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2005年01月31日(月) 黒板の時間、パワーポイントの時間

今日は朝からバタバタ。友人を米原まで送り届けてから学校へ。
午後から学生相談室。

お客さんのいない間に卒論に目を通したり、授業の感想に返事を書いたり。
授業の感想に返事を書くのは、私との関係がそれなりに深まるのはいいが、授業内容の理解に反映されているかどうかは少し疑問。もうちょっと、全体にむけてのフィードバックもやらなければいかんかな。

青山学院の鈴木センセのblogを見ていたら、パワーポイントについて論じられていた。そのなかである哲学者の論を引用されているのだがこれが面白い。鈴木センセも僕と同じようにパワーポイントで授業しているらしい。みんなパワーポイントで講義しようとすると、同じような悩みにぶつかるのだろうか・・・。

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彼によると、黒板は横長になっており、これに左から書いていくことで、流れが生じるという。歴史はもちろん論理の展開などは時間軸に沿ったものであり、こうした講義を行う限り、黒板のような、流れを可視化できるメディアは大変に有効である。OHPやPPのようなものは、こうした連続性、時間性をぶった切ってしまうという意味で、好ましくない。
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なるほど。これは以前、松島さんがパワーポイントっていうのは忘却を生み出す装置なんだとおっしゃっていたのと近いものがある。ということは、パワーポイントの画面上で履歴がたどれるようなものがあるとよいのかな。

僕は一度これを試みたことがある。1ページ目で症例を提示し、その次のページでこの症例はどのように考えるられるのかという解説をしたのだが、その際、2ページ目の背景を半透明の白にして、1ページ目の症例がうーっすらと見えるようなデザインにしたのだ。これで、受講生は1ページ目の記述をなんとなく想起しながら解説がきけるということを狙ったのだ。・・・・が、これは単に見にくいだけだった(ーー;)。
・・・・のでそれ以降は使っていない。

結局、配付資料を配りつつ、画面を提示するのが一番よいのかな、、、。


2005年01月30日(日) 現場と大学のあいだ

現場で臨床している人のブログなどみつけて読んでみる。
先輩にも、後輩にもたくさん現場でやっている人がいるけど、やっぱり現場でやっている人は大変ですな。

僕のように大学に就職しちゃう人は、まわりからどんだけ臨床心理やっている人とみられようと、自分のなかではかなり現場の人に遅れをとっている感じがする。

なんせみるケースの数が違う。別に数をこなしゃあいいというものではないが、やはり絶対的な数の違いは、質にも影響を与えるだろうと思う。よくわからないけど、政治学者と政治家、経営学者と経営者、料理研究家と料理人(それは同じか?)と同じくらい違うのではないだろうか。

いちおう、大学にいて研究なんかすると、現場に役立つ知識をうみだしてるんだぜということになっているが、果たして本当にそうなのかどうか。
たぶん、テストの解釈の仕方がどうのこうのとか、○○という事例、症例はこれこれであることが多いとか、そういう研究だったら現場の人には勝てないだろう。そういうのは現場の人の方がデータも経験も多いに決まっている(むろん、現場の人はそんなことやってる暇はないので、大学にいる人もやれちゃったりするけれども)。

なんか、そういうのではなく、現場にいる人が、あるいは現場にはいっていこうとする人が、元気になれるような見方や考え方を提供できるのが、ちょっと現場からはなれた位置にいる僕らにできることだろうかね。


2005年01月29日(土) 美容師と客

どうやら、こんなローカルな日記(とりわけ最近の)によって悪影響を受けている方がおられることが判明。いやはや、すんませんです。

別にしんどいところに追い討ちかけるつもりは全くありませんです。ま、僕がいくら「その意志はなかった」いっても意味ないんだけど、誤解ですからお気になさらないでね。

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卒論生の某君は、美容師と客との散髪中の会話について会話分析的な研究をおこなった。有斐閣の『実践エスノメソドロジー』に、樫田先生の、これも卒論生がやったという研究がのっているが、これが参考になったようである。

客というのは、「求めるサービスを受けに来た人」として考えると、けっこう不自由な存在だ。なぜなら「こうなりたい」という髪型をイメージしているのにも関わらず、「お客さまには似合いません」なんてことになることが多いではないか。しかも、これは日常会話で「お前には似合わない」などといわれたら、ただの失礼な人だが、美容師からそう言われたとなると、専門的見地からみた客観的な評価なのだと納得せざるをえない。

せっかくのニーズが実現できなくても、客は少しでも満足できる髪型にして帰りたいと考える。一方、美容師は、自分がいかに知識と技術をもっており、客にあわせた最高のサービスを提供しようとしているのかということをアカウントしようとする。この両者のせめぎあいがなかなか面白い。

客は美容師の専門的なアドバイスをほとんど聞き入れようとしない。かといって反論もしない。「あ、そうすか」「じゃ、やってください」というふうに聞き流すのである。ゴフマンのパッシングの戦術とでもいうのだろうか。そうしておいて、次に客がとるのは、徹底的に「見た目にこだわって注文をつける」という戦術である。見た目は、美容師にとっても客にとっても平等にコメントする権利がある。見た目の世界には「専門的な知識」は通用しない。

ここには専門性とは何か?専門家にとって知識は必要なのか?とか、ニーズとは何かとか、専門家の言葉がしろうとに受け入れられるのはどのようにしてか?とか、そういうセラピーやら教育やらに関連しそうなテーマにつながっている。誰かまた続きやらないかな。


2005年01月28日(金) 草薙君のことか?

