たりたの日記
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どの月だって一番最後の日があるわけで、いちいち感慨に耽っている訳にもいかないが、8月31日というのは何か心に残ることをして、夏の最後の日をしめくくりたいと思う。それで、生協の注文も出さずに、丸一日開けておいた。 うまく都合がつけば, OさんとFさんをさそって、温泉とプールとアスレチックの設備がある、健康増進施設にでも行けるかもしれないと思っていた。Oさんは仕事が入っているらしいが、Fさんは幸いオフだという。そこでOさんお勧めの『蝶の舌』を銀座のCINE SWITCHに見に行くことになった。 近所の映画館ではこの手の映画は見られない。しかし新宿や渋谷の映画館に出かける気力はここのところなく、いつも良い映画を逃さずに見て、情報に疎い私に知らせてくれる友人達に感謝している。Oさんが良かったといい、Fさんが見たいという映画であれば、良いに決まっている。私は「じゃあ、それにしようよ。」とその映画のことは知りもしないのに全く調子がいい。 果たしてそれはすばらしい映画だった。そのスペイン映画からはハリウッド映画では味わうことのできない細やかなその土地の空気が伝わってきた。こういう場面はいつまでも記憶に残る。記憶に残るだけではなく、まるで自分がそこにいて体験したかのように自分のその時と分かち難く結びつく。深いところで、何か化学変化のようなものが起こり、私の体験の中に組み込まれてしまうかのようである。心に残ったものが深く、まだ私の中で形にならずうごめいているので、この映画については日を置いて書くことになるだろう。
南欧風のレストランで遅い昼食をし、帰りはデパートに立ち寄り夏物の最終バーゲンの恩恵に浴した。バーゲンの服を物色するにあたっては映画の余韻も何もなかったが、戻ってくるとまだあの映画の映像が心を占領している。スペインという国の内側に入ってみたいものだと思った。旅行ではなく、しばらく滞在したい。そういえば、夫がまず行きたい国がスペインだと言っていた。長男はスペインの大学に一年間留学したいなどと言っている。さて、私たちはスペインという国に縁があるものかどうか。ともかく印象に残る夏の最終日であった。
2001年08月30日(木) |
ヘルシーミートローフ |
ミートローフというのは便利な料理である。挽肉とパン粉と卵を混ぜ合わせたベースに野菜でも、パスタでも、そこいらにある残り物を混ぜ込み、いっしょにオーブンで焼くと変わり ミートローフが出来上がる。子どもたちのきらいな野菜もフードプロセッサーで細かくすれば、分からなくなるから、いろんな野菜を入れることができる。
今日は私と夫のダイエットを意識して、こんなものを入れて作ってみた。 名付けて ヘルシーミートローフ。
<材料>
合挽肉 400g 食パン 2枚(牛乳少々に浸す) 卵 2個 玉葱 大1個 人参 中1個 ピーマン2ヶ きな粉、ビール酵母、すり黒ゴマ 各大さじ山盛り2杯くらい 塩、胡椒、醤油 適量
<手順> 食パンと野菜は細かくするためにフードプロセッサーにかけ、 それに挽肉、卵、調味料、を混ぜる。野菜が多いので水っぽくなったので様子を見ながら、きな粉、ビール酵母、すり黒ゴマを加えた。 できるだけ広い耐熱容器か皿に平らに伸ばし、グリルで30分ほど焼いた。
<感想> ふんわりした食感のあっさりしたミートローフだった。 黒ごまが見えていかにもヘルシーな感じだ。ビール酵母ときな粉は植物性タンパク質やミネラルを補うために加えたのだが、全体の味を損なうことはなかった。食パンを2枚も入れたので、同量の肉でいつもの倍はできた。朝食用に残しておいてレタスといっしょにパンにはさみ、サンドイッチにしようと思う。 塩を減らして、代わりに味噌を加えるとさらにこくのある和風ミートローフになることだろう。
今日は英語クラスのデイキャンプ。といっても、家に英語を習いに来ている小5の3人の女の子達といっしょに過ごすというもので、名付けて『千と千尋と極楽湯』。 「千と千尋の神隠し」が話題になったが、聞けば、3人の内2人は映画館へは行く予定がないという。スクリーンで見せてあげたいと思った。しかも彼女たちはまさに千尋と同じ10歳なのだから、この夏に見ないでいったいいつ見る。
あのアニメを見た時、すっごくお風呂に入りたくなったのだが、最近できた大型映画館のすぐそばには幸い、大型のスーパー銭湯「極楽湯」がある。こちらは人間のためのお風呂、大御馳走はないけれど、かき氷くらいは食べられる。こういう風呂も行ったことがないのであれば、アニメのお風呂屋さんを体験学習といこう。 でも、親は遊ぶためには子どもをよこしてくれないかも知れない。それなら、最初にお勉強を持ってくるとしよう。10時30分から11時30分まで英語のクラス。お昼はカレーをみんなで食べて、それから出かけるのならよいだろう。 Nちゃん曰く、「お母さん、私が一日いないとのんびりできてうれしいと思うよ。」そうそう、そうなのよ。一日中子どもが家にいる夏休み、一日子ども会のバス遠足に行ってくれたことのうれしかったこと、世話をしてくれたお母さんたちが有り難かったこと。Sちゃんはそれとは反対に、私がいないと赤ちゃんの面倒を見る人がいないから、行かせてもらえないかもと顔が曇る。そういう子ほど、兄弟の世話から離れて遊ぶことが必要なのだ。Sちゃんも行けることになり、計画は実行に移せることになった。
朝からじゃんじゃん降りだったが出かける頃には日も照って遠足日和。家から駅まで歩くのにも「暑い、暑い」となさけない。幸い家を出る時に夫が職場から電話をかけてくれ、昼休み時間に駅から映画館まで送ってくれるという。有り難い申し出だ。駅に迎えにきてくれたおじさんにひとりづつ英語で自己紹介をすることにすると、電車の中でぶつぶつ練習したり、じゃんけんで順番をきめたりと大事だった。無事英語で自己紹介ができ、おじさんからほめられて映画館へ。どでかい映画館にあっと驚いて、バケツのようなおおきな入れ物にあふれるほどのポップコーンをかかえた人たちに目をまるくする。ここは全くアメリカである。ポップコーンとソーダは楽しいけど、映画に集中できないし、それに予算オーバー。ペットボトルの飲み物と小袋のコアラのマーチ、それに映画館の下にある食料品街で並んで買ってきたおいしいシュークリームを配給する。 私は2回目だったせいか、初めにみたときのわくわく感がなく、色も初めに見たほどきれいじゃないという気がした。その時の心の有り様で見え方はこうも違うのかと思った。それとも、どこか引率者の気分があって自分が子どもになり切れなかったのだろうか。あの映画は自分が10才の少女にならなければ魔法のような楽しさは訪れないのかも知れない。しかし、彼女達の反応を楽しみ、引率者としての喜びは味わった。
お風呂はまず裸になるのが一苦労。3人ともなかなかパンツが脱げないでぐずぐずしていた。こういうのは慣れである。人の前で裸になるっていうのもひとつの訓練。積んでおいて損はない。さて、今頃の銭湯の多様さ。薬草風呂、泡風呂、ジャグジ−、エステバス、赤外線サウナ、塩サウナ、水風呂、打たせ湯、露天風呂。それこそファンタジー。実のところ私はお風呂屋さんほどファンタジックな場はないという気がしている。知らない人同志が裸で広い空間のなかにいっしょにいる。それぞれがなんとも腑抜けた良い顔をしている。目を閉じて一人の世界にいる人もいれば、おしゃべりしている人もいる。生まれたての赤ん坊もいれば、おばあちゃんもいる。スタイルの良い若い子もいれば、隠しようもない中年体型の私の世代もいる。しかし、不思議と服に包まれている時ほどに「隔たり」を感じないものである。そもそも水は人間を元のところへ戻してくれる力がある。それぞれが一時にせよアダムになりまたイブになるではないだろうか。
おそるおそるその場へ入った子ども達だったが、時間が進むにつれて解放的になっていき、帰る頃にはすっかり「もっといたい状態」になっていた。 不思議だが、風呂屋へ行って初めの一時間くらいはいつでも帰れる状態なのにそれを超えるころから次第に「もっといたい状態」が訪れ、2時間を超えると「ずっとこのままでいたい状態」に入り帰りたくなくなるのである。しかし、そういう訳にもいかないから今度来るのを楽しみに心を残しながら帰るという具合になり、後を引く。
帰り、子どもたちは迎えに来ていた親に、今度お風呂に連れていってとねだっていた。はて、親に御迷惑かけてしまったかしら。 ともかく、楽しい一日だった。夏休みももう終わり、夕方の風には秋の気配が混じっている。
たまには日記らしい日記も書いてみよう。
朝、5時半。次男が階段を降りる音で目が覚める。夕べはかなり夜更かししたのに、目覚めは悪くない。次男はバスケットの試合で、朝早いから自分で何か食べて行くから起きなくていいと言っていたが、目玉焼きくらい作ってあげようと台所へ行く。
