I create you to control me
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2006年11月18日(土) |
分かりやすいことが諸悪の根源か? |
彦根で「地域で子育てを考えよう」という主旨での講演会&パネルディスカッション。企画者は彦根の青年会議所の皆様。不登校の親の会などのNPOや、彦根市で虐待対策にたずさわってこられた方など、多様なメンバーが集まっての議論となった。どういうわけか僕は基調講演とパネラーをつとめさせていただいた。
焦点となったのは「連携」。連携は、個人的に最近考えているテーマでもあるから、自論(とはいえ、いろいろな人のパクリではあるのだが)を展開させていただいた。が、さて、どうだっただろうか。。。
少しは参考にしていただける話だったらよいのだが、、。
ディスカッションでも少し感じたことだが、この手の議論をするとき、誰にもすぐに意味がわかってしまい、わかってしまうがゆえに人々に誤解をうみだし、議論を紛糾させる言葉がある(別に、今日の議論が紛糾したわけじゃないが)。
「原因」「問題」「地域」etc etcたくさんある。例えば、原因。心理学者は不登校にこれという原因はない」といい、家族は「原因がないならどうしてこうなるのか」という。地域だってそう。パネラーのお一人がおっしゃっていたことだが、みんな心に自分たちの「地域」をもっている。そして、その「地域」を自明視して、ある人は「地域を復興せよ」といい、ある人は「地域の力」を使おうという。これらの人が育ったのが東京のど真ん中と滋賀県でも、この手の議論はなりたってしまう。そりゃそうだ。両方ともごもっとも。おそらく、諸悪の根源は、両方とも「原因」「地域」などといえてしまうところだ。いっそのことわからない言葉だったら、みんな注意して話をするのかな。
2006年11月17日(金) |
心理学者が問いかける「非暴力で世界に関わる方法」 |
◆◇◆◇日本パーソナリティ心理学会主催 サイエンスカフェ 「心理学者が問いかける「非暴力で世界に関わる方法」」◆◇◆◇
サイエンス・カフェとは、大学内ではなく、街中のカフェなどを利用して、研究者と一般市民の方々が対等な立場で対話をする試みです. 本企画では、学会誌や書籍・大会での研究発表や大学での講義とは違い、一般市民の方々との直接対話から、心理学研究の新たな可能性を模索することを目的としています。 企画内容は茨城大学の伊藤哲司先生をお招きし話題提供を行っていただき,その後参加者の皆様との対話を中心にすすめていきたいと思います.話題提供者はこれまで、「ベトナム不思議な魅力の人々―アジアの心理学者 アジアの人々と出会い語らう」や「非暴力で世界に関わる方法」など、心理学の立場および現場との深いかかわりで得た経験から、文化を超えた対話の可能性を模索してきました。今回は、対話の実践の場として、サイエンス・カフェという形式で、新たな展開を試みます。
◆日時:12月3日17時〜19時 ◆場所:サロンド・冨山房 http://www.fuzambo-intl.com/folio.html アクセス方法は、こちらhttp://folio.fc2web.com/map.jpg ◆テーマ:「心理学者が問いかける「非暴力で世界に関わる方法」」 ◆ゲスト:伊藤哲司(茨城大学人文学部) ◆参加方法:どなたでも参加できます(一般の方歓迎)。参加費として1000円(1ドリンクつき)を申し受けます。 また、参加人数に限りがありますので、事前申込みが必要です。11月24日までに、下記の申込み先までメールにて、表題を、「サイエンスカフェ申込」とした上で、本文にて,お名前、区分(一般・パーソナリティ心理学会会員・円卓のメンバー)をお知らせください。お申込み多数の場合は、各区分ごとに先着順とさせていただき、メールにてご連絡させていただきます。) なお、事前に、話題となる本(伊藤哲司著「心理学者が問いかける「非暴力で世界に関わる方法」」・北大路書房・735円)をお読みの上ご来場いただけると幸いです。
◆申込み先・連絡先 荒川歩 arakawaa@fc.ritsumei.ac.jp(メールが使用できない場合は、FAX(052-789-5931)でも受け付けます。参加の可否をお知らせしますので、氏名とFAX番号を明記してお送りください。)
◆主催 日本パーソナリティ心理学会 経常的研究交流委員会
◆共催 円卓研究会
2006年11月08日(水) |
理解は語られるのではなく、示される |
私たちは普段から当たり前にいろんなことをわかっていて、それは決して、意識したり、語られたりしているわけではない。もちろん、意識したり語ったりする場合もある。でも、それは特殊な一例と考えた方がよい。
例えば、母親に喜んでもらおうと思って花をいけようとしたところ、逆に母親が大事にしていた花瓶を割ってしまった子どもを思い浮かべてみよう。涙をうかべて複雑な顔をしている子どもに「あなたの気持ちを理解したわよ」と伝えなくても、母親は、ただニコッと微笑むだけでよいかもしれない。それで母親の理解は、子どもに示されるかもしれない。
反対に、「口にだして言わなくてもわかるだろう」とタカをくくっているうちに、恋人に愛想をつかされる男性というのも聞いたことがある。この場合は、愛情は言葉にしないと伝わらないものだったということになる。いくら「あなたは大事だよ」「あなたのこと愛してるのよ」といわれ続けても、そのたびごとに寂しさを増し、居場所がなくなっていく関係があるというのも同様である。
要は、なにが「理解を示す」ことになるのかは文脈のなかで決まる。というわけで例えば、子どもの問題への「理解」に求められるのは、他者に「理解した」と認めてもらえるような何らかの行動様式であるともいえる。子どもの問題がなんなのかを頭でわかることでは必ずしもない。暖かい心とか、深い愛情とか、あまり関係がない。わけがわかってなくても、とりあえずできればいいという場合も、ある。
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