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大学院時代の後輩が研究を続けていくかどうか迷ってメールをくれたので返事する。といっても僕が博士課程の時に、彼はまだ大学2年生。僕は授業のTAとして関わっていた。だから、どうも後輩というイメージがしない。ああ、あの子も修士論文を書くようになったか、と、そういった感じ。
いまの大学はTAがいないぶん、教員が全部やらねばならない。TAがいるのは学生にとってもいいことだと思うのだが、いかんせん院生がいないんじゃしょうがない。
ところで一昨日のシンポに参加していた人とやりとりしていたら、うちの学生が「気持ちのよい学生さん」と褒められていて、なんとなく僕もうれしくなる。
で、そのついでにシンポの話題になり、僕が一昨日の日記に書いたことと同じことを、偶然にその人もメールに書いておられる。それで、おお、やっぱり通じるもんですねえなんてやりとりする。
身体がだるくて昼まで寝てしまった。午後からちょっと仕事だったのでむくむく起き出す。
毎年、気管支をやられてひどい目にあっているが、今年はなんとかふみとどまっている。手洗い・うがいをバカにしてはいけない。あと、咽の乾燥がいかんというので、ずっとマスクをしている。息がくるしい。
世の中、インフルエンザが大流行だから気をつけなければならん。しかし、インフルエンザ菌ってどこにいるのかわからんから防ぎようがないよ。昨日はかなりわかったけど(笑)。
2005年02月26日(土) |
第1回うみかぜシンポ |
昼から、第1回うみかぜシンポ。こんな寒いへんぴな大学に誰も来てくれないんじゃないかという懸念もありつつではあったが、20名以上の方にきていただき盛会になったのはなによりだった。会場設営も竹下ー明和ゼミのみなさんと、院生の松村さん、藤本さんがよく働いてくれたので、とても円滑に作業が進んだ。ありがたいことだ。みなさん、おつかれさまでした。
岡本依子さんと、坂上裕子さん、そして霊長研の友永先生、中京大学の小島先生に遠路はるばる来ていただいてとても有意義な発表をきくことができた。内容的にもりだくさんで時間内に終われなかったのが、司会としては反省点だったが、会場のみなさんは最後まで残って聞いて下さりありがたかった。
心理学がどう役立てるのかという点も(僕が企画主旨にうっかり書いちゃったからなのだが)話題になった。もう、最近、「役立つ」というテーマも聞き飽きてきて、やや食傷気味(だったら企画主旨にかかなきゃいいのに)。 そもそも「役立つ」って相手あってのことだから、僕らばっかり発言してるのも、なんちゅうか自己愛的なモノローグになることが多いし・・・。
今回は「事実は何なのかということをはっきりさせる」ことをひとつの貢献と考えるという見方も示された。こういうのって実証研究に真摯にとりくんでおられる方らしい語り方だなあと思った。
まあ、僕はこういう言い方はしないなあとは思う。なんかいかがわしい感じがしてしまうわけですな。事実を語るというのは、正確には「事実として語る」ってことだと思うしね。
とはいいながら、でも、深いところで目標は共有されているような気もして、どうしてそうなるのかちょっと気になるところではある。
2005年02月25日(金) |
入試・責任・ナラティブ |
朝から大学入試の試験監督。さいわい今日は比較的暖かい日だったので受験生も助かったことだろう。この教室のなかから、4月には、どれくらいの人と会えるのだろうかね。
明日はシンポ。しかし、今日になって発表者の1人が風邪でダウンの報。「這ってでも行きます」と、ありがたいような申し訳ないような、なんとも言えないお言葉をいただく。研究者たるもの講演先で倒れる覚悟をしていかねばならんちゅうことか・・・。ODの頃、熱でてるにもかかわらず2時間かけて非常勤先いったのを思いだす。
おお、発表といえば、来月のナラティブ研で発表することになった(前からわかってたんだけど)。去年の発達心のときも、前日に質的心理学会の立ち上げ集会があり、そこから学会発表と続いて相当ハードだったのだが、今回もそうなりそうな勢いである。
立ち上げ集会では、質的研究の書き方を教えるなどという身の丈を超える仕事をまかされて非常にてんぱってしまったが、今回も御大M先生と一緒に、「臨床心理学とナラティブの関係」について話せというお達し。臨床心理学なんていうのは、研究だけできてもダメで、実践もできなければならないハズなのだが、実践というのは、そんな一朝一夕にうまくなるものでもなく、まだまだ若手の僕には荷が重いわけである。
まあ、そんなこと言っていてもしょうがない。やれることからやるしかないか、と。
で、以前から言っているように、ナラティブという発想は心理学においてすごいインパクトを持っている(た?)とは思うのだけど、ナラティブという発想自体が非常に臨床心理学の根幹をゆるがすような発想が含まれているわけで、僕が臨床心理学のなかで安易にナラティブが受容されていると違和感をもつのも、そういうところがひっかかっているわけである。しかし、それを突き詰めていこうとすると、ではセラピーとは一体なんなのか?どんな権利があって人の悩みをあれこれするなんてことをやろうとしているのかという問題につきあたってしまう。ガーゲンが中途半端になったのもまあ実践的であろうとすればしょうがなかったのか、というふうにも思えてくる。
