1日雑記

2007年02月11日(日)


引越し準備してたら、頭を打った。
たんこぶが出来てしまった。
開いた本棚の扉に頭直撃。
バカになったらどうしよう……。
ちなみに小学校だか、中学校の頃
叩けば頭が少しは良くなるかと思って
ポコポコ叩いてみた経験があります。

そうか、今頭が悪いのはそのせいか。


最近時々考えるんだけど
未来ってあるでしょ?
あれって先の出来事なのかなぁと。

本当は世界は過去に向かって進んでいるのです!
……とか、大どんでん返しはないものか?
分かっている過去と呼ばれるものに向かって時間が進むの。
本当は未来と呼ばれるものは既に過ぎ去っていて
忘れてるだけだ、とか。
いや、忘れるというのは言葉として適切じゃないか。
消えている、というか。

いかにも経験から言うと、
時間は過去から未来に向かっているみたいだけど
実は未来から過去に流れていて
私達がただ、間違って時間を定義している、とか。

……まぁ、結局これって言葉の定義が代わるだけで
本質的なところは違わないんだけど。

だた、拡散を続ける世界ってなんかなぁ。
収束する方が面白そうじゃない?



2007年02月07日(水)

相変わらず、書きたい事があるのに
日記を開くと何を書きたかったのか忘れる日々。

中学校くらいからかな。
実際の年齢よりも、年取って見られる事が多かった。
外見的なものも合ったとは思うが
性格も年齢以上に落ち着いて見られていたようである。

実際、そう在ろうと思っていたわけではないが
自分はそういうモンなのかなとなんとなく納得していた。

25歳も終わりを向か
来年度になれば26。
そろそろ落ち着き方が年相応になるのかと思ったが
それでも周りに比べると、まだ年とって見られるらしい。
25,6は世間的にはまだやんちゃだったりと。

実際に年を取ったら私は何を考えるようになるのだろうか?
漠然とそんな風に思っていたのだが……。

最近死ぬ事が怖い。
それも突然の死ではなく、寿命が怖い。
突然死だったら、いいかなーと思う。
即死なら。
でも寿命は怖い。
本能的に。
考えるだけで泣きそうになる。
いつか考えてる自分が消える、そのときが必ず
絶対に、間違いなく訪れることを考えると
恐ろしくて仕方がない。
死ぬのが怖くて死にたくなるくらい、
よく分からない怖さがある。

で、別にそういう暗い話をしたいんじゃなくて
問題はまだ人生の半分も生きていないという事。

さしあたって、今現の年齢で
寿命で死ぬ事に恐怖する人がどれくらいいるのか。
もしかして、これも精神的な年齢が
高齢である事の弊害なのだろうか、と。

まぁ、実際には高齢の方みていると
割と死にたいして落ち着いている人がおおいような。
自分もどっかで達観するのかな、と思う。

それにしても何が怖いのか
さっぱり分からない恐怖だよね、寿命とかって。
別段、後悔も特にないし
単純に思考できなくなることが怖いのかもしれない。
まぁいいや、といえるようになるのは何時の日か。



2007年02月06日(火)


なんだったかなぁ、昨日珍しくテレビ見てたら
グーグルの内部の話やっててね。
ホワイトボードに四角かいて
中に(プログラムの)部品の名前書いてあって
それがどこそことつながる、みたいな
アイディアが沢山書かれてる場面があったのさ。

少し前の雑誌の裏表紙見てみると
やっぱりそういう書き方の写真が出てたりするわけ。
マイクロソフトのヴィジュアルスタジオの広告だったけど。

結局プログラムは道具で
使いこなせる事が前提。
その上で、どういう作り方をするかがアイディア。

ところが、私はまだプログラムで躓いている。
焦って先に進むとやっぱり失敗するだろうけど
なんとなく、寂しく、情けなく思う今日。



2007年02月05日(月)


今日という日を12時間しか生きない男。
それが私。

昼に起きて、0時に寝る。

ところが12時間寝たわけではない。
さぁ、残りの時間はどこにいったでしょうか?



