうものは私の中にも気がつかないうちに染み付いてしまっている。しかし私の場合少し違うのはお世話になったその人にお返しするのは親しい人であればあるほどその好意を「返す」ようで好きではないが、受けた恩義を別の人に返さなければと思うのである。返すという発想こそ、貧しく豊かさに欠けるが、それが私を動かす原動力になっていることは否定できない。さんざん育ててもらった子ども時代、自分の事しか考えなかった若い頃、子育てに追われてそれどころではなかった子育て時代を過ぎ、我が子に手がかからなくなった今、やっと「お返し」ができる身になったという訳だ。立場的にはできるようになったが、精神面では奉仕の精神の貧しいことこの上ない。貧しくても、鍛えなければ育ってはいかないから、今はふりでもするしかない。そのうち養われることを願いながら。

今日は教会学校と大人との合同礼拝なので、子ども向けの説教が終わると、子どもたちを下の部屋に連れていき、1時間近く面倒を見た。「レプタ2つ」という聖書の紙芝居をし、「地雷ではなく花を」の絵本の読み聞かせをして、地雷のことや、戦争の犠牲になるアフガニスタンの子どもたちの話しをする。
その後はリクエストに答えてドッジボールをするために外に出る。子どものころから嫌いなドッジボールではあったが、お話やビデオより子ども達の顔は生き生きして楽しそうで、私もなんだかうれしくなった。


2001年10月06日(土) 初めての場所

荻窪から教会通りを、若杉小学校まで歩く。2回目のねこんさーとの練習の会場になっているのだ。
初めて降り立たった駅、初めて歩く通りである。
どの街にもそこに住む人々や時間が創りだした、その場所特有の佇まいがある。この商店の連なる狭い通りはなんとも気持ちがよかった。住んでいる人達はきっとこの通りが好きにちがいない。どこか、のんびりしていて、なつかしささえ感じるのはいったいどういう訳だろう。

通りの先には教会があり、すぐ曲がったところにその小学校はあった。
そういえば、東京の小学校の中に入るのは初めてだ。学校も街と同じように、それぞれの学校の匂いがある。靴を脱いで、人気のない廊下を歩き始めたが
やはりなつかしい。ずいぶん昔、休みの日に日直の母に連れられて行った小さな田舎の小学校がなぜか甦ったきた。

ミュージカル「森のおく」の作曲を担当しているかおるさんが廊下の向うからやってきた。知らなかった空間で知っている人に出会ってほっとする。
かわいらしく、暖かな雰囲気のかおるさんの教室の小さなイスに座り、楽譜を清書するかおるさんを待ちながら本を読む時間も豊かだった。

音楽室にメンバーが集まり、ストレッチ、発声練習と体づくりから始まる練習もいい感じだった。「あえてよかった」の曲のふつふつとした感じはミュージカル全体の方向をしっかりと示している感じがした。
私の創った二重唱もピアノの伴奏で歌っていただき、晴れて音楽になった。

教会で「祈りと讃美のつどい」があるので、途中でわたしだけ失礼させていただき、夕方のまた違った趣きのある教会通りを通って駅へと急いだ。
この通りはこれから何度も訪れ馴染みの通りになっていくことだろう。なんだか不思議な気がする。


2001年10月05日(金) 強歩大会

自慢じゃないけれど、物心付いた時から、運動といわれるものはすべてだめだった。私のことである。いくら一生懸命走っても、限り無くびりに近いところから抜け出すことは不可能で、ドッジボールにおいては逃げても逃げても、私だけにボールが集中してくるようだった。クラスで一人だけ逆上がりができなかった3年生の時、夕方の校庭で父の特訓を受け4年生になってやっとできた。本人も周囲も懸命に努めたのに自転車にはとうとう乗れずじまいで、大人になってどうしても自転車がなければ困る場所に住んで初めて乗れるようになった。今度は夫の特訓で、夜更けの団地の広場にどれほど通ったことか。人が難無くできることに私は人の何倍も努力を払わなければならないことを理不尽だと子どもの頃から今に至るまで思っている。

