たりたの日記
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2001年06月30日(土) 京都のみやさん

さばの切り身を多めに油を引いたフライパンで焼く。両面がかりっと焼けたところで、おろししょうがと醤油を合せたものを鍋のふちからじゅっと回しかける。その瞬間、遠い昔のひとつの光景が甦り、泣きたいような気持ちになった。

京都に住むみやさんは詩人だった。この人の詩を水俣病の支援運動の機関誌のなかで読んだ時、私はわっと泣き伏した。いきなり襲ってきた激しい感情は今でも説明がつかないが、彼女の痛みのようなものが私を刺したのだと思う。そしてその痛みの故に私は彼女に恋した。会ったこともない人だったのに。

その機関誌の詩を見せてくれたのはA(現在の夫)で、みやさんはAの友人の友人だった。私はその詩の感想を手紙に書き、訪ねたいと申し出たのだと思う。彼女のところには様々な人が出入りしているらしく、あっちこっちに連れていけなんて言わなければ泊めてあげるという返事をもらった。私が24歳、彼女は29だったと思う。夏だった。会ったこともない人に会うために京都へ行った。駅に黄色い自転車で迎えに来てくれることになっていた。初めて降り立った小さな駅、向こうから白いシャツに細身のジーンズ姿のみやさんが来た。古い作りの木造の借家、窓の下の座り机の上にはシャガールの画集が広げてあった。

いったい何を話したのか覚えていない。ただ彼女から手渡された詩の原稿を読みながら、私は声を上げて泣いた。何も話さずに泣いてばかりいる客をいぶかしがることもなく、ただ放っておいてくれた。そしてぽつんと「君が来てくれてよかったよ。」と言った。彼女はその頃、何冊ものゴッホの書簡集を読んでいてゴッホと並々ならぬ交感をしている様子だった。ゴッホの痛みを彼女が自分のこととして痛んでいるということが伝わってきた。
それからみやさんとわたしは近くのスーパーに夕食の買い物に行き、彼女は大きなさばをまるごと買った。台所で彼女が慣れた手つきで魚をおろすのを見ていた。冷蔵庫にはだし昆布を入れ、水を張った鍋が入れてあった。華奢で美しい彼女とはすぐには結びつかない生活感をそこに見た。
みやさんと水俣の魚を干す女たちが重なった。水俣の苦しみに身をよじるみやさんの優しさと哀しさがその台所に漂っていた。

翌日、その家を出る前、私はしばらくみやさんの肩を揉んだ。彼女からもらったものが大きくて私は何ひとつ返すものがなかった。幸せでいてほしい、祈るような気持ちで肩を揉んだ。
その時から10年ほどたって、偶然、「ぱんぱかぱん」という写真集に出会った。障害者の施設で生活する人達が琵琶湖の外周を歩く記録写真だった。その写真の上にみやさんの詩が流れていた。まぎれもなくみやさんの言葉で、その言葉は矢のようにまっすぐに私のある部分へ突き刺さった。10年前と同じだった。

あれからさらに10年がたった。私はまだ受けた矢の痛みを忘れられないでいる。そしてその痛みがどこから来るのか、まだ見えていない。いつか彼女に会うことがあるだろうか、その時には出会ったことの意味が分かるだろうか。


2001年06月29日(金) 高橋たか子「放射する思い」

高橋たか子の「放射する思い」を読み終えた。
1997年に講談社から出版されているエッセイ集だ。聖三木図書館から借りたものだがこの本はまだ手に入れられるかも知れない。霊的書物として女子パウロ会から出版されている彼女の本の多くは再版されておらず、在庫もなく手に入れようがないが。

この本のことを心に止めておきたいので書き留めておこう。
エッセイはどれも興味深かったが、特に印象に残ったものは

○芸術は癒しうるか
○ その時その時の「時」
○ 砂漠・砂漠・砂漠
○ 人間の謎をめぐってー埴谷雄高への手紙
○ いのちの河へ(遠藤周作・追悼)
○「魂の頂き」へ向かって

最後のエッセイ『「魂の頂き」へ向かって』を彼女はこのように書き出している。
<常に常に、自分と出会ってきた、と60年をふりかえって思う。
ただし、他人と出会うことによって、である。数えきれない、自分とは異なる他人たちとの出会いをとおし、自分と出会ってきた。>

彼女は小さい頃から、人に対して何かしらの違和感を感じ、出会う人との違和感をとおして、自分に目ざめ、他人に目ざめ、人間に目ざめ見つめることを、日々してきたという。そして、その出会いの貪欲さは、もしかしたら違和感の起こらない他人がどこかにいるのではないかという強烈な夢が彼女の一生を貫いていたからだとも。
自分の内から出てきた言葉のように共感がおこる。わたしもそうだった。これまでずっと。ただ彼女のように違和感に対してきちんと向かいあうことなく、違和感を感じると、条件反射的に自分の内を閉ざしてしまって、ほんとのわたしが相手にも見えなくしてしまうという癖がある。自分は違和感を覚えながら、どこかで相手にそれを感じさせないようにという意識が働いてしまうのだ。
エッセイの最後の部分はこのようにまとめられている。

< 人間嫌いだと言いながらも、こんなにまで私が人間にかかわってきたのはなぜだろう。その答えはキリスト者としての私に、今は分かっている。1980年代をフランスのキリスト者と共に暮した間、あちこちで「魂の頂き」とか「魂の切先」とか「魂の息」といった言葉に出会ったが、こんな類いの言葉が、私の抱いていた人間内部の光景をすっきり整合していった。― 誰も、他人との違和感のうちにじたばたと生きているけれども、そんな一人一人は、「魂の頂」ともいうべき先端で、神に触れているということ。それを信じない人も、それに気づかぬ人も、あらゆる人が。
たえず人間と出会うことをとおして、神と出会う1本道を歩いていたのだ、とまだ終わらぬらしい生の、一地点に立って、そう思う今日この頃である。>

出会うどんな人も、信じる宗教や主義主張とも関係なく、「魂の頂」で神に触れていると言い切る高橋たか子にわたしは安心のようなものを覚える。
私がここでこうして書くというのは、自分と出会うように、人と出会いたいからである。違和感に出会うと殻に閉じこもってしまう私を、表に出し、ここを訪れる人と出会おうとしているのである。そこに生まれるのが共感であればうれしいが、生まれるものが違和感や嫌悪感であっても怯むまいと自分に言い聞かせる。表面的な所ではなく、人と魂の頂きの部分で出会いたいと願っているのだ。


2001年06月28日(木) 高橋たか子との出会い

しばらく間が空いたが、また高橋たか子を読んでいる。読む度にそこに「自分の場所」といった安らぎを受ける。そこにある空気が好きだ。甘さがなく、しんとしている。それでいて火のようだ。熱くない火。

そういえば、高橋たか子を読み始めたのは去年の今頃だった。読書の習慣からすっかり離れてしまっていて、特に文学書は随分手にしていなかったのに
どうした具合か、小説が、それも女流作家のものが読みたいという気になった。子宮を摘出した直後、まだ家でごろごろしている時期だった。子宮を失うということが女性としての私にどのような変化をもたらしているのか確かめたい気持ちもあったのだろうか、それともホルモンの変化による嗜好の変化だったのだろうか。確かに変化は感じていた。どうも、体のレベルでは母というところからスパンとはずされ、私は母となる化学変化を起こす前の私に戻ったような感覚を感じていた。女性というところからも外れてしまうのではないかという漠然とした不安があったのに、実際はそうではなくて、産む性というところから解放されることで、なにか伸びやかになった気がしていた。それまで敬遠していた女流作家の小説を興味の趣くままに次々と読んでいった。どれもおもしろく読めた。自分の嗜好の変化が何よりおもしろかった。

その中に高橋たか子の「誘惑者」があったのである。友人2人の自殺を助ける1人の女性が主人公だった。人間の中に巣食う虚無とも悪魔的ともいえる甘さのない世界だった。なぜか惹かれた。作品の底を流れる人間とはという問いかけに触れた。どこか自分と無関係ではないものをそこに感じた。しかしながらこの暗さ、神が存在しない果てしない闇。
それから図書館で彼女の書いたものを片っ端から読んでいった。読み始めて間も無い時期に、彼女がある時期、小説家とての自分を捨てて、1人でフランスに住み、10年ほど他との接触を絶った観想生活をした人であることを知った。以前に「意識と存在の謎」ーある宗教者との対話という本を講談社の新書で読んだことを思い出し、あの作者は高橋たか子であったと、別の人のように思っていた作者が同一の人であったことに気づく。それにしてもあまりに違う。「意識と存在の謎」の中で私が感じ取ったものは、光だった。それもぼんやりしたものではなく、人間の存在を照らし出す光のことがはっきりした輪郭で語られていた。
闇から光へ。彼女の書いたものがある時を境に全く違ったものになっているのは、彼女の内的変化をそのままに表わしているからだということが分かり、彼女に起こった内的変化を知るべく、観想生活に至るまでの手記やそこから生まれた作品を読んでいった。彼女の内的変化を知った後で、彼女が信仰を持つ以前に書いた作品を読むと、そこにはそこへと辿り着くための道行きのようなもの、準備のようなものが見えてくる。作者にも読者にもそのことは分からなかったが通り過ぎたところから振り返ってみると、彼女の書いたものの中に確かに出会いの予言を読み取ることができるのである。
作者自らがそのことを、自選小説集の解説のなかに書いていて興味深い。


2001年06月27日(水) 映画「ギフト」

映画「ギフト」を見る。
怖かった。怖がらせることを意図して作ったホーラーものではない。
しかし、見終わった後の印象は怖かった。夜遅くに見るのではなかったと思ったりした。
でも、何が怖かったのだろう。
昨年事故で夫を亡くしたアニーには霊感があり、カードの占いで生計を立てている。

