たりたの日記
DiaryINDEX|past|will
2001年05月31日(木) |
ゆえに水は1と数えよ |
今日は雨だ。 このところ3週続けて、木曜日に雨が降る。 傘をさして、少しぬれながら、ヨガがある県民活動センターまで歩くのも、悪くはない。緑は美しいしはずだし、言葉もいっぱい浮んでくるにちがいない。今日も行くつもりで、バッグにバスタオルなんかも詰めたのに、ソファーにどっかり座りこんでこうして書いている私は、どうやらサボる気配である。
時間までちょっとのつもりで、本棚の奥で眠っていた谷川俊太郎の詩集「コカコーラ・レッスン」を取り出したのがいけなかった。 久しく会っていなかった友人とばったり会って、今つかまえて話さなければ、 またいつ会えるかわからないという気持ちになってしまった。
赤くて薄い、長四角の本は美しかった。 こんなにきれいな本だったかしら、もうすっかり忘れていた。 表紙を開くとAのサインがあって 「雨泉露池」の詩の冒頭の部分が記されている。
”あらゆるところで水はつながる ゆえに水は1と数えよ”
育児は混乱を極めていた。Aがクリスマスの贈り物にくれたこの詩集から立ち上ってくる匂いは私の現実から遥かに遠く、切ないほどになつかしかった。そして池袋かどこかの本屋の詩のコーナーで、この詩集を見つけることができる父親の立場がねたましくもあった。そうはいうものの、赤ん坊の泣き渡る団地の2Dk にその匂いを持ち込んでくれた夫をありがたいと思ったことは覚えている。 多く詩は子育ての日常に役立ちそうではなく、わたしは素通りしてしまっていたが、この「ゆえに水は1と数えよ」の詩は心にくい込み、その時の私の枯渇してしまいそうな泉にどっと水を流し込んでくれた。 わたしはおしめを替えたり、おぶいひもを肩にくいこませたりしながら、しばらくこのフレーズにしがみついていたような気がする。その詩からやってくるものは、その時のおしめやおぶいひもの日常をすっかり包んで成り立っている世界だと思った。生きていること、命ということ、その源へと辿ってゆけた。命を抱えて原始的に生きている母親たちを支えるような力強さも含んでいた。
今わたしの身辺はすっかり平和になって、忙しく仕事に追われる夫をしり目に池袋の本屋でもどこでも出かけられる身分である。こんな身分で読む詩はどういうものなのだろう。あの時素通りしてしまった言葉と今なら出会うことができるだろうか、読んでみよう。 雨はやんだが、やっぱりヨガへは行かないらしい。
書くことも書きたいこともあるけれど時間がない。 この前、あちらからこちらへとネットサーフをしていたら 朝方の3時になっていた。翌日はふらふらだったけど、 おかげで良い出会いがあった。 出会いはいつも必然という気がしている。 でも、今日は寝なくては。 睡眠不足が続いている。 バスケの朝連に行く息子に弁当も作らねば。 明日はここの英語に来ていた子たちの同窓会。 それぞれが違う高校生に通うようになって初めての顔合わせ みんなどんな高校生になっているのだろう。
今日は珍しく家族が4人揃って夕餉を囲んだ。 豚の薄切り肉とほうれん草と豆腐がある。とくれば豚ちりでしょう。しょうがをおろしてぽんずで。そうと朝から決めていた。7時すぎ仕事から帰ってきて鍋に水を張ったところで、卓上こんろのカートリッジを切らしていることに気がつく。どうしよう!
そこで鍋で豚肉をさっと茹で、肉を取り出した後、しめじ、ほうれん草、うどん玉を順番に入れ、茹で上がったものをざるにあけ、水で冷やし、冷たい豆腐といっしょに大皿に盛った。 ごまドレッシング、またはポン酢におろししょうがときざみねぎと七味で食べることにした。つまり、鍋の中味をすっかり取り出し皿に盛ったというだけなのである。
「これ何ていう料理なの、豪快だねえ」と何もしらない家族は珍しがり、大皿いっぱいの「鍋の中味だけ冷しゃぶ風」は最後のうどんひとすじまで、箸がかちあい、それぞれの胃袋に無事おさまった。瞬く間だった。
食べるときはしんみり話すゆとりなどないから、ひととおり満腹になってから話しらしくなる。話題は「夕暮れ時」。夫がわたしが昨日書いた、日記の子どもの時の心情がさっぱり分からないと言う。次男は、「ぼく、よく夕方、理由もなく淋しくなったことあった。みんな家にいるのに。」と告白する。「そんな時どうした?」「泣いた。」「お母さんは坂を駆け上がって夕日を見たらしいよ。」「ところでHは?」「それって、ぼく一回も経験ない。そういうのがあるらしいことは聞いたけど」と、自信満々である。どうやらこのことに関しては、私の遺伝子は次男に、夫の遺伝子が長男にいったようである。
夕暮れ時のいたたまれなさは過ぎてみれば何ともないことだが、小さい時には けっこうこたえるものである。ある時、わたしは家族団らんの夕餉の最中、大好物のチキンライスを口に運んだその瞬間にあの気分に襲われた。スプーンですくった赤い色の御飯をどうしても口に入れられなくて、「お腹減らすために走ってくる」と言って、食事をそのままにして外に飛び出した。子ども心にも、何とか払拭しなくてはとあせった。あの時いつもうるさかった父親がその行儀の悪さを見逃してくれたのは父にも覚えがあったからだろうか。そして母親が少しも心配そうでなかったのは、母がその気分とさっぱり縁がなかったからであろうか。
次男が夕暮れの窓辺で淋しいと言いながら泣いた時、私はなんとも不思議な気持ちに打たれた。かわいそうに思ったが、何かうれしくもあった。 「分かる、分かる、みんなそういう気分になるものなんだよ。」と言ったような気がする。
窓から入ってくる風 はなみずきにつるしたウインドチャイムの音 テーブルの上の赤いツルバラ
さわさわと揺れる葉 豆腐屋のチャルメラの音 ねぐらへ帰る小鳥が見える
今日は良く晴れた ベッドは洗濯物の山 太陽のにおいがのこっている
今日は友が訪ねてくれた 冷蔵庫にはシュークリーム おしゃべリの余韻がただよっている
英語にやってきた子どもたちと Row Row Row Your Boatを歌い 旅行のゲームをする。
家族が帰って来るまでの しずかな部屋は だんだん暗くなっていく
こんなに豊かな夕暮れ時を 子どものわたしは嫌いだった わたしがわたしであるかどうか 分からなくなってしまうから
テレビの音はよけいにさびしいので わたしは家を出て 走って坂をかけのぼり 燃える夕日を見に行った
わたしは彼女のことをたくさん知ってしまって 彼女の想いはわたしの想いのようでもあり ただの読者なのに、私は彼女と一心同体でいた
彼女のことを愛する詩人が書いた詩を読む 詩人の誉め歌はわたしが語った言葉のようで親しく 詩人の告白は私に捧げられた言葉のようで 赤くなる
詩人ったらあんなに気取り屋だったのに 鎧も服もみんなぬいで はだかんぼうの少年になって立っている
