1日雑記

2006年11月29日(水)


音楽聴いてると、脳ミソ喰われない?

と、書くと穏やかじゃないけれど
何のことは無い、思考することが出来なくなるという話。

結構、何もすることの無い時間というのは
何かしているものである。
目に入る光景から、何かを連想したり空想したり妄想したり。
少なくとも、それは私に少なからず影響を与えているわけだ。

しかし、音楽を聴いていると
(特に密閉型のイヤホンだと)
そっちに集中できてしまう。
すると、あまり発見が出来ない。

聞きながら歩いていると、子供が居た。
何かしている。
泣いていたんだか、笑っていたんだか。
聞こえない。
子供を見て、何も感じない。
そこから派生する何かが、何も無い。
なんか、すごいもったいないことした気分。

音楽は、好きなんですよ。
実際なんだかんだと今も継続して聞いているし。

……でも、脳が喰われてる。
怖いなぁ、と感じるわけだ。



2006年11月28日(火)

漫画とか読んでいると、作者の人が時々書いている。
「キャラクターが勝手に動く」

それ自体は、なんとなく、分かる。
しかし、いつの時点で動くのだろう?
なんていうか、前に漫画描こうとしたときの経験だと
一コマ決めるのにやたら時間がかかって
勢いがそがれるんですよ。

まぁ、慣れた人だと時間かからんかもしれないし
違った時間の流れ方があったり
次のコマの形が必然的に定まったりするのかもしれないけど。

少なくとも、私は無理です。
自然な流れができない。
途切れ途切れになるから
勝手に動く前に私にがんじがらめにされてしまう。

あとあれだ、動きたくても動けない。
私が漫画を描こうとすると
その人の動ける範囲は非常に狭い。
腕が曲がらない、足が進まない。
……まぁ、技量不足なんですが。

そういうわけで、漫画で勝手に動くっていうのが
分かる気がするんですけど良く分からない。
いつか見てみたいですね。
自然と動くその瞬間。



2006年11月27日(月)

たまには、前後不覚になるくらいまで飲んでみたい。
でも、頭が痛いのはイヤだ。

なんていうのか、お酒を飲むと肩がこる。
そういうイメージで頭が痛くなる。

日本酒なんて好きなんですけどね。
まぁ焼酎と日本酒同時に出されて
恐らくどっちがどっちか分からないレベルの好き、ですけど。

ワンカップでも買ってみようかな?


そーいえば先日2万5千円下ろしてみた。
昨日確認したら財布の中には1万円ちょっとしかない。
何に使ったのか、さっぱり分からず
かれこれ20分くらい悩んで
総計で1万5千円ほど使っていたことを確認。
お金って意外とすぐなくなりますねぇ。
不思議不思議。



2006年11月23日(木)

私はソニーが嫌いだ。

ソニー製品にはいい思い出が無い。
というわけで、なるべくソニー製品は買わない。
それが私の信念だ。

ところで、ポータブルオーディオプレイヤー買ってきた。
ソニー製。

……だって、値段が違うんだもん。
安いんだもん!

6GBで1万5千だよ?
メモリーフラッシュにもつかえるじゃん。
HDDだけど。

どうせすぐ壊れるだろうけど
それ前提でかったからいいんだ。

……と、思ってた。
あくまでハードの話だった。
ソフトがダメだとは思わなかった。
……勘弁してください。



2006年11月22日(水)

少しやり方を変えると
今まで問題でなかったことが問題になる。
必要でなかったことが必要になる。

次のステップは、
これらを解決して次のステップに進むことだ。

少しずつだけど、成長したいものである。
あまり時間は無いけれど。
まぁ、気の済むようにやってみます。



2006年11月21日(火)


今やってるバレーボールは
ありゃ、スポーツじゃないな。

改めて見ると、会場の放送で
どちらか一方を応援するってどういうスポーツよ?
テレビのアナウンサーが言うならともかく。

MVPが6位の国から選ばれたり。

あまりに酷くて、呆れてしまった。



2006年11月20日(月)

コーティングしすぎている。

言いたいことは沢山ある。
言いたい内容は、結構ちゃんとしたものだと
書く時は思う。
これは入れておくべきだろう、と。

そして、後で見返したときに
余計なものがゴテゴテついていて
結局何が言いたいのか分からない。

肉付け、という言葉がある。
骨だけでは仕方が無い。
脂身がついていないと、美味しくない。
しかし、脂がつきすぎると
それはもうダメである。

私の書くものは相変わらず脂肪が多い。



2006年11月18日(土)


