たりたの日記
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2001年07月24日(火) 日記しばらく休みます

マオさんの勧めで3月30日からこの日記帳に書くようになってから4ヶ月になろうとしている。何でもすぐに飽きてしまう私にとって、これまで、一日も欠かさず書いてきたということに自分でも驚いている。なぜ続いたのか。読んでくれる人がいたからだと思う。読んでもらうということがこれほど書くことのモチベーションになるとは知らなかった。

一日も欠かさず続けたいところではあるが、あさってからしばらく帰省するので、しばらく休まないわけにはいかなくなった。休んでしまったらもう書く気がなくなってしまうかなあとちょっと心配。

でも日常とすっかり違った別の自分を生きるのも大切なことかも知れない。実家に帰ればまず大掃除。私とて片付け下手は母親ゆずりなのに、しっかり期待されている。私は手際よく 片付けのできる娘になるのだから不思議である。義父や義母にとっては気がきかない嫁だが、そこにも、私の日常とは違った私がお目見えするのである。

という訳で、8月4日までお休みします。
またのお越しをお待ちしています。


2001年07月23日(月) 最上のわざ

いつだったか、車で移動している時にたまたま見ていたカーナビのテレビで、
長岡輝子さんの朗読の場面が流れていた。宮沢賢治の「雨ニモマケズ」が耳に入った瞬間、込み上げてくるものがあった。諳んじるほど馴染みのある詩なのに、まだ汲みとっていない部分があったのだ。初めてのように強いものに突き動かされた。そしてこの番組の最後に彼女が朗読した「最上のわざ」という詩
に掴まれる思いがした。その後、ネモさんから、この詩が長岡さんの著書
「老いてなお、こころ愉しく美しく」に載っていると教えていただいた。

この読み人知れずの詩は上智大学で教鞭を執っておられるヘルマン フォイヴェルス神父の友人から送られた本に挟まれていた詩だったということで、
神父が訳し、御自分の随想集『人生の秋に』に書かれているということだった。

数日後に帰省を控え、老いた親達のことを思い、この詩のことを思い出した。
人生には様々なステージがあるが、何もできなくなって人の世話になるその人生の最後の時を、これほど恵みに満ちた時として書かれているこの詩は胸を打つ。その時を迎えている人には安らぎを与え、これからその時期を迎えるものには希望を与えてくれるように思う。ここで紹介することをお許しいただこう。



最上のわざ         作者未詳 ヘルマン フォイヴェルス訳

この世の最上のわざは何?
美しい心で年をとり、
働きたいけれども休み、
しゃべりたいけれども黙り、
失望しそうなときに希望し、
従順に、平静に、おのれの十字架をになう―。
若者が元気いっぱいで神の道をあゆむのを見ても、ねたまず、
人のために働くよりも、けんきょに人の世話になり、
弱って、もはや人のために役だたずとも、親切で柔和であること―。
老いの重荷は神の賜物
古びた心に、これで最後のみがきをかける。
まことのふるさとへ行くために―。
おのれのこの世につなぐくさりを少しずつはずしていくのは、
真にえらい仕事―。
こうして何もできなくなれば、それをけんそんに承諾するのだ。
神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。
それは祈りだ―。
手は何もできない。けれども最後まで合掌できる。
愛するすべての人のうえに、神の恵みを求めるために―。
すべてをなし終えたら、臨終の床に神の声をきくだろう。
「来よ、わが友よ、われなんじを見捨てじ」と―。

長岡輝子著
  「老いてなおこころ愉しく美しく」 草思社 より










2001年07月22日(日) 飛び込み

飛び込み

青い空を背景に
少女は飛び込み台の先端に立っている
まっすぐな体
まっすぐな視線
まっすぐな思い
その思いはどこへと向かっているのだろう
我々が行くこともできないほど
遠い
晴れやかな空間に
彼女はひとり
いるように見える


体がしなやかに動きはじめた
少女は呼吸を合せているかのようだ
頭上に広がる大空の呼吸と
今を生きているすべてのものたちの
呼吸と

ぴたっと何かがひとつになった瞬間
彼女の爪先は飛び板を離れ
力強く飛翔し
宙に舞った
くるくると美しい回旋は
再び、まっすぐな線になり
水へと向かう

水は彼女を受け止めようとするかのように
道を開けた
すぽっという音とともに
まっすぐな体は
水の穴に吸い込まれた

この一瞬の時のなかに
少女の凝縮された命の輝きを見た
彼女を生かしている
大いなる御腕を見た



Mちゃんの飛び込みを、Mちゃんのお母さんと見た。
Mちゃんのお母さんと私はともにアメリカで子育てをした間柄だ。
Mちゃんは会わずにいた3年ほどの間に、すっかり逞しく、美しく成長していた。幸いなことに、今日は彼女の飛び込みを初めて見ることができた。すばらしい成績をおさめて、彼女は来月、全国大会に出場する。

いっしょに出かけたり、お泊まりに来たりしていた頃の小さな女の子のなかに
今日のようなMちゃんを思い描いたことがあっただろうか。
プラスチックの四角いランチボックスの中に、ピーナッツバターとジェリーのサンドイッチを入れてナーサリーに通っていたあの頃、Mちゃんにも、我が家の次男にも、親を凌ぐ逞しさと力を持つ若者の姿を想像してみたことなどなかったような気がする。

この、夏から、次男もいよいよバスケットボールの試合に出るようになる。
見に行こう、初めてのようにそう思った。


2001年07月21日(土) 佐藤初女さんの「おむすびの祈り」

佐藤初女さんの「おむすびの祈り」を読んだ。
先週の日曜日、ふらりと図書館へ行き、特に当ても無いまま本の背表紙を目で追っている時、この本のタイトルが目に止まった。

著者は佐藤初女さん。見覚えがある。確か染色家。映画「地球交響曲 第2番」の中で、ダライ ラマなどいった人と共に、取り上げられている人だ。知り合いの家で聞いたこの映画のサントラ版のCDがとてもよかったのでCDは求めたが映画は見る機会のないまま今に至っている。

ある時から、音楽にしろ、本にしろ、また人にしろ、ひとつの傾向のあるものが次々と私の目の前に現れるようになった。自分から探し出したわけではない。向うからやってくる。ところがやってきたものはどれも、不思議なように繋がり合っているのである。