7時半に出勤する夫の車に便乗して大宮まで。今日はバスケットの大会の2日目で会場はM高校。さてバスを探そうと歩いていると、私の名を呼ぶ声。声の主は道路脇に止めてあった車の中から。一度だけ会ったことがある、同じバスケット部のお母さんだ。これからM高校に行くために、他の2人の父兄を待っているところだと、私も載せていただけることになった。 前回は、台風の中、遅れていったので、体育館の入り口から見ていたが、今日は8人ほどの母親の応援隊に混ざって、体育館の2階に陣取り、「必勝」と文字の入った赤い色のうちわなどを手に、応援をすることになってしまった。私ってそういうキャラじゃないので、どこか自分を偽っている、あるいは他の人を欺いているという後ろめたさを頭の隅に感じながらも、シュートがきまれば、声を出し、「ガンバレ−」なんて言ってみる。 我が次男はメインのプレイヤーではないが、出番もあり、6点入れた。勝ち進むに連れて、彼の出番は少なくなってくるらしい。なるほど、勝つためには少数の生え抜きのプレイヤーで固めるというのがこの世界の常なのかと、生え抜きのメンバーからはずされているらしい次男をかわいそうに思ったが、そういうこともひっくるめてこういう世界の厳しさから学ぶこともあるのだろう。それにしても集団の中で見てみると彼の表情の中にはスポーツマンのそれと異質なものが混じっているのが分かる。この場所が私にとって「自分の場」ではないように、彼にとってそこはすっかり「自分の場」というのではないのだろう。しかし、そういう孤独や違和感も必要な要素に違いない。
圧勝のうちに試合が終わったのは10時30分。教会でタミの主催するバイブルクラスがもうはじまっている。一足先にその場を離れてタクシーで教会へ向かう。日頃タクシーを使う習慣がなうので、ちょっとした距離と思ったのに2500円も払うことになってしまい、しまったと思った。しかしタクシーのお陰で、バイブルクラスに参加できたのだから。
ちょうどクラスが終わったところに、午後から休暇をもらった夫が現れた。今日はこれから近くの日帰り温泉へ行くことになっているのだ。夏休みは帰省のみで他にはどこにも行かなかったのだから、せめて半日温泉へという訳だ。その温泉は、部屋着のようなものを貸してくれ、何回でも温泉に出入りでき、広い休憩室では仮眠もでき、映画も上映されるしくみになっている。まずは水着を着てジャグジー、水中ウオーキングをしたり、長椅子で本を読んだりし、その後は温泉。休憩室でエディーマ−フィー主演のドリトル先生の映画を見て、また夜の10時までゆっくりと温泉やサウナを楽しんだ。 それにしても余暇が温泉行きなんてちょっと若々しさに欠けるかなあ。コンサートとか、展覧会とか、買い物とかがこのところすっかり面倒になってきている。
今日祐子さんが掲示板に、幼稚園の時の自分しるしがピンクのチューリップだったと書き込んでいらして、私はその昔、うちの子どもたちの洋服やリュックに刺繍した「しるし」のことを思い出した。長男はとんぼで、次男はかたつむりだった。そのキャラクターは何となく決めたものだったのに、日を追うごろに、そのキャラクターに似てくるので、あのしるしのせいで、よけいに彼らの性格がそれっぽくなっているのではないかしらと本気で心配したりもした。
長男が幼稚園の年長で、次男が年少の時、幼稚園で子どもたちが描いた絵を見ながら先生と話す機会があり、子どもたちの描いた絵が床いっぱいに並べられた。次男の絵はなんとも不思議な絵で、画面いっぱいカタツムリらしいものがいっぱい描かれていて、どのカタツムリの上にも×記しがついた丸や四角のものが乗っているのである。絵の下の方に先生が鉛筆で書いてくださっているタイトルは「かたつむりの誕生日」とあった。そのタイトルを見て、絵の中味がやっと分かり、おかしくって笑ってしまった。
つい何日か前のこと、長男の誕生日に、お友達をたくさんよんで、誕生日会をやったのだった。おにいちゃんはお友達からたくさんプレゼントをもらったのに、自分は何ももらわなかった。なんでも同じようもらってきた次男にとって、おにいちゃんの誕生日はとてもつらい試練だったのかもしれない。そこでかたつむりの誕生日である。たくさんのかたつむりが背中にしょっている×記しをつけたものは、リボンをかけたプレゼントなのだ。当然カタツムリは自分の分身。無意識でか意識してかは知らないけれど、かたつむりにたくさんのプレゼントを描いてあげることで、自分を慰めたのだと分かった。
くやしくて泣きわめいたり、我が儘をいったりしないで、こういう絵を描くところが、いかにもかたつむりの次男らしいと思った。 あれから13年たっても、とんぼはやはりとんぼで、こちらと思えばまたあちら、捕まるものかと飛び回り、かたつむりはかたつむり、家がいちばん落ち着くと部活が終わるとどこへも寄らずにさっさと帰ってきてはごろごろしている。
そんなかたつむりだが、先日バスケットボールの試合を初めて見たら、まるで鬼のような形相でボールをにらみ、かっこよくシュートを決めていた。さて、明日は大会。早起きして、電車とバスに乗って、見に行くぞ。しばらくはかたつむりの「おっかけ」をしようと思っている。
ルカ13章22〜30
◆狭い戸口
イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。 すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」 と言う人がいた。イエスは一同に言われた。「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。 家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。あなたが たは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。
今日の聖書日課だった。教会学校で、この箇所をテキストに話しをする。 まず、レオ レオ−ニ作の絵本「あおちゃんときいろちゃん」の絵本の読み聞かせをして導入にする。あおちゃんも、きいろちゃんも、ふたりがいっしょになってみどりいろになったために、両方の親たちから、うちの子じゃないと閉め出されてしまう。いずれ大人たちにもそのことが分かり、それぞれの色どうしが交流して別の色になって楽しむことを覚えたというユニークな絵本だ。 この絵本のテーマとこの聖書の箇所は直接には関係がないが、客として招かれると当然のように行った家で、家の主人から「わたしはあなたを知らない」と閉め出される場面を思い描かせたくて、この絵本を用いた。
キリスト教にはこういうどきりとする場面がある。世の価値観や、人間の自然な心の有り様をひっくり返すのである。 自分こそは神から愛され、招かれるに値すべき人間だと考えてしまう我々に対して、「あなた方は閉め出される」とまた「先の者が後になる」と厳しい。 教会やクリスチャンという人種が自らを良い人、正しい人と思い込んでしまう、その故にかえって、神から遠くなってしまうことの危険をイエスはすでに警告しているのだ。
「後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」 子どもの時この言葉を聞いて、どきりとしたことを覚えている。それはその時の私がすでに世の中の価値基準で物事を見ていて、自分に対して「先のもの」という意識があったからなのだろう。それが壊された。しかしまた元に戻ってしまう。そしてくり返し砕かれる。 天真爛漫のはずの子ども時代、わたしはもうすでに余計なものをくっつけていてうんと不自由だった。不自由なくせに、着物の脱ぎ方が分からなくて鬱々とし、さっぱり自分が好きになれなかったことを思い出す。
2001年08月25日(土) |
I had a good life! |
もう9年も前のことになる。私たちがアメリカに滞在して最後の夏のことだった。アメリカの学校は6月の半ばに終わり、その後は9月の始めまで長い夏休みが続く。夏休みの間は学校は閉められる。教師も生徒も夏休みの間はその立場から解かれるのであるから宿題などもない。だから夏休みにこれから突入するという学校のラストデイには特別な開放感があるのである。 そのできごとは、その夏のラストデイにおこった。
子ども達はお向かいの家のダグラスといっしょにいつものように、前庭で遊んでいた。どこの家にも家の回りに芝生が敷かれて子どもたちが遊ぶくらいのスペースはあるが家の前の道と芝生の間には歩道があるだけで、柵や塀のようなものはない。ダグラスの家と我が家の間は車道になっているが、大きな通りに出るまでの小さな道で車の通りはあまりないし、スピードを出して走る車もないような道だった。
私は子どもたちが遊ぶ声を耳にしながら、キッチンで夕食の支度か、洗いものをしていた。さきほど、もうそろそろ帰りなさいと声をかけたばかりだったが 子どもたちが家に入る気配はない。いつも5時から7時まではキッチンのテーブルでいっしょに日本の勉強をすることになっていた。今日で学校が終わったので、子ども達はもうすっかり夏休み気分なのだろう。しかし9月から日本の学校に戻ることを考えれば、それまでにやっておくことはいくらでもある。きっとそんなことを考えていたのかもしれない。その時、車の急ブレーキの音が大きく響いた。一瞬、長男のHの顔が浮んだ。彼に何かがあったと直感した。
