たりたの日記
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小さな子どもが人との別れを悲しみ、涙を流したりするだろうか。 わたしの甥のことを「この子は別れに弱い」と私の弟である彼の父は言う。3年前、一泊して帰るとき、見送ってくれた5歳の甥が泣いていて、それもだだっこのようにすねて泣くのではなく、祖母が孫と別れるような泣き方で泣くので、その時はかなり驚きもし、また切なくて、その顔がしばらく心から離れなかった。 もう小学3年生だし、別れに弱い彼のこともほとんど忘れていたのだが、 甥は私の帰る時が近付くと、泣き始めた。この前のように目のごみが入ったと、ごまかしながらではなく、たくさん涙を流して声をあげて泣く。でも、帰るなとだだをこねるわけではなく、おこってもいない。わたしが帰るということをきちんと受け入れている。それまで親しくいっしょに過ごしていた人間が遠い地へと離れていく、そうすれば1年も会うことはない。 彼は8歳なのに、その距離の隔たりも、時間の長さも大人のように分かっているのだ。 大人よりも悲しさが大きいのは子どもであるから。自分ひとりでは行くこともできないから、その距離は大人の感覚よりもだんぜん遠いのだし、子どもの1年は大人と違って気が遠くなるほど長いのだから。彼はすでに誰にでも訪れる死を意識しているのではないか、命の終わりのことを考えているのではないかという気がする。10年後、わたしのところから東京の大学へ通うという話しが出た時、彼の反応はわたしがまだ生きているだろうかということだったし、今回わたしが訪ねるといった時、彼は不意の事故でわたしがこられなくなることを心配した。わたしに限らず、別れるということに彼の魂の部分で深い痛みがあるのだという気がする。 わたしは彼の涙には誘われまいとがんばっていたが、彼のあの悲しみにやはり捕われてしまった。深く刻印されてしまった。幼い彼のこと、もう今ごろはすっかり何ごともなかったように、けろりとしているにちがいないが、あの時に触れてしまった魂とのできごとはわたしの中からは容易には消えない。彼の生きることに添ってくるあの悲しみを私も抱えることになるのだろう。私自信は、もうすでに距離も時間も、死さえも越えてゆく魂の存在を捕えているが、そうでなかった頃、生きることがどれほど淋しいことであったか、幼いからなおのことそれは深かったことを覚えているし、わたしの体にそのときの淋しさが残ってもいる。 彼に思いはその人のところへ届くのだという話しをした時。「おばちゃんはキリスト教でしょ。でもぼくは神様は信じていないんだ。」と薮から棒に彼が言い放った。その言葉のトーンに神様がいると思いたいという願いのようなものを感じて胸が詰まった。
弟の家族が新しく住むようになった家は海のそばで、5分も車で行けば海岸に行ける。 おにぎりを持って海岸へ遊びに行く。 海岸から少し離れた草原でシャボン玉を飛ばしたり、ボールをけったり、フリスビーをしたりして遊ぶ。
障害を持つ下の甥も、上機嫌で敷物の上に座っている。自然の風や陽射しがここちよいのだろう。 きのうは彼は人込で疲れたのか機嫌が悪くなった。彼の不快さを表わす表現のひとつが、独特の節回しの歌だった。仏教の声明のようだと弟たちが言ったが、確かに古代から伝わってきたような不思議な響きだ。彼には悪いけれど、その声があまりに心の深いところに触れてくるので、そして美しいのでもっと聞いていたい気持ちにさせられる。
彼は他の子のように言葉を持っていない重度の障害児だ。けれど彼を見ていると、彼の存在するそこのところの空気が明るく、澄んでいて、不思議なエネルギーに満ちているのが分かる。彼は言葉では伝えることのできない何か大切なものをまわりに発しているようにさえ感じる。 彼が彼の貴さを失っていないことの向こうに弟たちの家族のしてきた貴い仕事が見えてくる。彼を育ててきたひとつひとつの事がうかがえる。ほんとうに頭が下がる。そして誇りに思う。
2001年04月28日(土) |
チユーリップ フェア |
弟の家族と「となみチューリップフェア」へ行く。 それはそれはたくさんのチューリップ。 チューリップは私の一番すきな花かも知れない。 小さな甥たちといっしょに花々の中を歩きながら すっかり忘れてしまっていた、子どもを連れてのお出かけの感覚を 思い出した。 子どもを連れている時、自分の目で見るだけではなく、 子どもの心にどう映るか、無意識のうちに考えている。 子どもの目でも見ている。
子どもが興味を持っているとそれが自分の興味にもなってくるから不思議だ。 それは虫だったり、恐竜だったりとそれまで私の世界に入ってきたためしのなかったものだった。 子育てをしているあの当時、ただ大変なだけという気がしていたけれど、子どものお陰でものごとを新しい目で見ていたし、子どものエネルギーに元気をもらっていたことが分かる。
花からのエネルギーと子どもたちからのエネルギー、 今日はおもいっきりお天気もよく、太陽からのエネルギーもふんだんで 良い1日だった。
はなはだしい方向音痴のわが身はわきまえているが、それでもひとり旅が好きだ。その土地と親密になる深さはひとりの時とそうでない時とはずいぶん違う。またひとりだと、おもいがけない出会いがあったりもする。
金沢までは上越新幹線で越後湯沢まで行き、特急に乗り換えた。隣に乗り合わせた方は栃木で障害児のための教室を開いていらっしゃる方で、これから金沢大学で行われる研修会に出席するということだった。障害を持っている子供たちから多くを学んだ、人生を変えられたと語る彼女に地道で真摯な働き振りが伺えた。そして静かな情熱も。わたしは明日、弟の家族を訪ね、重度の障害を持つ甥に会う。日々障害を持つ子供たちと関わる身ではないが、そこにしかない輝きはわたしにも見える。子供達のこと、教育のこといろいろ話す。良い旅路だった。一期一会。でもこの方にはまたお会いするような気がする。
金沢には午後一時に着く。ホテル一泊付きの旅券(おかしな話だが、この方が、往復の交通費より安くなるのだ)を使ったので、今晩は駅前のホテルに泊まり、弟のところへは翌朝行く予定だ。ホテルに荷物を預けこの辺りを探索することにする。都合のよいことに北陸鉄道が企画している「金沢散歩」なるものがあり、500円で1日乗り放題の専用ボンネットバスの周遊券が売られている。そのバスでひと回りすれば、観光スポットを押さえることができるしくみになっている。バス停でバスを待っていると、見知らぬ方から声をかけられ1日使えるものから、これをお使い下さいと使いさしの周遊券をいただく。わたしがあっけに取られている内に、その方はさっさと駅へと行かれてしまった。もう一度後ろ姿に向かってお礼を述べその券を使わせていただくこととする。
