アガリ体質 - 2004年07月29日(木) これまた他の方の日記からなのだが (まだリンクを貼る技術を習得していません。ホントにごめんなさい。) 「本番に強い体質を身につけることは非常に大きなことだ。」(意訳です) という主旨の文があり、 私は大いに頷いた。 …という以上にそれを何とかして身に付けたくてたまりません!! 私は数日後に舞台で、ピアノを弾かなくてはいけない本番があるのだが、 なにしろ私は超アガリ性。 かなり練習して弾きこんで、手の内にバッチリいれてきても 舞台にあがって、いざ本番!となると 手や足の先がガタガタきて、音符の40%引き大出血サービスという悲惨さ。 「いや〜、音は抜けてたけどね、中身はとってもよかったよ。」 なんてフォローしてくれる友人はいるが 気休め以外何者でもない。 私はあくまで中身をちゃんと“かたち”にしたい。 この演奏会、音大時代の有志の仲間とともに 卒業以来、毎年1回必ず続けているもので、 今までかれこれ数十回。 ピアノに限らず歌でも室内楽でもなんでも良いのだが、 やはり個人個人の生活時間からいって、どうしてもみんなピアノになりがち。 今年は全員ピアノになってしまった。 で、私はピアノを習い始めたのはもちろん音大時代からではなく 遡ること、5歳の時からだ。 当時からピアノ発表会なんてものがあったから かれこれ舞台でピアノを弾くのは、きっと50回は超えているに違いない。 いや、実技試験なども数えたら本番は100回超えるのではないか?? なのにこのテイタラク。 あ〜あ。 マイハニーにも「こんな30ウン年、弾いてるのになんでアガリが直らないの?」 と呆れるように言われるが、 直んないんだよー! ただ不思議なのだが、 歌や芝居、スピーチなどではほとんど問題がない。 これは最近、養成所でさらに鍛えられ慣れたせいもあるが、 むしろ本番の緊張がプラスに作用して、 テンション高い芝居ができるくらいだ。 あ、そんじゃ今度から舞台では芝居でもすっか。(←いいかも?) まったくもって本番に強い体質がほしい。 こんな私にも数少ないが、 本番で気持ちの調和がとれて、 お客さんの息遣いまで感じながら 楽しんで弾けた時もあったのだ。(2回。これははっきり覚えている。) こういう風に本番に安定した集中力を持ってくる技術とはいかに? それが出来たら、私の人生も相当変わってくると思うのだけどなあ。。。 ... 川の流れのように - 2004年07月27日(火) ある方の日記で 「出会いとタイミング」という 簡潔ながら大変含蓄に富んだ文章を読んだ。 (すみません、リンクを貼るやり方がわからなくて・・・) 本当に「誰と」「何と」出会うかで人生の大半が決まっていくような気がする。 実際私の今までを振り返れば、そうだとしか言いようがない。 では違った「出会い」があれば違った人生になるのか? よくそんなことを考えたりもした。 そして人生に「たら」「れば」はないのだ、なんて結論めいたものをだしてみたり。 いや本当のとこ、そうだと実感することが多いけどね。 ただ最近思うのは「出会い」って 自分の意思でなくて(そりゃ当たり前だが) なにか大きな、人間の意識じゃとらえられないくらいの大きな流れ(宇宙的な?)によって出会うべきものは出会ってしまう、ということを思う。 今までホントに出会うべく人、出会うべく音楽や本に出会ってきた。 そうして私もマイハニーと出会ったわけです。 …いやいや、これが言いたいがために書いたわけじゃないですよ(笑)。 でも彼女との出会いもきっかけはネット上という、 自分の「恋愛」の常識から考えたら、全然思いもしないところだった。 …出会い系サイトでは決してないですけど。 お互いの友人、親戚のHP上でした。 それから「タイミング」。 私も他の方のBBSに書いたことがあるが 「すべてに時がある。」ということ。 これは聖書の言葉。 若い人には(自分だって若い頃には) そんなこと言われたって「なに言ってんだよ〜。人生は自分でしか切り開きようがないんだよ。」と言われるだろう。 でもそれがそうでもない。 「時」は必ず来るのだ。不思議だが。 いささか話が宗教っぽくなってきたが、 でも歳をとればとるほど、それまでがそうであったと思いませんか? もちろん色々苦労した上でだけど、 いつも収まるところに収まってる。 「人事を尽くし天命を待つ」というか もちろんすべて努力した上でのことだけど。 