その問題がひとつと、もうひとつはナラティブという発想をすることで、なんちゅうか人間のもつダイナミカルな側面がどうもなくなってしまうような気がする。語り、語りといわれるけれども、語られないことが見えているからこそ、人間は語られたものに迫力を感じたりするのではないかしら。そこに、なにかしら「生きている」ということが体験されるような気がするのだ。野口英世の母のシカの手紙や、ドハティらの『治療に生きる病の経験』などを読んで、僕らが圧倒的な迫力を感じるのは、おそらくそういうところではないか、と。
一日家にいて論文書き。
最近、他人のことばかりで自分のことができず。 研究費で○○を注文していたら、超人気で納品が4月になるという。 いや、それじゃ研究費で買えませんがなorz。 ということで、泣く泣く見送り。
来月はじめにある読書会の文献がどっちゃりと送られてきているので、すこしずつ読んでみる。しかし、多いな。
どうも胃腸の調子が悪く、全然おなかがすかない。風邪がお腹にきているのだろうか。
疲労回復のためにギリギリまで寝て、昼から非常勤。
「幼い」という言葉は、普通はあんまりよい意味では使われない。だから、僕もあんまり積極的に使ってよいとは思わない。
例えば、痴呆性高齢者に「〜ちゃん」といった幼児言葉で話しかけることが施設職員にはたまにあるけれども、あれは自分達にかかってくる無力感や怒りを中和する役目をしているとものの本に書いてあった。だけど、それはやっぱり人生の先輩たる高齢者につかってはならない言葉だというもはもっともだ。
でも、高齢者ではなくて、場合によっては、「幼い」ということでみんなが心の安静をとりもどせる時もある。なかなか難しい。
朝から大津の病院にお見舞い。その後、近江八幡にとってかえして頼まれ校正。ご本人と話ながらすすめる。一応、区切りがついたが、終わってみたらもう4時。ふぅ、なんか今日は疲れた。疲労が蓄積している感じ。
こうせいと言われて思い出したけど、、、
最近、17歳の少年が小学校教師を刺殺した事件があり、そのことでblogやら掲示板や、MLにおいていろいろな意見がとんでいる。少年をどう処遇するのか、本当にたちなおれるのだろうかというようなことである。
で、私としてはそこで本論とは関係なく、立ち直ることがしばしば「更正」と書かれていることが気になる。気になるというか、これは間違いであって、それをいうなら「更生」である。これじゃ「正しいものに改める」というような意味になってしまう。ちゃんと使ってもらいたい。
でも、「正しいものに改める」といわれて、「あ、それでもいいじゃん」と思えてしまうとしたら、それが非行少年がどのようなイメージでみられているのかを知るきっかけになるのかもしれない。
2005年02月21日(月) |
まあ、どっちでも美味しいからいいわね |
東京に一泊し、今日は午前中、池袋近辺をうろうろして本をかったり、本でないものを買ったり。
昼ご飯に、立教大学ちかくのミュンに行こうと思ったら、なんと店じまいしている。激戦区だけにつぶれたか、それとももっといいところに移ったか。 けっこう客が入ってたから人気がなくなったってことはないと思うがなあ。
ともかく残念。といいつつ、かわりに近くのアオザイというベトナム料理屋へ。鳥カレーを食す。ミュンとはまったく違うがこれはこれでおいしい。
夕方帰宅。東京も以外と寒いなと思ったが、滋賀はやっぱり寒かった。 家に帰ったらだらけるのが目に見えているので、喫茶店にはいって頼まれ仕事の校正をさらに。
ビートたけしのTVタックルに、中学と高校で、僕の一学年上だった先輩がでていてびっくり。ようしゃべるなあ。中学の頃から、天は2物も3物も与えるような人だったからなあ。若手のホープで、これからどんどん偉くなってくんだろうけど、変なこと言いださないで頑張ってほしいもんです。
朝から東京へ。東京大学でナラティブ研究会。
小島先生と浅野智彦先生のご発表。小島先生はガーゲンの『あなたへの社会構成主義』の書評、浅野先生は社会学におけるナラティブについてお話された。
ガーゲンについては私も以前に書いたが、やっぱり「相対化を通じて反省」ということしかないのではないかという結論におちつく。いや、別にそれが不満ということではない。それだけでも大きな貢献であるが、社会構成主義が何か新しいものを作りだすことを導くような見取り図を示してくれるわけではないということだ。
ナラティブセラピーや種々の社会運動など、社会構成主義の旗印のもとにおこなわれている諸実践を紹介して、いかにも現実に関与してまっせ的にみせているけれども、こうした実践の成否は実のところ、社会構成主義によってになわれているわけではないだろう。そもそも、社会構成主義という理論は、それに従っている実践の正当性を主張する理論にはなりえないはずだから・・。
とかまあ、なんとかかんとかいいながら4時間濃密な議論ができてよかったっす。その後の飲み会でもここではとても書けないことがあれこれと。 有意義でした。
昼から高校の友人の結婚式。列席者が270人というのも驚いたが、テレビのアナウンサーが(契約してというよりも)個人的つながりで司会をつとめ、狂言界の貴公子が、これまた(契約してというよりも)個人的なつながりで一幕演じるというのには度胆をぬかれた。
