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2004年10月31日(日) |
青年心理学会の2日目 |
『青年期の創造性:その羨望の力をめぐって』という題目で九州大学の北山修先生のご講演。
以下、記録 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー まず「うらやましい」という言葉のもつ意味について。「うら」は心、「やまし」は病むという意味である。「うらやましい」という感覚についてメラニー・クラインは『羨望と感謝』をあらわしている。クラインがどうして「羨望」などというものを概念化せねばならなかったか。それは、ある種のクライエントには、治療がすすめばすすむほど良くなることとは正反対の方向にむかってしまう人がいること(これを精神分析では「陰性治療反応」という)の理解をせねばならなかったからである。
羨望は「うらやましい」ので、その対象になるために努力するという肯定的側面をもつ一方、犯罪、いじめにもつながるという破壊的側面ももつ。サリエリがモーツァルトをねたんで毒殺しようとした時、彼はモーツァルトの才能に羨望を感じていたのだ。
だから羨望は、その処理の仕方が問題になる。ひとつは過小評価である。例えば、「すっぱいブドウ」の物語にあるように、大したことないと価値下げする方法である。境界例の価値下げの問題もこれに関係することがある。もうひとつは、自己卑下であり、自分には「とても手が届かない」といってあきらめることである。
ところで日本では「出る杭は打たれる」というように、うらやまれ、嫉妬されるのが怖いという文化がある。それは、自分の感じている羨望が、他者から自分にもむけられる可能性について考え、それを恐れているのである。
もちろん肯定的側面もある。それは「創造的羨望」であり、うらやましいと思うなら創るということである。では、これはどのようにして可能か?。それは自分の「羨望」を認めることから始まる。まず患者のことではなく、自分のことを知るのである。なにか患者に阻害的なことをしているとしたら、それは自分の「ウラの病」、すなわち、「うらやまし」なのである。 フロイトもまた、過去の文献を参照すると、羨望が彼の創造性につよく影響を与えている。彼は芸術家と同じことをしようとし(つまり、「ああ、なりたい」と思い)そして、長年苦労して自分がやっと記述できるようなことを、どうして芸術家たちはいとも簡単になしとげてしまうのか、そのことに疑問を抱いている。そして、芸術家をこきおろすのである。科学者も芸術家も同じことをやっているのだが、われわれはとても時間をかけて努力している。だから偉いのだという主張である。
しかし、フロイトの羨望はまったくもたなくてもよいようなものであった。臨床家と芸術家は根本的に違う。それは、マス・コミュニケーションとパーソナル・コミュニケーションの差ということができる。すなわち、芸術家が創ればほんの少しの時間で終えてしまうようなドラマをつくるために、臨床心理学者は退屈でおもしろくないクライエントの話を、それこそ何十時間もの時間をかけて聴こうとする。それは、あったことのない第3者に対して語るのではなく、ただ1人、私のクライエントに喜んでもらいたいためである。前者は3者関係。後者は2者関係。これはまったく違う営みであって比べられない。
研究者もまた3者関係での苦しみを抱いている。すなわち2者関係で、クライエントと接して得たあのよろこびが、3者関係にしようとおもって論文化した瞬間にまったくおもしろくもなんともない話になってしまうことを我々はしばしば経験する。スーパービジョンの経験しかりである。それは、なかなか伝わらない。
しかし、私たちはそれよりも3者関係にいたるまでの2者関係を味わうというところにその重点をおくこともできるし、それが我々の問題なのだ。この2者関係ではおもしろいのだけど、3者関係にすると面白くなくなってしまうというこの感じ。そして、上手く伝えることができないというこの感じは、実は、クライエント自身が社会にいきていくうえで抱いてきたつらさでもあるのだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
朝から超満員の新幹線で福岡へ。 九州大学で、第12回の青年心理学会。
午後から『現代青年の規範意識と非行行動』という題名のシンポで指定討論。九州大学で社会学をやっておられる友枝先生と、長年、少年鑑別所で仕事をしておられた出口先生が話題提供をし、名古屋大学の河野さん、奈良女子大学の水間先生と僕とで指定討論することになっている。
何度も書いているが、話題提供はあらかじめ用意していった資料を発表すればよい。だが、指定討論は事前に展開がよめない。指定討論も2人目なので、直前の河野さんが僕のいいたいこといっちゃったらどうしょうなどと考えること多し。
友枝先生は、質問紙調査によって高校生と、高校教師の規範意識についての調査をおこなっておられる。そのなかでは、現代の高校生は「他人に迷惑をかけなければよい」「自己を尊重する」というような規範を生きている点で、大人世代とは異なっていると主張されていたところが印象にのこった。
このような状態を社会学では「私事化」という。絶対的な真理がないポストモダンな状況のなかで、青年も大人もどのように進んでいったらよいのか見えなくなってきたということであるらしい。
絶対的な真理はないなかで大人は青年、少年とどのように向き合うべきか。最近、僕がやっている生徒指導担当の教師へのインタビューでは、先生方は「僕らが強いている規範に絶対的に正しいものなんてない」といい「だからどこかに正解をもとめて、それによって自らの行為を正当化するのではなく、一人の人間として僕はそれはおかしいと思うよという基準を示していくことが大事」だという。これは、絶対的な真実が想定できないなかで、対話によって関係をとっていこうということだが、これがひとつの解決になるのかな。友枝先生が道徳的であるというのは、人間に欠かすことのできないところだと思うとおっしゃっていたのもこれと関連するのか。
出口先生は、とかく規範意識が低い、共感性がひくいと言われる非行少年であるが、実はそんなことはないことを強調しておられた。むしろ施設のなかでは優等生であることもあるのだという。実際、私がフィールドワークをやっているなかでも、指導者とのズレがまったくみえてこないものの、いっこうに更生にむかわない少年がいることが印象に残っている。
臨床的な感覚として、非行少年(と、一般的にいわれる子)と接するなかでは、彼らにどれだけ「甘え」があるかというのが更生への指標になる気がする。甘えがある子は人に頼るということのよさをしっている。甘えもなく、優等生的な発言を繰り返し、われわれにつけいるすきを与えない少年は、そもそも教育やセラピーにおいて「学ぶ主体」にはならない。彼らはそもそも「人っていうのは頼るといいことがあるらしい」ということがまったく信じられない人のように感じられるのだ。彼らは学習活動に参加しているようでいて、まったくそうではない。そして、そのような彼らはむしろ規範をしらないのではなく、規範との距離がとれていないように感じる。