その上で自分を自然の流れに委ねる。 自分を自然のままに委ねる、ってのは 考えてみれば究極の決心だ。 そうすればきっと岸に着ける ・・・ と思う。 あーー、とりとめのない文章になってしまった。 グルグルと色んなことを考えてしまいましたが、 皆さんにとってはどうなんでしょうね? ... またまた素敵な才能が - 2004年07月22日(木) 私は新しい未知の音楽や才能に出会うのが好きだ。 このことは折に触れて書いてきたと思うが 昨日もまた嬉しい、素晴らしい才能を聴けた。 田村響(ひびき)という18歳の男性ピアニスト。 日本もピアノ、ヴァイオリン、チェロでもここ数年 女性からはすごい人がでてくるが どうも男はダメだなあ…というのがちょっと寂しかったのだが この田村くん、すごくよい、と言う以上にとてつもない才能の持ち主だ。 外見は市原隼人くんみたいにモサッとしてて 小柄だがなんとなくマッチョな感じ。 お辞儀もなんだかぎこちないし、 座ってからもナカナカ音を出さない。 手を置こうとしてはまた引っ込める。 大丈夫かな?と心配するうちリストの「悲しみ」(3つの演奏会用練習曲から) を弾き始めた。 もう最初の20秒ほど聴いただけで疑いようのない才能がここにいる、 ということは明らかだった。 ピアノを弾いている、という次元を大きく超えて はばたくイマジネーション、得も知れぬ音色… もうここにいる少年がはっきりと“音”ではなくて豊かな“音楽”を見据えて弾いているのは手にとるようにわかる。 ほとんど「詩的」といっていいくらい。 私もその音楽に耳を傾けるうち、どんどん別世界へと気持ちが誘われていった。 この日、最高の出来だったのは後半のリスト「ソナタ・ロ短調」。 彼の能力がガップリ四ツに組める音楽(本当に巨大で特異な音楽だ。この曲は!) と出会って自由にふるまっていた。 ただ少し気になったのは、前半のリストとプロコフィエフの「戦争ソナタ」で 彼がこの自分のありあまる能力にブレーキをかけたがる、というか 控えめに、抑制をきかせて、という以上にブレーキをかける。 静かな、重く、暗い部分へと傾斜しのめりこむクセがあるのか 音楽全体はとっても安定感があって(なにしろどんな難しいパッセージでもラクラク、という感じだ。)健康的で、10代とは思えないくらいしっかりとした知的な構成感を示してくれるのだけど、 聴き終わったあと、どうも開放感がなく重い感じが残る。 それに彼が結構重めでしっかりとした、 そしてしっとりとしたタッチを基本にもっているので それがその印象をさらに助長する。 プロコフィエフの「戦争ソナタ」など 去年聴いた、園田高弘先生の爆演!? 75歳の老巨匠が私たちに「この曲はまさしくモダニズムの旗手の音楽だったのだ!」と 思い出させてくれた強烈な演奏に比べると こんなに穏やかな落ち着いた曲だったか? というくらいだった。 でも後半のリストのソナタはそうではなかった。 彼の全能力、思いのたけがすべて、 天使と悪魔、優しさから猛々しい情熱まで忙しく駆け巡るこの超大曲と一緒になって燃焼し尽した、 という手ごたえ。 華々しい技巧と音楽のどっしりとした安定感がしっかりと手を握り合ったリスト。 昔聴いたゲルバーの名演を思い出した。 アンコールのゴドフスキー「こうもり・パラフレーズ」。 この名人芸の披露という他何者でもない曲が そのふんだんなショー的技巧を超えて素晴らしくあたたかい歌に満ちていたし お客さんは沸きに沸いていました。 とまあ、職業柄、長所・短所色々必要以上に考え込んでしまうのが 私の悪いクセなのですが 若い時からこんなに才能に恵まれた音楽家(特に男性は)に出会うのは 私には本当に嬉しい出来事なのだ♪ ... ぎょえー - 2004年07月21日(水) 殺人的な暑さの東京です。 こういう時は学級閉鎖みたいに 社員の健康を守るために臨時休業とかならんもんですかねえ。 起きた時はもう脱水状態に近い有様で (マイハニーに言わせると生まれたてどこじゃなく、グロッキーの子馬。) 出社しただけでバテバテ。 ようやく起動して日記を書いてます。 (まず仕事じゃないのか?) 今日は頭がボーッとして何を書こうとしてたかわからなくなってしまったので ボケついでに、私の親父の天然ボケ新ネタを。 