レトロ調のそのバスの運転手は若い女性で、バスには徳田秋声にちなんで「秋声」という名前が付けられていた。他に、「犀星号」と「鏡花号」があるらしい。「秋声号」で兼六園まで行き、3時間ほど、美しい日本庭園の中ですごす。兼六園を出て、やってきた「犀星号」に乗り、犀星の記念碑前で下車、記念碑の詩の一節を読み、彼が愛してやまなかったという犀川の川べりをしばらく歩き、犀星橋を渡り、彼が育った雨宝院を訪ねる。さらに片町まで歩きバスに乗る。もう最終バスの出る6時に近くなってきた。香林坊の武家屋敷後はまたの機会にしようとホテルに戻る。
いくつかのホテルからそのホテルを選んだのは、大浴場、サウナ、露天付だったから。豪華な食べ物や部屋は必要ないけれど、サウナと露天があるなら、何時間でもひとりで楽しく過ごせる。ゆっくりお風呂に入って旅の疲れを癒し、3月からこっちの仕事上のストレスもついでに解消し、明日、明後日と甥っこたちと遊ぶためのエネルギーを充分補給するのだ。
「
昨日の雨の1日の後に輝くような春の陽射し。 日記を付けるのはたいてい夜中だけど こんな明るい陽の中で書くのもいいだろう。 まだ今日はこれから始まるのだとしても、、、。 夢のように咲いていたはなみずきが 風にはらはら花びらを飛ばしている。 いつの間にか葉も出てきた。 それにしてももっとゆっくり花を眺めていたかった。 一年の間見られないというのに、 ふっと「葉っぱのフレディー」を思い起こす。
明日から三日間、金沢行き。 去年そこへ転居した弟を訪ねる。初めて訪れる土地だ。 子どもが生まれるすぐ前、敬愛していた牧師の家族が金沢に移り 毎年、年賀状に「いらっしゃい、待っています。」と書いて 下さっていた。 子育てに追われ、ゆとりもなく、いつか、いつかと思いながら 18年も経ってしまった。 そしてその牧師はこの春、山口県へ移られ、金沢にはいない。 どうしてもう少し早く行かなかったのだろうと悔やまれる。 どこか出無精で、腰の重い私はこんな後悔ばかりしているような 気がする。 さて、悔やんでも始まらない。風邪も悪くならずに、 明日こそは行けそうなのだから。 さて旅の支度を始めよう。
今日は英語学校のミーティングが長引き、10時すぎに駅から、家まで夜道を 一人で歩くはめになった。歩き始めてすぐにしまったと思った。 いつも遅くなる時はAが車で迎えに来てくれるので、ひとりで夜道をあるくことなど、久しくなかったのだ。あいにくAは出張中、息子を呼び出すのもためらわれともかく歩き始めたのだった。駅からいっしょに降りた人達はみな自転車で私を追いこしていった。目の前にはどこまでもひとっこひとりいない暗い道だけ。恐かった。自分の臆病にあきれながら、すごい勢いで歩きながら、口ではぶつぶつ主の祈りを唱えていた。これでは小学生の時、お墓の側の坂道を歩いていた時と少しも変わらないではないか。 家の明かりが見えてほっとしたこと。 こわかったことを白状すると次男のMが「ぼくが迎えにいったのに」という。 今度はそうしようと思った。だがまてよ、あんなにこわがりだったMはいったいいつこわがりじゃなくなったんだ? あの子がこわがりだったころはわたしはもっと強かったようなきがする。夜道だって平気で歩いていたような気がする。
2001年04月24日(火) |
ダンサー イン ザ ダーク |
今朝、起きぬけに、以前に映画「ダンサー イン ザ ダーク」のファンのサイトで、この映画についてバトル(?)したことを思い出した。ある方がセルマは壊れていたという書き方をしていたので、それに対する反対を書いたのだが、「宗教を持ち込むのは良くない。」「悪魔なんかいません。」という論調でうさんくさい目で見られてしまった。その方のシャープな見方に触発されて書いたものだったのに、、、。それ以来、その方は「セルマから足を洗います。」と、それまでの書き込みも全部消されてしまわれた。それ以来私も、そのことについて書くことはなかったのだが、なぜか今またセルマが呼びかけてくる。なんなのだろう。 何かここにあの時、宙に浮いてしまったセルマのことについて書いたものをここに載せたくなった。日記なのだから、かなりのひとりよがり(承知している)も許してもらうことにしよう。
セルマ、魂の勝利
果たして、セルマは壊れていたのだろうか?けれど、人によって何を壊れているとみるか、そこからして違うのだ。 私の見方では、セルマはまれに見る強靱な魂を内に有している人。そして当然それが壊れてしかるべき状況のなかで、彼女は自分の魂を守り通した。 自失していたセルマにキャシーが叫ぶ、Listen to your heart! あなたの心に聞きなさいと キャシーもまた、内なる声に促され、はじきだされるように、セルマにかけよったのだった。そして、セルマはこの声に助けられ現実と彼女の魂の世界をそこに統合することに成功した。完全なパフォーマンスである。完全なパフォーマンスというものが人間を目に見える現実から、目には見えなくとも実際のそれより、はるかな広がりと奥行きをもったさらに大きな現実(それが幻想でも、虚実でもないという意味において)の存在を目の当たりに見せるものだとすれば。
この世でのセルマの人生は過酷な生活を送るということだった。しかもまだ足りないといわんがばかりに彼女は不幸へと落ちていく。監督ラ−ス フォン トリアーは、セルマを徹底的に不幸へと落とし入れる必要があった。なぜなら、彼は不幸が、ある時その人間を破壊するのではなく、その魂をさらに光らせ澄んだもの、完全なものへと近づけていくという彼の深いところにかかわる人間観(宗教観といったほうが適切かもしれない)を持っていると思うからだ。 そして、それと対比するように、ビルを隣に並べた。不幸が魂をむさぼっていくというもうひとつの事実。二人の魂は激しく拮抗する。目に見える世界では、セルマの殺人という状況でしかない。しかし、別のレベルではそれ以上のことが進行していたのである。セルマは自分の息子を失明から救うために爪に火を点すようにしてためたお金をぬすんだビルに対して逆上はしなかった。むしろ、そこなわれようとしている魂への深い同情と、悪魔に見入られたその魂に正面から向かい合おうとする沈着した果敢さをたたえていた。セルマはこれはあなたのものではないときっぱりといい、金を奪い返す。そしてここからが闘いが始まる。ビルはセルマに哀願する。「こんな自分をいっそのこと殺してくれ」と。セルマの魂に触れることで、ビルの魂は一瞬正気に帰ったようだった。ビルは悪魔にやすやすと心を売った惨めな自分の姿を垣間見たように見えた。しかし、彼の魂を手にいれようとする悪魔も必死だ。ビルはひるがえって、セルマをさらに落としいれようとする。ここではもうセルマは人間の魂を自分のものにしようという悪魔と闘う他はない。セルマはもう自分を守る余裕もない。ビルが悪魔から引きずられながらも、辛うじて吐き出した、「殺してくれ」という、セルマが聞き取った彼の魂の声に従うしかなかった。魂の声に従う。これが徹頭徹尾セルマという人格の中心をなすものであったから。