規範との距離をとるために何が必要なのだろうか。我々は規範を知り、それに従うということのあいだに距離がある。規範について知っているということと、そのとおりに行動するということとのあいだにある距離のなかに「自己」というのはあるんじゃないか、などと考えた。
僕のような立場は、あんまり理解されてないかと思ったが、後でおもしろいといってもらえる人も何人かいたのはよかった。社交辞令とはいえ、そういってもらえるとうれしい。なかには構築主義に最近とても影響をうけているという先生もおられて、「もっとそういう立場をシンポでいえばよかったのに」と言ってもらえたのも勇気づけられた。
僕のアプローチはエスノメソドロジーであって友枝先生らの規範的アプローチとは対極にある。後の反省会(みんなでお茶飲んでただけだが)「今日は若手の人とリベラルな話しあいができてよかった」「君なんか、ゼミでやってたら大げんかになるとこだよ」と言われてしまった。いやー、シンポでよかった(^_^;)。社会学者の方は、心理学者に比べて議論の運び方が精緻な印象をうけていた。あればエスノメソドロジストゆえかとも思っていたが、全般的にそうなのかもしれない。うっかり変なことをいっていないか心配である。
大会後は、懇親会。さらにその後、普段はあんまり一緒にならないO先輩や、シンポでご一緒したM先生らと一緒に飲み会。普段は一緒にならなくても優しく対応してくださってよかった。楽しい一日だった。
しかし、疲れた。今日はもう寝よ。
朝から滋賀県総合教育センターのK先生が研究室にいらっしゃり、件の調査のデータ解析。途中、入力の仕方にミスがあったのだが、なんせ3000人以上のデータが入っているのでこの場でなおしていたらいくら時間があっても足りない。結局、来週もいらっしゃることになった。いらっしゃる研究員の先生もご苦労なことである。せっかく大規模なデータを集めたのだから面白い結果がでるといいなと思いつつ。
午後からは2年生の質問紙実習。実習も佳境に入りいよいよ解析がはじまる。こ2週間後に発表会をし、それまでは個別相談することにして解散。いまは大変だが、でも、このようにして積み上げていけば3年生、4年生になった時にはレベルの高いこともやることができる。これまではなかなか体系だって訓練することができなかったから、学生もいまひとつ自分がやっている学問にアイデンティティを見いだせなかったのかもしれないが、これで軌道にのるといいなあ。
3時からは卒論生の相談。なかなかまとまらないのでしゃべっていたら2時間もたってしまった。今日はもうこれ以上頭がはたらかないということで次回に。もうすぐ中間発表(中間という期日でもないのだが)だから気合いをいれていかねば。ねば。評価懸念、自己愛、理想自己と現実自己、自動思考スキーマといった用語がみだれとんだ。
このほか、学生相談の調査のまとめもやっていたら、なんだ今日は質問紙ばっかりじゃないか・・・・。明日の九州は大丈夫だろうか・・・。
2004年10月28日(木) |
尾張名古屋は城でもつ |
なかなか心理臨床の世界も難しいものだと思う今日この頃。 考えてみれば、名古屋はけっこう地理的にいいところだったのかも。
ところで、 名古屋は水害がおおいから、堤防を築くことは至上命題であった。それゆえに、心理臨床の世界でも「枠」づくりを強調する臨床家が多いということを誰かが言ってていたことを思い出した。
まあ、ただの偶然かもしれないが、なんとなく分かる気もする。
臨床家がどうなのかはわからないが、教育の世界では、管理的傾向をかんじるのは確かだ。
おお、そういえば、僕が過去にかかわった学校で、ベテラン教師からきく学校の歴史は、つねに伊勢湾台風が基点となっているのだが、これもなにか関連するのか、それともただの偶然か。
2004年10月27日(水) |
寒い+締め切りはのびるのか? |
朝晩だけでなく、最近、とっても寒い。彦根は風がきついのでよけいに寒い。コタツでもだそうかという勢いである。
今日は午前中、雑用やら、雑用でないものやらいろいろこなす。実習は実際にやっているあいだは学生が大変だが、前後が一苦労。
レポートを見て、フィードバックの原稿を書く。それが終わって某原稿を編者におくりつける。東京であったときにコメントちょうだいねといっておく。もう、そうしないと例の論文の修正ができない。
そういえば、論文修正に関して、このまえ事務の方からメールをいただいた。大学のメールに送ったが読まれているかどうかが不安になって普段僕がつかっているアドレスにも送ってくださったのだ。どちらでも転送できるので読めるのであるが、気をつかっていただいて恐縮である。
で、そのメールには「もし前便をお読みになっていなければ、〆切日を再検討します」と書いてあるではないか。おお、これは。もしかして、僕が「ええ!!、読めてませんよ。知りませんでした!」などと返事すれば、〆切がのびるということではないか?と、にわかに一瞬よからぬ策略が頭をよぎったのであるが、しかし、嘘がつけない性格がわざわいして「たしかに受け取っております」という返事を返してしまった。あ〜あ。
昼から非常勤。底冷えのする建物で仕事をしていると、だんだん足許からつめたーくなってくる。今日もサービス残業して帰ってきて、いま大学でこの日記を書いている。もう足がつめたいので、今日は早々に帰らせていただく。
では、さよなら。
2004年10月26日(火) |
質問紙調査結果についての専門家の語りの会話分析 |
午後から、お手伝いしている調査の話し合いのために滋賀県総合教育センターへ。県内の小中高に大規模な質問紙調査をおこなって、子どもの規範意識やらなにやら実態調査をするというもの。今回は無事結果が帰ってきてその結果をどうみるのかという話しあい。
結果はまだ記述統計がようやくといったあたりなので、まだここからどんな解釈がということはいえないのだが、ともかく考えられそうなアイデアをだすのである。
現場の中学校、小学校、高校の先生方がつどっているので、「子どもの問題がどのように語られるのか」という私の興味からいってもかなり面白い場所である。しかも、統計資料を媒介にした子どもについての語りなわけで、これはかなり面白い。
ああ、この場面を会話分析したらさぞ面白かろうなあと思うが、まあ僕の興味にあわせていてもしょうがないので、それはまたどこかでやってみたい取というリストにいれておく。そもそも、僕も委員なのだから面白がって聞いているわけにいかない。いろいろ発言してきた。どうも、これから分析が本格的になるにしたがって頼りにされているようである。