私は堕落する。

何はともあれ、堕落していると感じるとき。
それは、環境に慣れてしまったとき。

最初はいいんですよ、いつも。
対外的にも、最初の頃はきちっとしている。

ところが、一年、あるいは数年経ったとき、
その環境がある程度続くと
とたんにだらしがなくなる。
言い訳を考えて、納得しては妥協してしまう。
例えば今日は疲れているとか
頭が痛いとか、眠いとか。
で、本来やるべき事をおろそかにしてしまう。

例えば
研修中に使っていた部屋は非常にきれいだった。
だが、自分の部屋は非常に汚い。
会社の机、学校の机はきれいだった。
自分の机は物置だ。
水泳も最初は皆勤賞。
数年後には遅刻常習。
CGの描き方に夢中になる。
いつの間にかまったくペイントソフトを起動しない。

ダメだと思ってもそれが続いてしまう。
これを変えることは容易で無い。
……と思うのだが実はそういうわけでも無さそうだ。

環境を変えれば良いだけだったりする。
環境を変えるといっても、仕事をやめるとか
1人暮らしを始めるとかそういう大きなことじゃなくて良いらしい。
要は、刺激だ。
なんかルールを決める。
そして、それは人に見られるものの方がいい。
自分だけだとくじける。すぐやめる。

そーすると、なんとなく、続く。
少なくとも一時的には。
これを頻繁にやっていけば良いのかもしれない。

忙しくても人って結構時間捻出できるんだよね。
妹が23時に帰ってきて、それから菓子作り初めて
明日朝からバイトとか言われると
自分がいかにだらけているのかがわかる。



2006年11月14日(火)

この日記、アクセス解析なるものがついています。
で、時々見るとヤフーとか、検索エンジンから来る人が。

それ自体はまぁ、いいんですが。
問題は検索ワードによっては数万件ヒットしているにも関わらず
上位の方に日記が位置しており
アクセスしてしまう人が結構いると言う事実。
長く続けていると、何故か上位の方にくるみたいです。

日記で、知識がないのを気にせず書いてますから
ここから情報を引っ張ろうとしても有益な情報は1つもない。
にもかからず、幾度となく来られる人がいるというのは
正直申し訳がない気持ちで一杯です。

得意な分野や専攻分野の話なら
多少詳しくかけないこともないんですが……
日記にそんなモン書いてもあまり意味はないので。

情報の取捨って、やっぱり重要ですね。



2006年11月12日(日)


友人宅に行く。

かれこれと、片道で1時間ちょっとかかる。
結構遠いな、と思いながら電車で揺られ、ふと考える。
私の通勤時間はおよそ1時間半(片道)
なんだ、毎日会社に行くよりも近いじゃないか。

こういう通勤時間のかけ方はいやだなぁと思うわけだ。
それなら家を会社の近くに借りたらどうだろう?
と、そういうことを考える。

そして、いつもお金がないと言うことになるのだ。


現在が実家である事から、お金を貯めてから……と
至極当然の話の流れがよくでてくる。
さて、問題は実家であるにもかかわらず
まったくお金がたまらないことにある。

なんでだろー?
毎月、赤っぽい言葉が見えてくる。
へんだなぁ?



2006年11月10日(金)


夢の中で私は
天井に張り付く特技
を習得していた。



2006年11月08日(水)


例えば、今の北朝鮮を巡る情勢というのはイジメであるか。

一国を多数で叩くという状況はイジメにも似ている。
が、理由があるし、イジメだという人は少ないだろう。
少なくとも私はそう思わない。

理由があるなら集団で叩いて良い。

これを正しいとすれば、一部のイジメは正当化される。
国家と個人は違うだろうか?
違うとしよう。
目の前に残忍な犯罪者や、卑劣な犯罪者がいたらどうだろう。
結局のところ、扱いは余り変わらないだろう。
例え法で人権が保障されていたとしても。

責任をとらせるという考えも
言い方は違うものの、本質的なところでは変わらない。
マスコミなどで報道されたならなおさら。
その証拠にコメンテーターが
現場を責めているじゃないですか。

結局のところ、イジメという舞台を
子供から大人に移しただけである。

社会的な責任能力などからも
大人と子供を同一視すべきで無いだろうか?
しかし、大人の中でもイジメという言葉は存在するし
言葉だけではなく、実態としても存在する。

そもそも大人と子供の境界はどこなのか?
イジメの明確な定義はどこにある?
責任追及とイジメの違いは?