魂は勝利した。目に見える現実ではセルマの屍しか見えないが、目では見えないもうひとつの世界では、勝利したセルマは祝いの席へと招かれる。 彼女の帰る場所へ、高らかに歌いつつ旅立つ。 .............. I'm softly walking on air Harfway to heaven from here If living is seeing I'm holding my breath In wonder- I wonder What will happen next? A new word -a new day Too see.... ラストシーン! ラ−ス フォン トリアー監督の持っていきたかったところへ観客は無理矢理に連れていかれる。彼が何としても、観客を連れて行きたかった場所。彼にとって非常にパーソナルなそれを多くの人間と共有したいという無謀ともいえる情熱!しかし彼も勝った。そう私は感じた。
ずいぶん前のことになるが、団地の3Dkで文庫をやっていたことがある。 毎週木曜日の午後1時から5時まで、団地の子供達がたくさんやってきた。ほんの貸し出しの他に、お話の時間もあり、3人の文庫仲間と交代で、おはなしと読み聞かせをした。それは楽しい図書館ごっこだった。みな子どもの本を学ぶ会で勉強もしていたから、文庫はいわば学びを実践する場でもあった。掃除機をかけながらおはなしを覚え、夜はわが子相手に練習をし、文庫中心に生活が回っていた。 文庫の仲間の子どもたちも、我が家の子どもたちもとなり町にある、一年中はだしでどろんこまみれになって遊ぶ幼稚園に通っていた。子育てにも、子どもの本にもそれなりの自負とこだわりがあったのだ。
今日はしばらく振りでその頃の文庫仲間、子育て仲間とお昼を食べながら話しに花を咲かせた。 あの頃幼稚園に通っていた子どもたちも、社会人、大学生となっている。 われわれも30代前半から、そろそろ孫を抱くかも知れないなどと話す年になっている。それぞれに違った場所で違った仕事をしているのだが、それぞれいろんなことを乗り越えてきたのだが、変わらないものがある。しみじみとうれしかった。 あのころ、わたしたちに共通していたのは子どもを育てるけれど、自分も育つということだったし、自分の子を育てるけれど、よその子も育てるということだった。 たくさんの子ども達とかかわり、たくさんの絵本と出会い、たくさんのおはなしを覚えて語り、そんな中での子育てだった。なんと恵まれた子育て時代だったことだろう。おはなしを食べて大きくなった子ども達、それぞれどんなふうに歩いていくのだろう。見守っていきたい。
小学校2年生の時、友だちに誘われて、教会学校に通うようになった。 そこで聞く聖書の話しや紙芝居はおもしろかった。今でも、その時に聞いた話しが頭に描いた絵と共に思い出される。 今日はわたしが教会学校でお話をする当番だった。 テキストは「エマオの途上」 幼い頃わたしが聞いて描いた絵を今度はわたしが子供達に伝える。子供達がいきいきと描けるように、その聖書のメッセージが伝わるように話せるだろうか。 そう考えながら昨晩原稿を書く。 実際に話す時は身ぶり手ぶりでおおよそ原稿どうりには行かないのだが、話すなかで、子どもたちの気持ちがきゅっと一点に集中するところが分かる。 最後のまとめはなんだか説教くさくなって(説教なのだからしかたないのだけど)子どもたちもまたかという顔してたけど、わたしもそうおもいながらも、今でも心から離れないのだから、、、。
(教会学校での話し) 目でははっきり見ているのに見えないということがあります。 体の目は見ることができても、こころの目が塞がっていると目に映っていることがほんとうには分からないのです。 ところが体の目は見えなくても、そこでおこったことが生き生きと見えることがあります。それは心の目が見えているからです。 これからお話する二人の男のひとは、ちゃんと目は見えていたのです。それなのに心の目が開いていなかったから見えていなかったのです。 さてどんなお話なのでしょう。
イエス様が十字架に架かって3日たった日のことです。二人の男の人が、エルサレムからエマオという所に向かって歩いていました。二人は暗い顔をしてなにやら深刻そうに話をしながら歩いていました。しばらくすると、別のひとりの男の人が二人の男の人達と並んで歩き始めました。その男の人は二人の男の人に尋ねました。 「何をそんなに深刻そうに話しているのですか。」 「あなたは、エルサレムに泊まっていたのに、近頃エルサレムで起こったことを知らない というのですか。みんながそのことで大騒ぎしているのですよ。」 「知りません、教えてください。」 「イエスという人のことです。その人は言葉も行いも人々の心を動かすすぐれた預言者、神様のお使いだったのに、祭司長や議院たちはその人を十字架に架けて死刑にしてしまったのです。わたしたちはみなその方こそ、私たちを救うものだと思っていたのです。それから3日経ったのですが、今朝女婦人たちががイエスの墓に行ってみると、墓はもぬけの殻、そこに天使が現れて、『イエスは生きておられる』といったというのです。」 その男はふたりの男にこれまでの預言者のこと、聖書に書いてあることを詳しく話しはじめました。 さて2人はエマオに着きましたがその男の人はまだ先に行こうとするので、もう遅いので、家にお泊まりくださいと二人の男はさそいました。 その夜、いっしょに夕食をしようとした時、お客となった男の人が、食卓のパンをとって、お祈りをして、そのパンを裂きました。その時、二人の男の人たちは、そのお客がイエスさまだということが分かりました。心の目が開いたのです。けれども、その瞬間イエスさまの姿は消えました。
二人の男の人たちはいっしょにエマオまでの道を歩きながら話したことを思い出しました。「あの時、あの方が誰だかは分からなかったけれど、あの方が聖書のことを話すのを聞いて心が燃えたではないか。イエスさまといっしょに歩き、イエス様の話しを聞いていたのだよ。」と感激しながら話し合いました。 さて、二人の男のひとたちは「心が燃えた」と言っています。
「心が燃える」というのはどういうことなのでしょうか。 みなさんは「心が燃える」という気持ちになったことがありますか。 わたしは心が燃えるというのは、心がエネルギーでいっぱいになって、まきをたくさん入れられた暖炉のように、また燃料をたくさん補給された機械のように、元気に燃えはじめ、元気に働き始めるようになること、またうれしい気持ちでいっぱいになったり心が熱い感じになることだと思います。みんなはどんな時にそんな気持ちになるのかな。ゲームをしていて興奮している時?本やマンガに夢中になっている時?