なんか芸能人の結婚式にいったみたい。あらためて○○はすごい人やったんやなあと再確認する友人一同。
宴がすすみ、新郎の中学時代の思い出の写真がうつされた。そして、中学時代の写真が。なんか彼と肩をくんでイタイ顔をしている少年がいる。「なんや、あいつ」おお、よくみたら僕ではないか。あー、270人の前でアホな顔をさらしてしまった(涙)。
しかしまあ、こんな式に呼んでもらってありがたいことである。今後、こんな式にでることはなかろうからね。
2005年02月18日(金) |
まとめるのか、くり返すのか |
学部生の卒論発表会。朝から、頼まれた本の校正を少しやってから会場へ。
ゼミ生はみなそれなりに発表していて、お疲れさまでした。発表はまあよかったんじゃないかしら。不十分な点を言い出したらきりがないが、それは指導する側の問題でもあるので・・・。
三回生のみなさんも運営お疲れ様。僕のほうはなんとなく朝からだるくて発言できず・・・・。
しかし、口頭発表というのはどうも時間との勝負になってしまう。3回生もタイムキーパーで消耗していたことだし、来年はいっそのことポスター形式にしたらどうだろうか。
大学院の時から、学部生の面倒をみたりして思うのは、卒論を書き終える頃になると、卒論生もようやく「ああ、自分がやってたのはこういうことか」みたいなことがわかってきて「これはもっとこうしたら」「ああしたら」というのが見えてくるものだと思う。そういうときに、2時間くらいたくさんの人に対して、くり返しくり返し自分の言葉で伝えるという経験をしてみるのはいいことだと思うのだ。
昨日の博士課程の入試に引き続き、大学院の修士課程の入試。 朝から専門試験の監督、昼から面接。その後、会議。
また委員が増えた。まあ、他大学の先輩方の悲惨な状況をきくと僕なんかまだまだ恵まれているのだろうけれども、「全学の委員をはじめて体験されるのもいいんじゃないですか」などと勧められたんですけど、あのー、それ、前にも言われましたから。
会議の最後にぬけだして、最後に自分が担当する授業のテスト。終わって研究室にもどると、学生がよもやま話とか相談とかに訪れる。
今日はあいまの時間にpalagaさんお勧めの ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 計見一雄 著 「統合失調症あるいは精神分裂病 精神医学の虚実」 講談社選書メチエ ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー を読む。まだ半分くらいなのだが、計見先生のまくしたてるような口調が面白いですな。従来の精神医学が、患者の症状を外からしか記述してこなかったっていうのは納得。陰性症状とかプレコックス感とか、僕らは普段平気で使っているわけなんだけど、それが「あるべき状態からの欠如」みたいな記述に終始していて、「本体はこれだ」というような記述にならないというのもなるほどである。
脳神経系の最新知見と、ブロイラー以来の記述精神医学をあわせたところにブレイクスルーがあるというご意見はすごく興味深かった。先生いわく、患者の内側からみたような記述をして、それが脳神経の知見ではこうやって説明できますよみたいなつきあわせができると、とても面白いんだと。じゃないとあんた(精神科医)ら終わっちゃうよということらしい。
しかし、いま、記述精神医学をやる大学はどんどん少なくなっている。みんな薬物療法専門になるか、バシバシと多変量解析をつかった研究をやりまくるかしないと、業績にならないからだそうである。悩ましいことですなー。
朝から大学院後期課程の入試で、午後からは喫茶店に逃亡して仕事。
K先生から頼まれているRTの原稿が昨日までだったのだがまだできていないので、あわててやる。
今回はちょっと苦労した。虐待と非行というお題をいただいているのであるが、正直、僕は「虐待」されたといわれた子とのセラピー経験はあまりない。
そもそも、学校で臨床していると、虐待の子がいたとしても、その彼(女)と、虐待を主題としたセラピーなどできない。せいぜい虐待の子がいれば、先生方には通告の義務について説明し、周囲の人々と情報を共有して、見守る目のネットワークをつくることくらいである。情短施設とかで、華々しく彼(女)らとむきあってる人たちからすれば地味なものである。
だから、こんな自分が臨床心理を代表してしゃべってもいいのであろうかといささか不安ではある。
しかし、虐待への関わりというのも、まずはプレイルームを整備し、ルーティンを確立し、子どもをプレイルームのなかにいれるところまででかなりの準備が必要である。
虐待児へのセラピーには、子ども自身もさることながら、セラピストも、施設職員もまた十分に守られていなければならないはずで、こうした個別のセラピーが埋め込まれた文脈ということならば、僕でも話はできることがあるかもしれないなと思っている。
こういうところに質的研究、とりわけフィールドワークの視点というのは役にたつのではないかしら。
2005年02月15日(火) |
スリムなのも考えもの |
内田先生が、危機管理と学校のことについて書いていらっしゃる。賛成である。これは「危機管理」にとどまらないことじゃないかと思う。