愛することの喜びは まっさらの生まれたて 痛々しいほどで泣けてくる
ただの読者なのに この近さといったらなんだろう わたし、彼女と詩人の両方と一心同体になる
今日は久し振りに餃子を作った。ここしばらく作らなかったのはこのところ夫婦喧嘩しなかったからかもしれない。我々はひとたび喧嘩モードに入ると、例え喧嘩する理由など見当たらなくても、何日も口をきかなかったり、顔もみなかったりする。もう面倒くさいし、子どもの手前もあるし、早く日常に戻したいと思うのだがなかなかきっかけが掴めない。謝るのはしゃく、あちらもぜったい譲らない。こういうところはお互い気があう。 そこで餃子の登場となる。私の手作り餃子は美味しいらしい。また餃子の好きな夫は匂いが鼻に入った以上は、食べないでいることはできない。それに餃子は手間ひまかかるんである。ひとつづつ包むなんて、腹立ち紛れにできる料理でないことは夫も知っている。餃子を作るというのはもう仲直りしたいという私のサインでもあるわけだ。で、60個もの餃子を作って、細心の注意を払っていかにもおいしそうな焦げ目を付け大きな皿に山と盛る。夫は無言のまま一走りして我々にビール、子どもたちにコーラなどを買ってきたりする。みんなでたらふく食べてかつ飲んでお腹がいっぱいになるころ仲直りも成立するというわけである。
餃子を包んでいる私の側で下の息子が言った。 「おかあさんたち喧嘩してたの?」 「そんなことないよ。」と母は答える。 ほんとよ、ほんとに喧嘩はしていないのよ、今回ばかりは。
今日はつくしんぼ保育室の「あそぼう会」の日。 その保育室は私の家のすぐ側に2年ほど前にできた保育室、4人から10人くらいの赤ちゃんと幼児が出入りしている。園長のTさんから頼まれて、2ヶ月に一度、英語の歌とあそびを担当するようになった。
感触のよい木の床と広い縁側。庭はよちよち歩きの赤ちゃんたちにちょうどいい広さで、小さい子たちはそこで裸足になって遊んだり、水遊びをしたりする。庭の隅には野菜が植わっていて、この元気な野菜たちが子供達のお昼のお浸しになったり、お味噌汁の実になったりしている。 ここにきて床にぺったり座り、赤ちゃんや小さい子をだっこしていると、ほんとに平和な気持ちがする。私が3歳児と赤ん坊を抱えていっぱいいっぱいだった頃、こんな家庭的な保育室が近くにあったら良かっただろうなと思った。
いつだったか、同じ団地に住む育児仲間のMさんと意を決してバスと電車を乗り継ぎ、デパートまで買い物に行ったことがあった。お互い、赤ん坊を背中にくくり付け、動き回る3歳児の手をしっかり握って移動するという状態だった。買い物は予想以上に大変で、彼女が試着する間、赤ん坊を前と後ろに抱え、2人の3歳児を捕まえておかなければならないのだが、3歳児たちは狭い団地の2DKとうってかわって広いデパートに興奮して、もういくら睨みを聞かせてもぜんぜん動じない。捕まえておくにも手が一本足りないわけで、我が 3歳児が止める声を完全に無視して駆け出したのである。追いかければ、もう一方の3歳児もおにごっこと勘違いして別の方向へ駆け出すしまつ。予定していたものも買わずに満員電車に揺られて帰ってきた。もうデパート行きはこりごりだと思った。思い出してもへとへとになる。
あの時、こんな保育室があれば、わたしたちは赤ん坊と 3歳児を仲良くそこに預けて、スカートにかかとのある靴でショッピングをし、ランチもできただろうに。たまには映画やコンサートにだって行けたかもしれない。子どもが張り付いていて自分の時間なんてどこにもなかったもの。映画もコンサートも夢のまた夢だった。そしてまた行けるようになる日が来るとなぜか信じられないでいた。 でも、あの時の苦労がなかったらこの自由のありがたさは分からなかったかもしれないとふと思う。我が儘な私は我が儘を矯正されることなく歳を重ねることになっただろうし。すべての母親を尊敬する気持ちも目覚めなかっただろう。あの不自由さはそれなりに必要だったのかもしれない。そんなことをあれこれ考えながらよその赤ちゃんの感触を楽しんだ。髪振り乱していたあの頃はこんなにゆったりと赤ちゃんを楽しんではいなかったような気がする。 もう一度やり直してみたい?いえいえそれはけっこう。いろいろ面倒は続いているものの、うるさい音楽も耳を塞げばすむことだし、やつらの部屋がきたなくてもバタンと閉めてしまえば、知ったことではない。夕食をテーブルに用意しておけば、夫とナイトショーの映画にも出かけてゆけるのだから育ってくれてほんと、有り難い。
2001年05月24日(木) |
Footprints |
昨日の日記に Footprintsの訳詩をのせた。 もうずいぶん前から、色々に訳してみるのだが、納得のいく訳にはならない。 一度外に出してみて読んでもらうと訳の良し悪し、あるいは響くか響かないかがもっとよく見えてくるのではないかと載せてみた。
この詩は作者も定かではないのだが、アメリカではよく知られているものらしい。壁掛けやマグカップに印刷されているのを教会関係の店でよく見かけた。 5年前、ひとりでセントルイスのダウンタウンをぶらぶらと歩きながら、土産物の小さな小物が置いてある店に入った。スプーンやマグネットなど安くて荷物にならない小さな記念のものをと捜した。そのとき手に取ったマグネットにこの Footprintsが書かれていて、ああこれかと思ってなんとなく文字を追った。ところが一番最後の行のところで、店先だというのに、どっと涙が出てきてひどく泣けてそのまましばらく動けなかった。
私の訳詩を読んだ夫は「つまらない」という「実存的でもなんでもない」と。 響かないのは私の訳のまずさのせいだろうか。確かに英語から伝わってくるものがそのとうりには響いてこない。英語の言葉が含む世界と、それと同じことを意味する日本語が含む世界がもう違っている。同じ意味の内容でも、そこに生じる世界に違いができる。それはそうとして、どうしても泣いてしまう最後の一行が私にとって何なのかそれを確かめるためにも、もうしばらくこの訳を 考えてみたい。
足跡 ある夜 男は夢を見た 主と共に浜辺を歩く夢だった 空には男の人生の場面が照らし出され 砂の上には2組の足跡が残った ひと組は男の足跡 もうひと組は主の足跡 最後の場面が照らし出され 男は砂の上の足跡を振り返った 男が歩いてきた道の多くに 足跡はひと組だけだった。 それは 男が打ひしがれた場所 悲しみにくれたところ
男は困惑し、主に尋ねた。 「主よ、私がひとたびあなたに従うと決心したなら、 あなたはずっと私と共に歩いてくださると 言ったではありませんか。 それなのにどうです 私が一番苦しんでいたときの足跡はひと組だけです。 私には分からない あなたを最も必要としていた時に なぜ あなたがわたしを置き去りにしたのか。」