というわけでまたまた質問紙調査にかかわる日は続く。
今日は、朝からわたわたしてなんとか書類を事務局に提出。 昨日、ほんとに大丈夫かとおもって見直したのに、なぜか計算が違っている。もうしばらく見たくないっす。
その後、学生相談、1年生の実習でおわったら6時。家に宅配便がくるのであわてて帰る。
1年生の実習は、準備不足もあり、反省点が一杯。ゲーム理論って難しい・・。自分が難しいものは、相手ももっと難しい。
先週やったノンバーバルコミュニケーションの実習は、僕が実習中にちょっと入れ智恵したからか、けっこういろいろなことが分かっておもしろかったという学生多し(僕のインストラクションにひっぱられている学生もまた多し)。まあまあの反応だったのはよかった。
NVCのワークをすると、だいたい学生は恥ずかしがってまともにやろうとしなかったり、かえってこの課題になんの意味があるのかといってきたりするのだが、今回はもうすでに関係ができた集団にやったからか、けっこうなごやかにできたのではないか。まあ、レポートにそんなネガティブなこと書かないだけというのもある。
コミュニケーションとか、「雰囲気」「空気」なんてものは、別に人間の心のなかにあるのではなく、すぐそこに観察可能な微細な行動の布置にあるのだということに気づいて欲しい。
精神分析では、相手の何気ない行動に、何か敵意やネガティブな感情をよみこむのは、その人の不安が投影されているという。もちろん、そういう場合もあるだろうが、行動の布置としてとらえられるものもたくさんあるだろうと思う。微細な心を、人の内部にとじこめてしまわないで、目に見える行動やしぐさの布置として理解していくことは、質的研究が目指すところとも重なると思う。
最近、めっきり寒くなってしもうた。
今日は昼までせこせこ科研費の書類書き(ては消し、書いては消し・・・)。しかし、こんなに日記に書いたら、落ちた時かっこわるいがな。まあ、いいか。どうせ7割の人はおちるんだからさ。
昼からは授業準備のため、いろいろあちこち駆けずりまわる。 で、夜は昨日と同様、8号線沿いの『王将』へ。
昨日、夜に食べにいったらささっと注文したあとで、両隣りの人がチャンポン食べているのに気づき、「ああ、こっちにすりゃよかったかな」と思ったので、その思いを成就するために今日も王将。うまかった。
帰りに出口のところで、おとなりの大学の学園祭のポスター発見。 なんと笑い飯がやってくるそうな。おお、おとなりの大学祭はお金あるんだなあー。行きたいところであるが、その日は青年心理学会でしゃべらねばならぬ。笑い飯に誘惑されている場合ではないですよとばかりに、打ち合わせのメールが来た。
しかし、指定討論って難しい。あんまり準備しすぎてもつまらないし、準備しないとしゃべれそうもない。とりあえず、なんかウケをとろう。つかみが肝心だ。・・・なんて考えててもしょうがない。でたとこ勝負だ。
2004年10月23日(土) |
寿司とチェックリスト |
朝から研究室へ。科研費申請書のつづき。 ほんと、ややこしいことこの上ない。
やがてお昼前になったので実家に車で向かい、親をのせて再び彦根へ。 親を目的地でおろし、その後、再び研究室へ。 もらったお寿司をたべる。うまかった。
それにしても、書類書きは、なにぶん経験がなくてこれでいいのかどうかわからない。一生懸命に書いてても、あさっての方向にがんばっててはしょうがないからね。四苦八苦していたら、はかったように大先生がチェックリストをメーリングリストに流してくださるではないか。 ありがたや、ありがたや。
おかげでなんとか見通しがたった。 後は、微修正して月曜日にだすだけ。
その後、授業準備をして現在9時前。今日はよく働いた。 えらいえらいと自分をほめる。それに、今日はちょびっと良いこともあった。月初めにもう帰ってくるなとお願いした論文がなんとか成仏したことがわかった。一安心(とはいえ、誤字脱字の多さに、自分の強迫性のなさを知る)。
そろそろ帰ろっと。
京大アフリカ研の高田さんを迎えてのここから研。
セントラル・カラハリ・サン(グイ/ガナ)の乳児向け発話(IDS)について、ビデオクリップを参照しながらのご発表だった。
グイ/ガナの音声には実に80近くの子音があり、そのなかの50以上はクリック音といわれる「チッ」とか「ッツ」というような音声である。日本ではこのような発音は普通ないが、高田さんはさすが器用にこの言葉を話しておられた。ブッシュマンの言葉を研究している人は全世界で1000人くらいしかいないらしく、僕らがアメリカいくのに『英会話入門』などもっていくのとはわけが違う。言葉のわからない国でフィールドワークするなんて、とても僕には考えられない。
もっとも、それは関心によるわけで、高田さんの今回の発表はいかにIDSといったものが、いかに社会文化的な場において、他者を志向しながら行われるかということが主旨だったから、その意味では純粋に意味などわからないまま音が聞こえてくるという体験は、ある意味で有利なのかもしれない。
グイ/ガナでは、低い音もIDSとして機能している(我々の感覚からすれば高音だが)こと、生後半年ちょっとの赤ん坊とのIDSが、赤ん坊との原初的なターンテイキングになっていることなどが示されていた。
ただ、ターンテイキングというのは我々の社会に特有の規範でもあるのかなーという気がしていた。ブッシュマンの人々は、我々の社会とはことなった会話への参与構造をもっており、オーバーラップや割り込みが起こりやすいからだ。一人がしゃべって、次にもうひとりがしゃべるという、ターンテイキングというルールは、一人の人の言うことを大切にするというような我々の社会のコミュニケーション観の影響を受けているのではないかと思った。後で聴いてみたら、ブッシュマンについては、菅原先生などがターンテイキングからは逸脱する例を紹介しているが、しかし、かなりターンテイキングはみられること、しかし、我々の社会における会話のルールとはだいぶん意味合いは異なっているであろうということだった。
ところでブッシュマンは7割が日本的な枠組みで判断すれば失業者であるという。別に、彼らは農耕や狩りをやっていて、それが日本的には無職であるということではないらしい。まさしく、彼らはなんにもやっていないらしいのだ。ブッシュマンのいるボツワナは、ダイヤがとれるのでとても裕福であるらしく、税金なんか払わなくてもけっこうな金額の年金やら配給がもらえるらしい。そら、働く気もなくなるよね。「いいなあー」と感嘆する日本人たちであった。
9時頃お開きになり、みなさんを駅までおくってから大学にとってかえし、科研費の申請書。むむ。めんどくさい。めんどくさいぞ・・・・。といっているまにもう夜中の2時。さすがに二晩研究室に泊まるのは身体によくないのでそろそろ帰ることにする。いやしかし、最初は出すことに意義があるなんていっていたが、これだけ面倒くさいとやっぱり採択されたくなるぞ。