目の前に車が一台止まっており、止まった車からは大きな音量で音楽がかかっていたような気がする。運転席には濃いサングラスをかけた若い男の人がいたが顔はこちらに向けられてはいなかった。子どもたちの姿を探すと、次男とダグラスが道の脇に呆然と立っていて、そこから少し離れたところに長男が倒れていた。駆け寄ると意識はあり、体を起こしたが立てない様子だった。急ブレーキの音を聞いて、ダグラスのお母さんも家から出てきていた。詳しい状況は分からないながら、ダグラスのお母さんが警察に電話をしてくれたので、救急車が2台と、パトカーが2台すぐに来た。救急隊の人たちがHを担架にのせ、それに体をしっかり固定した。その時になって初めてHは声を出して泣きはじめた。 次男をダグラスのお母さんにお願いして、私も救急車に乗り込み、私たちは町の総合病院へ連れていかれた。検査の結果、額に2ケ所こぶがある他は何も異常はないので帰ってよいと言われきつねにつままれたようだった。本人も腰を抜かして立てないでいたものの、今は何ごともなかったような様子でどこもダメージを受けている様子はない。電話でダグラスのお母さんに電話をし、迎えに来てもらった。家に帰りつくやいなや、Hも他の子どもたちも、ないごともなかったように遊び始め、さきほどの悪夢は全くの夢であったかのような印象だった。
家に帰ってしばらくたった時、ドアのベルがなり、開けてみると、先ほど運転席にいた青年がサングラスを取り神妙な顔で立っていた。私が子どもに別状なかったことを告げ、急に飛び出したことを詫び、彼は飛び出すとどういうことになるか、これでやっと学んだと思いますというと、青年は泣き出し、ぼくも、こういう道でスピードを出すとどうなるか学びましたと頭をうなだれた。あの時は気持ちが動転し、または恐怖で車から降りてこれなかったのだと思った。
夜になって子ども達に話しを聞くと、Hが虫を追いかけて道路に飛び出したところ向こうから車が来てぶつかり、気が付いたら道の上にいたのだという。ダグラスはHが車にはねられた後、空中で回転して下に落ちたのを見たという。 しかし、驚いたのはその後Hが話したことだった。H は、道に飛び出し、車が目の前に迫ってきて、道路に投げ出されるまでのことを話したのだったが、まず、車が目の前に迫って来た時、自分は死ぬのだと思ったという。そして、その時に、口に出して”I had a good life”と言ったのだという。自分の目の前に車が迫って来た時、死ぬことの恐怖ではなくて、「自分は良い人生を持った」などと思うとはいったいどういう子なのだろうと驚いてしまった。そしてその後、私はどれほど、この言葉を心に浮かべたことだろう。そしてその言葉に励まされてきただろう。
つい先頃、何かの話しからHはその時を思い出して話し始めた。あの時、車が自分に向かって来る時、スピードが出ているはずなのに、まるでスローモーションのように時間の流れが変わったのだという。そして車にぶつかるまでの間に、これまでのいろんな状況が映画のコマ送りのように、次々に映し出されていって、思わず、"I had a good life." と言ったのだという。まるで、臨死体験をした人が言っていることではないか。それにしても不思議じゃない、頭のたんこぶ意外には打ち身の後もなかったなんて、空中でフリップしたんだから、それだけの衝撃でぶつかったなら相当痛かったはずだし、ダメージもあるはずだよ。と彼からいわれて、改めてあの時いったい何がおこったのだろうと思った。 彼が車に接触する瞬間に彼を抱きとめふわりと空中を飛んだ天使の姿が見えるような気がした。
2001年08月24日(金) |
生の幸い、命の煌めき |
「在すがごとく死者は語る」に続けて、鈴木秀子さんの「生の幸い、命の煌めき」を読んでいる。鈴木秀子さんはカトリックのシスターで、聖心女子大学の教授でもある。お会いしたことはないが、いつかお会いできるような気がしている。この方の本から学んだこと変えられたことは計り知れない。
この本も先の本と同様に根底に流れているものが、「生」と「死」は連続した世界であるというテーマである。 「死は忌むべきもの」という既成概念から解放され、死に対して新しい視点を持つことの大切さを、さまざまな事例を揚げながら説かれている。死は生の延長線上にあり、それゆえに、死は生の意味を閃きみせてくれるのではないかという彼女の問いかけに、私は全く同感だと思う。 私は日々、死を思わないことはないほど、死を意識している。まずは自分の死だが、これまでに死んでいった方々、今死に直面している人々のことを頭のどこかはいつも考えていて、茶わんを洗ったりしながら、生きているこの世界に身を置きながら、自分もやがてはゆくであろうあちらの世界へ心がさまよいだしていることがある。そういう時というのは何とも満ちたりた広がりのあるこころもちになっている。死を恐れた時期は確かにあったが今はその恐怖を思いだせないほど、死は別の意味を持っている。 大切な人を失うという悲しみや苦しみは決して避けて通ることはできないが、死を通っていった人が生前よりも生き生きと近くに感じられるという体験をしていると、死は新しい始まりという気がしてならない。 この本の中には臨死体験をした方たちが等しく、死を前にした時の至福感を述べておられる。また作者自身、臨死体験を通して啓示を受け、そこからメッセージを受け取るという体験をされている。臨死体験をしたことで、死がどういうものか知り、命が何であるか、新しい発見をされたのである。 本の中に出てくる方々の体験や鈴木さんのメッセージを読みながら、ひとつのできごとが思い出されたがそのことは明日の日記に書くとしよう。
2001年08月23日(木) |
ダイエット中間報告 その1 |
ダイエット宣言をしてから2週間過ぎたことになる。その後何も書いていないから、みんな私がめでたく挫折したと思っている違いない。ちょとここいらで中間報告をしておこう。2週間で3キロ減である。でも数字の割りにはみかけが変わっていないと家族はいう。誰からも痩せたねなんて嬉しい言葉をかけてもらってはいない。けれど、ひとまず、数字を信じるとしよう。あと2週間で2キロ減といきたいものだ。理想体重までは9キロ減なのでまだ道は長い。
朝と昼はうまくいく。問題は夜。なにしろ遅くまで起きているものだから夜中になってのお腹の空き方が半端じゃない。ここで食べなければ間違いなくドラマティックに痩せられることは分かっているものの、我慢というストレスをかけたくないので、おせんべいでも、クッキーでも、食べることにしている。 夕べは梅酒を飲みながら、おつまみの小袋を開けた。隣の部屋で、ぽりぽりやってる音を聞きつけた夫が「もうやめれば」と取り上げに来る気配なので、取られてはならないと急いで食べた。夫もダイエット中の身である。私がぽりぽりやってるのを友情から止めようとしたのか、くやしくて止めようとしたのかは分からない。 さて、ダイエットメニューを紹介しよう。朝食はたいていダイエットドリンク(キトサン、ガルシニア、シトラス の入ったイチゴミルク味の粉末でミルクに溶かして飲むというもの)にプロテインがわりのきな粉を入れてシェイクしたものがメイン。同じ大豆を粉末にしたものだもの、高いプロテインを買うよりもひとふくろ100円のきな粉で結構。パンや米は取らずに野菜やハムや果物の類は多少食べる。
昼食は毎日醗酵させて手作りしているカスピ海のヨーグルトにシリアルやグラノ−ラを入れたり、バナナを入れたりしたものが中心だが、外に出ている時は 平日マックとコーヒーくらいは食べる。ハンバーガーは好きじゃなかったけれど、ダイエット中の身にはこれもおいしくて有り難く食べられるものである。今日は生協に注文していたビール酵母が届いたので、ヨーグルトにスプーン山盛り2杯ほど入れバナナといっしょに食べてみた。おいしいものではない。バナナがなかったら食べられなかったかもしれない。ちょっと苦行をしている感じ。でももうこれ以上食べたくないと思うから食欲が押さえられというものだ。ビール酵母は朝のシェイクに混ぜて飲んだ方がよさそうだ。
夜は普通に今までとあまり変わらないものを食べるのだが、心持ち量は少ない。胃が小さくなったのか、以前のようにバカ食いをしなくなった。昨夜食べたものはイカと帆立貝と小海老をトマトソースで煮てフレッシュバジルを加えたスパゲティ−ソースを少なめのスパゲティ−にかけたもの。レタスときゅうりとピーマンとパプリカのサラダ。
昨日、我が家のティーンエイジャー達がうちにはお菓子というものがないのかとブ−ブ−文句を言う。自分が食べないとなると、つい子ども達のおやつの補給のことも忘れてしまう。そんなおっきな口きくのに、まだ餓鬼の食べるものが必要なのと言い返しながらも夕食後、アメリカのブラウニ−ミックスを使って、ブラウニ−をたくさん焼く。超甘いやつ。ふーん、良い匂いだ。我慢は良くないので一切れ食べるがここのところ砂糖をとっていないためか、体が「これは毒だ!」と叫んでいる感じで食べていてあまり気分がよくない。今までよくこれほど甘いものをいくつも食いらげていたものだとあきれる。午後5時、お腹は空いているものの、目の前のブラウニ−は食べたいとは思わない。