学校がどんどんスリムになり、いらない機能を外にだしてしまったら、どうなるんだろうか。
思い浮かぶのは非行少年と呼ばれた少年のことである。彼らは、いつも1人だけ重役出勤で学校にあらわれては、教師と談笑したりしつつ、突然ぷいと帰って行く。ところが、彼らの面白いところは、荒れていて、授業にもまともにでないくせに学校には毎日やってくるということだ。そして、なんとなれば「まだ学校にいきたい」と定時制高校をうけたりする。こんな様子をみて、ある生徒指導の先生は「なんで学校いくんかねえ。毎日さぼってるくせに」と僕におっしゃったことがある。<「学校にいかない」ってことができるからじゃないですか?>といったら「ああ、なるほどねえ」とうなづかれた。
あんなに荒れてやりたい放題で、誰も相手にしないような少年を、決して見放さないで受け入れてくれるのは中学校の3年間くらいなものである。別に非行少年だけじゃない。不登校もそうだ。なにか特別なことではない。ただ、いつもの場所に、いつでもいて、同じように親身になって応対してくれる人がいてくれるという体験は、彼らにとって重要ではないかと思うのだ。
高校にはいったらそうはいかない。欠席時数が多くなれば彼らは退学になってしまう。中学のときのように「学校にいかない」ということができないのである。
もちろん、学校がなんでもかんでもしなくてよろしいと言う人がおかしいというのではない。学校がスリム化することは、他の社会的なリソースが充実して、学校以外にも彼らのうけざらがちゃんとあれば問題ないだろう。しかし、現実問題として、そんな受け皿はきわめて少ない。学校がスリムになっていくのは、イコール彼らの居場所がなくなっていくということにつながるように思える。
そうやって彼らをひきうける場所が少なくなっていくにつれ、非行少年の問題も少なくなっていくのであればよい。でも、そんなことはありっこない。誰もあいまいなものを自分のうちにたくわえようとしないで、すっきり明解になろうとすれば、そういうなかでしか生きられない人たちは誰がひきうければよいのだろうかと思ってしまうのである。
卒論発表会が近付き、やおら準備にとりかかって、あわてる学生たち。その横で「当日でもいいですよね」と涼しい顔をしつつ、土居先生の『精神分析』を読んでは、「この人の言ってることは詭弁ですよね」とダメだしする学生。
土居先生をきってすてる学部生。かっこいいぞ。しかし、その口で自分がみた夢にはどんな意味があるんでしょうと聞くのはちょっとかっこわるいぞ。
学生によれば、学生もまた「心理学をやっている」というと「お、じゃあ心理テストとかやってえや」と周りからはやされ「いや、今は用意してないから」といってはかっこわるーと笑われるという実態があるらしい。
へー、あんたらもそういうことで困ってるんだねと思っていたら「だから、先生、適当なんあったら紹介してよ」ときた。いやいや、それじゃあ周りの素人とかわらへんやろ、発想的に。そんなん適当におもろそうなこと言うとけ。
例えばオッサンに「僕の心をよんでくれよ」と飲み会で言われたら、「いいですよー」と、適当に能書きいいつつ、急にニヤリとして「うわー、やらしー。何考えてるんですかー」とか言っておけばよろし。
2005年02月13日(日) |
社会的な構築物だ、というのは間違い(誰にとっても) |
社会構成主義的な科学論としてラトゥールの『科学がつくられている時』をあげて戸田山先生が批判している。いわく、彼らは科学者のやっていることを、まるで呪術師のふるまいかのように観察している、と。そして、
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー科学者のやっていることは呪術師の振る舞いのように奇妙なことに見えるかもしれないけど、その奇妙さはたんに、自分がよく知らないからであって、科学者に説明してもらえば、わりと簡単に解消するはずのものなんだよね。けれども、彼らはあえてそれをしない。なぜだろう。科学者が本当のところ何をやっているのかを知りたかったら、科学者に聞いてもよさそうなものだ。 (・・・それはなぜかと言うと・・・) 科学的事実は全て社会的構成物だということをあらかじめ前提していると思うんだ。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
というのである。別に社会構成主義を全面的に擁護しようとしているわけではないのだけれども、どうも、戸田山先生の以上のような言い方には違和感がある。
どこがかというと「科学的事実は全て社会的に構成されている」という言い方である。このような言い方をラトゥールがしているのなら、それは間違いだと思う一方で、そうでないのだとしたら、それは戸田山先生が都合よく彼らの主張を要約してしまっただけだと思う。
思い出されるのは、言説心理学のことだ。デレックエドワーズは「記憶とは脳内に貯蔵された痕跡ではない」と批判したうえで「記憶とは言語行為である」といっている。これに対してエスノメソドロジストのジェフクルターは「痕跡ではなく、言語行為である」といってしまった瞬間に、エドワーズは心というものが実体としてあるということを言外に認めてしまっていることになるのだと批判している。