ある日、失踪した富豪令嬢の捜査に協力を頼まれ、アニーは霊視により事件の真相が明らかにされていく。
彼女は見えるが故に人の痛みや、心の奥底の傷、そして死者からの訴えまで引き受けることとなる。彼女は亡くなった祖母から、それは天から授かった賜物、ギフトなのだから、自分に忠実でありなさいと言われ続け、彼女なりに、見える者としての責任を感じ、果たそうと努力しているのである。恐怖を覚えながらも、彼女は真実から目をそらすまいと、神経を集中させ、その事件の犯人を幻視の中で見ようとするのである。
この映画を見ながら、他の人に見えないものが見えるということの苦しみ、彼女に与えられたギフトの重さを思った。

怖いと感じたのは、見えない世界に対して彼女が無防備に開かれているところ。見たくないものが向こうから突然やってくることを彼女は防ぐことができない。知らないが故に見えないが故に守られている多くの人間の中で、真実が見える彼女は孤独である。
またその特別なギフトの故に、危険にさらされる。

彼女の他の人を思いやる心や、正義感とは裏腹に、彼女を取り巻く人間達は不義や憎しみや偽りといった深い闇の中にいるのである。 また、見えるという彼女の真実を頭から受けいれようとせず、魔女扱いしたり、嘲笑する人々。彼女を守り、危機から救ってくれたのは、幼い時、父親から受けた性的虐待のために、心を病む青年だったが、、、。

アメリカの田舎ウエストバージニアだろうか、夜の闇の深さとどこか狂気をはらんでいるような重い空気。日本にはない、その土地の持つ得体の知れない怖さが、バイオリンの音に特徴がある民謡のような旋律にいっそう掻き立てられるようであった。
この原作者は女性で、彼女の祖母は超能力を持ち魔女のように言われていた人だったと、いつか読んだ雑誌に書いてあった。それだからだろう、そういう力を持つ人の内側がリアリティーを持って描かれている。原作を読んでみたい。


2001年06月26日(火) 誕生

今書いているこの時間は6月28日の午後3時という時間であるが、この日記の日付けは26日のままだ。やはりHの誕生の次第を書いておこう。

長男Hが生まれたのは26日の午前3時22分50秒だった。育児日記の第1ページめにその時間が記されている。ホームビデオなんていうものがなかったから、誕生の瞬間を留めるべく分娩室にテープレコーダーを持ち込んでいた。助産婦のUさんが、Hが生まれた瞬間に時計を見て、高らかにその時間を読み上げてくれたので、その時間が産声とともに記録されることとなったのである。

予定日にはまだ早かったが、朝からしくしくとお腹が痛むので夕方の6時、夫が帰ってくるのを待って病院へ行くと、すでに三指半開大ということでそのまま入院となる。夫は入院のための荷物を取りに帰り、主治医の女医のT先生は夜中すぎのお産になるから、仕事持ってくると、自宅から書類などを取ってきた。その病院の産婦人科は看板を掲げたばかりで、入院している人は2、3人というところではなかったろうか。そのような時期であったからか、医者の都合で生まれる時間を調節されることもなく、あくまで自然な分娩をということで、長期戦の構えだった。
病室でT先生と夫と私の3人でなにやら話しをしているうちに、陣痛が始まった。この時のために、本屋で見つけたラマーズ法の本を頼りに、妊娠してすぐからラマーズ法の呼吸を練習し、イメージトレーニングを積んできたのだった。陣痛の感覚は本に書いてあった通り、次第に短くなり、それに合せて、呼吸法を変えていく。夫は時計をにらみながら陣痛の間隔を計るタイムキーパーを務めた。しかし、痛い。暴れ馬に乗っているようである。ひとたび呼吸に乗りそこねると、馬から振り落とされるような感じで息もできないほどにのたうちまわる。そこでなんとか呼吸の波を取り戻すと、ちょうど手綱を握っているような感じになり、なんとかコントロールできるのである。幸いなことに陣痛と陣痛の間は意識がなくなるほど眠く、次ぎの陣痛で起こされるまでのわずかな時間なのにことんと眠りに落ちた。
さていよいよという時になり、夫は外に出るように言われた。わたしたちは本でラマーズ法を学び、夫がお産に立ち会うということを良しとしていたが、ドクターも助産婦さんも、この時は夫が立ち会うということに準備ができていなかったようである。同じ病院で2年後、出産した時は夫はおろか、見学の医師や看護婦も分娩台を取り囲んでおり、Hの時の産室に比べるとずいぶんにぎやかで解放的になっていた。
短息呼吸に助けられつつ、何回かのいきみを逃し、後は力任せにがんばる。産道を通ってくる新しい命に感激が押し寄せる。その時、わたしの内部では大きな変化、まるで化学変化のようなことが起こっていたような気がする。母となりつつあったのである。
育児日記には「大きなかたまりがすべり出たような気がした」と書いてある。
ドアの外で待機していた夫が呼ばれ、彼は赤ん坊と私とを繋ぐ、ホースのように太くて長いへその緒を見た。私はそれを見ていないが、彼はそこにはさみを入れた。生まれ出た赤ん坊が横にいる夫にあまりにそっくりなので大笑いが起こった。
命がひとつ生まれた。朝になろうとしていた。


2001年06月25日(月) Hの誕生日

我が家の少年Hが19歳になった
私が母となって19年が過ぎたということになる
まずは夢中になり、とことん入れ込み
このこ天才だわと、きちんと親バカになり
おしりを追いかけ回し、体力をつけ
すごい顔でどなるたび、人格を変えられ
どうしてあんたはそうなのよと絶叫すれば、狂人の一歩手前
口で言えないほどに腹が立てば便箋10枚になぐり書き、書けることを自覚した
そんな息子に夫が怒鳴ればやさしくしろ食ってかかり、夫婦の危機も訪れる
茶髪にパンク、ピアスにたばこ、生傷、切り傷、捻挫にヘルニア
果てしなく繰り返えされる波乱万丈とうるさい音楽
人間って大変なのね、できあがるまで
はなはだしく未熟な19歳はそれでも大きな顔している

6月26日


2001年06月24日(日) トラウマからの威嚇

私がパニックになることが2つある。ひとつは道を1人で歩いている時に向こうから犬がやってくるという状況。もうひとつは人前で鍵盤楽器、つまり、ピアノなりオルガンなりを弾くという状況。それもこれも、ある時期に受けたトラウマのせいだと思っている。

私が赤ん坊の時は犬がとても好きで、だれもが怖がる隣の家のスピッツをにこにこしてさわっていたらしいが弟と二人で保育所に通う道でコロという犬に襲われるようになり、すっかり犬に怯えるようになってしまった。猫は飼うようになってから克服したが、犬はまだ怖い。もっともこの頃は放し飼いにされている犬にあまり出会うこともないから、もっぱら夢のなかで手に汗を握るくらいである。

小学校一年生の時、友だちが習っているオルガンがうらやましくてならず、ねだりにねだって買ってもらい、ヤマハのオルガン教室にも通わせてもらった。オルガンは大好きだった。オルガンといわず、バイオリン、リコーダー、ハーモニカ、アコーディオン、小太鼓、ダブルベース、ギター、ピアノ、といった楽器をほとんど学校のクラブ活動と独学で学び楽しんでいた。
ところが大学の教育学部で、副専攻に音楽を選んだのが間違いだった。なにしろ、なんでも自己流でやってきたものだから、ピアノはバイエルからしごかれることになり、鬼のように怖い教授から、手をたたかれたり、足を蹴られたりしながらレッスンを受けるはめになってしまった。その甲斐あってか、卒業する時にはドビッシーのアラベスクを弾けるようになったが、それにしても完璧に暗譜して、目をつむっても弾けるくらいだったのに、卒業試験では最後のところで次ぎの音が出てこず、パニックを極めた。そのせいだと思う。練習ではうまくいっても、本番になると頭に血がのぼり、顔や手から油汗が吹き出し、私は自失するのである。自分がコントロールできないというのは不安なものである。どこかで自分に信用がおけないのだから。

しかし、それにもめげず、教会のオルガン当番を月に一度引き受けたのは何とかこの悪癖を克服して、祈りを捧げるようにオルガンを弾けるようになりたいと思ったからだった。4年ほど続け、少しづつ緊張の度合いは少なくなっていったが、それでも、とても間違えようのない曲でも、礼拝の中では必ずミスをするのはなおらなかった。しかし、今年度に入って、教会学校の仕事や会計の仕事がかぶさってきて多忙になったので、オルガンの当番からはずしてもらった。たった月に一度のことなのに、この礼拝のオルガンがかなり私を圧迫していたようだ。この当番がなくなってみると、なにか一度に余力ができたような気がした。宿題を抱えていない開放感のようなものを感じた。オルガンを前にしたあの緊張に伴うエネルギーに比べれば、子どもたちの相手やお金の計算など少しも大変ではない。

今朝のこと、教会学校が終わって、お迎えを待つ子どもたちの相手をしていたから、わたしは礼拝には遅れて出るつもりでいた。ところがオルガンの担当の方がまだ来ないという。司会の方があわてて、わたしのところへやってきて、音だけでも出してくれという。そんなこと言われてもと思いつつ2階の礼拝堂へ急ぐ。今日いったいどんな讃美歌がプログラムに載っているかも知らない。みな礼拝が始まるべく着席してオルガンの前奏を待っている。この状況はどう考えても私にパニックを引き起こすはずなのに、不思議と腹が座っていて、座っている人々の中を前に進み、オルガンの前に座ると讃美歌の中から弾き慣れている曲を前奏曲に選び弾き始めた。いつもはここで頭に血が登り、手がガクガクするのであるが、なぜか平気だった。当然、全く練習していない讃美歌を弾き、最後の曲などは見たことも聞いたこともないもので、しかも古い時代のものだからリズムがえらく変則的だった。なんとか礼拝は無事に終わり、階段を降りながら、ちょっとした満足感に浸っていた。今まで何度も練習したあげくに間違ってしまった時の敗北感とまるで違うではないか。どぎまぎせずに自分をコントロールできたことが嬉しかった。それにしても、こういうのを火事場の馬鹿力というのであろうか。あまり急なことでトラウマからの威嚇も間に合わなかったにちがいない。