私たちの体は食べ物や飲み物を取らないと、元気がなくなって、最後は死んでしまうっていうことは知っているよね。でも心はどうなんだろう。心だって同じようにエネルギーをもらわなければ、元気がなくなって、心の病気にだってなるんじゃないかしら。私たちが毎週教会にやってくるのは、イエスさまのお話を聞き、お祈りをし、讃美歌を歌うことで、心にエネルギーを補給するためなの。魂の御飯を食べるために、教会学校に来るのよ。毎週、魂の御飯をいただいて、こころを燃やしていましょう。
2001年04月21日(土) |
オレンジ色のチューリップ |
毎年、秋にチューリップの球根を求め、それを中心の春の花の植え込みをする。それだがら、どんな色の花にするかは、その年の秋の気分が影響する。鮮やかな赤と黄色と白の球根を植え込んだ年もあれば、ブルー系(といっても紫やプラムなのだが)だけをたくさん植えた年もあれば、一昨年はピンク系、そして昨年の秋はオレンジ系の球根を植えた。なぜかオレンジの気分だった。そういえば、夏のTシャツも、冬のセーターもオレンジ色だった。 以前読んだ本の中で、色はひとつのエネルギーで、体がその色のエネルギーを必要としている時、その色のものを身に付けたくなるし、部屋に置きたくなる と書いてあったのを思い出す。
さて、ガラス戸の外に目をやれば、今やチューリップの花盛り。丈の短い、濃いチューリップが咲きそろった頃、それより丈の高い薄いアプリコット色のチューリップが、その間から顔を出した。まわりをオレンジと紫と白のパンジーで囲んだ寄せ植えの鉢だ。別の鉢には小振りのピンクのチューリップが10球。3年ほど毎年咲いている、八重のムスカリとイングリッシュアイビーの寄せ植え。オレンジと紫の花々の間を埋めているのは白い小花が溢れるように咲く、スイートアリッサム。どれも冬の雪を耐えてきた花達。 チェリーセージも深紅の小花をつけはじめている。
昨年の春、弟の家族がKへ引っ越した。それまでも、それほど近くに住んでいた分けではなく、せいぜい1年に一度、会うくらいだったが、昨年は会わずじまいで過ぎてしまった。2年前の5月に甥のYの入学祝いに行ったきりだ。Yはこの春小学3年生になる。 電話で連休に行くことを弟に告げると、Yが電話口に出てきた。
「おばちゃん、ぜったい来てね!」 「うん、ぜったい行くよ。」 「ほんとに来てね。」 「ほんとに行くよ。」 「100パーセント来てね」 100パーセント行くよ」 「事故とかないといいけど」 「大丈夫だよ」
電話の後も、Yとのやりとりが繰り返し頭の中に響いている。 1年に一度も会わないこのおばちゃんをこれほど待ってくれているなんて。 大きくなった我が子からあまり待たれることもなくなった(とても気が楽だ)日々の中で、幼い子の期待が何か切なく胸に迫る。久しく忘れていた感情が蘇る。 昨日から咽が痛く、なんだか風邪の予感がして、少し不安にもなった。 絶対行かなくちゃ、今夜は早く寝よう、うがいもしよう。
人は、そのよわいは草のごとく、 その栄えは野の花にひとしい。 風がその上を過ぎると、うせて跡なく、 その場所にきいても、もはやそれを知らない。
どうしてだかは分からないが慰められる気がした。 初めて教会学校に行った時、もらった小さなカードにあった言葉を思い出す。
ここ6年ほど、水曜日は自宅で英語クラスを開いている日で、英語クラスの名前も 、「Wednesday」なのだが、今年から水曜日は外で教えることになった。 2時からは「幼児とお母さんのための英語クラス」4時半からは小学6年生のクラス、その間の時間は他のスタッフとの打ち合わせやクラスの準備の時間となる。 2時からのクラスは、アメリカの幼稚園で歌われている英語の歌や歌遊び、英語の絵本の読み聞かせが中心のクラスだが、何しろ3才児、おもしろければ乗ってきても、つまらなければそっぽをむかれる。その上、彼等の集中力は短い。 5分単位で活動を変えていく。教師というより、エンターテイナーだ。 そこいくと、6年生のクラスの何とやりやすいこと、しっかり学習というものをわきまえている。それでも、クラスが退屈にならないように、ゲームなどを取り入れているのだが、今日のゲームの後、子ども達が「このゲーム、日本語でやったら、学級会で使えそう。今度やってみようか。」と相談などしている。頼もしい6年生たちだ。
冬物のジャンバーやら、セーターを洗い。何枚ものシャツにアイロンをかける。かけながら久し振りにテレビのスイッチを入れる。いっぺんに当たり前の日常という感じになる。 でもほとんどの場合、わたしはテレビの音がバックグランドに流れている日常の感じが好きではない。というよりその中にいることがひどく苦痛になる。とりわけて聞きたくないもの、見たくないものから支配されるのが耐え難く思われるのだ。読みたいものを読むか、聞きたいものを聞くか、そうでなければ頭の中であれこれと考えたりしていたい。 独り立ちする前、実家に居るのが苦痛だったのは、ひとつには朝から晩まで途絶えることのないテレビの音だった。自分は見ていないまでも、父がそして母がお互いを見ることもなく、あるいは娘や息子を見るのではなく、テレビを見るというその図が受け入れ難かった。たまに里帰りする時、母につきあって、いっしょに画面を見ながらも、二人がブラウン管に顔を向けているその様子をほんとの私がどこか外から眺めているようなのだ。 我が家にはダイニングにもリビングにもテレビはない。見たい人は隣の和室に行かねばならない。テレビが付いていても、和室の戸を閉めれば、音を聞かないでいることができる。そういうことをしているものだから、私は世の常識にひどく乏しい。 一人だけ、このテレビへの感じ方がすっかり同じ人間に出会ったことがある。 Dは子どもたちがテレビを見ている時、その音に気分が悪くなるほどだった言った。また誰もこの気持ちを共有したことがなかったとも言った。さらには、子どもの頃の彼女の話しを聞いて初めて、自分も持っていた同じ感情をあらためて意識した。 思春期の頃、独りで夜更かしをするようになり、誰もが寝ているのに、自分だけ起きており、ただテレビがしゃべっている。少しもおもしろくなく、見たくはないのに、テレビを消して訪れる静寂が耐えられない気がして、いつまでもただただ消せずに見ている、そんな同じ少女時代のひとこまが浮び上がってきた。違っているのは私は九州の小さな田舎の町に育っていて、彼女はマンハッタンのビレッジでボヘミアンのアーティストを両親に育っていたということ。また世代も彼女はわたしより10歳年上だった。私の過ぎた時間の中にある言葉にできない、恐れやさびしさや虚無感を私は初めて自分以外の人間の過ぎた時間の中に見て強い共感を覚えた。私が彼女にfall in loveしてしまったのは、その共感のせいだろうと思う。