もしかすると、この面倒くささは研究者を本気にさせる効果があるのかも(んなわけはない)。
ゼミの卒業アルバム写真撮影に、卒論指導。 その後、5限に授業。
またもやプロジェクタは反応せず、黒板での授業となった。 最近プロジェクタの調子が悪いのか、本当にこういうのは困る。 普段、板書あまりしないので、授業は思うようにすすまず。 そして授業後、プロジェクタをたちあげてみると、立派に機能するではないか。なんだ。なにがおかしいのか。
科研費の申請書書きに四苦八苦。科研が書けんとかオヤジギャグをいっている場合ではない。あと4日・・・・。
■ ふと思いたってマーク・ジョンソンの『心のなかの身体:想像力へのパラダイム転換』(紀伊国屋書店)など書棚からひっぱりだして読んでみたりする。「客観主義」だとか、身体化された言葉だとか書いてある。これを買ったのは大学院浪人がおわって、入学をまつまでブラブラしていた時だったかな。当時エーデルマンとか、レイコフとか、パトナムとか、いろいろそれ系の本をたくさん買ったな。ひととおり読んだはずだが、果たして身になっているのかいないのか・・・・。それ以前に当時の俺は分かっていたのか・・・・。
■ 台風は彦根を直撃したらしいが、不思議なことに彦根はとっても静か。大学はそうそうに人がいなくなり、静かななかで授業準備とか論文とか。静かだとおもっていたが、帰りに犬上川をみたら、ありえないくらいの水位。付近住民が懐中電灯片手に見回りに来ていた。
■ 昨日、生協でおもわず買った杉山幸丸さんの『崖っぷち弱小大学物語』(中公新書ラクレ)をパラパラ読んでみる。著者は霊長類研究所で研究一筋の生活をおくったあとに、請われて現在の学部の学部長として赴任した。学生のあまりのレベルの低さ、教育・研究環境の悪さにあぜんとしながら今までやってきた軌跡を書いておられる。実は、この学部長の大学で、学生相談やら非常勤講師やらやっていたこともあって、その崖っぷちっぷりが容易に想像されてしまった。詳しくかくとさしさわりがある(かもしれない)のでみなまで書かない。
が、授業や学生をひきつける工夫等は僕らもみならわねばならない点がたくさんあると思う。もっとも、学生のなかにバーッとでていって勝負するのではなくて、ドライにつきあいたいという人にはやや息苦しい職場ではあるなと思った。
2004年10月19日(火) |
レジュメやら原稿やら |
今日はゼミひとつ。それなりにちゃんとレジュメを作ってあったからよかった。もともとの論文が専門的な知識を多く必要とするものだったから、僕がたくさんしゃべってしまった。
前にも日記に書いた気がするが、、、。こんなレジュメでいいのかと懸念して発表をやめてしまうのではなくて、まずは出してみることが大事だ、と思う。
頭のなかにあるものは、そのままでは、一生、誰にも見ることも触ることもできない。だから、頭のなかにある問題を解決できるのは、その頭のもちぬしだけということになる。
しかし、出せば皆がそれに反応できる。まずはどんなつたなくてもいいから外に出すことである。外にだせば皆がそれを見たり触ったりできるから、もはや問題はその人だけで解決しなくてもよくなってしまうのではないかしら。
■昨日、〆きり番長に電話したところ、案外、番長も困っているらしいことが判明してやや安心。〆切りもみんなで破れば怖くない、である(ほんとか?)。
あ、そういえば(〆きりもみんなで破れば怖くないといえば)コミュニティ心理学会のハンドブックはどうなったのだろうか。まさか御破算になったりしてないでしょうね。連絡がないのがちと不安・・・。
2004年10月18日(月) |
問題なのか、解決なのか |
SFBTとナラティブセラピーはしばしば似ているといわれるが、違うとホワイトはいっている。SFBTは解決に焦点をあわせ(解決志向なんだから当たり前だが)、ナラティブセラピーは問題に焦点をあわせる。
しかし、最近はSFBTも2ループモデルなどといって、解決のループと問題のループを想定し、問題の共有ができてはじめて解決のループにいくことができるなんていうことをいっている。だから、問題なのか解決なのかということはさほどたいした差ではないような気がしないではない。
むしろ、両方ともに問題視しているのは、ためにする問題の構築ではないかしら。つまり、学校内である子がしばしばパニックになったとして、みんなどう関わってよいかわからないから、とりあえず問題点をだしていくことになる。このような時、お互いの理解をすりあわせていこうとすると、ますますその子は問題を抱えたどうしょうもない子になっていく。
ナラティブセラピーでも、現在の個人主義的な規範、文化におさえつけられて自由になれないクライエントを、よりましなストーリーへと導くことがまず目指されていて、その目的のためにクライエントの問題にまみれたストーリーをきくことになる。
要は、エンパワーする会話か、ディスパワーする会話か、そのどちらなのかということが問題なんだろうね。
2004年10月17日(日) |
再び検索されるかしら? |
最近、やたらと臨床心理士というキーワードで検索して僕の日記にたどりつく人が多い。僕らのころもそうだったが、臨床心理士の人気はとても高い。僕のときは大学院の倍率は10倍であった。いまはけっこう定員が増えたからそうでもないかもしれないけど、高いのには間違いない。それでもすごい数の人が毎年、大学院にはいっていく。
そうやって大学院に入って2年間すると、臨床心理士の資格試験が受けられるわけだ。
しかし、そんなに増えてちゃんと教育できるんかいな。
僕が大学院に入った頃、精神科医の教授は、「20ケースは見ないといかん。それくらい見ればちょっとは感じがわかってくる」といっていた。僕は、研究にリソースをさいていたこともあって、臨床をバリバリやる人に比べれば少ないが、そでもたぶんそれくらいはみていると思う。もっとも博士課程の5年間をかけての人数である。
大学院の相談室には来談者が以前ほどこなくなったし、こちらのスタッフの数自体が莫大な数にふくれたので、2年間で20ケースなんて不可能に近いと思う。なかには1ケースもみないででていってしまう人もいるんじゃないだろうか。それで、いきなり外でケースをみろといわれても無理だよね。
では、どこでケースをみているのかというと、外部の病院やクリニックに研修生というかたちで勉強させてもらいにいくのである。当然、そういうののすべてを担当教員が面倒みているわけではないから、外部の機関の先輩方にあうと苦言を呈されることになる。指定校で教えるのはとても大変だ。
その点、僕はいま臨床心理学を教えているけれども、学生は臨床心理士になりたいわけでは必ずしもない(なかには希望している人もいるが)からやりやすい。学部生のうちは、臨床心理士なんて意識しないで人間を見る目を養ってほしいと思う。