2001年06月23日(土) 朗読会

サイトで知ったネモ船長の所属するグループの朗読発表会へ行った。
またこの会にはマオさん、なおこさん、そして井出さんもいらっしゃることになっていた。マオさんは知っているが、後の方々はいわゆるメル友。日記や掲示板の書き込み、また出版されている本などを通して、良く知っているにもかかわらず、お会いしたことがないという関係だった。会ってみたいという気持ちと同時に何かどぎまぎするような気分があって、意を決して出かけるという感じもあった。それにしてもこの気分は何なのだろうと不思議だった。

会場へ着く。知っているけど、知らないというのは不思議なものだ。この人かなと思うのに、確信がないので、また別のところに目を泳がせ、証拠を探そうとする。そのうち、そうに違い無いという気がしてきて声をかける。ここでは私は「たりた」だ。「やっぱりそうでしたか」と文字だけで知っていたネモ船長と御本人がひとつになる。こうやって会ってみれば、もうずっと前から会ってきたという気になる。娘さんのももてんは受け付けをしていた。彼女の掲示板にも時々おじゃましていたので、知り合いだ。井出さんはお母さんといっしょにいらしていて、彼女がネモさんから送られてきた封筒を手にしていたので、ネモさんが「井出さん」と声をかける。毎日のように会っている井出さんとはこの方だったのだとまた不思議な気持ちになる。なおこさんとマオさんは遅れているらしい。お二人のことを気にしながら井出さんと並んで朗読を聞く。朗読は予想していたものよりも演劇に近く、舞台でのパフォーマンスを見ている気分だった。文学としての言葉が生身の人間の声を通して伝えられる。作品と読み手とが作り上げるオリジナリティーあふれる世界。わたしがこれまで体験してきた語りとも歌とも共通するものがあると同時に、そこにはなかった要素もあった。
休憩の時になおこさんとマオさんとも会え、いっしょに並んで聞くことができた。ネモさんの朗読した芥川龍之介の「蜜柑」は不思議なほど情景がくっきりと浮かんできた。このように作品の世界を伝えることのできる朗読という仕事が新しく目の前に広がった。
作品を通してとても近くに感じていたなおこさんだったが、お会いするとさらに親しみ深さや魅力が増した。マオさんとは過ぎてきた時間がどっとそこに立ち現れ、聞きたいこと、話したいことが押し寄せてくるようだった。
朗読との出会い、ネットで出会った方々との実際の出会いと感慨深い日となった。


2001年06月22日(金) 何もないふつうの日

実は今日は24日、日曜日の夜なのだが、木曜日からそのままになっている日記を前にさて、どうしたものかと思案に暮れている。
私の2001年6月22日がどういう日だったかがさっぱり思い出せない。
何にもない日はこうやって記憶にも残ることなく消滅してしまうというわけか。
午前中は家事をして、生協の注文書を書いて、生協の荷物を取りに行く。朝鼻炎の薬を飲んでいたために、ふらふらするほどに眠い。そこでしばらく横になる。そこでメールのチェックをしたり、書き込みをしたり、本も読んだだろうか。それにしても、今日はその日ではないから、その時の気分はもう掴みようもない。
けれど、日々は、多くの日々は圧倒的にこの金曜日のように通り過ぎていく。
だから、たとえ、1行でも、その日のその時間を残しておきたいと思う。

そういえば、私の父の父、つまり私の祖父は日記マ二アだったそうだ。その日の町の出来事、近所でのこと、もちろん家族のこともであろうが事細かに記録していたらしい。しかもその帳面も年ごとにきちんと整理されてあったので、
時折り、昔の出来事で調べたいことがあると、近所の人が尋ねに来ていたらしい。役場の人まで、来ていたというが、父の話がどこまで真実であるかは分からない。だからであろうか、父はしょっちゅう私に日記を買い与えた。日記を付ける習慣をつけさせようとしていたようである。しかし、私は父似、祖父のように細かい記録を書き続けられるような性質ではない。それでもどこかで、書いておかなければという脅迫観念のようなものが私のなかに刷り込まれているような気がする。


2001年06月21日(木) ちょっと休憩

先週は一週間、毎日父のことを書いた。書く時間以外でも、今日はどんなことを書こうかと考えているわけだから、頭のなかは父のこととか、子どもの頃のこと一色となる。ちょっとちがった気分で過ごした一週間だった。私の事をよく知ってくれている友人からメールで感想が送られてきた。私の書いたものを読んで爆笑してくれた人やじわっと泣いてくれた人、さらには声を押し殺してむせび泣いてくれた人。もうただただ有り難いと思った。書いたものを読んでもらうことでさらに繋がりが深くなったようで嬉しかった。こういう嬉しさは今まで知らなかったなあ。

今週は何となく、宗教がテーマになっている。今読んでいる、高橋たか子のこともいつか書きたいと思っていたし、良い機会だとは思うけれど、読む方は疲れるだろうなとふと思った。なにしろ笑わせる場面なんてどこにもないし。とにかくシリアス。わたしも日々、考える人のポーズで思索に耽っている。自分でも、ちょっと息抜かなくちゃと思う。

友人の1人が、読者は共感したいんだからね、と言ってくれた。時として、私の書くものは濃度が濃すぎて共感を呼ばないものになってしまうことだろう。確かにそうだ。私も共感できるものはおもしろく読めるけど、そうでないものは読むのがいやになってくる。けれど、一方ではこれが私、もともと日記なんだから、共感されてもされなくっても書きたいものを書きたいように書くのだという開き直ったりもする。

でも、こういう休憩の文って早く書けるものだなあ。夕飯(ゆうめし)前だった。
さて、これから晩御飯。
「みんな〜、食べるよ〜」


2001年06月20日(水) 宗教的多元主義

実際のところ、今日は6月22日の金曜日だ。梅雨の晴れ間、少し陽も差している。

火曜日の日記に遠藤周作氏が「宗教的多元論」に出会ったくだりについて書き、このことはわたしにとってもまた出会いだと書いたが、どうしてそう思ったのか、ここに書いてみようという気になった。遠藤氏の文章を引用させていただく。

< 各宗教は別々かというと、私は、キリスト教が説いていることも、仏教が説いていることも、ヒンドウー教が説いていることも、根底においては共通したものがあると思う。自分を生かしてくれている大きな命に名前をつけたのが、キリスト教徒の場合はキリストだし、仏教徒の場合は釈迦であったり、阿弥陀様になったりするわけです。つまり、それは富士山を東から見るか、西から見るか、北から見るかであって、登っていく道は別々だけれども、頂上においては同じだということです。
 その意味で私は、
「、ヒンドウー教に、キリスト教徒になれと言う必要はない。またキリスト教徒に ヒンドウー教に なれと言う必要はないではないか。私は ヒンドウー教徒です。しかし、キリスト教徒の方たちが キリスト教徒であるということを私は尊重します」
 というふうなインドのガンジーの言葉に、非常に共鳴するわけです。
  <中略>
だから、今、ヨーロッパの学者たちもだんだんこの問題に気づき始めて、『神
は多くの顔を持つ』とか、『宗教的多元主義』とかいった本を書かれている学者もいて、私はそれに非常に共鳴している。>

この遠藤氏の言葉は自分の宗教を持っていない人にはごく当たり前の言葉として聞こえてくるのだと思う。しかし、遠藤氏がキリスト者という立場で、またガンジーが ヒンドウー教のリーダーという立場でこう言い切ったことの意味は重い。思いつめた言葉とでもいいたいような緊張感さえそこにある。ガンジーのことはよく分からないが、遠藤氏がそのように言い切るまでにどれほど、苦しみ、探しもとめてきただろうと思うのである。氏はヨーロッパのキリスト教と、東洋のキリスト教の狭間で悪戦苦闘してきたと語っている。

これを読んでいる時、イスラム教の信仰を持つ友人のタスニーンのことを思い出した。アメリカのコミュニティーカレッジで米語のクラスを取っていた時、いつもサリーを着ていたパキスタン人の女性が前の席に座っていた。わたしは彼女のしんとした姿に好感を持っていたので、何かのきっかけで話しかけ、私たちはかなり親しくいろいろなことを話すようなり、お互いの家にも行き来するようになった。彼女もまた家族もたいへん熱心なイスラム教徒であった。私は自分がクリスチャンであることを伝えていたから、話しは宗教的な話題が圧倒的に多かった。わたしが初めて出会うイスラム教徒であったから、彼女の話しはどれも興味深かった。教義についてはよく分からなかったが、私は彼女の信仰に触れるといつも感動し尊敬の念を覚えた。私たちの日本への帰国が近くなったある日、彼女はたくさんのスパイスとお祈りをほどこした鶏肉、パキスタンから輸入した米などを抱えてやってきた。いっしょに様々な形のスパイスを砕くのはおもしろかった。炒めた肉に砕いたスパイスを加えて煮ると、なんともいえないおいしい匂いがキッチンに溢れた。食事をし、居間で話しをしている時だったろうか、彼女が突然、東はどっちかと聞く。わたしが位地を示すと、今、祈る時間だからボールに水を入れたものと、床に敷く物が欲しいと言う。彼女は東に面した部屋に入ると独りしばらくの間、祈っていた。隣の部屋ではあったけれど、なにか冒し難い空気が伝わっくるようであった。わたしはその間、じっと居間に座り彼女の祈りにどこか合せるような気持ちで座っていて、満たされるものを感じていた。人の家であろうとこのように決まった時間の祈りを守るという信仰に圧倒されるものも感じていた。