これらの境界は曖昧であり
曖昧であるが故になくす事が出来ない。
良く聞く言葉で考えるなら村八分という言葉が出来るくらい
昔からそういう考え方はあったのだ。
そして、一向になくなることが無い。

という事で、前提。
イジメというのは減らす事は出来ても、なくす事は出来ない。

責任追及に意味が無いわけではないが
現在の報道の多くや日常での会話で出てくる
イジメ問題とその責任は結局のところ対象を変えたイジメである。

という事で、この件に関しては、テレビ報道などを聞いていると
イライラしてしまって仕方が無い。
必要となるのは、いじめられた人間に対するフォローである。

……と、言ってもこれも単純じゃない。
正直なところ、私自身もいじめられた経験……というか、記憶がある。
(天然パーマが原因だったり、人に怪我させた事が原因だったり)
一方でいじめていた記憶もあるのだ。
そして、奇妙な事にこの記憶の時期というのは一致する。

一面ではいじめられており、一面ではいじめていたのではないか。
時期が微妙にずれていた気もするのだが
整合性が取れない箇所もあるので、恐らく同時期だろう。

私という人間を基準に考えるのは良くないが
人間である以上、被害者も加害者になりえる可能性は常にある。
グループを形成するという点においては
何か弱いものを叩いて絆を強くするというのは、多々あることだ。

当人が悪い場合はどうなるのか。
セクハラ問題でも
『被害者にも悪いところがあったんじゃないか?』
という事が出てきて、その言葉は否定される。
だが、境界が曖昧である以上、どうにもならない部分は確かにある。


さて、物事について言うだけ言っても改善というのはされない。
私も然り。
という事で、余り現実味の無いものではあるが、改善提案を、ば。

1.クラスという単位の廃止。
 あるいはクラスという単位の人数を莫大にする。
 大学の講義のような、変則的なクラス分け。

結局のところ、個人の情報があり、
そしてつながりというものがあるからイジメは発生する。
クラスという限られた空間では、
その枠の中でつながりは強くなっていく。
繋がりの中から弾かれた人間は、クラスという枠の中で
逃げる事が出来ずに、包囲されていく。
しかし、クラスという枠がなく
しかも多人数がいた場合、全体のつながりは弱くなり
ほころびが生じる。
ほころびはいくつかのグループを産み
個人を責めるケースは少なくなるだろう。
責められても逃げる事が出来るし。
一方、孤立してしまう人は出てくる。
何処にも属す事の出来ない子だが。
だが、イジメは減るだろう。
他にもいくつかメリットはあるが。

2.クラスの構成人数を極端に少なくする。
 加えて、クラス編成(担任を含む)を頻繁に変更する。

上とは逆の発想だが、こちらも効果はあるだろう。
まぁ、上よりも効果は薄いと思うが。

両者で重要になるのは学習指導要領である。
学習指導要領に従った時間割の編成がしっかりと行われれば
変則的な編成をしたとしても、授業に支障をきたさないはずである。
問題は、学習指導要領の内容や変更頻度などが、
ちょっと信用できないものであるということや
学校という空間が勉強の場という方以外はし辛くなるということ。


……と、考えてみたけれど。
結局、お偉いさんや、当事者達が出す結論が結論。
何にも変わらないと思うけどね、私は。
また数年後、同じ内容で同じように騒がれるのだろう。



2006年11月07日(火)

……恐らく目の疲れからくる肩こりが原因だと思うんだけど。
頭に漬物石が入っているように痛くて重い。
というより、目が飛び出るくらいリバースしそうで気持ち悪い。

日々、何かを続けようと思うと
体調がイヤってくらい反映されそうで面白そうだよね。
あぁ、畜生、寝てやる。



2006年11月06日(月)


ところで。
イジメ問題の責任が何処にあるかを探そうとする
その行為自体がイジメ問題の根源であるという気がするのは
私だけなのだろうか?


そーいえば
先日、ちょっとゲームを買ってきた。
昔はまった作品のリメイク品。
初回特典がつくとかで、2600円くらい。
目に付いたので、とりあえず購入してみる。

ちょっと、買い物に行ったついでに
ゲームショップを見てみる。
以前から気になっていたゲームがあったので探す。
まだ、3,4千円するので高いなぁと思いつつ、隣に目を移す。

先日買ったゲームが600円で置いてある。
……なに、この値段設定。
ちなみに初回特典がつくと2000円だった。
正直、特典なんていらんかったので
差額にして2000円。

なんだか空回りの多い最近である。



2006年11月05日(日)