クルターいわく、心とは人々の相互行為による「達成」である。だから、心を言語行為と等置してしまうのはまずいということなのだ。
社会構成主義の人たちは、しばしばそれ以前の理論(例えば記憶、科学的事実)についての実体的な見方を覆そうとするがあまりに、「説明Aでなくて、説明Bだ」というような語り方をしてしまう。これが誤りのもとだ。これではAとBは内容的には同じということになってしまう。
そういう言い方にのっからずに、そもそも「説明Aでなくて説明B」式の語り方ができないものなのだと言うべきだったのだ。だって社会構成主義の人たちが本来やりたいのは、記憶であれ、科学的事実であれ、<いまーここ>において、その存在を疑えないほどに「ある」としたら、それはどんな過程をふんでそうなのか(別の有力な説明もあったし、なにも今じゃなくてもっと前(あるいはもっと後)に発見されてても不思議じゃないし、発見がもっといちゃもんつけられてもよさそうなものなのに、なんでこんなにスムーズに確認されたのかetc)を明らかにすることであろう。
科学的な事実であっても、その存在がもはや疑いえないようになっている現在からさかのぼって過去の科学的事実の探究プロセスをみたならば、もちろん戸田山先生のいうように「科学者に説明してもらったほうがはやい」に決まっている。しかし、そういうことがやりたいのではないのだ。
社会構成主義者は、客観的に疑いえないほどに立証された科学的事実というものを担保にして、そこから巻き戻し再生するように、科学の生成過程を説明しようとする従来のやり方は、間違いではないとしても、科学的事実が発見されているまさにその瞬間には、使えない戦略だということが言いたいのだろう。だから「呪術師がみるように」な記述も必要になるのだ。
まあ戸田山先生のいうとおり、社会的構成というのは自明の前提になっているかもしれないが、それは上記のようなことをやりたいがための戦略であると僕は理解している。そして、これは普通に科学者が主張していることと一切矛盾しないと思うのである。
美しいものをみて、それに喜ぶ人をみて喜ぶ私。メタ喜び?。その昔、アメリカンフットボール部に入り、防具をつけたり、スタジアムジャンパーをはじめて着た時の高揚感がよみがえってくるかのような一日。
ーーーーーー blogで臨床心理学の指定大学院ではいっそのこと研究に専念させ、インターン制度にしたらどうかという書き込みをみた。まだまだ僕もかけだしで、そんな偉い立場にあるわけではないが、たしかにそうだと思う。修士の2年間でできることなんてたかだかしれている。
いまやすごい数の院生が毎年入学し、その割にケース数は、いろんな相談室ができたことによって目減りしているという状況。教員は忙しすぎてスーパーバイズのアポのアポが必要ということで、ちょっとうっかりしていたら2年間ケースをもたないうちに終わってしまいそうである。
だから指定校は現場で評判が悪い。
とある研究会で、僕が大学講師だといったら「自分の指導生はちゃんと自分達で面倒みてんだろうな」というような厳しい目をむけられていたということを、のちのち知って驚いたことがある。指定校の教員だと思われていたらしい。
なんでそんなに評判が悪いかといえば、次のようなメカニズムがある。 (1)まず、心ある院生は、それでも研修の場を求めて病院やクリニックをさがすが、その応対にかかる時間がバカにならない。(2)それでも、心ある院生はできるだけ受け入れてやりたいと思うが、そうしていたら患者へのサービスが低下する。(3)そんなにたくさんの人を受け入れているわけにいかない。そのことで心が痛む。・・・・・と、こんな具合だ。そして最終的に、「指定校の教員がもっとちゃんと面倒みろよ!」ということに落ち着くのだ。
まあ、指定校に入ってもインターンしなければ職場にでられないということになれば、一気に人気はなくなるだろう。今でさえ、指定校から外れると、いくら高名な先生がいるからといっても、志願者は激減するご時世である。そんなことが実現するとは思えない。
可能性があるのは、医師における認定医のような制度を設けることだ。ケース報告をいくつかだして厳しく審査されるとか、現在の臨床心理士に課せられた訓練時間よりもはるかに長い研修期間を課するかわりに、認定カウンセラーとなれば優先的に職場が提供されるというようなことがあれば、クオリティの高い臨床心理士になろうというモティベーションもわくかも知れない。
まあ、ペーペーの私なぞは、その時に淘汰されないように日々精進するのみである。
近江八幡の駅前にオープンカフェ出現。 おお、なんて似つかわしくないんだ。みつけて思わず相方と入ってカフェご飯を食べました。ナシゴレン美味しかったです。
滋賀県ではだいたいみんな車で移動する。 だから都会にあるようなスターバックスとか、オープンカフェとか、そういう街を歩いててふらっと入るという感じの店は形勢が不利だと思う。だって駐車場がないんだもん。それから、普通だったら、比較的少人数で入ることが多い店内に、団体さんが入ることも多いだろう。これもまた店内がそういう設計になっていない。
まあ、そうはいっても滋賀にもスターバックスはあるのだが、いずれも人通りがある程度みこめる立地に限られている。堅田(イナカ)にあるスターバックスなど、駐車場がすんごい広くてドライブスルーがある。スタバって普通、入って店内の雰囲気を楽しむものではないのか?。別にそれほど美味しい珈琲がはいるわけでもなし。ドライブスルーってどうよ。