愛車マーチ君を不慮の事故でへこまされたので、今日からマーチ君は1週間入院。かわりに工場から代車を用意してもらう。同じく日産のキューブ。

おお、なんてかっこいいんだ。まだ1万キロくらいしか走っていないだけにすごいピカピカである。加速もいいし、エンジン音も小さいし。もう、すごい快適。1週間たってすっかりキューブ君のとりこになっていたらどうしょう。

さて、某MLでは、長崎県でおこなわれた「死んだ人は生き返ると思うか?に15%」の記事が話題になっている。

ニュースの報道では、15%もいるということに注目があたっているわけだが、長崎県のサイトにいけば実際におこなわれた調査の全容がわかるようになっていると教えてもらった。

これをみると、実は、死んだ人は生き返ると答えているのは中学生がもっとも多い。小学3年生が14%、6年生は13%、そして中2は18%である。1000人規模でやっているので、単純に比較すると中学にはいって40人くらいが、新たに「死んでも生き返る」と思うようになったことになる。これはどういうことか。

僕は、調査者側が意図したような、「死んだ人は生き返らないのだ=命は一回限りの貴重なものだ」という道徳的知識の有無ではなく、別の文脈でこの質問に答えている人がけっこういるということではないかと思う。

つまり、「小さい頃からの動物を殺して遊んだりといった経験がなく、いのちについて身近に考える経験がない」とか「ゲームによってバーチャルな世界と現実世界の区別がつかなくなり、人は死んでもリセットできると思っている」というように、世間でまことしやかに語られる、現代の子どもの生活経験や知識の不足が反映された結果にはよみにくい。単純な知識の不足だったら、中2が小6より多いというのは考えにくいと思うからだ。

で、別の文脈というのは「小6の誰かが殺人事件をおこしたからって、大人もこんな調査をしやがって。まったく俺(私)たちに信用がない!!」とゲンナリしていい加減に解答したか(小6が少ないのは、その意味では教員のピリピリ度を反映しているのかも)、「死んだ人は生き返るということはありえるか?」というような現在の科学技術や、「魂」といった現代の科学がいまだ解き明かせていない(あるいは構造的に忘却している)ものへの態度を表明しているというようにも読める。

死んでしまったあの人はもう戻ってこないけど、でも、もし生き返ったらどんなにいいかしらとか、死んでも生き返るというような科学では説明のつかないようなことが、しかし現実にはおこりえるのだという、人間の生命に対する畏怖を感じる方が、僕はよっぽどいのちについて考えていると思うがどうなんだろうか。

と、ここまでは無責任に書きつつ、この手の調査(への批判)について私はアンビバレントである。僕も小中高生を対象にして、規範意識について滋賀県がおこなった調査のお手伝いをしている。そこでの結果は、まあ妥当なものだったと自分では思っているが、まかり間違えば今回のように批判の矢面に立たされるということもありえるからだ。

僕らからすれば15%も「人は死んでも生き返る」と思っているというよりも、85%もの人が生き返らないと思っていることの方をとりあげるほうが妥当だと思うのだが、おそらく調査主体は、学校の先生を中心にして組織されたメンバーであり、そういう1人の実践者の立場にたったとすれば「1人でも危険信号をだしている生徒がいては困る」わけで、上記の数字は限り無く0に近くならなければ気がすまないだろう。このような徴候的不安は際限がない。

また、調査結果をだすためにかなりの努力を調査者の人はしたであろうし、地元の学校の先生にも多大なる迷惑をかけて調査を実施してもらったはずである。そのような結果として、85%は「死んだ人は生き返る」とは思っていませんというものをかえすよりも、現場の先生にとっての脅威である「突然に考えられないような事件をおこしてしまう一部の子ども」をなんとかするための知識を提供したいと思い、過剰な解釈をしてしまったとしてもなんとなく理解できる。

理解できるが、そのような不安を軽減するような結果は、質問紙で、それも「はい/いいえ」のような調査で明らかにできるものではないんじゃないかしら。どうせ心配するなら、長崎県もやってますというポーズをつけただけのような質問紙調査やらないで、もっと実効性のある学校支援をやればいいのだ。


2005年01月27日(木) 潜在的なニーズ

バタバタしどおしの日。最後に授業×1、その後、知人をひろって晩飯を一緒に食べてから帰宅。なんかかんか疲れたぞ。

しっかし、あれだね。今日イエローハットにいって驚いたんだけど、最近じゃ車のシガーソケットでノートパソの充電ができる充電器が売られているじゃないの。すごいねえ。あちこちノート抱えて営業してまわるサラリーマンには重宝なものかもしれないな。僕もパソコンもってあちこち喫茶店をまわっているから、こういうのがあるといいかもなーなんて思うけれどもね。

SFTの人たちは、よくクライエントのニーズをアセスメントするというようなことを言うが、この場合のニーズというのは、すでにこれとしてあるものというだけではないらしい。SFTの人たちがクライエントの分類をする時によく使う、カスタマー、コンプレイナント、ビジターという分類でいえば、すでに明確なニーズを持っている人はカスタマーだけで、その他はクライエントとセラピストのあいだでニーズをつくりだすものらしい。

ニーズというのは、だから、それそのものとしては「何に使うんだろう?」なんてものでも、ある場所におかれると「あ、これ、ここにこう置いたら便利かも!」ということになるような、文脈とモノとの関係性のなかでみいだされるものなんだね。今回のシガーソケットの充電器もそれではないかしら。発明者は多くの人たちの生活、仕事のスタイルをよく観察しており、彼らの潜在的ニーズを発見できる人なのだろう。

ああ、でもよく考えてみればニーズなんていうのは、むしろカスタマーの考えるニーズが特殊で、ほんとは実は「これ」と決まったものではないのかもしれないな。潜在的ニーズがあって、それが発掘されたというよりも、むしろ、なにかが出来てしまった時の「ああ、これこれ」という感覚から、人はおそらくそれ以前にあったであろうものとして「潜在的ニーズ」を仮定すると考えたほうが自然かもしれない。


2005年01月26日(水) 途中で「あ、オチがわかった」といわれちゃダメよね

朝から用事があって彦根にでて、喫茶店でお仕事。

昼から非常勤。
ちょっぴり風邪気味。こりゃいかんと風邪薬のんだら眠いのなんの。
寝そうになりながらオセロ。あぶないあぶない。

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だいたいにおいて、だした結果が「当たり前」とか「たかがこれだけ」などと言われる人は、そのデータが本人にとってすらつまらないということがない限り、最初にネタをばらしすぎてしまっているのである。

結果には驚きがなければならない。「フリックもいっている」と、能智大先生もいっている。でも、驚きがあるデータというのはあっても、実のところ、データが驚かせるわけではない。驚きは、問いとデータとのギャップにある。だから、よいデータにするにも悪いデータにするにも、結局は問い次第なのである。

で、驚かせるにはどうするか?。それには、結果にいくまで、問いのところでは、そーっとそーっと忍び足〜でいくことである。後ろから近付いて驚かせてやろうとする人の荒い息づかいが聞こえたら、いくらワーッといわれても驚かないでしょ?。最初から理論的に論破してしまって、もはや明らかなことをいくらデータにグラウンディッドにやられても、そういうのは面白くないのである。