これまでやってみて、今回のダイエットは体が協力してくれている感じがする。それというのも、私が体の欲求を無視しないで、食べたい時には我慢せずに食べているからだろうか。案外、サプリメントの効果もあるのかも知れない。体質が変化しているのかもしれない。今飲んでいるサプリメントはマツモトキヨシで求めたAmino というもの。必須アミノ酸を含む18種類のアミノ酸に キトサン、ガルシニア、シトラス、などのハーブとトウガラシが配合されている錠剤だ。ダイエット中は貯蔵脂肪が消費されるが同時に内臓のタンパク質もドンドン消費されるので、体に支障をきたす。そこでタンパク質を補おうというのだ。2ヶ月分で1500円と価格も手頃なのがうれしい。
さて、お腹が空いてきた。夕食の7時までには何か食べた方がよさそうだ。私の体は何を食べたがっているかなと聞いてみて。玄米御飯と梅干しと出た。それではちょっと失礼。
掲示板にかめおかさんとマオさんが鈴木秀子さんの「愛と癒しのコミュニオン」のことを話題にされていたことから、わたしが思い出したことがある。そのことは私にとってとても意味深いことだったが、何か言い様もないことで、誰に語ることもなく、また書くこともないまま胸にしまっていたが、書いておきたいと思った。
2年前のこと、母が静脈瘤を取る手術をすることになり、その間、痴呆の父を老健施設にお願いすることになった。子ども達はみな他県で暮らしており、父の世話は母だけがしていたのだ。私は帰省したものの、父は私を娘とは思わず、私が家にいると、そこが自分の家とは思わず、おじゃましましたと帰ろうとする。帰るところとてないのに。とても父と2人だけですごせないと判断し、昼間は私が父といっしょに老健ですごし、夜は父が眠るのを見届けてから病院から戻り、また翌朝早く、老健へ出かけた。それでも、父は夜中に起きてはなかなか眠らずに職員の方や看護婦さんをてこずらせているようだった。そんな時、母を病院に訪ねる折り、母に本を買っていこうと立ち寄った本屋で鈴木秀子さんの本が目に止まり2冊求めた。1冊は「愛と癒しの366日」で、もう1冊は「愛と癒しの時間ー心が充たされる瞑想」というものだった。母のところに持っていくために買ったのだが、病院へ向かうバスの中で、その瞑想の本を読んでいて、ふとこれを父に聞かせたいと思った。そこでその夜、4つだかあった瞑想を声に出して読みテープに録音し、次ぎの日父のところへ持っていったのだった。病室なので、テープレコーダーにイヤホーンを取り付け、父の耳に持っていった。父が内容を理解できるとは思わなかった。でも切れ切れにでも瞑想ができ、就寝前の時間に心が鎮められたらと思ったのだった。
父の反応は意外だった。テープを聞きながら、強い反応を示した。顔がみるみる輝いてきて、「おおこんなこと言いよる、ほんとか、ほんとか、あなたは愛されていますと言いよる。ああ、泣こうごとある、、、。」 父は実際泣いていた。こんな父の姿を見たのは初めてだった。歓喜している、子どものように語られる言葉を受け入れ、それに感動している父。「こげんこと初めて聞いた。うれしか、うれしか」と自分の感情をそのまま口にしている父。そんな父を見ながら深い感動が起こったが同時に痛かった。70年の間、自分が愛されている存在だと、かけがえのない貴い存在なのだと誰からも言葉として語られなかった、語られたとしてもその言葉を受け入れたことがなかったということを知ったからだった。また私たちが知らないところで挫折感や劣等感、また孤独やあきらめを耐えてきた父が見えたからだった。
父は自分がこの世界でただひとりの存在として神から愛されている、その全存在を受け入れられているということをその時初めて受けとめたのだと思う。そしてあの時父の内におこったこと、それが癒しというものではなかったろうか。父はこのテープを聞いたことも、それを聞いて涙を流したこともそれから何分もしないうちに忘れてしまった。父の脳はもうどんなことも新しく記憶することはできない。しかし、あの瞬間に起こった癒し、神との和解のできごとは父の脳が記憶していなくても、神の記憶の中にはとどめられていると思うのである。
高橋たか子のエッセイ集、「驚いた花」を読み終えた。 いつもそうなのであるが、彼女の書いたものを読む時、なんとも形容しがたい 満足感に充たされる。
彼女は私の母の世代である。しかし、彼女に母親に対するような感情を抱いているのではない。そもそも彼女の中に母なるものは見出せない。女性にしかない独特の感性を持ちながらある面で非常に男性的である彼女はいっしょにお茶を飲みながらおしゃべりしたい相手というわけでもない。教師に持ちたいパーソナリティーでもなければ、信仰者として、相談したり話しを聞いてもらいたい相手でもない。そもそも会いたいとは思わないのである。それなのに、私は常に彼女の書いたものを読んでいたいと思っている。これから先、それを読むという愉しみを失いたくないと願っているのである。 この満足感はいったい何なのだろうと思いつつ読んでいる時、エッセイの中にそれを示唆するような文があった。 一部引用すると 「人間は一人一人が井戸であり、地下水を汲み上げながら生きている。そして、井戸の底のほうで地下水があらゆる人に共通しているのである。大庭さん(作家の大庭みな子氏のこと)と私とはそれぞれ、地下水のところまで潜る能力があり、潜りながら喋っているから、どんなに違うことを言いあっていてもたがいにツーカーと理解しあうのだ、、、、、。」
私は高橋たか子と大庭みな子との対話に入っていけるなど大それたことを思っている訳ではないが、彼女がいうところの、この地下水の概念が、私の満足感の所以だと納得した。彼女の言葉が触れてくる場所というのが私の底に流れている地下水の汲める井戸で、いっさいのものが剥がされた裸の私がひとりいる場所なのだ。しかも彼女の存在はわたしを脅かすことはない。ひとりの彼女とひとりの私は交流しあうというのでもない。ただ彼女の言葉で私は私の行きたい場所へと、降りていくことができるのである。彼女の言葉がそこへと誘いだしてくれるのである。満足感とは私が地下水の中に潜ることができることへの満足感に他ならない。 彼女はこの「場所」について別のところでこのようにも語っている。
「他人が慰めることもできない、ひとりっきりの底の底の場所にこそ、祈りが成立する。何を祈るかなどという具体的な段階のことではない。その場所は祈り以外に何もすることがないほど、具体的に祈ることなど何もないほど、裸なのである。そこにそうして存在していること事体がいわば祈りの行為なのだと言ってもいい。」
さてこの文を綴っている私のすぐ側で息子達はTV ゲームに打ち興じている。実にうるさい。この喧噪の中でさえも、彼女の言葉は私を全くの静寂へと誘うことができる。大した力であると思う。
2001年08月20日(月) |
死んだ男の残したものは |
谷川俊太郎ファンサイト「空の嘘」では8月の詩が新しく掲載されているはずだが、HPの立ち上げやら更新やらで、詩を味わうためのゆっくりした気分が訪れなかった。今朝やっと開いて、はじめに載せられている詩のタイトルにはっとした。
「死んだ男の残したものは」
この詩を私は歌として知っていた。知っているばかりか、ある時期、毎日のように歌った歌だった。あまりになんども歌うと、言葉もメロディーも自分の肉体の一部でもあるように、歌の細部が細胞のなかに息づいているように感じるものである。そしてその感覚はその歌からしばらく離れた後で何かの折りにふと聞いた時に激しい衝撃とともに甦る。その歌といっしょに、すでに過去になったはずの時間が、そこに存在した過去の私といっしょに立ちのぼってくるのである。
この歌を私は16歳から18歳あたりにかけて歌っていたと思う。その歌を作った人のことなど考えてもみず、これを自分の歌であるかのような親しさで歌っていた。聴衆がいるわけでもない。たったひとりで自分の部屋の閉じられた空間で歌うのだが、私の想いはその場所を抜け出し、戦争で死んだ男や、女や、子どもや、兵士の上を彷徨っていた。起こってしまった戦争への取り返しのつかない無念さと、今もどこかの戦争で死んでいる人々がいることへの怒りのようなものを歌うことで吐き出していたように思う。何もできないので、せめて歌うことで社会に抗議しようとしていたのだろうが、若い者にありがちな感傷といわれるたぐいのものであったのかも知れない。
今朝、はっとしたのはあんなに自分の歌として歌い続けた歌を今歌っていないということだった。あの歌の中で出会っていた死んだ男や、女たちのことを私は長いこと忘れてしまっていたことを知る。どうして忘れることができたのだろうと思うと同時に、あの頃のきりきりとするような痛みを今の私は持てないのではないかと疑った。