主は答えて言った。 「私の大切な 大切な 子よ、 私はおまえを愛している。 私はいっときもおまえから離れはしなかった おまえが試練や苦悩のなかにあった時 たしかに足跡はひと組だけだ しかし、それは私の足跡 私がおまえを 負うて歩いたのだから。」
原題 Footprints 作者未詳
訳詩 たりたくみ
2001年05月22日(火) |
カスピ海のヨーグルト |
4月、ヨガの先生のお庭にお花見に伺った時に、カスピ海のヨーグルトというものを、少し分けていただいた。このヨーグルトに牛乳を入れて一日室内にほおって置くだけでヨーグルトになるという。生協から6パック入りのヨーグルトを買っているが、私の口にはあまり入らない。自家製のヨーグルトだとたくさん食べられるとすぐに試してみた。翌朝、立派なヨーグルトができていた。ちょっと糸を引くような、ぷるんとしたところが他のヨーグルトとは違う。酸味はそれほど強くなく、わたしは美味しいと感じた。カスピ海という名前がなにしろよい。 ところが猜疑心の強い夫と下の息子はカスピ海なんてあやしいと食べないのである。でもわたしは自然にできるヨーグルトがうれしくて、毎日作っては、ほとんどわたしひとりで食べ続けている。
今日仕事場に、仲間のタミが自分で育てた苺をたくさん使って、アイスクリームメーカーでフローズンヨーグルトを作ってくれた。クラスの合間にみんなで台所に立ったまま食べたそのフローズンヨーグルトのおいしかったこと。ハーゲンダッツをはるかに凌いでいた。 タミはわたしがヨーグルトを作っていることを知っていて、苺とレシピをくれた。彼女はわたしより15才も若いしかも外国人なのに、じょうずにねぎや春菊などを畑で作り時々分けてくれるのだ。家に帰るなりすぐに作ってみた。アイスクリームメーカーはないから、フリーザーから時々取り出してかき回すのである。その度に少しづつアイスクリームっぽくなっていく。朝、少しじゃりじゃりするけれど、おいしいフローズンヨーグルトが出来上がった。本番は今夜のデザートとういことにして、朝食の時、少し出した。息子達はよろこんで食べて、もっと食べたいという。今夜のお楽しみ!冷凍庫にふんだんの自家製フローズンヨーグルト、贅沢な気分だなあ。でも、今日はアイスクリームを食べるにはちょっと寒い。わたしがちょこちょこ味見して家族の分が少なくなってしまう危険がなくて良いかもしれない。 カスピ海のヨーグルトが家族から受け入れられてうれしい次第だ。
相変わらず、佐野洋子ばかり読んでいるのだが、今読んでいるエッセイは10年以上も前に書かれたものばかりで、笑い転げながらも、ああ、この人の日常はもうこれとは違うんだと思う。思いながら、いったい今どういうふうにこの続きを生きているのだろうと知りたかった。もうエッセイも書いていないようだし、絵本も新しいの見ないけど、ちゃんと食べていっているのかなあとか、どうも五十代で、めちゃくちゃ好きな男に出会っているのだけれど、その若い(と、私は疑わなかった)恋人とは別れていないだろうかとか、最愛の息子はもう結婚し、お嫁さんなんかとはどうなのだろう。孫がいたりもするのだろうかと想像は広がっていた。 昨日のこと、Aがどこかの古本屋からまた新たな文庫本を見つけてきて、私たちはもう夕食の支度をする時間だというのに、手に入れた本を家事や子どもらにじゃまされずに読みたいばかりに、珈琲館で油を売っていた。わたしは「入場料440円ドリンクつき」という谷川俊太郎と佐野洋子が二人で書いているものを読み始めた。これって何か変、二人の息が合い過ぎている。もともと開放的な彼女はさらに解放的、色っぽさは解放が極まるところにも立ちのぼることもあるのだ。私は何か胸騒ぎを覚えて、文庫本の最後のところを開いて解説を読んだ。 えっ!なに!佐野洋子は谷川俊太郎と結婚していたの?それも10年も前に、、、。それじゃ、あの若い恋人は若くない谷川俊太郎のことだったんだ。 なんという浦島太郎だろう。自称物知りのAもそのことを知らなかった。そういえば、我々はその辺りは日本におらず、新聞の見出しのニュースさえも知らないままに過ごしていた。実際そのころ流行った歌にしろTV番組にしろ、スコンと抜けている。 谷川俊太郎の特に児童詩集とはもうわたしのそして子どもたちの血となり肉となっているほどに深くかかわってきた。英語をやりたいと思ったのも、今仕事で幼児やお母さんにマザーグ−スを教えたり、それで遊んだりしているのも、谷川さんの訳した マザーグ−スに寄る所が大きい。いつも特別な位置にある詩人だったのだ。私にとって2人は自分の一部でもあったわけで、そんな2人がこの10年間ずっと夫婦やってきたなんて、、、。 それにしてもなぜわたしはこのことに過剰に反応するのだろうか、、、。 谷川俊太郎も、佐野洋子も、その個性故に、一匹狼で、その孤独とか潔さが好きな要素のひとつだった。二人ともそれぞれの少年と少女の部分からしてぴったしと近い。それぞれが長い間捜していたものにやっと出会ったのではないかしら。詩もエッセイももう書かなくてもよいほどに。
「幸福な人は詩を書くな」いつか読んだ本のタイトルが浮かんできた。
2001年05月20日(日) |
父のこと、義父のこと |
時間があれば油絵を 描いていた教育パパのわたしの父親はアルツハイマーのために、病院に入って2年になる。もう絵は少しも描けないし、わたしの名前も顔も分からない。それでも、ハーモニカは上手に吹く。今が何月かも分からないはずなのに、不思議なように、季節にあった歌を吹くという。 中学校の数学教師で、水泳部の顧問、息子も孫も真似できないほどに美しく泳いでいた義父も入院した。他にも、いろいろ気になる場所があるらしい。健康で病気知らずに生きてきただけに長い入院はこたえているに違いない。 娘も息子も遠くで暮すということがこれほどの親不孝になるとは若い頃には考えてもみなかった。かといって、彼も私も、生まれた町を出たかったし、それが必要であった。 母も義母も、電話では心配させまいという健気さと、心細さとがが同時に伝わる。何もできない。夏には行くから、、、。 一日に何度もカレンダーを覗く。何度覗いても6月はこれからで7月がまるまるその後に続いている。
保育園の4才児の時からの友人のkちゃんと12年振りに会った。 上野公園で待ち合わせベネチア絵画展を見ながら話す。 絵も見て、解説を読み、人の頭をあちらこちらによけながら、ベネチアに思いを馳せつつ、話しもするのだから、いそがしい。それにこれほどブランクがあると、お互いの生活のことは知らないに等しく、またそれを埋めようという努力も、果てしない故にしない。 話しは旅の話になり、数年前彼女が一人で、子どもを二人連れて、2週間フランスを旅した話しに魅了された。航空券を買っただけで、旅行プランなどというものを立てることもなく、行き当たりばったりでその日の宿を取りながらののんびりした旅だったという。実に彼女らしいと思った。きっと子ども達も、そのような彼女流にすっと添ってくれるような子どもたちなのだろう。 我が子を一人で率いて、ヨーロッパの町中を歩くという発想はわたしになく、またそこに必要となるパワーも持ち合わせていなかった。寄ると触るとけんかをする男の子ふたりをどなりつけながら歩くフランスの町なんて、考えただけではや疲れる。えらいなあーkちゃん。