うーーーん、なんか僕、このまえからちっとも論理的じゃないなあ。ちょっとは「反証不可能性なんだよね」などといってみたひ。


2005年01月25日(火)

ゼミの後、卒論生のお疲れ会をかねて、3回生、4回生メンバーで研究室で鍋。
6時にはじまって11時前まで。皆のあんなことやこんなこと、そして僕のあんなことやこんなことを話しあったのであるが、ちょっと差し障りのある内容なので公共の場で書けないのが残念である。

ただ、うちの学生たちは(よそもそうかもしれないけど)縦のつながりが薄いから、就職にしても勉強にしても情報がなかなか得られない。そういう意味で、これからも交流の場を設けていければいいなと思う。

しかし、卒論生はすっかりいい気になって「僕らは、今年はどれくらいまで準備しなくて卒論をかけるかという限界に挑戦してたんですよ」などという。

まあ、たしかに最後のスパートは褒めてあげるけれどもさ。まだ終わったわけじゃないのだよ。口頭諮問もあるし、発表会もあるんだから。最後までくいの残らないようにやってちょうだい。


2005年01月24日(月) メディアリテラシー

午前中はワークショップの後片づけやら、研究室の備品の整理やら。
午後からは学生相談。

いまさらながらであるが、朝日新聞とNHKの争いはすさまじいですね。
両方ともにメディアたるもの「真実」を述べているという建前があるから、「真実はひとつ」ということになり、周囲も「どちらが本当なんだ」ということになっている。おだやかではない。

メディアリテラシーの大切さを教えるためには、格好の材料になったのではないか。そういえばNHK教育では、子ども向けにメディアリテラシーの番組を作っていたのではなかったかしら。今回の事件なんかを扱って、

博士「ほーら、どちらも信用ならんのがわかるじゃろー」
子ども「ほんとだー」

*実際の番組はみてないので、こんな登場人物がいるかどうかは不明

なんていうオチをつけたらすごいけど、そんなことならないだろうな。きっと。

っていうか、メディアリテラシーっていう言葉が説得力をもつのは、「メディアというのは普通、基本的には正しいことを述べているという前提をもつために、我々はついつい報道内容を信じてしまうよね」っていう前提をもってきて、「実はそうでもなくて、けっこう気をつけなければいけないんですよ」ということになる。それが、今回のように「両方とも信用ならない」「みんな勝手なこといってる」ということになれば、そもそもメディアリテラシーにご登場いただかなくても、みんな報道内容には疑い深くなるかもね。


2005年01月23日(日) 質的研究の初任者研修

今日は本来は研究会だったのだが諸事情がかさなって欠席。
荒川さん、村上さん、発表を聞けなくてごめんなさい。

今日は朝、どうしても起きられず寝坊。ここ2週間ほど休みがなかったからかしら。疲れがたまっていたのかもしれない。もし研究会にでていたらしんどくて集中できなかっただろう。

昨日の発表では、3人のシンポジストともに、質的研究の記述においては、他者の再解釈にひらかれたデータの提示と、概念生成のプロセスを明示的に示すことが重要な点としてあげていた。

これにはもちろん同意するが、しかし、そのプロセスの記述といわれても、具体的な話、どこまで書けばそうだといえるのかということをめぐってはなかなか明らかではない。結局のところ、それを書いたことで、どんな良いことが得られるのかということなのだろうけれども。要は、具体的にデータにさわってみて、プロセスのなかでやってみなければわからないってことかしら。

ともかく、シンポに訪れた若い人々は具体的にどのように研究をすすめてよいかわからないので、こうしたシンポに来ているらしい。帰りの電車でも森岡先生と「臨床心理士にも初任者研修があるように、質的研究者にも初任者研修がいるねえ」と話していた。継続的に、若い人の論文作成を支援する場をつくれば、けっこうなマーケットになるだろう。

しかしまあ、それが実現すれば・・・というか、多分確実にやるのだが(ただしお金はとらないだろうけど)若い院生さんにとってはなんとも恵まれた時代になったものである。













2005年01月22日(土) 感じたるまま

朝から電車にのって奈良へ。奈良女子大学で、質的心理学会研究交流委員会主催の、臨床心理士のワークショップ。今回も50名以上の方々にご参加いただき大変盛況であった。前回東京であったときには100名近く集まったが、関西でこれだけ集まれば上出来だろう。

しかし、僕が院生のころはこんなコラボレーションが実現するとは夢にも思わなかった。今日、司会をしつつ、臨床心理士の話題提供者陣と、指定討論にはいった尾見さんの姿がならんでいるのをぼんやりみながら、「ああ、こうやって臨床の人と、フィールド系の人が、同じ場にいるということがすごいことだな」と思ったのであった。

森岡先生が、柳田国男の『遠野物語』の以下の一節を引用されたのが印象にのこった。すなわち「鏡石君は話し上手にはあらざれども、誠実なる人なり。自分もまた一字一句をも加減せずに感じたるままを書きたり」という一節である。

「感じたるまま」というのはおかしい。普通は「ききたるまま」ではないのだろうか。これは語り手が語ったことのみならず、そこに柳田が読み込んだ意味を彼の責任において書いたのだろうと森岡先生。

なるほど。「感じたるまま」というのは、聞いた内容が事実ではなく、そこにそれを聴き取る調査者の関与があることをあらわしている。

臨床の現場でつくられる文書は、このように記録ではない。このことはケース記録のなかにあらわれた記述から、実証的な研究をしたいと思う人にはやっかいな制約であるね。


2005年01月21日(金) 祭りのあと

朝、窓から外をみてみたら一面の雪でしばし呆然。まーっしろ。今年は雪がすくないなー、やっぱり温暖化のせいかなんてアホなことをいっていたら罰があたったか。というわけで午前中はろくに動けず。

電車とバス通勤で、ようやく午後になって大学にいってみると、締め切り前の卒論生が殺気をただよわせながらパソコンに向かっている。

「先生、ちょっとこれでいいか見てください」と言いつつ、「もう何を言われても直せませんからね〜」と強い目で訴えている学生。その勢いにすこし甘くなりつつも「ここの文章ちょっとわかりにくいから直して」と言い放つ締め切り30分前。

その後、こんな日に限ってプリンタの調子が全学的におかしいということになり(ンナわけあるかい)、私のところに次々とプリントアウトしにやってくる学生たち。なんだ他のゼミもけっこうギリギリなのね。

いずれにしても、もうちょっと学生にあわせて早めに手綱をひきしめていればよかったと反省することしきりである。なんとかみんなだせてよかった。わたしゃホッとしたよ。

学生は提出が終わるやいなや、潮がひくようにいなくなった。みんな締め切り前のスパートを追えて、達成感に満ちているようだ。。やけに研究室がひろく感じる。

さあ、明日は奈良女子大学で臨床と質的のからみについてのワークショップ。
さて、うまくいきますかどうか。あー、もう司会苦手。


2005年01月20日(木) 自分の人生の課題を論文にするのは悪いか?