そのことがあってから数日後、お互いの子ども同志が友だちということでおつき合いのある日本人の方にそのパキスタンの友人の祈りのことを話した。彼女はクリスチャンで、日本人が集う教会で熱心に活動している方だった。私は彼女と、その時の感動を分かち合いたいと思ったのかも知れなかった。けれど、彼女の反応は私が予想したものとは違っていた。彼女は、あなたはなぜ、彼女の信じる神が間違っていると教えてあげなかったの。それはあなたの友だちに対してとても不親切なことだと思う。私たちはクリスチャンとして異教の人達に伝道する責任があるというようなことを言われた。彼女のいう事は正論だ。しかし、私はタスニーンの信仰を否定したくはない。他の宗教の信仰を尊重すべきだという私の考えと、唯一の神以外は間違っっているのだから、そういう人に伝道するのがクリスチャンの努めだとする彼女の考えは激しくぶつかった。彼女が帰った後、もう会うこともないだろうと思い悲しかった。彼女の言ったことはキリスト教的には間違ってはいない。そうすると私の在り方が間違っているのだろうかと、さまざまに揺れ動いた。異なる宗教を持ち、異なる文化と言葉を持つタスニーンとこれほど心を通じ合せることができるというのに、同じ宗教を持ち、文化も言葉も同じ彼女とここまで決定的に分かりあえないということが皮肉に感じられた。しかし、こういった考えの違いにはそれまでも、その後も繰り返しぶつかってきた。その度に私は立ち止まってしまう。どこに答えがあるのだろうと思う。

遠藤氏はこの章をこのようにまとめている。

<だから、たとえば今、京都の天竜寺では、キリスト教の神父や修道士が来て、座禅を組んでいる。それから、天竜寺のお坊さんたちがヨーロッパへ行って、向こうの修道院で一緒に生活をしてみている。今までは集団における対立の時代であったのが、話し合いというかお互いの尊重の時代になってきつつあるんです。>

わたしはこれを読んで何かほっとするものを覚えた。心にずっとひっかかってきた問いが解決したとは思わないが、少なくとも私の疑問はわたしだけのものではなく、その問いの解決に向けて、大きなレベルですでに動きが始まっていることを知ったからである。


2001年06月19日(火) 『深い河』創作日記

五年前に遠藤周作氏の小説「深い河」を読んでいた。深い印象の残る本だった。登場する人物はそれぞれに探し物をしていた。分かりたいことがあった。自分はどこへ行くのか、神はどこにいるのか、どこかで分かっているようで、けれどはっきりと手の中に掴むことはできない。よりはっきりと分かりたいと手探りで進む。わたしが遠藤周作の作品に引かれるのは、この彼の問いかけだ。彼は自分を「分かった」というところに置いていない。そこに見えるのは痛々しいほどに真摯な求道者の姿だ。しかし、この最後の作品にわたしはどこかで結論を期待していたような気がする。わたしの「分からない」ことを「分かるもの」へと変えて欲しいという哀願にも似た気持ちがあった。そこへ早く辿り着きたいと先を急いで読んだように思う。そして最後まで読んだが、わたしの「分からない」はさらに深まり何か広いところに放り出される感覚を持った。自分で見つけなければならないという、そこは振り出しだった。
この創作日記は遠藤氏が亡くなった後に出てきたもので、作品がまだ形にならないころからの産みの苦しみが綴られている。病に冒され、自分はもう長くはないと知りつつ、書くということの使命感から自分に鞭打って苦しい作業を続けたたことが伺われる。氏が偶然に基督教神学者ヒックの書いた『宗教多元主義』に出会ったところではっとした。氏はその本との出会いを「これは偶然というより私の意識下が探り求めていたものがその本を呼んだと言うべきであろう、、、」と書いているが、これはそのまま、今この本を手にしている私に言えることであった。このようにして、意識下が探り求めていることに、私もまた出会っていくのである。

日記の最後に「宗教の根本にあるもの」と題されたエッセイが載せられていた。この文については何の説明もない。しかし、そこに私はひとつの結論を読み取った。それは「深い河」を読みながら、わたしが辿り着きたいと願ったところであった。小説の中で氏は結び目を作らなかったが、この創作日記の中で、氏がこの小説を書くことによって辿り着いた彼自身の立っている場所を明らかにしたのだと思う。

氏が辿り着いたところに私も留まり、「分かった」と言いたい誘惑にかられる。しかし、それは氏が苦しい闘いの果てに辿りついたところ、わたしはわたしで歩み、自分の歩みの中から見つけ出さなければならないのだと思う。


2001年06月18日(月) 聖三木図書館

上智大学のキャンパスの中、上智会館の2階に聖三木図書館はある。三木の名称は1597年に長崎で殉教した26聖人のひとり聖三木パウロに由来する。
木造の古い建物の階段を上がると、二階がすぐ図書館の入り口になっていた。一歩足を踏み入れるや好きな場所だという印象を持った。新しく明るい広々とした図書館もけっして嫌いではないが、昔の学校や公民館の図書館に等しくあった、古い本たちの息づかいが感じられるようなあの空気は新しい図書館にはない。少し暗い書架と書架の間で本たちはひっそりと呼吸している。その中から一冊を取り出し手にする時、本からすでに伝わってくるものがあって、そんな時は、これがわたしが出会うベき本だと思うのである。
私の家から四ッ谷までは電車で1時間半以上かかるし、こんな遠くの図書館から借りなくてもよさそうなものである。しかし、私は手にした5冊の本を書架に戻す気がしなかった。借りて帰ることにした。この図書館は外部の人間にも開かれていて、会員の8割が外部の人ということだった。年会費千円を払って会員になる。期限は3週間ということなので、3週間ごとにここに通ってもよいと思った。キリスト教関連文献や資料、また関連作家の作品を中心に、和書27,000册、洋書23,000册の蔵書がある。書架にある、どの本も興味深かく、1日居ても飽きないだろうと思った。
高橋たか子の「放射する思い」、「境に居て」、中川成美編の「高橋たか子の風景」、遠藤周作の「『深い河』創作日記」、菊池多嘉子著のマリア・テレーズの伝記「果てしない希望」の5冊を借りて帰る。先週の土曜日のことである。


2001年06月17日(日) 月夜の田んぼで

私が小さかった頃、小さな町の小さな商店街は、夕方の6時ともなれば店じまいをするようだったが、夏の間は土曜日ごとに「夜市」というものがあり、夜遅くまで、町のにぎわいが続いた。今でもヨイチという言葉の響きは丸い大きな金だらいの中の金魚やヨーヨー、赤や緑のかき氷りの映像を伴っている。

高台にある町営住宅から商店街までは徒歩でおよそ30分ほどの道のりであった。町のにぎわいをめざして父と母と弟たちと歩き始めるのだが、いつも家の外に出ると、夜の闇の深さにどきりとした。昼間と全く違った世界がそこにあるということになかなか慣れなかった。家族いっしょに行くのだし、時には近所の友だちや家族といっしょに歩いていくこともあるのだが、どこか心細い。急な坂の脇は墓場になっていて、そちらは見ないように歩いていくと坂の下には川が流れていている。そこに着くと、遠くから聞こえていたカエルの鳴き声が無気味なほど大きく響いているのである。川辺に添って歩き始める時、父はきまって「月夜の田んぼで」という歌を歌った。

月夜の田んぼで、ころろ、ころろ、ころろころころ泣く笛は
あれはね、あれはね、あれはカエルの銀の笛、ささ銀の笛

橋を渡って、向こうに町明かりが見えるまで、この歌を繰り返しみんなで歌った。いつの間にか心細さも消え、明かりが近づくにつれて、胸ははちきれそうな期待でいっぱいになっていった。この歌は父が歌うのを聞いただけなので、実際こういう歌詞なのか、そもそもこんな歌が世の中にあったかどうかも知らないが、今でも人通りのない夜の田舎道を歩くと、自然にこの歌が口をついて出てくる。

「月夜のたんぼ」の歌に限らず、父はその場所や季節に合わせてよく歌を歌った。「おお牧場は緑」「草競馬」「おおスザンナ」「赤とんぼ」「あわて床屋」「春になれば」などの歌は父の声といっしょに思い出す。父は何の為に、どこへ向かって歌っていたのだろうとふと思った。カラオケで歌う自己陶酔的な歌ではなかったし、人に聞かせようとして歌っている風でもなかった。ふっと口をついて出てくる歌、父の思いをどこかへ向かって放つための歌。どこへか、自分でも、人でもないどこか、どこか遥かなところ。父の歌は祈りのようだったと、新しい発見のように思い当たる。そして私は父の歌から何よりも向ける眼差しの方向を学んだのではなかったかと思った。

痴呆が進み、父のできることはひとつ、またひとつと少なくなっていった。まず、絵が描けなくなった。次ぎに文字が書けなくなり、さらに読めなくなった。ところが3年ほ前、母の勧めで父の日にハーモニカをプレゼントしたところ、父はそれを意外なほど達者に吹いた。楽譜もないのに、いろんな曲を次から次ぎに吹いた。良い音色で、味わい深い吹き方だった。父がハーモニカを吹いていたのはわたしが学校へ上がる前までのことだったと思う。なくなっていく記憶のなかで歌だけはそのままの形で残っているのだろうか、それとも父の古い記憶の底の方から忘れていたはずの歌が顕われてくるのだろうか、不思議だった。

昨日の父の日、母は病院に父を訪ねた。子供たちから届いたプレゼントの食べ物とハーモニカを持って。わたしは父のことを書いたここ何日かの話しを、プリントアウトして、小包の中に入れていた。母に読んでもらうためである。父のことは考えてもみなかったが、母はそのプリントしたものを父のところへ持っていき声に出して読んだのだそうだ。父は読む間、じっと聞いていて、おかしいところでは笑い、私がしかられる場面では顔を曇らせたと驚いて報告してくれた。一瞬、記憶が繋がったのではないかと母は言う。ハーモニカもいつもになく楽し気に吹いたということだった。父の症状が良くなるとは思えない。脳の萎縮は進むばかりだからだ。けれど、まだ言葉を届けられること、父に伝えられることを知りうれしかった。この1週間、こうして父のことを書くことができてほんとに良かったと思っている。