4歳のころ彼女を我がライバルと定めたその直感は正しかったと思う。
たった2年の教員生活だったのに、「教え子」たちが時々便りをくれる。 仕事のことやボーイフレンドのことを書いていたのが、この頃は育児のことだったり、頭に来る旦那のことだったりする。
私が新卒の時の受け持ちは小学校3年生だった。始業式の日私の名前が呼ばれ、3年2組の子ども達の前に立った。私は濃いピンクのスーツを着ていた。その時点から私は先生ということになってしまい、覚悟はしていたつもりだったが、ただただ面喰らった。 初仕事は教室の掃除だった。私はスーツのままこの40人をどう動かすのか途方に暮れていた。すると、一番前で心配そうに私の顔を見ていたS君が私の心の内を察して、私を掃除用具が置いてあるところへ連れていくと、掃除の手順を教えてくれた。子どもってなんてかしこいのかしら。3年生がこんなに頼りになるとは知らなかった。S君のアドバイスに従い、何とか40人を振り分け、無事初仕事を終えたのである。
私は鉄棒は出来ないし、私めがけて投げてくる男の子達の直球がこわくて、ドッジボールにも加われない。おおよそ取り柄のない新米だったのでできることだけを過剰にやった。毎日絵本の読み聞かせをし、朝に夕に、足踏みオルガンをグイグイ踏みながら、子どもたちに歌を歌わせた。けっして私の指導がよかった訳ではなく、丸山亜季さんとか、林光さんとかの作った心の底からわきたたせるような歌の力で、子どもたちは顔を真っ赤にして突き抜けるような声で歌うようになった。中でも、いちばん後ろの席にいたNちゃんはほんとにうれしそうに体じゅうで歌うので、わたしはそれがうれしくて、さらに懸命にオルガンのぺタルを踏んだ。いちばん顔を真っ赤にしていたのはわたしだったにちがいない。
あれから20年の月日が流れて、あの時のS君とあの時のNちゃんが結婚した。私は二人の結婚式に招かれ、すっかり忘れてしまっていた恥ずかしいことなども話題にのぼり、そしてつい先頃、女の子誕生のメールが写真入りで届いた。お祝に何を送ろうかと聞くと、絵本がほしいと の返事があった。また、わたしが読みきかせした絵本のことが書かれてあった。覚えられていることが恥ずかしいことだけじゃなくて良かった。私は本屋に行くと、あれも、これもというたくさんの絵本の中から、我が家の赤ん坊達が夢中になった松谷みよ子の「赤ちゃんの本」のシリーズを選んだ。孫に絵本を贈るのってこんな気持ちだろうか、しみじみと幸福だった。
何ごとにも長続きのしない私だが、ヨガは5年ほど続いている。これからも続けるにちがいない。ひとつには、始めからそれほど夢中にはならなかった。夢中にならないことは長続きする。それは人にも言えるかも。 体を整えるというのが良い。頭はとりあえずからっぽにしてよい。意識を呼吸に集中させる。深く息を吸い込む時は足の下のずっと下、大地の中心からエネルギーを吸い上げることをイメージする。不思議なもので、体のすみずみにまで、エネルギーが行きわたるようである。吐く息は体全体に淀んでいるものを、すべて残らず吐き出すように、力強く吐ききってしまう。気が流れる通路が掃除されると、体も心も気持ちが良い。 体と心とはとても密接につながりあっているにちがいない。こころの痛みが体を蝕むことにもなるだろうし、また体に不足しているものがあると心はそれに反応するのだろう。 ところで、初めてヨガをやったのは、アメリカの公民館でだった。同じ教会に通う心理カウンセラーをやっているキャロルから誘われたのだ。毎週、夜の7時から9時からで、お互いに子どもは旦那が見ることになっていた。彼女は私が東洋人だから、興味を示すと信じているようだったが、わたしにとってそれはエアロビックスよりも、自分とかけ離れている世界だった。 そして、アメリカの公民館で白人のグルから、英語で東洋の神秘についての手ほどきを受けたのである。部屋は照明を落として薄暗くしてあった。何か東洋を意識しているようで、その場で唯一の東洋人として、私は何だか鼻高々だった。それにしても、人間の回りにオーラというものが存在し、そのグルはそれが見えるらしかった。ますます自分とは遠く、いったいここで語られる東洋とはどんなところなのだろうと不思議な気持ちになった。 月日は過ぎる。わたしは昼間に日本の明るい公民館でヨガをやっている。少しも神秘的というわけではないが、体と心との関係や、気の流れは体で感じ取ることができる。そして命は不思議に満ちているという想いはさらに深くなる。
私は昔から、社交的ということだった。母はわたしがその辺のことで「しっかりしてるわね。」と、よそのおばさんからほめられたりする時、「ええ、この子はほんとに出べそで。」と、決まっていうのだった。 で、私は自分のことを社交的で、出べそといわれる人種だと思い込んで育った節がある。 でも、実際はそうでもないということが年と共に分かってきた。ひとりが好きなのだ。人の中にあると、いつの間にか本来の私が別のものにすり変わってしまうような気になる。楽しくすごすし、話しも楽しむのだが、どこかで、私はわたしのままであることができず、そのためか、疲れてしまうことがある。人に疲れるのではない。自分に疲れるのだ。 日記を書くという作業はそういう意味ではわたし向きなのかも知れない。読む人の思惑などおかまいなしに、ひとりよがりにかってに書くからである。でも ここのところ、書くことで自分に正直になる練習をしたからか、人の中でも正直なわたしでいられるのではないかという期待が出てきた。 そこで掲示板である。 やってみようと、気が変わらないうちにと朝一に手続きし、マオさんにメールでつないでくださるようお願いした。新しいことを始めるのはいつだってわくわくする。
5月、美しい季節だ。どこにも命が漲っている。 ふっと思い出したことがあって、去年の手帳を開いてみる。 やっぱりそうだ。去年の今頃、私はちょっと大変な事体のまっただ中にいた。