僕も、昔ははやく専門的な知識を学びたいと思ったものだったが、結局、人間を見る目を養うこととか、自分の問題に向き合うこととか、そういうのは学部生のころしか落ち着いてできないと思うから。
2004年10月16日(土) |
落ちなのか、下げなのか、、、、いや、それは問題じゃない |
昼前にでかけ、喫茶店でパソコンをもちだして原稿を書く。けっこう店内がこんできたので、さすがに邪魔かと思い大学にいくことにする。レジでコーヒーメーカー(1リットルはいるやつ)が大幅値引きしているのを発見し、衝動買い。研究室にすえつける。コーヒーをいれてみると、さすがついさっき引いてもらった豆だけあってなかなかよろしい。ニンマリ。
というわけで、昼からはコーヒー煎れつつ、音楽をならしつつ、原稿を書く。しかし、依然として「構造構成主義」を原稿にいれこむことはできず。
昔、『らくごのご』という、つるべと、ざこばがフロアからお題をもらって即興で3題話をするという番組があったが、そこでざこばが苦しんでいるのが思い出される(つるべはああ見えて、実は、もんのすごくスマートなのである)。
ざこばはオチ(ざこばは「下げ」という)がみつからず、散々迷走を続けたあげく、「というわけでえ〜〜〜」というセリフとともに、主人公をいきなり殺したり、また生き返らせたり、とにかくめちゃくちゃすることで有名であったが、さすがに原稿は「え〜、と〜〜いうわけでえ〜〜(フロア苦笑)」とはいかない。
ちょっとひとやすみして、学生相談室で春にとった全学のメンタルアンケートの集計などしてみたりする。こっちはなんとサクサクいくことか。さすが数字。後は、保健室の先生にやってもらおう。
再び原稿。どうも進まず書いては消し、書いては消し。オチがないぞ。そういえば、以前、語りの論文を書いたとき、話者が最後にどのように話をおわらせるのかというところに注目した指標をつくったことがあった。それを「落ち」と命名したら、査読者から「論文にふさわしくない」として「締めくくり」などはどうかと言われたのを思い出した。
いや、あれはやっぱり「オチ」ではないかな。締めくくりなんてなまやさしいものではなく、「オチ」は関西人にとっては、必ずつけることが求められる強力な規範なのだ。「おい、お前の話、オチあらへんやんけ」と言われると、もはやこれは人間としての格まで疑われるような切迫性があるのだ。また、同じ言葉をしゃべっても、関西人なら「なんでやねん」とつっこんでくれるので、バカにされながらも「ああ、おいしい」とひそかに喜びにひたれるものを、名古屋にすんでいた頃は「あ、そうなんだ」「え、それ違うよ」とタダのアホ(名古屋ではタワケ)な人なってしまう恐怖ととなりあわせなのである。つまり、高度にインタラクティブで、文化依存的なものなのだ。そういう意味で、オチという命名はよかったと思ったんだけどな。関東人の査読者には伝わらないだろうけれども・・。
午前中はバタバタしつつ、午後から実習。 その後、学生さんが次から次から。
来てくれるのはよいが、なかには入れない人もでてきて・・・ゼミ生がはいれないこともあり・・・。ま、めったにこんなにバッティングすることはないけれども、難しい。
なんか保健室の先生のようなことを言ってるなー。
原稿。やっぱり難しいぞ。 っていうか、構造構成主義ってなんだよ(お前が言うな)。
以前、保育関係者に「心理学者は嫌い」といわれたことがある。 データだけとって、現場に迷惑をふりまいて、保育者のおもいなんか関係なく去っていく。だから嫌いだ、と。
それは僕もそう思う。インタビューするだけして帰るのではなく、できればインタビューがその人自身にとってもなにごとか意味のあるものになっていればいいなと思う。インタビューした校長先生から「いろいろ考えさせられます」などと手紙がくると、社交辞令がだいぶんはいっているとわかってもうれしいものだ。
でも、いつもいつも実践現場の都合にあわせて研究していけるわけじゃないし、実践者がやることがどんなにすばらしくても、それが即、正しいというわけじゃない。実践者だって見えていることもあれば見えていないこともあるわけで、何がいかされて何がいかされていないのかを冷静に観察してくれる人はやっぱり必要じゃないかな。そういう研究者のあり方はけっこうしんどいものがあるかもしれないが、だからって実践家バンザイになっちゃったらダメじゃないか?。
どうも教育心理学会では、これまで心理学でカッツリ頑張ってきた人が白旗あげてしまって、「実践家はすばらしい」といってることが多い気がしてなんだかなーと思った。それじゃ、期待して学会に来てくれてる先生方に失礼なんじゃないかしら。もちろん、直接的になんか役にたつことを提供しろっていうんじゃないとしても・・・・。
2004年10月13日(水) |
複数の社会的アイデンティティが交差する場としてのスーパー |
昨日、クリーニングをだしていたところ、店員のもとに、別の客がビニール袋に入ったなにかを持ってきて通り抜けざまにさっとレジ台のちょっとおくまったところにおいた。このクリーニング店のブースは、あるスーパーのなかに入っており、クリーニングに用事のない人でも外を通れる。
A:これおかし[ (( ))] B: [い や:::: ]そんなんええわ。あんた::::。 A:いや、おかして。これ。 B:いや::::: [沈黙数秒間(体感)] A:(僕にむかって)えらい、恥ずかしいわhhhh。590円です。
Aはスーパーに買い物にきている客であり、Bは店員である。普通、客と店員のインタラクションとして上記の展開は異常である。クリーニング店の客でないとしても、「あ、どうぞ」くらいの返事が帰ってくることが期待される場面である。しかし、BはAがいうかいいおわらないかくらいの段階で、それにかぶせてBの依頼を断っている。しかも、単に断っているのではなく、いつもおばちゃんらがレジ前で「私がおごる、いや、私が」とやるあのイントネーションをともなっている(私がーいや私が連鎖と命名)。
実は、AもBもともに中年女性であり、Bは明らかにパートで昼間だけこのクリーニング店にきているようにみえる。Aとも地域の友だちなのであろう。つまり「これ、おかし・・」という最初の客の発言は、「これ、置かせて」という単なる依頼であり、そこでは店員の女性は、店員として(少なくともこの店のブースに何をおいてよいかの許可をだす人物として)志向されている。これに対して、店員は「これ、おかし・・・」を「これ、お菓子(だけど、受け取って)」というメッセージとしてとらえ、自らが「客と顔見知りの人間」として志向されていると受け取ったというわけである。
Wenger(1998)は人は一度に複数のコミュニティに同時参加しているといっている。この複数のコミュニティに参加しているということを、Wengerは複数の円の重なりによって図解しているのだが、このようにあらわすと以前、細馬さんの発表でもあったように、なにかコミュニティや、メンバーシップという概念が所与のもので、静態的なものであるかのようなイメージがついてまわる。