2001年06月16日(土) ケーキづくり

私が小学校4年生から中学1年までの間、父は私たちの住む小さな町から汽車で3時間ほどのところの隣の県にある少年鑑別所に単身赴任していた。母が地元の小学校に勤務していたからだ。まだ2歳の弟には手がかかった。弟が保育所に上がる前は近所の散髪屋の若い夫婦のところに預けていたが、少し大きくなり、保育所に行く頃になると、行きは私が学校の行きがけに保育所へ連れて行き、帰りはわたしより2つ下の弟が学校帰りに弟を迎えに行き、連れて帰った。小さな弟は遠慮なく我々を手こずらせ、私も、すぐ下の弟も、あの手この手をつかって、機嫌をとったり、だましたりしながら、それはけっこう骨のおれる仕事だった。でも、一番大変だったの母だったろう。父が単身赴任の間は忙しくて、朝食をとる時間もなかったらしい。我が家に訪れた初めての試練の時期だったのかも知れない。そういう日々であったから、週末に父がお土産をたくさん抱えて帰ってくるのが待たれた。36色の色鉛筆セットや、流行っていたポップスのシングル版のレコードなど、小さな町には売っていないような珍しいものがあって、舞い上がった。小さい弟は次々に新しいおもちゃが増えていった。時代も、豊かな時代になりつつあったのだ。

クリスマスも間近に迫った週末、父はとりわけ大きな包みを抱えて帰ってきた。帰ってくるなり、ケーキをつくるぞという。クリスマスの時期になると、パン屋や駄菓子屋の店先に並ぶ、夢のような食べ物。あのケーキ。あんなのが作れるわけはないとはじめから疑ってかかった。荷物の一つは新品のピース天火だった。ガスコンロの上にのせて使う、旧式のオーブンである。もう一つの包みは小麦粉や大きな固まりの無塩バター、チョコレートの固まり、それに、絞り出しの道具や銀色の小さいつぶ、といったケーキつくりの材料だった。同じ官舎に住む奥さん達がこの時期になると、みんなで集まり、ケーキつくりをし、それを同じ職場の人達にプレゼントするらしく、父はそこへ出向いていって、ケーキつくりの手ほどきを受けたらしかった。きっと父は驚いたのだ。それでその感激を私たちに伝えたいと思ったに違いない。

父は細かく書き込んだメモを見ながら、私と弟にあれこれと指図した。小麦粉を震いでふるったりするのはまるでままごとのようだった。スポンジケーキが焼ける時はお菓子屋さんの店先のような甘い匂いがしてきて驚いた。一番苦労したのはバタークリームを作るところだった。バターと砂糖と卵を泡立器でかきまわすとクリームになると父は言うのだが、交代でかき混ぜても、腕が痛くなるばかりで、少しもクリームらしくならない。そればかりか、分離してしまって、もうだめだなと私はさっさと見切りを付けて遊んでいた。父は孤軍奮闘し、その甲斐あってやがてボールの中味はみごとにクリームに変わっていた。指をつっこんでなめてみると、とろーりとしたケーキのクリームになっていた。うっとりとするおいしさだった。さて、いよいよアーティストの本領が発揮できる時となる。父はケーキにクリームを塗り付け、そのクリームをいくつかに分け。赤と緑の食紅でクリームに色を付けた。それを、絞り出しの金具が付いた布の袋に入れると、白いケーキの上に、赤い花びらのばらを作り始めた。バラそっくりだと思った。緑のクリームで葉っぱも描き、仕上げに銀色の粒を振りかけた。お菓子屋の店先に飾られているケーキが目の前に顕われ、それは夢のようだった。
夕方までに、ケーキは3つ出来上がった。父の言い付けでそのケーキを仲良しのいるお向かいの2軒の家に持っていった。そこの家の人たちが驚き、そして喜んだのはいうまでもない。

わたしもケーキをあげた友だちの家の人も、その出来事はよく覚えていて、時々話題にのぼったが、父はそんなことがあったかなあとすっかり忘れていた。まだ痴呆の始まる前のことである。私は主婦となり、母となって、誕生日やクリスマスにはケーキを焼き、パンなども焼いた。春には子供といっしょによもぎをつみ、ヨモギだんごを作った。そんな時、子供の時のケーキつくりのことを思い出していた。わたしはきっと忘れても、子供達は憶えているんだろうなあと自己満足に浸っていた。
少し前のこと、「小さい頃、よもぎだんご作ったよね。」と息子たちに言うと、えっ、そんなことあったけ、ぜんぜん憶えてないよ、ときた。これは娘じゃなくて、息子だから?父はたった一回のケーキづくりをこれほど有り難がられているというのに、我が家の息子達ときたら、何度もその恩恵にあづかっているというのにさっぱり忘れてしまっている。これでは割りが合わない。


2001年06月15日(金) イベント好き

イベント好き

もうじき19歳になろうとしている我が家の長男Hは、学ランを脱ぐや否や、水を得た魚のように泳ぎ始めた。CD屋で声をかけたアメリカ人がTシャツアーティストだった。息子はアシスタントを見込まれ、色々なイベント会場でTシャツを売る手伝いをする。大学の仲間と昼御飯を食べている時に声をかけてきた外国人が日本の若者を取材しているジャーナリストだった。彼女のプロジェクトの通訳をしたことがきっかけで、出会いが広がっているようだ。来週は200人集めてのパーティーを主催するとかでかけまわっているが、本人の名前が印刷されているパーティー券を見て、ふっと溜め息が漏れる。大丈夫なのかしら。全く、このイベント好きはいったいどこから来ているんだろう。ふと父の顔が浮ぶ。父にこのことを話したら、顔中くしゃくしゃにして喜ぶことだろう。父はこういうことが好きなのだ。息子のイベント好きはおじちゃん譲りにちがいない。

その日父は非番で、とりわけやることもなく、絵を描く気にもなれなかったのだろう。家の脇で泥だんごをこねていた私と弟といつもの遊び仲間に、展覧会をするぞと宣言した。突然思い付いたに違いなかった。頃は秋、文化の日も近かったのだろうか。父はまず、私にお金を渡し、近くの駄菓子屋で、キャラメルを人数分買ってくるように言いつけた。子どもをその気にさせるには、まずは賞品、なかなか子どもが分かっている。父は買ってきた森永のキャラメルのひと箱ひと箱に「秋のてんらんかい参加賞」と書いた紙を張り付けた。子どもたちがやる気になったところで、父はそれぞれに画用紙を配り、絵を描くよう指示した。私たちがもくもくとクレヨンで絵をかいている間、父はどこからか大きな紙を持ってきて、掲示版を作っていた。絵が描き上がると、今度は習字だという。いっしょに遊んでいるうちの二人は2学年上だったし、同級の子も、お習字を習っていたからみな習字が書けたけど、わたしと弟は習字の経験はなかった。くねくねと思うようにならない筆で、薄くて頼りない紙に、見よう見まねで「くり」と「きく」を書いたがなんとも不本意なできばえだった。硬筆コンクールの作品を出す時には、横で見張っていて、何度も書きなおしをさせたのに、わが子に習字の指導をしようとしない父をいい加減だな思った。ともあれ、夕方までにはいくつかの作品が出来上がり、展示の運びとなったのだった。

父は大きな紙を何枚か張り合わせたものを、私の表のおかってぐちから玄関まで張り巡らせ、紙の上には「秋のてんらんかい」というタイトルを付けた。その文字はいろいろな柄の包装紙を文字の形に切り抜いたもので、その文字のおかげで一変に、展覧会らしくなった。作品がその下に並び、名前の札も付けられた。さながら秋の野外展覧会といったところだ。友だちのお母さんやらお姉さんやらが見に来ては誉めてくれた。家は道に面していたから、通りかかる人も見ては声をかけてくれたような気がする。最後の仕上げに、父はカメラを持ち出し、子供達を作品の前に並ばせ、記念写真を撮った。
写真の中で、どの子も賞品のキャラメルを手に、得意気な顔をしている。


2001年06月14日(木) 切腹の記

今のようなホームビデオがまだなかった頃、8ミリカメラが売り出された。一本のテープで、3分とか5分しか取れず、見るのも映画館のように部屋を真っ暗にしなければならなず、また現像には時間もお金もかかったようだった。そのころカメラにかなり入れ込み、現像から引き延ばしまで自分でやっていた父は、 8ミリが出るや否や即買った。月賦だとなんだって買えるというのが父の流儀であった。このテープも段ボール箱に2、3箱はあったからたくさん撮っては現像に出したに違いない。

あの頃は時々、お客があった。父の仕事仲間や、遠くからの親戚が訪ねてきたのだったと思うが、そこで映写会となった。8ミリカメラが来る前は父は私に、習っている「モダンバレー」を踊らせた。トーテムポールの陰で泣くインディアンの娘の踊りやら、お母さんアヒルが5羽のアヒルと洗濯をする踊りを客の前で踊らされるはめになった。わたしひとりが拍手喝采を浴びるのはそれほどいやではなかったが、みんなといっしょに見る側に回れる映写会にほっとしていた。

私たち子どもの記録フィルムのようなものが主流だったことだと思うが、ひとつだけ特別なフィルムがありそれは映写会の圧巻でもあった。
それは「切腹の記」というタイトルから始まる、父が十二指腸潰瘍の手術をした際の記録フィルムだ。本人はお腹を切られているわけだから、8ミリを回しているのは父以外の人間ということになる。父は、病院の院長に頼み込み、執刀しない医師が8ミリを回すということになったらしい。最初にタイトルが入るように父は厚紙に得意なレタリングでりっぱなタイトル文字を書いたものをあらかじめ用意し、そこから始めてもらうようにお願いしてから手術室に入ったということだった。胃の3分の2を切り取るという大手術に母はかなり心配していたのに、父のこの余裕。手術の後、病院を訪ねた時、父が随分楽しそうに見えて、また長い間汽車に乗って、家に帰るよりはここにいたいと思ったくらいだった。しかし、手術の記録フィルムなど頼む方も、頼む方だが、許可した院長も、院長だ。そんな突拍子もない個人的なリクエストがまかり通ったのんびりした時代だったのだろう。

