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2006年10月22日(日) 土日の研究会

土曜日は東京は武蔵小金井にある某大学で研究会。少数メンバーで、共通するテーマについて継続しつつ、それぞれの発表者がとりくんでいる固有のテーマの問題とからめてつっこんだ議論ができるので、いつも勉強になる。

あけて日曜日。今度は京都に移動し、京大会館にてバフチン・シンポ。バフチンと心理学なんてマニアックな企てにそんなに人が来るのかいなと思っていたが、 100名とまではいかないまでもけっこうたくさんの人々にご来場いただけたようだ。自分が院生の頃、バフチンなんて知っている人がどれくらいいただろうと考えると隔世の感がある。

バフチンという人の思想は、いろんなところに適用可能できそうな、多義的な読みを許容する魅力を持っている。それがよい面もあれば、過去の私への反省もこめて、安易につかわれやすいという気もする。例えば「社会的言語」「発話の宛名性」など、バフチンの言葉を表面的に理解して、説明概念として用いるようなことがそれだ。もう少し、丁寧に原典にあたりつつ、導入すべき概念なのかもしれない。

私は、今、関わっているフィールドワーク的実践研究に、後期バフチンのアイデアと交えてお話する。教育心理学会で一度話したとはいえ、ただ現象レベルをまとめたにすぎなかったものだから、ちょっと分析らしきものをしながら皆の前で話すのが今回はじめて。

それだけに、と、言い訳めくが、まだまだ言葉が自分の中でこなれていない。考えていることはたくさんあるつもりなのだが、口に出そうとするとうまくでてこない。聴衆のみなさまには、お聞き苦しいものになったと反省。

とはいえ、つたない発表にもかかわらず、シンポジストであった茂呂先生や當眞先生をはじめ、いろいろな方からインフォーマルに有益なコメントをいただけたので、これからリバイズしていくためのよいきっかけになった。

・・・と、その前に、まずは日心ですね。



2006年10月15日(日) 日本心理学会第70回大会におけるWSのご案内

来る11月3−5日に福岡でひらかれる日本心理学会において、以下のようなワークショップをおこないます。

私はこれまですすめてきた教育相談体制の構築について話す予定です。保坂さんからは小中連携にかかわって、第三世代活動理論のEngestromらが提唱している発達的ワークリサーチについて、秋葉先生からは演劇的手法を用いた現場での問題解決について、それぞれご発表いただける予定です。

ご興味のある方はどうぞー。

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◇協働関係をいかにデザインするか:あなたの問題、わたしの問題、それが問題

11月4日 15:30-17:30( 504+505会議室)

企画者・話題提供者 松嶋秀明(滋賀県立大学)
司会者・話題提供者 保坂裕子(兵庫県立大学)
    話題提供者 秋葉昌樹(龍谷大学)
    指定討論者 無藤 隆(白梅学園大学)
    指定討論者 川野健治(国立精神・神経センター)

非行、不登校をはじめ、学校場面ではさまざまな問題がある。この問題は、従来、心理教育の推進に代表されるように、主に子どもにどう働きかけるかという視点から論じられてきた。この視点が重要なのはいうまでもないが、他方で、「問題」とは生徒や教員をはじめとした大人がそれにどう対処するのかという意味で、大人の問題でもある。例えば、逸脱生徒を主に担当する教員と、周囲の教員との間にある深刻さのズレ、同一生徒について異なる見方が並列することは、ときに教員間に深刻な葛藤をうむ。学校内に協働性をいかに構築することができるのか、そのためにどのような理論枠組み、実践が必要なのかを考えていく必要があるだろう。そこで今回は、学校において子どものものとされる「問題」に関わってきた研究者の発表をもとに、大人の問題としての子ども問題について議論を深めていければ幸いである。
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2006年10月11日(水) Educational researcherの最新号に

マクダーモットが筆頭著者になる論文が掲載されてた。「学習障害」を文化的実践としての観点から分析したもの。マクダーモットはもうかれこれ30年もの間、LDが社会的に、人々の関わりのなかで構成されるという主張をおこなっている。根性である。

「学習障害」というのは大脳生理学や神経心理学によって説明されるものともいえるが、マクダーモットはこのような見方をあえてとらない。そのかわり、私たちはどういうわけで、LDを脳の障害(あるいは、社会階層の=アメリカではLDが低所得者層や移民層に多いことがわかっているらしい)問題としてうけとってしまうのかを丁寧に記述しようとする。

ERでは、最近の学校での参与観察を通じて、"at risk"とみられる3人の少年の授業でのふるまいを分析している。この少年たちは、「学習障害」が疑われる生徒であり、同時に、移民か黒人という「マイノリティ」の子どもである。彼らは、最終的には、困ったことをするやつらであり、成績も悪い。しかし、結果的にそうなる前に、彼らがなにをしていたのかを知る人は少ない。マクダーモットらはビデオを丹念に見返し、少年らが教師にみえないところでリーダーシップを発揮し、優れたアイデアをだしていることを発見する。そして、にもかかわらず、教師の目にとまる場面では、彼らの頑張りの成果は、仲間の優等生の発言によって全部「オイシイとこどり」されてしまうことも同時に発見している。現場の教師たちは、マクダーモットのこの説明を聞き、ビデオをみることによって、彼らの成績を見直したそうだ。

我が国の状況論者のなかには、マクダーモットらの分析が、実践者にはどう受け取られるのか、ケンカを売ることになってしまわないかと懸念されている人もいるようだ。僕は、自分を実践に関わるものと呼ぶにはかなり無理があることを自覚しているが、基本的にマクダーモットの視点はとても重要な視点だと思っている。従来の臨床心理学の論文は、問題の存在によって問題を説明するところがあるけれど、本当は問題について論じる際、問題の存在を前提にしてはいけないはずだから。


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