3月の末、人間ドックの結果で、貧血がひどいのですぐ治療を受けるように言われた。病院へ行くと、貧血も然ることながら、子宮筋腫の状態が良くなく、MRIで調べると、肉腫というやっかいなものかも知れないから、すぐに切ったほうがよいといわれた。うーん、困った。新学期が始まったばかり、小学校のクラスが3クラス、幼児とお母さんのクラスが4クラス、中学生は受験生も含め、10人。130人ほどの人に迷惑がかかる計算だ。その上、師事している声楽家の門下生のコンサートを控え、日々練習に励んでいる時だった。「夏にというわけにはいきませんか?」と、私よりは若いと思われる女性のドクターにおそるおそる聞いてみた。彼女は私の脳天気な態度にむっとしたのかも知れない。こう言った。「そうですね。もし肉腫だったら、切ったところで、半年かそこらで全身に広がりますからね。今のうちにやりたいことをやったほうがいいかも知れませんね。」そうか、そういうことならまず、コンサートまでは歌を歌って、当面の目標を達成し、それから今後のことを考えようという決断をし、病院を出た。 なぜ、あの時、それほどまでに、歌うことに固執していたのか、今となっては分からない。けっして上手くはなく、門下生の中では、むしろへたなほうで、だれから期待されているわけでもなかったのに、、、。ともかく、去年の今頃は掃除機をかけながらでも、ちゃわんを洗いながらでも歌い、日々練習に励んでいた。私はこういう場合、生徒の鏡である。ものすごく熱心にがんばる。 歌はパーセル作曲の「夕べの讃美」、イギリスの古い時代の歌で、旋律は美しく、また歌詞も良かった。今、太陽が沈み、夜の帳がおりようとし、やわらかなベッドに身をよこたえるのだが、私の魂はいったいどこで憩うのか、それは神の腕の中、そこより甘美で安心な場所があるだろうか、、、、といった内容の歌である。不思議なもので、半年の命かも知れないと思うと、その歌はこの前まで歌っていたのと全く違った光りを帯びてきた。すごーく真に迫ってくるのである。神の腕に抱かれるというイメージが恐ろしいまでに強い歓喜を伴って沸き上がってくる。これまで命をいただいて、少なくとも今は生きているということが激しくうれしいのである。ちゃわんなんかを洗いながら、ああ、こういう事体の時に、この歌を歌う運命でよかったと思い涙が流れた。命のありがたみのほうが強く、死の恐怖には少しもかられなかった。ほんとうである。
で、無事ステージで歌って、翌日別の大きい病院ヘ行った。夏の手術の予約をするためであった。ところが、押しが強く、いかにもこわそうなその医者は、「問答無用。今日これから、手術前検査をします。あっ、君(看護婦さんに)緊急扱いで来週の木曜日にオペ、入れておいてね。」と、すでに手術の日程が決まってしまった。男の医者だった。「この医者うまくやるな。こうやって迷う余地を与えないんだ。」とその鮮やかさに感心してしまった。そして、腕もいいように思われた。(このいいかげんさ!) で、切り取ったものを検査した結果、有り難いことに、やっかいな肉腫とやらではなく、ただの子宮筋腫ということがはっきりした。よっかった。よかった。夫は酒絶ちを止め、長男はこれを期にタバコを止めたということだった。(ナニ、今まで吸っていたの、この不良!) 我が家に平和が戻り、またのったりした日常が訪れた。しかも、私は長年付き合ってきたやっかいなものと縁が切れ、それは爽快だった。血も濃くなったから、やたら元気にもなり、未来が開けてくるような気持ちになった。しかし、あの歌を歌っていた時のあの不思議な凝縮した思いは、命への強いありがたみは何か色あせてしまっている。 あんなに固執していたのに、今は少しも歌っていない。どうして、となさけない気持ちにもなる。ある時嵐のように何かに夢中になって、やがてそれが止んでしまうというのが私の本性だから歌もそうだったのだろうか。それとも、子宮と歌との間に何か深い関係でもあったのだろうか。ともかく去年の今頃、私はそんなふうに生きていたのだった。 もう子宮はないけれど、また歌いたい気持ちになりたいと思う。
これは誰にでもオープンしているわけだから、当然のことながら家人も読む。まさか読んだりしないだろうと思っていたけど、最近は読んでいるようである。読むだけでなく、注文まで付ける。「ちょっと、どうせ分からないんだから、Aは顔もジョンニーディップに似てるって書けば。」「えっ、バレたらどうするの、それにもう顔知ってる人もいるのに」と、きっぱりとお断りする。 昨日の文も不満のもよう。「あれじゃ、ぼく、家のことはなーんもしない亭主関白みたいじゃない。毎晩皿洗ってもらってるとか、買い出しにいってもらってるとか、ちゃんと訂正しといてよ。それに、コーヒー入れるのは1年に2回です。誕生日の朝と。」とおっしゃる。彼は昔から亭主関白がきらいなのである。さだまさしのあの歌なんてもう、敵意をむき出しにしてなじっていた、珍しい方なんである。 うん、確かに私はちゃんと主婦をやっていないことを隠して、いかにも妻の鏡というふうに我が身を美化して表現している。おそろしいなあー。正直なつもりでいたのだけど、、、。でも家人にはそうは言わなかった。 「私の夫はなーんでもやってくれて、私はすっごく楽してます、そして今だにラブラブです、なんてことを、人が喜んで読んだり、聞いたりすると思う?まっ、良いわね。ってもう読んではもらえなくなるんだから」と反撃するのだった。
ひょっとして、わたしは1年間、この日の朝を心待ちにしているのではないかしら。 我が家では母の日の朝は夫が朝のテーブルの用意をする習わしである。 僕は息子じゃないのにと夫はこのごろは文句をいう。でも別に、味噌汁を作るわけでも、魚を焼くわけでもなく、せいぜいコーヒーを入れて、パン屋から買ってきたパンを並べるくらいなものである。たったそれだけのことなのに、わたしはそれを楽しみにしている。というより「明日の朝は楽しみだわ。パンなんかもう買ったの?。」などと、ほとんど無理矢理、その日のささやかな権利を行使しようとするのである。なんていじましいというかいやらしいというか、、、。 でも、この気持ち、日々朝一番に起きて、朝食の支度をしている多くの妻や母親たちは分かる、分かる、と言ってくれるにちがいない。
まだ、ベッドの中にいるうちに下から、コーヒーの良い香りがただよってくるのである。夫か息子が「朝ごはんだよー」と、呼びにくる。そのことがなんとも幸せに思えるのである。それは、そのことが年に一度のことだからなんだろう。毎朝、コーヒーの匂いが下からただよってきていて、寝ぼけ眼で起きてくれば、テーブルに朝食が並べられている我が家の男達にとって、それは太陽が出ているくらい当たり前のことなのだろうから。 かくして、今年の母の日の朝も、わたしは無事、夫の入れるコーヒーを飲むことができた。満足である。
今日は教会で「祈りと讃美のつどいの夕べ」があった。 月に一度の夜の集まりで、今年から始めたものだが、役員が一人づつ、自分の個性で、好きなようにその集いのリードをすることになった。ギターの伴奏でゴスペルフォークを歌ってもよし、詩を朗読してもよし、いろいろなスタイルの祈りの時を創造しようということになった。 今夜はわたしの担当だったので、フランスのテぜー共同体で行われる祈りと讃美を取り入れてやってみることにした。