さて私たち家族はその「切腹の記」をその後、何度も見るはめになる。父は得意そうだったし、わたしも見る度に、なぜかわくわくした。でもお客はどうだっただろう。夕食の後で、そんなものを見せられて気持ちが悪くなった人だっていたかも知れない。この家族はどうなっているのだろうと訝られたとしてもしかたない。このことがかなり風変わりなことであったと、大人になってから気が付いた、弟と話している時である。あの時はこんなものだと過ごしていたけど、我々はかなり変わった父親の元で育ったらしいと思い当たったのだ。

そのフィルムの教育的効果というものがあっただろうか。私は小学校5年生の時のフナの解剖も、中学1年の時のカエルの解剖も目を輝かせて、気持ち悪がる子たちを尻目に率先してやったような記憶がある。人体の模型や図鑑を眺めるのが好きだったし、数学がだめな割には、生物のテストはいつもよかった。扁桃腺の手術に始まり、4度も切ったり縫ったりをやったが、恐怖心とは無縁だった。弟も自分の体に対して何か突き放したようなところがある。これが父親譲りの性格なのか、あるいは繰り返し見させられた「切腹の記」に寄るところなのかは分からない。


2001年06月13日(水) 茶の間のカウンセリング

新し物好きの父は、8ミリカメラにしろ、テープレコーダーにしろ、目新しい物は、いの一番に買った。借家住まいの公務員、しかもキャンバスだの絵の具だの本だのと食べられない物に相当お金を注ぎ込んでいるわけで、もし母親が小学校の教員として働き、食べるものを手に入れてこなかったなら、わたしたちは食べるものも食べられぬ子ども時代を余儀無くされていたことだろう。
オープンリールのばかでかいテープレコーダーはどう考えても、四畳半の茶の間には不釣り合いであった。それでいったい何を録音したかは知らないが、テープの入った段ボールの箱は2つも3つもあった。

その時わたしはそのテープレコーダーを前にして、父からカウンセリングもどきを受けていた。学級の担任から話しがあったのか、友だちの親から文句が来たのか、どうやらわたしが誰かとけんかをしたことが問題になっているようだった。
テープレコーダーの重そうなスイッチを父がひねるとリールが回りはじめた。父は普段のようではないちょっとよそ行きの言い方で、私の名前にも「ちゃん」をつけて、今日はどんなことがあったのと聞いてくる。ゆっくり回るテープレコーダーを見ていると、嘘は言えないという気持ちになった。ちゃんと嘘の証拠が残る。これでは閻魔大王の知るところとなり、舌をぬかれてしまうと思ったのだろう。日頃は父が怖くて都合の悪いことは適当にごまかしていたが、この時ばかりはほんとのことを白状したに違いなかった。父はそれを後で聞き、職場でやる要領で児童の精神分析を試みようとしたのか、あるいは私を訴えた友人の証言が真実だったかどうか私の証言から確かめ、反論の材料にしようとしたのか、今となっては知る由も無い。けれど、今その光景を思い出すとなんとも笑いが込み上げてくる。父はなんと一生懸命だったのだろうと 。

あのおびただしいテープはいったいどうなっただろう。もしまだ実家のどこかに眠っているのであれば、見つけて聞きたいと思う。そして、あの時の父と、あの時の小さなわたしに会ってみたいと思う。


2001年06月12日(火) 描く

学校から帰ってくると、父はよく油絵を描いていた。仕事がら3日に一度は当直明けの非番と言われる日があったのだ。その当時、私たちは小高い丘にいくつもの赤い屋根が並ぶ町営住宅に住んでいた。小さな家だったから茶の間は確か四畳半。父はちゃぶ台に画材を並べた。様々な色のラベルがついた油絵えのぐ、何かよい匂いのする液が入った筆洗い、えのぐと油にまみれたタオル、そして柄の長い大小の筆がたくさん。イーゼルがその脇にあり、描きかけのキャンバスが立て掛けてあった。アマリリスや鉄砲ゆりのこともあったし、どこかの風景のこともあった。絵が時間とともに、ずんずん本物そっくりになっていくのはいつ見ても不思議な気持ちになった。
絵を描いている父は機嫌がよかったからだろうか、それとも絵に熱中してこちらへ注意が向かわないのがよかったのだろうか、こちらに背中を向けて絵を描いている父を見ると何か安心した。
そんな時に遊びに来た友だちが「おじちゃん、うまーい」と感歎の声をあげると、私はうれしくてにんまりとし、父もまた得意気だった。たいていの友だちは珍しがって、しばらく父が描く様子を眺め、その後、絵の具やキャンバスの脇にわずかに空いた空間でお人形さんごっこやおみせやさんごっこをして遊んだ。

父は随分たくさんの絵を描いたはずだが、今、実家に残っている絵はあまりない。時間をかけてていねいに描き込んだ絵も、人から欲しいといわれると、さっさとあげたらしいかった。
一度、中央で開かれた展覧会に、泊まり込んで描いた山の絵を出品したところ、それを欲しいという方が現れ、譲って欲しいという旨の手紙が送られてきた。父はその絵を展覧会の会場からその人が持って帰れるよう手続きを取ったた。父が絵は差し上げるというのでと、その方から、キャンバスや絵の具などがたくさん送られてきたらしかった。親戚の人や近所の人のお祝い事の時に記念だといってあげたり、役所や公民館に寄贈したりもしていた。
父が記憶を失い始めた頃、いろんな人に絵を描いてあげると約束したのに、本人はすっかり忘れていて、母が絵の約束をしている人とたまたま話しをし、絵はまだですかと言われてはあわてた。父は描く、描くと言ってはキャンバスに向かうが長続きせず、描きかけのキャンバスがいまだに一部屋を占領している。父にとって絵を描くというのはどういうことだったのだろうか。母は、父は絵を描いて、それを人にあげるのが楽しみだったんだろうねと言う。それにしても、父の描いたたくさんの絵は今どこにどうしているのだろう。時々、知っている方々から、父の絵をどこそこの施設で見かけたと教えていただく。母といつか父の絵を訪ねる旅をしようなどと話している。

我が家に一枚だけ、父の描いた油絵がある。私たちがニュージャージーに滞在していた頃母といっしょに訪ねてきて、その時近くの公園で描いたものだ。昔、父からもらって持っていたわたしの粗末な画材で、2時間あまりで仕上げたものだった。もう記憶障害が始まっていたから、父が無事描き上げられるようにと祈るような気持ちだった。父が公園で描いている間、邪魔にならないようにと母と私は5歳の次男を遊ばせながら少し離れたところから父を見ていた。父の絵を横目で見ながらウオーキングしている人たちが通り過ぎていく。父の絵を見てからこちらに向かって来るカップルを見ていた次男は彼等に駆け寄ると何か話しかけた。何て言ったのと聞くと、「絵をかいてるのはぼくのおじいちゃんだよって教えてあげたの」と得意気であった。その絵はその時の気分や空気を閉じ込めていて、私たちには思い出深い。


2001年06月11日(月) 家族会議

3人兄弟のうちでわたしが一番しかられた。なぜだろう。まずは長女だったから、次ぎに要領が悪かったから、さらに生意気であり楯突いたから、でも一番の理由は私が一番父に似ていたからだろうと思う。
しかり方は大きく2つに分かれる。まずは激怒型、これはもう恐ろしいの一言。2段ベッドから引きずり下ろされるし、玄関に投げ飛ばされたりと災難であった。荒くれ者の非行少年たちを日々相手にしているのである。あの時の恐怖を思えばわたしはどんなことにも勇敢に立ち向かっていけるような気がする。もうひとつは教育型、これには家族会議を通して民主主義的解決を計ったものや、テープレコーダーで録音しながらのカウンセリング調のものもあり、こちらも父の仕事の影響を写し出しており、なかなか手も込んでいた。
怖かったことはあまり思い出したくないから、後者の方を取り上げるとしよう。

夕食の後、「今日は家族会議を開く」と、父が宣言すると、みな緊張した。家族会議はどういうわけか、ちゃぶだいのある部屋ではなく、黒く光ってものものしい応接台のある部屋でなされた。家族会議とタイトルの書かれた帳面があり、記録が取られた。といっても参加者は父と母と2歳下の弟と、私、後は発言権のない赤ん坊の弟だけである。議題は「どうして兄弟喧嘩をなくすか」、とか「家の仕事をなまけずにやるためのきまり」とか、色々あったと思うが、今考えても笑ってしまう家族会議の模様があり、その記憶は鮮明だ。

議題は「私の何でもなくしてしまう癖にどう対処するか」というものだった。その日わたしはお祭りで使うためにもらったおこずかいをほとんど何も買わないうちにすっかり落としてしまっていた。年に一度の神社のお祭りで3日間続く。3日間のおこづかいは児童会の話し合いで決められ、それ以上持っていたり、たくさん買ったりすると学級会で追求されるしくみになっていた。いったいいくらだったのだろう。300円くらいではなかったろうか、金魚すくいが5円か10円だったから。わたしがお金をなくしたのは祭りの初日だった。児童会で決められたおこづかいを全額おとしたのであるから、明日もその次ぎの日も続くお祭りで私は何も買えなくなるというはめに陥った。母にいきさつを言い、お祭りのおこづかいを再度要求し、母が判断に迷い、父に告げ、それで家族会議の運びとなったのだろう。