こないだ親父ったら ネコのトイレの紙砂を入れ替えようとして何を思ったのか お米をザーーーーッと入れたそうな (><) 米袋と紙砂袋って似てる? …似てるかなあ…? で、息子としてはそのお米の行く末がどうなったのか気になる。 ... 記憶のトビラ - 2004年07月16日(金) 暑い〜〜。 先日、マイハニーがスイスの写真を アルバムにまとめてくれた♪ 会社でストレスまみれになって 帰宅してそれを見る。 はぁ〜、和み和み。 誰でもそうなのだろうが 写真を見ると、その四角い小さな画像そのものを見てるというよりは その1枚がキッカケとなって記憶の扉が開く。 ああ、あのアルプスの山々を前にした空気、風、気温、 自分のその時の気持ちまでもが甦る。 コルノグラート展望台のカフェで マッターホルンを見ながらコーヒーを飲んでいる写真があるのだが(← 夢のよう〜) それを見てたら そのコーヒーの味だとか その金属のテーブルのガタガタしてひんやりとした手触りまで 鮮明に思い出した … というより完全に追体験をしている状態になる。 私の場合、音楽を聴いていてもそうだ。 もちろん、その時演奏されていた音楽はその場一回限りでしかないのだが その曲をCDやテープで聴くとき、 それを聞いていた時の自分がどこで、どんな気持ちで、どんな行動をしていたか、すべてが自分の中に甦る。 こういう記憶って全部DNAにインプットされるものなのでしょうかね? だとしたら将来生まれてくるだろう(くるのかな?) 自分の子供にもその記憶がうっすらとでも受け継がれたりするのかな? そこまではないのかな? もしそうだったら、このスイスの記憶はぜひ子供にも残してあげたいんだけどな。 ... スイス旅行記 その5 - 2004年07月14日(水) 私が外国旅行をしたのは 実はまだ2回目。 あとの3回はみんな仕事による出張。 (あ、バイロイトにワーグナーの「指環」を聴きにいけた奇跡的な旅があるけど、これはほんとににバイロイトで「指環」だけ(しかも「ジークフリート」と「神々のたそがれ」だけ聴いて5日で帰ってきた。) で、最初の旅が去年日記に書いた一人旅だったから 誰かと、しかもマイハニーと旅行をしたのはこれが初めてだったのです。 感激。。。 そしてさらに、パッケージツアーに参加したのは初めて。 成田空港に集合する、ということで さて自分達と同じような新婚はいるのかな? 女子大生なんかのグループはいないかな?(←不埒) なんてドキドキしていたら 新婚は…いた。 ひと組だけ。 2人とも30歳くらいかな。 であとはみんな60歳以上の熟年夫婦でした〜〜。 見事にね。 スイスは若者なんか行かないらしい… あとで添乗員さんに聞けば、スイスなんてそれはもう圧倒的に熟年ツアーで 他のありとあらゆる外国を廻ってきた方々が 「じゃ、スイスでも」となるらしい。 私たち夫婦の感覚って…(><) しかしこの60代、異様なパワーである。 特に奥様たちのほうがね。 まず空港から特に目立っていたSさん。 ダンナさんも元気で楽しい人だったが、 この奥さんはケタ違い。 白髪チリチリパーマに 前髪だけ赤く染め、 体型は「めぞん一刻」の一ノ瀬さんのおばさん 行動パターンも一ノ瀬さん(笑) だって「氷河特急」乗ってても いつも「わっはっはー!」という吹き出しでもつけたくなるような笑い声が 車両中に響き 彼女が「あ、また絶景ポイントだよー!!」と掛け声をかけるたびに ツアーのみんながカメラをもって窓に殺到、 そんな中でも彼女は動物的嗅覚で 「あ、こっちに滝だよー!」と反対側に行く。 すると他のみんなもバタバタバタと反対側の窓に殺到する。 まさにマンガ。 終始Sさんはツアーの中心にいた。 50回は海外旅行をしているというツワモノだということだった。 またおっとりとしたNちゃんとKちゃんのコンビ。 この人たちは「氷河特急」で前の席(クロスシートなので)に座っていたので 色々話して仲良くなった。 ところで私は自分で言うのもなんだが、昔から、ホント学生の時分からオバサン・キラー(?)で、いっつも50以上の女性からかわいがられる。なんとか同世代からモテないもんかなぁ〜とよく悩んでいたものだ…(苦笑) で、Nちゃん&Kちゃんは話していると 「NHKホールなんかによく行くのよ〜。オペラなんか最高ね。」 などと言う。 ただ趣向はかなりのミーハー。 でもクラシック業界はこういう人たちが楽しんでくれることで 支えられてるんだなー、と実感しつつ あまり色々な使命感を持ってもかえってイカンのかなー と考えたりもする。 