礼拝堂の入り口に小さなテーブルを置き、そこに火をともした円筒形のキャンドルをいくつも並べて置いておく。みながそろったところで、ひとりがひとりキャンドルを手にし、「グロリア」の短いフレーズの讃美歌を繰り返しくちづさみながら、礼拝堂に入り、前方まで進み、自分の好きなところへキャンドルを置く。 部屋は暗くろうそくの明かりだけである。その中で聖書を朗読し、それに続いて、「主に感謝しよう」という短いフレーズの讃美歌をアカペラで歌う。それにみなが和し、短いそのフレーズを繰り返し歌う。テゼーの讃美歌は、繰り返すほどに美しい、歌うための歌ではなく、聞かせるための歌ではない。祈りのための歌。歌うごとに、より深く、自分の内へと沈潜するための歌だからだ。 歌いながら、今感謝したいことについて思いをとめる。そして、歌い終えた後、それぞれが感謝に感じることを話す。仕事のこと、人との出会いのこと、健康のこと、今いただいている命のこと、どの感謝も心に響く。その後、それぞれに抱えている課題でみなに祈ってもらいたいことを出し合う。病気の親のこと、家族のこと、それぞれに重い現実があることを知る。 それから、2人、あるいは3人の小さなグループになってそれぞれ祈リ合う。若者、壮年、初老の者、外国人、男、女、求道者、信徒、牧師、それぞれに違う空間に生き、異なる現実を抱えている者たちが、ともに祈りを合わせる。 祈りとは神の前に心をさらす事だと思う。 そして、ただただ自分を開いていく行為だと思う。 10分くらいを予想していたが、祈りの声はしばらく途切れることなく続いていた。 最後は、再び「グロリア」を口ずさみつつ、おのおのがキャンドルを取り、それとともに入り口まで進み、キャンドルを元の場所へ戻し礼拝堂を出てそれぞれ帰途についた。 静けさと暖かさがしばらく続いていた。
今、佐野洋子にはまっている。彼女の「100万回生きたねこ」は二人の子どもやよその子たちに、100回くらいは読んでいるんじゃないかと思うくらい私に染み付いている絵本だが、そしておもしろそうな人だな、とは思っていたが、エッセイをまとめて読んだことはなかった。 ところが最近、A(夫のこと)が、古本屋かなんかから、佐野洋子の本を次々に運んできては、ひとりでおもしろがっている。そこで、この前、電車に乗る時に、一冊文庫本「ふつうがえらい」をくすねて、バックに入れて行った。 ふむふむと読み出したのはいいが、ところどころで、もうこらえきれないほどおかしくなってきて、人込の中だというのに、私は声を押し殺して笑ってしまった。次ぎの駅で降りて、おもいっきり腹を抱えて笑いたいと思うほどだった。そしてはまった。 私の場合、はまると、もうそればっかりになる。この前は高橋たか子にはまっていて、図書館で借りられるものは片っ端から読み、出版社から、買えるものはすべて送ってもらい(絶版になっているものが大半だった)神田の古本屋でも捜した。半年ほどその中にどっぷり浸りきっていて、息子から「お母さん、修道院に入るなんて言わないでよ。」といわれた。まさかーなんて口では言うものの、フランスの沙漠の修道院をひとりで訪ねて行きたい気持ちはかなり高まっていた。はまった分、私は影響も受ける。書くもの、言うこと、高橋たか子風になっていた。 昨夜のこと、Aが、妙に明るい声で、「このごろ何かつんつんしていると思ったら、佐野洋子風にやってるの?」と言う。えっ、そんなこと、、、と言ってはみたものの何かそれっぽい。バサバサ切ったり、ぶっとばしたり、やたら、ワイルドなエネルギーに満ちている。これって真似? いや、そうじゃない。ショコラじゃないけど、彼女の文章で何か塞がっていた通路が開いて、ある部分が解放されたにちがいない。私の中にもともとあるエネルギーが流れだしたのだと思う。しばらくここに乗ってみよう。
朝、みなが出払った後、iBookに書いていたら、うっかり10時になっていて、ゴミを出しそびれ、ヨガに出かける時間も過ぎていた。わたしは化粧するのをあきらめ、自転車に飛び乗り、田圃の道をぶっとばした。と道脇の草地に美しいかわった形と色の鳥がいる。私は自転車を止めた。それはキジだった。 あの、犬やさると共にももたろうの家来になったキジである。 見ていると、かなりの速さで、ちょこちょこと草原の中を駆けている。何かパニックになっているようにも見える。道の反対側に目をやれば、この前まで、草が生えるに任せていた草原がすっかり整地され、黒ぐろとした土が盛られている。 このあわてふためいているキジは隣の草地に棲息していていたに違いない。 そして、住む場所を取られ、あるいは家族と別れ、パニックになっているのではないかと思った。 キジは私のすぐそばにいる。無駄とは知りつつ、テレパシーを送ろうとする。 「落ち着いて、大丈夫だよ。」 キジはかん高く、不思議な声で、一声鳴いてどこかへ飛んでいった。 この町から、キジの住める場所がなくなるようなことがありませんように。
2001年05月09日(水) |
こういうのタイプなの |
昨日の日記で男についてずいぶん悪く書いてしまった。 「ショコラ」はラブストリ−でもあるわけで、私がいくら現役を退いているからといって 主人公が愛する男を無視する訳にはいかないでしょう、やはり。 その男というのはジョニ−・ディップの扮するさすらい者のルー。 ボートを住まいとするジプシーだか、ヒッピーだか。長い髪を後ろで束ね、口数が少なく静かな眼差しを持っている。さりげなく彼女の店のドアを直してやったりする。久し振りにいい男を見たという気がした。隣で見ていた連れに「かっこいいね」というと「こういうのタイプなの、知らなかった。」と言う。けれど、彼もこういうの好きなのは知っている。というか、その昔、彼はこんなだった。けっして ジョニ−・ディップのようにかっこいいわけじゃないけれど、お金とも地位とも無縁にさすらっていた破れたシャツとジーンズの少年に私は「つば」をつけた。父親の支配や小さな町のしがらみから逃れ、その少年の漕ぐボートに乗り移って、どこまでもさすらってゆくのは楽しそうに思えた。少年は父親になり、おじさんになったけれど、そして家まで持ってしまったけれど、私たち、やっぱりさすらっているという気がしている。
映画「ショコラ」、楽しんだ。 Once upon a time、むかしむかしで始まる映画はもうそれだけでわくわくする。しかも場面はフランスの田舎町、観光客も無縁な土地。 始まりから、お話の世界にひきこまれた。
戒律の厳しい閉鎖的な町にやってきた母と娘はチョコレートショップを開く。 不思議なチョコレート。心が開くチョコレート。食べた人は幸せな気持ちになっていく。 人は変わる。町が変わる。当然変わっては困ると考える人間もいる。彼女はチョコレートを武器に、権力や支配に闘いをいどむ。 おとぎ話の常に従い、みんな幸せになったとさ。めでたしめでたしで終わるこのストーリーは見終わった後、まるで自分も彼女の作ったチョコレートを食べたかのような気分になった。ふうわりとした幸せ感。しかもそれはかなり深いところにしみとおってくる。 いったいこれは何だろう。