さて、ここからは自慢だがしかし自分のことではない。高校2年の息子のことだ。今日は校内競歩大会だった。男子は35キロ、女子は20キロを走る。完走してもよく、休みながら楽しく走ってもよいというものである。彼は去年600人のうち、50位くらいには入りたいと走ったところ12位だったので、今年は10位以内を狙っていた。結果は堂々の3位。メダルももらえるそうである。彼にいわせると、小学校の時は少年野球にもサッカーにも入っておらず、スイミングにも通っておらず、いつもダンスばかりしているようなアメリカの小学校の体育しかしてこなかったので、何も業がなく、持久走が唯一自分の力を出せる場面で、ここぞとばかり意地で走る癖がついてしまったのだそうだ。高橋尚子のように走るのが好きというのではなく、ひたすら意地で走るのだという。いくら意地とは言っても、その意地を全うできるだけの身体能力があるというのはうらやましい。
バスケットボール以外には何もしていないような高校生活を送っているが、彼は意地を鍛えているのかもしれない。それはそれで必要なことなのだろう。

高校1年の秋、私も強歩大会に出た。運動はいっさいだめだったが、持久走なら、得意の根性でなんとかカバーができそうだった。実際、練習の時はまあまあ先頭の方を走っていた。さて、本番は20キロの道のりである。10キロのところが折り返し地点で往復20キロ走って学校に戻ってくることになっている。2キロ以上走ったことはなかった。もちろん、完走する必要はなく、どこで休もうが自由である。でも20キロ、下手に走るのを止めるとその後、走り続けることができないような気がして、とにかく止まらずに走ろうと心に決め、やっとの思いで折り返し地点についた。10キロを止まらずに走ったなんて実力を遥かに越えている。順位はちょうど真ん中だった。そこには飲み物などが用意してあって、上位の完走組以外の生徒は、そこでひと休みするようだった。私も走れる限界を越えていたのでどっかりと休んだ。ところが走りだそうにも、もう体は動かない。ところがそこは、学校から10キロも離れた山奥、そんなところにうずくまっているわけにもいかない。走っては休み、休んでは走り、やっとの思いで学校へ戻ってきた。その道のりの長かったこと。実際、行きの2倍以上かかったと思う。友達に支えられて倒れ込むようにして校門をくぐった後はしばらく立ち上がれなかった。もう夕方近かったような気がする。それに懲りて、2年と3年の時はなんだかんだと理由を付けて走らなかった。全く根性なしであった。

35キロを走ってきた息子はふだんと変わった様子もなく、それほど勝利に酔っている風でもない。私のほうが舞い上がっていて、今日のメニューの鶏のから揚げに追加で、寿司5人用盛り合わせを奮発した。電話で知らせると夫は刺身とビールとコーラをさげて早々と帰宅してきた。久し振りの宴会となったのである。


2001年10月04日(木) 庭で日記を書く

今日はヨガが休みだったので、午前中は庭仕事をした。
伸びて、ぼさぼさになった、チェリーセージやメドウセージを刈り込み、雑草を抜き、植物の移植や鉢やプランターのならび変えなどをする。
ジャングルのような真夏のガーデンが、さっぱりした秋の庭になった。
お天気も良く、寒くも暑くもない。
そうだ、外のテーブルで仕事をしよう。添削をするべく英語の問題集を広げる。今日の夕方、英語のクラスにやってくる中学生は今日の朝までに、私のところに宿題になっている問題集をやって届けることになっていた。夕方、クラスに来た時には添削ができていて、間違っていたところや分らないところの指導がすぐにできるという訳だ。
添削が終わり、コーヒーを飲みながら新聞を広げる。
うん,iBook のコードをはずして持ってきたら外で日記もかけるぞ。
ちょっと試してみよう。
という訳で、この日記は外で書いている。雨曝しのスチール製の白い丸いテーブルには砂もくっついてはいるけれど、時々道路を人が通り過ぎても行くけれど、外で書くのは気分がいい。
目を上げれば、すでに花芽をつけたハナミズキが覗き込んでいる。
よし、よし、君のことも書いてあげるよ。今年もたくさんの花芽をつけたから、春には見事な花を咲かせることだろう。
3年前、クリスマスのプレゼントにいただいたローズマリ−は、さし芽をしていく株もの子どもができたが、それでもまだまだ大きくなる気配だ。
寒くなる前に刈り込みをして、落とした枝だをさし芽にしてまたふやそう。
たくさん増やしたサマーウエーブももうそろそろ花の時期は終わりそう。
今月の末にはパンジーやビオラに選手交代となる。
さて、電池がなくなる前におしまいにして登録するとしよう。
秋の陽射しと植物たちの息づかいをここに閉じ込めて。