で、彼女らはやはりしょっちゅう海外ツアーに2人で行っているそうで、 オペラはいっつも一流どころをS席だそうだし 金持ちー!! 最終日のチューリヒでの買い物タイムも 彼女たちはエルメスのパンパンの袋をかかえていた。 そして私たちはCoopの袋。 この違いは一体… でもイヤミは全然ない、っていうか可愛い性格のコンビで また、マイペースすぎるくらいマイペース。 そして絶対勉強しない。 というのは、お金の換算をちっとも覚えようとせず いつも食事の席で (飲み物だけはその場での個人会計となるのだ。) 全部のコインをジャラジャラ手のひらにだして 「わかんなーい。これからとってって。」という感じでウェイターと接する。 また添乗員さんにはいっつも 「ここに行くのはどうしたらいいの? 連れてってぇ」とせがみ 彼はいつもきちんとそれに従っていたが あきらかに嫌がっていた。。。 (もう初期のころから彼女らをマークしていることが手に取るようにわかった。) そしてルツェルンでは Kちゃんは期せずして迷子になり、 バスの出発が30分近く遅れたのであった。 添乗員さんは「ついにやりやがったか!」という顔をしていた。 オバサンたちは色々やってくれますよ。 そして元気! 海外でもまったく臆せずガンガン行くのは、本当に天晴れ。 日本人は控えめで…なんてのは今や誰も信じないかもね。 しかし偶然であるが、色々な人と話して面白かったのは Sさんの妹さんが、私と同じ音大の声楽科出身だったり 品の良いTさんも音大出だったり。 他にもいたな。 なんだか似たようなルーツを持つ人間が集まったこと。 縁ですねえ。 それにみなさん、見事に生まれが昭和16年、17年に集中していて (Sさんが食事のたびにみんなに聞きまわってリサーチした。) それは丁度私の両親の世代。 てことはみなさん、定年を迎えて羽をのばしてるってことだ。 なんかいいですよね、そういうの。 私たちもあんな風に仲良く年取って、歳とっても海外旅行いけたらいいな。 ね、マイハニー。 …あ、そうそう。 でマイハニーだが スイスでもますますマイペース。 チューリヒのホテルの庭にたわわとなるサクランボを (スイスにあんなサクランボがなる桜があるとは知らなかった。) ひょいぱく、ひょいぱくと食べ、 ちょっと気づくと「あれ、いない。」 珍しい花や、犬やネコをみつけてはとんでいく。 彼女は口数が少ないので 感情の動きが一見わかりにくいのだが 行動を見てると 「あ、テンションあがってきたな。」とすぐわかる。 そしてさっきも書いた、食事の際の飲み物の精算でも 私が大抵の場で「いくらですか?」と聞いてから払っていたのだが、 私が気づかないときは彼女、 飲んだワインのビンやジュースのビンを 黙ってウェイターの前にゆっくり並べ、 ゆっくりうなずく。 するとウェイターもゆったりと笑顔で すべて納得して会計をしてくれるのだが この静かなペースでのやりとりがマイハニーの身上である。 これって人徳ってことなのだろうか…? ... スイス旅行記 その4 - 2004年07月12日(月) 昨日はみなさん、選挙行かれましたか? 私は行きましたよ。 今までも選挙にはちゃんと行ってたけど 正直「国民の義務」だとか、「今の政治に一石を」みたいな 熱い気持ちはなかった。 でも今回は、 私だけではなく、多くの人が 一票を投じる、というせめてものかたちで 政治の行く末に自分の考えを反映させたい、 と思ったのではあるまいか? ま、その話はともかく、 「スイス旅行紀」です。 スイスの自然がいかに素晴らしくて 私たちがそれに感動しながらの毎日だったかは もう既に書きました。 しかし、私たちが旅をしながら それがスイスの国の人々にいかに大切にされているものなのか、 維持していくためのお金と労力、 つまりは愛情をかけているかを気付かされた。 それにまた感動した。 旅行2日め。 サン・モリッツからツェルマットまで 「氷河特急」で7時間半の旅。 7時間半なんて(しかも平均時速50キロ) 乗る前は「退屈するかも…」なんて思っていたが 乗ってみればとんでもない。 飽きるどころか 見る景色、見る景色、どれもが違って どれもが胸いっぱいに、気持ちがどこまでも広がっていくような 緑、緑。 