図書館の書架からこの本を取り出した時、その繋がりの中にある本だと直感した。用意されていた出会いと思う。今わたしにとって必要なことがきっとこの本の中にあるのだ。

こうして出会った本(人)というのは、等しく、もうずっと以前から知っている人という気がしてくる。捲るページごとに、わたしとしては全く新しくその人の生い立ちや、日々の暮らしを知るのに、それらともうすでに出会っていた、もう私は見てきていたという気持ちになるのはどういうことだろうか。

初女さんは心を病んだり、心に重いものを抱えて、癒しを求めて来る人に、食事を作る。その季節に土地で採れた新鮮な材料を使って、おいしいものを作り食べさせてあげるのである。そして黙ってその人の傍らに座っているというのである。たくさん人がやってくるようになり、初女さんの家では間に合わなくなり、初女さんの活動を支援する人達によって「森のイスキヤ」ができた。癒しの家である。

初女さんがカトリックの信者だということも、この本で初めて知った。5歳の頃、近くの教会から聞こえてくる鐘の音に惹かれて、教会へ行くようになったという。若いころ、カルメル修道会の聖女テレジアの本に出会い大きな影響を受けたということだった。私自身、聖女テレジアのことを知りたいと、先日もテレジアに関する本を聖三木文庫から借りてきたところだった。ああ、ここでまたつながったと思う。

おむすびを握って、心に飢え渇きを覚えている人に食べさせる初女さん。おむすびは彼女の祈りなのだ。彼女に出会う必要のある人がどこからか、送られてくるのだ。そして彼女は誠実に彼女のできることがらの中でそれに答えていく。誉められるためでも、有名になるためでもなく、いわば彼女が生まれた時から神様に与えられた彼女の「仕事」を続けているのである。彼女の日々の暮らしがそのまま祈りであることが伝わってきた。私もこのように生きたい。
読みながらふつふつと込み上げてくるものがあった。


2001年07月20日(金) 通知表

昨日のこと高2の次男が自信たっぷりの通知表を皆に披露した。
長男は大学生だから、通知表はない。そこで、郵便受けに届く通知表を親より先に見つけて無きものにしようなどという小細工から解放され、弟に
「お前、りっぱ」などと誉めている。
けっして得意になるほどの成績ではないが、兄の時と比べれば確かにりっぱであろう。
上の子には、これで卒業できるのかとか、今度赤点取ったらサッカーはやめろなどと通知表が届く度に小言を言わねばならなかった。
次男にはすごいね、がんばったねと言う。しかし心の中では、まだまだ甘い、努力したといばれるほどではないと思っている。もともと目標設定が低めなのだ。でも「もっとがんばれるんじゃない?」なんて、彼にはけっして言ってはいけないのである。なんとなく家族の中にそういう暗黙の了解のようなものができあがっている。

子どもによって扱いが違ってくるが、これは差別やひいきというのとはちょっと違う。
その子のキャラクターに応じて、こちらの対し方が変わってくるのである。
一方は叱ってくれというサインを体が出しているから、親はそれに添うが、もう一方は何も言うなというサインを体が出しているので、言えないなとブレーキがかかるのである。でも本人達はそんなサインを出していることに気づいてはいないだろう。



2001年07月19日(木) 命をめぐってのとりとめのない感慨

義父の手術は6時間の予定だったが、実際は一時間もかからなかった。

様々なシチュエーションを考えて心の準備をしていたはずだったが
こういう状況は考えていなかった。
考えてもみなかったことはしかし起こるのだ。

そうしてこうして元気に見えるこの体もその内部でどんなことが
起こっているのか、またこれから起こるのか
こんなに医学が発達した今でも予測はできないのである。
そういう予測不可能な命を私たちは抱えている
この命が、この不確かな滅ぶべき肉体の中にしかないと
そう考えるのだとしたら、そこにはなんと大きな虚無が口を開けていることだろう。
かつては覗き込んでいた、その底なしの深い火口のような穴が
いつのまにかすっかり私の内から消えていることに気づく。
今見えるのはただひとすじ続いている道。
私が生まれる前から続いていて、私が死んだ後にも続いている1本の道。
そんな道のイメージである。

息子が電話で話している声は今までにない響きがあって、何か新しいことが
起こっているようだ。青春などという気恥ずかしいような言葉のまっただ中に彼はいる。
収束していこうとしている私たちの向こう側では今花が開こうとしているし、もう一人の蕾みなどはまだ色づいてさえいない。

命をめぐってのとりとめのない感慨。


2001年07月18日(水) 手術の日の朝

義父が手術を受ける日の朝になった。
9時に手術室に入り、手術は10時から4時まで
6時間に及ぶ大手術となる。
義母、義姉、そして夫が立ち会う。
義父の心に平安が与えられるようにと祈る。

初めて義父に会ったのは私が22歳、大学4年の冬だった。
私と夫が通っていた教会の牧師夫妻が車で5時間くらいかけて
夫の実家に連れて行ってくれたのだった。
牧師夫妻は当時付き合っていた私達のことを何かと気にかけて下さっていた。
義母にはすでに会っていたが、義父にはこの日初めて会うので、私はかなり緊張していた。
聞けば、夫は父親とはほとんど話したことがないという。家の中で絶対的権力を持っている厳しいお父さんというイメージがあった。
ところが初めて会った時、ほんとうに優しかった。目が合った瞬間に何か流れてくるものを感じた。「あなたを受け入れます」という確かなサインを
その時いただいたと確信している。

来週、次男と私で帰省する予定である。
今日の手術を無事に終え、元気になった義父に会いに行くのだ。
この手術が義父の病や痛みを取り去るものであってほしい。
そして健康を取り戻すものであってほしいと切に祈る。


2001年07月17日(火) あなたがわたしと共におられるからです

さっきから雷が鳴っていると思ったら、今急に雨が降ってきた。
大粒の雨らしい。ポツポツと窓を叩く音に続いて雨音が大きくなった。
宮崎はどうなのだろうか。
その地の病院に義父はいる。
明日、膵臓の手術をすることになっている父は
この夜をどういう気持ちで過ごしていることだろう。
手術の前の晩は睡眠薬が出るだろうから、
もうぐっすり眠っているかも知れない。

膵臓癌の疑いがあったが、糖尿病や他の病気も持っており、
手術はリスクが大きすぎるのでしないということだったが
義父は手術することを決めた。
「やってみないと分からない」というのが義父の言い分である。
もしものことがあったらと家族は皆心配するのだが
義父は何かに信頼しているような強さで押し通した。
きっと私たちの預かり知らぬところで、神様と話しあったことが
あるのだろう。