2007年02月04日(日)

仲介業者と予約していたので、
引越し先の家を見に行くことに。

あわただしく、電車に乗り込み
乗り換えの駅へ。
ふと、携帯が鳴っていることに気付く。

仲介業者からの電話。
「すいません、まだ前の人が退去していなくて
 鍵がないんです」
なんだそりゃ。
予約の45分前に鍵ありませんって
ギャグかと思いましたが。

しかしまぁ、ないものは仕方がないので帰宅。
憤りながら、家で1時間ほど過ごしていると
また仲介業者からの電話。
「先ほど退去したらしく、
 鍵が届いたんですけど……」

……結果としては、今日見にいったんだけどね。
あっさり終わったが。

ちなみに駐車場も一緒に借りることになっていたので
場所を聞いてみる。
「わかりません」
というか、駐車場借りる事すら忘れられていた感じだ。

仲介業者って何やるところなんだろう。
家賃の0.5ヵ月分。



2007年02月02日(金)

柳沢伯夫厚生労働相の
女性は産む機械発言。

なんだか色々なところで騒がれているけれど。

その内容の殆どが
失言、あるいは女性人権を無視した内容を突くものであって
その意味について考えている人ってどれくらい居るのだろう?

生む機械。
例えば、人工授精なんて、いくらでも聞く話。
倫理だ人権だと、色々問題があって
試験管で生まれて育つという子はなかなか居ない。

ただ、逆に言えば倫理的な問題だけであって
生ませるという技術については
幾らかの問題はあっても、確立されたものだろう。

つまり、機械なら作れるわけだ。

人口増加のためとはいえ、なんでそれをやらないかといえば
倫理的な問題のほかに養育の問題があるから。
親が親として、存在する必要がある。

もっと言ってしまえば、養育しなくていい、
無責任に子供を作ってもいいと国が言い
それが成立したのなら、
無責任に子供を作る人は沢山いるだろう。
産んでさえくれればいい、
出産費用も、それにかかる負担なども
産後の子供の養育も、全部引き受けるから。
それなら中絶の数だって減るだろう。

が、実際にはそれは成立しない。

結局、子供が少なくなっている減少は
妊娠出産という行為そのものが問題なのではなく
出産後、養育と言う部分の問題が大きいわけだ。

だから、あの発言は
女性人権問題もさることながら、
非常に的の外れた言葉なんじゃなかろうか。

と、ここまで書いて
殆ど前後関係がつかめてない事に気付く。
一度問題の場面は聞いたけど。

しかし実際問題、子供育てるって大変だろうねぇ。
今の給料で家族養うとか、考えられん。
……養ってる人はいるけどさ。



2007年02月01日(木)

以前の私の考えとしては。

絵って写実主義でいいんじゃないの?
つまり、伝えたい事があるとする。
それを伝えるための手段として絵という媒体を選んだ。
その事を正確に伝えるなら、
抽象的なものより写実的なものの方が良いのではないか。

抽象的というのは、悪い事ばかりではない。
それが標準化されれば、抽象的であるがゆえに具体的になる。
例えば数学を考える。
算式だけ見ても何がなんだか分からない人も多い。
例えば、これが何に役立つのかと聞かれ、
小学校(は、算数だけど)の例題を見れば
店でりんごとみかんを買う例題が出てたり
高校になっても池の面積を求めるようなものであったり。

だが、これが数学に慣れてきた人だと
現実問題を数式に当てはめて考えるようになる。

余計な事がない分、抽象的な式はより具体的なものとなる。

だが、これは数式や記号の考え方が
皆共通しているからという前提があってのことで
個人の持つ漠然とした抽象感を
普遍的なものとして考える事はできないだろう。

絵画における抽象とは、むしろ個人の感性によるところが大きく
描くほう、見る方によってもその意識は違う。
つまり、伝えたい事があるとするならば
抽象的な形で物を伝えるのはあまりよろしくない。