昼から大津へ。用事をすませていそいでとってかえし、3時半に学校着。
臨床心理学の授業。研究室にはいるとゼミ生が集合している。今日は、ついに1人が卒論を提出した。一時はどうなるかと思ったがなんとか間に合ったのはよかった。

大学教師になってからはもちろん、それ以前にもそれなりに人の卒論の相談にのっていたりすると、たまにその作者自身の人生にとってもテーマになっているもの(と、少なくとも僕は思うもの)を選ぶ人がいる。とかく臨床心理学をやっていると、なんでもその人の心理的課題と結びつけて考えるという非常に趣味の悪い言説にまきこまれることになる。「対人援助についてやりたい人は、おそらく自分自身が助けられたいのだ」とかそういうやつである。そして、そういう人は、自分は自分自身の問題からは解き放たれて、距離をとれてますよといわんばかりに、理論的な言説を借りて知性化されたテーマを選ぶのである。

でも、僕はこういう言い方をする人は信用できない。自分の問題にとりくんで何が悪いのだ。そもそも自分の生き方とかかわりがないようなテーマを選ぶ人って(少なくともこの業界では)、厳密にいったらいないのではないかと思うし、そのテーマを追求することによって自分が救われたい一心でおもわぬ大論文を書く人だっているだろう。ミッシェル・フーコーは自分が同性愛者であるが、それがどうも社会では受け入れられないという事態に非常に憤り、なんとかそれを変えたいと考えて今日に残るような著作群をのこしたという。

もちろん、自分がなんとか救われたいと思って書く論文はとてもエネルギーがいるから、できれば違うのにしてほしいと思うことは正直ある。そういう論文は、あたかも対象について語っているようでありながら、実は自分自身について語っているのであり、だからどんなにその論文の論旨がおかしいと指摘しても、相手はそれを受け入れてくれないし、かえって傷つけてしまうことになる。それはアドバイスする側も、研究する側も苦しい作業になる。最終的に論文が書けて自分自身について洞察が深まればよいが、結局、苦しくなって論文の完成どころでなくなったりする場合もある。

しかし、それに取り組もうとおもって頑張っている人を冷笑して、もっと距離のとれた問題をやればいいのにという言い方は僕はしたくない。余計なお世話だ。もちろん、サポートする側にも根性がいるだろうが、自分の問題にとりくんで、それで最終的に自分でも納得できるものが書けたということは、もう内容うんぬんはどうでもよくて、とにかくそのこと自体で、彼(女)はとても大事なことを4年間でやってのけたと思う。それを一緒に喜びたいわけである。


2005年01月19日(水) キャッチアップ早いなあ

昔だったら、ちょっと変わってるね、不器用だねといわれるくらいで、とてもみつけだされなかったような障害がみいだされるようになった。

そして、どうもそれは脳の微細な異常に起因するもので、単なる性格や育ちの問題ではないと説明されている。学校関係者はみな知識をつけて、そうした問題に気付く目をやしなう必要があるということになっている。

障害というのは、それが実体としてあるというだけでは不十分で、それが社会のなかで十分に問題化されるようになり、それを十全に処遇できるシステムなり社会的ネットワークがはりめぐらされていて、それに割かれるコストが許容範囲にあるという条件がかさならないと社会的に流布しないものだ。

今の日本では、実際には、それを見つけられる専門家さえいまの日本では十分にいないというのに。そんな繊細な障害にさえ国として援助していこうとする日本はすばらしいところだ。しかし、そんな繊細な障害が気になってしょうがないほどに、大きな問題がなくなって平穏無事な世の中が実現しているようにも思えない。前にあった問題は解決したってことだろうか?。

いや、もちろん社会的に認知が進むのが悪いなんてことは絶対にいわないけれども。みんなが困る困ると声をあげててもいっこうに予算も制度もととのわないものがこの国には多いのに、このキャッチアップの鋭さはなんなのだろうかと、ちょっとしゃくぜんとしないものがあるというだけのことである。


2005年01月18日(火) 理論は確信犯的に

理論がなければデータはみられない。虚心坦懐になにも持たずにデータをみろといってもそれは無理な話だ。セラピーでも来談者中心療法の人などを中心に、何ももたずにクライエントの話を聞かなければだめだといったことを言う人がいる。

それで、そういう人は精神分析や、構造的家族療法がもっているような「それ、伝統的な家族観おしつけすぎやん」「家父長制ばりばりやん」みたいな理論によるアセスメントを嫌う。

しかし、これはあくまでもそういう理論をとおした時に、はじめてクライエントや家族システムの自由でユニークなありようが見えてくるための仕掛けにすぎなくて、(こういってよければ)「本当のこと」を書いているのではないって思うのは僕だけ?。「ありのまま」なんて言っている人は、僕からすると、逆に「ありのまま」ドグマにとらわれている人だ。

研究でもそうではないだろうか。理論というのは、それを使うことでデータの自由でユニークなありようがリアルに見えてくるようにするための制約だと思う。日本の認知科学をリードする某S先生にいわせれば、それ自体なにをやっているのかよくわからない細胞でさえ「俺が細胞だったら、なるほど俺もこうやって分裂するなーって思うような」しばりをかけるのが理論である。

しばしば、その縛りの強さにまけて、「というわけで、この実践は対話のなかで構成されています(誰か特定の研究をさしているわけではない)」という「いや、あんた社会構成主義からはじめる言うたやん」みたいな、序文からよんでも考察からよんでも書いてあることの順番が同じの、さながら「上からよんでもヤマモトヤマ、下から読んでもヤマモトヤマ」的な論文ができてしまうことがある。これではいかんのである。