2001年10月03日(水) フォスターチャイルドのクレメンス

フォスタープランからの手紙が届いた。フォスターチャイルドのクレメンスが援助を卒業したという知らせだった。
クレメンスはケニアのKighomboというコミュニティーに住む女の子だ。4年半前に彼女や、その子の住む地域をサポートするようになった時、クレメンスは14歳だった。 Taita Tavetaという フォスタープランの事務所から、彼女の生活の様子を詳しく書いたレポートと、写真とが送られてきた。生活するための水を1キロ先の水道まで汲みにいくのは彼女の仕事だった。煮炊きするための薪を採取するのには2キロ歩かなければならないという。セメントの壁、トタンの屋根、床に板はなく、土のままという住まいは、しかし平均的な暮らしだということだった。

このプログラムはフォスターチャイルドが18才になるまで、毎月、五千円のサポートをするというもので、そのお金は フォスターチャイルドが学校へ通う費用の他、その地域の生活環境を整えるために用いられる。フォスターチャイルドの生活や学業、また地域でどのようなプロジェクトがなされているかといった報告が、チャイルドの写真とともに、毎年フォスタープランの事務所から届く。

学校に通い始めた クレメンスは絵だけだった手紙に短い英文が添えられるようになり、最近来た手紙には将来は教師になりたいとしっかりした文で書かれていた。また、報告書によると、それまで、飲み水が確保できずに、不衛生な状況だった学校の給水システムが改良され、雨水を溜る大きなタンクが設置され、さらに、マラリアやエイズから身を守るための医療設備が整えられたということだった。

月に五千円というのはは、クレメンスと同じ歳の高校生の息子の小遣いと同額だ。次男の同級生の中には、もっと多く小遣いをもらっている友達も多いらしい。身も知らぬアフリカの女の子をサポートするより次男の小遣いを増やしてやるのが親心だろうかとふと心が揺らぐこともある。けれど、やりくりに苦労している息子達に、ちょっとかわいそうかなと思いながらも、あまりお金はあげない。それでなくても、世界中の子どもたちの中で、彼らはずいぶん豊かだ。少しくらい苦労するくらいでなくてはと思ってしまう。

クレメンスをサポートするようになってから時々家でやっている英語教室の子ども達にクレメンスにあてて、英文で手紙を書かせたのだが、子どもたちが、部活動や、映画や音楽のことを話題にして手紙を書くのを見て、この子たちと全く生活環境の違う クレメンスは、この経済的な豊かさがにじみ出ているような子供達の手紙をどんな気持ちで読むのだろうと、何か心が重くなることがあった。

フォスタープランを始める時は、サポートすることの充実感のことしか頭になかったが、実際に始めてみると、生活や経済の格差の隔たりに愕然とする。それが知らない子どもであればそんなこともないのだろうが、手紙のやり取りなどをするようになると、いくらサポートをありがとうと感謝されても、彼女達よりずっと豊かに暮らしている自分達に後ろめたさのようなものを感じてしまう。良いことをしているという晴々とした気持ちになどなれはしない。支援したり、経済的にサポートすることは、この後ろめたさを引き受けるということなのかもしれない。

昨日、郵便局へ行き、ペシャワール会の会員になるべく、会費を納めてきた。
年に数回、中村医師からの現地からの報告文が届くということである。その報告文を読みながら、自分たちの生活を貧しく傷ついた人々のためにささげているワーカーを目の当たりにして、励まされることだろうが、きっと後ろめたさも感じることになるのだろう。