というようなわけで、あんまりオープンカフェなど作ってみても、だいたいはこの地に根付かずにつぶれていくのではないだろうか。大都会に植樹するようなもんですな。逆の意味で。つくられた地元民は地元民で、これはどうやって利用するものかとおっかなびっくりである。店内におしゃれでおかれた外国雑誌を、いちいちとってきては週刊誌がわりにながめるおっさんあり。
ま、進出したからには、それなりにいけるとふんでいるのだろう。ぜひ潰れないでずっとやってほしいですな。
2005年02月10日(木) |
ナラティブセラピーの冒険 |
昨年、小森先生率いる「猫が洞翻訳工房」グループが訳出にとりくんでいたデヴィッド・エプストンの"Caching up with David"の翻訳が創元社からでた。邦題は「ナラティブセラピーの冒険」だという。
エプストンはマイケル・ホワイトとともに、オーストラリアのダルヴィッチセンターを支えるナラティブセラピストである。私が担当したのは、「内在化」vs「外在化」についての章と、カップルセラピーに関するナラティブな方法についての章であった。
ナラティブセラピーから外在化をとったら何ものこらないと言われるほど、重要な存在の外在化について理論的に考察してあって大変興味深い。また、カップルセラピーのなかで用いられる「相互参照質問法」は、ややこしく入り組んだ人間関係のなかで、お互いの責任を主張するだけの人たちとの仕事にはきわめて有効な視点を提供すると思う。例えば、学校批判を繰り返す家族との面接などには有効かもしれない。
カップルセラピーのなかでは、例えば離婚調停に際して、性格の不一致を、お互いの人格的な欠陥(障害)に求めようとする人たちがいることが問題になる。つまり、人格障害でもなんでもよいが、そうした診断名がつくことが、例えば子どもの親権争いなどに流用されることがあるというのだ。
日本では、まだそれほど精神医学と、婚姻関係の問題との結びつきは薄いかもしれないが、やがてこのような社会になるかもしれない。もちろん、DVや虐待といった「問題」を解決するために、精神科的な知識が使われるというのはよいかもしれないが、、、、要は使い方を間違えるなということだろう。DVや虐待という用語は、あいまいでたいしたことがない日常生活に思えてしまう事柄に対して「それは問題だ」という輪郭をきちんとつけ、弱者をエンパワーする契機を与えてくれる道具だ。
ちなみに内在化と外在化の章には、SFTで有名なビル・オハンロンがコメントをつけている。エプストンは「内在化・外在化」と「抑圧的・解放的」を等価なものとしてみているのだが、オハンロンはそれは違うという。
いわく、自分たちも彼らのエンパワーを志向してやまないが、だからといって我々は外在化された会話を使うわけではなく、内在化された会話を使う。要は、内在化か外在化かということではない。むしろエンパワーする会話なのか、ディスパワーする会話なのか、どちらかしかないのではないか、というのだ。
たしかに両者を等価にあつかって書いてしまったとしたらエプストンよりもオハンロンの説明のほうに説得力があるように感じる。しかし、これは内在化言説、外在化言説を、技法のレベルでとらえた時のことであろう。外在化というのは技法でありつつ技法をこえた思想のようなものでもあると思う。
つまりエンパワーするかディスパワーするかは、内在化言説を使うか、外在化言説を使うかというような技法のレベルの話しではない。そうではなくて、外在化とはすべからく解放を志向したものである。常にある文脈のなかで、どのような権力関係をターゲットとして想定するかということが、セラピストにとって技量が問われるところということになる。
アメリカンフットボールでは、選手は最初の1歩目をどれだけすばやく、正確に踏めるのかということが大事になる。どんなチームでも一歩目を早くだす練習をする。周りからみていると地味なことこの上ない練習だが、大切な練習である。
この時、間違えやすいのは一歩目を早く、大きく踏んでしまうことである。主観的には早く、低くいっているような気になるのであるが、これがよくない。第2歩目がでにくくなるからだ。
アメリカンフットボールで一番大事なのは、審判の笛がなるまでとにかく相手にくっついて足をかきつづけるということだ。最初の一歩は小刻みにだすのが一番よい。それが次の一歩をすばやくだすことにつながるのだ。
・・・・・・というようなことをなぜ思いだしたかというと、これはどんな世界でも同じようなことがあてはまるなーとフト思ったからである。正確に、無理のない範囲で小さい一歩をはやくだす。そして、大事なのは続けること。
2005年02月08日(火) |
苦労が多いのか、苦労を呼び込むのか |
会議と、会議と、会議とゼミ。3回生ゼミは今年度はこれで終了。4回生になるまでに準備しておきたい人は各自アポとってください。
3回生のみなさんは就職活動で忙しそう。みんなセミナーだ説明会だと参加している。僕は、正直なところ、まともな就職活動をしたことがない。だから、そこらへんの苦労は想像するほかない。まあ、世間一般の流れにさからって大学院にいき、研究者を目指そうというものには、それなりに苦労があるのだから、どちらがしんどいということはあるまいとは思うけどもね。