雄大な谷、赤やピンクの花を飾ったかわいい民家、 牛や馬(ブタもいた)がゆったり草を食べている牧草地、 おっそろしく高いところから落ちてくる滝、 澄んだ水の湖、小川… この氷河特急はみな標高2000メートルから3000メートル近くまでの 山々の間を走る。 氷河特急は20世紀初頭からもう敷設が始まり 切り立った渓谷にかかる数々の石造りの陸橋(なんと大きくカーブする橋まである)だってその頃からもう作られていたのだ! 大きな標高差を上ったり降りたりするための 三段ループ、アプト式線路(線路の間にギザギザのもう1本の線路があり、車両の下のギザギザと噛みあわせて坂を上る。昔、軽井沢の手前の碓井峠を思い出す。) スイッチバック。 あらゆる技法を駆使して鉄道がひかれた。 スイスの人が自分たちの財産である、愛する自然の景色を 多くの人に見せたい、という一種の執念だ。 またユングフラウ・ヨッホ。 ここだって私は全然知らなかったのだが、 3500メートルの高さまで登山電車が (あ、そうそう、さっきの氷河特急といい、この登山電車といい、マッターホルンを望む展望台に行く電車といい、すべて「電車」である。ディーゼル車ではない。) 登るのだ。 3500メートルですよ!!? あとちょっとで富士山の高さだ。 そんなところまで電車が登るって!? 途中から山の中にくり抜かれたトンネルに入り、 以降、てっぺんの展望スペースに至るまですべて山の中を改造した要塞、 といった趣だ。 これがまた19世紀末にはもう構想されていたとのこと。 この壮大な山に近づきたい、 多くの人にこの素晴らしさを見てほしい、という気持ちがこういうものを実現させる。 私はひたすら圧倒された。 展望スペースといったって、 スペースなんてもんじゃなく 「駅」を降りて歩くと、周りがガラス張りで周囲の氷河がながめるコーナー お土産屋からレストラン、カフェ。 トイレはもちろん簡単な博物館まである 一大施設である。 ここからちょっと表にでることもできて ただ、天気は良いものの、かなり吹雪いていたので 出たら吹っ飛ばされそうになった。 マイハニーはやはり感動しているのか 心なしかいつもよりステップ軽く、 さっさかさっさか歩いていく。 ところが私はその時高山病でかなりフラフラして動きが鈍くなっていて ちょっと動けば気分が悪くなる。 「まってぇ〜ハニー!!」という感じであった(><) 恥ずかしい話ではあるが、ここは海抜3500メートルの地。 そういう注意もされてたから、ここはお許しくだされ。 それからマッターホルンのふもと、ツェルマットという街。 (繰り返すがホントに日本人が多かった。) ひとつ手前のテーシュというところまでは自動車でいけるが それから先は電車でないとツェルマットには入れない。 ではツェルマットでは自動車はいないのか?といえば 電気自動車のみが動いている。 (あと観光用に馬車が走ってたけど) 徹底してるのだ。 確か日本でも上高地がそんなことをしてるように思ったが、 スイスの人々の自然を大切に、誇りをもっているその有りよう、 私は本当に感銘を受けた。 私たちの旅はその熱意に支えられたものだったのだ。 ... スイス旅行記 その3 - 2004年07月10日(土) 今日はスイスのお国柄、というか そんな話です。 スイスの国土は70%が山だそうで そのへん、日本と似ている。 山々のなだらかなところや緑の濃さなど 日本と似ていない、と書いたし実際そうなのだけど 電車やバスの車窓からの自然の景色など ドイツやフランスなんかに比べれば ずっと日本に近い。 そしてスイス人の言語。 70%がドイツ語圏。 あとは20%がフランス語、10%がイタリア語、 あとの10%がロマンシュ語という昔から原住民語(?)だそうだ。 私たちも旅をしている間、 確かにほとんどがドイツ語、 モントルーやシャモニーでフランス語。 どこかでちらっとイタリア語。 ロマンシュ語というのは聞けなかった。 「ここはフランス語圏の街」 というところにくると 途端に表示が、それまでのドイツ語からフランス語に変わる。 驚きだった。 私はドイツ語が好きで、 というかあの語感が好きで 響きも好きだし、道路の標識だとか駅の案内のドイツ語を見ていて、 すっかり懐かしくなった。 初めてヨーロッパ旅行をした時の気分が甦ってくる。 HauptBarnhof(中央駅) Eingang、Ausgangとか(入り口、出口です) Danke!(ありがとう) Bitte!