私達にできるのは祈ることだけ。それぞれがそれぞれの場所で祈っている。
宮崎に帰省した夫も、今日は友達の家に泊まると連絡してきた長男も、早々と寝てしまった次男も眠りの中で祈っていることだろう。
祈りは神様にお願いすることだが、同時に相手にポジティブなエネルギーを送ることだと思っている。ここが心配することとの違いだ。心配には信頼からくる平安はない。不安や恐れのエネルギーを知らず知らずの内に相手に送ってしまうことになる。本人はがんばろうとしているのに、回りの人間が心配のエネルギーを送ることでかえって、力をダウンさせることがあるのだ。
祈りは自分にはできないけれど、神様にはできるとその力を信じることである。しかし、それが神の御心のままになるようにという心が根底にある。祈りの結果がどういう形になろうと、たとえ祈ったことと違う結果が出たとしても、それこそが一番良い道だったと、その結果までもあらかじめ、受け入れるのである。そこに平安がある。

祈りには平安がある。その人の傍らに神がいて手を取ってくださっていることを思い描くからである。そしてそれより大きな安らぎが他にあるだろうか。
迎える明日、義父がその平安に満たされていることを祈る。
去年、私自身が手術を受ける時、手術台に載せられても、不思議なほど平安だった。すっかりこの命をお預けしているという安らぎさえあった。きっとみんなの祈りがあったからだと思う。支えられていたのだと思う。

雷はまだ鳴り止まない。
この宇宙の創り主、わが神。
この小さな命も、すべてあなたの手の中
そのことを思えば、なにも恐いものがない。


(聖書の言葉)

主はわたしの牧者であって
わたしには乏しいことがない
主はわたしを緑の牧場に伏させ
いこいのみぎわに伴われる。
主はわたしの魂を生きかえらせ、
み名のためにわたしを正しい道に導かれる。
たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、
わざわいを恐れません。
あなたがわたしと共におられるからです。

詩篇23篇 1〜4


2001年07月16日(月) 帰省

親が遠くに住んでいると、夏休み=帰省だ。海外にいる友人たちから来れるかと声がかかると、今年は行けるかも知れないなどと返事をしていたのに夏休みが近づき、カレンダーと先立つものとを睨んでじーと考えると、旅行など夢のまた夢だということが明らかになる。
ところで、国内を移動する旅費がどうしてこんなに高いのだろうと腹立たしい。明日から夫が単身で帰省するが、急なこともあって正規の航空券しか手に入らず、九州まで往復割り引きでも55,000円だった。

ところが月末、私や子どもが帰省するのは上手くゆけば、往復で33,000
円。しかも、これには1拍2食付きのホテルの宿泊費がコミコミなのである。
さらによいことは行きは宮崎空港、帰りは大分空港からと飛行場を選ぶことも可能だ。これまでは5日が限度だったが、この夏は最長、14日間と帰省者にはもってこいだ。

これは観光客用の九州フリープランという全日空系列の旅行会社のツアーなのである。ツアーとはいっても一人から参加可能で、誰といっしょに行動するわけではない。日程さえ合い、少なくとも、出発の1週間前までに予約することができらればこれはかなり得というもの。遠くへ里帰りする方へはお勧めである。

私はできるだけ、このプランを利用するようにしており、1泊するのは別府の温泉にする。母の部屋も予約する時に取っておき、帰省の始めか終わりに母と1泊温泉でゆっくりするのである。しかし、あまり外が好きではなく、温泉も疲れるという母には有り難迷惑なのかもしれない。それなら私だけで1日だけ休暇を取ってもいいだろう。


2001年07月15日(日) 教会学校のサマーキャンプ

今年は5、6年振りに教会学校でサマーキャンプをする予定だ。
テーマは「かみさまへの手紙」。祈りということを体験の中で学ぶ。
教会学校の生徒が中心となるキャンプだが、英語学校の生徒にも案内を配った。
ところが締めきり日の今日。参加の申し込みは英語学校の8名で教会学校からの参加申し込みはなかった。参加したいけど家族で旅行するからとか田舎へ行くからという子もいるが、それにしてもである。
なぜだろうとスタッフで話したのだが、教会学校に来る子は皆ミッションスクールに通っている子達で教会学校はいわば義務づけられている。だから親も熱心に送迎の労を厭わない。
私達は子ども達の興味を引くような計画を立てたつもりだったが、教会学校の子ども達にも親達にも、義務付けられていないサマーキャンプにわざわざ参加しようとは思わないのかも知れない。
一方、週に一度月謝を払って来ている英語学校の生徒達や親御さんにすれば、
ほとんど無料に近い2日間のキャンプはなんてすばらしいということになるのかも知れない。ネイティブの先生2人もキャンプのスタッフなので、英語に触れる機会にはもってこいだ。またお母さま方も協力的でキャンプのお手伝いをして下さるという。今日の教会学校の礼拝にお誘いしたところ親子で5組の出席があった。
教会学校に来るのはそれが義務付けられているミッションスクールの子ども達ぐらいだろうとはなからあきらめていただけに驚いている。

いつの頃からかどこの教会も教会学校が下火になった。塾やお稽古ごと少年野球や 少年サッカーと、日曜日は大人も子どもも忙しくなったからなのだろう。私が子どもの頃は日曜日はまるまる何にもないので、退屈してしまう。教会学校は格好の遊び場だった。紙芝居やお話があり、大きいお兄さんやお姉さん達がかまってくれた。学校よりも楽しいところだった。しかられたり、号令やベルにぴりぴりしなくてもよかった。親も日曜日の朝くらいゆっくりと静かな時間をすごしたいと思っていたからか、近所の妹分や弟分を誘い出していっしょに連れていくようになると、良いところに連れていってくれてと感謝などされた。どこの家もクリスチャンホームなどではなかったが。

キャンプを企画している者20代、30代、40代と様々だが、それぞれに子どもの頃、教会学校のキャンプを体験していて、それが楽しい思い出になっている。だからキャンプのことを話す時もどこか、子どもに帰ってしまうようなところがある。私も毎年参加した河原でのキャンプの楽しかった気分が甦ってくる。あの時の気分を子供達に味あわせてあげたい。また我々も子ども達といっしょに、その時を取り戻したいと思っているような気がする。

テーマの「かみさまへの手紙」のプロジェクトの他は、庭でカレーを作ったり 、アメリカのキャンプ菓子(マシュマロを焚き火であぶって少し溶けたところで、板チョコといっしょにグラハムクラッカーにはさんで食べる)、英語のゲームをしたりして、夕食の後はみんなで歩いて20分くらいのところにある「スーパー銭湯」へお風呂に入りに行く予定である。夜は礼拝堂でビデオを見
ながらの就寝だ。翌日の日曜日は礼拝の中で歌や作品の発表をし、礼拝にはお
父さん、お母さんの方もお招きするという段取りだ。