しかし、上記の例からは、店員、客という社会的なアイデンティティが、スーパーの店内というような場所にあっても、いかに所与なものではなく、社会的相互作用のなかでつくりあげられるものかということが上記の例からはみてとれるだろう。しかもBは「恥ずかしいわhhh」と私にその場を共有したものとして、私とのあいだに人として対等なアイデンティティのはっきりしない関係を持ち込んだかと思うと、次の瞬間には「〜円です」と、丁寧語をつかって店員ー客という社会的なアイデンティティをとりもどしている。 このようにアイデンティティや成員性というのは、つかのまあらわれては消えるようなものなのである。
教育心理学会から帰り、今日は会議にゼミ。3年生と今後のうちあわせ。 はて今年はどうなるか。
来年、困らないように今しっかりやってくれたまえよ。
しかし、聞くところによるとT先生とM先生のゼミはあわせて4人だと。なんだなんだ、片寄りすぎじゃないのか。ま、仕方ない。どこかが間口を狭めれば、広い方に人が集まるのは道理か。・・しかしなあ。
質的心理学会にお金を呼び込むため、臨床心理士の資格関連のワークショップを企画中。大阪のNさんにシンポジストを頼んだがあえなく断られる(;_;)。おもしろいことやっていらっしゃると思うんだけどなあ。
学会3日目。もう、そろそろ疲れたぞ。
今回はやけにポスター会場をうろうろしたような気がする。 あんまりいきたいシンポがなかったからというのもある。しかし、ポスターセッションは立って話を聞くからしんどい(「そんなおじいちゃんみたいなこと言うな!!」と自分ギレ)。
そういえば、ひさびさに学会でLearning ScienceのSさんとあって話。「質的心理学会」の動向など聞かれる。僕はきわめてperiphery(むしろ志向としてはmarginal)な存在のつもりでいたのだが、世間的にはもはや一味であるらしい(いや、ずっと前からわかってるのだけども)。
質だの量だのと言ってる場合ではない。物事をよくみる(あるいは体験する)ってことが大事なのであって、それをいかに小手先で表現するかということが問題ではないのだよね。
当たり前のことのようだけど、なかなか論文書くことにいっぱいいっぱいになると考えられなくなる。大岩先生の、研究労働と、研究活動の違いの話が思い出される。
Sさんと意見があったのは、2日目のtoma先生のセッションが一番よかったということ。質的研究で大事なことは、聞き手もまた、ある時間的プロセスのなかで、その研究を媒介として、現象を追体験するということなのかも。
いつもSさんとしゃべると、自分がやっていることがなんとスケール小さいことかとプチ自己嫌悪におちいる。がんばろ。
ところで、昨日の「問題」について考えるシンポについて。
質的研究が教育実践のリアリティに迫りやすいのはうなづけるし、そこでは「わかっているつもりでわかっていない」ことがしばしばであることもわかるのだけれども、そうするとその現場にあって、はたして当の子どもや生徒、対象となっている人はどうだったのかという疑問もちょっと持ってしまった。
実践活動の大目標は、やっぱり子ども(あるいは受益者)にとってどんなよいことをするのかということなんだとしたら、「わかっているつもりでわかっていない」ということが、そういう人たちにとっての悪影響にもつながていくことは、やっぱり良くないことに入るんじゃないかと思うよ。
なにも実践者と研究者、ボランティア同士、教師同士が分かりあえてなかったということがあっても、その両者の関係にはさしたる危機が訪れるわけではないけれど(訪れることもあるけれど、昨日書いたように)、対象となっている人のことをわかっているつもりで、皆わかっていないということがあってはもともこもないよね。
教育心理学会2日目
午前のセッションは『教師の実践知を描きだす試み』ということで、九州のある小学校で教鞭をとられている山本先生と、その先生の実践を分析したtoma先生の発表。
山本先生の実践は素晴らしく、途中で一瞬目頭が熱くなるような場面もあるものであったが、toma先生の語りもまたよかった。聞きながら、はたして自分の授業実践はどうかとボーッと考えてしまった。
さて、フロアからは、どのような契機でこうした素晴らしい実践が編み上げられていったのかといったことが疑問としてあがっていた。が、山本先生は「偶然のかさなりによって」とあまりそういうことはどうでもよさそうでポツリポツリとしゃべられる。しかし、自分の実践のなかでこの1時間の授業がどのような学校全体の歴史性に埋め込まれているのかとか、こだわりをもっている授業観の話になるととたんに嬉々としてしゃべりはじめる。あんまり心理学的にどうこうということに(良い意味で)価値をおいていないように見える方であった。
なんというか、うまくいえないが、こういう先生だから、共同研究もうまくいくのではないかなどと少し思った。
午後からは解釈研究会の「問題」という言葉をめぐるシンポ。自分がこれまでやってきたテーマととても重なるもので興味深く聞いた。
一見、自明な「問題」「問題児」という言葉が、本当のところ実践者と研究者で共有できるものだろうかというようなことが最初の問い。自分がこれまでみてきたことと重ねていずれの研究もとてもおもしろかった。おもしろかったしか言えないのがもどかしい。頭のなかでいいたいことはたくさんあったが、グルグル回ってしまって発言することができず残念だった。
なんというか、「分かりあう/分かり合えない」という言葉(つまり、理解するということ)は達成動詞である。だから、それは個人の内面のこととして考えるのではなく、そのような理解/あるいは誤解を可視化するような実践があるだけなのだと考えた方が僕にはしっくりくる。
誤解や理解というのは、常に過去形でしかとらえられないものだ。とすれば、理解を可視化する実践、あるいは、とりわけ誤解をよりマイルドな形で可視化する実践を考えることが、役にたつ研究の条件ではないか。
例えば、更生保護施設ではしばしば指導員は非行少年を「普通の子」という。しかし、これには実は「だけど、やっぱり怖い子」という言葉が暗黙のうちに含んでいることに気づかねばならない。さもないと、普通の子だからと少年になれなれしくつきあったあるボランティアは、この施設から追い出されてしまったりする。このような形で可視化された誤解は、なにも生み出さない。
誤解を生産的な形で可視化する条件を考えるべきではないかと思う。そのためにはどんな条件があればいいのか?。『ボトムアップ』で考えている学融とも重なるテーマであり、今かいている本にも関連する問題だ。
じっくり考えたい。
教育心理学会の1日目。教育心理学会は去年に引き続いて2回目。 会場は富山。朝から北陸本線にのり、福井駅でサンダーバード1号にのりかえて富山へ。4時間かかって学会会場へ。ちかれた。