スーツとコートを買ってきた。
スーツ2着とコート1着で6万くらい。
比較的安い……らしいが、私にとっては結構な痛手。
他に欲しいもの、沢山あるんだけどなぁ。

すそ上げを待っている時、暇だったので図書館に向かう。
そこで少し調べ物。

さて。
ゲームや小説の中でよく出てくる「剣と魔法の世界」。
舞台とされるのは中世ヨーロッパをモチーフにしたものが多い。
例えば、お城であったり、騎士であったり。
そういう話を自分で考えるなら、どういう内容にするか。
そんなことを考えて書いてみようと思ったのだが
あまりいい加減なことは書きたくない。
趣味のようなものであっても、人に見せる可能性がある以上
ある程度時代考証をきちんとしたいというか
中世ヨーロッパであるならその生活様式などの背景を
しっかりと知った上で話を作ってみたい。
そう考えて、ちょっと図書館で調べたわけです。

その結果、少し気になった事も出てきた。
例えば奴隷という考え方。
有史以来、近年まで……というか、あるいは今現在も
これに類する考え方は存在し続けている。
ゲームのファンタジーの中じゃ、奴隷は殆ど出てこない。
製作側が対象としている少年達の求めるものに
奴隷という考え方は不要だからだろう。
格好よくて強い、勇者あるいは英雄が居て
その仲間となるグループもいい人たちばかり。
当然、授業の中で否定されている奴隷の売買はしない。
同様の考え方で『モンスター』が存在する。
人を殺して祭り上げられる英雄は望まれていないので
人間でなく、かつ完全な悪というものを設定する。

実際の問題で考えてみれば
城を持つような封建社会であるならば、
それに対して身分の低い人は当然出てくるし、
現実的な英雄というのは
沢山人を殺した後に付けられる称号であるはずだ。

リアリティのある世界観は、
同時に望まれていない世界観でもある。

もしも奴隷が居て当たり前という世界で生きていれば
彼らに同情することすら滑稽に映るだろう。
例えば、犬猫あらゆる動物が人間と
対等であるという世界に生きている人ならば
現在の日本のペット事情は非常に問題があるととらえるだろうが
一方で、現在の日本で犬猫を人間とまったく同等に扱おうとすると
奇妙な目で見られることは避けられない。
ペットを家族といっている人はいるし、
相応に大事にしている人も沢山いるが
ペットという言葉が定義されているという事実、
そして売買されているという事実は動かしようが無い。

現在、奴隷は当然であるという考え方は
世界的に認められていないし、忌み嫌われている。
その世界に生きる読み手、そして書き手は
奴隷について否定的でなければならない。
必然的に主人公も否定的にならなければならず
扱いが非常に厄介になる。
それらの事を考えると、そういう制度そのものが存在しない世界を
定義づけるほうが手っ取り早くなるわけだ。

……と、色々考えた結果
むやみなリアリティを多くの人は望んで居ないと理解し
次へつなげたいと思う。



2006年11月04日(土)


さて、気持ちがようやく落ち着いてきたので
仕事について少し。

今までどおりの場所に勤務になったとはいえ
その仕事内容というと、実はやりたい事ではありませんでした。
というよりも、やりたくない仕事の配属先でした。

やりたくない理由は2つ。
1つ目は大学でまったく勉強してこなかった分野が
この配属先では深く関わってくるという事。
2つ目は私が就職活動中から希望していた配属先とは
違うところに配属されてしまったという事。

最近気づいたのですが、私の場合自身の持てることと
そうでない事で、精神的なところでえらい違いが生じてしまいます。
基本的に知らないことは知らないと言ってしまいますし
器用に質問をはぐらかしたり
積極的な発言をすることも少ない。

一方、専門的な分野の場合、その態度は180度ひっくり返ります。
まぁ、これらの事は私に限らずなのかもしれませんが。

もう1つ、好きなことはかなりの集中力を発揮できますが
興味がなければ基本的なことであっても覚えようとしません。

ちなみについ先日まで、日本地図がまったく描けませんでした。
福島県が広島、岡山辺りにあると思っていましたし
佐賀県が九州にあることも知りませんでした。
四国の4県も全然分かりませんでしたし
岩手、山形については名前すら出てきませんでした。

まったく興味がなかったので覚えませんでした。
覚える必要もなければ、覚えなくても困らなかったのですが。

と、まぁそういうわけで、
大学でまったくやってこないで自信がもてない上に
希望先出なかったのでモチベーションも保てない。
そんな状態の配属先だったのでしばらく悩んでいたわけですが……
実はやっぱり今も悩んでいます。