2001年07月14日(土) 麗しきは母性なり

その昔、私が母というものに成りたてのころ、帰省先で退職した小学校の青年部の先生方が集まりを設けてくれたことがあった。その時私はみんなで食べるようにと巨峰を一箱下げて行った。その前に大切なこと、わが赤ん坊を抱えて行った。青年部では私が最年少だったが、私の他に子持ちはいなかった。話しに花が咲き、久し振りにシングルの自由さに私も触れ、すっかり昔の気分に戻っていた。
さて、持っていった巨峰を食べることになった。小さなテーブルの真ん中に置かれた 巨峰に同時に6本か7本の手が伸びる。しばらく近所の奥さん方との付き合いしかなかった私は、ああこうだったと昔の感じを思い出した。そこで私も遠慮などせず、手を伸ばしてブドウの大きな玉をちぎり始めた。そしてそのブドウの皮をはがすとそれを小さくしては隣にいる赤ん坊の口に入れ続けたた。彼にとっては初物である。安月給の家計から巨峰を離乳食にする贅沢はこんな時でなければできないとばかり、夢中で赤ん坊に食べさせたのである。それを見ていたかつての仲間達が、「へーっ、子どもができたら、自分は食べないで子どもに食べさすの。」と驚いた。もともと食べたいものには遠慮なくという私の素性を知る仲間は母性の偉大さに感心したようだった。

あれから18年、さて私はその麗しい母性を相変わらず保持しているだろうか。
実は今日は次男のバスケット部の顧問の歓送迎会が部の父母会の主催でなされた。親子で7000円のバイキングというので、私は後で困らないようにわざわざウエストのゆるいスカートにはきかえまでして出席した。しかしそれはとんだ計算違いで私は空っきぱらを抱えて家に帰るはめになってしまった。
ものすごい勢いで料理に群がる男の子達を眺めながら、どうも母親達は子どもと争って食べる気配がない。さあとばかり皿と箸を握った私は回りを見渡すと思わずそれをテーブルへ戻してしまった。もちろん、「私たちも少しはつまみましょう」とお皿に入れたものを何人かのお母さんが持ってきてくださったが、子ども達と同等に自分の皿に取るということは考えられないことのようであった。

ここに母性の大きさの差が明らかになったのである。息子達がばくついているのを嬉し気に目を細めて見ているのは18年前の私の、自分が食べなくても子どもに食べさせたいと願う麗しい母心。一方、「ねえ、ねえ、君ら少しは遠慮というものを知らないの。まだ食べていない母たちがここに立っているじゃないの。」と内心ムスクれているのは子どもの犠牲になってたまるものかと日々バトルに明け暮れる今の私。

「今日は子ども達はたらふく食べて楽しそうで良い会っだたわねえ」とお互いを労い合う麗しい母親達の後ろをとぼとぼ歩きながら、しかし私は「そうかなあ」と思うのだった。


2001年07月13日(金) 正午12時 教会の鐘の音 四ッ谷駅

ああ、夜は更けに更けて、もう翌日になってしまった。
早いとこ日記を始末して寝てしまわねば。
今日(もう昨日だが)の暑さったらなかった。
でもこの暑さの中、仕事はオフだというのに四ッ谷まで出かけた。
上智の聖三木図書館で1ヶ月前に借りた本を返し、また借りるためだった。
わざわざ2000円近い交通費を払って図書館に通うというのも端から見れば
馬鹿げてるだろうが、その場所が気に入ってしまった。またそこにしかない本
もある。
ちょうど着いたのは昼の12時、図書館に向かって歩き始めたらイグナチオ教会の鐘が鳴り響いた。ミサの合図だ。

同じキリスト教とは言っても私はプロテスタント。でもカトリックのミサに出たことがある。一度は中2の時。入院中だった。同じ入院仲間数人と深夜、病院をこっそり抜け出し、クリスマスイブのミサに出たのである。確かカトリックの高校に通っている子が仲間にいたのだ。
もう一度は子連れヨーロッパ旅行の時、パリのノートルダム寺院の礼拝に出た。フランス語の説教など分かる訳はないのだが、聖歌隊の歌やオルガンは震えるほどすばらしかった。最後に司祭さまのところへ行き挨拶し(英語が通じた)握手し、先月日本へ行ったことなど話してくださった。感動だった。

とそういう思いでがあったからか、鐘の音に誘われるままに礼拝堂の扉を開けて私は中に入ったのだった。
やはり、礼拝の勝手が違うし、同じキリストを信じているとはいっても、何か部外者としての居心地の悪さはあったが、手術を控えている義父のことを祈ることができてよかった。
それにしても、教会など全く縁が無いという人の教会に対する違和感ってこういう感じかなと思った。わたしはよく教会に来ない?と気軽に誘うし、教会なんてそれこそ図書館くらい公共の場という感覚があるのだが、それはどっぷり中にいるからで、今日の私みたいに興味にかられて、はじめて入って来た人にとってはずいぶん違和感があるんだろうなと改めて思った。これでは教会が日常から遊離している特殊な人が集うところという印象を持たれてもしかたない。敷き居は高いに違いない。
お寺も教会も神社ももっと、社会と日常のレベルでの接点を持つ必要があるのではないかと思った。
そういうことも含めて、今日炎天下に出かけたことは無駄ではなかった。
それにしても暑い日ではあった。


2001年07月12日(木) 夏のたりたガーデン

メドウセージはとうとう私の背丈よりも高くなった
株も増え広がって「たりたガーデン」のまさに主役
この濃い青に私はほとんど恋をしている
ワイルドで孤高を保っている風情もステキ

毎年種を蒔くバジルが伸びてきた。
株が広がるように上の部分を摘んでパスタソースに混ぜる
今日の晩御飯は初摘みのバジル入りスパゲッティー、
バジルは夏のバテ気味な体にほんとにいいって感じがする

4年くらい前に手のひらくらいのローレル(月桂樹)を植えて
少しも大きくならなかったというのに
去年の夏、異常成長し、伸び続け
今年の夏は屋根にも届くほどだ
この葉っぱ、料理には使い切れない、そうだお風呂に入れてみよう

と夏のたりたガーデンの植物たちは元気です。


2001年07月11日(水) 異文化交流?

