I create you to control me
DiaryINDEXpastwill


2006年09月30日(土) WSの報告

先日この日記でお知らせしたが、荒川さんと松本さんが企画してくださったWS「私のフィールドワーク:転がり続ける渦中からのながめ」に出席。

昔から学外で知りあいであったお2人が、いまや名大のメンバーとなっている。そして、かつて名大メンバーであった僕が、学外者となっていて招かれるというのは、なんだか不思議な感覚である。

大倉さん、松本さん、そして僕の若手3人が、これまでの自分がおこなってきたフィールドワークの歴史について語り、それをもとにして会場の問題意識を共有しながら議論するというかたちでWSは進行した。はじめは、こんな長丁場、しかもこんなマニアックな話題についてきてくれる人等いるのだろうかと思ったものだが、以外と多くの人が足をはこんでくださったし、いずれもが重要な問題意識をおもちだったことが印象に残った。

フィールドにおける距離のとり方についての問題意識は多かった。フィールドで誰が、どのように自分に接触してくるのか、その結果として自分は何ものとして扱われるのかといったことは、フィールドに入る際の苦労というだけではなくて、そのフィールドについて私たちが知るための重要な手がかりを示してくれると思う。

自分にとって都合が悪い立場なのか、よい立場なのかというのは確かにあるけれど、都合のよい立場だったらそれでOKということにはならない。順調にデータをとれてしまう関係性というのも、それはそれで問題なのだ。

まあ、そんなことはとにかく、昔からお互いに存在を知ってはいたけど、同じ場で議論したことのない大倉さんらと十分に話せたのは、自分にとってはとても楽しい時間であった。6時間という長丁場、とにかく長く議論したいという松本さんにひきづられてWSに参加したけれど、やってみると意外に時間ははやくすぎた。また、いつか、こんな会をひらいてみてもよいかもしれないですね。


2006年09月20日(水) 研究会『多声のナラティヴと対話‐バフチンと心理学』のお知らせ

10月22日に以下の研究会を京都にて開催します。ドストエフスキーの小説をモチーフにして「多声性」「対話主義」など、近年のナラティブ論を考えるうえではなくてはならない概念を提供しているのがバフチンです。ナラティブや質的研究法にご興味のある方はぜひともご参加ください。僕は先日の「教育心理学会」での発表をベースにして話題提供するつもりです。

==============================
多声のナラティヴと対話 −バフチンと心理学研究会−
   
●日時:2006年10月22日(日)13時-18時
●場所:京大会館 101号室
    〒606-8305 京都市左京区吉田河原町15-9 TEL:075−751-8311
     交通案内・マップhttp://kyodaikaikan.jp/access.html

 ナラティヴ論の源流のひとつであるミハイル・バフチンの理論をとりあげ、
心理学の具体的な研究と多声的な対話をこころみます。バフチンのテクストは、
さまざまに自由な読みを可能にします。じっくりと時間をかけてバフチンと
つきあってきた研究者たちと、バフチンを巡って多声的に響きあう情熱的な
対話のコラボレーションを楽しみませんか。熟成の声も、即興の声も交差して、
幾重もひろがる語りの輪の中に、あなたも入ってみませんか。
予約はいりません。どなたでも自由に直接会場にお越しください。
 なお「質的心理学研究」の第7号特集は「バフチンの対話理論と質的研究」です。
(茂呂雄二・やまだようこ 責任編集、投稿締め切り:2007年3月末)。
詳しくは、質的心理学会HPをご覧ください。
http://genyo.kinjo-u.ac.jp/~quality/

<プログラム>
司会:やまだようこ(京都大学大学院教育学研究科)
 ◆13時−14時30分
  『生徒を抱える多声的空間としての「学校」 −対話を開始させるズレの可視化』
    松嶋秀明(滋賀県立大学)
  『境界横断と対話の時空間 −文化を越境する教師の語り分析をもとに』
    保坂裕子(兵庫県立大学) 
 ◆15時−16時30分
   『力と言説 −バフチンの対話論と共同行為のミクロな発達』
    茂呂雄二(筑波大学)
   『Unfinalizability −語りつくせなさの開くもの』
    當眞千賀子(茨城大学) 