来年は北海道だという。なんでそんなに北にいくのか。もっとも北大の人から言わせると圧倒的に「僕らからすると、なんで学会は南にいくのかってなりますよ」。そりゃそうだ、ごめんなさい。
シンポジウムにはでずにポスター発表会場でうろうろ。出版社の人に声をかけられる。新入社員の方らしく、上司から聞いて一度会ってみようと思ったという。なんと奇特な方。
午後の最後のポスターで発表。どうも準備不足は否めず、うまくしゃべれなかったとすこし自己嫌悪。ちょっと考えなおして論文にまとめようと思う。
2004年10月08日(金) |
ヘルメット実験と生徒指導 |
午後から質問紙実習にここから研。
質問紙実習は、けっきょく1時間グループ毎の話しあいとなった。 各グループとも議論がもりあがってそうだったので、僕はそのあいだをまわってアドバイスするだけでよかった。1時間の授業をほとんど学生だけでちゃんと議論ができるのはすごい。
ここから研は、10月末からUCLAのグッドウィンのところに在外研究にいかれる細馬さんの壮行会をかねて、細馬さんの発表。
ジェスチャーと言葉で、頭にかぶったヘルメットの上にはられた小さいシールの位置を教えあうという課題のインタクラクションの分析をしておられた。僕は予備実験のとき、ゼミ生とペアで被験者になったのだが、奇妙な課題である。
細馬さんは、まず、我々は言葉が曖昧になり、言語的なコミュニケーションが破たんしやすい状況を設定した上で、しかし、コミュニケーションに一時は失敗しているにもかかわらず、結局、最後には目的を達成できるということに驚いている。
さすがというか、なかなか普通の人にこういう驚き方はできない。
さて、 被験者のふるまいをみると、お互い手を動かし、「あー」とか、「それそれ」とか実にいい加減なガイドによって、しかし実に簡単に目的を達成している。お互いのふるまいが、失敗ばかりであるにもかかわらず、お互いの次の行為のリソースとなるという観点がとても面白かった。
個人的には被験者同士が別に決められたわけでもないのに、互いに手を動かしあい、それをリソースにして問題を解決しようという、まずその構えがあることにびっくりした。
実験条件では、右と左は、話者中心なのか、聞き手中心の視点なのかということによって、その解釈が複雑になるという話しであったが、しかし、ひとたび一緒に手を動かすという姿勢をつくることを相手にさせてしまえば、実は、左や右にいかせることは簡単なのだと思う。
おそらく、この一緒に手を動かすという姿勢に相手を引き込む事ができないと、相手は左でも右でもないところを探索してしまったりして、話し手のリソースとはなりえないのではないか?。
ふと、生徒指導の先生のインタビューで、先生がたが一生懸命、破られても破られても規則をしめそうとしたり、本来は正しくはない規則をまもらせるためには関係をとることが大事だと述べていたことが思い出された。
生徒指導というのは違反(行動)をさせないことが最終的には目的であろうが、実は、生徒とのあいだに「これは良くて、これは悪い」というルールを共有しようという活動であると思う。つまり、生徒が規則をやぶったら、それは正しく「悪いこと」として互いが了解しあえるような関係を築くのである。これが生徒指導で「人間的つきあい」をするということの本質であろうと思える。
臨床心理学の1日目。今年は5限目ということで、受講生もそれほど多くないようだ。やっぱり5限目はつかれるみたいで、みんな感想カードにはつかれたと書いていた。
記憶がさだかではないが、僕が大学生のころ、5限なんてなかったぞ。あるとすれば心理学実習くらいか。そもそも4時半に部活の全体練習がはじまる。その30分前にはアップしている必要があったから、心理の授業以外で、4限目にはでた覚えがない。
さて、ところで授業の1日目。
新しいMac君の出番と思いきや、なんとプロジェクターにつなぐプラグがない。探しまわったがやはりない。そこで竹下先生に借りてなんとか事なきをえた・・・・・・はずだったのだが、プロジェクターに反応しないのはどういうわけだろうか(泣)。
学生を待たせるわけにもいかず、ぶっつけで黒板をつかってイントロ。まあ、さすがに同じような授業を4回もやっているからなんとかなった(あくまでも自己評価)。
やはり文明の利器に頼ってはいけないなと痛感した木曜の夜。
2004年10月06日(水) |
消化なのか、昇華なのか |
昼から非常勤。
昨日の担当者さんのメールによれば比較的、予定は入っておらず。まあ、こんな日もたまにはいいねと思っていた。・・・・・のだが、しかし何かがおかしい。今日もサービス残業の日々。もっとテキパキやらねばならぬ。
懸案となっている原稿は、とりあえず進んでなんとかなるかもという見通しがでてきた。もともと、ある論文をリバイズして主旨にあうものにするだけなので、まったく一から書くというわけではない。が、主旨にあわせようとする、どうもいろいろな部分を変えなければならず、まだまだ先は遠い。
最近考えている「よくかんで食べましょう」というテーマがいかせればいいんだけど・・・。といっても、食べて消化してしまったものは、他人に食べさせられないというのが難点かな。消化促進剤みたいなイメージか。しかし、それでは腹にためるというような感じが消えるしな・・・。
授業も始まってしまえば、生活にペースができていいような、しんどいような。今日は、会議に3年ゼミ。ほかいろいろご相談。
学生さんが次から次から。
教育心理学会の発表内容を考えなければならないのだが、なんとなく進まない。ついでにとったデータなので、やっぱり何をやっても説得力にかけるかんじは否めない。
むむ。
富山県は、藤子不二雄の生誕の地だから行くのは楽しみなのだが学会がなければもっとよいのに(かといって、学会でもなければ自分ではいこうとしないかも)。
発表内容も山森さんのリクエストに応じてMLで宣伝したいところだが、どうも自分のなかで煮詰まっておらず。いいのか、週末のことなのにこんなこと言ってて・・・(たぶんダメよね)。
11月の研究会について企画者の方からメール来る。自分は司会だから気楽といえば気楽であるが、話題提供者とか、指定討論とか大変ですな。
いや、むしろ指定討論者かな。即興性が求められる。僕はどちらかというと話題提供の方が気楽である。
ところで指定討論といえば、僕はその前週に九州でしゃべらねばならなかったのを思い出した。指定討論ってこれまでに1回しかやったことがないが、なかなか難しいものだ。
不安になるので、pptでも用意したい気分ではあるが、しかし話題提供になってもいけない。前回はフォーマットだけもっていって、その場でpptを完成させたのだが、今回はうまくいくかどうか。
はっ。その前に学会の準備準備っと。
学生相談に1年の実験実習で1日中忙しい。
1年生の実習は最初ということで迷ったが、KJ法体験をしてもらう。朝から売店にいって模造紙やらなにやらいっぱい買い込んで準備。