私はまるで初めて友というものに出会ったように、独りでこもって閉じていきた過去のドアを彼女といっしょに一枚、一枚開けていったのだった。開く度に、そこに閉じ込めたものの正体を知った。閉じ込めていたものを外に出す時には、二人とも泣いた。確かに私たちは話しながらたくさん泣いた。こんなに少ないシンプルな言葉で私たちはなんて深いことを話しているのだろうと彼女は言ったけど、話しているのは言葉ではなく、その向こうにあるものだったような気がする。言葉にしないまでも、伝わるものがある。多くの言葉を知らなかったからこそ開いた通路であったのかも知れない。彼女の傍らにいてその深い哀しみを身に受けながら、それに慰められている自分を感じていた。何もしゃべらずに彼女の痛みの中に入っていた。不思議な想いだった。 Dの息子もこの秋には大学生となる。母の役割から解かれることを彼女がそれほど心待ちにしていたか知っている。そしてその時、そのことが淋しくて泣くことも。
5年ぶりにオーストリア人の Wに会う。 彼女はオーストラリアの公立小学校で子どもたちに日本語を教えている。 5年前、この町の高校で1年間の交換教師として英語を教えていた。 たまたま、彼女が私の行っている教会に来たことがきっかけで話すようになった。私はその年、ちょうど子ども会の役員をやっていたので、彼女を招いて、子供達にオーストラリアの紹介をしてもらったり、また、カルタ取り大会に招いたりし、もともと小学校で教えている彼女にとって日本の子供達や子供会に触れるのは興味深いことだった。 彼女は私が日本の子どもたちに英語を教えることとちょうど反対のことをやっているわけで、私たちはたいていクラスのことや外国語教育のことを話した。日本の民話をもとにした絵本や、わらべうたなどを彼女に伝え、彼女の方からはどうやって日本語を教えているのかということを興味深く聞いた。彼女が作った、日本語を教えるための歌がたくさんの学校で歌われるようになった話しなど、おもわずうなってしまう。 教育への情熱もさることながら、彼女の勉強する姿勢がとても好きだ。あの頃は通信教育でオーストラリアの 大学の修士課程を受講していたが、これから、博士課程を取るつもりだという。でも子供達を教えることをやめたくはないから管理職には着きたくないらしい。 それにしても、現役の教師が博士課程の勉強ができたり、今回のように、代用教員をたてて、3週間の休暇が取れるというのはなんと恵まれていることだろう。こういう点では日本はずいぶん遅れをとっていると思う。 話しを聞いていると、オーストラリアに行きたくなった。そこで子供達がどのようにに本語を学んでいるのか見てみたい。学校にきて彼女のクラスを手伝えるならなおのことおもしろそうだ。
十字架の上で処刑されたイエスの体は、数人の弟子たちによって、十字架から下ろされ、香料を入れられ、亜麻布でくるまれ、その近くにあった園の真新しい墓に葬られた。十字架の上での壮絶な闘いが終わり、イエスが去った。すべてが終わった。その時、それまでイエスと共に寝起きし、イエスをのみ頼りにしていた弟子たちの胸の内はどのようなものだっただろう。信じてきたものがガラガラと音を立てて崩れていったのだろうか。神の子としてではなく、ひとりの人としてイエスを愛してきた者はその人を失った激しい悲しみの中に、あるいは喪失感の中にあったのだろうか。しかし、聖書を読む限り、誰ひとりとして、イエスに再び会えるなど、思ってもみなかったことがうかがえる。 ところが、3日目の朝、まだ暗い内に、イエスの墓に行ったマグラダのマリアは墓の石がとりのぞいてあるの見る。イエスの死体まで取り去られたことに彼女は取り乱したことだろう。私だったら叫ぶだろう。ののしるだろう。激しい喪失感の襲われることだろう。しかし、イエスはそこにいた。死んだものとしてではなく、蘇った存在として。はじめマリアはそれがイエスであることに気づかずに泣きながら訴えた。「もしあなたが、あの方を移したのでしたら、どこへ置いたのか、どうぞおっしゃって下さい。わたしがその方を引き取ります。」その時、イエスはひとこと「マリヤよ」と言った。マリアはその声に胸を突かれてふり返り、「ラボニ(先生)」と叫ぶ。
子どもの頃から、イースターの話しは不思議な話しだった。イエスは死んだのに3日後に生き返ったというのだから。不思議ではあったけれど、ファンタジーの世界に日々生きている子どもの頃にはすてきな話しには違いなかった。 思春期のころイースターの箇所で心にとまったのはこの「マリヤよ」と声をかけるイエスと、振り返って「ラボニ」と叫ぶという、この場面(ヨハネによる福音書20章)だった。聖書にはマリアが叫んだとは書いていない、しかしわたしにはマリアの叫びが聞こえたしその時のイエスの深い眼差しもマリアの絶望が歓喜へと変わる嵐のようなその時の想いが見えた。 十字架のことも復活のことも聖書はどこも、かすみがかかったようにおぼろげにしか見えないが、ある時ある瞬間に、その場面が強烈な真実を伴って見え、刻印を押されたように心に焼き付くことがある。 ここしばらく、そのような聖書からの働きかけがないまま、文字だけを追ってきたような気がする。眠っていたのだ。 今年はもっと生々しく魂が動くだろうか。 復活の日
明日はイースターなので、教会で卵の色付けをする。 150個のゆで卵に、ろうそくやクレヨンで絵や字を書き、それを色々な染料の中に浸けて色をつける。ウサギの絵やひよこや花、みんな子どもの頃に返って、夢中でお絵かきを楽しんでいる風だった。明日の朝はこの卵を庭のあちこちにかくし、子供たちが卵さがし(エッグハント)をするのだ。 ところで、明日はイースターの早朝礼拝なるものがある。7時に教会に集まり、みんなで近くの公園へ行ってそこで礼拝をすることになっている。サンライズサービスと言われるこの礼拝は昔、ここの教会で毎年行われていたものらしいが、わたしは初めてだ。 その後みなで朝食をいただき、10時半からイースターの礼拝、その後は持ち寄りの昼食会となる。わたしは子供達に紙芝居を読むという役目がある。おっと深夜の1時を過ぎてしまった。早く寝なくては。 ああでもほんとは、イエスの復活の出来事について立ち止まって考えたいと思う。わたしはまだそのことの深い意味をほんとうには捕らえていない気がする。