楽譜が並べてある書架の奥から1冊のノートを取り出す。 表紙にはMy Songs Note BooKというタイトルが書かれてあって、その下には Short sisters and brothers Arm up with love and Come from the shadow というボールペンの文字がある。確かに私が書いたに違いないが、いったいどこから写し取った言葉なのか、さっぱり思い出せない。 もう、閉じ糸が切れてばらばらになっているそのノートにはぎっしり歌の言葉とギターのコードとが書かれていた。その多くは反戦歌やプロテストソングと言われるジャンルの歌だ。日本の歌もあれば、英語のものもあった。どの歌も歌詞を見なくても歌えるくらい今だに親しかった。 このノートをめくりながら、下手なギターのコードを押さえながら、私は毎日のように歌っていたのだ。願いや叫びを歌といっしょに体の外に出さずにはいられない私がいた。
「死んだ男の残したものは」は68ページ目に、岡林信康の「手紙」の次ぎに書いてあった。谷川俊太郎作詞、武満徹作曲と記してある。 あの頃はまるで、孤独の中で歌っているように思っていたが、この歌にはこの歌を作った人の魂があって、私はそれに動かされ、感化されていたのだと今になって気がつく。知らないところで、自分でもそれと気づかずに、私は他の魂と交流していた。そしてその交流は私というものの一部を確かに形づくったのだ。 忘れていたこの歌と、今新しく出会いたいと思う。今の私の心で生々しくその歌を感じたい。今の私はこの歌をどのように歌うのだろうか。
(この詩は「空の嘘」谷川俊太郎の詩を読んでみようのページにあります。「たりたガーデン」のリンクよりどうぞ。)
2001年08月19日(日) |
地上に火を投ずるために |
「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。 しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ 分裂だ。今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。 父は子と、子は父と、 母は娘と、娘は母と、 しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、 対立して分かれる。」
ルカによる福音書12章49〜53
今日の聖書日課の箇所だ。 イエスが群集に語りかけている一連のメッセージが続けて書かれている中で、この語りかけはなんとも過激だ。しかし、その過激さの故に、私は若いころからこの箇所が好きだった。 イエスは地上に火を投ずるために来たのだと、平和よりも、むしろ分裂をもたらすために来たのだと言い放つ。 しかし別のところでイエスは、右の頬を打つものには左のほほも向けてやれと言い、上着を奪おうとするものには下着をも与えろと教えるのである。 だから、ここでいう分裂は単に仲たがいや喧嘩を良しとするのではなく、人と人との関係の深い部分に切り込んでくる言葉のように思える。 私たちは人とまた社会とうまくやっていこうと無意識にバランスを取っている。社会は「秩序」をまず、求める。上に立つものが下にあるものをコントロールできるようにルールや慣習が人間を支配する。そうして極力波風が立たないように穏便に事を運ぶことが良しとされる。これは今の日本の社会のことのようだが、2000年前のイエス時代でもそうだったのだ。 そこへイエスは分け入って波風を立てるのである。秩序よりもっと大切なものがあるのだと、それに気づかせるためには火も投ずると。
イエスが火を投じるまでして人々に知らしめたかったことはいったい何なのだろう。私はこう考える。秩序や規範に従っていればよいとする生き方ではなく、ひとりひとりが自分自身に目覚め、神と直接に向かい合うという生き方を提示しているのだと。人が自分の魂に忠実に生きようとするとき、自分を支配しようとするものと闘わなければならない場面が生ずる。それは時として、反抗の形をとったり、分裂をもたらしたりするかもしれない。けれど本当の関係を建て直すためにそれは避けられないことだと思うのである。それは憎しみや妬みから生じるものではなく、おのおのが自分自身に立ち返るときに生じる分裂だと、産みの苦しみだと思うのである。眠っている魂よ目覚めよとイエスは火を投じるのだ。
私は性分として、回りとのバランスを取ろうとする傾向がある。誰も嫌な思いをしないように、事をまるく治めようとしてしまう。そして無意識のうちに秩序やルールに縛られ、人にもそれを要求してしまう。しかし、それこそが私の弱さであることを、イエスから遠いということを自覚している。いつもそのジレンマに立たされる私は、きっぱりと言ってのけるこのイエスの過激さに惹かれまた信頼する。
1956年の4月3日に私の父は父となった。私が生まれた日である。父は終戦後、引き揚げ先の郷里で小学校の教員をしていたが、同じ学校で教えていた母と結婚し、同時にその小学校をやめ、郷里を出て法務教官として歩み始めていた。
娘の名前をはじめ、葦子としようとした。パスカルの「人間は考える葦である」という言葉が心にかかっていて、そこから名前をもらいたいと考えたようだ。でもアシという音は響きが悪い。役場に行き、この文字でヨシと読むように届けを出したが、受け入れてもらえず、押し問答をしたあげく、結局は今の名前になったと残念そうだった。今なら葦子(あしこ)なんていいじゃないと思うが、その話しを聞いた小学生の頃は河に生えているアシだのヨシだのという名前でなくてよかったと思ったものだった。
故郷を離れ、親、兄弟、親戚から離れての暮らしだった。言葉も慣習も違う。その土地の言葉を持ち、その土地の習慣の中で生きている人々の中にあって、私たち家族は「よそもの」であり、子どもごころにも違いやそこから生じる違和感をいつも感じていた。 その「よそもの」の意識のせいなのか、それとも父の信念の故か、父の育て方の中には、人と足並みをそろえるのではなく、より大きく、より広く、より高くといった理想のようなものがあったと思う。父は公平な視点は失っていなかったが何か高い理想のような、夢のようなものを内に持っていて、それを子育てのなかで実現させようとしていた節がある。幸い母親が小学校の教員をしていたため、子どもたちの教育係りは父の仕事となった。小学校から大学に至るまで、入学式について来たのは父。授業参観もよそのお母さんたちに混じっていつもいた。話しに聞けば、父の父もよく学校へ授業を見に来ていた教育パパだったらしい。これは血だ。父は私や弟、また近所の子たちを何かにつけて教育しようとかまえていて、ラジオ体操や子ども会のリクレーションといったところにはいつも出没した。読書感想文のコンクールや交通安全などのポスターのコンクール、夏休みの作品には子ども以上にファイトを燃やした。そんな熱心さにちょっといい迷惑気味なところも、子どもとしてはあったのである。
私が高校の入学を控えていた4月のはじめのある日のこと、父が意気揚々とパンフレットを持って帰った。それは中学生と高校生のカナダでのサマースクールのパンフレットだった。今はすっかり定着した海外夏期学校や海外体験学習は当時まだ珍しく、小さな田舎町ではなおさらのことだった。この話しを聞いた時にはうれしい気持ちを通り越して仰天した。余分なお金など無いので借金して行かせるというのである。なんだか気も重かった。しかし、父の言い分はこうである。「大人になって観光で外国に行っても、外国から学ぶことはあまり期待できない。まだ若い時に外国の空気を吸う必要がある。」と。私もあわてて、ラジオの英会話の番組を聞いたり、高校では英会話クラブに入ったりし準備を始めた。しかし、学校は良い顔をしなかった。その頃は受験体制が変な具合に強化されていて、高1だというのに、夏もお盆以外は夏期クラスがあったのである。その夏期クラスのほうが大事だと校長が言ったらしかった。父は学校に呼び出され、担任から説得されていたのを覚えている。父はこちらの方が大切だと主張て譲らず私ははらはらした。今思えば、父の夢にも似た思いがそこにあったのだろう。
父がカナダへ私を行かせたことは、すぐには英語の成績にも、英会話にも結びつかなかった。逆に私はカナダの高校生達と接触して、自分たちの課せられている受験勉強がどんなに意味のないものかと憤慨してしまったのである。大学受験を最重要視する学校や教師にわたしは反抗的になった。それでいて大学には進学したい。その矛盾に苦しんだ。その後しばらくは英語とも外国とも無関係に日々を送っていたが夫の海外赴任のため、アメリカで生活をするようになり、カナダでの体験がやっと繋がったのである。少しも好きではなかった英語が別の輝きをおびて迫ってきた。やがて英語は私にとって自分を表現するもうひとつの言葉となった。言葉を得ることは、またちがった自分を得ることになる。息子たちは親に付き合い、望まないままに2つの文化と2つの言葉の中で育ち、それ故の生きづらさも味わった。どうなることかと思ったが、一人目は最近バイリンガルとしての自分の立場に目覚めたようである。