いや、まだそれならばよいかもしれない。

問題は理論にほれこんで、どんな現象もそれで説明できるはずだ、いや、せねばならないのだ!!と思いこみ、自分のとってきたなけなしのデータをはたいてその理論にかけるというやり方だ。こういう場合、聴衆の頭に浮かぶのは、「そのデータでそこまで理論を展開してしまうのはやりすぎじゃないか?」「どうして他の理論で説明すればすっきりするのに、そうしないのだろう?」というようなものだ。あるいは「このデータってなんだかよくわかんないなー。何がおこってるんだろう???」とか「なるほど、そういう理論があるのか。今度原著よもー。引用文献欄、引用文献欄っと」というのもある。こういうのをデータと理論が乖離しているというのだろう。

とにかく理論というのは、あくまでもデータの方が豊かなのを縮約する際のしばりにすぎないのであり、それだからこそデータがあるかたちをもって見えてくる。理論にまけているデータをみても、僕らは理論の方がしっかりしているんだなーということしか分からなくて、肝心のデータのなかで何がおこっているのかをさっぱりつかめないのである。

それではおもしろくないではないか。


2005年01月17日(月) なんとなく一息ついちゃった感じ(僕だけ)

いよいよ今週末が卒論の提出ということで、ゼミ生諸君も力が入っている。
まあ、最後までヒヤヒヤだが今年もみな提出はできそうな感じである。

とりあえず、最後の頑張りはほめてあげたい。
あっ、まだ終わってないのだった。

最後まで頑張って。

さて、こちらの仕事のほうはというと・・・
週末にせまった臨床心理士のWSのために、さっそくO先生からファイルが送られてくる。

は、はやい。しかもかなり完成度高し。さすがO先生。

いつも間際まであれこれやっている僕としてはこの早さは見習いたいところである(とはいえ、まだまだ時間があるので発表者の先生方は、余裕をもってやっていただければと思っておりますよ)。








2005年01月16日(日) センター試験

朝から学校にいき、センター試験の監督。

60-80分間、ほぼ何もおこりそうもない教室で、なにもしないでひたすら受験生をみているのは精神的に疲れる。テスト問題を解いている受験生の方が、かえって仕事があってよいというようなものかも。まあ、どっちにしても大変なことにかわりはない。

数学の問題は見事にまったくわからない。昔はできたのかというと、涙にくれるほど(比喩ではなく事実として)の出来だったから「できなくなった」というわけでもないのだが、むう。

「現代社会」では、心理学の問題がでている。出典は2000年の教育心理学研究であるらしい。みると、おそらく因子分析表の数値だけを省略したとおぼしきものがでており、そこに因子名として妥当なものを選べというような問題が出ている。

ん、ということは、高校の先生は少なくともああいうことを教えているということじゃないのか?。なんでかの専門委員会では理解してもらえないんだろうか(もちろん、問題は青年期に関するものであり、因子分析なんて知らなくてもとけるのだけれども)。


2005年01月15日(土) 東京で下見

同業者のみなさまは試験監督で寒い思いをされていることだろう。そんな中、私はひとり始発にのって朝から東京へ。
で、来春に開催予定のイベントの打ちあわせと会場の下見。よい会にしたいところ。

さて東京は雪がふるとも言われていたが、雨であった。しかし、さっむい。確実に滋賀より東京の方が寒い。

明日は業務がまっているので日帰り。来月はじめに講演会があるので、帰りに本屋によって、そのネタの仕込みにいくつか本をあたってみた。丸の内北口に隣接するオアゾに丸善(だったかな?)が入っているのは便利でよい。これまでは八重洲ブックセンターまでいかなければならなかったが、ちょっと駅から離れているし、ほかに何もないところだから使い勝手が悪かったのだ。・・・しかし、話のネタ関係の本はあまりみつからず。

かわりに前から探していたセジウィックの『ユングと逆転移』培風館をみつけて購入。こちらは9月の国際学会で発表予定の報告に、なんとかいかせないかと思案中。これは今書いている原稿にも生かせることだろう。

ちょっと間があいて新味がなくなりつつある我が原稿も、おもしろくなってくれる予感。


2005年01月14日(金) 第3の審級としての体重計

今日も朝から、頑張る卒論生の横で論文書き。

っていうか、頑張っていたというべきか。彼は朝の9時まで頑張っていたらしく、僕が研究室についたころにはソファーベットを占領して寝ており、結局午後3時まで寝てました(時折 いびき)。まったく、いいかげん起きろ。i Tuneでラジオ聞きつつ、仕事をすすめる。

最近、会う人ごとに僕の身体についての評価は変動する。

正月にあった友だちは、会うなり「なんか太ったんちゃうか」と一撃をくらわしたかと思うと、先日の新年会では事務の人が「先生、やせましたよね」といい、昨日はリアクションシートに学生が「先生、痩せました?」と書いてきた。

うーん、どちらが本当なのか(そんなの一目瞭然だ、へっ、と思っている読者もいることだろうが、いちおう最後まで書かせてくださいな)。

「痩せた」も「太った」も相対評価であって、今回の計測値と、前回の計測値との比較なわけであるから、1回前の測定が時期的に近接している人の比較のほうが生態学的に妥当な比較ではないかしら。とすれば「痩せた」か。

おお、それに単純に供述者数からいえば、2対1で「痩せた」が勝っている。あ、しかし、それは3人の判断基準が同一であるという前提がなければならぬ。これは確かめようがない。クイック・データアナリシスの出番かしら。

いや、しかし3人を別々にしていいのだろうか。この3人は2つのカテゴリーに別れる。後者のカテゴリーの報告者は全て職場の人であり、教員を喜ばそうとしていると考えられる。とすれば、後者の測定結果には社会的望ましさのバイアスがかかっているということになる。発話の場における権力関係には敏感にならねばならぬ。

うーん、まさに真相は薮の中。同じナラティブでありながら、このように正反対の意見がでた時、質的研究者はどうすればよいのか。トライアンギュレーションはできない。

・・・・などと、コ難しくいってみたが、結局のところ、なんだかんだいって一番正しいのは、我が家で相方が無理矢理購入していった、体脂肪計つきの体重計であり、それにのるのが怖いというだけのことである。うぅ。