理屈では色々と理由をつけて納得しているのですが
気持ちの方でモヤモヤが消えないのは事実です。
希望した配属先になれるなんて殆ど無いのは知っていますし、
私の場合、ひとつの方向ばかりに目を向けていたので
少し冷静になるためにも
一度ブレーキがかかったのは良かったのではないか、と。
それに、実は配属先の仕事内容は、
やりたかった配属先とも関係が深く
まったく無関係というわけではありません。
おまけに、当時はやりたいという気持ちのあった仕事も
そこで扱っているので、あるいは希望通りだったのかもしれません。

要するに、感じているモヤモヤは
希望通りの配属先でなかった、という事実だけなのです。

更に言ってしまえば、希望通りの配属先になったとしても
そこでの仕事が本当にやりたいものであったのか、と聞かれると
良く分からなくなってしまっているということもあります。
やりたいことには変わりないですが
そこまで熱望しているかといえば、多分答えはNOです。

大学にしたって、希望とはまったく違うところに入ったのに
結果として得られたものには満足しています。

結局のところ
あらゆる体験から今の配属先について
理屈的には満足しているはずなのに
何故か頭のモヤモヤが晴れない。
これだけのためにダラダラ日記を書いているのですが……
さて、どうすれば解消されるのでしょうか。



2006年11月03日(金)

元々いい加減だったタイピング能力。
確認の意味で耳に入った歌詞を
全部テキストにしてみると言う作業を
2,3曲試してみたが、やたらむずかしい。
歌のスピード次第ではどうにでもなるんだけど
早かったりすると誤字脱字、脱タイプが一気に増えて
とてもじゃないけど読めたものじゃない。

昔から、集中力に欠けるというか
タイプミスをすることが多いことが気になっていたのだが
それがこういうあせりの状況では顕著に現れることが分かった。

曲を聴いてテキストにおこすって
練習になるのかなぁ?


……それにしても寝すぎで頭がいたい。



2006年11月02日(木)


取りとめもなく、書き
ついでに言うと少し思考がずれている。
この日記はフィクションであり――以下略。

境界線が見えた。
気がしただけだろうけど。

多分、空想と現実の境界。

道を歩いていた。
人が沢山いた。
それらの人を人として認識していない事に気づいた。
概念的にも、定義的にも、気分的にも
道行くのは人だという事が分かっているのに
ふと、すれ違った時に彼らが人である事に改めて気づく。
気づいたのだから、その前は気づいていなかったのだろう。

正直なところ、それが物であっても人であっても
その時それははたいした違いではなかった。
どちらもただの障害物である。

その後、駅のホームを歩いていると、線が見えた気がした。
なんとなく、それが空想(妄想でもいいけど)と現実との
境界なんだなぁ、と理解する。


本を読んでいた。
本の中の登場人物は私の頭の中で実在(?)している。
あるいは生きている。
道ですれ違う人は、それが人と呼ばれるものと
定義されていようがいまいが、私にとっては関係なかった。

思考という限られた空間の中で、
どちらが真実であるのか。

すれ違う人は確かに現実。
本の人物は架空の人間である。(少なくとも今日の本は)

伝記などの人物は実在した。
その人物と創作小説の主人公。
どれほどの差があるのか。

実在したか、否か。
明確な差である一方、それが人一人の脳ミソの中の処理として
どれほど重要であるかと考えた時
あまり重要で無い気がするのだ。

実在していようが居まいが、
情報として記憶している事には変わりない。
違う見方をするなら本という扱いでもいい。

記録媒体として、どちらも紙にインクを用いて書かれている。
書かれている内容は違えど、『紙とインク』という視点から言えば
どちらも『紙とインク』でしかない。
インクの量や紙質は違うかもしれないが、
相違点はそれであって、どちらも紙とインクである。
するとこの2つは等価になる。

それが現実だからこそ価値があるというのは
人の判断である。
故にそれは視点、価値観の違いである。

現実という時間も、一秒後には情報として脳に蓄積される。
仮想という環境も、脳に蓄積される情報でしかない。
価値を決めるのは当人であり、
どちらが重要であるのかは他人が決めるものではない。

と、線が見えた気がしたらそんなことを考えるに至った。
当の私はまだ現実を重視している。
が、街を歩いていて、道行く人を人として
あるいは現実としてしっかり認識していなかった事に気づいた時
もしかしてマズイところに居るんじゃないかと考えた。

多分あの線越えたら、壊れちゃうんだろうなぁ。
私自身は変わらなくても、
世間的に私は壊れたと認識されるんだろうなぁ。

さて、最後にもう一度。
フィクションです。


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