おとぎ話の常のようにそこには、シンプルなストーリーの中に、深い深い人間 への洞察がある。心理学や哲学のテーマがひっそり隠れている。その人の立場やものの見方によってそのストーリーはどのようにも見えてくるはずだ。 束縛と解放。キリスト教と異端。聖職者と治癒者。母と娘。男と女。定住と放浪。 集団と個。依存と独立。神聖と人間性。 思い付くだけ並べても、このくらいはある。そのどれからでも、この映画について語れそうな気がする。別の人はまた、別のキーワードのリストを作るのだろう。
男と女というテーマを取り出してみよっかな。 町一番の力あるレノ伯爵は町の住民を支配していた。神の言葉を取次ぐ若い祭司の礼拝の説教も自分の支配の下に置く程(だいたい男は秩序や規則や序列を人の間に作ろうとする)。そこに現れたのはチョコレートを手にした一人の女ヴイアンヌ。彼女の仕事はひとびとの心を閉ざされたところから解放すること。伯爵は神様を持ち出し、女を悪魔よばわりするけれど、そしてたびたび、世の男たちは手に負えなくなった女を魔女に見立てて排斥してきたけれど、神様がそんな男たちの味方をするものですか。 女は根っこのところで権力や支配がきらいなの。命を産み出す女はその命のエネルギーが何を求めているのか、直感的に知っている。そしてヴイアンヌはチョコレートで町中を、あの頑な伯爵までを変えてしまった。ほうらね、女ってこんなに強いのです。
ふふふ、時にはこんな暴言吐いてみたい。まだまだ女が男に支配されてる社会だもの、いいじゃない言うくらい。
保育所なかまというと、保母仲間とか、保育所に子どもを預けている親同士というイメージなのだろうが、私の場合、それは4歳の時保育所で出会ったKちゃんのことだ。4月生まれの私たちは生まれて4年たったばかりの時に出会い、その付き合いは41年になるという計算である。しかし、ここ12年程、お互いに居場所がわからないまま過ぎていた。たまたま郷里の母が、法事で帰省したいた彼女とスーパーで会って、東京に住んでいるということが分かったという次第である。 なにしろ4歳児からだから、遊びもするが、泣いたりわめいたり、じまんごっこをしたりした。kちゃんのお母さんの手作りのコロッケも食べたし、おじさんの運転するカブト虫の形の車にも乗せてもらった。 何ごとにつけ張り合っていたらしく、小学校に上がる時、保育所の先生が、この二人は別のクラスにしてほしいと学校に申し入れたそうである。 それでも、図工室でセピア色でまとめられたkちゃんの絵を見かける時など、kちゃんの他の子にはない個性に密かに敬意を払っていた。彼女が特別だということを教師も友だちも気づいていないように思えた。そしてふつうだった私の方が表面的にはいつも目立っていた。 一番親しくしていたのは、kちゃんが結婚を控えている時だった。見合いのことやデートのこと、いろいろ聞いた。彼女の結婚式では保育所なかまとして、お祝の言葉に代えて「春の小川」も歌った。
夜kちゃんに電話をかける。昔の調子で呼びかけると、「ああ」と私と分かったようだった。変わってないなという印象が先に来た。幼い頃から感じとっていた彼女の不思議な個性に再び触れた。彼女の前に出ると、自分がとてもふつうの人間に思えてくる。保育園児のころ彼女と張り合っていたとするならば、私は自分がふつうな子になってしまうことに抵抗していたのだろう。 12年の間にすっかり育ってしまったお互いの子どものことやら、仕事のこと、親のことなど1時間ほど話す。そして来週上野で絵を見ながらでも会おうということになった。 12年後の再会はちょっとスリリングだ。ふつうに見えることに抗ったりなどしないようにしよう。そして彼女の個性を楽しもう。
2001年05月06日(日) |
バラノ木ニバラノ花サク |
真冬にバラの木を植えた。 「アイスバーグ」と名づけられたそのバラは真っ白で可憐でカタログで見るなり迷わず注文したのだった。 当然のことながら、真っ白な花をつけたバラの木が届くわけはない。それでも段ボールの箱から出てきた苗が20cmほどのロウで固められたただの棒だったのにはいささかがっかりした。これがカタログのようなバラの花を付けるなんて考えられなかった。そもそもバラなんてまともに育てたこともないのに、間違った買い物だったと後悔した。 しかし、バラの木はたくましい生命力を発揮して、霜にも度重なる雪にも耐えやがてロウを突き破って芽を出してきた。春がやってきたらぐんぐんと枝を広げ、いつの間にかただの棒だった木は柔らかなみずみずしい葉で覆われた。なんと蕾みもついている。 そして咲いた。
「バラノ木ニバラノ花サク ナニゴトノ不思議ナケレド」
その昔、中学一年の最後の日、担任で国語の教師だったS先生は短冊に達筆でこの北原白秋の詩を書いたものをひとりひとりの生徒に下さった。 その短冊を渡しながら、
「お前達、今はさっぱりこの詩の意味が分からんだろう。今に分かる。大人になったら分かる。それまでとっておけよ」 と言われた。
確かにその時の私はさっぱりその詩が分からなかった。当たり前のことが書いてあるとしか思えなかった。 先生からいただいた短冊は机の引き出しにしまってあったので、時々取り出しては、もう分かるようになっただろうかと自分の大人になった度合いを調べる物差のように思っていた。けれど何年も分からないまま年月が流れた。 今手許にあの短冊はない。結婚して故郷を離れる前までは、確かに勉強机の引き出しの所定の位置にあの短冊はあったのにあの机の中の様々な思いでの品ごと、今は記憶の中にしかない。 あの時の先生にはあれ以来お会いしてもおらず、お便りもしないままだ。国語でお習字の先生だったから、お便りを出すのに気後れがあったのかも知れない。 けれど大人になってバラの花を見る度にS先生の声や眼差しを思い出した。そして「先生、あの詩が分かるようになりました。」と伝えたい気持ちになるのだった。
今朝、バラの木にバラの花が咲いた。 真っ白なその花を見ながら、「ああ、分かったと思っていたけれど、ほんとうには分かっていなかった。今こそ分かる。」と思った。 でもいつかきっと言うのだろう。「あの時分かったと思っていたけれど、あれはほんとうではなかった、今こそ分かる。」と。
子どもの日が来たら父のことを書こうと思っていた。 かなり変わり者だった私の父は、四季折々の子ども関係の行事にははりきってしまうという傾向があった。子どもの日やクリスマスはいいとしても、近所の子ども達も巻き込んでの「秋の展覧会」なんぞになると、子ども心にもちょっとやりすぎのように思ったけれど、反抗もせずにいそいそと協力したのは、近所の遊び友だちがそういう父のことを嫌いでない風だったからなのだろう。友だちの目を通して見える父は自分ちの子どもだけじゃなくみんなと遊んでくれるいいおじさんだった。