2005年01月13日(木) 出会い運があるのか、はたまた運の良さを語れる人なのか

最近、研究室に連泊している卒論生とともに論文書き。

泊まるといっても、僕の部屋は、夜はヒーターが消えてしまうので、寒くなる。夜は、細馬さんの部屋にいって寝るそうである。

細馬さんの部屋にはコタツも電気カーペットも、ありとあらゆるものが揃っている。細馬研のゼミ生もかなり追い込まれているらしいからともに頑張っているようである。

まあ、最後の追い込みで馬力をだしてくれるのはよい。とりあえずあと1週間で全てが終わる(・・・ことを祈る)。

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 「私はいつも出会いに恵まれている」とか「あそこであの先生に出会えたのがよかった」とふりかえる人がたまにいて、ああ、さぞかし出会い運がよい人なのだ、よい人生を送る人は良い師匠にめぐりあう幸運をもっているのだと思えることがある。

 しかし、過去というのは、思い出す現在を語ることでもあることを考えれば、あれはむしろ逆なんじゃないかな。

 つまり、そういう幸運な出会いが重なったのではなくて、むしろ、そう語る人自身が、ある時の出会いを後に「よいこと」として意味づけなおしたり、出会いに恵まれる人生として安定して意味づけるのが上手な人なのではないだろうか。

 いや、なんとなくそういうことが思い浮かんだだけである。



 














2005年01月12日(水) 雪がまう湖

今年はじめての非常勤。昨年末から1ヶ月ちかくあいてしまったこともあり、情報交換だけでも大変な量。そして、また新しい案件が・・・。

昨年からの常連さんはちょっと軌道にのっている人も、小康状態を保ってはいるが、あいかわらず注意が必要な人もいる。今年度も残り少なくなり、残りの出勤可能な日数とにらめっこしつつ、どこまで、どの程度の仕事をするべきなのか、その話しあいをする。

にしても寒い。今日は久しぶりに雪が舞っている。うう、寒いぜ。非常勤が終わった後、大学にきてちょっとメールなど。あいまにパソコンのバージョンアップ。長い間寒いところにおいておいたのが効ををそうしたのか、6月くらいにいかれてしまったiBookはここのところ調子が悪くない。ということでパンサーにバージョンアップ。自宅に持ち帰って仕事に使うことにする。

最近、原稿も順調に進みだしたので(というか、書くのが習慣化してきてリズムがでてきたというのか)うれしい。これでさらに環境アップできるかしらん。


さて、路面が凍結しないうちに帰ることにする。今年からは長い道のりを帰らねばならないから。





2005年01月11日(火) ヒヤヒヤしたりウッカリしたり。

大学にいくと目前にせまった卒論にむけて、ドヤドヤ人が集まっている。
まあギリギリまで粘ってよいものを仕上げてくれるというのはよいことだが、頼むから心臓に悪いことは止めて欲しいものである。この期に及んでテーマを修正したいというものがあらわれ・・・・。「僕の責任でやりますから」といったって、ねえ。
まったくヒヤヒヤする。

3年のゼミは4限がはじまってもいっこうに集まらず。どうしたのだろうかと思っていると、30分ほどすぎたころにゾロゾロと集まってくる。なんでこんなに遅れるのかと1人で腹をたてていたが、よく考えてみたら今日は教授会だからと、年末にわざわざ授業の開始時間を30分遅らせようと自ら提案したのをウッカリ忘れていたことが判明。みなさま、すんません。

夕方からは学部の新年会。南彦根駅前のSLOWで。
SLOWはスローフード運動のスローで、彦根に本当に安心してよいものを食べられるお店をつくろうというのがコンセプトらしい。なかなか美味しかったです。店内は印南センセがデザインしているらしい。

新年会では、隣に座ったある先生(女性)は、「だんな(本人がそう呼ぶ)」が東京にいて週末になると帰ってくるという話をしている。その話をきいたある男性(僕じゃない)「はあ、(だんなさんは)大変ですなあ〜」と感想をもらす。その瞬間、その先生は「だんなもよくそう言うんですけど、あなたが週1回来ることより、毎日子育てしてる私の方がもっと大変なんですからねっていうんです。だから、だんなの話に大変ですなんて言う人を私は信用しません」とピシャリ。言われた方はしどろもどろ。

またもヒヤヒヤ。




2005年01月10日(月) 消息

原稿のあいまにネット巡りしていたら、予備校時代に一緒だった人がいま、アメリカで生物学のポスドクをやっていることを知る。

面識があるというほどでもなく、何回かしゃべったことがあるというくらいなのだけど、、、、、。とにかく僕の予備校はとっても規模が小さかった(現役生のクラスをいれても100人いるかいないかくらいだった)し、けっこう一体感があって大学4年の時に同窓会までやったようなところだから、そのなかで目立って人気者だった彼のことは、おそらくみんなが知っているはずなのだ。

その当時から、受験生としては無駄に(あくまでも受験勉強にはいらないということだが)生物がよくできる人だったが、まさか本当に生物学者になっているとは露知らず。いや、まったくたいしたもんですなあ。もう2年半もむこうのラボで研究生活をしているらしい。

もう結婚してお子さんもいらっしゃるらしいので、ポスドク生活は大変そうだが、家族とわきあいあいやりながら、毎日研究に没頭している生活が綴ってある日記を読むと、素直にいいなあと思えてくるのであった。



2005年01月09日(日) 攻撃性と親の不安

ひとり部屋にこもって論文書き。なんでそんな時に引っ越すのかと学生に呆れられつつ、クリスマスから正月にかけて怒濤の引っ越しと、その他いろいろであんまりできなかったからな。

昨日から一歩も外にでてない。

一昨日の夜に食材を買い込んで、3連休で論文をすすめるつもり。

新しい家の作業環境はなかなかよろしい。

世の中は卒論/修論の締めきりのシーズン(年内にそれを迎えた人もいるだろうけれども)。

僕もそれに便乗して自己内締め切りを設定したりしてみようかしらん。


そういえばネットで、テレビゲームが子どもの攻撃性を高めるといった記事がながれていた。いろいろなサイトをみてみると、うさんくさがられつつも、一応ちゃんとした調査だと一目おかれているようである。

結果はともかくとして、僕は別にそんなことどうでもいいじゃないかと思ってしまう。だけど、このまえ幼稚園で講演したときの感触からすると、世のお母さんは子どものゲームする態度に、こちらが思う以上に「何かとんでもないことになるのではないか」という不安感をもっておられるようでもある。なので、どうでもいいとも言っていられない。