ならば、写実的にいくべきではないのか。
あるいは、基本は写実的に、
伝えたいところは強調して。
こういうことができるのが写真とは少し違うところであろう。

漫画の話になってしまうが、
例えば、困った顔を表現するのに
大きな汗をたらす事がある。
現実的にはありえないが、強調されたことで
多少絵が下手でも、伝えたい事が分かる。

例えばくしゃみをする。
風邪だと判断する人が非常に多い。
たとえ、現実的にはくしゃみよりも咳が多いとしてもである。

このように、一部を脚色する事で
より読み手に伝えやすくする方法はあるのだろうが
それはあくまで写実的(漫画はそうともいえないだろうが)
な側面を持たせた上での話となる。


……というのが以前の感想。

本題。

先日、歩いていて自転車に乗る女子高生を見た。
坂道だったので、立ちながらこいでいた。

彼女を見て、絵、あるいは文章に
その場面を書いてみたい衝動にかられる。

何か思うところがあったのだが
それが何かは分からない。
だが、ぜひそれを伝えたくなった。
ならば、その場面をより忠実に書けばよい。

……そこまで考えて、ふと気付く。
それをやったからといって、伝わるのだろうか?

例えば、その風景はなんとなく良いと思ったわけだが
いきなりそれを見せられて、どう思いますか?
といわれても、なんと言うか困る。
感想を求められなくたっていい。
普段見慣れている光景の中で、
ある事に私が気付いたとしよう。
衝撃を受けるほどの発見だったとして
その風景を忠実に書いても、
ほとんどの人は私と同様、気付かないだろう。
気付いたのは例えば人生の経験によるところがあるかもしれないし
それから思うところがあっての事かもしれない。

だから、いくら忠実にその場面を再現したとしても
結局正確に伝わるかどうかは分からないのだ。

創作物の中に、自分の気持ちや主張をつめるのは
よく使われるものではある。
が、確かに創作物を間に介すよりは
直接の言葉で伝えた方が理解はしやすい。

もちろん利点がないわけではない。
逆に、言葉というのは意味は分かるが理解はできないことが多い。
もしくは、理解はできるが体得できないというか。

重い言葉というのは、基本的に経験と結びついてこそ意味がある。
自分のこととして受け入れられない言葉は
あまり意味がない……というか、軽い。
それがある人にはどれほど重要であっても
他方では非常に軽くすらなりえる。

こういう状況に対し、創作という舞台を設定する事で
一時的に経験を共有化させることができるのだ。
本を読めば主人公に感情移入するし
演劇を見れば共感するかもしれない。
その上で、伝えたい事を場面として伝えれば
それまでの経験も手伝って、相手に理解しやすいものになるだろう。

しかし、いずれにせよ
伝えた事が万人にとっての共通でない以上
正反対に受け取られる可能性すらあるわけだ。

つまり、意思の伝達として、あまり良くない。
ただ、言葉を並べた方が(あるいはジェスチャーを交えて)
より理解しやすいだろう。

これはこれで、いくらでも否定できるだろうが
少し視点を変えてみる。

本来、創作物は作ったものを客が見る。
つまり、客が見る側というのは当たり前の事だ。

だが、先ほどから言っているように、
見ている客は創作物を通して作者の気持ちを
共有できるかといえば必ずしもそうではない。

多くの有名なものに対し、
さまざまな解釈による議論が巻き起こるのは
共通化が図られていないためである。

ということは、逆なのではないか。
創作物とは、作り手が客を見るということではないのか。
そう考えた方が、創作物の意味としてしっくり来るのだ。

伝達方法として、必要十分でない
創作というものを介した伝達。
それがここまで昇華したのは
作り手が読み手を見るためのツールとして利用したからではないのか。

……まぁ、とりとめもなくなったけど
ふとそんな事を考えた。


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