そういえば、苦労という言葉で思いだしたけど、なんというか、就職活動で苦労したと思っている人は、入ったら入ったで社内で苦労するだろうし、就職活動もそれなりにやってそれなりのところに入れたと思っている人は、入ってもそれなりに仕事できていると思えるのではないかと思う。
どうだろうね、これ。
要は、苦労するようなことは、外的にそのような出来事があるというよりも、むしろ外的な出来事をそのように解釈し、時には自らそのように解釈しやすい出来事を呼び込むような生き方(あるいは人生物語)があるだけではないか、などと思うのだがいかがなものか。
なんか最近インターナルな思考が増えてる気がしてイカンなあ。
朝から校正などしつつ、テレビでスーパーボウルみておりました。 アメリカンフットボールです。
ひさびさにアメリカンフットボールの試合を観たが、いや、アメリカの中継技術はすごいね。選手の頭上から見下ろすようなアングルからの映像あり、ボールをなげた選手の目線からの映像あり。また、2ー3年前からはじまったのだが、フィールドに合成で試合の進行をわかりやすくするような表示をうつす技術とか・・・。
あの巨大なスタジアムのなかで、肉体がぶつかりあうダイナミックな競技であるにもかかわらず、さながら箱庭でたたかうオモチャのような装いであった。 どんどんテレビ視聴者の理解を補うような装置が考え出され、テレビ視聴者はほしい情報がたちどころに集まるという状況になっている。
それはいいのだが、しかし、ここまで派手になると行き過ぎではないかと思えてくる。アメリカンフットボールも、当然、スタジアムでみればあんな表示はみられないわけで、そういう中でプロテクターがぶつかりあう鈍い音をきくときの迫力はない。
おもうちょっとテレビにうつる情報は少なくして、試合自体をみせてほしいものである(そういえば昔はNHKって、今は民放にうつった大塚さんがアナウンサーで、本当に淡々と放送していたものだったが、昨日みたらかなり興奮型のアナウンサーになっていてちょっとびっくり)。
家にこもってせっせと原稿を書く。しかし、進むところは進むが進まない箇所はいっこうに進まない。人のことをいっている場合ではない。これでは、煮魚つくりつつ煮魚ができたことに驚くしまつである。
そうこうしていると外でピンポンとなる。こういう時間にやってくるのは間違いなく新聞屋だと思ってでないでいると、外でドアをガシャガシャする音に続いて、郵便受けになにか大きなものを投函する音。
おおこえー。鍵かけておいてよかったぜ。そして、なんだパンフレットでもいれていったのかと思ってみてみると、なんとK出版から校正原稿が速達で届いている。金曜日にはつくというから待っていたのにいっこうにつかないと思っていたら、前の自宅住所に届いていたようだ。速達ということで日曜日にもかかわらず転送してくれたということのようだ。
うう、郵便屋さんすいません。だって新聞屋さん怖いんだもん。昔、無防備だったころはしばしば悪徳勧誘屋さんにおしいられ、とらないから帰ってといってむこうが帰るまで1時間もねばられたことがあった。いやー、ああいう目にあうと、いかにSSTの「人からの誘いを断る」というスキルが大事かわかるってもんですね。なんちゃって。でも、あれ以来、交渉は一切しないことに決めている。これもスキル。
転居のお知らせを、大学時代のゼミのMLに送ったら、卒業以来やりとりのなかった子から返事がきた。さすが○○効果である。
で、その子いわく「周囲から僕のことをきいて、夢(昔から、心理学の先生になりたいといっていたらしい。ああ、恥ずかしい)に近付いているのだなということを感じていた」そうである。
それがほんとかどうかは知らないが、こういうふうに他人から「(よい内容のことを)言われていたよ」という伝聞情報をきくのはとても気持ちがいい。面と向かってほめられるより良い感じがするのは僕だけではあるまい。
ナラティブセラピーでは、治療文書を意図的に、クライエントの関係者にも送って、その人のおこしたユニークな結果をみまもる人を集めるということをする。 アウトサイダー・ウィットネスというやつだ。
別にそんな難しいこといわなくても、こういうよい噂をたててくれる人がたくさんいることは、当人にとってとても救われることだし、元気がでることだろうな。
朝から卒業論文の口頭諮問。終わってからプチ会議。 みなさん、お疲れ様でした。
指導教員の反省をこめていうと、うちの学生はとにかくやるにはやったが、問いがいまいち明確になっていないのが難点だ。学生は指導教員の悪弊をまねて、みんな会話分析やらインタビューのナラティブ分析やらをやっている。こういう取り組みをするのは、ヘタに質問紙とかやっつけでやるよりもよっぽどまともだと思うけれども、やはり問いが明確でないのであちこちつっこまれる。
インタビューイがある限定された層にかたまっているがこれはどうなのか、なぜ1例だけでこれだけ強気にいけるのか、などなど。
自分の結論のおとし方の問題でもあるが、やはり自分の問題意識が明確になっていないところに起因している。