でも、別にゲームでなくても、子どもの攻撃性を高めるようなことはたくさんありそうなものだ。なんでゲームや携帯はダメなのか。

思うに、大人が自分にはわからない世界をみるから、必要以上に不安になるのかもしれない。

その昔、あるお母さんから、昔はゲームをいつまでたってもやめない子どもに癇癪をおこしていたが、あきらめて一緒にやっているうち、「あ、今『止めようか』っていったら素直にきくな」というタイミングを発見したという話をきかせてもらったことがある(要は、データがセーブできるポイントにたどりつくまで我慢して見てるということなのだが)。それ以来、このお母さんは子どもとうまくやっていくコツをつかんだという。

案外、子どもと一緒にゲームにまぜてもらったら、めちゃくちゃ破壊しまくるゲームをやっていても、なんとなく安心してみてられるようになったりするんじゃないか・・・・などと思うがどうなんであろうか。専門家の方がみたら怒られるかな。











2005年01月08日(土) TSUNAMI,before/after

国際学会の発表申し込みの締めきりが延びたとのメールがきてちょっと安心。
個人発表はオーラルかポスター。前回はポスターだったので、今回はどうしようかと思案中。通じやすさを考えればポスターだが、この学会は、ポスターでもテーマにそった数人が1つのグループにわけられており、座長のしきりのもとで発表し、議論するのが基本だ。だから、どのジャンルで申し込もうと一緒といえば一緒である。本気で睡眠学習しようかしらん。

おっと、そんなメールがくるかと思うと、あるメーリングリストからはこんなサイトが紹介されてきた。Tsunami 被害に関するサイト。最後には義援金をつのるサイトにいけるようになっている(決して面白がるサイトではない)。14の被害地の衛星写真がbefore/afterでみられるようになっている。ビフォーアフターなんて、どこかのテレビ番組みたいで不謹慎な感じもするが(もっとも作者は外国人だからそんな事情は知る由もない)、衛星写真にショックを受けるというのもある意味めったにない体験ではある(感動するとかはあるけどもね)。


2005年01月07日(金) 切り離すのではなく抱えること

世の中、幼児誘拐殺人のニュースでもちきりである。
こういう事件が起こるたびに、世の中はますますセキュリティを強化しようとする。性犯罪者の情報を住民に公開せよという動きまであるらしい(夜のニュースによると、警察が刑務所からの出所情報を知っておくというものらしい)。

非行を含めて犯罪関係の法案というのは、一時的にみんなパニック状態になり、何かとんでもないことが起こっているという気になり、あまり根拠もないのに大きな変革がされることがある。少年法のいわゆる「厳罰化」も、実務に携わる人たちからはあまり評判がよくないと聞く。ゆっくりと議論してもらいたい。

個人的には、世の中、犯罪者や非行少年を自分達の社会から排除しようという方向にばっかり動くのは賛成しかねる。世の中、犯罪者と被害者というふうに2種類にはっきりわかれるわけではない。 藤川先生もおっしゃるように、もしかしたら自分が犯罪者になっていてもおかしくないという認識を、みんながもった方がいいと思う。

刑務所に入れるといっても、それで終わりではない。みんな厳罰化だ、どうだというけれども、そこには引き受ける人がいるわけで、実務家のみなさんは、何ともならなさそうなことでも、なんとかしないと責められるのである。

どうせやるならば、今回の犯人のような人たちも再び社会に戻って我々と一緒に働いてもらわざるをえないとしたら、僕らは彼らをどうやって迎えられるのか、あるいは迎えたらいいのか、というような観点をもってもらいたい。

もちろん、情報公開によって世の中の人が彼が再犯するのをとめるように援助できるシステムをつくれるというのならば話は別である。非行少年に関していえば、実のところ、警察も施設も自分達の担当でなくなった少年達がその後どうなっているのかは、彼らが再犯でもおこさないかぎり基本的には知りえない。だから、施設から出た後、どういう援助をしてやったらうまく軌道にのるのか、施設であんなだったあの子は今どうやって生活しているのかとか、そういうことは意外とわからないものだ。これは施設での処遇を考える際にも影響を及ぼすだろう。

もっとも、現状を考えれば、隣のおばちゃんが元犯人に、「ほら、あんた。また女の子さらおうとしてるでしょ。だめよ〜。空想で我慢しなさい」などと気をつけて声をかけてくれるなんてことはありそうもない。





2005年01月06日(木) 「不登校は終わらない」

を買ってよみはじめました。
まだ3分の1くらいなんだけれども。
著者は、以前に不登校を経験したという貴戸理恵さんという方。
著者はまだ大学院生であるらしい。んで、この本は修士論文らしいじゃないの。んまあ、修論が本になる人なんているのねえ、なんて思いましたよ。

僕は修論をだした後の1週間くらいは高揚感でいっぱいになり、やがて残念な気持ちで満たされ、いまは名大の書庫ごと燃えてくれればいいのにと思っていますよ。みんなそんなもんじゃないかなあ。

まあ、それはどうでもよい。本書は、これまで親や教師などによって一方的に語られてきた不登校という存在を、当事者の語りをきくことによってとらえなおそうということのようだ。

本書の最初の問いが、「不登校」ということが常に周囲にいる大人によって代弁されてきたことを問題視するところから始まっていることからもわかるように、著者がいいたいのは、結局のところこういうことではないか?。

当事者といっても一枚岩ではなく、実際にはそのような人はいないのだということ。そして、そのゆえに、常に周囲から理解されようとする不登校者を、理解できないものにしておくことが必要なのだ、ということである。

それが不登校についての施策や、言説に対する批評とどう関係するのかはいまいち不明だし、彼女のスクールカウンセラー批判などはどうにもお粗末な感が否めないので残念であるが、とりあえず上記の主張には賛成である。



続きはまた、もうちょっとちゃんと読んでから。

 


 

 








2005年01月05日(水) 仕事はじめ

ひさびさに学校にいってメールチェックやら、ネットワークのセキュリティ管理やらいろいろ。わけあって遅くに学校にいったため、暖房はとまっており、暖房機具のないわが研究室は凍えるほどに寒い。