この日記の下の方にある「エンピツ」をクリックすると、ここに登録している大勢の日記にアクセスできるしくみになっている。つまり誰の日記だって好きに読めるのだ。また気に入った日記を登録していつも読めるようにセットすることも可能だ。さらには自分の日記を誰が登録しているのかも分かるしくみになっている。
誰も登録なんてしてないだろうけどと思ってそれでも調べてみたら、なんと登録者があった。一人はマオさんだけれど、もう一人は知らない人。
わたしったら知りたがり屋ということにかけては「おさるのジョージ」に負けはしない。すぐにその人の日記へと出かけて行った。文面から、男である。しかも若い。アルバイトをしている学生のようだ。
さらに興味を覚えてHPを開いてみると。うーん、世代が違うっていうのはこういう感じなのか。そこはいわば、ドア一枚で私と世界を異にする、我が家の19才にも通じるものがある、いわば異文化。わたし的にはアメリカよりも異文化っぽい場所だった。
そういえば、わたしは日々我が家の異文化とは顔を合せ、言葉も交わしはするけれど、彼は私の文化にはいっさい興味がなく、日記など開いてあっても読まないだろうし、私だってやつの部屋にも世界にもあまりかかわりたくはない気分でいる。部屋にごろごろ散らばっているCD のタイトルさえ興味がない。
ところでそのHPの主は18才、我が家の異文化と同級生のようだ。でもあちらの異文化18才が我が家の異文化19才と違うのは、どういう理由からは知らないが私の書く、けっして日記のようではない言葉の集合を楽しく読んでるというのである。ふーんである。うれしくもあり、不思議でもあり、照れくさくもある。改めて、ネットで書くっていうことはこういうことなんだと思った。そういえば、サイト上では20代、30代とふだんならあまり交流もない世代の方々と話しをして何の不思議もない。

そもそも日本は齢が物を言い過ぎる。中学校に入学するやいなや、新一年生なぞはたった一つ上の上級生にも慣れない敬語を駆使している。それなら親にも敬語を使って欲しいくらいだ。
何をいわんや、よその18才異文化くんに感謝したいのである。そう、君は度量が広い、これだけ世界の異なるオバさんの書いたものを読もうというのだから。私も読むとしましょう、よその18才の異文化を。
こういう異文化交流こそ、今新しいのかもしれない。


2001年07月10日(火) 2歳児、3歳児のクラス

今日(7月11日)のクラスは何だか調子よかった。
「幼児とお母さんのための英語クラス」2時からのクラスはまだ幼稚園に通っていない子たちのクラス、2歳児、3歳児が中心のクラスだ。
去年の4月から始めた子もいれば、去年の10月に始めた子もいる。
始めたころはクラスに参加するというよりはお母さんのクラスにくっついて来ているという具合で、参加している自覚もないが、自己主張もしないという扱いやすい時期だったが、この4月くらいから、どの子もそれぞれに自我が芽生えてきたのか、自己を主張し始めた。ところが協力とか和するとかいう感覚はまだ育っていないわけだから、7人の幼児がてんでばらばらの動きをするようになる。「アメがなめた〜い」と主張をし続ける子、自分の触りたいもの、見たいものにひたすら集中し、こちらにそっぽむいている子、殻がやぶれずに、うんともすんとも口から音を出せない子、気分がハイになってしまって、はしゃぎまわる子と, それぞれがまるで違うのだ。あの手この手で、あきさせないように考えてはみるのだが、なかなかまとまりのある活動の場面が作れなかった。泣き声、叫び声、の中でも、クラスは続行する。でも、このクラスの主旨はマザーグースなどの歌遊びをお母さんに覚えてもらって日常の育児に取り入れてもらったり、英語の絵本の読み聞かせをするなかで、異文化や異なる言語への感覚を育てていこうというものであるから、お母さん方にお伝えできればまずよいと考え、子供達へはあくまで自然な参加に任せてきた。時期がこなければ、興味も持てないからである。

ところが今日のクラスはまるで、その時期がどの子にも一斉に来たような感があった。まず、手を繋いでまるくなることができるのである。歌ったり、アクションをしながら何度もまわりながら、とちゅうでぷいと外れる子や、やだーといって参加しない子がでてこなかった。エリック カールの絵本「ちゃいろいくまさん何をみた」(翻訳本のタイトルはこうではなかったかも知れないが)の読みきかせも、きちんと座って絵本を見ていたし”Brown bear brown bear what do you see?”の繰り返しもそれなりに口を開いてフレーズをいっしょにコールした。その次の紙に自分のTシャツをデザインする活動も、英語を使って欲しい鉛筆を借りにきたり、指示にしたがって、円や三角形を描いたりするのもやろうという姿勢が持続していた。てんでばらばらに自己主張していた時期から、その場の空気に従おう、いっしょに何かに心をむけようという気持ちが育ってきたのだろうか。この時期の子ども達の成長は毎週毎週目を見張るものがある。人間が形成されていく過程がよく見える。自分の子どもを育てるこの時期はとても、成長の過程を眺めたり、楽しんだりというゆとりがなかったが、今は週ごと変化していく子ども達の成長をゆったりした気持ちで見ていることができる。それにしてもこの時期の子どもたちはほんとにおもしろい。


2001年07月09日(月) 朝に

朝に

この静けさはいったい何
音は聞こえている
遠くの犬の声
車のエンジン
走り過ぎるオートバイ
それなのに静かだ、深々と

すべてのものが眠りの中から起きいだし
今日という日を始めようと
いっせいに深呼吸をしているのか
夜の夢のなかに淀んだものを溶かし出し
きれいにすすがれてしまったのか

けたたましい目覚まし時計の音で始まる朝
フライパンの上でソーセージが弾ける音
テレビのニュースにまじる家族の話し声
さまざまに音を立てながら
あちこちにとびまわる
そうするうちに
嵐のような喧噪は
去った

 みんなが家を出ると
もうここに音はない
部屋の隅々に静けさが溜っている
ああ、でもこの静けさ
入り口がしっかりと閉じられたこの部屋の中に
透きとおった水が ひたひたと湧きおこり
下の方から静かに満ちていくようなのだ
部屋の隅のうす青いような空間
そこへと向かって呼びかけた

「あなたがそこにおられるのですね。」

すると、それへの答のように
その透きとおった水が
わたしの足の裏あたりから体内へと流れ込み
体の方々にまでゆきわたった
今朝いただいた新しい命
今日それを生きようと思う