大学一年生の長男は、ふとしたきっかけから、アメリカ人のジャーナリスト達が手掛けているプロジェクト(世界中の17才に彼らの夢を語らせるというもの)に通訳としてかかわった。はじめはただのアルバイトのつもりだったようだが、外国人記者クラブのメンバーであるそのジャーナリスト達は、息子がジャーナリスト志望だと知って、彼が自ら取材し、記事にする場を与えてくれた。つい先日、息子が書いた英文の記事が載った外国人記者クラブの発行する新聞が送られてきて驚いた。よくもまあ、ついこの前まで高校生だった息子を一人前に扱ってくれるものだと、彼等の懐の広さと育てようとする力の大きさに感動し、感謝もしたが、その新聞を手にした時、まず浮んだのは父だった。父がこのことを誰よりも喜ぶだろうと思ったからだ。父の夢のようなものが孫へとバトンタッチされている、とそんな気がしたのである。
エッセイ集、「父の12ヶ月 」のために
夏の庭にはチューリップやパンジーもなくて 華やかさには欠けるけど、 鬱蒼としたジャングルみたいに ハーブなんかがわさわさ生えている様子がすきだ。 少し涼しくなったから、チェリーセージが深紅の花を付けはじめ ゼラニウムも赤い花を付けた。 サマーウエーヴもずんずん広がり、これに花がついたらきれいだろうなあ。 暑いさなかに刺し芽をしたサマーウエーヴと子手毬が無事根付いたようだ。 植物ってほんとに逞しい。切った茎から根を広げていくのだから。
植物たちの下を時々とかげがちょろちょろと走り過ぎる。 とかげたちもこの小さな庭を住処としているのだろうか。 そうだったらなんだかうれしい。花だけじゃなく、虫やとかげともいっしょに暮らしていることになる。
春に、この夏はメドウセージと張り合いたいなんて日記に書いたせいかしら メドウセージの勢といったらすごい。負けてなるものかと思っているのだろうか、庭いっぱいに枝を広げ、次々に深いブルーの花をつける。 庭の中心という感じで、他の植物から一目置かれているようすだ。 先日、近所の方からピンクと紫の日々草の苗を4ついただいたので植えた。 花の少なかった庭が少し艶やかになった。 そういえば、今年は朝顔の種まきを忘れていた。この時期に真っ青な朝顔が見られないのはやはりさびしい。 花は数カ月先のことを考えて、植え込みをしたり、種まきをするのでなければ。10月にどういう花に会いたいかなあ。そろそろ苗屋へ行ってみよう。
2001年08月16日(木) |
たりたガーデン、店開き |
きのうまで、後1週間はかかるなと思っていたのに、夜中になってオープンすることを決めてしまった。
準備というのはなんだか苦手。 わたしはアドリブの人だもの。 下書きなし、ぶっつけ本番じゃないと勢いがつかない。 用意周到がよいとは分かっていても、私はいつもドロ縄。 縄をなうのだって下手だから、いつも間に合わないくらいだけど。 りっぱにやらなきゃというプレッシャーが先ごろ、とみになくなり 「わたしらしさ」でなんでもやっつけてしまおうとしている。 そんなHPがあってもいいか。 いろんな人間がいる方がおもしろいに決まってる。
掲示板をのぞくともうたくさんの方がいらしてくれて言葉を 残してくれている。カウンターは30を超えているので、それより多くの方が いらしてくださってることが分かる。 この場を借りて、いらして下さった方、日記を読んで下さった方へ 「ありがとう!」
今日は「海外からのメッセージ」というのを目次に加えることにした。 「えんぴつ」の日記を利用すれば、自由に更新ができる。有り難い。 登録と書き込みはすませたので、後は事実上の管理人の夫Aにつないでもらうだけ。 そのうち、A の写した庭の花々の写真も登場する予定だ。
マオさんから依頼のあったミュージカル『森のおく』で、子猫を探す時の歌 ができた。 今朝のこと、目覚めてからしばらくベッドの上で横になっていると、はじめのフレーズがメロディーと言葉とがいっしょになって出てきた。「どこにいるの子猫」というよびかけのフレーズだ。そうすると、私は森の中へ入っていき、歌を歌いながら子猫を探しはじめた。子猫を見つけたい気持ちでいっぱいになる。しばらく飼っていて事故で死んでしまったスケイローという猫を探していいた。実際、私たちの家族の中で一番先に天国へ行ったのがスケイロだったから、私たち家族は死んだらスケイロに会えるとどこかで思っているのだ。天国は森のように暗くて淋しいところではないだろうが、たくさんの猫達のなかからスケイロを探し出すというイメージを抱いている。 心と心はつながっているので、そのつながっている糸を引き寄せていけば、スケイロの心に行きつくと、つまりスケイロを見出せると、そんな気がしている。 はぐれてしまった人や動物を何とか見い出したいという気持ちの中には、強い願いや、祈りが混ざっていると思う。そういう時はそうとは気づかないうちに必死で祈っている。
そんな思いが歌を作っていった。ピアノで音を確かめ楽譜に書いてみた。ギターを弾きながら歌ってみた。 私の子猫をさがすイメージはこんな歌だが、作者のマオさんのイメージと合っているだろうか、ミュージカル全体の雰囲気とかけ離れてはいないだろうかと 心配になったので、できたままを歌詞をマオさんメールで送った。 マオさんが舞台で表現したいものが私の作った歌詞の中にあると言ってくださった。よかった! 初めての作詞、滑り出しは好調だ。
今日はAも私も一歩も外に出ずに、HPつくりをしていた。 絵などうまくもないのに、自分の描いた絵を使ってみようとあれこれやってみた。(描いたものをスキャナーに取り込んで、処理するのはあくまでA。私はとことんアナログ。)
久し振りに画用紙にお絵書きをする。A は私が描いているのを見て、ほんとに子ども心を失っていない人だねとか、私の絵は子どもしか描けない絵だとか、誉めているとも、呆れているともとれるコメントをくれる。
押し入れの奥から20年ほども使っていなかったパステルを取り出した。 そのパステルで、下絵も描かないまま、手が動くにまかせて描く。偶然にできる線や色の重なりが好きだ。そういえば、この発色の美しいドイツかどこかのパステルは父からくすねたものだった。 父はこんな私の描き方を見て、いつも雑だと文句をつけた。もう大人になってのことだったが、実家に帰っていてプリントゴッコでクリスマスカードを作ったが、父がそばにいるとあれこれうるさくいわれそうなので、いない間にイラストを描き、さっさと印刷まですませてしまった。一枚は手作り絵葉書コンクールに出そうと残しているのを父に見つかり、コンクールに出すのなら、もっと丁寧に作れといわれたが、そんなの知ったことではない。もう大人ですからと無視した。その結果、この手作り絵葉書がコンクールの一般の部で最優秀賞をいただいた。展示会場に行くとプロのデザイナーの作品の中に混じって、私のクリスマスキャロルを歌っている子ども達をデザインしたものは、少しも洗練されておらず、まるで子どもが描いた絵のようだった。どうしてこんなのが最優秀なんだろうと納得がいかなかったが、独特だということはいえたかも知れない。 絵を描きながらそんなことを思い出した。 もう20年近くも前のことである。
何日か前に「千と千尋の神隠し」を見た。宮崎駿の描く女の子はいつもまっすぐで、潔く広くて強い愛を持っている。恐怖や邪悪なものに心を閉ざしていくのが人の常なのに、彼女たちはそこのところをすっと超える。恐怖の前で勇気にあふれ、邪悪なものを愛の力で癒す。私には彼女たちが永遠なるものに自分を投げ入れていくように見える。それゆえに永遠なるものの力が彼女たちに宿るような気がする。初めてナウシカという少女の中に見たひとつの原形を、千尋の中にも見る思いがした。
今度のアニメは映像は不思議だった。どの絵もいつか夢の中で見たことがあると思った。どうして私の夢の絵がこんなスクリーンの中に出てくるのだろうと思ったのだが、夢というのは誰の夢もこんな様子をしているということなのだろう。 暗いトンネル。いきなり開ける人のいない草原。廃虚。自分が人間以外の動物に変わる夢。夢の中でもらう解かなければならない課題。空を飛ぶ夢。水に溺れる夢。そういった記憶の底に残っているきれぎれな印象がストーリーとなってまた映像となって現れてくるのは何といっても楽しかった。
千尋を助けた川の魂を千尋が思い出す場面は心が震えた。川とも樹とも人間は交流することができる。川も樹もその交流を忘れてはいない。これはファンタジーだけの世界のことだろうか。私は小さいころそこを通る度に幹を撫で、心の中で話しかけていたケヤキの樹のことを思い出していた。私は今でも風や木々との交流を信じている。
わくわくする不思議な夢から覚めるように映画が終わった。 その後で聞こえてきた歌に戦慄が走る。 ぼろぼろと涙がこぼれる。この声はいったい何? その声のなかにまっすぐな魂が見える。なんという存在感だろう。 今までに聞いたことのない歌い方、声の方向だった。その時はその歌声にただ圧倒されて言葉は切れ切れにしか捕らえられなかったが「生きている不思議 死んでいく不思議」というフレーズと「ゼロになるからだ 充たされてゆけ」というフレーズが胸を突いた。
今日、この主題歌のCDを手に入れてきた。この歌を作曲し、歌っているのは 木村弓という人。シュタイナ−の思想をもとに考案された竪琴ライアーの弾き語りをしている人だということが分かる。 ここでも シュタイナ−に出会ってしまった。心惹かれるものを探してゆくと、行く先々に シュタイナ−がいるということの不思議。 久し振りに出会ったこの歌のせいで私の心はおもいっきりふくらんでいる。 今日、マオさんから「ねこんさーと」の舞台の中で歌われる歌の歌詞の依頼があった。このふくらんだ気持ちのまま内から出てくる言葉を待つとしよう。