まけずに某学会誌の校正を終わらせる。

レターボックスを除くとちらほら年賀状。
主に仕事関係。
某出版社からも届いている。
「原稿はその後どうですか」って、、、、。
そんなこと言われると焦ってしまうな。
まあ、焦ってもどうしょうもないのだが、やっぱり早くだせるにこしたことはない。今月せいぜい頑張ることにしよう。

家に帰るとスペースがやたらあって身のおきどころに困る。
はやく通勤にもなれなければ。


2005年01月04日(火) 存在も芸のうちなのか

仕事の合間に、漫才をみる。
ダウンタウンが司会で、いくつかの漫才コンビが分解して他の相方とくっついて新たなコンビを結成するというやつ。

でていたのはみんな、もうネタを番組でやることはなくなった人たちばかり。そういう人たちが真剣にネタをあわせ、舞台でやるという場面をみれたのはよかった。

みんな即興で作ったわりにはそこそこの出来で、笑いをとっていた。
しかし、結局のところネタで笑いをとっている人というのはあまりなく、どちらかというとそれぞれのキャラクターで笑わせているといった感があった。

ロンブーの淳がでてきた時など、セリフをかんでも、ただ出てきているだけできゃーきゃーいう声が聞こえる。同じことを無名の新人がやったら一気にひくようなことでもけっこううける。

こうなると、もうネタもなにもなく、客はただそこに相手がいるということに、ベースとして笑っているのである。こういうのは良いのか悪いのか。

自分の芸を評価されたいという人にとってはよくないことであろう。
最後にダウンタウンの松本が、「今度はダウンタウンもでてくださいよ」という声に「いやー、こんどはM1にでよかなと思て」といっていた。そのときは会場が笑って終わりだったのだが、あながち冗談だけでもなかったのでは。

なんてちょっとみたなどと書いたわりにやけに詳しい報告でした。


2005年01月03日(月) ほめ上手のコーチング

今日はテレビでライスボウル観戦。
ライスボウルとはアメリカンフットボールの日本一決定戦である。

よく間違われるのだがボウルであって、ボールではない。ボウルとはサラダボウルなどのボウルのこと。アメリカンフットボールのスタジアムがすり鉢(ボウル)のような形をしていることから、ボウルゲームというのである。アメリカで有名なのはロサンジェルス郊外のパサディナのローズボウル、フロリダ州マイアミのオレンジボウルであるが、つまりその地方の特産品を盛ったボウルというような意味なのである。だから日本はライスボウル。

そういえば昨日は高校のアメリカンフットボール部の同窓会だったのだが、あるチームメートは、僕が心理学を志した理由を「関西学院大学の武田健にあこがれたからだ」と他のチームメートに解説していた。昔の僕は、彼にそう説明していたのだという。

そんなことすっかり忘れていたが、おお、そういえばそうだったよ。

武田健先生は、昔、関西学院大学のアメリカンフットボール部の監督をされていたのだが、実は行動療法がご専門でもある。その昔、「ほめ上手のコーチング」と称し、良いプレーをしたら、即座にほめることで選手のよいプレーを強化する(即時強化の原理)というようなコーチングが有名になったものだった。

当時、強豪だった日本大学の篠竹監督は、「ほめる」なんてとんでもない。そんなことは4年間に1度あるかないかという鬼監督で、1日10時間ものスパルタ練習で有名だった。そんなわけで、しばしば関西学院と日本大学の両校は好対照なコーチングのチームとして比較されていた。

まあ、今になって思えばこの比較はあまりよい比較ではない。

武田先生は実際にグラウンドにでると人が変わったように怒鳴りまくるかなり怖いおっさんであるらしい。そして、そもそも関学というチーム自体、大学の華やかな雰囲気とはかけ離れた泥臭いチームである。そういうのがもともとベースにあるチームだ。日本大学にしても別に篠竹監督が怖いからやっているわけではなく、選手たちは監督から何かをつかみとろうと思ってすすんでチームに入ってくる。彼らは卒業してからも会社で重責をまかされるポジションについている人も多いし、学生の頃から取り組みが真剣で意識の高く、他のチームからも尊敬される人物が多かった。それだけスパルタに耐えうるだけの人格者が集まっていたともいえる。決して罰回避条件付けをされているわけではない。

なにごとも、その活動の全体像とか、歴史性を考えることなく、「ほめる」「どなる」というような、たったひとつの行動だけとりだして、これは良い、これは悪いというふうに評価してもはじまらないのである。


2005年01月02日(日) 英作文

国際学会のアブストをえいやっと仕上げてメールで送信。

ただし学会事務局ではなく、Textcheck社へ。

この会社、某学会誌の編集委員の先生から「英文校閲をしてもらってきなさい」といわれて紹介されたのだが(いや、別に僕のが不出来だったからというわけではない・・・たぶん)、なかなかよい。アブストくらいなら3−4日でとりあえずの添削結果を返してくれて、その後しばらくのあいだ「もうちょっとこういう表現にしたいんだけど」ということがあれば応じてくれる。料金もまあまあリーズナブルではないかしら(他の会社をしらないのだけど、絶対値として)。

知りあいに何度も頼むのもなんだか悪いし、いつもギリギリにしか原稿があがらない僕としてはこういうところがあるのは助かりますな。


2005年01月01日(土) ロリコン

奈良県の誘拐殺人犯が捕まった。つかまったからといってご遺族にとっては辛いことにかわりはないが、ともかく一区切りついたのはよいことだ。

この犯人は世間でロリ・コン、つまり少女を性愛の対象とする人だと言われているらしい。部屋のなかに女の子用の服やらランドセルやらいっぱいあったそうな。うーん。まさしくロリコンである。

そういえば、さるところでロリコンの語源を聞かれたので調べてみると・・・。

この語はウラジミール・ナボコフの小説 『ロリータ』 の映画化(スタンレーキューブリック監督である)の後から使われ始め、心理学者のラッセル・トレイナーの著書『ロリータコンプレックス』(1969年)によって広く知られるようになったのだという。

なるほどわりかし新しい言葉ですのね。

ちなみに少年に性愛の対象を求めることをショタコンというらしい。ショタとは、鉄人28号をあやつる正太郎少年のこと。半ズボンが似合うような少年を対象とするんだって。

と、ちょっと調べてみるといろいろなことがわかるので面白い。しかし、元旦早々、こんなことを調べて日記にアップする僕もどうなのかという気がちょっとする。









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