去年の9月に書き留めていた詩を、今日思い出した。サイト「空と嘘」に谷川さんの朝をテーマにした詩が掲載されていてその感想を書こうとして思い出したのだった。それまで詩を書くことなんて全くなかったのに、突然のように言葉が降りてきたものだから、うれしくなって、友人たちに、秋のごあいさつといっしょにメールした。
何か説明っぽいなあと、不満だが、ここに書いていると、どなたかに技術批評もしていただけるかも知れないと載せてみた。


2001年07月08日(日) あるタクシードライバーの話し

あるタクシードライバーの話 ( 翻訳 )

タクシーに乗っていた客は聞きたいことがあったので運転手の肩をただ軽く叩いただけだったのだ。タクシーの運転手は叫び声をあげた。コントロールを失った車はバスにぶつかる寸前で歩道に乗り上げ、店のショーウインドウの数センチ手前で辛うじて止まった。一瞬タクシーの中はしんとなり、運転手が言った。
「お客さん、あんなこと絶対にしないで下さいよ。私は怖くて目の前が真っ暗になりましたよ。」
客は謝ってから言った。
「たった肩を叩いたことが、そちらをそんなに怖がらせるなんて考えてもみませんでしたよ。」
運転手は言った。
「すみません、ほんとはお客さんのせいじゃないんです。わたしはタクシーの運転は今日が初日なんですよ。これまでの25年間ずっと霊柩車の運転をしてきたものですからね。」



今日ベスから来たチェーンメールは珍しく短く、落ちがおもしろかったから、翻訳してみた。ベスが送ってよこすチェーンメールはたいていは真面目な信仰的なもので、しかもうんと長い。よい話だろうと分かっていても、ついその長さにうんざりし、時間がある時にとついつい後回しにしてしまう。ところが短いとまず読む。
ふーむ、この日記、真面目で長い、読むのが面倒と思われてもしかたないな。

<原文>

A taxi passenger tapped the driver on the shoulder to ask him a question.
The driver screamed, lost control of the car, nearly hit a bus, went up on the footpath, and stopped centimeters from a shop window. For a second everything went quiet in the cab, then the driver said, "Look mate, don't ever do that again. You scared the daylights out of me!" The passenger apologized and said, "I didn't realize that a little tap would scare youso much." The driver replied, "Sorry, it's not really your fault. Today is my first day as a cab driver - I've been driving a funeral van for the last 25 years!"




2001年07月07日(土) マオさんの書き込みから思ったこと


<ハマオさんの書き込みから>
そこで最近私が自分の内から感じることは、人間にはまず魂があって、
ある肉体に宿らされる。この瞬間が誕生なのでしょうが、ある意味では、
人間が肉体や物質に心を奪われている現代では、魂が希薄になるスター
トでもあって、そして死を迎えたとき、本来希薄になどなってなかった
魂だけの存在に戻る、また肉体や物質にとらわれていた人間も、死者へ
の惜別の思いの中で振り返るその人に、その人がどんなお金持ちだったか
などではなく、その人の魂を見るのでないか、と。
そういきついてきた最近は、本当に死につづく自分の(生きるもの全部)
の宿命がごく自然なのだと実感できるようになりました。



マオさんが書き込みに書いてくださったことについて思いを巡らせてみたと思います。
マオさんの書き込みを読んだとき、ああ同じだと思いました。さらに、そのことを私はマオさんとすでに共通理解として持っていたとそんな気になったのです。けれどそれは私の側の一方的な思い込みでマオさんはそうだったのと驚かれるかも知れません。マオさんの書かれるものや在り方を通じて共通する考え方を感じ取っていたというべきでしょう。

キリスト者として、魂や聖霊、また復活といった用語は小さいうちから聞いてきたわけで、馴染みの深い言葉であるわけですが、それをはっきりと感じるようになったのはここ5、6年のことです。具体的には、その人固有のエネルギーフィールドの存在を知り、これまでただの偶然の一致だと思っていたことの背後に確かな理由が存在することを実感するようになってから、肉体とはっきり別のレベルにある「魂」の存在が感覚的に掴めるようになりました。そうなってからは聖書の中にある、復活の記事も、奇跡や癒しの記事も、また御使い(天使)のことも実感をもって捕らえることができるようになりました。

マオさんのいうように、はじめに魂があり、それが肉体に入り人間の誕生となると私も思います。そして、その魂はおのおのこの地上で学ばなければならない宿題のようなものを携えてくるのだと思うのです。もしかして魂はその宿題を仕上げるのに最もふさわしい両親を選び、姉や兄を選び、土地や暮らし向きを選ぶのではないかと。また親の立場からすれば、親が地上での課題を果たす助けになるためにふさわしい子どもが神様からよこされるのだという気がします。相性の悪い親子であればそれなりに、そこに課題達成のために学ぶべきことがあるのではないでしょうか。

マオさんが言われるように、肉体を持っている間はわたしたちはそれに捕われ支配されて魂も見えないほどなのだけれど、肉体が滅びることで魂だけの存在に帰るのだと私も思います。
そうすると魂になった存在は自分のことも人のこともまた課題のこともとてもクリアに見えてくる。そういうクリアになった故人の魂と交流する場が葬儀であるかも知れないと思います。相変わらず、生きているものはすべてのものがおぼろげにしか見えませんが、それでも亡くなった方の凝縮されたクリアな魂にその人が生きていたときにはなかった近さでは触れることができるのではないでしょうか。意識するとしないとにかかわらず。
マオさんが前の書き込みで書いておられた「魂の認証の日」というのはこのことではないかと思います。 

かつてこんな体験をしたことがあります。たいへん尊敬し、また影響を受けた牧師が急な病気でなくなりました。その知らせを受けたまさにその時、わたしは病室へとお送りするつもりで常緑樹の小枝を束ねてクリスマスのリースをこしらえている最中でした。ショックでした。ところが失ったという喪失感とは裏腹に、その方が非常な近さで感じられるのです。私に霊視能力があったらその方の姿も見えたのかも知れません。見えないながら近いと感じる。それは私自身の魂はその方の魂と会いまみえていたからではなかったでしょうか。しかし当時はそんなこと思ってもみませんでした。ただ不思議な気持ちでいただけです。

仏教徒である母は自分が死んだ後のお墓参りのことや、日々仏壇に供え物をしたり、念仏を唱えたりということが気にかかっているようなので、お母さんが死んだら私がお墓や仏壇の前に行かなくてもいつでも交流できるのよなんて冗談めかして言いますが、母はなんて愛情にない娘だと思うことだろうと思います。私としては冗談ではないのですが。そういう意味では御葬式の形もその後の祀り方もそれは生きている側、まだクリアに見えていない側に属するものではないかという気がしています。