この日はまずは尋問から始まった。何をしていて落としたのか、なぜ落としたのか、すぐに気が付かなかったのはどうしてか。でも聞かれても答えようがないのである。知らないうちに手から抜けていた。何かに心を奪われると手許が弛んでしまうらしく、わたしはこれまでも学校の行き帰りになまざまなものをなくしていた。
議論はお金を落としたのだから、学校のきまりにしたがってそれ以上のお金はもらえないとするか、落とした分は使わなかったのだから、その分またもらえるかというものだった。弟が私の味方をしたのか、あくまで決まりを守るべきだと主張したのか覚えていないが、議論の末、父は私になくした分の半額を与えるという決定を下した。少し残念ではあったが、ぜんぜんないよりはましだ。でも残り2日のお祭りは、景気よくお金を使う、弟や友だちを横目で眺め、あれもだめ、これもだめと買い控えなくてはならず、うれしさは半減した。

この父の教育は果たして成果があったのだろうか、その後、私はいっときは物を落としたり忘れたりすることは少なくなったのかも知れないが、今でも相変わらず、傘を買っては置き忘れ、ハンカチを買ってはどこかへ落としている。父は憂えたが、わたしは自分の子どもをどこかへ置き忘れることもなく、どうやら無事に育てた。しかし、この私の紛失ぐせは実は父親ゆずりなのである。父は毎朝、鍵は、眼鏡はと母や子供達に捜させていた。我が次男が小学校に通うようになって、彼が学校から持ち帰らねばならぬたったひとつの宿題帳を毎日のように忘れ、学校へ取に戻らねばならなかった時、家族会議を開こうとはしなかった。しかたない、血だものと潔くあきらめ、彼の忘れ物取りに付き合うのだった。


2001年06月10日(日) 父のこと

来週の日曜日は父の日だ。この機会にしばらく、父のことを書いてみようと思う。

現在、父は73歳、60歳の時にアルツハイマーの兆候が出てから、この病気にしてはゆっくりではあったが、記憶をなくしていった。2年前くらいから家族の手に負えなくなり、地域の社会福祉司や、精神科の医者の勧めもあり、今は専門の病院に入院して治療を受けながら生活している。
今では母のことも、私のことも分からないが、母が差し入れをする父の好物はおいしい、と言って食べるし、面会の時、気分が向けば、母が持っていったハーモニカでじょうずに、童謡や唱歌などを吹く。夫としての、また父親としての自分はすっかりどこかへ置いてきてしまったが、先生の自分はまだ捨て難いのか、病院にいってみると、父の職業は知らないはずの患者さんや病院のスタッフの方々が父を先生と呼んでいるのに驚いた。病院での生活のなかでは先生になりきってしまい、生徒の「指導」に余念が無いのであろう。父は少年院の法務教官だった。

他県に住む、3人の子どもが時々訪ねたり、滞在したりする他は母が1人で世話をしていたが、もともと激情型の人だから、わずかなきっかけでも機嫌をそこね、爆発がおこった。体は元気であるから、表に飛び出し、全力で失踪された時はわたしも追いつけなかった。けれど、母はなにがつらいといって、父を知る町の人たちに父のそういう姿をさらすことだった。
父は少年院の仕事の他には公民館で油絵の指導をしていたし、父の書いた町の風景画がしばらく町の公報紙の表紙になっていた。ふらりと入った病院の待ち合い室に父のサインのある油絵がかかっていたこともあった。今でも、桜の名所になっているお寺の入り口には父の描いた観光案内版がある。古くからいる町の人はみな父のことを知っている。だから父の行動がだんだんと目に付くようになると、母は町で行き違う人がひそひそと父のうわさ話しをしているようでつらいとこぼしていた。

父のことはすっかり町の人の知れるところとなり、父も回りの好奇な視線や憐れみの視線にかき乱されることなく、同じような境遇の人の中で、安全を保証されながら生活できる今の生活に適応している。
老人は家族が世話をして地域の中ですごすのがいちばんだと思う。母も遠くで暮す3人の子どもたちもそうしていないことに痛みを持つ。しかし、一瞬一瞬、何が起こるか分からないという事体を抱えながら暮すのは看られる方も看る方も大変苦しむということを経験した。すべてのものが凶器になり得、どんなことも感情の爆発へとつながるからである。父のすごす明るく広々とした病院はどこにも私物がない。自分のものと他人のものとの区別がつかない痴呆症の人達にとって、私物はたとえ、スリッパひとつでも、パニックの種になるからである。また、病院のドアはどこでも鍵がかかっており、スタッフの人しか開けられないことになっている。このことは老健などの施設の一時預かりやデイケアに居る時、脱走に次ぐ、脱走で、施設の人をてんてこ舞いさせ、またタクシーを使って捜しまわった経験をしている家族にとってはありがたいことなのである。ふらふらと外に出て、交通事故にあったり、とんでもないところに行ってしまって見つけられないという恐怖にさらされることはない。少なくとも命は守られていると安心して眠ることができる。

しかし、一方で、そんな父のために何もできない、何ひとつしていないという無念さがつきまとう。せめて、少しでも多くの父の過ごしてきた時間を思い出し、それを文に起こしたいと思っていた。思いつつ実現できないでいたが今なら書けそうな気がする。わたしの記憶をたどり、そこに生きている父を文章の中で甦らせたいと思う。


2001年06月09日(土) ベスのこと

バージニアに住むベスは1歳から16歳までを日本で過ごした。戦後すぐ、日本の復興を助けるために多くのアメリカ人が志願して日本にやってきたが、ベスの両親は日本にキリスト教を伝えるべく、生まれたばかりのベスを連れて九州は宮崎にやってきた。それだから、ベスの日本語は流暢ではあるものの宮崎便である。アメリカに帰ってからは日本語を話す機会もあまりなくなったが、夜、とても疲れた時は、気がつくと日本語でしゃべってしまうのだそうだ。またどこか自分の半分は日本人という気がするとも言っていた。
宮崎に住んでいた私の夫の祖母は、ベスの父から洗礼を受けた。また夫の母は娘時代、小さいベスのベビーシッターをしており、結婚式の時は、ベスの母のウエディングドレスを着て、宣教師館からお嫁入りをしたらしい。そういうわけで、ベスと夫は幼馴染みでもあり、付き合いはどこか親戚のような感じで続いている。

そのベスからメールが届いていた。このところ毎日のように届く。ほとんどがチェーンメールだ。どれも、このチェーンメールに貢献したおびただしい人の名前で始まっている。初めのうちは熱心に読み、時には翻訳したりもしていたが、あまりにも長い英文のメールがつらつらと続いていると、時間のある時にゆっくり読もうと思いつつ、読まないチェーンメールがたまってしまった。
彼女は熱心なクリスチャンで、牧師婦人。当然チェーンメールの多くは教会生活に関係するものだったり、キリスト教的な話しだったりするが、今日のなどは、「ストレスとじょうずに付き合うダイエット」というもので朝から夜食までの食べ物のリストがあり、おやつにはキスチョコレート一袋、夜食はハーゲンダッツのアイスクリームと、スニーカー(チョコレートバー)などととんでもない。メールの最後には、もしあなたがこのメールを2人の人に送れば2kg体重が減り、知ってる女性すべてに送れば5kg減量できるでしょう。でも誰にも送らなければ、5kg体重が増えるでしょうとある。このメールを受け取り、ベスはきっと爆笑したのだろう。そしてニカッと笑い、ジョークが得意じゃないわたしに送ろうと思ったにちがいない。わたしがこれを本気にするか、このおふざけにいっしょになって乗るか、さもなくばあきれるか。ベスはわたしのどんな反応を予想したのだろうか。ちなみにベスはかなりの体重がある。
こういう彼等独特のジョークに出会う度に、アメリカ人の逞しいおおらかさのようなものに触れ、笑いながら感心する。娘二人と夫の彼女の家は朝から寝るまで笑い声が絶えなかった。そして日に何度も家族どうしが "I love you!" と言い交わすのを聞いた。私もしばしば私の2倍はありそうなベスにむぎゅっとハグされた。この国では「愛」が目に見えるのである。照れくさくも、まぶしくもある。

先週、ベスから頼まれて、「ももたろう」の紙芝居を送った。彼女は近くの小学校に日本のことを紹介する授業をボランティアでやっているらしい。ベスが小さい頃、夢中で見ていた紙芝居をアメリカの子供達に見せたいのだそうだ。
ひらがななら読めるベスは、英語で説明しながら、日本語で読むのだろう。
ベスが、宮崎便のアクセントで演じる「ももたろう」はずいぶん魅力的なことだろう。


2001年06月08日(金) 語りかけ

何日か前に友人から来たメールに書かれていた言葉のことでこの数日間、思いを巡らせていた。

『私が感じた事は、アナタはいつも祈っているということ。アナタはいつもそこからなにかをしているという気がします。、、、、』

というものだった。彼女は私のやってきたことや夢中になってきたもののことをよく知っている。けれどいっしょに祈ったことはないし、彼女の前で祈ったこともない。だから、彼女がここで言う祈りというのは私が知る祈りとは違ったものだろう。でも、それはどういうことなのだろう。ここに聞きとらなければならないメッセージがあるような気がした。
実際、わたしは祈りの少ないことを内心恥じていて、ひとりの祈りも、人前での祈りも、そこに嘘はなかったかといつも心もとない気持ちでいる。祈りを忘れているという自覚はあっても、祈っているという自覚はなかった。

今日、病院の待ち合い室で検査の結果を待っている時、私の内に向かって語りかけてくる言葉を聞いた。
『アナタはいつも祈っている。喜びも、痛みも、不安も、感謝も、語りも、歌もそれはすべてここへと向けられている。アナタは気がついていなかったが、わたしはその言葉をすべて持っている』

その語りかけがどこから来ているのか知って、私は打たれた。
看護婦さんは私が検査の結果を心配して泣いていると思ったに違いない。
大きな大きな命の源へと私の生が、すべての人の生が流れ込んでいるということが、そしてその源と、このように交感しているということがうれしくて泣いていたのだったが。