はなみずきが咲いた。 去年はほとんど花が咲かずに心配したが、今年はこれまでの倍ほどの花だ。 6年前、ここへ越してきた時に植えたかぼそかったはなみずきが高くのび、枝を広げピンクの花をたくさん咲かせる。家の中からだと窓を埋め尽くすように花が広がっている。2階のベランダから見ると、上を向いて咲いているたくさんの花の視線がいっせいにあつまるようで圧倒される。 植え込みをするとき、やっとの思いで穴を掘ったほど、その地面は固く痩せていた。それなのにどうやってこのようにみごとに育つことができたのだろうと不思議に思う。 おおよそ樹木についての知識がなく、一昨年の夏、落葉にはずいぶん早い8月に、ちぢれて黒くなった葉がほとんど落ちた。花芽がつかないうちに葉が落ちたものだから、翌春は少しも花がつかなかった。はらはらと落ちる葉はいかにも木の病気を物語っていたが、どうすることもできずに幹に手を置いて、ヒ−リングした。ヒ−リング、それを私はひとつの祈りのように思っている。その人、あるいは動物でも植物でもそこに流れるエネルギーに自分のエネルギーを注ぎそこに願いを込める。すべてのものを生かしている命の源に、こうして触れているものに命を送ってくださいと癒してくださいと願う。 薬がなく、医者がいなかったころ、祈りを信じていた人々は今の私たちよりも自分を癒したり、人を癒したりする力に富んでいたに違いない。植物の持つエネルギーを見分け、それが人間の体にどういった影響をもたらすのかも知っていたのだろう。
仕事のない金曜日。今日は久し振りに植物たちと過ごすことができる。満ち満ちる命に触れよう。そこから流れ込んでくる命を受けよう。
火曜日と水曜日は仕事に出る日。 昨日は仕事の帰りA( 夫のこと、アからはじまるファーストネームで呼んでいる)と、駅で待ち合わせていた。彼が何年か振りに夏のスーツを新調するのに付き合うためだ。 彼はめったに服を買おうとしない。わたしも本人がそれでよければあれこれ口をはさむ気もなく誕生日やクリスマスに私の好みのものを贈るほかは、本人に任せている。だいたい自分の買い物もできるならばしたくないほどだもの。特にデパートは苦手、紳士スーツ売り場など持って他。ところが今回はなぜか違っていた。息子の入学式の衣装を買うのにさんざんつきあわされ、どこの店にどういう服があるのか、少しは明るくなった。その上、気に入ったイタリアのブランドが見つかった。それで迷わず、Aをそこへ連れていく。店員の方もこの前お世話になった人だった。我々にしては珍しく素早い決断でついでにシャツとネクタイも合わせ、とても満足のいく買い物となった。子ども達は帰りが遅いことだし、久し振りに居酒屋へ。 楽しく食べて飲む。 Aは実のところ一番いっしょにいて楽しい友だちだ。20代で出会った頃からその気分は変わっていない。お互いにかなり飽っぽく、忍耐力に欠けており、退屈なことには耐えられない牡羊座どうしである。お互いにいまだに飽いていないというのはもうミステリアスとしか言い様がない。 ひとつには Aはどこか透けている。変な表現だけど、何か透明なのだ。いくら近くにいてもすっとその体を通って向こうへいけるような感じがしている。かなり強烈な自己を持ち、譲らず、混じろうとしない頑固ものなのに、私自身の自我がブロックされることがない。ある意味、どういう人にもわたしは何らかのブロックを感じて、疲れたり、自分を出せなかったり、孤独になったりすることの方が多いのに。彼にとっては私も透けているらしい。
Aが私の日常に入って来るようになった時、羽根が生えたように自分が軽くなったことを覚えている。いくつものしがらみがはらはらと解けて、私は実際、空に舞ったのだった。親からも友だちからもふるさとからも離れて、どこまでも遠くへゆけると思った。 20年前、Aの待つ羽田に向けて飛び立った飛行機の中で味わった歓喜を思い出す。
恋愛、私の知り得るそれは、人を支配する。所有したいと思ったり、愛を確認したいと思ったり、嫉妬に縛られたりする。軽くなることはなく、ぐいぐいと地へ死の縁まで引きずりこまれる。捕われていく私を見て、相手が恐れをなして去っていくか、あるいは自分から捕われの綱をちぎり切るかだった。
Aとの関係をここに来て有り難く思う。お互いそろそろ父の役割から、また母の役割から解かれさらに自由になっていく。 今日はいつもより仕事が長引いて、いつもの時間を2時間も過ぎて駅にいた。「やあ、奥さん」という声に驚いて振り向くと、いつもより2時間早く駅に現れたAがいた。「気が合うね。」と言いながら仲良く電車に揺られ家へと向かった。
おとといの夜のことだ。夜も更けて、すでにAが眠っているベッドにもぐりこんだ。ベッドの脇は2階のベランダになっている。横になると、カーテンのはしの切れ目から、レースのカーテンごしに月が見えた。思わずはっとする。 そこに視線を受けた時にも似た感覚が起こったから。月が呼びかけているようで、私はカーテンを開け月を眺めた。不思議な感じ。包まれているような幸福な気持ちが広がっていき、笑いまで起こった。いったいこれは何だろうと思いながら心地よい眠りに入っていった。 そして昨日の晩、夜中の一時すぎ、Aはまだpcをいじっているので、私が先に2階へ上がる。寝ようとした時、ふと月のことが気になった。カーテンを開くと、やっぱり月がそこにいた。この近さは何とも不思議、月に個人的な感情(?)を抱くなんて、、、。カーテンを閉め難く、昨日は月に照らされながら眠った。
月曜日の夕方のクラスに5年生になったばかりの女の子が3人やってくる。 この4月にスタートしたばかりのほやほやクラスだ。 この時期の女の子は特におもしろい。 子どもの無邪気さと、もう大人に負けない鋭さを合わせ持っていて、 そして空気のいっぱい入ったまりのようにはずんでいる。 まだクラスの時間まで10分もあるというのに、ピンポーンとベルが鳴る。 「待切れなくて、早くきちゃった。」 それぞれの特徴のあるエネルギー、でも共通しているのは好奇心でいっぱいのところ そのわくわくする気分が私にも伝染する。 新しく出会う言葉の世界がうれしいんだ。 いつも前を通っていた家の中に入ってくるのがおもしろいんだ。 私のことも、仲間のように見てくれている。 この頃の子達には、子どもに対してのようにではなく、仲間のように接するからだ。 ちゃんと、私が落としていることはすばやく指摘してくれる。 今日は3つの質問と答え,それから、色と数。 "What's your name? "How old are you? "Where do you live? あっという間に1時間が過ぎる。 こういうクラスのなんと贅沢なこと、 それぞれが近いところで交流しあえる。
彼女たちの好奇心を失わないようにするためには、 私もまた、はじめてのところに立つこと。 そして想像力と創造力を自分の内から溢れさせること。
月曜日の朝 ここから一週間が始まるのに 重たい心を抱えている 淀んだエネルギーが体も重くしているな なんだろうと思って開いたところに マオさんの言葉があって響いた。 淀んだエネルギーが少しほどける