2001年07月06日(金) 葬儀と宗教

掲示板にぞくまささんから宗教と葬儀についての質問と思いとが寄せられていた。書きたい気持ちが起こる。私は宗教学者でもなんでもないので、私の心で感じ取ったことしか書けないが、今出てこようとしている言葉を留めてみようと思う。
ぞくまささんは私が日記で書いた一連の教会での葬儀に関する文を読まれて、なぜ、宗教で故人を送るのだろうと思われたと冒頭に書かれていた。新聞やテレビでは、宗教とは無関係な葬儀をなさった有名人のことを知るがほとんどの方はなにがしらの宗教にのっとって葬儀を依頼するのではないだろうか。日頃、自分は無宗教だと言っている人も、また宗教と無関係に過ごしてきた人も、葬式ともなれば自分の家の宗教として○○宗のお寺やお坊さんにあるいは神主さんに葬儀を執り行ってもらうというのが日本におけるいわゆる常識だが、このことがらをよく考えてみるとなんとも奇妙だ。無宗教の方は人生の締めくくりともいえる葬儀の場で、その人が死に対してどんな考えを持っていたかということと無関係に一方的にその宗教の持つ死への考えを押し付けられることになるからである。また家族にしろ、列席者にしろ同じ生死観を共有しているのでなければ、お坊さんや神主さん、あるいは牧師の語る死や極楽浄土、また天国といったことに違和感を覚えることすらあれ、心をひとつにすることは難しい。人々はだからそのあたりのことには触れまいとし、できるだけ、生死観とか魂とかというものを脇へ押しやり、形だけを整えようとする。
ここで見えてくることは、私たちがものの本質のところは問題にせず、形のみを利用しようとする在り方だ。結婚式、宮参り、七五三、初詣、みな宗教的行事であるにもかかわらず、宗教など必要ないという多くの人々がこのことを当たり前のように行いそれに疑問さえ持たれない。

ところでぞくまささんの問いかけへと戻るが、そもそも人間の文化が形成されていくなかでまず葬式があったのではなく、まずは生死観があったのだと思う。人間は死んだらどうなるのか、この命をどのようなものと捕らえ、また死をどのようなものと捕らえるのか、それが宗教であり、その思想に基づいて葬儀の形が整えられていったのではないだろうか。その昔、ひとつの家族は、また地域社会は同じ生死観を共有していたから葬儀そのものが生きている者への教育の場でもあったと思う。葬儀を共に執り行うことによって、共有する生死観をより確かなものにしていったことだろう。でも今私たちはそのことを忘れている。葬儀に先んじて宗教が存在したということを。人間が生まれた時から死ぬことの意味を教えられ学びつつ大人になっていったということを。

こういう私はでは皆が何らかの宗教をもつべきだとここで主張したいのではない。神は存在しないとはっきり主張し、この命が終われば、自分というものは永遠に消滅するとする方の考えも尊重する。そしてそこから生まれてくる生死観も。わたしが主張したいことがあるとすれば、多くの人が、そして社会が「死」ということから甚だしく離れたところで生きているということである。しかし、「死」を問うことなしに「生」の意味を掴むことができるのだろうか。私たちの社会は子どもに死がどういうものか教えない。教えることができない。死を迎えている患者と医者は、また家族は共に死を準備しようとはしない。死を正面から見据えることができない。
あちらこちらで吹き出すように起きている残虐な殺人事件。こういった事件の背後に、生死観を失い、それを教育する力を失った社会の衰弱があると見るのは私のひとりよがりだろうか。


2001年07月05日(木) 葬儀

礼拝堂に人がいっぱいになる。60人ほどの高校生は座わるスぺースが無く、脇に立っている。葬儀に先立ってキャンドルを点す人がいない。通常は男性がこれを行うが、教会関係者はその場に私しかいない。女性でも構いませんからと牧師から言われ、慣れない役をやる。お辞儀をするのを忘れてしまった。

教会の葬儀は牧師による説教と讃美歌が中心だ。牧師は普通、死の悲しみではなく、天国への旅立ちを祝福する。讃美歌は「いつくしみ深き」とか「主よみもとに近づかん」といった静かだけれど、明るい旋律の歌が多い。その人の地上での生を祝福し、いよいよ時が満ちて天へ帰るその門出を祝うのだから。

人間的な見方ではその時が早すぎると思う。しかし、その人にとって最も時にかなった神から定められた時として受け入れようとする。当然、受け入れることなどできない。それでも、死をそのように受け止めようとするのがキリスト教の葬儀である。亡くなられた方は洗礼を受けることを望まれていたということだが、未信者の御主人にとっては、あるいは多くの未信者の参列者の方にはこのことがどのように受け止められるのだろう。きっと異質な印象を受けるのではないだろうか。でも何かの折りにふとこの葬儀のことが思い出されるかも知れない。私も御見送りしてきた方の葬儀の場面がふっと甦ることがある。その人のことがその時よりも分かってきた、近い感じがするということがある。

参列された方に棺に入れるためのお花を手渡す。焼香の代わりに献花をする。旅立ちだとしても、最後のお別れは悲しい。こんな悲しいことが日常の中に日々紛れているというのが人間の生なのだ。母を、妻を亡くしたことで人生が全く違ったものになるというのに、外にはいつもと変わらず車が行き交い、人々が歩いている。私とて礼拝堂を何もなかったかのように整え、来る日曜日の準備をしているのである。私のこの命の保証などどこにもないのに。


2001年07月04日(水) 前夜式

教会の持つ英語学校は小さいがそれでも、100人以上の生徒を抱え、一日に5クラスから8クラスはある。
学校を運営する立場からすると、生徒さんのことを考え、できるだけキャンセルはしたくない。変わりの授業をするにしても、生徒全員がこれる時間をそれぞれのクラスに割り当てるなど不可能に等しい。かといってぎりぎりのところで運営しているわけで、払い戻しも困難だ。そこでできるだけ、キャンセルを最小限にとどめる必要がある。しかし、遺族の方の立場を考えれば、人が亡くなったという大きな出来事の前に、クラスだとか、キャンセルだとか言語道断のことだろう。その両方の真ん中にいるという立場。
私と同じ世代の御婦人の死、もし仕事の部分でのことがなければ、死を悼むことに集中できるのだろうが、まるで葬儀屋さんになった気分だ。式が滞りなく行くように配慮しなければならない。このジレンマ。このやっかいな立場。
生徒との対応。いつもと変わり無いクラスにしなくては。子どもは敏感。私の緊張をすばやくキャッチするのだから。ひっきりなしの電話。場所は?花屋を教えて?牧師さんと話しがしたいのですが、精神を煩っています。教会のもよりの駅は?明日は最低でも120名になりますが、、。礼拝堂には80名しか座れないのに。電話とクラスをお手玉のようにあやつって、、悪いことに、今日に限って頼りの事務担当者が休み。
それでも前夜式がなんとか終わった。