2001年10月02日(火) 火曜日の日曜大工

生け垣にしていたゴールドクレストがだめになってしまった。
家を買った時に、業者に生け垣として、隣の家との境にレッドロビンを、家の前にはゴールドクレストを植えてもらった。
5年もしたら良い生け垣になりますよと言われたものの、2、3年の間レッドロビンは少しも枝が広がらずにまばらで生け垣の体裁をなしていなかったが、7年たった今、りっぱな生け垣になり、新芽のころはその名にふさわしく、こまどりの胸のように赤い美しい新芽を芽吹く。
一方、ゴールドクレストの方は一年間の内にみるみる大きく育ち、すぐに生け垣になった。春にはグリーンというよりはもんとうにゴールドともいっていいような明るい黄緑に燃え上がった。外から帰って来る時、まず、この鮮やかな緑が目に入り、迎えてくれるようだった。
しかし、大きくなりすぎた。もともと土のあまりないところに10本も植えたものだから、無理があった。しかも剪定のタイミングをのがしたので、木の内側が茶色に枯れてしまった。それでも外側には新芽を付けていたので、この春まではなんとか剪定もしたのだったが、夏を過ぎて、すっかり全体が枯れてしまった。見る陰もない状態だ。
今日はこのゴールドクレストを切る日と定め、夫が休みを取ってくれていた。何しろ、切った木をリサイクルセンターまで運ばなければならないので週日にやってしまわなければならない。私たちの計画としては、まず、木を切り、そのままにしておいて、日曜大工の店に行き、切った木の後につける、ブラインド仕様のラティスなどを買い、配達用のトラックを借りて、買ったものを運んだ後、切った木をトラックに載せて、リサイクルセンターに持っていこうというものだった。
さて、無事にトラックを借りて木の始末もできたし、暗くなる中、夫が苦労しながら、釘の穴の位地を探さなければならなかったが、この日のうちに体裁の良い、木製の塀が出来上がった。
あまり、御近所の人と顔を合わせることのない夫が今日は一日中、家の前で作業したので、いろいろな方から声をかけられていた。「内の夫は釘一本、打ったことがないのよ。お宅はいいわねえ。」なんて、御近所の方から言われると
夫もまんざらではなかったのではないだろうか。
これまで、話したことのない方が通りかけに、「淋しくなりますね。クリスマスの時にはこの木に飾りがついてきれいだったのに。」と言ってくださった。
そういえば、数年間、クリスマスの時期にはこの木に赤いリボンや金色のベルで飾りを付けていた。気に止めていて下さる方もいたのだ。
まだ切り株の残る土の上にイングリッシュアイビーを植え込み、焼き物の羊の人形を二つその間に置いた。木がなくなってしまった淋しさを少しでも補えるかも知れない。
明日はしばらく放っておいた庭を整えよう。


2001年10月01日(月) 励まされること

この日の掲示板に書いたことを
この日記にとどめておくことにしよう。
深く心を動かされたことも、時間とともに
また日常の些末なことに紛れて色あせてしまう。
そのためには、書きとどめたり、繰り返し思い返したりする
必要がある。
日記は公開することで、そういう自分を外に出す訳だから、
そこに語った者としての責任のようなものも伴ってくる。
だから、書くことが書くことだけに留まらず、
ひとつの行動のような色を帯びる。
実際の行動とは程遠くはあるが。


励まされること 投稿者:たりた  投稿日:10月 1日(月)12時14分09秒

CHNCEのグループメーを通じて、 中村哲医師とペシャワール会 
    http://www1.mesh.ne.jp/~peshawar/index.html
のことを知りました。
アフガニスタンで医療に従事しているドクターの活動やテロ事件後のアフガニスタンの状況が伝えられています。もう長いあいだ、捨てられた人々の命を守るために働いていきたその行為をほんとに貴く思うとともに、こういう活動に対し 心も目も開かれていなかった自分を恥じ入ります。

また、海外からのメッセージにUPしましたが、ペンタゴンの爆撃で御主人を亡くされた方が平和を祈ってそのために働いてきた御主人の死を、罪のない殺戮をもたらす報復のために利用しないでほしいという切実な願いを読み泣けました。御主人を亡くされた痛みを乗り 越えて世界の平和を訴えている言葉に涙がでました。

先程、テレビでNYの人達の様子が伝えられていましたが、パレスチナ系アメリカ人のサポートセンターの働きが伝えられ、不安で、外出できないパレスチナ系アメリカ人のために、エスコートのボランティアがなされていること、また、パレスチナ系アメリカ人が平和を願う行進を始めたところ、パレスチナ系アメリカ人ではないニューヨーカー達が列に加わり5000人の人々が民俗を越えて共に歩いたことが報道されていました。

こういう人の動きこそ心を動かされます。エネルギーをもらえます。
日記にも書きましたが、あれほどの破壊や混乱の中から、静かなけれども力強い思いが起ってきていることに励まされます。


たりたくみ |MAILHomePage

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