<できることは、”見極める”こと。そう、心の痛みがどこからきてるのか、> < 否定されても、真理は己の胸底にありその己を持って生きるだけだ > 痛みや重さに取り込まれないようにしよう。 それこそが悪魔の思うつぼ。 悪魔がしたいのは人と人を引き離し 憎しみを起こさせ、それぞれの聖なるパワーを 根こそぎ奪い取ること。 こんなときこそ 見極めようとするのでなければ 己の胸底にある真理 に聞くのでなければ まっすぐに心をあの方に向けるのでなければ 自分の中心とあの方との間に垂直に糸をぴんと張ろう なんの邪魔も入れないように
いろんなことがあるものだ。 人と考えが対立した。 どっと疲れている。 心をクレンジングしてから 方法を考えよう。
礼拝堂に置く花瓶を求めに教会の人達と益子へ行き、炬窯(かがりがま)というクリスチャンの陶芸家の窯元を訪ねる。 山奥に通じる細い道を走り、着いたところは高くそびえる杉の木に囲まれた小さな窯場だった。作業場に並べられたカップやポットやつぼはどれも違った形をしていても、ひとつの同じ響きを奏でていた。それがこの陶芸家のエッセンスなのだ。どれもしんとした響きを持っていて、しかもそれは冷たくはなく、素朴でふわりとしている。 礼拝堂の十字架の真下の台の上に置く花瓶は白いやさしい丸みをもっているものを選び、もうひとつ大きな花瓶は十字架を入れたものを焼いていただくよう注文する。 私は花瓶にしたり、ドレッシングを入れたりするのに良いくらいのピッチャーと、それの4分の1ほどの大きさの小さなピッチャーを求める。ほんのりと薄青いグレーで、まん中に四角、あるいは三角に上薬が抜かれていて、そこから土本来の色がそのままのぞいている。 家のテーブルに置くとそのあたりの空気がしんとしずまる感じがした。 大きな方のピッチャーにコーヒーを入れ、小さな方にミルクを入れて使ってみた。 持ち上げた時の感じも、注ぐ時の感触もとてもいい。 マーガレットが咲いたら差してみよう。ハーブや野の花が似合いそうだ。 焼いた方のやさしい目と温かな身のこなしが思い出された。 このように自分を作品に込め、それが他の人の生活の中で、良い響きを放つというのは 何と良い仕事だろう。
2001年04月06日(金) |
アメリカ人のともだち |
今年もGの家族がカリフォルニアから一時帰国してきた。いつもこの時期、それぞれの家族で食事を共にし、成長したそれぞれの子どもたちと会い近況を語り合う。 Gはアメリカ人で彼女の夫は日本人、ひとり娘は言葉も感覚も容姿も両方のものを合わせ持っている。 私たちがGたちに会ったのは、私たちが4年半のニュージャージーの駐在が終わり帰国して一月ほどたった時だった。小学校の運動会で、我が家の長男のHが、Gが座る場所を夫に尋ねているのを通りがかりに聞いて、英語で「どこに座ってもいいんだよ」と答えたのが出会いの始まりだった。Gは瞬間、自分が突然日本語が分かるようになったと思ったそうだ。しばらくして、それが英語だったことに気がつき、息子を捜したらしかった。
彼女の娘は小学校一年生。日本の学校に通わせるようになって彼女はいやがおうでも、学校やPTAにかかわらなければならない。しかし日本の習慣に不馴れで言葉も不自由とあって、フラストレーションを感じることが多かった。 一方、私の方はすっかりアメリカの学校で教育を受けた2人の子どもを初めて、日本の学校へ通わせることになり、親子ともども、面喰らうことばかりという日々を送っていた。 お互いに共通している点は、他の人達にとって当たり前のことが、そうではなく、理解してもらえないことが多々あるということであり、また二つの文化や言葉を通して子どもたちを育てていきたいと願っていることだった。 Gと私はお互いが協力して、お互いの子どもを教育ことを始めた。週に一度、Gの娘に私が、私の息子たちにGがかかわった。いわば交換ホームスクールである。私は図書館から絵本をたくさん借りてきて、読み聞かせをしたり、いっしょに読んだリし、Gは男の子たちが喜びそうなゲームを見つけてきてはいっしょに遊んでくれたり、いろいろな話題を持ってきて、二人と話しをしてくれた。私には娘がおらず、Gには息子がいなかったので、お互いの子ども達とのかかわりは新鮮だった。 その後、私たちは少し離れた町へ移り、翌年Gたちはアメリカへ転勤となり、この交換ホームスクールは2年間だけだったが、振り返ってみれば、楽しい思いでがいくつもある。お陰で我が家の二人の子どもたちは逆カルチャーショックや疎外感にそれほど振り回されることなく、日本の生活に戻ることができたように思う。 それにしても、出会いは不思議だ。そこにはいつもとても偶然とは言いきれないものがある。
今日はヨガの日、忙しかった週の前半だったから、この静かなひとときはうれしい。シャバッサナ(死体のポーズでの脱力)では、いとも簡単に深い眠りに落ちてしまった。 ヨガの後、先生のお宅の庭の桜の下でお花見をする。 桜吹雪きの舞う中での楽しい語らいの時だった。
大学の入学式、息子といっしょに出かけはしたものの、彼はすでにオリエンテーションで意気投合したという仲間5人と待ち合わせをすることになっているらしい。「お母さん、混ぜてなんていわないでよ。」と釘をさされる。混ざろうとは思わないけれど、ドイツ人やらフィリピン人やらシンガポールで生まれて育った日本人やら、何ともおもしろそうな連中を見てみたいと思っていたのに、、、。
新入生2500人、父母も同数だとして、5000人からの人間がホールにぎっしりと詰まっている。息子も側におらず、知った人がいるはずもなく、ひとり端の空いた席を見つけて座る。ステージではすでに、管弦楽部による演奏が始まっていた。やわらかでのびやかな音だ。
やがて白いローブを着たカトリック指導部長がステージに現れ、祝福の祈りをし、在学の男子生徒によって聖書の朗読がなされた。
マタイによる福音書13章3節から9節と19節から23節。 「、、、、、ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは60倍、あるものは30倍にもなった。耳のあるものは聞きなさい。、、、、」
若いまっすぐな声が2000年前のイエスが語った言葉を伝える。 5000人もの中で、そしておそらく初めてイエスの言葉に触れる人が大半だと思われる人の中で、聖書の一節が読まれることにおののきを覚えた。
再び指導部長が登場し、この聖書の言葉がおひとりひとりにどのような意味を持っているか、しばらくの間黙想して下さいという呼びかけがあり、その間学生の聖歌隊により、アッシジのフランチェスコの祈りの言葉が歌われていた。会場がひとつに統べられていくのが感じられた。知らない人の中で居場所の定まらなかった私だったが、その時その場がむかしから馴染んできた私の世界に変わった。