 ◆17時−18時
   総合討論:『多声のナラティヴと対話 −バフチンと心理学を巡って』
  
 企画:やまだようこ(京都大学大学院教育学研究科)
 主催:科研費プロジェクト
    「フィールドの語りをとらえる質的心理学の研究法と教育法」
      http://www.k2.dion.ne.jp/~kokoro/quality/
 問い合わせ:京都大学教育学研究科 発達教育実習室
        develop@www.educ.kyoto-u.ac.jp
 共催:日本質的心理学会、21COE京都大学心理学連合


==============================


2006年09月19日(火) 教育心理学会では

教育心理学会では、K君企画のシンポにでました。当日は残り時間もなかったし、すでに立派なコメンターがおっしゃったことと同じことのように思えたので(などと理由をつけつつ)黙ってたんだけど、そのままにしておくのももったいないので書いておきます。

全体としてはフィールドワーク研究って何の役にたつのか、とりわけ、学校現場でのそれってどうなのかということをめぐって議論されたのだと思います。学校のなかにフィールドワーカーが入ると、現場にある、互いに相容れない二つの見方があることが見えてくるように思います。今回のシンポでは3人の発表者ともにその見方のあいだにある対立を、どう埋めるかという作業にとりくんでらっしゃるように見えました。

KMさんは教室で友だち関係がうまくつくれず、大人であるフィールドワーカーにべったりと依存してくる子どものことについて話されました。そのなかで子どもへの個的な関わりと、集団的な関わりとの対立に直面し、それをどう埋めようかと苦心した結果、教師が実践している「標語」がもつ深い意義についてあらためて理解することとなり、教師のこれまでの努力を承認することで、その対立をうめようとされていたのかなと思いました。

KYさんは、子どもに上手く教えるべきだという専門家集団がもつ規範と、しかし、それはできないという個人的なあり方とのはざまで「個人的失敗」とでも言えるような葛藤を経験していたようにみえました。この失敗の感覚を、フィールドワークというものが(ある程度、実践家が直面している切迫性から距離をおくものであり、それだからこその価値があるといったような)価値をもつことを再確認することでうめようとしておられたのかな、と。

Hさんは、ある社会的な困難に直面している場におもむき、その子のできることしかできないから、それにつきあうしかないという見方と、それでも力を伸ばしてあげなければならないのではないかという見方との間のギャップに引き裂かれつつ、その両者の関係を自分自身がもっとよく理解しようとすることで解消しようとされているようにみえました。

いずれにしても、こういう3人の抱える相容れない対立にまきこまれている感じというのは、学校という場がもともと、自然にまかせていてはできないことをやろうとして人々が作って来た制度だからかもしれないなと思います。そのような場にあってフィールドワーカーの貢献とは、直接的な知見としての貢献というよりも、自身が体験する葛藤を、自らのなかで統合していくことにより、対立に巻込まれつつも、ゆるがないような、そういう自らの新しいあり方を身につけることなんじゃないかと、そのように常々思っています(拙著にも書きましたが)。

とりわけ論文を書くことは、その「あり方」をあらわしていくうえで、とても重要な方法なんじゃないかと思っています。論文を執筆していると、これまでフィールド内にあって、外側から観察する対象であった「相容れない対立」は、今度はフィールドワーカーと、想定される読み手との関係にひきうつされてきます。いわば相容れない対立の当事者となる。そういうフェーズが研究にはあると思います。

ここで「相容れない対立」をあわてて解消しようとして、書くことを止めてしまったり、新たに現場の当事者になってしまったりするのはよくないなーと思います。現場の人は、なんらかのかたちで自ら協力したものが形になることを望んでいると思いますし、と同時に、研究者に現場の人になってもらおうとも思っていないわけですから、、。書き手は、読み手にわかってもらうように自らの経験を意味づけなおす必要に迫られ、相手に伝わる表現をみつけることに迫られる。そういうなかで「あり方」ができてくるんじゃないかなと思うのです。

そういう意味で、フィールドワーカーがどう役にたつのかということを考えるとき、フィールドワーカーの経験は、それをいかに書くかということと切り離しては論じられない。書くという行為と、フィールドワークの経験、そして自分の認識の深まりとの関係についても考えていけるといいのかなーと、いまはそんなことを思っています。

9月30日に名古屋で話すことのヒントをもらえたようにも思えました。企画してくださったK君、登壇されたみなさん、ありがとうございました。


INDEXpastwill
hideaki

My追加