とか(英語で言うPleaseのようなもの) キップはKarten。 いいねぇ〜♪ なんだか口にひっかるような、ちょっと堅めの感じが大好き。 添乗員Kさんも言ってたが、 割と日本人はイタリア語みたいななめらかなラテン系の言葉の方が好きみたいで (もちろん人による) そういう人が多いようだが、 私はこういう四角い(?)ドイツ語が好き。 今までドイツ圏にいても、あまりドイツ語で話しかけたりはせず 英語ばっかりだったのだが 今回は少しチャレンジしてみた。 とは言っても挨拶やフロントやレストランでの簡単な注文くらいだけどね。 結構通じましたよ。 …だけどなんとスイス人は結構日本語で言葉を返してくるのだ。 もちろん行ったところが、日本人(だけでないが)に人気のある 観光地ばかりのせいだろうけど。 みんな結構勉強している。 (マッターホルンを見るコルノグラート展望台のカフェのおねえちゃんには 頼まれて日本の数字の数え方を教えてあげました。) 特にマッターホルンのふもとの町、ツェルマットなど 「おみやげや」とか「免税店」とかあっちこっち日本語で書いてあるし、 レストランには「日本語メニューあります」と表示されてるし 通りでは子供達が「コンニチワー!」と声をかけてくる。 ちょっと恥ずかしいような状況ではあったのだが 不思議とバカにされているような、イヤミな感覚はなかった。 現地の人も結構たのしんでいるようだ。 こういう話のついでに気がついたことを書くと 今までヨーロッパに行くと(ドイツやチェコなど) 韓国人旅行者が圧倒的に多く、中国人が次ぐ、という感じがしていたのだが こんなに日本人が優遇(?)というか、そういう扱いをされている国は初めてだった。 (ウィーン国立オペラのインフォメーションで日本語で書かれていたのを見たことはあるけど。) ただ不思議なことにルツェルンでは中国人のツアー客が多く、 実際街には中国語の表示が多く、ここでは日本語の案内はあまりなかった。 この場所によっての差異は、私にはとても興味深かった。 で、スイス人(特にドイツ語圏の)は概して親切であった。 とは言ってももちろん観光地を巡ってばかりなのだから お客向け、の顔なのかもしれないが それでも言葉の故か、ドイツ人に近い親切さを感じる。 そしてどこに行っても清潔なのが印象的だった。 レストラン、ホテル、駅、おみやげ屋… スイスにはCoopがあり、(まったく日本と同じの) その陳列の仕方も素晴らしく整頓されていて、 まるで日本の東急あたりのスーパーに入っているのじゃないか、と 錯覚するほど。 しかしこの国の清潔さを象徴するのはやっぱりトイレ。 どこのトイレ、公衆トイレであろうと日本と同じ自動水洗だし、 駅のトイレなど、これは日本よりずっと清潔だと思う。 これはうれしい。 一体にこうした清潔さ、というのはスイスのどこにいても 人の応対をとってみても、強く感じられたことだった。 そしてそうそう、 食べ物のこと。 食べ物にも満足。 ドイツ語圏がほとんど、というからあまり期待していなかったのだが フランス、イタリア圏の混じる国土のせいか パンもドイツのほど固くなく、 有名なチーズが美味しく、 ミートフォンデュなんかもとっても良かった。 私としては果物やスイート系がすんばらしく美味しかったのが 幸福だった♪ これまた有名なチョコレートをはじめ どこのホテル、レストランでもデザートには大満足。 氷河特急の食堂車ででたティラミスの(すごく冷えてた)甘さは 一生忘れません。 これはマイハニーも同じことを何度も言ってたな。 ... スイス旅行記 その2 - 2004年07月08日(木) いや〜暑いっす…しんどい。 爽やかなスイスが懐かしい。。。 さてスイス旅行記、 めぐったところをひとつひとつ書いていこうかと思いましたが やっぱ、やめた。 スイスを旅していて、思うことがたくさんあったのだけど それが時間がたつにつれて、大きないくつかにまとまってきた。 今日は、まずそのひとつ 「音楽馬鹿とスイス」。 前回、ユリア峠の信じられないような自然の姿に感動したことを書いたが マッターホルンでもシャモニーでも、 氷河特急(という山々の中を抜けて標高1000メートルから3000メートルまで走る名物列車がある。)から見る景色でも それぞれ違いはあっても、とにかくみな素晴らしい。 そしてそのどこにいても思ったこと。 「ここでホルンが吹きたい。」 