2001年08月12日(日) |
サマーキャンプ終わる |
教会学校のサマーキャンプ「かみさまへのてがみ」が無事に終わった。 11日の午前11時から翌日の正午まで10人の子どもたちと過ごした。 一日いっしょに寝泊まりしてみると、子どもたち、ひとりひとりのことがよく見えてくる。子どもたちとうんと近くくなり、もっと好きになる。子どもたち は親から離れると、おのおのおエネルギーがよりくっきりしてくる。大人といることで、隠れてしまっていたその子本来の力のようなものが見えてきて楽しい。そして、子どもたち自身、少し緊張はあるけれど、そういう自分が好きなのだ。キャンプはいつもと違った自分を発見する場である。
マーブリングは、何色かの色チヨークを水を張った容器の上で薄くけずり、そこに紙をのせて引き上げるだけの作業なのだが、出来上がる模様の意外性が楽しく、子どもたちは何枚でも作りたがった。そして思いのほか美しいものができた。
「かみさまへのてがみ」のプロジェクトでは、はじめ、子どもたちが書いた神さまへの手紙を何人かの子に読んでもらい、その後3つのグループに分かれて自分の手紙を書くというものだったが、意外にも、始めの読む場面が盛り上がった。スタッフのMさんのアイデアで、本にある子どもの手紙を便箋に書き写し、封筒に入れたものを3通、教会のメールボックスに入れておいたのだ。Mさんが、「いつも、わたしがやっている仕事を手伝ってくれる人?」と聞くと、みんながやりたくて手をあげる。そして、取ってきた手紙を読んでくれる人と聞くとみんなが読みたいとわいわいいいだす。じゃんけんで勝った子は一年生でうまく読めなかったりするのだけれど、それでもみんなの前で読むのがうれしそうだった。その後のグループごとの手紙かきも、スムーズにいったようだった。どの子の手紙も、本の中にある子どもたちの手紙と同じくらいすてきでこころに響いた。自分で染めた紙に書いた手紙は模造紙2枚分に貼られ、すてきな作品になった。
スナックはポップコーン。アメリカ人のBが輸入食品屋からポップコーン用のとうもろこしを買ってきた。Bのまわりに子どもたちが集まり、とうもろこしがはじけるのを見守る。Bのパフォーマンスを子どもたちは手品を見るように見ていた。
カレーを作る。後かたづけをする。家ではこんなにおもしろがってやることはないだろうに、たまねぎやじゃがいもを切ることを喜び、みんなの皿を洗う順番を競いあう。何も働くものがない子はほうきとちり取りを持ってきて床を掃き始めた。テーブルを拭いてる子もいる。なかなかである。
カレーの後のデザートはアメリカのキャンプ菓子のサモア。あいにくの雨で外で火をおこすことができなかったが、Yくんがガス台を使って炭をおこしてくれ、みんなでマシュマロをスティックに刺して、それを炭であぶり、とろけたところでそれとチョコレートをグラハムクラッカーにはさんで食べた。ダイエット中の私は横目で見ているだけだったが。来年は食べられるようにがんばろう。
銭湯は女湯はAちゃんと Mちゃん、そしてアメリカ人の Tと私の4人だけ。男の子たちの方は大人4人でも大変だったようだが、私たちは平和そのもので、時間が短いのが残念なほどだった。私は女の子もいなければ、姪もいない。Tはまだ子どもがいない。「時々、この子たち借りて、お風呂にこようか」と話した。風呂は一人に限ると思っていたけど、子連れもなかなかよいものである。
やがて夜。礼拝堂に布団を敷きつめてみんなで寝る。心配だった低学年の子たちも問題なく眠りに付いた。何度もトイレに起きる子や、むっくり起き上がり、別の子の布団に侵入する子や、おねしょしたと勘違いして泣きそうになってる子や、それなりのドラマがあり、私はぐっすりねむることはできなかったけど、彼等の夜に付き合ってそれなりにおもしろかった。
朝、子どもたちはふっくらとみずみずしかった。 どの子も自分で寝具の始末をし、着替えも洗面もスムーズである。何も言わないのに、遅い子どもや、小さい子を手伝ってやっている。子どもってこんなに偉かったっけ。さんざんだらしのない10代を見てきただけに、小さい頃の子の偉さをすっかり忘れていた。
Tのアイデアで、絵いりのホットケーキつくりをした。はじめに、ホットケーキの種にメープルシロップを入れた生地をホットプレートの上にたらしながら絵を描き、しばらく焼いてからその上にシロップを入れない生地を流して焼く。ひっくりかえすと絵いりのホットケーキの出来上がり。何人かの子は家に持って帰るための分も作っていた。私はつい、時間がかかるなあと母親感覚で物事を見てしまうが、Tは楽しむ視点をまず大切にする。朝食が想像的な遊びの場になった。おみごと!
スタッフは教会学校の教師と英語学校の教師の6人だが、部分的に牧師、教会のメンバーの手伝いがあった。我が家の大学生も助っ人の役を果たし、もっぱら男の子の子たちの闘いの相手をしていた。
その昔、小さい私は毎年教会学校のキャンプを楽しみにしていた。きれいな河のそばの廃校になった小学校がキャンプ場だった。河で泳いだり、河原で飯ごう炊飯をしたり、夜の花火やおばけのはなしもわくわくした。 我が家の子どもたちも、アメリカにいる間は教会のバイブルキャンプ、町の主催するデイキャンプ、YMCAが主催する2週間通しのキャンプと夏はキャンプ三昧。子は親から離れて楽しみ、親も子から離れて楽しんだ。
子どもたちの相手をしながら、息子が言った。「ぼくたちが行っていたキャンプのカウンセラーたちはたいへんだっただろうね。これが2週間続くんだから。」 私も、今さらながら、私のキャンプに付き合ってくれた大人たちや、息子たちの世話をしてくれたキャンプカウンセラーたちに頭が下がる。お世話になった。まだまだ次ぎの世代に手渡すという「お返しは」足りない。息子、君もがんばりなさい。
「かみさまへのてがみ」という絵本がある。アメリカの子ども達が神様へ宛てて書いた手紙集Children's Letter to Godを子ども達の書いた文をそのままに載せた上で、谷川俊太郎氏の翻訳と、葉祥明氏のイラストがほどこされているものだ。その後、「かみさまへのあたらしいてがみ」「かみさまへのてがみもっと」と3冊になってサンリオから出版されている。
Dear God, My name is Robert. I want a baby brother. My mother said to ask my father. My father said to ask you. Do you think you do it? Good Luck, Robert ロバートくんは弟がほしいと神様へ手紙を書いた。 「あなた、できそう?がんばってみてね」というニュアンスがおもしろい。 こんな子どもたちの手紙を読んでいると、「かみさま」との距離が驚くほど近くて驚いてしまう。そして、そうなのかと教えてもらうのである。
明日からの2日間の教会学校のキャンプのテーマは「かみさまへのてがみ」 祈りということを学ぼうとしている。 オープニングではスタッフが即興で、それぞれ、祈りの場面を演じる。 グループごとの活動では「かもさまのてがみ」を読んで感想を言い合い、 自分でもかみさまへの手紙を書いてみる。みんなの手紙を模造紙に貼ってひとつの作品にする。絵もかく。手紙をかく紙はマーブリングで染めつける。 スタッフのひとりが作ったテーマソング「かみさまへのてがみ」を歌い、翌日の礼拝でみなさんに聞いてもらうことになっている。 さて、どんなキャンプになるだろう。 私もかみさまへ手紙を書いて寝るとしよう。
愛する神さま いよいよキャンプが明日になりました。 ちょっとどきどきしています。 今度のキャンプの参加者は英語学校に通ってきているこどもたちばかりで あなたのことをまだ知りません。 いえ、知っているんです、きっと。でもそのことに気が付いていないかも知れません。 神さま、あなたがそこにいてくださるといいなあ。 はじめからおわりまで。 こどもたちにはきっとあなたに出会うでしょう。 小さい頃、ちゃんとわたしがあなたをみつけたように。 神さま、どうぞ子どもたちのやわらかな心を大人の固さでたいくつにさせたりしないように、大人のわたしたちがまず、楽しくすごすことができるようにしてください。 そして、いろんな危険や自己から守ってくださいね。 みんながあなたといっしょにいることのうれしさをおみやげに持ってかえることができますように。 ではおやすみなさい。
とても奇妙なことがあった。去年の1月から約半年程の間、私はむちゃくちゃに納豆に狂っていた。それまでは嫌いでほとんど食べなかったのに。 お腹が空くとどういう訳か納豆ののっかった御飯が浮んできた。買い物が大嫌いで、品切れのものがあっても、わざわざそれを買いに行くことなんかはしない不精者の私なのに納豆があと1個しかないとなれば、薄暗くなった道を自転車を走らせスーパーへ納豆を買いに行った。我が家の冷蔵庫を納豆が占拠し、家族から文句が出ていた。レストランでは納豆サラダを注文し、寿司屋で納豆巻を注文して変な顔をされた。果てはフリーズドライの納豆をおやつがわりに食べるほどだった。本屋で納豆の本を見つけた時はうれしくて即買い求め、何度もページをめくってはほれぼれと納豆の姿を眺めていた。これはもう納豆に恋をしているとしか言いようがないほどの異常なはまり方だったのだ。一日に6パックも食べていて、私は納豆があれば一生の間それだけで満足して過ごせると本気で思っていた。