1年という時限を考えると、いつまでも問いのレベルでうろうろしていても何もできないし、かといって問いのレベルをおろそかにして、教員がやらせたいテーマを無理にやらせれば、それなりのものはできるだろうが、その学生にとって最後の1年のがんばりを支えるものがない気がする。
しかし、お手軽な質的研究やるなら、お手軽な質問紙をやったほうが後々いいのではないかという気もしてくる。まあ、単純には比べられない。「お手軽な」ものがよくないのはどちらも同じだ。よくなさが質的に違うのだと思う。
うちのゼミは基本的に自分の好きなテーマを発展させていくことにしているが、単に「自由であれ」というだけではなんにもできない。制約があるからこそ、そのなかでの自由が保障されるというものだ。要は、どういう制約をどこらへんの時期に与えたらいいのかということなんだろうな。そこらへんが難しい。
近江八幡は雪も溶けだして、道路はほぼ完璧な状態になっている。 ところが、彦根にいってみると別世界。
能登川をすぎたあたりから猛烈な吹雪となり、「なーんか嫌な予感」だったのだが、南彦根についたら道もなにも真っ白で、どこがどうなってるかわからないでやんの。
必死こいてなんとか大学にたどりつく。
学校につくと廊下ですれちがった談話室のTさんが「せんせえ〜」と新聞の切り抜きをみせてくれる。みると、おお、明和先生ではないか。『この人』とかそんな感じのコーナーにでていらっしゃる。ははー、御活躍ですなあ。
2人して「おおおー」と感嘆の声をあげる。
いいなあ。僕もなんかテレビとか新聞とかでたいぞ(笑)。いちおうこの前の幼稚園での講演会の模様は、多賀のラジオ局がライブで流していたらしいのだが、そんなの誰も聞かないしね(やたら「あのー」言ってたから僕も聞きたくない)。
えらい雪で視界は真っ白。されど、非常勤はある。 ということで雪の中おそるおそるいってまいりました。
こういうと語弊があるかもしれないが、学校というところには、同じ教員のなかにも大人もいれば、子どももいる。文字通り、子どもっぽい先生がいるということではない。子どもに同一化して、子どもに近いポジションから発言する人と、学校を管理し、枠組みをつくりあげる大人な立場にある先生ということである。
学校はどこかでこの子どもの部分をもった人をうまくいかさないと、生徒のだす問題にとても柔軟性のない対応をしてしまうことになるだろう。しかし、子どもの部分をもった人をうまく抱えておくのはなかなか難しい。ともすれば、子どもは大人の理解のなさにぶち切れるし、大人は子どものふるまいに眉をひそめ、それを排除にかかろうとする。
両者のあいだをうまくとりもっていくのが僕らの仕事ということになる。
2005年02月01日(火) |
ギター侍と、発達障害 |
午前中は、大津でスクールカウンセラーの事業説明会。来年度の配置についていろいろ。超「現実原則」にのっとった話。
なにが教育にとってなすべき課題か?、生徒のニーズにどうこたえていくか?、心の支援はどうあるべきか?っていうじゃなーい。でも、なんだかんだいって一番大切なのはー。お・か・ね・ですから!。残念っっ!。心を商品化しても、実際、そんなに売れませんから〜〜斬り。
と、アホなことも考えるっちゅうに。
研修会がすんだら、そのままJRで京都まで。 四条の「ウィングス京都」という、さながら生涯学習センターのようなところへいく。京都府の定時制高校の生徒指導担当の先生方に、『学校現場での発達障害への対応について』というようなテーマで1時間講演することになっている。
入ってみると、どうやら僕よりすごく年輩の方ばかりのようである。しかもさすが生徒指導担当だけに、みんながっしり怖そう。そして、僕が講師だと気付いて「あの、若いので大丈夫なのかー」という目が・・。 しかし、そんなことで負けているわけにいかん。
「あのー、僕のことみて、なんか若いのがきて大丈夫かいなーと動揺してらっしゃる方も多いと思いますがー」ときりだしてみると、案外、笑ってくれる。おお、これはいける。そこで、年齢ネタでひっぱってさらに笑っていただく。おお、これはなかなかいける。と、気分が明るくなる。
パワーポイントでの説明なので会場が暗くなり、「これは寝られるかな」と思ったが、なんとか完全に沈没する方をださずに終えることができた。最後も時間オーバーしていたのだが質問をだしてくださり、まあまあ役目は果たせたかとほっと一息ついて会場をあとにする。
まあ、僕の話がどうこうというよりも、福知山のあたりから来られている方もたくさんいらっしゃるらしく、もともと熱意のかけ方が違う。ほんとうに発達障害というのは学校を悩ませる問題であると感じた。
発達障害という名前がついたおかげで、みんなに共有しやすいものになったのはよい。でも、マクダーモットがおよそ20年前に"acquisition of a child by a learning disabilties"すなわち「学習障害によって子どもが奪われる」という論文を書いたように、発達障害という名前ばかりが先行して、実際のところ、先生方が普段やっておられるように生徒ひとりひとりをみて対応するということまでができなくなってしまうようでは本末転倒である。「発達障害」という言葉をかみくだいて、実際のところ具体的にはなんなのかを考えて行かないといけないと思う。
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