喪主である御主人が泣きながら挨拶をされた。「妻はほんとうに私に良く尽くしてくれました。」という言葉に一瞬ぎくりとする。もし、これが私の葬式だとして、わたしの夫はけっしてこうは言わないだろう、いえ言えないだろうと思ったからだ。彼は言うかも知れない「妻はほんとうに私から良く尽くされました。」と。でも今後のことは分からない。できれば死ぬ前に尽くしておきたいと思う。でも尽くすってどうやればいいのだろう。


2001年07月03日(火) 突然のこと

今日も平和に過ぎる予定だった。早朝に電話。教会の役員から。(私も入れて役員は3人)教会に関係がある方が昨夜亡くなり、家族の希望で私たちの教会で葬儀とのこと。明日が前夜式。しかし、今肝心の牧師がアメリカへ出張中。司式は近隣の牧師が来てくれるということらしい。まずは英語学校のキャンセルや時間の変更。教会から4人手伝いが必要だということ。どんな準備が必要なのだろう。今年役員が総入れ替えになったばかり、しかも御葬式なんて初めてのことだ。ちょっとパニック。ああ、わたしってこういう式と名の付くものにアレルギーに近いものがあるのに。何もしないで、お客として座ってるだけでも前の晩は胃が痛くなるほどなのに。大勢の人間が集まる場所がなぜか苦手。始まればなんとかこなすけど、その前はかなり緊張が高まる。


2001年07月02日(月) 思い出し日記

今日は7月5日、日記が4日も空いてしまった。今まで一日も欠けることがなかったから、間をとばすのが何だか気持ち悪い。よし、思い出し日記を書くとしよう。

月曜日は平和に過ぎた。HPの土台ができた。とはいっても私は少しも知識がなくかつ意欲がなく、Aがしびれをきらして、出来合いのデザインのものでわたしのHPを創ってくれた。「只今準備中」と表示しているものの、もうネット上にある。そうなるとその出来合いのデザインが気になる。わたしのテイストじゃないと思ってしまう。しかし、こだわりを貫くには技術と知識に欠ける。取りあえず、名前だ。やっぱり「たりたガーデン」しか思いつかない。そこでHPの名前は「たりたガーデン」にし、今までの日記の名前を「たりたの日記」に変え、マオさんのところのわたしのページの名前を「たりたの部屋」に変えていただくことにした。掲示板の付け方は経験済み、自分の掲示板と、マキト(次男)の掲示板を作る。夜 Aに掲示板と日記をリンクしてもらう。


2001年07月01日(日) 今というこの瞬間の中で

今日の聖書日課 <ルカによる福音書 7章36節〜50節> を読んで

イエスが招かれたパリサイ人の家で食卓に着いた時だった。突然一人の女が入口から入って来ると、イエスの後ろにかけより、その足もとにひざまづいた。女は高価な香油の入った石膏のつぼを抱えていた。女は泣きながら涙でイエスの足を濡らすと、自分の長い髪の毛を掴み、それでイエスの足をぬぐった。それからイエスの足に接吻すると、持っていた香油をイエスの足に塗った。辺りに香油の香りが広がっていただろう。イエスは動じることなく、静かに女を見ていただろう。女は香油を塗る間も泣き止まなかったにちがいない。これから始まろうとしている夕食の、ひとつの秩序を女の行為が破った。
女は罪ある女として周りの人間からさげすまれている者だった。この女の行為はイエスを招いたシモンにはひどく不快だったに違いない。神の掟を守る、正しく学問のあるシモンは心の中でつぶやく。イエスほどの人がこの女がどんな女か見抜けないのだろうか、こんな卑しく汚らしい女に自分の足を触らせるなんてと。

イエスには深く分かっていた。その女がどういう女なのか、なぜこのように泣きながら自分の足を涙で拭うのか、そうしてシモンが心の内で何を考えているかも。
イエスはシモンに「あなたに言うことがある。」といい、例え話をするのだ。ある金持ちに二人の人が金を借りたが二人とも返すことができず、金持ちから借金を帳消しにしてもらった。一人はもう一人よりはるかに多額の金を借りていた。その場合どちらが多く金持ちを愛するかと問う。「多くゆるしてもらったほうだと思います。」と答えたシモンに「あなたの判断は正しい」といい、さらに、その女とシモンのイエスに対する愛の大きさの違いを示され、女に「あなたの罪はゆるされた。」というのである。

社会はそこにルールを定め、そのルールから外れるものを許さない。そういった人間を罪人と定め排斥する。判断の基準となるのはその人間が過ぎた時間の中でなしたこと。しかし、イエスはいつも社会の正しさや物差からではなく、過去にその人間がなしたことからではなく、その人のその瞬間の魂の状態を読み取り判断を下す。

過去において女は神をも人をも裏切る罪を犯したのだろう。彼女の涙はそのような自分への目覚めではなかっただろうか。イエスと出会うことで彼女は自分の飢え渇きに、水が注がれるのを感じ、これまでの虚無の海の中から引き上げられるのを感じていたのだろうという気がする。泣きながら彼女は自分の内に巣食う黒いものを洗い流していたのだろう。それは後悔の涙でもあり、感謝の涙でもあり、何より自分を救い出してくれたイエスを愛する故の涙だったのだという気がする。

彼女の心に起こった変化こそ、イエスが人々に求めていたものではなかっただろうか。
十字架の上にあった時、隣で十字架にかけられている強盗の心に起こった変化をイエスは見逃すことなく、「今日あなたは私とともにパラダイスにあるでしょう。」と言ったことが甦る。わたしは今、あの罪の女のように、パラダイスへ伴うと言われた強盗のようにイエスに向かって心を開いているか。そのことが問はれる。
イエスの目は今この瞬間の私の魂へと向けられている。瞬間、過去でも未来でもない、ただこの今という時の中でイエスは私と出会おうとしていらっしゃる。


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