ホント、バカである。 アルプスだからホルン? いや、でもこれはまごうことなき、私の思い。 どこに立ってもホルンが響いていそうな気がするのだ。 アルペンホルンでもフレンチでもナチュラルでも構わない。 とにかくホルン。 かねがね私は感じずにはおれなかったのだが ブラームスの交響曲第1番の第4楽章の、あの有名なホルンが鳴り渡るところ (重々しく苦渋に満ちた序奏が終わり、このホルンの音によってすべてが晴れ渡る!) とか ウェーバーのいくつもの序曲にきまって登場する、あの夢幻的なホルンとか きまって「ああ、これがアルプスなのだな…。」と感じてきた。 どうしてだかはわからない。 ハイジなんかを見てそういうイメージが刷り込まれたのか? 人間のもっと心の深層部分、無意識部分にそういう記憶が普遍的に組み込まれているのか? なににしても ヨーロッパの作曲家が、ホルンを使うイメージがアルプスにある (…ってえらく単純な言い方ですみません) というのを肌で確信した次第。 それから山沿いの草原に放牧されている牛たち。 この牛たちみんなカウベルをつけている。 クヮラン、クヮラン、ガシャガシャ。 日本の牛とはだいぶ違う。 どことなく優雅な感じがする。 で、カウベルといえばかなりの音楽好きなら マーラーの交響曲のことを頭に浮かべると思う。 特に第6、第7交響曲。 これも私、どういうわけか、 マーラーがカウベルを使う箇所を初めて聴いた時から 「この音を使う時、マーラーは青々と緑の広がる、牛のたくさんいる牧場、そういう牧歌的世界を夢見て憧れているのだ。彼の育ったボヘミアの大地を懐古しているのだ。」 という思いを強く感じてきた。 そしてその音楽は私にそうしたイメージを強く喚起させた。 これもまた、こうした情景を目の当たりに見たことで その直感は正しいのではないか、と 確信せざるをえなくなった。 もうひとつはチューリヒにあるチューリヒ・オペラ。 ここには結局行けず、何もみることができなかったのだが 私たちがスイスに滞在している間、ここはチューリヒ・オペラ祭の真っ最中だった。 このオペラ座のことも音楽ファンならよくご存知と思うが、 現在、オーストリアの素晴らしい若手指揮者、フランツ・ウェルザー=メストが音楽監督をし、 かの現代きっての鬼才・巨匠ニコラウス・アーノンクールが常連として出演している ヨーロッパでも今、最高に元気のいいオペラ座だ。 (最近NHKでもここのライヴがよくオンエアされる。この間やっていたベルクの「ルル」など、とても素晴らしかった。) …と音楽ファンの間ではそんな認識のはずだが チューリヒの街を歩いていても、オペラ座の場所がよくわからず 街にも「オペラ祭」を宣伝するようなポスターや旗なども見当たらない。 レストランの入り口でやっとひとつポスターを見つけたが 要するにあまり盛り上がっていないのだ。 こういう扱い、東京の状況とあまり変わらないではないか。 もちろん、これだけの時間歩いただけで何がわかる、と怒られそうだが ちょっとがっかりした。 今やヨーロッパといえどもクラシックは前途多難とみえる。 ... スイス旅行記 その1 - 2004年07月06日(火) 初めて行ったスイス。 ヨーロッパに行ったのは6年ぶりだが 11時間かけて乗り継ぎのフランクフルト・アム・マイン空港に降りた瞬間、 「ああ、これがヨーロッパだったな。」 と実感するものがあった。 これが何かといえば 「光」。 光が日本にいる時と違って、 薄い…?というか柔らかい…?というか 強くないのだ。 これは北海道に降り立つ時も若干感じることだ。 (もっとも北海道出身のマイハニーにはあまりよくわからないらしい) そして今の時期のヨーロッパは何といっても日が長い。 21時を過ぎる頃まではちっとも暗くなってこないので 夕食を食べてからでも、まだまだ散歩でもなんでも 外で遊べて嬉しい。 さて翌日からは快晴! ここから約1週間、私たちはマッターホルンやシャモニー、 ユングフラウ・ヨッホやシャモニー、 レマン湖にルツェルンなどを廻ることになるのだけど 感動の連続だったっす。 まず私が「こ、これは…」と思ったのは マイエンフェルトからサン・モリッツにバスで抜けるルート。 標高がどんどん高くなっていくと 「森林限界」といい樹木が目だって少なくなっていき、 しかしそのかわり高山植物というのか、 キレイな草原、キレイな花々が多くなってくる。 