わりあい大人しい学年だと思っていたわりに、みな一生懸命に頑張ってわきあいあいと作業は進む。なかなか楽しくすすんだのではないか。
ひとつの布置は完全なものではない。実は、同じデータでも切り取り方によってまったく違う布置になる。インタビューの仕方も難しい。「楽しいこと」なんて簡単そうな質問も、意外と難しいんだと実感。グループ内の話し合いをところどころ聞いていると、なかなか面白いことを話している。
こういうグループディスカッションを、そのままビデオにとってフィードバックしたりしたら面白いかもなんて思った。こういう話しあいはさらっと流れていってしまうから、もったいない。大事なことを体験しているということを、できるだけ言葉にしていくにはどうすればいいかしら。ふむ。
次回は2週間後。自転車操業の日々は続く。
朝から、ボトムアップ研究会の2日目。細馬さんの発表。
塾での生徒の会話のなかで、いかに○○中学の生徒とか、○○中学の○○組の生徒といったカテゴリー、あるいは○○中学の生徒でありつつ、塾の塾生でもあるというカテゴリーの切り替えをやっているのかという話。
切れ味鋭い分析で大変おもしろかった。
フロアで議論になったのは、会話分析がいったいどのような役にたつのだろうかということである。
これは心理学者とか、教育学者とか、なにか実際の現場のことをどうにかしたいという欲望を持っている人のもつ疑問だ。純粋な会話分析は、会話の形式にのみ興味がある。会話が、それとして成立するのはいったいどのようにしてかということを解明することが唯一の目的で、そこで話されている内容がどのようなものでも構わない。
しかし、心理学をやっている人はたいていそれでは納得しない。例えば、僕は非行少年がいかに更生するのかを明らかにしたいと思って、施設での会話の会話分析をこころみた。ここでは、とりあげられる会話はどんなものでもいいわけではなく、会話の内容にも興味があるわけである。
ここに無理が生じる。われわれは正統な会話分析から逸脱して、会話内容にも興味をいだいてしまったので、単なる形式の記述におわる会話分析に満足できなくなってしまうのだ。つまり、それは下手な色気をだした我々の責任であって、会話分析の責任ではないということだ。どのように位置づくかということは、心理学の文脈で使う人たちが個別に考えなければならないことだと思う。
僕が思っているのは、実践の反省的な見直しに使えるということだ。非行少年を、問題児とよぶことによって、何がみえて何がみえなくなっているのか、彼らのひきおこす問題を彼らの能力のせいにすることによって、いったい非行問題をどのようなものとして見せることになっているのかということを反省するために、会話分析的な分析は使える。
ただし、そういうことを言いはじめると、研究者自身のスタンスとかポジショニングという問題を避けてとおれない。というのも、これまでと違って研究者が会話分析で見いだすのは、現場の人がすでに知っていることばかりだからである。
冒頭の塾や学校の会話よろしく、我々は自分しかしらないことに関しては、優先的に語る権利をもつし、皆からも無条件に承認されることを期待している。「朝、コーヒー飲んできてん」と友だちにいったら、もし本当は嘘をついていたとしても、それが嘘だなどとつっこむ友人がいるとはさしあたって考えにくい。
けれども、友だちもみんなが知っているアーティストのCDを聞いて、この曲はああだこうだという時、自分の解釈は無条件に受け入れられるとは限らず、どれだけそのCDが素晴らしいかを演説しても「ええ、そうかなあ」とか「僕はそうは思わない」などというようなつっこみを受けても不思議ではない。
そういう時、僕が彼らにそのCDの素晴らしさについて承認してもらおうと思ったら、とりあえず周囲の人がそのCDをどのように聞き、どのような感想をもっているのかを知ることが大事だろう。そして、「ああ、それもわかるなあ」なんて思いながら、でも自分の感じ方とどこがどう違うのかと考えなければならないと思う。
その過程でおそらく自分はCDについて以前よりもはるかにたくさんのことを知るようになるだろうし、周囲の友だちの感じ方についてもはるかによく知ることになるだろうと思う。
会話分析の結果が、実践家の反省のツールになるとしたら、おそらく研究者がこのCDを語る人と同じような境地にいたった時ではないかという気がする。
2004年10月02日(土) |
ボトムアップ研1日目 |
ボトムアップ人間関係論の研究会1日目。
高橋先生の発表は『地域の公立小中学校に通う障害児は何を学ぶのか』という題で、活動理論的アプローチから、ご自身が発達相談を通してかかわっておられる障害児学級の子どもの両親、あるいは教師へのインタビューを中心としたもの。
インタビューをもとにして、そこにある両親と、教師とのあいだにある矛盾や葛藤についての記述がなされていた。
活動理論的に考えるならば、子どもの発達は個的な能力の増大ではなく、子どもの当該のコミュニティにおける参与の仕方の変化ということになる。これは言われてみればそのとおりだけど、とても大事な見方だと思う。
インタビューで語られている内容は、ある程度、定型化されたものであるかもしれない。のだが、こうした語りが普段もいろいろな場面で使われているならば、そこでの実践の意味を理解するためには、こうした語りを分析していくことはとても重要だと感じた。
というのも障害児の両親は、それこそ子どもが小さいころから、いろいろなサービスを求めて自らの立場を語ってきた人が多いと思うし、内省的に揺れながら語っている場合ではなかっただろうと思うから。
最近、アイデンティティづいている。
某MLで話題のWolf-Michael Rothといい、講演会をききにいったBamberg先生といいアイデンティティばやりである(あくまでも自分的に)。
そしてよく考えてみると、最近、僕がやっている教師のインタビュー調査で語られていることも、実は、教師がいかに「教師アイデンティティ」を手に入れるかということをめぐっての語りだと思えてきた。
普通、生徒指導と養護教諭は、男性的ー女性的、厳しいー優しい、頑張らせるー受容するといった対極的なイメージで語られることが多いけれど、インタビュー場面での語りの水準では、果たしてそんなに差があるのだろうかと思えてくる。
養護教諭だって、教師として学校のなかで存在をみとめさせる過程では、当然、厳しいことだってやらなければならないし、保健室に入室させるかいなかをめぐって生徒と日夜闘っているようなものである。生徒指導の先生が、ずっと厳しいわけでないのは前にいったとおりだ。
むしろ、上記のような二分法をとることで見えなくなっていることは何かと考えなければならないかも。
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