2001年06月07日(木) レスポンス

メモが届いた
病院の待ち合い室
ひざの上にひらりと降りてきた

毎日紙をそちらに送ります
これがアサインメントです
透かしてみてください
はじまりの言葉が書いてあります
そこから言葉を繋いでいくのです
はじまりの言葉はアナタの祈り
アナタが送ってよこした祈りの言葉
その祈りをひとつづつ
アナタに戻してあげましょう

歩いてきたすべての道で
登ってきたすべての山で
つぶやいた言葉と叫んだ歌は
みんなあなたへ届いていた!
アーメンをつけない祈りも
「あっ」も「おっ」も

紙がいちまい降りてきた
わたしはそれを空に透かす


2001/6/8






2001年06月06日(水) アサインメント


遠い星から、ここへ来る時
確かにメモをもらったはずだが
どこかに落としてしまったらしい
宿題の中味が分からない

心惹かれるものに出会えば、近づいていき
惚れ込んで、これだ、これだとやってみる
でも、心はふらりとまた彷徨い出し
メモを捜す旅に出る

子ども時代を乗りきり、恋をし、また破れ、
仕事をし、人と暮し、子を産み、また育て
描き、踊り、弾き、歌いもしたが
アサインメントは思い出せない

生きているものはみな ひとつところから
命をいただいてくることを
花や、木や、祈りや、詩が教えてはくれるけど
そこへとつながるわたしの仕事は何なのだろう 

紙がひらひら降りてくるので
それに言葉を書きつけて
紙ひこうきに折って飛ばすことにした

言葉は空へ届くだろうか
星はメモをよこすだろうか
空の彼方を見つめて言葉を綴る


2001年06月05日(火) 今、書くことって

今日は 頭の中にはいっぱい書いたなあ、でも文字にはしなかった。言葉があんまりいっぱい押し寄せてくると、それを交通整理したり、頭の中で自分を相手にして対談したりして、どこかで満足してしまう。書くのに必要な欠乏感をなくしてしまのかもしれない。
でもこうやって、キーボードに向かうとやっぱり書きはじめる。

絵を描く時は見える通りには描けないし、描きたい気もしないし、ピアノを弾く時も楽譜を上手く追えず、キース ジャレットの気分で自分の中から音を出したい思いにかられる。バイオリンだったら、アイリッシュのメロディーを踊りながら弾いてみたい。バッハはうまく弾けないんだもん。
書くことは嫌いだったのだ。いろんなルールがあるようで、それらしい言葉を借りてこなくちゃならないから。
ここのところ自分の中から出てくる言葉だけを自分勝手につないで書きはじめたら、すごく気分がいい。体もいい調子。血の流れが良くなったのか、細胞が変化したのか、キース ジャレット風即興弾きや、バイオリンの踊り弾きだってできそうな気がする。



2001年06月04日(月) 記憶の深い底から

いったい記憶というのはどういうぐあいになっているのだろう。忘れ果ててしまったはずのことが表面にふっと浮びあがってくる瞬間がある。音楽や言葉が、時にはひとすじの風や、雨の匂いも 底に沈んでいた記憶を連れてくる。
今日、詩集を読んでいて、そのことが起こった。私はほんの一瞬、5歳のわたしに戻った。その時の気分が瞬く間だけ訪れる。なつかしくて、もっとはっきり捕まえたいと思うのだがするりと逃げられてしまった。
こんな時いつも思うのは私は歳を重ねることで変化してゆくのではなく、4歳の時のわたし、5歳の時のわたしという具合にすべての年齢のわたしを内に持っているのだということ。最近はこれは生まれるずっと前の記憶だという気がしてならないこともある。
40代の半ばになって、わたしはその時々のわたしに出会いたいと思うようになった。わたしの血や肉になり、わたしを形作ってきた言葉や音や絵にもう一度会いたいと思っている。
思っていると、それらが向こうからやってくる。

<HP『空の嘘』に書き込んだこと>

今日「続続・谷川俊太郎詩集」を読んでいたら、「誰もしらない」に出くわしました。どきっとしました。この歌はわたしの深い記憶の底にあるものだったから。それがふっと表面に上がってきたのですから。谷川さんの詩だったのですね。
NHKの「みんなのうた」でした。わたしが4歳とか5歳のころだったのではないかしら。アニメーションの動きと不思議な言葉と変わったメロディーがいっしょになって、わたしはぶっとばされました。小さかった私はその歌を聞く時におこる、そわそわするような不思議な気分を言葉にできるわけもなく、誰かに分かってもらえる気もせず、ただただひとりで不思議にさらされていました。
よくよく読んでみると、詩の中にはお星さま、みかづき、空飛ぶ円盤、という言葉はあっても、宇宙という言葉はないんですね。でもこの歌で小さいわたしは初めての宇宙体験をしたのだろうと思うのです。
お星様ひとつ プッチンともいで
こんがりやいて いそいでたべて、、、、
歌ってみると、あの時の不思議な思いのはじっこのところに触れる気がします。でもはじっこだけ。
あの時の不思議は他の誰とも共有できないわたしだけの不思議、大人になった私とも、あの歌を作った人たちとも共有できない、、、。
あの不思議をこわさないために、わたしはそれをまた記憶の一番底のところに戻さなければと詩集を閉じました。


2001年06月03日(日) 月曜日の朝

家族は出払った。
洗濯機を回し、ゴミを出す。
2人の隣人に朝の御挨拶をしたら
そのまま庭へ行き、しゃがみこんで花をながめ
水をやる。
カラーの葉はジャングルのように広がり
その中から、今年3つめの花が巻物にように
ひっそりと伸びてきた。
これからゆっくり開いていくのだ。
良い頃になったら、うやうやしく切り取り
ガラスの花瓶にさすと決めている。

朝ごはんはカスピ海のヨーグルトとバナナ
エクアドルからの。
リッツクラッカーとスキッピーのピーナツバター
ピーナッツの固まりが入っているもの。
コーヒーとたっぷりのミルクは
ディディが焼いたマグカップに。
これを ディディカップと呼んでいる。

大きくて重くゆったりしたカップは
彼女そのままで
朝ごとにディディを思い出す。
彼女の朝ごはんはオートミール
味噌とか梅干しを入れて。
ヒッピーのなごりをとどめる彼女は
味噌にも、梅干しにも、ノスタルジーを混ぜている。
彼女はオリエンタルフードを
ビレッジの自然食品店に買いに行っていた。

ヨーグルトにブルーベリーのジャムを入れる。
くろっぽいジャムが白いヨーグルトの中でほどけて
鮮やかなブルーが広がる。
煮詰められた実が命を吹き返すようだ。
初めて見るジャムのラベル、ドイツで作られている。
遠い国のブルーベリー畑、ジャムを作る工場。
きのう、輸入食品のディスカウントショップに買い出しに行った。
クラッカーにピーナツバターとジャムをはさんで口に入れる。
わたしも思いでを混ぜて食べている。
味噌入りオートミールよりおいしいとディディに言いたい。

月曜日の朝、今日は夏日になるらしい。





2001年06月02日(土) ガーデニング・レッスン

病院の待ち合い室で谷川俊太郎の詩「コカコーラ・レッスン」を読んだ。
かつては目で追うことしかできなかった言葉が今はすみずみまで体の中に入ってきた。それはひとつの作用となって、わたしの感覚のどこかに穴を開けたらしかった。
帰り道、自転車をこいでいると、すれ違う木々や花たちが迫ってくるのである。さかんにわたしへ向かって何かがやってくる。言葉のようでもある。命のようでもある。いつもの見なれた道が別世界になっていた。「ききみみずきん」をかぶったおじいさんがいきなり鳥の言葉が聞こえるようになったように、わたしは一瞬、植物の声が聞こえるようになったような気がした。
通りがかりの花の苗屋へふらふらと入り、花々から声をかけられるままに、自転車につめるだけの花の苗を買う。
家の中へも入らずに、花々を土に植えた。白やピンクや紫のペチュニア、アメリカンブルー、デラフェニウム、、、、。
わたしが育てているのではないな、と思う。花々の計画にわたしがはまっているようだ。こんな言葉が生まれてきてつながった。


ガーデニング・レッスン

基本の土と水と光りに加えて

ひとつ 見ること
うっとりと見つめること
あなたの視覚を伝わってくる色が
あなたの血液に溶け
体の隅々にまで流れ込んでゆくほどに

ふたつ 言葉をかけること
愛していると伝えること
なぜこんなに美しいのと溜め息も交えて
あなたの言葉はハイポネックよりも効果的
花はそれを命に混ぜる

みっつ 一体となること
あなたは裸になって花の前に立てばよい
花の命と交わればよい
花もあなたも同じ命の源から来たと知り
涙を流すとよい

花はあなたから育てられようとは思わない
あなたを引き込もうと野心を燃やす
まずはあなたの心を掴み
連れていきたいのだ
命の源へと

ガーデニングを志すなら
花の使命を知ること
それに乗ろうと乗るまいと
それはあなたの勝手だというものだけれど


2001年06月01日(金) ショック

ちょっとショックは大きい。
つい2週間ほど前、愛する詩人と、惚れているエッセイストの2人が結婚していることを知って興奮した。こういうのをミーハーというのだろうけど、わたしは今のお二人のことがとても気になり、検索でファンサイトを探し当て、「佐野さんは今どうしているんでしょう」というような質問を書き込んだ。まさか、わたしの感想や質問が谷川さん御自身の目に止まるなんて夢にも思わなかった。ところが今日、そのサイトに御本人が顕われ、私の質問も含む、読者からのいくつかの質問にていねいに答えてくださっていた。

「たりたくみさんへ、残念ながら佐野さんとは4年前に離婚しました。でも敬  愛の念は変わりません。これからもファンでいて下さると嬉しいです。」

という書き込みを読んだときの胸に迫る感じはなんだったのだろう。名前をもって呼びかけられたということへの驚き、お二人がもういっしょではないということ、それを本人に語らせてしまったことの痛みと悔い、出会いの不思議さ、、。
まだ頭も心もぼーっとしている。


たりたくみ |MAILHomePage

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