いくつもの子どもの日があり、いろんなことを父は考えてやってきたのだろうが、残念なことにそのひとつひとつは思い出すことができない。けれど、ある年の子どもの日だけは妙にはっきりと覚えている。その時の絵を何度となく、記憶の中から取り出してきたからなのだろう。
ある子どもの日の朝、父が河原で飯ごう炊飯をやろうと言い出した。わたしが小学校1、2年の頃だったと思う。職場の人達とよく山登りする父が大きなリュックに飯ごうというものを詰めているのを見ていたが、その道具を使う場面を見たことはなかった。あの頃、出かける時に母がいっしょでなかったのは、母が自転車に乗れなかったためだろうか、それとも日々小学校の教師として働いている母は家事に忙しかったためだろうか、父は自転車の前に弟を、後ろに私を乗せて遠出をするのが常だった。
ついた所は見知らぬ河原、随分と広い河原だった。上には鉄橋が架かっていた。そこで石を組み立ててかまどを作り、飯ごうに米と水を入れ炊いたのだった。いったい御飯の炊けるまでの長い間、私と弟は何をしていたのだろう。弟は小さい頃から我慢強く、文句を言わない質だったので、おとなしくじっとかまどの火でも見ていたのだろうか。それとも父はスケッチブックを我々に与えて自分もスケッチをしたのだろうか。とにかくやっと御飯が出来上がった時はかなりお腹が減っていたに違いなかった。その時食べた御飯がそれまでに食べたどの御飯よりおいしいと思ったからだ。おかずは魚と肉の缶詰めだけだったが、それも信じられないようなおいしさだった。父はこの御飯と缶詰めがこれほどヒットすると知っていて、子どもの日の飯ごう炊飯を思いたったのだろうか。子どもの日が来るたびに記憶に蘇るのはあの鉄橋の架かる広い河原での飯ごう炊飯だった
あの時の記憶に惹かれて、ふっと魚の缶詰めを手に取ってスーパーのかごに入れることがある。そして期待して口にしてみるのだが、あの時のようにおいしかったためしがない。
キリスト教の世界に身を置ながら、「伝道」という言葉にくっついてくるあるニュアンスが好きではない。同じ感覚で日本語の「宗教」という言葉がくっつけてしまった語感も好きではない。だが、今日は「私は伝道者です」と言いきるその牧師の「伝道」という言葉が清々しく思われた。 初めてお会いする牧師の講演だった。確かに彼は言葉を語っていたが、私が聞き取ったのは言葉ではなく彼の魂の輝きだと思った。同じ言葉を別の人が語っても同じようには聞こえない。人を動かすのは、言葉ではなく、それを発する人の魂だ。彼は輝いて生きると言っても自家発電して輝くのではない。太陽の光りを受けて輝く星のように神さまからの光りを受けて輝くのだといった。そして彼は実際、天からの光りで輝いていた。そういう輝きというのは誰の目にも明らかなのだ。真実彼は伝道者だった。
朝から雨、連れと映画に行くこととなる。 近くに8つシアターのくっついた大型映画館ができたというのにまだ行ってなかった。果たしてそれはアメリカの郊外にある大型映画館とすっかり同じかっこうで、匂いまで同じなものだから、そこがアメリカになってしまう。不思議なことに気分まで開放的になり、そのころの自分にさっとすりかわる。 見た映画は「ザ メキシカン」でのっけからカップルがまくしたてるシーン。 ジュリア・ロバーツとブラッド・ピットの言いたい放題とオーバーリアクションの喧嘩はスカッと胸がすく。アメリカってけんかに向くなあ、やっぱり。 帰国してしばらくけんかだけは英語でやっていた息子達を思い出した。 子供だけでもないな、日ごろはしとやかな(?)私があの当時やけにけんかぱやかった。ニューヨークの空港の税関で子供の竹馬をめぐって4,5人のいかついアメリカ人の男達を相手に張り合った。規則で青竹は植物とみなし持ち込めないというのは承知しながらも、すごすご引き下がるわけにはいかないという気になった。 結局竹馬は没収となったが、わたしはおもいっきり自己主張したことでかなり晴れ晴れとした気分でアメリカでの生活の一ページ目を開いたのだった。 忍耐を強要される文化の中にあってはスカッとしたバトルは望めない。相手も傷つけ自分も傷を負ったりする。関係はこじれにこじれる。やるまでもなく行く先は見えるもの。 で、時々、夢の中で、わたしはまくし立てている。ビシバシと言葉で敵をやっつけている。こういうバトル実際にやりたいもんだ。
影も形もなかった地面から、すっくりすっくり、メドウセージ が伸びてきた。3年前の秋、1mほどもある、野性的なこの植物を買ってきて庭に植えた。この植物を腕の中に抱えてレジで順番を待っている時の幸せな気分を今でも覚えている。我が家の庭にこの深い青紫の花が加わることがとても特別なことに思えた。花との相性ってある。このワイルドさにわたしはほれぼれとしてしまう。花って女友だちっていう感じがするのだが、このメドウセージ は女っぽくない。かといって男という感じでもないのだが、、。いや、やはり男、若い青年かも、、、。 とにかく、わたしはこの花には特別な敬意を寄せているのだ。 秋に花を付け、冬には枯れ、跡形もなく消えてしまう。もう会えないのではないかと思うのだが、去年も今年もしっかり出てくるのである。さらに株は大きくなり、ワイルドさも増している。何か、今年はこの植物と張り合いたい気分だ。
私の住む町から、車で20分ほどのところに天然温泉がある。 もともと温泉などない土地なのだが、3年ほど前にずいぶん深く掘って 温泉が出るようになったらしい。 カラオケなどもない銭湯のようなその温泉が夫も私も好きで、二人でちょくちょく出かける。 今日は午後4時から7時までそこで過ごした。 本があるわけでもなく、話し相手があるわけでもない。何もしないのである。 退屈はしない。3時間はあっという間に過ぎてしまう。 そしてその無為の時はわたしにとって最高に贅沢な時間という気がしている。 思いが動くままに広がるままにまかせている。 心に残っていることを反芻したり、これからのことを計画したり、こんがらがっている糸をほぐしたり、インスピレーションやアイデアが浮かんでくることもある。そして離れている両親のことを思って祈ったりもする。 今日は泣いている甥のYのことばかり浮かんできていた。 わたしが小学校3年生の頃のことも思いだされた。 体育がクラスで一番下手で、ドッジボールではいつも一番に当てられた。 遊びもどこか他の子のペースについてゆけず、そのくせ、別のところでは他の子が幼く感じられて何かしっくりいかなかった。Yはそんな私に似ているのかも知れない。
夜、Yからメールの返事が届いていた。おもわずふきだしてしまうようなゆかいなメールだった。やれやれ、やっと彼の泣き顔から解放される。 いいメル友になれるかも知れない。
|