そしてまたこのアルプスはじめ、スイスの山々は日本の山々と違って すごくなだらか。 谷がV字でなくU字型。 まさにハイジの世界。。。 だからとってもゆったり平和な気分になる。 そしてだからこそ電車やバスで山々を走れる。 これはかねがね不思議に思っていたのだが 添乗員のKさんの話を聞いて大いにナットクした。 このへんはかつて氷河に覆われていて その大氷河によってゆっくり地表が削られていったがために こんなにゆるやかな山と谷になったのだ。 それがあの雄大なアルプス。 日本は純粋に川のみに地表が削られていったから 切り立った険しい山・谷となったわけだ。 (それはそれで好きだけど) で、その途中のユリア峠。 Kさんも言っていたが 「ここは本当に地球なのか?」 というほど… …イカンイカン、今度こそホントに言葉にならん。 あの延々とやわらかく広がる山々… しかもここで地元のおじさんたちのヨーデルまで聞けてしまって 感激倍増でした。 ... 旅行から帰って - 2004年07月05日(月) しばらくぶりでした。 実は私、先日まで約10日ほど新婚旅行に行っておりました。 えっへっへ。(← またしてもバカ) 行き先はスイスです。 いやーーー!!! すっかり牧歌的な大自然を満喫しました。 マッターホルンやユングフラウ、 地球に生まれてよかった〜、と何度も思いました。 で、今日はそんな旅行記を書きたかったのですが 帰りの飛行機で久しぶりに見た日本の新聞のあるコーナーに 目が釘付けとなり、 大変ショックを受けており、 どうしてもそのことを書かざるをえません。 それは、脚本家、野沢尚さんの死。 しかも自殺。 本当に目を疑いました。 私はこの日記に何度も書いていますが、 大の野沢さんのファン。 ファンという以上に彼の作るドラマにしろ舞台作品にしろ小説にしろ ほとんど畏敬の念を持っている。 極端なことを言えば、もう私には野沢さんと三谷幸喜さんがいれば ドラマなど見なくてもいい、というくらいだ。 野沢さんの作品には今まで本当に感動してきた。 織田裕二と浅野温子が主演した「親愛なる者へ」 鈴木保奈美、岸谷五郎、佐藤浩一、鈴木京香の「恋人よ」 トヨエツと夏川結衣、鈴木杏の「青い鳥」 そしてキムタク、ミポリン、仲村トオル、ユースケらの「眠れぬ森」 「眠れぬ森」など、放映日の夜は本当に眠れなくなってしまうほどだった。 それから日記にもいつだか書いた舞台、 役所広司、永作博美、國村準の3人芝居、「ふたたびの恋」 また小説「深紅」、「破線のマリス」、 それに何と今まさに読んでいる最中で 旅行にも文庫を持っていってたのだが 「砦なきもの」。 錚々たる作品群だ。 どれも圧倒的感銘を与えられた名作ぞろい。 記事のあちこちにも載っているように (ところで意外に関係記事が少ないのにちょっと驚いている。) 緻密で完璧(もう息詰まるほどの“完璧”だ)な構成、 徹底した取材と、登場人物の話にはでてこないような設定など およそひとつの作品にかける仕事量は想像を絶したものだったらしい。 それは彼の作品を見ていればよくわかる。 そして繊細さ。 数少ない記事の中でも 倉本聡さんや市川森一さん、役所広司などがみな異口同音にそう語っていた。 しかしそういった言葉だけで語れば それがものすごい高い次元なものだったことは確かだとしても もしかすると、他にもそういう作家がいたかもしれない。 でも野沢さんがいつも決定的に、 そして絶対的に私を捉えていたのは (これも前に日記に書いた。) 彼の言うところの 「祈り」 だ。 だいぶ記憶が薄れてしまったが 「ふたたびの恋」の中で役所広司演じる、 かつての売れっ子脚本家が言う言葉。 「やっぱ台本書いててさ、いい台本って以上にさ、 なんか“祈り”っていうのかな、そういうの込めたいじゃない。 そうじゃなきゃ、お客さんに向けてこういう仕事してるのに味気ない、っていうかさ…」 (ちょっと記憶が不確かでスミマセン) 野沢さん、どうして死んでしまったのだろう。 こういう思いがもうムリなことだと思ったのですか? それともみんなが言うようにプレッシャーで息詰まってしまったのですか? 私には想像するしかできないけど。 どうか天国では安らかに。 今までいただいた感動を心から感謝しています。 ...
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