外国人の学長は式辞の中で、交流のあった安部公房の言葉の「存在の故郷」ということを主題に話をした。 「誰もが存在の故郷を見つけなければなりません。そこでこそ、その人がその人らしく生きることができる。そして今日はそれぞれが自分の存在のふるさとを捜す旅へ出る旅立ちの日です。」
その言葉を私はこれから学び始める学生となって聞いていたような気がする。言葉が消えていかないように、プログラムの端に走り書きをしながら、自分の時のことを思い出していた。入学式がどういうものだったかは少しも覚えていないが、その時の気分は妙にはっきりと覚えている。しらじらとした気持ちだった。思わず泣いてしまった。親元を離れたい、生まれた町を出たいばかりに中央の大学を志望していた。そのために受験戦争に加わり無意味だと思いながら砂を噛むような勉強もした。その結果は惨敗。結局、親の望みどうり地元の国立大学へ進むことになった。
入学式の日は夢が無惨に破れたことを改めて知らされた。親や土地に縛られる大学生活がただただ無念に思われた。そんな失意のスタートだったが、しかし、私はそこでいくつかのかけがえのない出会いをすることとなる。聖書の学び、人生の伴侶との出会い、教育学、音楽、そして斉藤喜博氏の教育理念の上に立つ教授学の会・・・今も続いている友人たちとの出会いもある。知らず知らずの内に私は自分の「存在の故郷」を訪ね歩き、そしてその入り口を見い出したのだった。
式が終わり、出口近くで息子に会うと、彼の新しい友人たちを紹介してくれた. "Nice to meet you! " ひとりひとりと握手をかわす。 どうぞ、彼等が自らの存在のふるさとを見つけることができますように、彼等の学生生活の上にあなたの祝福を祈ります。
誕生日に新しいノートの表紙に大きく自分の新しくなった歳の数を書き、日記を付けてきた。一冊では足りなかった年もあれば、ここ数年のように一冊のノートを改めないまま、思い出したようにぽつぽつ書いていたりとさまざまである。熱しやすく冷めやすい質である。いったん気持ちが離れると、もう惰性でもやりたくはない。こんな人間が毎日のきまりごとをこつこつつづけることなど無理なのに、それでも誕生日がくる度に書き始めようとするのだった。 今日は私の45回めの誕生日。タイムリーなことに、ここに日記を書くことが始まった。私にとって新しい試みである。書くということの質が、日記の性質がちがってくる。閉じられた所へ向かいながら、同時に開いているという感覚。
25歳で結婚し、翌年子どもが生まれてからは私は子どもの年齢とともに、自分自身を生き直してきたように思う。赤ん坊の私、幼児の頃の私、小学校、中学校、高校生と子ども達の今の時間に私のその時の時間や気分を重ねていく。意識的にそうするわけではないのだけれど子どもたちの今からくる刺激が大きいのだ、きっと。そして明日の大学の入学式を私は大学生としての私の生き直しのスタートにしようと、密かに思っている。わたしが過ごしたその時を振り返りながら、そこに新しい意味を見つけていく、あるいはそこでやり残したことをやっていけるかも知れない。おもしろい時になりそうだ。
朝、家族からプレゼントをもらった。下の息子からはブルーデージーの鉢植えとロベリアと小さな黄色い花の苗。上の息子からはマザーパールという貝がはめこまれているネックレスと、ビョークの初期のCDアルバム。夫からはバックとケルト音楽のCD。3人がそれぞれに私の喜びそうなものを捜し出してくれたことがしみじみとうれしい。
原種のチューリップが開いた。 エレガントレデイーという名にふさわしい、淡いピンクの小さい花だ。 葉の方が大きくたくましい。ちょうど人が万歳をした時の、両腕に埋まった顔という具合で、その格好はなんとも一生懸命で健気なこと。 花の外からは分からないが、花弁の中をのぞくと、花の内側の根元のところは、かなり鮮やかな黄色をしている。花弁の中央にくっきりした2本の線がダーツのようになっているのも特徴的だ。 それにしても、原種に近い植物のこういう本来の形を見てみると、花屋で売られている花や、改良された苗や球根が人間の好みに合わせられてきていることに気づかされる。洗練されていて美しいが、どこか自然から切り離されているような命の薄さのようなものを感じることがある。そういえば、時々、すれ違う子どもたちや若者の姿に同じことを感じる。でもどうなのだろうか、時代はすでにかっこわるいもの、ダサイといわれるもの、洗練されていないものを根っこのところでは求めているような気がしてしかたない。私たちが知らず知らずのうちに奪われてきた「強い命」を誰もが欲しがっているように感じるのは私ひとりの幻想だろうか。
4月2日、新しい年度の始まりだ。 今日から教えはじめる小学5年生が3人、夕方ここへやってくる。いいスタートにしたい。どこかの英会話スクールのキャッチじゃないけれど、英語の言葉の「体温」を伝えたい。新しい言葉へ通じる通路を開いていきたい。いったん道が開いたら、自分で進んでいけるのだから。 長男Hも今日から大学のオリエンテーションが始まる。興奮しながら出会った人々の話をするHが目に浮かんでおかしい。それにしても我が息子、自分の強すぎる命が新しい場所で居場所を見つけれれるかどうか心配もしているようだ。波風も立つのだろう。
メイ・サートンの「独り居の日記」(みすず書房)を読む。 そこから立ち上ってくる、部屋のにおい、庭のたたずまい、何より彼女の深い孤独に慰められる。私が自分の内に培いたいと思っている強靱な孤独。彼女の自然への想い、とりわけ花々へのそれに共感する。 彼女は私たちの魂を自然から、あるいは純粋な思索から引き離す日常の雑務のなかで、庭つくりをこのように見ている。 『..............そこへいくと庭つくりはまったく趣きが違う。広く”聖なるもの”ー成長と生誕と死ーに向かって開かれているからだ。花々の一つ一つがその短い生命のサイクルのうちにすべての神秘を包んでいる。庭のなかではわれわれはけっして死から、あの肥沃で、すこやかで創造的な死から、遠いところにいない。』
庭を死と結び付けて考えたことはなかったが、どこかでそれを感じていたような気持にもなる。植物とのかかわりから”聖なるもの”へと解放されていくことは、私に新しく開いた通路であった。この開いた通路からいくつものことがさらに開いていった。
テーブルの上の青い陶器の植木鉢に10cmほどのチューリップの原種が育っていて、 今日1日の間に緑色のつややかな葉の中からそっくり蕾みを持ち上げた。原種らしい野性味と力強さを秘めている。明日には開くのだろう。そこから流れ出てくるエネルギーに会える。
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