ところがである。その頃、人間ドッグで、ひどい貧血症であることが分かり、造血剤の注射を週に3度も打つようになると、ぴったり納豆狂いが治まったのである。貧血が治って体調が良くなったのはうれしかったが、もう納豆を好きでなく恋が醒めたときのように、納豆の姿にも匂いにも心惹かれず、それどころかもう食べたくなくなったのは何とも残念なことだった。この心変わりの早さにちょっと自己不信に陥った。
あれからほぼ一年、今日の昼のこと、突然納豆が食べたいと思った。納豆をかき混ぜ、刻んだねぎと青じそとみょうがを入れて残っていたきゅうりの千切りも入れてお茶碗に半分ほどの玄米の上にとろりとのっけた。その姿の美しいこと。おいしいこと。なんとも満足な昼食だった。
さて夕方スーパーへ行った時、私はお菓子も肉もかごに入れたいとは思わないで、納豆を6パックかごに入れていた。これはどんな変化が私の体で起こっているのだろう。体が欲するものはその時体が必要としているものだと思う。食べ物への姿勢をほんの少し変えただけで、もう体は自分のニーズに敏感になっているのだろうか。心なしか、精神もぴっとひきしまったような気がする。 さて納豆との将来はいかに。
昨日の日記のバジルのパスタといい。さっき書いた博多ラーメンの書き込みといい、私の体は相当おいしいものを求めているようだ。 そして、これはまさしくダイエットのせい。食べることをセーブしていると、食べ物に対して敏感になるような気がする。より味わえるというか、食べ物のおいしさが身にしみるのである。これはきっといいことなのにちがいない。これまでのバカ食いは食べ物に対してとても失礼だったと反省している。
小さい頃、弟とのけんかの場面で、私はブタといわれていた記憶があるし、小6の時は健康優良児として表彰されたが、そのころから細かったためしなどなく、普通よりやや太めを通してきた。高校生の頃、○○キロを突破し、あまりになさけないかっこうになってしまったので、毎日こんにゃくを茹でて、そればかり食べるという変なダイエットをした記憶がある。あまり効果はなかったように思う。その後は仕事や育児と体を使うに伴い、普通よりやや太めに戻り、その後はダイエットにも運動にもずっと無頓着できた。ところがだ、この一年のうちに異常に体重が増してしまった。あのまるまると太っていた高2の時の体重をついに越えてしまい、戻る気配がない。このまま無頓着を続ければ、大変なことになると思いつつも、また、夫や息子たちに忠告されようとも、食べたいものを食べたいだけ食べる生活を改めようとはしなかった。あの頃のように、必死でこんにゃくを食べていたのはそれなりに外見を意識していたのにちがいない。でもね、もはや押しも押されもされぬ中年の身の上、外見なんてどうだっていいじゃないとどこかで、いや全身で思っていたのだ。控えるどころかやけ食いの感があった。甘いものを口に放りこむ度に「毒を食らわば皿まで」と自虐的につぶやいていた。
それなのに昨日からダイエットを始めた。電話での勧誘販売にみごとひっかかってしまったのだ。まずは1週間お試しでセットの商品が一万円、しかも電話でカウンセラーにアドバイスを受けながらやっていくという。たいていは即断るこの手の電話につかまってしまった。セールスウーマンの声がそれっほくなく、そうですねとか、お気持ち分かりますとか、抵抗を示す(一応抵抗したのだ)私を跳ね返さない調子だった。そして一旦は断わったのだ。そしてその後も気をつけることをせず、やけ食い状態をつづけていた。それから1ヶ月くらいたっただろうか、あのダイエットのセールスウーマンから再度電話があった。あの穏やかな控えめな声だった。今度は抵抗しなかった。私の状態は1ヶ月前よりはるかに悪くなっていたし、自分の力だけではダイエットに自分を向かわせることができそうもないと断念したのだった。
届いた商品というのは、プロテインという大豆を粉にして、それにビタミンやら、いろいろな栄養素を混ぜたものと、脂肪を燃焼させる働きのある錠剤や血液をアルカリ性にする錠剤が2種類、あとはおまけのこんにやくのゼリーと玄米御飯。商品が届いたら無料電話でカウンセラーと話し、ダイエットのアドバイスを受けるということになっている。専門的なカウンセリングを期待して電話してみたが、伝わってくる印象はなんとかまるめこんで高いダイエット商品を買わせようというもので、声に少しも誠実さが感じられなかった。しかも先のセールスウーマンは月に一万円ぐらいと言っていたのに、これは36回払いにした時の金額で、理想体重になるまでの4ヶ月にかかる費用は26万という。馬鹿げている。こんな大金、ダイエットごときに払えるわけがない。こういう場合、彼等は分割払いという方法で迫ってくるが、2年6ヶ月は何も商品がないまま、お金だけ払い続けることになる。たとえ4ヶ月で10キロ減ったとしても、その後また10キロ増えないと誰が言えるだろう。一月に6万以上もかけるという恐ろしい事体を目の前にすれば、どんな過酷なダイエットや運動も自分でできると思った。 このダイエット会社にお試しの一万円以上けっして払うものか。よし自力で10キロ痩せてやろうじゃないの、とむくむくと闘争心がわいてきたのである。あの押し付けがましいカウンセラーは彼女の会社には貢献しなかったことになるが、私のダイエットには多いに弾みをつけることになった。それにしても26万円なんて!みなさんくれぐれも御用心。
毎年6月にバジルの種を蒔く。 バジルはいつでも、驚くほど発芽率が高い。 プランターにパラパラと蒔いた種はほとんど発芽するので、本葉が出てきたころ、間引きをして、間引きしたものも捨てないで空いているプランターや他の植物の脇に植えておくと、それもりっぱなバジルに育つ。バジルは我が家の夏の食卓にはかかせない食材だ。
留守の間にプランターが込み合うほど、大きなやわらかなバジルの葉が出てきていた。先の方を摘むと、枝別れし、株が大きく丈夫になるので特に使う目的もないまま先のやわらかな部分を摘んだ。さて何に使おうか。 パスタをあえるペーストを作るには葉が足りないので、刻んでお酢とオリーブオイルと合せてバジルドレッシングにし、茹でた豆をあえてみた。 うーん、パスタのサラダも食べたい。くるくる渦巻きのイタリアンパスタを茹で、昨日の棒棒鶏の残りのとり肉といっしょに、市販のバジルペーストであえる。さて、このサラダ別々に食べるよりいっしょに合わせた方が楽しそう。 パスタと豆の相性はそんなに悪くはないでしょう。二つのサラダをいっしょにしてボールにいっぱいの豆とパスタのサラダバジル風味の出来上がり。
さてお腹を空かせた16歳が帰ったきたぞ。今日は火曜日、夫も早い。 フライパンでたまねぎとたれ付カルビをさっと炒め、茹でたほうれん草といっ しょに御飯の上に盛ってカルビ丼風としよう。 その昔、料理の本と計量スプーン片手に名前の付いている料理を作ったものだったが、この頃はあるものを組み合わせて、気分の趣くまま、即興の名前のない料理ばかり作っている。
2001年08月06日(月) |
ここに書くということ |
自分の中心のところは少しも変わらないのに、そしてどこでも、いつでも、それだけを持ち歩いているような気がしているのに、違う空間で、違う日常をわずか10日かそこら過ごしただけで、意識のつながりのようなものが途切れる感じがする。
私の実家で私は母のよく知る私になるし、夫の実家では夫の家族がよく知る私である。そしてそれは外からではいつもの私と変わらぬ私であるらしい。いっしょにいて私を見ていた息子は私の言葉に方言が混じり、夫の家では私がいくぶん気を遣ってたというほどの変化しか気づかなかったようだ。ところがこうして私の日常に戻ってみると、どのように私が違う気分でいたかが分かるのである。何か飢える感覚があった。どこかほんとうの私が居場所を見つけられずにうろうろしていた。書くことをしなかったから私が本来の私に戻る時のないまま、朝が夜になり、また次ぎの朝が始まったのだ。
書くことを止めてみて、私にとってそれがどういうものだったかが少し見えてくる。私にとって書くという、ここに書くという行為は人と対する時に無意識に着てしまう「服」を脱いでしまって素の私になることなのかも知れない、それも誰も見ないところでそうするのではなく、わざわざ人の中で素の私をさらそうとするのである。
私は銭湯とか温泉とか好き好んで行くが、お湯にはいくらも浸かれない。お湯が好きというよりは公然と裸で過ごせることが好きなのかも知れない。そこに他人がいるのに、何も装わずにいることのできる私があって、そういう私自身が心地よいのだ。ここに書くこととどこか似ているような気がする。
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